東京地方裁判所 昭和45年(刑わ)229号 判決
以下は、判例タイムズに掲載された記事をそのまま収録しています。オリジナルの判決文ではありません。
〔判決理由〕一、本件公訴事実は、
「被告人は、自動車運転の業務に従事しているものであるが、昭和四四年一〇月一日午前一〇時一〇分ころ、普通貨物自動車を運転し、東京都足立区竹の塚六丁目一四番一〇号先の交通整理の行なわれていない交差点に旧日光街道方面から差しかかり、同交差点を竹の塚駅前通り方面に向かい左折進行しようとしたが、同交差点は左方の見とおしが困難であつたから徐行して左方に通ずる道路の交通の安全を確認しつつ進行し、接近する対向車のあるときは、その動静に即応して左側に進路を保持し、場合によつては警笛を吹鳴してこれに警告を与え、さらに一時停止して避譲するなどの措置をとり事故の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、時速約二〇キロメートルで左折進行し、かつ、おりから左折方向の道路より道路左側の駐車車両を避けて道路中央付近を対向進行中の鈴木寿一(当時一八年)運転の原動機付自転車を、約二一メートル先に認めたのに、漫然前記速度のまま十分左側へ寄らないで警笛を吹鳴することなく進行を続けた過失により、同車に約一二メートルの近くまで接近して初めて危険を感じ左転把するとともに急制動の措置を講じたがすでにおそく自車前部を鈴木運転車両に衝突させ、同人を路上に転倒せしめ、よつて、同人をして同月三日午前一〇時三九分ころ、同区保木間一丁目二二番一五号中川医院において、頭蓋骨骨折により死亡するに至らしめたものである。」
というのであり、証拠によれば、被告人が、昭和四一年六月に普通自動車運転免許を取得して自動車運転業務に従事していたものであり、右公訴事実摘示の日時、場所において普通貨物自動車(トヨエース)を運転し、降雨の中を同所の交通整理の行われていない交差点を旧日光街道方面から竹の塚駅方面に時速約二〇キロメートル位で左折進行した際、対向してくる原動機付自転車を前方に認め、つづいて同車の運転者が前方注視を欠いた状態で道路中央部分を接近してくることに気付き、危険を感じて左にハンドルを切るとともに急制動措置をとつたが、停止寸前か停止した瞬間の被告人運転車両前面やや右部分に対向車が時速三〇キロメートル位の速度のまま衝突し、その運転者であつた鈴木寿一が路上に転倒し、同人が公訴事実摘示の日時、場所において右衝突による頭蓋骨骨折によつて死亡した事実を認めることができる。
(なお、右の位置関係を図示すると略々別紙見取図のとおりである。)
二、そこで、本件において、検察官が公訴事実で主張するような業務上の注意義務ないしその懈怠を被告人に認めることができるかどうかを以下検討する。
(一) まず、被告人の左折の速度、方法をみてみると、同交差点は被告人の進路手前からは左折方向の見とおしが困難であつたから、交通整理が行われていない交差点である以上、徐行して左方の安全を確めなければならないのを、約二〇キロ毎時に減速しただけで、しかも、左側端に寄らず、左折道路(幅員7.4メートル)の中央部分に進入したものであり、その速度、方法において道路交通法の定めるところに適合していたとはいいがたいところが若干あるけれども、速度の点は、交差点出口を横断していた歩行者等と接触したというような場合、あるいは、出口付近まで接近していた対向車を避けられなかつたという場合には責められるべき過失になるとしても、本件のように直進状態に移つて後の衝突事故との関係では直接の原因、結果の関係は認められず(本件においては、せいぜい、左端によつた左折をやや困難にした原因の一つとして考慮し得るにすぎない)、また、進路を左側端にとらず、中央寄りに進んだことは、当時の本件交差点付近の状況(交差点角手前まで駐車々両が左側に並んでいたこと、同角付近に歩行者があつたこと、左折方向の進路前方左側にも駐車々両があつたこと等)から考えてそれほど責めることはできない(そもそも、左折に当つて、できるかぎり道路の左側に寄るべき道路交通法の規定は左折前の並進車両等との関係を考慮して設けられたものと思われる)ばかりでなく、右のように、本件は、交差点付近で左折にあたり左折進路の右側に出たために対向車と衝突したというのではないのであるから、この点も本件においては、せいぜい直進状態に移つてのち、十分左側に寄れなかつた原因の一つとして関係があるに過ぎないところ、この点も前記のような本件のその後の経過事実と考え合せてみると、本件事故の原因となる過失であると認めることはできない(検察官も、公訴事実において、この点を過失としては主張していない。)
(二) つぎに、被告人は左折進路に入つた際、対向してくる原動機付自転車を前方約二一メートルの地点に発見したというのである(別紙の①でを発見)が、証拠上、実際は、三〇メートル位あつたものと認められる(何故ならば、被告人が二〇キロで左折し、停止するまでの一一、八メートルを進む間に、相手バイクは三〇キロメートルで対向進行を続けていたものであるから)ところ、この相手発見と同時に急制動措置をとり、または左側に一ぱいに寄り、さらには警笛を吹鳴すべきであつたかどうかをみてみる(検察官は、これらの措置をとらず、そのまま漫然と進行を続けたことを被告人の過失として主張しているのである)と、本件の対向車両の運転者であつた鈴木寿一は、当時、降雨の中を、雨を避けるために顔を右下に向けたまま前方注視を欠いて交差点にさしかかつていたものである(目撃者高橋きみの当公判廷における証言によれば、バイク運転者鈴木は約三〇キロメートル毎時位の速度で、前方三、四メートル位しか見えないような下向きの格好で進行していたものと認められる)けれども、同人の進路前方約三〇メートルの交差点出口には一時停止の道路標識が設置されており、このような交差点に接近している対向車両の運転者を前方に発見した被告人において、その位置や速度、進行方向等にとどまらず、これが右のような異常な態勢にあることまでただちに察知し、その異常な態勢からこれとの接触を予見すべきであるということは難きを求めることになるというべきである。被告人が左折進入して前方に発見した対向車両は原動機付自転車であつたから、被告人がそのまま進行を続けてもわずかなハンドル操作によつて自車の右側にこれとのすれ違い可能な余地がある以上は、相手が通常の対向車であれば同車においてもこの余地を利用するため進路をその方に移す等して安全なすれ違いのための適切な運転操作をするのが一般運転者のいわば経験則であるからである。したがつて、このような場合に、対向バイク乗りのこのような異常な態勢にあることだけでなく、さらにそのような状態をそのまま続けて対向してくることまでも、その対向車両の発見と同時にその動静の一つとして見きわめるべきことを要求することはいささか酷であるといわざるを得ない。一般には、対向相手が車両である場合にはその運転者も前方注視をつくし、危険回避のため適切な運転操作をするものと期待するのが通常であるから、もし、これに反した異常な態度を対向車について発見した場合にも、これがその異常な態度をとり続けることに気付くのには若干の時間(勿論、一秒かそこらのごく短い時間ではあるが)を要したとしてもこれを不注意であると非難することはできないといわなくてはならない。本件において、被告人は約三〇メートル前方に発見した相手車両運転者が前記のような異常な運転態度をとり続けていることを双方の距離が約一二メートルに接近した際(②と)に察知したというのであるが、この距離も前記双方の速度から考えると実際には約一五メートル位あつたと思われるところ、この間は、被告人が時速二〇キロメートル、相手車両が三〇キロメートル、すなわち合計五〇キロメートル毎時で約一五メートルを進むのに要する時間ということになつて約一秒であり、被告人は相手発見後その程度の時間でその前記のような異常さに気付き、その時点でただちに急制動の措置をとつたものであつて、この経過には右に述べたところから非難すべきところはなく、したがつて、その時点以前に前記のような急制動措置等に出なかつたことをもつて危険回避義務を怠つた過失があるとすることもできないといわなければならない。
(三) さらに、被告人が現実に右危険を察知した際、(②において)急制動措置だけでなく、出来るかぎりの左転把の回避措置に出るべきではなかつたかという点も問題になるけれども、被告人は左転把したと弁解し、これを否定し去る証拠はなく(むしろ、検察官も公訴事実においてこれを認めている)、ただ、すでに至近距離にあつたため、転把の効果が十分あらわれる前に停止ないし衝突にいたつたものと認められるのであり、そもそもこのような事態において通常の運転者に、急制動措置の他に警笛吹鳴や急転把等いろいろと重複して回避措置を求めることは事後の机上論としてはともかく、実際にはきわめて困難であつて、最も基本的な急制動措置に主力をそそいだ被告人の処理をなお十分でないということはできない。(検察官も、左転把の措置は被告人の対向車発見直後になすべきものとして主張しており――この点は前記(二)のとおり容れられない――危険察知後のとるべき措置としては主張していない)
三、以上、みてきたように、被告人には本件のような異常な対向車との衝突をなお回避するためにつくすべき義務があり、かつそれを怠つたと認めることは困難であり、衝突時の状況が被告人車両は停止寸前か停止の瞬間であり、対向車がその前面やや右部分にほとんど直前まで気付かず約三〇キロ毎時の速度のまま激突していること、接触地点は本件道路の中央より被告人進路左側寄り約三〇センチメートルで相手運転車はその進路やや右側をまつたく前方注視を欠いて進行していたこと等の事実を総合してみるときは、本件事故はむしろ相手の原動機付自転車運転者が降雨中の走行のため前方注視を怠つて対向車(すなわち被告人車両)が進路前方に現われたことに気付かず、同車の制動、転把措置を有効に生かして自らも制動するとともに、左に進路を移し、無事離合できる余裕が客観的にはあつたにもかかわらず、右重大な注意義務懈怠の状態で進行してその機会を失したために発生させた、いわば自ら招いた事故というべきであつて、被告人に責任を負わせることはできない事案である。
以上、要するに、被告人の所為は罪とならないので、刑事訴訟法第三三六条により被告人に無罪の言渡をすべきものである。(佐野昭一)