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東京地方裁判所 昭和45年(行ウ)39号 判決 1971年5月12日

原告 河合種夫

被告 通商産業大臣 宮沢喜一

右指定代理人検事 野崎悦宏

<ほか三名>

主文

本件訴えを却下する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一当事者の求める裁判

(原告)

「被告が昭和四三年五月一日制定した、そろばん日本工業規格JIS、S六〇四八―一九六八のうち、7、品質(5)『玉の動きは安定したなめらかさであること。』のみでは無効であることを確認する。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決。

(被告)

一  本案前の答弁

主文と同旨の判決。

二  本案の答弁

「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする。」との判決。

第二原告主張の請求の原因

一  被告は昭和四三年五月一日そろばん日本工業規格JIS、S六〇四八―一九六八を制定し、その第7、項品質(5)において、「玉の動きは安定したなめらかさであること。」(以下、本件工業規格ともいう。)と定めた。

しかしながら、右工業規格は以下の理由により無効である。

(一)  本件工業規格は、工業標準化法(以下、法ともいう。)一条所定の工業標準制定の目的の一つである、鉱工業品の生産にあたり明確にすべき技術的事項を何ら定めていない。

すなわち、そろばんの生産にあたり、技術的に最も重要な部分は玉の動きおよび玉のすべり角度(そろばんを徐々に傾斜させた場合に自然に玉がすべり始めるときのその傾斜角度)であるが、本件工業規格は、「玉の動きは安定したなめらかさであること」という抽象的な表現をしているのみで、すべり角度を具体的に定めなかったのは、工業規格該当品については国家がその品質を保証したものであるとの国民一般の信頼感を損うものであり、工業製品の消費者を保護し、公共の福祉の増進に寄与せんとする法一条の趣旨を没却するものといわなければならない。

本件工業規格は、以上の重大な瑕疵を有することが客観的に明白であるから、無効といわなければならない。

(二)  被告は日本工業標準調査会(以下、調査会という。)の議決を経て本件工業規格を制定したのであるが(法一一条)、右調査会の議決には重大明白な瑕疵があるから、被告の制定した本件工業規格は、右瑕疵を承継したものであり、無効といわなければならない。

すなわち、右調査会そろばん専門委員会は、昭和四二年一一月二四日同委員会を開催し、昭和四三年二月下旬右議事録を右各専門委員あて送付した。右委員の一人であった原告は、議事録が事実と相違するので、委員会事務局にあて連絡し、その旨指摘したが、同事務局は何らの措置も講じなかった。その後、同年八月二日同事務局から原告にあて、「そろばんの日本工業規格制定に対する異議申立(回答)について」と題する書面を送ってきたので、原告は同月二〇日同事務局あて異議申立書を発送した。さらに、事務局は「訂正案可否伺い」と題する書面を送ってきたが、原告はこれに対し、反対の意見を表明しただけでなく、さらに要望書を送付し、議事録の内容が誤っていることを繰り返し指摘した。これに対し、事務局は、原告の前記異議申立てを却下し、原告の右要望書の趣旨を無視したのみならず、却って、前記委員会に出席していなかった委員を出席していたものとして記載するなどして、議事録を変造するに至った。

以上のような変造にかかる議事録を基礎としてなされた調査会の議決を経て、被告が制定した本件工業規格は、制定手続上重大明白な瑕疵があるといわなければならない。

二(一)  被告は、本件工業規格は法律上何ら強制力を有するものではないというが、いったん、工業標準が制定されれば、工業製品の製造者らは好むと好まざるとにかかわらず、工業標準に該当する製品の製造業者が利益をうけ、そうでない者が不利益をうけることは不可避であるから、いきおい製造者は当該工業標準に従わざるを得なくなるのであって、工業標準はこのような意味においてやはり強制力があるといわなければならない。

(二)  さらに、本件工業規格のごとき工業標準は、多数の粗悪なそろばん製造業者を保護するだけであり、真面目で優秀な製造業者の利益を奪うものにほかならない。殊に、そろばんに関する工業規格についていえば、玉の動きがなめらかで、かつ、玉のすべり角度二五度以上安定したそろばんの製造技術を有するのは業界では原告一人であるから、本件工業規格をこのような技術的内容のものに定めるならば、原告の製造するそろばんの受注は現在より遙かに増大し、原告のうべかりし利益は甚大となる筈である。

被告の制定した本件工業規格は、原告の右利益を剥奪するものであるから、原告は、本件工業規格の無効確認を求める法律上の利益を有するといわなければならない。

以上の次第で本件訴えは適法である。

第三被告の主張

(本案前の抗弁)

一  被告が制定した本件工業規格は、一般に使用されるそろばんの種類、材料、寸法、構造、品質などを定めたにすぎないものであって、右規格に従うか否かは関係者の自由意思に委ねられ、何ら強制力を有しないものである。

したがって、右工業規格の制度は、国民の具体的権利義務に何らの消長をきたすものではなく、抗告訴訟の対象となるような行政処分には該当しないものである。

二  日本工業規格の制定は、法一条に規定するとおり、国民全般の経済的利益を目的としているものであるが、この制定によって特定の者が反射的に事実上の利益、不利益を受けることが考えられる。そこで、法一三条二項は、かかる差別が生じることをなるべく避けるのが妥当であるとの見地に立ち、「工業標準の案がすべての実質的な利害関係を有する者の意向を反映し、且つ、その適用に当って同様な条件の下にある者に対して不当に差別を附するものではなく、適当であると認めるときは、これを工業標準として制定しなければならない。」と定めているのである。原告は、原告が主張するようなそろばんの規格が制定されれば、そろばんの規格該当品の製造業者は原告一人であるから、工業規格の尊重規定(法二六条)により、原告の製造するそろばんは現在より以上の受注があって、原告のうべかりし利益は甚大であった筈であると主張しているが、原告の主張する右の如き利益は、工業標準化法によって保護されているものではなく、むしろ、同法は、工業規格の制定によって特定の者が右の如き独占的利益を得ることを避けようとしているのである(法一三条二項)。

よって、原告は本件工業規格の無効確認を求める法律上の利益を有しないというべきである。

以上の次第で本件訴えは不適法である。

(本案についての認否および反論)

一 請求の原因一の事実のうち、被告が本件工業規格を制定したこと、調査会がそろばん専門委員会の議事録を原告にあて送付したこと、原告が、右議事録の内容について調査会事務局あて異議申立ないし要望書を送付し、事実と相異する旨の指摘をしたことは認めるが、その余の主張は争う。

二 そろばんの日本工業規格の内容に不当性はない。原告は、そろばんの工業規格の「玉の動き」については抽象的表現しかなされておらず、技術的事項を何ら定めていないと主張するが、そろばんの工業規格に原告の主張するような「玉の動き」について定めることは、現状では客観的な妥当性の裏付に乏しい。また、原告の主張するような工業規格を定めると、特定人の利益に直接結びつくおそれがあり、法一三条二項の趣旨に反し好ましくない。

理由

本件訴えは、被告のなした本件そろばんの工業規格の無効であることの確認を求めるものであるが、先ず、右工業規格の制定が行政事件訴訟法三条二項所定の「処分」であるかどうかについて検討されなければならない。

そこで、右の点について考察するに、被告の制定した本件そろばんの工業規格とは、一般に使用されるそろばんの種類、形状、材料、寸法、構造、品質等について全国的に統一又は単純化するための基準であって(法二条)、右基準は主務大臣である被告が日本工業標準調査会の議決を経たうえ、工業標準の案がすべての実質的な利害関係を有する者の意向を反映し、且つその適用に当って同様な条件の下にある者に対して不当に差別を附するものでなく、適当であると認めるときに制定されるのである(法一一条、一三条二項)。

そして、右工業規格の制定が、当該規格の対象となる鉱工業品の製造業者に対し、法律上その権利義務に影響を与えるのは、一般的にいえば、被告の指定にかかる品目の鉱工業品に右製品が日本工業規格に該当するものであることを示す特別な表示を附する被告の許可をうけた当該製品の製造業者が、被告から右表示の変更若しくは右指定商品の販売停止、又はその許可の取消し等の処分を受ける場合(法一九条一項、二三条)だけであって、右の場合のほかに鉱工業品の製造業者はその製造にかかる商品について日本工業規格が制定されたとしても、そのことによって、直ちにその権利義務に何らの消長を来すことがないというべきである。

もっとも、その製造にかかる商品について工業標準が制定された場合、その製造業者は、当該商品の製造又は販売上、工業標準の制定以前に比べ、ある程度の有利又は不利な影響をうけることは避けられないであろうが、右影響は、まさに工業標準化法一条の定める法の趣旨、目的が実現された事実上の結果であるにすぎず、特定業者の権利義務の変動とはなんらかかわりがないというべきである。

ところで、原告は、その製造にかかるそろばんについて、本件工業規格が、そろばんの玉の動きおよびすべり角度に関し、原告の主張する内容の規格が制定されなかったことにより甚大な経済的損害を蒙ったと主張するが、右損害が仮りに事実であるとしても、以上の説示のとおり、それは本件工業規格の制定そのものとは何の関係もないといわざるを得ない。

そして、行政事件訴訟法三条二項にいう「処分」とは国民の権利義務に対し法律上の影響を及ぼす行政庁の処分その他の公権力の行使をいうのであるから、原告の権利義務に法律上何らの影響力のない被告のなした本件工業規格の制定は、抗告訴訟の対象となる行政庁の処分ないしその他の公権力の行使と解することはできない。

よって、原告の本件訴えは不適法であるから、これを却下することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条を適用し、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 高津環 裁判官 小木曽競 海保寛)

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