東京地方裁判所 昭和42年(ワ)14233号 判決 1971年5月19日
原告 長塚紀子
被告 全国土木建築国民健康保険組合 外二名
主文
一 被告らは原告に対し各自金一、五〇〇、〇〇〇円およびこれに対する昭和四三年一月一三日から支払済まで年五分の割合による金員を支払え。
二 原告のその余の請求を棄却する。
三 訴訟費用はこれを三分し、その二を原告の負担とし、その余を被告らの負担とする。
四 本判決第一項は仮に執行することができる。
事実
第一申立
一 原告
被告らは原告に対し各自金一〇、一三四、六四〇円およびこれに対する昭和四三年一月一三日から支払済まで年五分の割合による金員を支払え。
訴訟費用は被告らの連帯負担とする。
との判決および仮執行の宣言を求める。
二 被告ら
原告の請求を棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
との判決を求める。
第二当事者間に争いのない事実
原告は、昭和四二年五月一〇日に左右乳房内部の腫瘍(シコリ)について被告組合の経営する厚生中央病院外科において被告佐多の診察を受けた。被告佐多は被告組合に雇傭され右病院外科に勤務する医師で、以後主治医として原告の治療を担当することとなつた。また被告佐野は医師で当時右病院の外科部長であつた。被告佐多は右診察の結果右乳房内部の腫瘍の病理検査をする旨決定し、翌一一日腫瘍の一部を剔出し、右病院の病理検査係大滝医師に検査を依頼したところ、右乳房内の腫瘍は乳腺癌と判明した。
同月二二日に被告佐多は被告佐野とともに、原告に対し検査の結果右乳房全部を早急に切り取る必要がある旨述べ、また原告の父に対しては右乳房の腫瘍は乳癌であり、乳房全部および淋巴腺を切り取る必要がある旨述べたところ、原告はこれに同意し直ちに右病院に入院した。
同月二四日被告佐多が執刀して手術が行われ、右乳房につき、その皮膚および乳首を残して乳腺全部が剔出され、また腋下および鎖骨下の淋巴腺の廓清がなされた。その際左乳房についても皮膚乳首を残して乳腺全部の剔出手術がなされた。結局右各手術により原告の乳房は左右とも皮膚乳首を残すのみで内部組織の全くない状態になつたものである。
第三原告の主張
一 被告佐多の左乳房に対する手術はその必要もなく、かつ原告の承諾のない違法な手術である。即ち、乳房の内部組織の全部剔出のような肉体への侵害である医療行為については、事前に慎重な検査を行いその必要性を確認したうえで、患者の承諾を得てなすべきものである。しかるに被告佐多は左乳房の腫瘍については右乳房についてしたような病理検査をすることなしに慢然右乳房と同様の手術が必要であると判断した上、全く原告の承諾を得ることなく左乳房について前記の手術を行なつたものである。
二 原告は昭和一五年一二月一二日生の未婚の女性であり、また手術当時東京映画株式会社に所属する女優であつたところ、前記手術により右乳房のほかに左乳房をも失い多大の精神的苦痛を受けたから、これを慰藉するために必要な金員は金一〇、一三四、六四〇円を下らない。
三 従つて被告佐多は不法行為者として原告に生じた右損害を賠償すべきであり、また被告佐野は被告佐多を指揮監督する地位にある者として被告組合は被告佐多の使用者として被告組合の事業の執行につき原告に加えられた前記損害を連帯して賠償する義務がある。よつて原告は被告らに対し各自金一〇、一三四、六四〇円およびこれに対する被告らが遅滞となつた日以後である昭和四三年一月一三日から支払済まで民法所定の年五分の割合による損害金の支払いを求める。
第四被告らの主張
一 被告佐多および被告佐野は、昭和四二年五月二二日に右乳房の手術につき原告の承諾を得た際、原告及びその両親に対し左乳房の腫瘍も将来癌になるおそれがあるかもしれないから右乳房の手術の際左乳房の腫瘍についても検査をし、その結果によつては左乳房についても右乳房と同様の手術が必要となるかもしれない旨説明したうえ、原告およびその両親から左乳房の手術について同意を得た。
二 そして同月二四日の右乳房手術の後に、被告佐多は左乳房の外側縁に小切開をしたところ、その腫瘍は肉眼で見ても癌になるおそれが濃厚であつたので、腫瘍の一部を切り取り、直ちにその病理検査を当日の検査担当医であつた内田博士に依頼した。右検査は迅速を要するため迅速法(凍結切片による検査)により行われたが、その結果左乳房の腫瘍は将来癌になるおそれのある乳腺症と判断されたので被告佐多は左乳房の乳腺全部の剔出を行なつたのである。
更に手術後左乳房剔出組織の多数部位の病理検査を行つたところ、癌ではないが腺増生症を伴う乳腺症性腫瘍であつた。従つて、左乳房の手術は患者の近い将来における生命の危険を避けるため医学上必要かつ適切な処置なのであり、その着手を遅らせることはそれだけ患者の生命の危険を増大させることになるのである。のみならず、被告佐多は原告が若い女性であることを考慮して、通常の手術においては乳房全部を切除すべきところなのに前記手術においては皮膚および乳首を残すように配慮したのである。
三 以上のとおり被告佐多のなした手術は適法であつて、被告らにはなんらの責任はない。
第五証拠<省略>
理由
一 本件左乳房手術の必要性について
成立に争いのない甲第四号証の一、二、被告佐多の供述により成立を認める乙第一号証、鑑定の結果、被告佐多、同佐野の各供述によると、被告佐多は昭和四二年五月二四日原告の右乳房に手術を行なつた後、左乳房の腫瘍の一部を切り取り直ちにその病理検査を当日の検査担当者であつた内田医師に依頼したところ、迅速法によつて行われた右検査の結果左乳房の腫瘍は癌ではないが、乳腺症である旨の連絡を同日中に受けたので、左乳房の腫瘍は将来癌になるおそれがあると判断して直ちに左乳房の手術(手術の内容は当事者間に争いのない事実として摘示したとおり)を行つたことが認められ、この認定の妨げとなる証拠はない。
そして、前示乙第一号証、成立に争いのない乙第三号証、第四号証の二、四、五、第五、第六号証によると、乳腺症と乳癌との関係については医学者の間に意見の相違があり、一方では両者の間に密接な関係があり乳腺症は乳癌の前癌病変であるから予防的乳腺剔出を行うべしとする学説があるが、他方両者の間には決定的な困果関係はないから乳腺剔出の必要はないとする有力な学説があることが認められる。本件において被告佐多の実施した前示の手術は右の前者の見解にしたがつたものと解されるが、このような場合にこの見解に反する後者の見解もあるからといつて直ちにそれだけの理由で右の手術を不要で違法なものとすることはできないと解するのが相当である。
二 手術に関する患者の承諾の要否および本件左乳房手術についての原告の承諾の有無について
ところで、
医師が行なう手術は、疾患の治療ないし健康の維持、増進を目的とするものではあるが、通常患者の身体の一部に損傷を生ぜしめるものであるばかりでなく、患者に肉体的な苦痛を与えることも少なくないのであるから、治療の依頼を受けたからといつて当然になし得るものではなく、原則として、患者(患者が承諾の能力を欠く場合にはこれに代つて承諾をなし得る者。以下同様)の治療の申込とは別の手術の実施についての承諾を得たうえで行なうことを要すると解すべきであり、承諾を得ないでなされた手術は患者の身体に対する違法な侵害であるといわなければならない。もつとも、比較的軽微な手術であつて、身体の損傷や肉体的苦痛が通常さほど重大でない場合については、手術に関する承諾が当該治療の申込に包含されてこれと同時になされたと解すべき場合が少くないと考えられるから、医師は、手術にあたり、手術の軽重にかかわりなく常に患者の承諾の有無をあらためて確認しなければならないというものでもない。しかし、少くとも、たとえば、四肢の一部を切断する手術のような、身体の機能上または外観上極めて重大な結果を生ずる手術を実施するにあたつては、患者の治療の申込においてそのような重大な手術に関する承諾までが常に同時になされているものとは到底いえないから、患者の生命の危険がさしせまつていて承諾を求める時間的余裕のない場合等の特別の事情がある場合を除いては、医師はその手術につき患者が承諾するかどうかを確認すべきであり、これをしないで手術を実施したときは、当該手術は患者の身体に対する違法な侵害であるとのそしりを免れることができないというべきである。
これを本件についてみるに、女性の乳房の内部組織を全部剔出する手術は、生理的な機能の点においてもまた外見上も患者にとつて極めて重大な結果を生ずる手術であるといえるから、被告佐多または被告佐野は、原告の左乳房の手術にあたつては、あらかじめ原告の承諾を求めるべきであつたといわなければならない。そして、患者の承諾を求めるにあたつては、その前提として、病状および手術の必要性に関する医師の説明が必要であること勿論であるが、本件のように手術の要否についての見解が分れている場合には、手術を受けるか否かについての患者の意思が一そう尊重されるべきであるから、医師は、右のような事情を患者に十分説明したうえでその承諾を得て手術をなすべきであつたと解するのが相当である。この点につき、被告らは、被告佐多が左乳房の手術につき原告の承諾を得た際に左乳房に関する症状について説明をしたうえで、その手術についてもあらかじめ承諾を受けた旨を主張するけれども、被告佐野、同佐多のこの点に関する各供述は、証人長塚和三郎および原告本人の各供述と対比すると直ちにこれを採用することができず、他に被告らの右主張事実を認めるに足りる証拠はない。そして、本件の場合、左乳房の手術につきあらかじめ原告の承諾を得るため手術を延期することが原告の生命、健康に重大な危険を及ぼすような緊急の事情を認めるに足りる確かな証拠はない。
そうすると、被告佐多のなした原告の左乳房の手術は原告の承諾が認められず、また承諾を不要ならしめる緊急の事情も認められないので、原告の身体に対する違法な侵害であるといわねばならない。
三 損害
成立に争いのない甲第一号証、本件弁論の全趣旨およびこれにより成立を認める甲第一四号証、原告本人の供述を総合すると、原告は昭和一五年一二月一二日生の未婚の女性であつて被告佐多の不法行為により甚大な精神的苦痛を受けたことが認められるところ、その苦痛を慰藉するために必要な金員は金一、五〇〇、〇〇〇円であると認めるのが相当である。
四 被告らの責任
以上のとおり、被告佐多はその不法行為により原告に生じた右損害を賠償しなくてはならない。被告組合は被告佐多を雇傭するもので、本件手術は被告組合の経営する厚生中央病院において行なわれたものであるから、被告佐多の不法行為は被告組合の事業の執行につきなされたものと認めるべきである。被告佐野は右病院の外科部長であつて、同人の供述によると被告組合に代つて被告佐多を監督すべき者であることが認められ、右認定に反する証拠はない。そうすると右の被告両名も被告佐多の不法行為による前示損害を賠償すべき義務があるというべきである。
従つて被告らは原告に対し、各自金一、五〇〇、〇〇〇円およびこれに対する履行遅滞の後であることの明らかな昭和四三年一月一三日から支払済まで年五分の割合による金員を支払わねばならない。よつて原告の被告らに対する請求は右の限度で正当であるからこれを認容し、その余は理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条、第九二条、第九三条、仮執行の宣言につき同法第一九六条を適用して主文のとおり判決する。
(裁判官 秦不二雄 橘勝治 細川清)