東京地方裁判所 昭和44年(手ワ)629号 判決 1972年3月28日
原告 大同商事株式会社
右代表者代表取締役 中村健太郎こと 金秋一
右訴訟代理人弁護士 寺本勤
被告 加藤一郎
右訴訟代理人弁護士 音喜多賢次
主文
一 原告の請求を棄却する。
二 訴訟費用は原告の負担とする。
事実
一 請求の趣旨
(一) 被告は原告に対し金一、〇五八万円およびこれに対する昭和四七年三月一〇日から完済まで年六分の割合による金員を支払え。
(二) 訴訟費用は被告の負担とする。
(三) 仮執行宣言
二 請求の原因
原告は別紙手形目録記載の為替手形四通(以下本件各手形という)の所持人である。被告は右各為替手形を引受けたものである。右各手形の振出日、支払人、受取人の各記載は昭和四七年二月二二日原告において右目録記載のとおり白地を補充の上、同年三月九日の本件口頭弁論期日において被告に支払のため呈示した。
よって原告は被告に対し右各手形金合計一、〇五八万円およびこれに対する右呈示の日の翌日である昭和四七年三月一〇日から完済まで商法所定年六分の割合による遅延損害金の支払を求める。
三 請求の趣旨に対する答弁
主文同旨
四 請求の原因に対する答弁
本件各手形を原告が所持することおよび呈示についての原告主張事実は認める。被告がこれらを引受けたとの点は否認する。すなわち本件各手形の引受欄に被告の記名捺印がなされた経過は次のとおりである。
(一) 昭和四三年一二月二九日夜、本件各手形振出人である訴外久田光義はその妻百合子と共謀して、被告をして金員の交付を約束させようと企て、被告方応接室において、所携の出刃包丁で被告の坐っていた椅子やその前のテーブルに切りつけるなどして翌朝まで被告を脅し抵抗不能な状態におとしいれて、被告から約束手形、預金通帳等と共に被告の実印を強奪した。本件各手形引受欄の被告名下の捺印は、久田光義が右のように強奪した被告の実印を、同人の用意した手形用紙に勝手に押したものである。
(二) 昭和四四年一月二日夜、久田光義は右のようにして被告の実印を既に押捺した為替手形用紙を被告方に持参し、右久田百合子、被告の妻加藤貞、被告の娘稲葉寛子と共謀し、被告方応接室においてこもごも大声で被告に署名をするように迫った。被告は右一二月二九日夜の暴行脅迫に引続いてのことでもあり、右要求に応じなければ如何なる危害を加えられるかも知れない抵抗不能の状態において、やむなく被告の記名印を右稲葉寛子に交付した。同人が各手形引受欄に右記名印を押捺した。
右のように、本件各手形引受欄の被告の記名捺印はいわゆる絶対的強迫により被告の意思にもとづかないでなされたものである。≪以下事実省略≫
理由
一 被告の手形行為について
(一) 本件各手形の引受欄の被告名下の印影が被告の実印によるものであることは当事者間に争いがない。
(二) ところで、本件各手形引受欄に被告の記名捺印がなされるに至った経緯について検討するに、≪証拠省略≫を総合すると、次のとおり認められる。
1 久田光義は被告の妻貞の弟で昭和二三年から三二年まで被告の経営する北海道の木材会社で働いていたが、昭和三二年に退職上京した。しかしその後生活が安定せず、被告に無心をくり返していたが、昭和四一年一月被告から姉貞を介して一八〇万円の贈与を受けるのを最後に、今後は一切金銭的要求をしない様、公正証書をもって誓約させられた。
2 それにもかかわらず、光義は昭和四三年夏頃、またもや姉貞に対して、事業資金として一、〇〇〇万円ほど被告から出してくれる様に依頼した。貞は、前記のような事情から被告が任意にこれに応ずる筈はなく、被告に話しても無駄であると考えたので、被告所有不動産を密かに自己所有名義に変え、これを担保に金策しようと計画し、必要な被告名義の書類はすべて偽造した上、被告が都内の他の区に転出したように仮装し、被告の登録印鑑を密かに変更するなどして被告所有の土地、家屋を贈与を原因として自己に所有権移転登記を経由するに至った。貞は、これを担保として金融業者である原告から融資を受けこれを光義に用立てる予定であった。これに先立ち、まず右登記の費用として、貞と光義は原告から一〇〇万円を一ヶ月の期限で久田光義振出の約束手形を担保として借り受けた。しかし、右所有権移転登記がなされる直前に、被告が右不動産を銀行に極度額二、〇〇〇万円の担保に供したので、貞と光義は原告から予定どおりの融資を受けられなくなったばかりか、前記の債務の返済を迫られて窮地に陥った。そこで光義と貞は、この上は被告に直接財産上の給付を要求するほかはないと考えるに至った。
3 このようにして昭和四三年一二月二九日夜光義は、妻百合子と共に前日買入れた出刃包丁を携行して被告方を訪れた。被告方応接間で、まず百合子が被告に金員を要求し、被告がこれに応じなかったところ、出刃包丁で被告の坐っていた肘掛椅子の肘掛部分に切りつけ、テーブルに出刃包丁をつきさし、皿を投げるなどの暴行、脅迫を加えた。あらかじめ電話のコードはひきちぎられ、内鍵がかけられて被告は脱出することも助けを求めることも出来なかった。光義もこれに加わり、翌朝まで交々金員を要求した。被告はこの間、右出刃包丁で右手に全治二週間の切創を負い、このような暴行、脅迫により、生命の危険を感じ、抵抗不能の状態で、光義に預金通帳三通(残高合計約六三万六、〇〇〇円)、実印のほか、被告の経営する北一木材株式会社振出名義の約束手形六通、額面合計一、五八八万円、(この金額は光義が上京以来一一年間、毎年一五〇万円づつ合計一、六五〇万円を被告から受領することが相当であるという同人の独自の考えにもとづき、この金額から前記銀行預金残高のうち六二万円を控除した額を勝手に記入したものである。)を奪取された。被告は翌朝見張りの隙をみつけて自宅を飛びだした。はだしで、寝間着のままであった。「人殺し」と叫びながら、近くの家に飛び込み、警察に連絡をたのみ、無断で二階に上りこみ、押入れに隠れ、青くなってふるえているという状況であった。
4、光義はその後さらに前記北一木材振出の約束手形六通の支払を担保するため被告引受の為替手形を取得しようと考え、昭和四四年一月二日夜、為替手形用紙六枚の引受欄に前記のようにして奪取した被告の実印をほしいままに押捺したものを準備して、被告方を訪れた。被告は既に就寝中であったが、妻貞にふとんをはがされて起された。この時被告は妻貞までが弟光義に加担し、同人と共謀していることを感知し、一層畏怖の念を強めた。光義は被告に対し右手形引受欄に署名するよう求め、被告はこれに容易に応じなかったが、ついには光義、百合子らに語気鋭くかつ執拗に要求されるままに、右要求に応じなければ再度いかなる危害を加えられるかもしれないと畏怖し、自己の記名判をとり出して、これを光義らの使用に委ねた。これを使用して、前記約束手形六通と金額、満期をそれぞれ同じくする為替手形六通が作成された。本件為替手形四通は、そのうちの四通である。
5 被告はその後同年一月四日に家出し、同年五月ころまで自宅に帰らなかった。その間銀行には手形の事故届を出し、弁護士を依頼して、光義を告訴する等の対策を講じた。
(三) ≪証拠判断省略≫
(四) 以上のような事実によって被告の手形行為の成否について判断するに、本件各手形引受欄の被告の記名捺印のうち、記名印の押捺は、久田光義らの強迫によるものではあるが、被告の意思による行為と認められるものの、捺印は全く被告の意思によらず、光義がほしいままにこれをなしたにすぎず、手形行為全体としてみれば、光義らの出刃包丁を用いた前記強迫により被告は生命の危険を感じ、意思の選択の余地のない状態においてなされたものと認められる。したがって、本件各手形行為は、民法九六条一項を適用する余地はなく、当然無効というべきである。
二 よってその余の点について判断するまでもなく、原告の本訴請求は失当であるからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法八九条を適用して主文のとおり判決する。
(裁判官 白石悦穂)
<以下省略>