東京地方裁判所 昭和47年(カ)5号 判決 1973年6月14日
再審申立人(東京地方裁判所昭和四六年(人)第四号人身保護請求事件の被拘束者)
Z
右特別代理人
相馬健司
再審被申立人(東京地方裁判所昭和四六年(人)第四号人身保護請求事件の請求者)
X1
再審被申立人(東京地方裁判所昭和四六年(人)第四号人身保護請求事件の請求者)
X2
右両名代理人
荒井新二
西嶋勝彦
再審被申立人(東京地方裁判所昭和四六年(人)第四号人身保護請求事件の拘束者)
Y1
再審被申立人(東京地方裁判所昭和四六年(人)第四号人身保護請求事件の拘束者)
Y2
右両名代理人
斉藤俊一
再審被申立人X1、同X2を請求者、再審申立人Zを被拘束者、再審被申立人Y1、同Y2を拘束者とする当裁判所昭和四六年(人)第四号人身保護請求事件(第二審最高裁判所昭和四六年(オ)第一一一一号)について、当裁判所が同年一一月一一日に言渡した判決に対し、再審申立人から再審被申立人ら四名を相手方とする再審の申立があつたので、当裁判所は、次のとおり判決する。
主文
一 当裁判所が当庁昭和四六年(人)第四号人身保護請求事件につき、同年一一月一一日に言渡した判決を取消す。
二 右事件における請求者(本件再審被申立人)X1および同X2の請求をいずれも棄却する。
三 右事件の手続費用および本件再審費用は、すべて請求者(本件再審被申立人)X1および同X2の負担とする。
事実
第一 当事者の求めた裁判
一 再審申立人
主文第一ないし第三項同旨の判決。
二 再審被申立人Y1、同Y2(以下Yらというときは右再審被申立人両名を指すものとする。)
再審申立人の本件再審請求を認める旨の判決。
三 再審被申立人X1、同X2(以下Xらというときは右両名を指すものとする。)
「再審申立人の本件再審請求をいずれも却下する。再審費用は、再審申立人の負担とする。」旨の判決。
第二 当事者の主張
一 再審請求について
(一) 再審申立人
1 人身保護請求事件判決とその確定
東京地方裁判所は、請求者を再審被申立人Xら、拘束者を再審被申立人Yら、被拘束者を再審申立人とする同裁判所昭和四六年(人)第四号人身保護請求事件(以下本件人身保護請求事件という。)について、昭和四六年一一月一一日請求者らの請求を認容し、「被拘束者を釈放し、請求者らに引渡す。手続費用は拘束者らの負担とする。」旨の判決(以下前第一審判決という。)を言渡した。これに対し、Yらは最高裁判所に上訴を申立てたが、同裁判所は、右申立による同庁昭和四六年(オ)第一一一一号事件において、翌昭和四七年二月一八日、上告棄却の判決を言渡し、これによつて、前第一審判決は確定した。
2 人身保護請求事件と再審請求
人身保護請求事件にも民事訴訟法所定の再審に関する規定が適用されるものと解すべきである。その理由は次のとおりである。
まず、人身保護規則(以下単に規則ということがある。)第四六条は「法による救済の請求に関しては、法及びこの規則に定めるものの外、その性質に反しない限り、民事訴訟の例による。」と定めている。ところで、人身保護法(以下単に法ということがある。)による救済請求のうち、子の引渡を目的とするものは、現に不当に奪われている被拘束者たる子の自由を回復させるという人身保護制度本来の趣旨を越えて、子の監護者を誰にするかを決定するための手続として判例上承認されている。そうすると、その引渡を目的とする人身保護請求事件に関する再審の請求は、民事訴訟法による一般の訴訟事件に関するそれとなんら異ならず、実質は上訴と同じく不服申立の一方法であるというべきである。よつて、子の引渡を目的とする人身保護請求事件については、規則第四六条の規定により、民事訴訟法所定の再審の規定が適用され、再審請求が許されるものと解すべきである。
3 再審申立人の当時者適格
人身保護法に基づく人身保護請求は請求者から拘束者に対してなされるが、右請求には被拘束者の氏名を明らかにすることを要する(法第五条第一号)ばかりでなく、憲法第三四条後段の規定の要請により、その取調は被拘束者およびその代理人の出席する公開の法廷において行い、被拘束者に代理人のないときは、裁判所は弁護士の中からこれを選任しなければならない(法第一四条第一、二項)し、また、被拘束者は、請求について自由な意思に基づいて攻撃または防禦の方法の提出、異議の申立、上訴の提起、請求の取下その他一切の訴訟行為をすることができ、その訴訟行為と請求者のそれとが牴触するときは、その牴触する範囲において後者はその効力を失う(規則第三四条)ものとされている。これらはすべて被拘束者が人身保護請求事件の実質上の当事者であることを前提としているものであつて、人身保護請求事件においては、被拘束者と請求者が異る場合であつても、被拘束者は実質的には当事者である。そして、このことは、被拘束者が意思能力者であると否とに関りがない。
右のとおりであるから、本件人身保護請求事件の被拘束者である再審申立人は、実質上、右事件の当事者であつて、前第一審判決の既判力を受けるものであるが、前第一審判決が存在することにより、再審申立人は再審被申立人Yらに監護されている現在の状態を破られる恐れがあり、前第一審判決に不服である。従つて、再審申立人は、本件再審請求の申立人としての当事者適格を有するものである。
4 再審事由
人身保護請求事件の審理が人身保護法に基づき審問期日を開いて行われるべき場合、審問期日における取調は、前述のとおり、法第一四条の規定に従い、被拘束者、拘束者、請求者およびその代理人の出席する公開の法廷で行われなければならず、また、被拘束者の代理人のないときは、裁判所は弁護士の中からこれを選任しなければならないこととなつている。しかるに、前第一審の東京地方裁判所は、昭和三七年四月一四日生れの未成年者である被拘束者すなわち再審申立人に弁護士である代理人を欠缺したままの状態で本件人身保護請求事件の審理を遂げ、前第一審判決を言渡した。したがつて、前第一審判決には、民事訴訟法第四二〇条第一項第三号所定の再審事由ないしはこれに準ずる再審事由が存するものといわなければならない。
5 よつて、再審申立人は、まず、前第一審判決の取消を求めるものである。
(二) 再審被申立人Yら
再審申立人の主張はすべて認める。なお、再審申立人の当事者適格について付陳すると、被拘束者に必ず弁護士たる代理人を付さなければならないこととなつている人身保護制度は、被拘束者の意思能力の有無とは無関係に、被拘束者が当事者適格を有することを前提としたものと考えられる。
(三) 再審被申立人Xら
再審申立人の主張のうち、
1の事実は認める。
2は争う。民事訴訟法所定の再審に関する規定は人身保護請求事件には適用されないものと解すべきである。よつて、本件再審の申立は許されない。
3は争う。再審申立人は、前第一審の当事者ではなかつた。また、前第一審においては、被拘束者の監護を請求者らと拘束者らのいずれにさせるべきかを審理したのであるが、前第一審の審問終結当時、被拘束者たる再審申立人は満九才六カ月であり、請求者らと拘束者らのいずれに監護されるのが適当であるかを判断をするについて未だ充分な意思能力がなかつたから、再審申立人は当事者といえなかつたものである。そうすると、再審申立人は前第一審判決に対して再審を申立てる適格を欠くものというべきである。
4のうち、再審申立人がその主張のとおりの未成年者であることおよび前第一審において被拘束者である再審申立人に弁護士である代理人が欠缺したままの状態で審理が行われ、前第一審判決が言渡されたことは認める。しかし、右の事実は、民事訴訟法第四二〇条第一項第三号所定の再審事由には該当しない。
二 本件人身保護請求について
(一) 再審被申立人Xら
別紙(一)のとおり陳述。
(二) 再審被申立人Yら
別紙(二)のとおり付加陳述したほか、前第一審判決の事実摘示中、拘束者らの主張として摘示されているところ(前第一審判決の別紙(三)、(四))と同一であるから、これを引用する。
(三) 再審申立人
別紙(三)のとおり陳述。
第三 疎明関係<略>
理由
第一本件再審請求についての判断
一再審申立人主張の第二の一の(一)の1の事実(本件人身保護請求事件についての前第一審判決とその確定)は、全当事者間に争いがない。
二人身保護請求事件の確定判決に対する再審請求の許否について
人身保護法は、下級裁判所のした人身保護請求事件の判決に対する不服申立の方法として、その第二一条により、最高裁判所に対する上訴を認めているが、確定した判決に対する不服申立の方法すなわち再審については、直接に規定するところがない。しかし、法第二三条に基づく規則第四六条は、「法による救済に関しては、法及びこの規則に定めるものの外、その性質に反しない限り、民事訴訟の例による。」旨規定しており、これによれば、人身保護請求手続については、法および規則に定めるものの外、この請求手続の特異な性質、わけてもその実質上の非訟事件的性質、非常例外的な人権保障法的性質、手続の要迅速性ないし立証における疎明資料主義に反しない限り、民事訴訟法の規定が包括的に準用されることになる。そこで人身保護請求手続に民事訴訟法の再審の規定を準用することが右手続の前叙のような特異性に反するか否かであるが、非訟事件の裁判であつても、これに再審事由にあたるような事由が付着している場合に、裁判確定後においても、これを手続上主張しうるとすることは、その裁判手続の性質に反するものではなく、また、法第二一条が前述のように下級裁判所のした人身保護請求事件の判決に対する上訴を認めていることとの均衡からすれば、人身保護請求事件の確定判決に対して再審を認めても未だ人身保護請求手続の非常例外的な人権保障法的性質やその要迅速性ないし立証における疎明資料主義に反するとは言い得ず、むしろ、これを認めるのが条理に叶い、正義に合致するものと考えられる。そうすると、規則第四六条の規定により、人身保護請求事件の確定判決に対しては、民事訴訟法所定の再審の規定の準用により、再審請求が許されるものといわなければならない。(もつとも人身保護請求事件の確定判決が請求者の請求を棄却したものである場合は、たとえ該判決に再審事由が付着していても、およそ人身保護請求事件の確定判決にはいわゆる既判力はないものと考えられる――けだしこれに既判力ありとすることは、人身保護請求手続の前叙のような特異な性質に反すること明らかだからである――から、該判決が遡及的に取消されなくとも、請求者は新たに人身保護請求を申立てることが可能であり、かつ、そのほうがより迅速に救済の目的を達しうるであろうから、該確定判決に対する再審請求は、不服申立の利益を欠くものとして不適法とされるであろう。)
よつて、人身保護請求事件には民事訴訟法所定の再審の規定は適用されず、本件再審請求は許されないとする再審被申立人Xらの主張は、失当であつて採用できない。
三再審申立人の当事者適格の有無について
人身保護請求手続は、形式上は、請求者を能動的当事者とし、拘束者を受動的当事者として行われるものであつて、自ら請求者となつていない被拘束者は、形式上は、右手続の当事者ではない。しかしながら、被拘束者は、自ら請求者となつていると否とを問わず、同法による救済を受ける本人であつて、人身保護請求手続は、常に被拘束者のために行われるものである。人身保護請求が被拘束者の自由に表示した意思に反してはこれをすることができない(規則第五条)とされるのは、そのためである。それ故、人身保護請求においては、常に被拘束者の氏名が明らかにされなければならず(法第五条第一号)、人身保護請求につき審問が行われる場合は、被拘束者は、請求者や拘束者と同様に裁判所から召喚を受け(法第一二条第一項)、審問期日における取調は、原則として、被拘束者、拘束者、請求者およびその代理人の出席する公開の法廷で行うものとされ(法第一四条第一項、規則第三〇条)、その場合、被拘束者には、必ず弁護士たる代理人が付せられるべきものとされている(法第一四条第一、二項、規則第三一条)。また、被拘束者は、請求について自由な意思に基づき、攻撃または防禦の方法の提出、異議の申立、上訴の提起、請求の取下、その他一切の訴訟行為をすることができ、被拘束者の訴訟行為と請求者の訴訟行為が牴触するときは、その牴触する範囲において請求者の訴訟行為はその効力を失うものとされている(規則第三四条第一、二項)。そして、請求が理由あるときは、判決をもつて被拘束者を直ちに釈放する旨等が命ぜられるが(法第一六条第三項、規則第三七条)、被拘束者は、当然にこの判決の形成的効力を受ける。
以上によつて見れば、被拘束者は、請求者になつていない場合であつても、実質上は人身保護請求手続の独立した当事者であることは明らかであり、たとえ、被拘束者が幼児ないし年少者であつて、請求者と拘束者のいずれに監護されるのが適当であるかを判断するについての充分な意思能力を有しない者であるとしても、被拘束者を人身保護請求手続の実質上の独立した当事者と認めるについて何の支障もないものといわなければならない。そうすると、再審申立人は、前第一審における被拘束者として実質上独立した当事者たる地位を有していたものであるから、前第一審判決に対して再審請求を申立てる当事者適格を有するものといわなければならない。
よつて、右と反対の前提に立つて、再審申立人は本件再審請求を申立てる当事者適格を欠くとする再審被申立人X1らの主張は、失当であつて採用できない。
なお、請求者でない被拘束者が、人身保護請求事件の判決に対して上訴もしくは再審の申立をなすときは、請求者および拘束者の双方を相手方としてこれをなすべきものと解されるから、本件人身保護請求事件の請求者らおよび拘束者らの双方を相手方としてなされた再審申立人の本件再審請求の申立は、この点においても適法である。
四再審申立人主張の再審事由の存否について
本件人身保護請求事件の前第一審の審問期日においては、終始被拘束者たる再審申立人に弁護士たる代理人が欠缺したまま取調が行われ、これに基づいて前第一審判決が言渡されたものであることは、全当事者間に争いがない。(なお、右事件記録である当裁判所昭和四六年(人)第四号事件記録によれば、前第一審においては、審問期日に被拘束者たる再審申立人を召喚した形跡も、拘束者たる再審申立人Yらに対していわゆる人身保護命令を発した形跡も、被拘束者たる再審申立人が審問期日に出頭した形跡もまつたくない。)ところで、再審申立人は、右事実は、民事訴訟法第四二〇条第一項第三号所定の再審事由もしくはこれに準ずる再審事由に該当する旨主張する。よつて案ずるに、民事訴訟法第四二〇条第一項第三号の規定は、人身保護請求事件の確定判決に対する再審においても、再審事由の一つとして準用になるものと解されるのであるが、前述のとおり、人身保護請求事件において審問期日を開いて取調が行われる場合には、被拘束者には必ず弁護士たる代理人が付せられるべきものとされているのであるから、人身保護請求事件の確定判決に対して、被拘束者が民事訴訟法第四二〇条第一項第三号の規定を準用して再審請求の申立をする場合には、右規定にいう「法定代理権、訴訟代理権……ノ欠缺アリタルトキ」という文言は、これを「弁護士タル代理人ノ代理権……ノ欠缺アリタルトキ」と読替えるのが相当であり、さらに、この中には、法律上被拘束者本人が自ら訴訟行為をすることができないため、この点よりしても人身保護請求手続の追行上弁護士たる代理人を必要とするにかかわらず、これがなかつた場合を含むものと解するを相当とする。ところで、被拘束者たる再審申立人が昭和三七年四月一四日生れの未成年者であることは、全当事者間に争いがないから、被拘束者たる再審申立人は、民事訴訟法第四九条の準用により、前第一審における本件人身保護請求事件の審問期日において自ら訴訟行為をすることはできず、弁護士たる代理人によつてのみを訴訟行為をすることができたものであつて、この点よりしても本件人身保護請求手続の追行上、弁護士たる代理人を必要としたものである。そうすると、本件人身保護請求事件の前第一審の審問期日において被拘束者たる再審申立人に弁護士たる代理人が付くことなしに取調が行われ、これに基づいて前第一審判決が言渡されたこと前判示のとおりとすると、それはまさに民事訴訟法第四二〇条第一項第三号の規定にいう「法定代理権、訴訟代理権……ノ欠缺アリタルトキ」の文言を前示のとおり読替えたところに該当するものといわなければならない。したがつて、前第一審判決には、民事訴訟法第四二〇条第一項第三号所定の再審事由に準ずる再審事由があるものと断じなければならない。
なお、人身保護請求事件の再審についても、民事訴訟法第四二四条、第四二五条の規定の準用があるものと解されるから、前段の再審事由を理由とする前第一審確定判決に対する再審請求の申立については申立期間の制限はない。
五以上のとおりであるから、再審申立人の本件再審請求は、理由がある。
第二本件人身保護請求についての判断
一<証拠によると>次の事実が疎明される。
(一) 当事者の身分関係等
再審被申立人X1(大正一〇年二月二二日生。以下X1ということがある。)と同X2(昭和七年五月二六日生。以下X2ということがある。)は、昭和三六年九月二日婚姻の届出をした夫婦であり、同年六月ころ以降、肩書住所地に同居し、美容院を営んでいるものである。再審被申立人Y1(明治四一年九月七日生。以下Y1ということがある。)はX1の長姉、同Y2(大正四年六月三日生。以下Y2ということがある。)は、その次姉であつて、いずれも婚姻の経験のない独身者で、肩書地において同居し、主にY1の出版事業の収入により生活しているものである。そして、再審申立人(以下Zということがある。)は、昭和三七年四月一七日、Xらの間に長男として生まれた唯一の子である(以上のうち、当事者の身分関係および居住関係は、全当事者間に争いがない。)。
(二) 昭和四六年三月一三日までのZの成長の経緯
1 Xらは、昭和三八年当時、X1の酒癖がもとで夫婦間が円満でなかつたうえ、X2が自宅で美容師として家業である美容院の仕事に従事していたため、Zの監護、養育に手が回りかね、同年一一月ころ、Y1らに未だ二才に満たないZの監護養育を委託した。
2 ZがY1らに引取られた当座、Xらは、毎週火曜日にZに会いに来たが、やがて、月一回位となり、次第に間遠になつた。
3 Xらは、かねてからZを東京都内で就学させようと考えており、Y1らと協議して東京都文京区内の幼稚園に入園させることとし、その入園資格を得るために昭和四一年二月Zの住民登録をY1方に移転し、ZをY1方より、昭和四二年四月から昭和四四年三月まで同区内の阿部幼稚園に通園させた。
4 続いて、Xらは、Zを文京区立誠之小学校に通学させることを希望してY1にその保護者となることを依頼し、昭和四四年四月から昭和四五年七月までY1らのもとからZを同小学校に通学させた。
5 YらのZに対する養育状況
Zが養育されたY1宅は、閑静な住宅地域にあり、Zの通学先である誠之小学校には徒歩約二分の場所にある。
Y1は、六年間英国に留学しロンドン大学で受けた教育の影響もあつて、何事も話合い納得のうえで行うことを常とし、Zに対して、正直で、正しく、道義心を涵養するようしつけ、Y2は、Zの日常の衣食、幼稚園等への送迎、病気の際の看護等において通常の実親に劣らぬ面倒を見た。Y1らは、協力して学校とも緊密な連携をとつてZの心身の健全な発達に努力してきた。
このため、Zは、Y1らを深く敬愛し、その監護、教育を素直に受け容れて、明るく成長し、学習にも積極的に取組んで成績も良かつた。
この間、Xらは、Zの養育を一切Y1らに任せ切りで、Zの幼稚園入園後の生活費、教育費は全く負担しなかつた。
6 ZのXらのもとへの復帰
Zは、毎年春、夏の休みをXらのもとで過ごすことにしていたので、昭和四五年八月一五日(当時小学校二年生)からXらのもとに行つていたところ、同月末ころ、突然X1から、Yらのもとに帰つてはいけないと命じられた。Zは、これに不満であつたが、従わないと叱責されると思い、やむなく服従した。
Y1は、同月三一日、親戚の吉田真を伴いX1方を訪れ、Zの今後の監護養育について話合うべく申入れたが、結論を得られないまま双方が自己の主張を繰返した末、激昂したX1が樫の棒でY1の頭部、顔面を殴打し、同女はこれに対して護身用の短刀を抜くなどのいさかいがあつて、話合ができなかつた。しかし、Y1は、間もなく、Zから、不満ではあるがXらのもとにとどまるという気持を知らされると、これを尊重し、Zの生活に不自由をかけないため、Y1宅にあるZの日用品や学用品をXらに引渡した。
7 XらのZに対する養育状況
Xらは、Zを引取つてからも、従前どおり、同人を誠之小学校まで遠路通学させていた。ところで、X2は美容院の仕事が多忙で、Zの身の廻りの世話を十分にすることができず、同人の体育着を洗濯してやらなかつたため、同人がこれを学校に持参できず、体育の授業に参加できないことが二回もあつた程だつた。X1は、美容院の客の送迎、毎日の食事用の買物等をしたほか、Zの学校の勉強を見てやつていた。しかし、X1は、Zが答を間違うと竹の棒や釣竿で同人の左前側頭部を軽く叩いたりした。
X2はこれを見ていても制止せず、かえつて笑つていることもあつた。このような時、Zは、X2が偽りの母親ではないかと思つたりした。また、Xらは、ZがY1らと接触することを嫌い、Zに対し、Y1らが「けちだ。」とか「すぐ死んでしまう。」などと言つてけなしたり、Zが下校後にY1宅に立寄つたのではないかといつも疑いをかけ、Zの心を傷つけた。このような生活が重ねられ、昭和四五年暮ころになると、Zは、X1から、それまでに前記のように何回も叩かれたことにより、ふだんでも偏頭痛を覚えるようになり(医師の診断によれば、病名は血管性頭痛である。この病気の原因は心因的な面が大きい場合がある。)、X1に対しては極度の恐怖心を抱き、X2に対しては、益々、偽りの母親ではないかと思うようになり、Xらに対する不信感と反感とを大きくした。
(三) ZのYらのもとへの復帰と前第一審判決の確定までの事情
1 Zは、昭和四六年三月一三日(土曜日)、Xらのもとから文京区内の小石川植物園における校外授業に参加した後の学校からの帰途、偏頭痛が起つたので午後一時前ころ、体を休めるためにY1宅を訪れたが、そのまま玄関で倒れてしまつた。Y1は、同日午後二時三〇分ころ、吉田真(医師)を介してその旨をXらに伝え、Zの措置については後で話合うよう申入れた。ところが、Y1は、数時間後に目覚めたZから、X1に叩かれる等の理由でXらのもとに帰りたくない旨訴えられたので、Zを自らのもとにとどめておくこととし、Xらからの照会の電話に対しては、吉田医師の診察を受けない限りZを動かすことができない旨伝えて、その引渡を拒絶した。Z自身も直接電話でXらに対し帰宅しない旨伝えた。
2 X1は、翌三月一四日夕、Zの様子を見にY1方を訪れたが、門が閉つていたため会えなかつた。その後、Xらは、昭和四六年三月、東京家庭裁判所に対し、親族間の紛争調整の調停を申立て(同庁昭和四六年(家)第一、五八八号事件)、他方、Y1は、同裁判所に対し、Xらを相手方として親権喪失審判の申立(同庁昭和四六年(家)第三、八五二号事件)をなした。
3 Zは登校するとXらに連れ戻されることを恐れていたので、Yらは、同年三月一五日から同年五月一七日までの間Zを休学させていたが、前記裁判所調停委員会は、同月一七日、当事者に対し(1)YらはZを直ちに誠之小学校に通学させること、(2)Xらは調停期日間はZの通学状況を知るため同小学校を訪れたり、電話したりしないこと、を内容とする調停前の仮の処分をなした。これにより、Zは、同年五月一八日から通学し、友人とも往来するようになつた。
4 しかるに、X1は、前記事件の調停が進渉しないのに業を煮やし、同年七月八日、プール帰りのZを待機させてあつた自動車内に引きずり込み、連行しようとしたが、Zは「人殺し。」「人さらい。」などと泣き叫びながら必死に抵抗し、自動車から飛び出して逃れた。そのため、Zは同日からしばらくの間、X1に連れ戻されることを恐れる余り、一歩も外出しなくなり、通学にはY2が付添い、帰宅後は閉じられた門の内で一人遊ぶので、Y1は隔日にZを伴つて外出していた状態であつた。
5 Xらは、昭和四六年八月二六日、当裁判所に対し、人身保護法に基き、Yらを拘束者、Zを被拘束者としてZの釈放と同人を請求者に引渡す旨の裁判を求める人身保護請求をなし、これによる当庁同年(人)第四号人身保護請求事件において、当裁判所は、同年一一月一一日、Xらの請求を認容する旨の判決(前第一審判決)を言渡した。これに対し、Yらは、最高裁判所に上訴を申立てたが、最高裁判所は右申立による同庁昭和四六年(オ)第一一一一号事件において、翌昭和四七年二月一八日、上告棄却の判決の言渡をし、これによつて、前第一審判決が確定した(本項の事実は全当事者間に争いがない)。
(四) 前第一審判決確定後の事情
1 Zの引渡の行われるまでの状況
前第一審判決が確定すると、Zは、「神も仏もないものか。」と絶望し、Xらのもとに連れ戻される不安に悩まされたが、絶対に戻りたくないという同人の気持に変りはなかつた。そこで、Yらは、Xらとの間で、しばらく時の経過を待つてXらに対するZの気持を柔げてからXのもとに引渡す旨の話合をしていた。
X2は、昭和四七年三月二日、誠之小学校に来てZとの面会を求めた。Zは、担任の吉田教諭立会の下でこれに応じ、その際、X2に対し、Xらのもとに帰る意思のないことをはつきり言明した。また、同月七日、X2が再度Zを連れに右小学校を訪れてきたので、Zは、右吉田教諭に同行してもらつてX2ととももにY1宅まで行き、門前にいるX2に家の中にはいつて話をするよう言うと、X2は、思うようにZを連れて帰れないことに腹を立て、「おばちやんはすぐ死ぬ」等とYらのことをさんざんののしつたあげく立去つた。このようなことは、Xらのもとに帰りたくないというZの気持を益々強めた。しかし、同月二二日、Xらの強い希望があり、Yらは、Xらとの間で、弁護士であるそれぞれの代理人を通じ、前第一審判決の趣旨にしたがい、Zの引渡をすることとし、その日を同月二五日、場所を東京第一弁護士会々館と定めた。
2 Zの引渡の際の状況等
Zは、Xらに対し、自分がYらのもとにとどまる決意の固いことを訴えて、何とか自分の引取を断念してもらうつもりで、三月二五日、Yらとともに、自分の引渡の場所とされた東京第一弁護士会々館に臨んだ。ところが、その際、Xらは、Zが自分の決意を訴えるべく発言を求めると、これを拒絶して、同人を連行し始めた。Zは、Xらのもとに行きたくない一心から東京第一弁護士会々館入口の階段を一気に飛び降り、日比谷公園内に逃げ込み、木蔭等に身を隠した。約一時間後に、Y1は、ようやくのことで、Zを発見したが、Zが死んでもXらのもとに帰らないというので、止むなく同人をY1宅に連れ戻つた。
その後、Zは、同年四月一八日、Xらの代理人西嶋勝彦弁護士の説得を受けたが、やはり前記の意思に変りのないことを表明し、同年七月五日、X2がY1宅に突然やつてきてZを連れて行こうとした際にも、手洗いの中に逃げ込んで逃れた。
3 XらがZの引渡を受けるためになした行為等
Xらは、同年三月七日、前記裁判で勝訴した地位を利用して、Zの住民登録上の住所および学令簿の学籍を一方的にXらのもとに移した。そのため、Zは、同年四月一一日から翌五月一二日までの間誠之小学校に登校停止の処置を受け、多大の衝撃を受けた。(もつとも、文京区および文京区教育委員会は、後にこれを是正する措置をとつた。)
また、Xらは、同年三月末ころ、Yらを人身保護法第二六条違反を理由として東京地方検察庁に告訴した。同庁は、その後の捜査の結果、Yらを中止処分とし、本件再審の申立の帰趨を見守つている現状である。
さらに、Xらは、同年八月一九日、東京地方裁判所に対し、Yらを相手方として前第一審判決の間接強制による執行の申立をし、Zの引渡の履行につき遅延一日につき五〇万円の割合の損害金の支払を命ずるよう求めたが、右申立は、同年一二月二〇日却下された。
4 Zの現在の生活状況と知能
Zは、以上の間、いつXらが連れに来るかも知れないという憂慮の余り、勉強にも専心できないような不安の毎日を送つていたが、昭和四七年九月ころ、Yらが前第一審判決に対して本件再審請求の申立をするための準備を始めてからは、ようやく本来の落着きをとり戻し、勉強にも励んで成績が向上し、放課後は恵まれた多くの友人と遊んだり、水泳、剣道などのスポーツもして健全な生活を送るようになつている。
Zの知能は、昭和四八年三月二四日に実施した検査結果によれば、同年令の子供の知能毅階の「中の上」の部類に属する。Zのこれまでの小学校における学業成績に照らしても、右検査結果は是認できる。
5 現在におけるZの意思とYらのZに対する態度
Xらのもとに戻ることを拒み、YらのもとにとどまつていたいというZの意思は、益々強固であり、少くとも当分の間は、それが強まることはあつても、弱まることはありそうにない。
YらのZに対する養育態度は従前と異ならない。そして、Yらは、Xらのもとに帰りたくないというZの意思を尊重し、今いやがるZを無理矢理にXらのもとで生活させても、Zの健全な育成は望めないと考え、Zが、将来、Xらのもとに帰ることを希望するようになつた時は、いつでもこれに協力するつもりで、Zの成長を見守つている。
以上のように認められる。右認定に反する前第一審における請求者X2および再審における請求者X1各本人の各供述部分は、前掲その余の証拠に照らしてたやすく採用できず、他に右認定を左右するに足る疎明資料はない。
二Zの意思能力について
以上の判示で明らかとおり、Zは現在満一一才の少年であること、Zの心身は健全に成長しており、その知能も同年令の子供の「中の上」の段階に属すること、その他前判示のZの現在までの生活経験ないし生活態度等に照らすと、Zは、現在事理の是非を弁識するに足りる能力を充分に有している少年であると認められる。
三Zの自由意思について
そこで、Zが、Yらのもとに拘束されているのか、それともその自由意思でとどまつているのかについて判断するに、前認定したところによれば、Zは、満二才にならないうちから満八才になるまで、Yらのもとで、衣食、教育、友人関係、その他全般に亘つて優れた環境下でYらの愛情に包まれて養育されていたところ、満八才のとき、突如として、X1の命ずるところにより、これまでの環境と相当に異なるXらのもとにとどまることにより、これを不満に感じていたうえに、同人らと生活を重ねるうち、X1がZの気持をあまり配慮することなく、多少きびしいしつけ方をしたことや、X2も美容院の仕事が多忙でZの身の回りの世話を充分にできなかつたことなどから、結局、Zは、Xらの親としての愛情を感じとる前に、Xらに対して、恐怖感や反感を抱くようになつてしまつたのである。そして、このことが主因となつて、Zは、Xらに監護、養育されることを嫌い、Yらのもとでの生活を選ぶに至つたのであるが、その後、XらがZを連れ戻そうとしてなした前判示の一連の所為はさらにZの右の気持を強めてきているのである。XらのZに対する親としての愛情は充分に推察できるところであり、Zとしても、現在においては、それを全く理解できないものとは思われないが、Zの成長過程における前認定のような経緯ないし事情のもとにおいては、ZがXらのもとで監護、養育されるよりも、Yらのもとで監護、養育されたいと考えることは自然な心情に基づくものと理解されるのであつて、何ら異常なものとは思われない。そして、Zが現在このように思いつめている状態のままでXらの下に復帰してみても、その心身の健全な成長はおぼつかないものとも考えられる。また、前認定のとおり、Yらは、昭和四六年三月一三日以来、Xらのもとに絶対に帰らないというZにせがまれて同人を養育しているものであり、前第一審判決確定後も、ZのXらに対する気持を柔げたうえ同人らにZを引渡そうとする努力をしており、現在も、ZがXらのもとに帰ることを希望すれば、いつでもこれに協力するつもりでいるのである。以上からすれば、Zは、その自由な意思に基づいて、Yらのもとにとどまつて、その監護、養育を受けているものであると認めることができる。YらがZを実力で自己支配の下にとどめていると認められるような疎明資料は見当らない。
そうすると、YらがZの身体を拘束しているとの疎明はないことに帰する。
第三結論
よつて、請求者らすなわち再審被申立人Xらの本件人身保護請求を認容した前第一審判決は失当であるから、これを取消し、人身保護法第一六条第一項により右請求をいずれも棄却することにする。なお、本件について当裁判所は、人身保護命令を発していないので、被拘束者すなわち再審申立人Zを拘束者すなわち再審被申立人Yらに引渡す旨の裁判はしないことにする。本件人身保護請求事件の手続費用および本件再審費用の負担については、同法第一七条、規則第四六条、民事訴訟法第九五条、第九三条第一項を適用する。
よつて主文のとおり判決する。
(宮崎富哉 和田日出光 鈴木勝利)
別紙(一)
一 当事者
前第一審における請求者であるXらは、昭和三六年九月二日婚姻届をなし、千葉県船橋市習志野台の現住所地で婚姻生活を継続するうち、昭和三七年四月一七日両名の間に、唯一の子である前第一審における被拘束者すなわち再審申立人(以下Zという。)が出生した。
ところで、X1は、亡上野正夫、はるの間に生まれた二男(大正一〇年二月二二日生)であるが、両名の間には他にX1の兄姉として、長男上野吉夫(明治四五年三月二七日生)長女前第一審における拘束者Y1(明治四一年九月七日生。以下Y1という。)、次Y2、(大正四年六月三日生。以下Y2という。)がおり、右三名は現在に至るまで各未婚者であり、文京区西片町の現住所に同居しているが、一家の経済は専らY1の出版事業収入によつて維持されている。
二 拘束の経緯
Yらは、子供がなかつたために、前記四人兄姉にもうけられた唯一の子であるZを異常に可愛がり、Xらの養育方法に、ことあるごとに干渉し、種々難癖をつけることが多かつた。
殊にY1は、戦前ロンドン大学に留学したことを誇示しXらが無学であるとして、Zの教育を専断する傾向が特に強かつた。
Xらは、Zを幼稚園に入園させるつもりがなかつたが、Yらは、「子供の教育は自分らに任せろ。」と主張して、Zを一方的に自己のもとに連れ出し同居させ、付近の私立阿部幼稚園に入園させてしまつた。そのため、Xらは、従前、経済的にも世話になつた未婚の姉からの強い要求に屈して、やむなく毎週、Yらのもとに赴きZと会い親子の交流をはかつた。
しかるに、被拘束者の小学校入学に際して、Xらは、ZをYらのもとから引取り自宅付近の船橋市立高根台第二小学校に入学させる意向であつたところ、Yらは、「田舎の小学校では十分な教育が受けられない。」「優秀な誠之(小学校)に通学させなくてはダメだ。」、「幼稚園のときの友達から引き離すのはかわいそうだ。」等の口実を設けて、親権者であるXらの意向を無視して自ら保護者となり、一方的に付近の区立誠之小学校への入学手続を済ませてしまつた。
Xらは、次善の策としてZの自宅からの通学を再三に亘つて強く申入れたが、Yらは、殆どこれを歯牙にもかけず、依然としてZを自己のもとにおき続けた。Zは学校休みの長期休暇には勿論のこと、殆ど毎週Xらのもとに帰り、真実の親らしい愛情につつまれ、また、XらもY1方を訪れるなど親子水いらずの時を多くつくつた。
昭和四五年の夏、Zは請求者らのもとで夏休みを過ごしたが、このころから後記のとおりの性格形成がみられたためXらは第二学期から自己の手元において養育させ、付近の小学校に通わせようとした。しかるに、Y1は、越境入学の便宜上保護者になつたにすぎなかつたが、これを楯に転校手続に一切協力しないことを表明し、かつ同年八月三一日には短刀を懐に忍ばせて、Zの連れ戻しに赴き、Xらが強く反対するや逆上し、右短刀を以てXらの腕に切りつけるなどの傷害沙汰に及んだ。その後、Y1は被拘束者の連れだしを一応諦めたものの、転校手続に協力しないため、Xらは、やむなくZを自己のもとから遠路右誠之小学校に通学させていた。
そして、昭和四六年三月一三日、Y1は「Zが課外授業中、昏倒したから自宅で看病する。」と称して、Zを拉致しYらがZとの面会を求めてもこれを頑に拒否しZを自宅の家に閉じこめ、門扉に施錠し殆ど戸外にださず、遂には同年四月、新学期に入つても、付近の誠之小学校への通学もさせず、Xらの強い要望によつて同年五月一七日に至つて、ようやく通学させるまで、Zを長期にわたつて休学させた。
現在、Zは、門扉を施錠されたYらのもとで、相かわらず戸外の遊びも禁止された状態でいわば幽閉されている。
三 拘束の不当性、違法性
Yらが、何ら親権者でもなく監護権を有しないにもかかわらず、独断的にZの教育環境がよいという口実で、Zを実力で奪いとり、排他的にこれを養育しようとするのは全く不当である。
Xらは、少くとも平均以上の教育程度と親らしい愛情を有する極く普通の夫婦であり、Zの監護、教育に何ら欠けるところはない。Xらは美容院を経営しているが、客層も固定し経済的に安定した生活を営んでいる。これに対して、Yらの環境は、アルコール中毒で定職もなく殆ど無気力な独身者吉夫(現在六〇才)の他に初老のしかも結婚未経験女性に通弊の高慢なY1らによつて形成されている。この三名は、常に喧嘩を絶やさず、また殆どまともな近所づきあいもしないで、従来から周囲の住人から異様な家族としてみられている。
Yらの性格および環境は幼児の身心の発達に極めて劣悪である。殊にY1は偏執的、自己中心的、さらには虚言を平気で弄するなど、監護者の資格は全くない。
環境にいたつては、犬猫を畳の上で飼育するなど、常人の理解を越えるものであり、ためにZは動物性アレルギー鼻炎にかかり医師の治療を受けており、最近では飼育数も五匹を数える等憂慮すべき状態にある。
しかも、Yらはすでに老齢であり、現在に適応した社会常識も著しく欠いており、この一事をもつてしても監護者としてふさわしくないことは自明である。
案の定、このような閉鎖的な環境で結婚も育児の経験のない三名の老人のもとで生育するZは、従来の古い友達も殆どなくなつて、付近には遊び友達はなく常に幽閉された門扉の陰から戸外を垣間見て、戸外で楽しく遊ぶ子供達を羨ましそうにながめている有様である。そしてYらの性格の影響を受けて、徐々に子供らしい純朴さ明朗さを失い、陰うつな暗い感じで猜疑心の目立つ子供となつている。
また、Yらの吹きこみで付近の者に「両親に虐待される。」と演技十分に泣きついたり、実親であるX1に対して「人殺し。」との悪口雑言を浴びせる始末である。
調停前の仮の処分として、Zの通学とXらのZに対する面会禁止がなされているが、これはあくまでも調停成立を前提としてYらが承諾したにすぎず、この状態を固定させることはできない。
その後、X1がZを自宅に連れ戻そうとしたのも、遅々として進まぬ調停に失望し、かつ本手続の存在を知らずになしたものであり、子を一日も早く引取りたいという親の切なる気持からである。
四、結論
このようにみてくれば、Yらは、Xらの意思に全く反して適法な手続を履践することなく、Xらの親権に服するZを排他的に監護しているものであつて、これが著しく不当な拘束であることは明瞭である。そして、Zを一刻も早く悪性格の定着しないうちに、現在のY1らのもとから実の両親であるXらのもとに移して監護、養育させる方がZ本人のため、より幸福な結果をもたらすみちであることもまた明瞭である。
別紙(二)
一 Xらに対するZの評価
昭和四五年八月末、Zは、急に親許に引取られるようになつたが、同人は、「父親が寝たり起きたりしているのを見るのも嫌いなら、母親からどなりつけられるのを聞くのも嫌だ。友達の親達と違う。」と慨歎している。Zがその生活環境に融合出来なかつた原因は生活環境自体にあつたと推定される。
二 Yらのもとに復帰してからのZの生活態度
Zは、昭和四六年三月にY1方へ来た当初は、返事をするときは顔色を窺つて直答を避け、いつXらが連れ戻しに来るかとおびえて門外に出ず、家の中でも怖しくて一人ではいられない有様であつた。門の扉の鍵はごく普通のユニロックと呼ばれている種類のもので、内側からは子供でも容易に開閉出来たのでZ自身丹念に鍵をかけていた。
その後、判決、引渡し、学齢簿からの除籍等があり、不安と心配、苦悩の連続であつたから、子供ながら悶々とし、無口となり、食慾も減退、顔色も優れず、意気消沈して、両親との生活に話しが及ぶと、すぐに涙を流す有様であつた。
そのころに比べると今は生れかわつたように元気になり、安定した生活がここしばらく続き、発育も目立つて良好である。
三 XらのZに対する強引な行為
Xは、昭和四六年七月八日、誠之小学校に無断で三年六組の教室に潜入し、子供らが学校のプールから帰つて来ると、Zをつかまえて、「母親が交通事故で入院したからすぐ帰れ。」と命じ、Zが「先生に断らなくては帰れない。」と言うと肩を掴み、腕をねじあげて、教室から引きづり出し、裏門の先に停めてあつた自家用車に押し込んだ。Zは必死に抵抗し、「人殺し。」と連呼し、動き出した車のドアーを開けて、とび降り、Y1宅に逃げ帰った。
以前、Y1宅に暮していた八年間(昭和三八年から同四五年まで)Zの両親に対する態度は多少他人行儀なところもあつたが、極く普通であつたから、父親に対する恐怖心、母親に対する不信感は、その後、Zが両親の許で暮すようになつた七か月間のZ自身の体験に起因するものであることは至つて明白である。父親の理由のない暴力行使(竹の棒や釣竿で頭部を殴打するなど)や母親の無関心、育児怠慢(体育着を洗つてやらないため、Zは三週間も体育運動に参加できず、見学していた事実等)がその主な原因であることもまた明白である。
四 Zの引渡の際の状況
確定した前第一審判決の趣旨にしたがい、昭和四七年三月二五日に第一東京弁護士会会館でZの引渡が行われたが、その際の状況は次のとおりである。当時、Zは、「死んでも親のところへ帰りたくない。」と繰返し言つていたから、Yらは、引渡しが困難になることを心配し、事前に、阿比留弁護士を介し先方両親とその代理人に「子供の言い分も聞いてやり、ある程度納得させた上で連れて行くよう。そのためには私共もできるだけの努力をする。」旨を申し入れた。また、Zには、「怖がらずに親達とよく話し合うように。そうすれば、親の許に帰つてからも多少なりとも希望を容れてもらえるだろうから。」とよく言い聞かせ、漸く納得させて引渡の場に臨んだ。
ZとYらは定刻より一五分程早く引渡の場に着き部屋で待つていた。阿比留弁護士が父親が暴力を振うかも知れぬと懸念し、斉藤弁護士に立会いを依頼されてあつたので斉藤弁護士も同席した。
Xらと西嶋弁護士は三〇分程も遅れて到着、席につくや否や西嶋弁護士が「通信簿はどこだ。」と言い、Zが通信簿を持つて立ち上がると、手を叩かんばかりにこれを引つたくり父親に渡した。余りの事にZはもう涙ぐみ唇を噛み、かろうじて泣くのを堪えている様子であつた。次に、Y1が、「子供の引取ですからどうぞ円満穏便にやつて下さい。」といい、Zが立ち上つて、「僕にも言わせて……」と言いかけると、西嶋弁護士が、「この段階でその必要がありますか。え、阿比留さん。」と大声で言つて、「終了だ。もう終了した。」と連呼、宣言して立ち上ると、Xらを促し、席を立つて出口に向つた。余りにも唐突な結末にYらはなすすべを知らず、唖然として口もきけぬまま、押されて皆一緒に狭い扉口から部屋を出た。Zは顔面蒼白、頬を引きつらせ、ぼろぼろ涙を流しながら、唇を噛み懸命に泣くのを堪えている模様であつた。一同が玄関先に着いたころ、Zが日比谷公園に逃げ出した。その後一時間後に、Y1は、日比谷公園でZを見つけた。Y1は、Zが興奮し怖がつて家に帰りたがらないので、夕食をさせ、それからY1宅に連れ戻つた。
以上がZの引渡に関する真相で、引渡の場でも、引渡し後も、YらはZと言葉を交わす機会とて無かつたから、YらがZを思いとどまらせたリ、逃亡させた事実は全くない。
五 前第一審判決確定後のXらの行為とZの意思
Xらは、昭和四七年三月七日にZの住民登録を移動しさらに、正当な手続を取らず、Zの通学している誠之小学校にも無断で、文京区役所の学齢簿からZを除籍させた。XらのなしたZの除籍処分は不当な手段によるもので、このため、Zは、昭和四七年四月一二日登校停止を命ぜられ同年五月一五日まで通学できず、甚大な精神的被害を受けた。
なお、文京区役所が実態調査を行い、正当な手続を踏んだ上、Zの住民登録を職権記載したので、学籍も復帰し、Zは引き続き誠之小学校に通学している。
また、昭和四七年四月一八日西嶋弁護士がZと会見し二時間余に亘つて親もとに帰るよう説得したが、その際、Zは絶対に親もとに帰らないと主張した。
昭和四七年三月二日に、X2は荒井弁護士を同伴して、誠之小学校へ来たが、その際にもZは、「絶対に帰りたくない」と言つて、他には一言も語らず、黙つて母親の説得を聞いていたものである。
前第一審判決確定後に行われた荒井(Xらの代理人)、久米(当時Yらの代理人)両弁護士の話し合では、母親X2とZがたびたび会つて話合い子供を馴染ませた上で、春休みには親もとにも泊りに行けるようにし、納得させて引取るということであつたから、Yらは、Zのためにも喜ばしいことと思い、できるだけ協力をする心算でいた。ところが、X2がZの担任教諭とともにZを伴つてY1宅に来たとき、Y2はZにX2を座敷に招じて話すよういい、ZもX2に家にはいるよう勧めたが、X2はこれを拒絶し、是が非でも一緒に来いと主張し、主張がきかれないとわかると、門前で、大声で、Yらのことを悪口雑言し、最後にすごい剣幕で、「覚えていなさい。」とZに捨台詞を浴せて、帰つて行つた。X2がZに会いに来たのは前後二回、三月二日と七日だけで、その後三月中旬に突如Zの引渡しの日について西嶋弁護士から申し入れがあつた。このような事情であるから、話合を有効に進められなかつた責任はX2にある。
六 Yらの意見
Zは本年四月一七日で満一一才となり、これから心身の発育上、最も重要な年ごろとなるので、Xらのもとで極度の不安感に圧迫され、恐怖しながら生活するのでは、とても健全な心身の育成を期待することはできない。しがつて本人の意志を尊重し、成行に任せて、将来に解決を求めることが最善の処置と考える。
Yらは、親子間の円満な解決を願つているので、Z自身に親もとに帰りたいという気が起これば、帰ることに何らの異議もない。
別紙(三)
第一 Zの生育事情
一 出生時の家庭の状況とYらのもとで養育されるにいたつた事情
1 Zは、昭和三七年四月一七日、Xらの間に長男として出生した。
2 X1は、Y1の経済的援助を受け、昭和三六年六月ころ現住所に美容院「小川家美容室」を開設し、再審被申立人X2(以下X2という。)が美容師としてもつぱらその業務にあたり、このため仕事に追われてZの面倒を見る余裕がなかつた。
3 やがて美容院の営業が軌道に乗ると、X2と、同女に依存して他になんの仕事をもたないX1との力関係が逆転し始め、X2はX1の飲酒・女関係をなじつて夫婦喧嘩がたえず、同人はその不満の流通口として乳飲み子のZにあたりちらし、当時Zは、自分の前に人が立つと反射的に手で自分の身体をかばうかつこうをするほどであつた。
4 X2は、Zの前で、X1とつかみあいの夫婦喧嘩をくり返し、Zを放置して家出することもあり、昭和三八年一一月YらはXより、また夫婦喧嘩がはじまつたのでZを預つてほしいと依頼され、これにより再審被申立人Y2(以下Y2という。)がZを引取りに行き、以来同人はYらのもとで養育されるに至つた。
二 Yらの養育以後におけるXらとZとの接触状況
1 ZがYらに引取られた当座、Xらは毎週火曜日(美容院休業日)Zに会いにきたが、やがてそれも月一回くらいになり、同人が病気になつてこの旨連絡しても、Xらは見舞にもこなくなつた。
2 そのころ、Y2がZをXらのもとにつれて行くと、夕方近くになるとZは、早く帰ろうと言い出し、Y2をして、Zは誰の子供か、と嘆かせたこともあつた。
3 Xらは、かねてよりZを東京の学校に就学させたい希望で、そのために必要な同人の住民登録を昭和四一年二月一〇日Y1らのもとに移し、これによりZは同四二年四月阿部幼稚園に入園、同四四年四月文京区立誠之小学校に進学した。
4 このころZは幼稚園や小学校の春・夏の長期休暇を利用してXらのもとで休暇の一部を過ごす例であつたが、その殆どの日X2は仕事から手を放せず、X1はZをつれて近所の酒屋に行き、X2にかくれて飲酒し、このことでよく同女に難詰されていた。
5 昭和四四年春ころ、Y2はYらに対し、X1の女関係のことで意見してくれるよう頼みこみ、以来同人はYらを敬遠して顔を見せることさえしなくなつたのである。
三 Yらの養育状況
1 Zが養育されたY1宅は、東大間近の文教地区である西片町の閑静な住宅地域にあり、Zの通学先である誠之小学校には徒歩二分である。
2 Y1は、昭和二〇年以来独力で「日本外事協会」を経営して英文綜合雑誌「コンテンボラリージャパン」その他を編集出版してきた。
3 Y1は、六年間英国に留学し、ロンドン大学で受けた教育の影響もあつて、何事も話し合い、納得のうえで行うことを常とし、Zに対して、正直で、正しく、道義心を涵養するようしつけ、Y2は家庭をまもつてZの日常の衣食生活、幼稚園等への送迎、病気の際の看護等に実親も及ばぬ面倒を見、特に宗教心などZの情操面についても細心の配慮をして、右両名相協力し、学校と緊密な連携をとつてZの健全な身心の発達をなしとげてきた。
4 この間、XらはZのいつさいをYらに任せ放しで、Zが病気になつても見舞にもこず、医療費のみならず生活費・学校教育費等もまつたく負担しなかつたばかりか、負担する旨申出たことすらなかつた。
5 このためZがXらに対して、親らしいことはしてくれなかつたという感情を抱くにいたつたのは自然の成行であり、他方Yらを深く敬愛し、その監護教育を素直に受け容れて明るくのびのびと成長し、学習には積極的に取組んで成績もよく、特に道徳性にすぐれて、自ら言葉や行いを正しくし、よいわるいをはつきり言える好ましい人格になつた。
四 ZがXらのもとで生活するにいたつた事情
1 昭和四五年五月ころXらはそろつてY1宅を訪れ美容院の支店を開設したいので、その資金を援助してほしい旨申入れたが、Y2がこれを拒むや、立腹して帰つていつた。
2 同年八月一五日、Z(当時八才)はいつものとおり夏休みを過ごすためXらの許に行つたが、同月末近いころY1とXとの間にZの送迎について感情上の齟齬が生じ、これに反発したXらは突然Zに対し、Yらのもとに帰つてはいけないと一方的に厳命し、X2は電話でY1に、ZがYらのもとに帰りたくないと言つて泣いているとまつたく事実に反することを言うので、Zは不満だつたが、父の言葉だつたので服従することにした。
3 Y1はZの意思を確認し、かつZの処遇についてXらと協議するためX1宅を訪れたが、同人はZを外に出したうえ、Y1に対して一方的な暴力を振つたため、Y1も、防衛行為に出てまつたく話合ができず、やむなくY1はX1宅を辞去した。
4 その際Y1は、路上でたまたまZと会い、「おばさんといつしよに帰る?。」と言つてZの意思を尋ねたところ、同人は「パパに叱られるから行かない。」と答えたので、Y1はそのまま去つたのである。
5 YらはXらの一方的かつ背信的な行為を許し難かつたが、XらのもとにとどまるというZの意思を尊重し、同人の新しい生活に不自由をかけないため、内田真を介してXらに、Y1宅にあるZの日用品や学用品をとりにくるように申入れた。
第二 ZがY1らのもとに復帰した事情
一 Xらのもとでの生活の実情
1 Xらのもとでの生活は、X2は美容院の仕事にかかりきりで、これを手伝うX1とは主従関係にあり、両者間で言い争いがたえず、X1は勝気で強情なX2から怒鳴られることもたびたびであつた。X2は多忙で疲れ、Zの身の回りを世話しきれず、同人の体育着を洗濯してやらなかつたため、同人はこれを持参できず、体育の授業に参加できないこともあつた。
2 X1は美容院の客の送迎、毎日の食事のための買物等をし、この外Zの学校の勉強を見たが、その際同人が答を一つ間違うと竹の棒や釣竿で同人の左前側頭部を殴り、X2はこれを見ていても、制止もせず、かえつて嗤つていることもあつたので、ZはX1に対して恐怖心を、X2に対しては子供心にも「なさけない母親だ。」と痛感し、このため母子の間隙は回復困難な断絶にまで変つていつた。
3 XらはZに対し、Y1を「けちだ。」「すぐ死んでしまう。」と言つてけなし、X2はZがY1宅に立寄つたのではないかといつも疑いをかけ、Zが学校で給食のない土曜日Y1宅に寸時立寄ると、そのことでZを叱責し、殴打を加えた。
4 他方Yらは、Zが立寄つた際、同人がX1から暴行を加えられる旨訴えても、その都度我慢するようにと言つてZを励ましていた。
5 しかし、X1の継続的暴行によりZは同年暮頃から偏頭痛を覚えるようになり、他方同人の日常の世話をせず、右暴行から護つてもくれず、その外嘘言や不正行為をするX2に対して「母親の偽者だ。」と思うほど不信感と反感が強くなつた。
二 Yらのもとへの復帰
1 Zは、昭和四六年三月一三日植物園見学後学校からの帰途Yらのもとに立寄つたが、その際偏頭痛が起り「もう駄目だ。」と言つて倒れてしまつた。二、三時間後目をさましたZは、絶対にXらのもとに帰らないと言つて、自らX2に電話してこの旨を告げた。そして登校するといつXらに拉致されるか分らないので、その恐怖心から学校も休んでY1宅に閉じこもつた。
第三 XらからのZの引渡請求およびその裁判に対するZの態度
一 家事調停
1 昭和四六年三月二二日XらはYらを相手方として東京家庭裁判所にZの引渡を求めて家事調停を申立てたが、その際Zは調停委員会に出席して、Xらのもとに戻る意思がまつたくない旨明かにした。これにより、同年五月一七日、Zが誠之小学校に通学を再開し、Xらはこれを妨げるような行為をしない趣旨の調停前の処分が発せられ、翌日からZは待望の登校をはじめた。
2 ところが同年七月八日X1は右処分を無視して、暴力でZを自動車内に閉じこめて拉致しようとしたので、Zは「助けてくれ。」「人殺し。」と泣き叫びながら必死に抵抗し、走行中の車からとび降りてY1宅に逃れた。X1が家庭裁判所の前記処分を破つて暴力に訴えたことはZの心に言い知れぬ怒りと不信、恐怖感をつみ重ねるにいたつたのである。
二 人身保護請求
1 昭和四六年八月二六日。Xらは人身保護法に基づき、Yらを拘束者としてZの引渡を東京地方裁判所に訴求し、同裁判所は同年一一月一一日右請求認容の判決をした。
2 これを知つてZは絶望と恐怖に陥つた。このためYらは右認容判決に不服の上告申立をしたが、翌四七年二月一八日これも棄却されて前第一審判決が確定し、Zは「神も仏もいないのか。」とさらに絶望し、いつXらに連行されるか分らない極度の怖れと不安につきおとされた。
3 しかし以上の裁判によつても、Zの心情は「死んでもXらのもとには行かない。」といささかも変ることがなかつたのである。
第四 前第一審判決確定後の事情
一 Zの拒絶
1 昭和四七年三月二日X2は突如誠之小学校にきてZとの面会を求め、Zは、担任の吉田教諭立会の下でこれに応じたが、その際Xらのもとに帰る意思がない旨言明し、同教諭はX2に対し、こんご同校でZと面会するときは予め現在の保護者であるY1の承諾を得てほしい旨要請した。しかるに同月七日、X2は右承諾なしに再度同校を訪ねてきたので、同教諭は右両名をY1宅に同行し、ZおよびY2は門前のX2に家の中にはいつて話をするよう申入れたが、X2はこれを拒絶し、このままZを連行すると強請し、これに応じる様子のないZに腹を立て、「おばちやんはすぐ死ぬ。」等Yらのことを大声でののしり、Zに対して「覚えていなさい」と捨台詞を残して去つた。
ZはYらの悪口を言われるのがわが身のようにつらく、X2の右暴言に一層前記の気持を硬化させた。
2 同月二五日YらはXらにZを引渡すべく同人を伴つて東京第一弁護士会会館に赴いたが、Z自身は毛頭これに応ずる意思がなく、自己の気持を訴えてXらにその引取を断念してもらうため同道したのである。しかるに右引渡に際して、XらはZの一年間の努力の結晶である通信簿をひつたくるようにとつて同人の心を傷つけたばかりか、同人が自分の気持を訴えるべく発言を求めるやこれを拒絶して同人を連行し始めたので、同人は死んでもXらのもとに行きたくない一心から同会館入口の階段を一気にとび降り、その際に怪我した踵をひきずつて日比谷公園に逃れ、茂みの中に身を隠した。
3 その後Zは、同年四月一八日Xらの代理人西嶋弁護士の説得に対しても前記意思に変りない旨回答し、同年七月五日X2がY1宅に不法侵入してZを拉致しようとした際にも、自ら高熱の身をおして手洗いの中に逃げこみ、内側から桟を二重にかけて逃れた。
二 Xらの強行手段
1 ところで、Xらは前記裁判で勝訴した地位を濫用し、昭和四七年三月七日判決書をふりかざしてZの住民登録上の住所および学令簿の学籍を一方的かつ強引に自己らのもとに移し、このためZは同年四月一二日から翌五月一二日まで誠之小学校に登校停止の処置を受け、多大の衝撃を受けた。もつとも後に、文京区及び文京区教育委員会はZの意思を尊重し、これを是正する措置をとつた。
2 また、同年三月末ころ、XらはYらを人身保護法違反を理由に刑事告訴し、恩義ある同女らを厳罰に処するよう求めた。
このためZは同年八月二九日ころ東京地方検察庁に呼出されて取調べられたが、その際自己の自由な意思に基づきYらのもとにいるのであつてXらのもとに絶対帰りたくない旨明言し、検察官はZの右意思を否定できず、さればといつて確立した前第一審判決が存在する以上、やむなくYらを中止処分に付し本再審の申立の帰趨を見まもつている現状である。
3 さらに、Xらは同年八月一九日東京地方裁判所にYらを相手方として間接強制を申立て、Zの引渡の履行につき遅延一日につき五〇万円の割合の損害金の支払を請求した。これは同年一二月二〇日却下されたが、その常軌を逸する不当な請求はZの反撥心をいつそう強めたのである。
三 Zの現在の生活状況
1 以上の間、Zは不安と憂慮の余り、食欲もなく、勉強にも専心できず、学校でもY1宅でも、いつXらがくるか恐怖の毎日を送つていた。
2 昭和四七年九月ころ本再審の申立のための手続がなされるや、Zは希望をもつてようやく落着きをとり戻し、以来、食欲も増進して体力も増し、学校では勉強に励んで成績が向上し、放課後は幼稚園時代からの多くの友達と戸外で夢中になつて遊び廻り、その他水泳、剣道等をして健全な余暇を過ごしている。
3 もち論これには少しも年令を感じさせないほど健康なYらがZといつしよにプールに行つたり、公園等を歩いたり走つたりして、同人を適切に指導し励ましていることがあずかつているのである。
4 しかし、それでもなお、現在Zには、学校で授業を受けているとき誰か大人が教室に入つてくると、X1でないかと思つて反射的に身がすくんでしまつたり、話題が裁判のことに及ぶと偏頭痛を覚える場合があるといつた精神状態が存続しているのである。
第五 Zの主張
一 Xらの主張事実に対する認否等
以上の事実に反するXらの一切の主張を否認する。
二 Zの自由意思
1 以上のとおり、現在Zは身心とも健全に成長し、知的能力にすぐれ、道徳性は抜群であり、是非弁別の能力は十分に成熟している。
2 以上の事情では、XらよりYらのもとでの生活を選択したZの決断は主観的にも客観的にも正当であり、かつ右決断は、Yらが不当に干渉したためになされたものでなく、Z自らの判断に基づくことが明らかである。
3 前第一審判決が引用する判例(最判昭和三五年三月一五日民集一四巻三号四三〇頁)は、三才から第三者に育てられ、親権者たる実親の存在を知らずに成長し、実親との生活が可能だとの認識をもつていない子について(青山道夫「親権者の引渡請求と子の自由意思」判例評論五号一、二頁)、一三才といえども、その自由意思に基づいて第三者のもとにとどまつたものと解しえない。としたものである(なお、最高裁判所判例解説民事編昭和三五年度八三頁参照)。
しかしZは、幼いときから養育者Yらの外、実親たるXらの存在およびその家庭生活に触れており、さらに右Xらの監護に服して昭和四五年八月末から七か月間生活を共にし、実親の人格及び家庭生活を了知したものである。かかる生活体験からXらおよびYらに対する態度を形成したのであるから、かかる意思はZが自由に形成したものというべきである。
4 そしてその意思は極めて堅固なもので、これを無視することがZの人格を根本的に否定するものであることは、「死んでもXらのもとには行かない。」と自ら述べていることからも明らかである。
3 したがつて、Zは自己の自由な意思に基づきYらのもとにとどまつているものであつて、同女らに拘束されているものでないから、Xらの主張は失当であり、その諸請求は棄却されるべきである。