東京地方裁判所 昭和45年(ワ)5523号 判決 1974年6月24日
原告 谷津秀子
右訴訟代理人弁護士 村藤進
被告 小沢清二
右訴訟代理人弁護士 山田重雄
同 藤田信祐
同 山田克己
被告 保坂寿一
右訴訟代理人弁護士 森俊夫
同 渡辺昭
主文
一 原告と被告保坂との間において、別紙物件目録(一)(イ)記載の土地と同目録(三)記載の土地との境界は、別紙図面(一)のABCD点を順次直線で結んだ線であると確定する。
二 原告の被告小沢に対する請求を棄却する。
三 訴訟費用は原告と被告保坂との間では原告に生じた費用を二分し、その一を同被告の負担とし、その余を各自の負担とし、原告と被告小沢との間では全部原告の負担とする。
事実
第一申立
(原告)
一 主文第一項と同旨
二 被告小沢清二は原告に対し、別紙物件目録(二)(ロ)記載の建物部分を収去してその敷地である同目録(一)(ロ)記載の土地を明渡し、かつ昭和四八年四月一日から右明渡ずみまで一ヶ月金二、六〇九円の割合による金員を支払え。
三 訴訟費用は被告らの負担とする。
との判決
四 右第二項につき仮執行宣言
(被告ら)
原告の請求を棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
との判決
第二主張
(原告)
一 請求原因
(一) 原告は、昭和四八年四月一日より前から別紙物件目録(一)(イ)記載の土地(以下甲土地という)を所有し被告保坂は、甲土地の北側に隣接する同目録(三)記載の土地(以下乙土地という)を所有しているところ、甲・乙両土地の境界につき原告と被告保坂との間で争いがある。
(二) 甲・乙両土地の境界は、別紙図面(一)のA、B、C、D各点を直線で結んだ線である。その根拠は次のとおりである。
1 甲土地の形状と面積について
一筆の土地からその一部を分筆するときは、分筆すべき土地の形状や面積を実測で決められるから、分筆された新地番の土地の公簿面積と実測面積は一致し、土地の形状も実測図で判るのが通常であるところ、公図(別紙図面(二))によると、甲土地の形状は不整形で西の方が細く尖っている。前所有者の春日糺が一七番土地を購入するに際して測量した実測図によると、右の細く尖った部分を含む土地部分(別紙図面(一)①②③および本件土地部分)一〇・七二坪が他と区別して面積を積算されているので、春日が昭和二五年一一月頃粕谷節子に譲渡するために一七番二(甲土地)土地に分筆した際にこの尖った部分を含めて二二・九四坪としたことは明白である。また、乙土地の公簿面積は一五三・五一坪、一五番の二の土地の公簿面積は一一四坪で、分筆前の一五番の土地の公簿面積は二六七・五一坪、甲土地のそれは二二・九四坪であるところ、生江光喜の鑑定(昭和四八年六月二八日付―丙第二号証―)によると、被告ら主張の線を境界とした場合、乙土地および一五番の二の土地の合計、つまり分筆前の一五番の土地の実測面積は二八三・三〇坪で公簿面積より一五・七九坪多くなるのに対し、甲土地の実測面積は、生江光喜の鑑定の結果(昭和四六年八月一〇日付)によると被告ら主張の線を境界とした場合一四・二九坪で公簿面積より八・六五坪も少いという極めて不合理な結果となるのである。ところが右各証拠によって原告主張の線を境界とした場合をみてみると、一五番の土地の実測面積は二七二・五〇坪で公簿面積より四・九九坪多く、甲土地の方は実測面積が二四・七九坪となって公簿面積より一・八五坪多い結果となるが、その誤差はごくわずかであって、公簿面積と実測面積とが大体一致する。
2 占有状況について
被告保坂は、乙土地を被告小沢に賃貸し、同被告は昭和二三年二月頃建物を新築した際、本件土地部分にはみ出してこれをも敷地として占有を始めたことは事実であるが、昭和二五年一〇月頃に粕谷節子が前所有者春日糺から甲土地を買受けて建物を新築してからは、別紙図面(一)①②③部分は粕谷において使用するようになり、以後束原民子を経て原告が昭和二八年一一月四日に甲土地を買受けてからは原告が引き継いで同部分の使用を続け、さらに昭和三七年終り頃、被告小沢は同部分に越境して建物を増築しようとしたが、原告の抗議を受けて越境部分の増築をとりやめたことがあり、その後原告は右③部分に湯殿を建築して占有を続けている。また、昭和三〇年一二月四日には、被告保坂の代理人や被告小沢の立会を得て、春日が昭和二五年当時に実測した際の実測図を現地にあてはめて阿部測量士に実測して貰った際、甲土地と乙土地との境界たるABCD線上の二ヶ所に境界石を埋設し、公道面にはペンキをもって境界を印したが、被告らはこれを承認してなんら異議を申し出ることもなかったという事実もある。
3 一五番土地の形状について
被告らの主張によれば昭和一五年当時に作成されたという丙第一号証の実測図によると、一五番土地全体のほぼ北側にある甲土地と反対側の境界線はほぼ西側からみて、東側の公道に向うにつれて左側つまり北側に寄り、逆にほぼ南側にある甲土地分筆前の一七番土地との境界線は同じく一五番の土地のほぼ西側からみて、東側の公道に向うにつれて右側つまり南側に寄っていて、西側より東側の広い扇形になっている。ところが被告らの主張する境界を前提として作成された丙第二号証の実測図では、北側の境界線は丙第一号証の境界線に比して、東側の公道に向うにつれてほんの僅かであるが南側に寄り、甲土地との境界に当る南側境界線は公道に向うにつれて大きく南側に寄っている。以上のことから考えて、被告ら主張の境界線は被告保坂の先代が一五番土地を買受けた時以上にひどく甲土地へ食い込んでいたことが判る。この食い込んだ程度は、とりもなおさず本件で原告が主張するとおり二・〇七メートルである。
(三) 被告小沢は、昭和四八年四月一日より前から同目録(二)(イ)記載の建物(以下本件建物という)を所有しているが、右建物の一部が別紙図面ABCD線を越えて原告所有の甲土地上にあり同目録(二)(ロ)記載の部分(以下本件建物部分という)、甲土地のうち同目録(一)(ロ)記載の土地部分(以下本件土地部分という)を占有している。
(四) 本件土地部分の賃料は前同日以降一ヶ月二、六〇九円を相当とする。
(五) よって原告は、被告保坂との間で甲土地と乙土地との境界確定を求めると共に、甲土地の所有権に基づき被告小沢に対し、本件建物部分を収去してその敷地である本件土地部分を明渡し、かつ昭和四八年四月一日から右明渡ずみまで一ヶ月二、六〇九円の割合による賃料相当額の損害金の支払を求める。
(被告ら)
二 請求原因に対する認否
(一) 請求原因(一)の事実は認める。(三)の事実中、被告小沢が本件建物を所有し、右建物のうち本件建物部分が別紙図面(一)の赤斜線部分の土地上にあって占有していることは認めるが、右部分が甲土地の範囲内にあることは否認する。
(二) 同(二)、(四)の事実は争う。
(三) 被告らが主張する境界
被告らは、一七番二土地と一五番一土地との境界は別紙図面(一)のAGK点を順次直線で結んだ線と主張するものであり、その根拠は次のとおりである。
1 形状について
甲土地はもともと四角形の形状をしていた一七番土地から分筆されたもので、元地である一七番土地がこのように四角形であるところからみて分筆に際しても特段の事情がない限り、同様に四角形に分筆するのが通常であり、原告主張の如く甲土地を不整形にする必要性は全く認められないのである。
2 面積について
(1) 生江光喜の鑑定書(昭和四七年二月二三日付)および一七番一、及び甲土地の登記簿謄本によれば、一七番一土地の公簿面積は二七・〇七坪(八九・三五平方メートル)で、公図上から測定した面積は八六・五三平方メートルとなっていてほぼ一致するのに対し、甲土地の方は前者が七五・八三平方メートルであるのに後者は五七・二三平方メートルとなっていて、一八・六〇平方メートルだけ後者が不足していることが判る。他方一七番土地全体の公簿面積は九六・二八坪(三一八・二八平方メートル)であるところ、昭和二五年に春日が実測したところによると、被告らが主張するAGK線を境界とした場合の甲土地の実測面積は九〇・五六坪(二九九・三七平方メートル)で右公簿面積より五・七二坪(一八・九一平方メートル)不足ということになり、右の公簿面積と公図上から測定した面積との不足分と近以するのである。
以上のことから考えて、一七番土地の実測面積は元来公簿面積より約一八平方メートルだけ少なかったものを、先ず一七番一と一七番三にそれぞれ実測面積と公簿面積とを合致させて分筆し、最後に残った部分を一七番二(甲土地)としたということができる。もし原告主張のABCD線を境界とすると、一七番土地の実測面積は一〇一・二九坪(三三四・八四平方メートル)となって公簿面積(九六・二八坪)より五・〇一坪(一六・五六平方メートル)も広くなって不合理である。
(2) 被告保坂の先代が一五番土地を買受けるに際して実測したところによると、乙土地の実測面積は一六五・八〇坪で公簿面積より一二・二九坪の「縄延び」があり、右先代は昭和一五年一二月二三日に一五番一、二土地の周囲に一五本の境界石を埋設した。しかも昭和一五年当時の一五番土地全体の実測面積は二七九・八〇坪で、これを丙第二号証の昭和四八年六月二八日付鑑定の被告ら主張の線によった場合の実測面積二八三・三〇坪と比較すると、三・二六坪の僅差しかないのである。
3 占有状況について
被告保坂の先代は昭和一六年一月八日に一五番土地を買受けて以来その占有を続け、昭和二〇年五月二〇日先代が死亡してからは被告保坂が相続して占有し、昭和二二年一二月本件土地部分を含む乙土地を被告小沢に賃貸し、同被告は別紙図面(一)のAGK線に沿って③部分にまでかかる奥行七間四尺五寸(一三・九五メートル)の建物を建てて本件土地及び①②③部分を占有した。さらに被告小沢は昭和二七年一一月頃、AGK線に接して南側の公道側に間口二間半、奥行一間の店舗を増築したが、甲土地の所有者からの異議もなく、次いで昭和三七年終り頃、②③部分にまたがって建物の増築を計画し、工事に着手したところ、原告から抗議を受けたので、万一建築途上に原告から仮処分などされて増築全体が不可能となると、甚大な損害を蒙るおそれがあったので、止むなく②③部分への増築を断念したところ、原告は③部分に急遽風呂場を築造して占有を始めたのである。したがって被告らが③部分を任意に明渡したものではないのである。
三 抗弁
(被告小沢)―取得時効
仮に原告主張のABCD線が境界だとしても
(一)1 被告保坂は、昭和二二年一二月、乙土地を、別紙図面(一)のAGK線を結ぶ北側の土地部分(同図面①②③および本件土地部分)を含む範囲であることを指示して被告小沢に賃貸して引渡し、同被告がこれを直接占有することにより被告保坂もその占有を開始した。
2 被告保坂は右占有の開始にあたり、右土地部分の所有権が自己に属するものと信ずるについて過失がなかった。すなわち、前記境界の根拠3で詳述したとおり右土地部分が一五番一土地に含まれるものと信じて相続した後、被告小沢に賃貸して引渡し、占有を始めたものである。
3 被告保坂は、昭和三二年一二月当時も、被告小沢が直接占有することにより右土地を占有していた。
4 そこで、被告保坂は本訴において右土地につき一〇年の取得時効を援用した。
(二) 仮に被告保坂に、右占有につき過失があったとしても
1 同被告は、昭和四二年一二月当時も、同様に右土地を占有していた。
2 そこで、同被告は本訴において右土地につき二〇年の取得時効を援用する。(被告小沢)―権利の濫用
被告小沢が右土地を明渡すことになれば建物の構造上、建物全部を取毀して建替えなければならなくなるし、間口は僅か一間半となって化粧品雑貨小売の営業が不能となり、家族の生活上重大な支障をきたし、その損害は甚大である。これに反して原告の方には、本件土地利用の必要性はないのであるから、右明渡を求める本訴請求は権利の濫用である。
四 抗弁に対する認否
(一) 被告らの抗弁(一)3、同(二)1の事実中、被告保坂が被告小沢に賃貸して本件土地部分を占有していることは認め、その余はすべて争う。
(二) 被告小沢の抗弁は否認する。
(三) なお、被告保坂は、当初昭和一六年一月八日に係争土地の占有を開始したとして、一〇年の取得時効を主張していた。これを前提とすると、時効取得の成立時である昭和二六年一月八日当時、甲土地は粕谷節子の所有であり、同人は昭和二八年六月一〇日頃束原民子に売り渡し、原告が昭和二八年一一月四日に束原からこれを買ったものであるから、被告保坂は原告に対して所有権取得を対抗できないはずである。同被告が右主張を撤回することは時効取得の起算点を任意に動かせないことからいっても許さないというべきである。
五 再抗弁
仮に被告保坂の抗弁(一)1、2の各事実が認められるとしても、前記境界の根拠2で詳述したとおり、昭和三〇年一二月四日被告保坂代理人は現地において、甲土地と乙土地との境界が原告の主張するABCD線であることを異議なく承認した。したがって時効は中断したのである。
六 再抗弁に対する認否
(被告小沢)
すべて否認する。
第三証拠≪省略≫
理由
一 原告が甲土地を所有し、被告保坂が乙土地を所有し、両土地が隣接していること、原告と被告保坂の間で右土地の境界について争っていること、被告小沢が本件建物を所有し、右建物のうち、本件建物部分が原告主張の位置に存在して同被告が本件土地部分を占有していることは当事者間に争いがない。
二 そこでまず甲・乙両土地の境界について検討する。
(一) 原告主張のA点が、甲土地と乙土地の境界線上にあることは当事者の主張が一致していることによって認めることができる。
(二) ≪証拠省略≫によると、東京法務局新宿出張所備付の本件関係土地の公図は、別紙図面(二)のとおりであるところ、公図上の甲土地の表示は東北側上部において細長い三角形でその下部は大体長方形の形状をしていること、そこで右公図と鑑定実測図を対照すると、原告主張のABCD線を境界とみると公図と同一の形状となるのに対し、被告ら主張のAGK線を境界とみると上部三角形の部分がなくなって公図と現況とが一致しなくなることが認められる。
ところで、公図は土地台張の附属地図で、区割と地番を明らかにするために作成されたものであるから、面積の測定については必ずしも正確に現地の面積を反映しているとはいえないにしても、境界が直線であるか否か、あるいはいかなる線でどの方向に画されるかというような地形的なものは比較的正確なものということができるから、境界確定にあたって重要な資料と考えられる。したがって、公図と現況とを対照して境界をみる場合は、両者が一致するような線が境界としてより合理性があるということができる。そうすると公図上からは原告主張のABCD線は境界として十分な合理性がある。
(三) 次に一五番土地(一五番一と乙土地を合わせた全体)の形状についてみるに、≪証拠省略≫と、次の事実が認められる。
丙一号証の実測図は乙土地及び一五番二の土地につき昭和一五年一二月二日、日本測量社によって実測された後作成され、同月二三日に右両土地の周囲に一五個の境界石が埋設された。そのうち南西側の一七番の土地(当時甲土地はまだ分筆されていない)境界線上の公道から北西側に向かって〇・三八間の地点の境界石が、乙土地と一七番の土地との境界線上にあり、更に北西へ境界線を延長して一四・三三間進んだ点が前記公図と対照して、別紙図面のA点に相当するところで、北東側境界線は、丙一号証の実測図では西北側から東南側公道に向うにつれて公道に向って左側に寄っているのに対し、昭和四八年六月に一五番一、二の土地を実測した丙二号証の実測図ではほんの僅かではあるが丙一号証のそれよりも公道に向って右側に寄っている。また、南西側境界線(本件係争の境界線)は、丙一号証の実測図ではA点から公道に向うにつれて公道に向ってやや右側に寄っているのに対し、丙二号証の実測図では前記A点から公道に向うにつれて公道に向って大きく右側に寄っていて、両実測図の間に差異が生じている。
以上の事実が認められ、これらの事実からすると丙一号証実測図の南西側境界線の形状はかなり信用できるものであるのに対し、丙二号証の実測図上の乙土地の南西側の境界は、本来の境界より更に南西側に寄ってきて甲土地に食い込んでいる疑いが強い。
(四) 次に本件土地部分の占有状態及び甲土地の実測の経過について検討する。
≪証拠省略≫によれば、被告保坂の先代元寿は昭和一六年一月八日に乙土地を、昭和一九年に一五番二土地をそれぞれ買受けたが、それに先立ち、前認定の丙一号証の実測図を作成させたこと、元寿が死亡して被告保坂が右土地を相続し、昭和二一年一二月頃、乙土地を当時差配をしていた渡辺清次郎が同被告の代理人として井出、大出、被告小沢の三人に賃貸したが、その区割は当時乙土地も隣地の甲土地も強制疎開のために家が取り毀わされて空地となっており、公道側の敷地には毀わされた家材が積まれて境界の見分けなどつかない状態だったので、渡辺は一応丙一号証の実測図を基に公道側の間口一二・四三間を三分し、被告小沢は一番南西側の部分間口三間強、奥行一六、七間約五〇坪を賃借したものの、境界については土地を買い受けたわけではなかったのでとくに確認はせず渡辺の指示に従ったこと、その後被告小沢は昭和二三年に被告ら主張の境界線に沿って建物を建て、昭和二八年頃には公道側に同じく右境界線に沿って間口二間半、奥行一間の店舗を増築し、次いで昭和三七年終り頃奥の部分に二階建の建物を増築して占有を続けて来たことが認められる。
他方、≪証拠省略≫によれば、一七番の土地はもと升本某の所有地で、それを春日糺が昭和二五年に買受けたものであるが、右売買に際して升本は、当時淀橋区画整理事務所の職員であった星野藤二郎に依頼して実測を行ない、甲第一〇号証の実測図を作成させたこと、右測量に際しては一七番の土地と隣接する一八番土地(同実測図の関口宅)の公道側に石があったので、この石を両土地の境界石として測量した結果、一七番の土地の北東側境界は被告ら主張の境界線より公道側で一・一四間北側に寄った、現在被告小沢の建物が建っているところの地点となるので、被告らが境界をこえて一七番の土地を使用しているのではないかと考えたこと、春日は一七番土地のうち別紙図面(一)の①②③と本件建物部分を含む部分を分筆して甲土地としたうえ粕谷節子に売却したこと、その際春日は右の事情を被告らに説明して折衝したが功を奏さず、そのままの状態で粕谷は束原民子に売却し、昭和二八年一〇月末頃原告が買受けたこと、原告は被告らが越境している事実を明らかにする目的で、被告保坂代理人高橋某、被告小沢の立会の下に昭和三〇年一二月四日阿部測量士に依頼して前記甲一〇号証の実測図を現地におとして測量をし、同実測図北西側境界線上の南西側端から公道に向って四・五二間の地点と、更に公道側に進んだ中間地点(甲第六号証の真中の赤印)の二ヶ所に境界石を埋設し、同時に前記一八番の土地との境界石を確認して甲第六号証の実測図を作成したことが認められる。≪証拠判断省略≫
ところで別紙図面(一)の①②③部分の占有状態についてみるに、≪証拠省略≫によれば、同図面①②③部分はいずれも被告小沢が賃借してからは空地となっていたもので、①部分は低地で何ら使用されておらず、②部分は当初被告小沢がごみ置場として使用していたが、原告が甲土地を買受けてからは、原告が①②部分を合わせて草花を植えたり物干し場とか物置き場として使用し、③部分は当初被告小沢が、ごく一部を物置きとして使っていたが、原告が居住するようになってからは、原告家屋の裏出口として使用するようになり、昭和三八年頃には原告が湯殿を造ったことが認められる≪証拠判断省略≫。他に右認定を左右するに足る証拠はない。
以上の事実からすると、星野作成の実測図は被告小沢が昭和二八年頃に店舗を増築する以前に作成されたものであるから、丙一号証実測図上の公道面に明記されている前判示の境界石(奥へ〇・三八間の位置)を確認したうえで作成されたものと推認でき、一八番土地との公道面における境界石についても、昭和三〇年の阿部測量士による測量に際しても確認されているのであるから、星野が実測した当時に存在していたと認めてよいし、星野実測図に記載されている公図が前掲甲第一五号証の公図と同一で、一七番土地の形状と右公図のそれとも一致することなどから考えて、星野実測図は実測の結果を正確に表示したものと認めることができる。
他方、差配の渡辺が丙一号証の実測図に基づいてした区割りは、はっきりとした境界線の確認を経たものではなく、同人の指示に従ったにすぎない被告小沢の占有状況は境界を確定するにつき、さほど重要な資料とはならないというべきである。
(五) 甲土地と乙土地の面積について検討する。
1 ≪証拠省略≫によれば、乙土地の実測面積は一六五・八〇坪で公簿面積は一五三・五一坪であること、一五番二土地の実測面積は公簿面積と同じ一一四坪であることが認められる。したがって右事実からすれば、乙土地は公簿面積より一二・二九坪の「縄延び」があることになる。また一七番の土地の公簿面積は九六・二八坪であるところ前掲星野実測によれば、被告ら主張の境界線によった場合の一七番土地全体の面積は九〇・五六坪で、原告主張の境界線では一〇一・二九坪となることが認められる。ところで、丙一号証での乙土地の「縄延び」分一二・二九坪を星野実測の被告ら主張の線による九〇・五六坪に加えると一〇二・八五坪となり、星野実測の原告主張の線による実測面積一〇一・二九坪ときわめて近似してくる。このことから考えると、丙一号証での乙土地の「縄延び」分(一二・二九坪)はほぼ星野実測図③部分(一〇・七三坪)に相当するものと言うことができ、果して全部乙土地に含まれるかどうかは疑問がある。
2 前掲丙第二号証によれば、乙土地と一五番二の土地全体の実測面積は被告ら主張のAGK線によれば二八三・三〇坪で、原告主張のABCD線によれば二七二・五〇坪となることが認められる。そこでこれを基に乙土地の実測面積を算出すると次のようになる。まず被告ら主張のAGK線によった場合についてみるに、一五番土地の実測面積二三八・三〇坪から前認定の一五番二土地の実測面積(公簿面積とも一致する)一一四坪を控除すると一六九・三〇坪となり、これが乙土地の実測面積である。そしてこれは公簿面積(一五三・五一坪)より一五・七九坪多い計算となる。これに対し、原告主張のABCD線によった場合には、実測面積の二七二・五〇坪から一五番二土地の一一四坪を控除した一五八・五〇坪が実測面積となり、公簿面積より四・九九坪多いことになる。
他方、鑑定の結果によれば、甲土地の実測面積は、被告ら主張のAGK線を境界とみると一四・二九坪で、原告主張のABCD線だとすると二四・九九坪となることが認められる。そこでこれらを前掲甲第一号証によって認められる甲土地の公簿面積二二・九四坪と比較すると、AGK線をとった場合には実測面積の方が八・六五坪少なくなるのに対し、ABCD線をとると一・八五坪多くなる。
このように公簿面積と実測面積とが一致しないことは、いわゆる「縄延び」とか「縄ちぢみ」とかいわれ、一般に知られているように応々にして存する事態であるけれども、この不一致の程度は山林などのように測量もむずかしく、広範囲の土地が対象の場合はともかく、市街地などのように比較的狭少で、かつ測量も容易な宅地の場合は、隣接地との比較においてできる限り少なくなるように考えるのが衡平の理念に合するといわなければならない。
右認定の事実によれば、乙土地の実測面積と公簿面積の差は、被告ら主張のAGK線をとると一五・七九坪、原告主張のABCD線をとると四・九九坪のいずれも「縄延び」となるのに対し、甲土地の方は、AGK線をとると八・六五坪の「縄ちぢみ」となり、ABCD線をとると一・八五坪の「縄延び」となる。そうすると両土地にとっても「縄延び」の状態となり、またその程度もほゞ等しい原告主張のABCD線を境界とするのが衡平に合するということになる。
3 被告らは、一七番土地の実測面積は元来公簿面積より約一八平方メートル少なかったと主張する。
なるほど≪証拠省略≫によれば、公図上から計算すると、一七番一土地の面積は八六・五三平方メートル、甲土地のそれは五七・二三平方メートルであることが認められ、これによると、一七番一土地については前認定の公簿面積(八九・四八平方メートル)とほぼ一致するし、甲土地については公簿面積(七五・八三平方メートル)と比較して一八・六〇平方メートル不足すること、また、≪証拠省略≫によれば、一七番土地全体の公簿面積は九六・二八坪(三一八・二八平方メートル)であることが認められ、前掲甲第六号証によって認められる被告ら主張の境界線によった場合の一七番土地全体の実測面積九〇・五六坪(二九九・三七平方メートル)と比較すると公図から計算した面積が五・七二坪(一八・九平方メートル)不足して、前記不足分と近似することは認められる。しかしながら、右鑑定の結果によれば、公図上から計算した乙土地の面積は四六三・八六平方メートルで、一五番二土地の方は三四〇・四一平方メートルであることが認められるところ、両土地の面積は≪証拠省略≫によって明らかなとおり公簿上乙土地が一五三・五一坪(五〇七・四七平方メートル)、一五番二土地が一一四坪(三七六・八五平方メートル)であって、右公図上の計算面積と比較すると乙土地では三三・八一平方メートル、一五番二土地では三六・四四平方メートルいずれも公図上の計算面積が不足するのであり、特に一五番二土地については、丙一号証の実測によれば公簿面積と同じ一一四坪であるのに右公図上の計算面積では大きな差が出るのである。このことは、公図が現地の面積を正確に表わしていないことを意味するものであって、右公図上の計算面積を基礎にした被告らの主張は失当であるといわなければならない。
(六) 以上の各事実、すなわちAG線を甲土地と一七番三土地との境界とし、ABCD線を甲乙両土地との境界とした場合にできる細く尖った三角形の部分が前記公図の三角形の形状と一致すること、甲土地と乙土地との公簿面積と実測面積を比較した場合に、ABCD線を境界と考えた方が合理的であること、および従前の占有状態は必ずしも境界を示すものとはいえないことを考慮するときは、原告主張のABCD線をもって本件係争の境界とするのが合理的である。
三 時効取得について判断する。
(一) 既に前記二(四)で認定したとおり、被告保坂は先代を相続した後、差配の渡辺を代理人として昭和二一年一二月頃被告小沢に別紙図面のAGK線を甲土地との境界と考えて賃貸したもので、その当時一七番土地の所有者であった升本との間には境界についての紛争は全くなかったのであるから、被告保坂はこれらの土地が自分の所有地であると信じたことに過失はなかったと認めるのが相当である。そして前認定のとおり被告小沢は本件建物部分の敷地たる本件土地部分の占有を始め、被告保坂が被告小沢に賃貸して昭和三二年一二月に本件土地の占有をしていたことは当事者間に争いないのであるから、遅くとも昭和三二年一二月三一日の経過により一〇年の取得時効が完成したものというべく、これによって被告保坂は本件土地部分の所有権を取得したといわなければならない(別紙図面①②③部分の占有は認められないが、原告が明渡を求める部分ではないから、もともと意味のない抗弁である)
なお、原告は、被告らの時効の起算点についての主張の撤回が許されないというが、時効の起算の主張は被告らの主張責任を負う事実であって、自白に当るものではないから、撤回を許されない理由はなく、また、時効取得につき任意に起算点を選ぶことができないことは原告主張のとおりであるが、これは主張した時点と異なる時点において占有の開始があったと認められる場合に、その時点が起算点となる、という実体法上の解釈をいうのであって、証拠上立証しうる時点を起算点として選択することを許さない趣旨ではない。
(二) 原告は時効中断があったと主張するが、≪証拠省略≫によると、昭和三〇年一二月四日の被告側の立会は、被告側としてもはっきりした判断資料のない段階であったので、ただ単に原告の言い分を聞く程度のものであったと認められ、原告主張の境界を承認したとまで認めるに足りる証拠はない。
そうとすると、本件土地部分につき原告に所有権があることを前提とする原告の被告小沢に対する請求はその余の点を判断するまでもなく失当であるといわなければならない。
四 以上の次第で、原告所有の甲土地と被告保坂所有の乙土地との境界は、別紙図面(一)のABCD点を順次結んだ線と定めることとし、被告小沢に対する原告の請求は理由がないから棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九二条を適用して、主文のとおり判決した。
(裁判長裁判官 藤井俊彦 裁判官上谷清は転官のため、裁判官谷合克行は職務代行終了のため、それぞれ署名捺印することができない。裁判長裁判官 藤井俊彦)
<以下省略>