東京地方裁判所 昭和47年(ワ)2264号 判決 1979年3月28日
原告
保坂展人
右訴訟代理人
中平健吉
同
宮本康昭
同
中川明
同
仙谷由人
同
秋田瑞枝
同
河野敬
被告
東京都
右代表者知事
美濃部亮吉
右指定代理人
木下健治
外二名
被告
東京都千代田区
右代表者区長
遠山景光
右指定代理人
山下一雄
外四名
主文
被告らは原告に対し、各自金二〇〇万円及びこれに対する昭和四七年三月二九日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。原告のその余の請求をいずれも棄却する。
訴訟費用はこれを三分し、その二を被告らの負担とし、その余を原告の負担とする。
この判決は、原告勝訴の部分に限り仮に執行することができる。
事実
第一 当事者の求める裁判
一 原告
1 被告らは原告に対し、各自金三〇〇万円及びこれに対する昭和四七年三月二九日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
2 訴訟費用は被告らの負担とする。
との判決並びに仮執行の宣言。
二 被告ら
1 原告の請求を棄却する。
2 訴訟費用は原告の負担とする。
第二 当事者の主張
一 請求の原因
1 原告の地位
原告は、昭和四三年四月、東京都千代田区立麹町中学校(以下「本件中学校」という。)に入学し、昭和四六年三月同校を卒業した者である。
2 高等学校進学妨害の不法行為
(一) 原告は、昭和四六年三月の本件中学校の卒業を控え、高等学校に進学することを希望し、いずれも所定の出願手続を践んだうえ、同年二月一五日私立和光高等学校の、同月一七日私立成城高等学校の各入学者選抜の試験を受けたが、同月一七、一八日順次右両校を不合格になり、次いで同月二三日東京都立明正高等学校及び同千歳ケ丘高等学校の両校で編成されている東京都立高等学校第二六群(以下「都立第二六群」という。)を受験したが、同年三月四日同群をも不合格になり、その後同月六日私立日本学園高等学校の第二次募集、同月二〇日私立向上高等学校の特別選考を受験したが、同月六日、二三日、いずれも右両校を不合格になり、これらの高等学校に入学することができなかつた。結局、最後に原告は、同年四月八日東京都立新宿高等学校定時制を受験して合格し、同校に入学した。
(二)(1) 原告が右各高等学校及び都立第二六群(以下、そのうち、都立新宿高等学校を除いて「本件各高等学校」という。)を受験した当時の本件中学校長は訴外野沢登美男(以下「野沢校長」という。)、原告の担任教諭は訴外菅野昭二郎(以下「菅野教諭」という。)であり、野沢校長は、原告の本件各高等学校受験に当たり、学校教育法施行規則(昭和二二年文部省令第一一号)五四条の三の規定に基づき、原告のため、菅野教諭が作成担当者として記入しその私印を押捺してあるものに公印を押捺して同条所定の調査書(いわゆる内申書。以下「調査書」という。)を作成したうえ、昭和四六年二月又は三月の所定期日までに本件各高等学校長あてに持参又は送付してこれを提出した。<以下、事実省略>
理由
一原告の地位
請求の原因1の事実は当事者間に争いがない。
二高等学校進学妨害の主張(請求の原因2)について
1 争いのない事実
請求の原因2(一)及び(二)(1)の事実(原告の本件各高等学校受験とその不合格、本件中学校の野沢校長による本件調査書の作成提出)は、いずれも当事者間に争いがない。
2 本件調査書の記載内容
そこで、本件各高等学校に提出された原告の本件調査書の行動及び性格の記録、備考、特記事項、出欠の記録中の欠席の主な理由の各欄に記載された内容について検討する。
(一) 本件調査書の様式等
<証拠>によると、本件調査書中、都立第二六群に提出されたものは、都教委が学校教育法四九条、一〇六条、学校教育法施行規則五九条、地教行法三三条、五九条、東京都公立学校の管理運営に関する規則(昭和三五年都教委規則第八号)二〇条に基づき、昭和四六年度の東京都立高等学校等入学者選抜に関する基準として定めた本件実施要綱に基づいて作成されたものであること、同要綱の定める調査書の様式(ただし、昭和三七年度以降のものに適用)は別紙(一)の調査書のとおりであり、本件実施要綱は都立高等学校等に提出される調査書の作成基準を安めたものであること、私立高等学校に提出される調査書については、後述のとおり学習の記録欄の教科の評定の評価及び記入方法に関する昭和四一年七月一三日付都教委議決が存するほか特に定めはなく、一般に、各私立高等学校において独自の様式を定めているときはその様式の書面を使用するが、それとても本件実施要綱所定の別紙(一)の調査書と比べ、成績一覧表の番号欄、志望変更後の受検番号欄及び都立高専との併願に関する欄がない程度で、それ以外はおおむねこれと同じものが多く、殊に原告の受験した和光高等学校、成城高等学校、日本学園高等学校及び同上高等学校はいずれも独自の様式のものを使用しておらず、そのため、野沢校長が右各私立高等学校に提出した調査書は、都立第二六群に提出したものと同一の様式のものを使用し、その作成に当たつても、本件実施要綱に準拠して作成したものであつたこと、かくして本件各高等学校に提出された本件調査書には、その記載事項として、別紙(一)のとおり学籍の記録、学習の記録、行動及び性格の記録、健康の記録、出欠の記録の各欄があり、行動及び性格の記録欄所定の項目は、「基本的な生活習慣」、「自主性」、「責任感」、「根気強さ」、「自省心」、「向上心」、「公正さ」、「指導性」、「協調性」、「同情心」、「公共心」、「積極性」及び「情緒の安定」の一三項目であり、野沢校長及び菅野教諭は原告について、右項目中の「基本的な生活習慣」、「自省心」及び「公共心」の三項目の評定をCと評定し(以下「本件C評定」という。)、本件調査書にその旨の表示をした(右のC評定及びその旨の表示の事実は当事者間に争いがない。)こと、野沢校長及び菅野教諭が原告についてC評定をしたのは右の三項目のみで、Aと評定をした項目はなく、その他の項目についてはいずれもBと評定をしたこと、以上の事実が認められ、これに反する証拠はない。
(二) 備考欄、特記事項欄の記載
本件調査書の備考欄及び特記事項欄の記載内容について、被告らは、請求の原因2(二)(2)(ロ)主張の事実を否認しているが、かたわら、備考欄の延長として特記事項欄に、請求の原因に対する答弁2(二)の四項目の事項を記載した事実はこれを自認するものであるところ、被告らの右自認事実、<証拠>を総合すると、次の事実が認められ、これに反する証拠はない。すなわち、
(1) 本件においては、本件調査書の原本もしくはその写しが証拠として提出されておらず、そのため、本件調査書の特記事項欄に記載されていた事項をその表現どおり逐一再現することは困難であるが、前記証人風間道太郎は原告が受験した日本学園高等学校教諭として同校に提出された原告の調査書を注意深く閲読した者であり、また、証人野沢登美男及び同菅野昭二郎はいずれも本件調査書の作成に関与した立場の者であるうえ、その各供述内容は具体的で信用力が高いものということができ、これらの供述によれば、本件調査書の特記事項欄に記載されていた内容の概要は、「この生徒は、二年生のとき、校内において麹町中全共闘を名乗り、機関紙砦を発行した。学校文化祭の際、文化祭粉砕を叫んで他校の生徒とともに校内に乱入し、屋上からビラをまいた。大学生ML派の集会に参加している。学校当局の指導説得をきかないでビラを配つたり、落書きをした。」というものであつた。そして、原告が記載されていたと主張する事項のうち、原告が過激な学生運動に参加しはじめたこと、その後も学校の指導に従わず、他校の生徒と密接な連絡をとり、昭和四五年八月に全関東中学校全共闘連合を結成したこと、文化祭会場に乱入したのは他校の生徒と共謀して裏門を乗り越え、ヘルメツト、覆面を着用し、竹竿を手にしてしたこと、その後、麹町警察署署員に逮捕(補導)されたこと、その後も過激な政治団体(ML同盟?)と関連をもち、集会、デモにたびたび参加していること及び本件中学校側が原告に現在手をやいていることなどについては、これらの事項が記載されていたと認めるに足りる証拠はない。
(2) ところで、本件においては本件調査書の備考欄にどのような記載がされていたか明らかでない。しかし、後記二3(二)(2)のとおり、備考欄は行動及び性格の記録欄においてCと評定された項目がある場合に、その理由及びその指導上の問題点を具体的に記載すべき欄であること、弁論の全趣旨によれば、前示<証拠>は原告と同期に本件中学校を卒業した訴外古沢正夫に関する調査書の一部の写しであると認められるところ、右<証拠>によれば、右訴外人の調査書の備考欄には同人の性格中特に指導を要すべきと考えられるものの特徴について記載されていることなどによれば、原告に関する本件調査書の備考欄にも、同様に野沢校長らが特に指導を要すべきものと判断した原告の性格の特徴が記載されていたものと推認することができる。これに対して、前記認定の特記事項欄の記載は、原告の特定の具体的行動を報告形式で記述したものであり、備考欄の記載とはその内容の性格を異にするやに見られる。しかし、C評定をした理由及びその指導上の問題点を記述するには、特定の形式が要求されているわけではなく適宜な内容、形式をもつて記述すれば足りるのであるから、単に生徒の具体的行動が記載されているにすぎない場合でも、右行動が評定と関連を有することがうかがわれる以上、その記載は記載欄のいかんに拘らず、C評定の理由及びその指導上の問題点として記載されたものと解する余地がある。そして、後記二3(二)(4)のとおり、特記事項欄は道徳、特別教育活動、学校行事その他において特に顕著な成果をあげた者について記載する欄であるから、前記認定の特記事項欄の記載がこれに当たるとして記載されたものでないことは明らかであり、却つて、後記認定のごとく、右に記載された原告の行動が本件C評定と関連を有するものとして記載されたものであるといえる。したがつて、前記認定の特記事項欄の記載は、本件C評定をなすに至つた理由として本来備考欄に記述すべきところを、同欄の余白の不足から備考欄の記載の延長として特記事項欄に記述されたものと認めるべきである。
そこで、前記認定の特記事項欄に記載された事項をその実質に着目して、以下「本件備考欄記載事項」という。
(3) 本件調査書は、原告の受験した本件各高等学校に各別に提出されたものであり、作成されたのは一通でなく数通であるが、右本件調査書の作成事務を担当した菅野教諭は、調査書の控えを別に作り、必要な都度その控えに基づいて記入していた。そして、前記のとおり、都立第二六群以外の他の各私立高等学校に提出した調査書についても、都立第二六群と同一様式の書面を使用したこともあり、野沢校長の手を経て作成された本件調査書に記載された内容は、特記事項欄、備考欄及び出欠の記録の欠席の主な理由欄を含め、すべて全く同一であつた。
(4) なお、原告が本件各高等学校を不合格になつたのち、最後に合格して入学をした都立新宿高等学校定時制に提出された調査書も、菅野教諭が作成担当者となり、野沢校長が作成者となつて作成提出したものである。野沢校長らは、その調査書中の行動及び性格の記録欄の「基本的な生活習慣」、「自省心」及び「公共心」の三項目について、本件調査書におけると同様Cと評定をしたが、特記事項欄にはなんらの事項も記載せず、備考欄には一定事項を記載したが、その内容は、本件調査書と異なり、原告が身辺の整理が不十分であること、校内の決まりを守らないことを二、三行にわたつて記入しただけであつた。
(三) 欠席の主な理由欄の記載
<証拠>によると、本件調査書の出欠の記録中の欠席の主な理由欄には、「風邪、発熱、集会(ただし、集会と記載したかデモと記載したかは明らかでない。)に参加して疲労のため」と記載されていた事実を認めることができ、これに反する証拠はない。
3 原告の不合格と本件C評定等との因果関係
次に、原告の本件各高等学校不合格の結果と本件調査書中における本件C評定、本件備考欄記載事項及び欠席理由の記載との因果関係の有無について検討する。
(一) 調査書の法的根拠、役割
(1) 中学校の調査書は、学校教育法施行規則五四条の三の規定により、高等学校に進学しようとする生徒のある場合に、中学校長が作成してその進学志望先の高等学校長あてに送付しなければならないものとされ、同規則五九条一項により、高等学校の入学者選抜について、選抜のための学力検査の成績等とともにその合否の判定資料になるものとされているものである。
そして、都立高等学校入学者選抜においては、調査書中の教科の評定を記入する学習の記録欄だけではなく、生徒の中学校三年間にわたる行動及び性格の状況を記入する行動及び性格の記録(備考欄も含む)、出欠の状況を記入する出欠の記録、道徳、特別教育活動その他において特に顕著な成果をあげた者について記入する特記事項等の一切の記載事項がその判定資料になるものであることは、都立高等学校に提出する調査書の作成基準を定めた本件実施要綱が「選抜は、調査書及び学力検査の成績並びに入学願書による志望に基づいて行なう。この場合、調査書が十分尊重されるよう配慮する。」、全日制普通科(群)の選抜につき「審査委員会は、その群の募集定員に達するまで志願者のうちから、調査書中の学習の記録等と学力検査との総合成績のよい者の順に群の入学候補者を決定する。」旨明定しているところであり、また、<証拠>によれば、昭和四六年当時の都立高等学校入学者選抜においては、昭和四一年七月一四日付都教委教育長通達(教指管発第二七二号)により、「調査書は、生徒の学習・行動及び性格・健康などの記録を含み、中学校三年間の教育の成果を示すものであるから、高等学校における入学選抜の重要な資料として尊重すべきもの」とされ、同月一八日付文部省初等中等教育局長通達(文初中第四一一号)によつても、「選抜にあたつては、調査書を十分尊重すること」とされている事実を認めることができ、証人野沢登美男の証言中、右認定に反する部分は措信し難く、他にこれに反する証拠はない。
(2) 私立高等学校に提出される調査書については、本件実施要綱及び右各通達は適用されず、したがつて、調査書の記載内容及びその取扱いについては、各高等学校において自由に定め運用することができるが、前記学校教育法施行規則五九条一項は、公、私立を問わない規定であり、本件においても、前記認定のとおり私立の和光高等学校、成城高等学校、日本学園高等学校及び向上高等学校に提出された調査書は、事実上、本件実施要綱の定める内容に準拠して作成され、行動及び性格の記録、備考欄、出欠の記録及び特記事項欄にも一定事項が記入されていたものである以上、右各私立高等学校では右記載事項の一切を選抜判定資料に使用し、本件中学校の野沢校長はこれを使用させたものと認めるべきである。
(二) 調査書の作成方法
<証拠>によると、本件実施要綱の定める調査書の作成方法の概要は次のとおりであることが認められ、これに反する証拠はない。すなわち、
(1) 学習の記録には中学校三年間にわたる国語、社会、数学、理科、音楽、美術、保険体育、技術・家庭及び英語その他の選抜教科の評定を記入するが、第一、二学年の評定は、学校教育法施行規則一二条の三第一項により校長が作成すべき生徒指導要録(以下「指導要録」という。)に基づいて記入し、第三学年の評定は昭和四五年一二月末日現在で評定する。評定の方法は、いわゆる五段階相対評価方法で、段階を五段階に分け上位より順次5、4、3、2、1の記号を用いて表示し、評定の配分は、必修教科については第三学年の生徒全員(ただし、第三学年の出席日数四〇日未満の者等を除く。以下同じ)、選択教科についてはそれぞれの教科を履修した生徒全員について、各教科ごとに、5及び1はそれぞれ七パーセント(小数第一位を四捨五入。以下同じ)、4及び2はそれぞれ二四パーセント、3は生徒全員の数から5、4、2、及び1の数の合計を差し引いた残りとし、技術・家庭の配分は男女それぞれについて右の割合による。なお、生徒指導要録中の教科の評定は、都教委が本件実施要綱とは別に定めた本件指導要録取扱い(乙第二号証)により、中学校学習指導要領所定のその教科の教科目標及び学年目標に照らし、学年又は学級において、普通の程度のものを3、3より特にすぐれた程度のものを5、3よりはなはだしく劣る程度のものを1、3と5及び3と1の中間程度のものをそれぞれ4、2とする方法によつて評定される。
(2) 行動及び性格の記録には、前示二2(一)の一三項目について評定をし、その項目ごとの評定は中学校在学期間を通しての評定とする。評定の方法は、指導要録の記入要領である本件指導要録取扱いに従い項目ごとにA、B、Cの三段階で表示し、「積極性」及び「情緒の安定」を除くその余の一一項目では特にすぐれたもの、「積極性」及び「情緒の安定」では特にその傾向の著しいものをAとし、Bは普通、Cは特に指導を要するものを意味し、項目中にCと評定した者については備考欄にその理由及びその他指導上の問題点を具体的に記入する。
(3) 出欠の記録には、第三学年の四月一日から一二月末日までの出欠状況を記入する。
(4) 特記事項には、道徳、特別教育活動、学校行事その他において特に顕著な成果をあげた者について具体的かつ簡明に記入する。その人数は、第三学年の生徒全員の七パーセント(小数第一位四捨五入)以内とする。
(三) 行動及び性格の記録、備考欄の実際の利用状況
入学者選抜のための資料である調査書に、生徒の学習の成績状況を示す学習の記録以外に、中学校時代の行動及び性格の状況等を表わす行動及び性格の記録、備考欄を設けることについては、詳細は後述するとおり、それが高等学校入学者選抜に伴う各種弊害を除去し、人格の完成をめざす教育の理念から必要なものとして設けられるに至つたものであることは、それなりに十分な根拠があり、理解しうるところである。しかし、<証拠>を総合すると、調査書の特記事項が、本来、道徳、特別教育活動その他において顕著な成果をあげた者について記載する欄で、その記載があるときは生徒に有利に、すなわち、多数の生徒が合否の限界線上にある場合に特記事項の記載がある者が優先して合格とされる運用が行われているのに対し、行動及び性格の記録、備考欄は、それとは逆に、生徒の人間的資質にかかわるもので、A、B、Cの評定にはその配分もないものであることから、概して高等学校側において入学を拒みたい生徒を発見するための手段として使用されている傾向があること、殊に私立高等学校では独自の教育方針や校風を重んずるので、行動及び性格の記録の項目がCと評定されている場合、それが合否の判定に多大の影響を与えるものとされていることは教育界に広く知れわたつている事柄であり、そのため、中学校側でも行動及び性格の記録の項目にC評定をすることは少なく、極めて稀にしかないとの事実を認めることができ、<証拠判断略>他にこれを左右するに足りる証拠はない。
(四) 原告の学習成績、不合格に至る経緯等
前示一、二1の当事者間に争いのない事実、<証拠>を総合すると次の事実が認められ、<証拠判断略>他にこの認定を左右するに足りる証拠はない。すなわち、
(1) 原告と同時に、昭和四三年四月本件中学校に入学した生徒数は約五〇〇名であるが、原告の第一学年次の学習成績は、年間を通じ優秀で、家庭通信表に記入された評価(評価方法は五段階で表示され、3は普通の程度、5は特にすぐれた程度、1ははなはだしく劣る程度、4及び2はそれぞれそれらの中間程度を示す。以下同じ)は、国語、社会、数学、理科、音楽、美術、保健体育、技術・家庭及び英語の全教科とも、第一学期から第三学期まで2以下はなく、3以上であり、学年評価は、国語、社会、理科、音楽及び技術・家庭がいずれも5、数学及び英語がいずれも4、美術及び保健体育がいずれも3であつた。原告の第二学年次の学習成績は、前学年次に比べ低落したが、それでも家庭通信表に記入された評価は、年間を通じ、保健体育の学年評価が2であつたほか、前示九教科とも、第一学期から第三学期まで3以上の成績であり、学年評価は保健体育が2であつたほか、国語が5、社会、理科、音楽及び美術がいずれも4、数学、技術・家庭及び英語がいずれも3でおおむね普通以上の水準を維持していた。第三学年次の学習成績は、第二学年次に比べて更に低落し、家庭通信表に記入された評価は、第一学期において国語及び社会がいずれも4、その他の教科がいずれも3、そして、第二学期の評価は家庭通信表に記載がなく、不詳であり、学年評価は、国語、社会、理科、音楽及び美術がいずれも3、数学、保健体育及び英語がいずれも2、技術・家庭が1で終つたが、全体として、普通の程度よりは落ちこまず、普通程度の水準は保持していた。
(2) 原告の健康状態に関しては特に問題となるようなところはなく、健康であり、第三学年の第一、二学期間における学校授業への出欠状況は、出席すべき日数一八三日中、出席一五九日、欠席二四日、遅刻七日、早退一日であり、欠席、遅刻の日数がやや多いが、入学者選抜の合否に影響を及ぼすと認められるほどのものではなかつた。
(3) 原告が受験した本件各高等学校中、予定された志望校は都立第二六群、和光高等学校及び成城高等学校であり、日本学園高等学校及び向上高等学校は都立第二六群を不合格となつたのち急遽受験することとしたものである。原告は、第三学年になり担任の菅野教諭が進路指導を始めたころから、都立の全日制普通科高等学校への進学を志望し、当初は第二六群以外の群への進学を考えていたものであるが、その後、都立第二六群を受験したのは、昭和四五年一一月ころ、菅野教諭から、それまでの学習成績、偏差値、通学上の便宜等を考慮した第二六群への受験の勧めを受けた結果、志望先を右のとおり変更したものである。そして、当初のころの同教諭の言によれば、受験までの今後の二か月の期間を有効に勉学に励めば合格の見込みがあるということであつた。また、原告が和光高等学校及び成城高等学校への受験を決意するに当たつても、菅野教諭と相談し合格の見込みがあると予測されたので受験することを決定した経緯があり、原告は、菅野教諭から受験勉強に励むよう激励され、同年一二月から昭和四六年一月にかけての冬休みには補習のため予備校にも通い、東京都世田谷区内の親戚のもとに寄留するための手段をとるなどして受験に備えた。
(4) 原告が同年二月一五日、最初に受験をした和光高等学校においては、原告は学科試験及び面接を受けた。学科試験の成績の詳細は明らかでないが、原告自身としては充分合格できると感じるほどの出来ばえであつたが、かたわら面接では、受験番号に関係なく最後に回されたうえ、面接担当者からいきなり、沖繩問題をどう思うかと尋ねられたのを皮切りに政治的問題に関する事項につき質問を受け、その面接時間も三〇分ほどを要したが、これは他の受験生に比して著しく長い時間であつた。原告が不合格と決したのち、原告の母圭子は、不合格の原因が調査書の記載内容にあるのではなかろうかとの疑いをもち、同様に息子を本件中学校に通学させており原告からその名を聞き知つていた訴外昌谷忠海(以下「昌谷」という。)に右の疑念を述べるとともに、善後策について相談を持ち掛けた。そこで、昌谷は、知人である日本学園高等学校教諭の訴外風間道太郎(以下「風間」という。)に事情を話して依頼し、更に、同人より同僚の訴外鈴木昭二教諭を介し、電話で和光高等学校の関係者に原告の不合格になつた理由を問い合せたところ、その理由について明解な返答はえられなかつたが、学科試験の成績もそれほど良くはないとの、学科試験の成績以外に他にも原因のあることをうかがわせる返事がえられた。
(5) 次に、原告が同年二月一七日、二番目に受験した成城高等学校においても、学科試験と面接とが行われた。学科試験については、原告自身の感触は和光高等学校のときに比べるとそれほど易しくはなかつたが、自己の実力を充分発揮しえたものと思われた。面接については、一五分くらいの時間を費し、東大紛争、全共闘などの具体的問題についての質問を受けた。しかし、原告の学科試験の成績、同校が原告を不合格と決定するに至つた経緯の詳細は明らかでない。<証拠判断略>
(6) 原告が、同月二三日、三番目に受験した都立第二六群の試験は、国語、数学及び英語の三教科の学科試験のみで面接はない。原告の学科試験の成績の詳細は明らかでない。
(7) 次に、原告が同年三月六日、四番目に受験したのは日本学園高等学校の第二次募集に応じたもので、原告が同校を受験したのは、原告が和光高等学校、成城高等学校及び都立第二六群を次次に不合格となる経過の中で日本学園高等学校教諭の前記風間から勧められて受験したものである。そして、原告は、学科試験と面接を受けた結果即日同校をも不合格となつたが、原告の不合格が決定されるに至つた経緯は次のとおりである。すなわち、
右第二次募集には原告を含め九五名が応募、受験したもので、試験は、午前中に国語、数学及び英語の学科試験が行われ、午後に面接が行われた。原告の学科試験の成績は、いずれも一〇〇点満点で国語九四点、数学七六点、英語六八点(合計二三八点)であり、その成績は九五名中一四番目の成績であつた。面接は、同校の教諭が二名一組になつて、各人の願書及び調査書を資料にして行い、原告の面接を担当した同校教諭の訴外渡辺克夫「以下「渡辺教諭」という。)らは、原告に対し、全共闘に参加した動機、目的、その組織など専ら調査書中の本件備考欄記載事項に関して質問した。面接が終了したのち、同校では議長を含めた教員二五名による合否判定会議を開き、前記九五名中、八二名を合格とし、原告を含む一三名を不合格に決めたが、不合格になつた者のうち、原告を除いた一二名は学科試験の成績が最低基準に達していなかつたか、又は達していたもののその最低線に近い水準であつたうえ面接結果も芳しくなかつたことが原因で不合格とされた。
一方、原告については、学科試験の成績は合格基準以上に達していたが、調査書中の本件備考欄記載事項の内容にかんがみて、右判定会議の席上、個別的な審査に付せられ、面接を担当した渡辺教諭らから原告との面接結果が報告され討議をしたところ、原告を合格させるか否かについては賛否両論の意見が出された。反対意見は、要するに、調査書中の本件備考欄記載事項によれば原告はいわゆる暴力学生であり、学園の秩序維持のためには入学を許可すべきでない、というものであり、採決をした結果、同校事務局の原告を不合格にするとの案に賛成する者一二名、反対する九名、保留二名、棄権一名ほか議長一名の結果になり、かくして原告の不合格が決定された。
(8) 原告が、同月二〇日、五番目に受験した向上高等学校の特別選考は、原告が日本学園高等学校を不合格になつたのち、本件中学校の藤野教諭らが原告のため特に受験の機会を与えるように交渉をした結果、同校の通常の募集試験はすでに終了していたものの、原告のためにのみ特別に行われることになつたものである。原告は、当初同校の校風が自分に向いてないと思い受験を固辞していたが、卒業式を間近に控え両親の勧めもあり、全日制普通科の高等学校に進学することのできる最後の機会であると考え直して受験することを決心した。試験は学科試験と面接とが行われ、面接では、面接担当者から原告に対し、全共闘に関する事項や文化祭でのデモ活動などについて質問があつたのち、原告がそれだけ教育に批判をもち学校に疑問をもつなら同校を受験するのも矛盾ではないかという趣旨の質問がなされ、これに対し原告が自分が同校を受験するのは大きな妥協をしないために小さな妥協をするのであつてやむをえない旨返答するなどの応答がなされた。
(五) 因果関係の有無
以上にみたところに基づき、本件調査書中の本件C評定、本件備考欄記載事項及び欠席の主な理由欄の記載が原告の本件各高等学校不合格の結果に原因を与えたかどうか、その両者の間における因果関係の有無について考察する。
高等学校の入学者の決定は、調査書、選抜のための学力検査の成績等に基づいて各高等学校長が主体的に決する事柄である(学校教育法施行規則五九条一項)ところ本件において、まず、日本学園高等学校が原告を不合格とした決定的理由は、原告の学力検査の成績にあるのではなく、調査書中の本件C評定、本件備考欄記載事項の記載にあつたことは、右に認定した原告の同校受験の際の状況と不合格と判定されるに至つた経緯並びに前記二3(三)認定の事実に照らし明らかである(ただし、欠席の主な理由欄の記載も原因になつたものであるとまでは認めることができない。)。
和光高等学校、成城高等学校、都立第二六群及び向上高等学校に提出さた原告の調査書についても、行動及び性格の記録欄所定の項目のうち、「基本的な生活習慣」、「自省心」及び「公共心」の三項目につきCと評定がされ、その理由として、特記事項欄に前示認定の本件備考欄記載事項が記載されていたものであるところ、調査書の行動及び性格の記録、備考欄は前示のように高等学校において入学をさせたくない生徒を発見し、ふるい分けの手段として用いられている状況よりすれば、右三項目にCと評定をされた原告は、それだけで各高等学校の入学者選抜を不合格とされる可能性が相当高度にあつたといえる。そしてまた、<証拠>によれば、当時昭和四四年から同四五年にかけてはいわゆる東大紛争をも含めた大学紛争が一九七〇年の日米安全保障条約自動延長反対、ベトナム戦争反対運動とあいまつて全国的に激しくくり広げられるとともに、この学園紛争が高等学校にも波及し、多くの高等学校当局者がその対策に苦慮している状況下にあり、現に紛争を抱えていなかつた高等学校においても、このような事態の発生することを極度に警戒し、学園紛争を惹起せしめるおそれのある運動に関与したり、これに共鳴しているような生徒に対しては入学を好ましくないものと考えていたことがうかがわれる。したがつて、調査書中に本件備考欄記載事項のごとき記載がされているときは、それだけで各高等学校の入学者選抜を不合格とされる可能性が大であつたと推認することを妨げない。他面、前記認定の原告の本件中学校での学習成績によつては、原告が前記各高等学校を不合格とされた原因が原告の学習成績にあつたとは認めることはできない。また、向上高等学校の面接における原告の前記発言も、それを惹き起した質問自体が調査書中の本件備考欄記載事項を基にしてなされたものと解されるうえ、これに対する応答も同記載から自ずと予測しうる範囲内の発言であるにすぎず、それのみをもつて原告が不合格になつた原因と認めることはできない。そして、他の私立高等学校の面接における原告の言動についても、調査書中の前記記載事項と関連なく不合格の原因となるような言動があつたものとは認められない。したがつて、以上の各高等学校が原告を不合格とした決定的理由も、調査書中の本件C評定、本件備考欄記載事項の記載にあつたものと認められ、右認定をくつがえすに足りる証拠はない。
それゆえ、原告が本件各高等学校を不合格とされた結果と野沢校長及び菅野教諭が原告について、本件C評定をし、調査書の行動及び性格の記録欄にその旨を表示し、特記事項欄に本件備考欄記載事項の記述をしたこととの間には、社会通念上、相当因果関係があるものと認めるのが相当である。
4 本件調査書作成提出行為の違法性
そこで、野沢校長による本件調査書の作成提出行為が違法であるかどうかについて検討する。
(一) 調査書制度の目的、必要性
(1) 中学校の調査書の法的根拠、役割は前記二3(一)で述べたとおりであり、調査書制度の主たる目的、機能はそこでの叙述からおのずと明らかであるとおり、高等学校入学者選抜の資料たることにあるものである。
尤も、学校教育法施行規則一二条の三、第二項によれば、児童等が上級学校に進学した場合には、校長は当該児童等の指導要録の抄本を作成して進学校の校長に送付しなければならないとされているところ、<証拠>によれば、中学校の生徒が高等学校に進学した場合に、中学校長がその生徒の指導要録の抄本を作成して高等学校長に送付するのは例年五月中旬から下旬ころになり、そのため、高等学校側では、指導要録の抄本が送付されるまでの間における生徒指導に調査書を利用しているとの事実を認めることができるが、調査書のこのような利用方法は、調査書制度の沿革、調査書作成の根拠とされる法規などに照らしてみれば、おそくとも昭和三一年九月文部省令第二三号による学校教育法施行規則の一部改正により同規則五九条に三ないし五項が追加されるに至つた以降は、調査書制度が本来目的とするところであるとはいい難く、便宜上の措置というべきである。
(2) 昭和四六年当時の都立高等学校入学者選抜において、都教委教育長通達及び文部省初等中等教育局長通達をもつて、調査書が重要な資料として十分に尊重して取扱うべきものと指示されていたことは前記二3(一)のとおりであるところ、右通達が発せられるに至つた経緯並びに調査書制度の必要とされる事情は、その沿革の経過をみることによつて明らかになる。
<証拠>を総合すると、以下の事実を認めることができる。すなわち、
我が国において調査書を上級学校の入学者選抜の資料として用いることは、古くは昭和二年文部省訓令に基づき採用され、幾多の変還を経て運用されてきたところである。戦後、昭和二二年制定の学校教育法により同二三年四月から新制高等学校が発足したが、新制高等学校においては、発足当初から義務教育ではないがこれに準じて、希望者全員の入学ができることが理想とされ、入学志願者数が入学定員と同数又はそれ以下である場合には、優秀な生徒のみを選抜して入学させるようなことは許されないとした(昭和三八年文部省令第二一号による改正前の学校教育法施行規則五九条)。しかし、現実には収容力の関係から選抜は不可避であつたが、その選抜の方法は、昭和二三年二月四日付文部省学校教育局長通達(発学第五二号)により、公立新制高等学校においては、選抜のためのいかなる検査も行わず、新制中学校からの報告書(その内容として、次の事項を含む。1 知能検査((インテリヂエント・テスト))の結果、2 学力検査((アチーブメント・テスト))の結果、3 教科学習成績、4 個人的並びに社会的性格、態度の発達の記録、5 職業的見地よりする性格、態度の発達及び職業的適性の記録、6 身体の発達記録)のみに基づいて選抜するものとされ、私立新制高等学校についても、自由な方法で選抜の方法を決定してもよいが、従来の筆記試験及び口頭試問によるよりも公立新制高等学校におけると類似した方法を採用することが勧められた。
このような報告書のみによる選抜方法は、昭和二三年七月制定施行された教育委員会法に基づき採用されたいわゆる学区制の実施と相まつて、高等学校の学校較差をなくし、志願者のなるべく多数を入学させること、中学教育における受験準備の弊害をなくすることをめざすものであつた。しかし、その後数年を経るうち、右の方法も各都道府県ごとに実施方法に差異を生じ、年とともに高等学校進学志望者が増加し、高等学校側においても選抜の主体性、自主性をもちえない不満が高くなつた。そこで、文部省は、昭和二六年九月一一日付文部省初等中等教育局長通達(文初中第六六〇号)をもつて、高等学校入学者選抜方法に関し、報告書に基づいて選抜を行うという基本方針は従来どおりであるが、都道府県の一斉学力検査(中学校としてのアチーブメント・テスト)を実施することが困難か又は実情に即しない場合には、報告書とは別に各高等学校が学力検査を行うことができるとして、高等学校側に独自の学力検査を実施する道を開いたが、更に昭和二九年八月二日付文部省初等中等教育局長通達(文初中第四三九号)により、入学志願者が募集人員を超過し、入学者選抜のため学力検査の必要がある場合は、志願者に対しこれを行うことができる、中学校長は生徒の志願先高等学校長あてに報告書を提出する、高等学校長は右報告書と学力検査の結果とを資料として入学者の選抜を行うこととされ、従来、不明瞭であつた入学者選抜の主体が高等学校長にあることが明らかにされるとともに、選抜のための学力検査を実施した場合の入学者の選抜は、報告書と学力検査の成績とを資料とすることを明言し、昭和二六年九月一一日付通達と同様、報告書中の学習成績の発達記録と学力検査の成績とは同等に取扱うことを明らかにした。
右通達の趣旨は、昭和三一年文部省令第二三号による学校教育法施行規則の一部改正(昭和三五年文令第一六号、昭和三八年文令第二一号による改正前のもの)により、同規則五九条に三ないし五項が追加されることにより法令上明記された。従来、調査書については、昭和二三年、文部省令第一八号による学校教育法施行規則の一部改正(昭和三五年文部省令第一六号による繰下、同三六年文部省令第二二号による改正前のもの)により、同規則五四条の二をもつて、中学校長は調査書その他必要な書類を生徒の進学志望先の高等学校その他の学校長あてに送付すべきことを義務づけていたが、入学者選抜に当たつて調査書を用いるべきことを義務づけた法規はなく、調査書の作成送付は法令上必ずしも入学者選抜と直接関係ないものとされていた(ただ、前記のとおり文部省の通達に基づく報告書がその目的上は現行法による調査書に相当するものとして、入学者選抜のための資料とされていた。)。したがつて、昭和三一年九月前記文部省令第二三号による学校教育法施行規則の一部改正により、調査書は高等学校入学者選抜のための資料とすることと明定されたものである。
しかし、こうした改正により、実際には学力検査に相当の比重がかけられることとなり、調査書はややもすると十分活用されないことがあつた。そして、昭和三〇年代後半に至つてこうした学力検査重視の傾向から、受験準備のため地域により学校によつては中学校教育の本来のあり方が歪められる事態が生じたことから、高等学校入学者選抜方法の改善を求める声が多くなり、文部省は、昭和四一年七月一八日付文部省初等中等教育局長通達(文初中第四一一号)をもつて、公立高等学校の入学者選抜につき学力検査の実施教科の決定、問題の作成などの改善を指示するとともに、従前からとられてきた調査書中の各教科の学習の評定の記録と学力検査の成績とはこれを同等に取り扱うとの指導を改め、前記二3(一)(1)のとおり、選抜に当たつては調査書を十分尊重することとした。このことは、右通達により学力検査の実施教科の決定方法が変更されたことに伴うものではあるが、また、調査書は本来中学校における学習、行動及び性格等についての記録であるから、単に学習の評定のみならずその他の部門についても尊重するという趣旨から、学力検査の成績と同等さらにはそれ以上に尊重すべきであるとの趣旨が込められているとされるものである。
また、東京都においても、昭和四〇年代初頭には、中学校における進学のためのテスト偏重、入試準備教育の弊害が著しく、その是正が重大な課題となり、都教委教育長は、昭和四〇年一一月一九日付通達(数指管発第四五三号)をもつて、各公立小・中学校長等にあて、入試を目的とする教育は行わないことなどを内容とする指示を出し、次いで、昭和四一年二月一一日付通達(教指管発第五六号)をもつて、現代の児童生徒一般の憂うべき諸傾向を指摘し、その原因の一つとして、学校や家庭において入試準備教育のために情操の涵養や体力の鍛練が軽視され、知育偏重の傾向が強く、しかも、その知育も偏つたものとなつていることについて教育上の反省を求めるとともに、学校教育及び家庭教育のあり方を明らかにし、両者の緊密な連携、協力により児童生徒の望ましい人間形成に当たるべきことを強調した通達を出し、しかるのち、都教委は、都教委に設置された東京都立高等学校選抜制度改善審議会の答申を経て、昭和四一年七月一三日、「東京都立高等学校入学者選抜制度の改善に関する基本方針」を議決した。右議決の中で、調査書については、学力検査の成績及び調査書中の学習の記録についてそれぞれ段階をつくり、両者を組み合わせて総合段階をつくる、その際、学習の記録が従来よりも影響を与えるよう十分配慮する(第二(一)ア)、調査書の信頼性を確保し、尊重にたえうるものとするため記載内容等について一定の方法をとる(第二(二))、国立、私立高等学校の志願や就職にさいして提出する学習の記録は、都立高等学校志願のさいに提出するものと同じものとするように要請する(第二(二)ウ)とされ、これに伴い、都教委教育長は、同年七月一四日付通達(教指管発第二七二号)をもつて、前記二3(一)(1)のとおり、調査書は、生徒の学習・行動及び性格・健康などの記録を含み、中学校三年間の教育の成果を示すものであるから、高等学校における入学者選抜の重要な資料として尊重すべきである、したがつて、中学校にあつては、公正妥当な、信頼性の高い調査書を作成するよう努力を傾けなければならない、とした。
以上の事実を認めることができ、右認定を左右するに足りる証拠はない。
高等学校は、中学校における教育の基礎の上に、心身の発達に応じて、高等普通教育及び専門教育を施すことを目的とする(学校教育法四一条)ものであり、今日の教育は、単なる知育の発達のみをめざすものではなく、全人的な人格の完成をめざす(教基法一条)ことを目標としている。したがつて、高等学校入学者の選抜を一回限りの学力検査のみで決定するのは必ずしも合理的ではなく、諸種の弊害を惹き起こすおそれすらある。それ故、学力検査とともに当該生徒の過去長期にわたる学習成績やその全生活を通しての人格総体をも考慮すべきであり、ここに、高等学校入学者の選抜につき、中学校における教育の結果を反映させる調査書制度の必要性とその内容として行動及び性格を記録する欄の必要性が存在するといえる。
(二) 本件調査書の作成基準
本件各高等学校に提出された本件調査書中、都立第二六群に提出されたものは都教委が学校教育法四九条、一〇六条、学校教育法施行規則五九条、地教行法三三条、五九条、東京都公立学校の管理運営に関する規則(昭和三五年都教委規則第八号)二〇条に基づいて定めた本件実施要綱を作成基準として作成されたこと、しかし、その他和光高等学校、成城高等学校、日本学園高等学校及び向上高等学校に提出されたものは本件実施要綱に事実上準拠して作成されたにすぎないことは前記二2(一)のとおりであり、右要綱の定める調査書の作成方法の概要も前記二3(二)のとおりである。
そして、請求の原因2(四)(2)の事実(基本的な生活習慣、自省心及び公共心の項目の趣旨等)は、当事者間に争いがない。
(三) 本件調査書の作成に至るまでの経緯――原告の中学校時代の活動状況等
<証拠>を総合すると、次の事実が認められ、<証拠判断略>他にこの認定を左右するに足りる証拠はない。すなわち、
(1) 原告は、昭和三〇年一一月二六日、宮城県仙台市で父武義、母圭子の長男として生まれ(身分関係は争いがない。)、昭和三六年七月、武義の転勤に伴つて東京に移り、昭和三七年四月東京都千代田区立麹町小学校に入学し、昭和四三年三月同校を卒業したのち同年四月本件麹町中学校に入学し、昭和四六年三月に同校を卒業した(本件中学校の入学卒業関係は争いがない。)。
原告の小学校通学は郊外より片道小一時間を要する住居よりなされたものであるが、小学校時代の原告は低学年次においては目立たないおとなしい生徒であつたが、高学年次においては学級委員に選任され、クラス内で中心となつて雑誌や新聞を作るなど活発に活動した。小学校時代を通じて、学業成績も良く総じて読書に耽つたが、五年生のとき父の罹病を契機に、原告は社会や時代について子どもなりに真剣に考えるようになり、日本の現代史に関する書物を読みあさるようになつていつた。
(2) 本件中学校は、当時世上いわゆる名門校と称せられていた中学校であるが、原告と同時に同校に入学した同学年生は約五〇〇名で、一〇クラスに編成され、原告が同校を卒業するまでの間、同校の生徒数は各学年とも一〇クラス編成合計約五〇〇名宛、総計約一五〇〇名ほどの規模で、当時の校舎等の配置状況は別紙(二)の本件中学校の校舎配置図のとおりであつた。
(3) 原告は本件中学校在学中肩書住居地から通学していたものであるが、第一学年次の原告は、年間を通じ、総じて熱心によりよい成績を得るため勉学に努めた。この結果、原告は、前記二3(四)(1)のとおり優秀な学習成績を修めたうえ、前期には学級書記、班編集係りを務め、積極的で、他の生徒との間も協調的であり、担任はじめ他の教師からも好ましい評価を受けていた。しかしながら、他面原告は、そのころから成績中心の勉学態度に疑問を抱くようになり、読書を通して広く社会に目を開き、当時高揚してきていた学生運動にも関心を持ち始めるようになつた。そして、原告は、昭和四四年一月一八、一九日を頂点として行われたいわゆる東大闘争をテレビ放送を通して見るに及んで強い衝撃を受け、社会的な一個の人間としての自己を真剣に考えるようになつた。
(4) 昭和四四年四月第二学年に進級した原告は、当初は学級委員にも選任され勉学に励んだが、かたわら、前記のごとき過程で芽生えた政治的、社会的問題についての関心事をホーム・ルームの場を通して級友達と討議を重ねるなどして深めていつた。その反面、授業中の態度に教師の反発をかうことも見られるようになり、授業に接する態度に落ち着きを失つたとして教師の信頼を失いがちとなり、学習の成績も前記二3(四)(1)認定のとおり次第に低下していつた。
原告は、同年六月、学級の有志七、八名で担任教諭の承認を得て「砦の囚人」と題する文集を発行した。砦の囚人第一号は、ベトナム戦争に関する問題を主たるテーマとするものであつたが、その他にも小説や詩も掲載されたガリ版刷りのもので、クラス全員及び各学年の各クラスに二部あてくらい配付された。次いで、同年秋の文化祭にはベトナム反戦のフオークソング歌詞を綴つた歌集の砦の囚人第二号を出展したが、文化祭終了後、担任教諭から原告らのした文化祭の展示品に関して外部の一部に誤解が生じていることを理由に続刊の発行を見合せるよう要求され、やむなく続刊を断念した。
第三学期に入つた昭和四五年二月、原告は友人と二人で当時清水谷公園で行われたいわゆるべ平連のデモを見に出かけた。原告らは、右デモに参加するまでの意図はなく制服、制帽を着用し鞄を携帯して赴いたが、私服警察官に見とがめられ、デモに参加したものとして本件中学校に通報された。また、同年三月ころ、原告は、渋谷駅前でカンパ活動に従事している中学生の存在を知り、彼らと話し合いの機会をもちたいと考え、友人と二人でその場に出かけ、その際、原告が暫時そのカンパ活動を手伝つたことがあつた。しかるところ、本件中学校側は原告の右行動を知り、原告を呼出し説論を加えたが、その際原告は、同人が再びこのような行動を繰返したならば、居住地区の地元の中学校に転校させるべく取り計う旨の強い警告を受けた。
第二学年中は、右に認定した以上に原告が他の中学校の門前でビラの配付をしたなどの事実はこれを認めるに足りる証拠はない。
(5) 原告は、昭和四五年三月第二学年を終了し春休みを迎えた。原告はそのころ、自分なりに当時の社会状勢の変化について危機感を抱き、それに対処するため行動すべきではなかろうかと考えつつも、他面高等学校進学のためにはそのような思いを断ち切り、受験のための勉学に励むほかはないと思い定めようとした。しかし、そのためこれからの中学校生活を受験準備のために過すことの空しさを感じ、春休み中は無力感に陥ることが多かつた。
第三学年に進級し(三年E組に所属し、菅野教諭が担任となる。)新学期の始つた四月中旬ころ、原告は、わら半紙にガリ版印刷をした「中学生総反乱」と題するビラ二〇枚くらいを本件中学校内で学友らに配つた。その内容は、原告が抱いていた時代や政治状態に対する危機感を述べ反戦平和を訴えるものであつた。原告は、同校の生徒会規則で校内において許可を受けずにビラまきをすることは禁止されていることを知つていたが、さきに発刊した砦の囚人が第二号かぎりで続刊することを差し止められて以来、自己の訴えを何らかの形をとつて表明したいとの希望を捨て去ることができないでいたところ、前記学校側の強い警告を受けるに及んで、学校側が原告の内心を理解しようとしない態度にあるものと考え、それならば右の規則を破つてでも、その当時自分の考えていたこと、言いたいことを形にし声にしてみたいとの思いから、あえて右のビラを配つたもので、これが原告が不特定人を相手にビラの配付をした最初であつた。学校側は、これに対し、すぐさま学年主任の坂野教諭、担任の菅野教諭が、校内での許可をえないビラの配付は規則に反するとして原告に以後は行わないよう説論し、野沢校長は、原告の父武義を学校に呼出し、家庭での指導による協力を求めた。
次いで、原告は、同月二八日、前同様わら半紙にガリ版印刷の「砦」と題するビラを作つたが、その内容はベトナム戦争などに関してのかねてからの所信を訴えたものであり、右の第一号につづいて同年五月一一日には砦二号を出し、いずれも各五〇部くらいを学友らにひそかに手渡して配つた。原告が学校側の禁止にも拘らずこのように執ようにビラを作成、配付したのは、前記中学生総反乱の中では書きつくせなかつたさまざまな問題について、あらためて自己の所信を表明して訴えたい気持にかられたためであつた。しかし、これがため原告は、生活指導部の小出教諭、坂野教諭らから連日にわたつて呼出しを受け、このようなビラの作成、配付を中止するよう強く説論され、そのため砦三号以下を続いて発行することを取りやめるのやむなきに至らされた。なお、野沢校長は、同月二九日、再度父武義を呼出し、砦に関しての原稿の執筆者、場所、部数、外部とのつながりの有無等についての調査を求め、武義はこれに回答することを約した。
(6) 原告はまた、同年六月一四日、市民団体の主催する日米安保条約の自動延長に反対するデモに参加した。この際、原告はいわゆるべ平連のデモの隊列に普段着のままの服装で参加したが、これは原告にとつて初めてのデモ参加であつた。なお、原告はそれ以降数回ほどデモに参加したが、その中には学校からの要請で家庭における指導の協力を約していた父武義の反対を押切つて参加したこともあつた。
第一学期中の原告には右にみたような行動があつたが、一方、学級活動として副班長を務め、その授業に接する態度も総じて普通で特に表立つような行動もなく、他の学友との間にあつれきを生じたようなこともなかつたが、学習成績は第二学年のときに比べ更に低下したことは前記二3(四)(1)認定のとおりである。
(7) 次に、原告は、同年七月から八月にかけたころ、KMM(麹町中学校マルクス主義研究会の略称の意)を名乗り始め、その後まもなくKMMの名称を麹町中学全学共闘会議(略称、麹町中学全共闘)に変え、以後右全共闘を名乗り、同年八月初めころには原告が中心となり、他校の中学生二〇名くらいと共同して全関東中学校全共闘連合(略称、全中共闘)を結成し、そのころ右全中共闘として市民団体主催のいわゆるべ平連の定例デモに参加した。原告が全中共闘を結成したのは、べ平連のデモに参加するなどして知り合つた他校の中学生との間で共通の問題を討議し、同志を募る場ととしてこれが作られたものであつて、中学生以外の学生や一般人からの指示や指揮などを受けたことはなかつた。しかし、このようにして結成された全中共闘の活動も、夏休み中に右のデモ参加、討論会、街頭カンパをした程度にとどまつた。
(8) 二学期の始業式当日の九月一日、原告は、麹町中学全共闘の機関紙として、関東大震災の際の朝鮮人虐殺問題を扱つた砦三号を発行し、三年生全員の下駄箱に一枚一枚差込んで配付した。それ以降、砦は、麹町中学全共闘の機関紙と称せられて発行が続けられ、昭和四六年一月五日ころまでに九号まで、原告の卒業時までに一六号までが発行された。
(9) 昭和四五年当時、ML派もしくはML同盟と称する学生の集団が存し、同派は日米安全保障条約の自動延長に反対する闘争などを繰り広げ、交番や機動隊に対し火炎ビンや石を投てきして攻撃するなどの過激な活動に及んでいた。原告は、同派の活動に心情的に共感を感じる点もあつて、自らが本件中学校内で同派と関係があるかのごとく誇称したこともあつたが、それは単に勝手にそのような名称を使用したにすぎないだけであつて、原告が同派の集会、活動などに参加した事実はこれを認めるに足りる証拠はない。
(10) 次に、原告は、同年九月一三日本件中学校において開催された文化祭においていわゆる文化祭闘争を行つた。
原告は、第三学年に進級して早々、その所属する社会科クラブの中に政治経済社会研究班を設けようと希望したのに対し学校側がこれを禁止したことに不満を抱いており、学校側がこのような意見発表の場を持つこと自体を禁じておきながら文化祭を挙行しようとすることに抗議し、かつ、本件中学校の教育方針が為政者のとつている海外侵略のための教育の改悪に奉仕するものであると確信し、文化祭はこの秩序を隠蔽するためのものであるとの考えから、これに抗議すべきことをかねてから計画していた。
そこで、原告は、文化祭当日の昼ころ、ほか十名の中学生(うち九名は他校の中学生である。)とともにヘルメツトを着用のうえ覆面をし、竹竿を持ち、当時閉鎖されていた別紙(二)の図面記載の裏側通用門を乗り越えて校内に入り、同校校舎の屋上に上り、文化祭粉砕、受験体制粉砕、定期学力テスト廃止、制服制帽廃止、学内政治活動禁止実力粉砕等を主張する極めて多数のビラをまき、シユプレヒコールをしながら校庭を一周デモ行進して正門から退出した。そのため原告は、所轄警察署署員により補導されるに至つた。
このようなことがあつて、野沢校長は三たび父武義を呼出し、原告が自発的に学校を休むように配慮してほしい旨要請し、原告は武義から学校長の右要請を伝えられたが、無視して登校を続けた。そして、原告は、同月二〇日ころ、九・一三文化祭闘争特集と銘打つた砦四号を、次いで同年一〇月初めに砦五号を発行した。砦五号には、「義務教育管理体制粉砕」、「生徒会自治権を」、「ビラまき、掲示の自由を」、「制服制帽廃止」、「定期・学力テスト廃止」、「検査教科書をつかうな」等のスローガンが掲げられていた。
(11) ところで、本件中学校の生徒会規則では、生徒は登校のときは制服、制帽を着用すべきことと定められ、頭髪についても、制服の詰め襟にかかるほどの長髪は禁止されていたところ、原告はこれに反し、同年一一月中旬ころから幾度か、制服制帽を着用せず、私服で登校をしたり、また、詰め襟にかかるほどの長髪にしはじめた。そして、原告は、そのころ同校校舎の壁面に「全共闘」と、校舎の窓枠に「教育の帝国主義的再編粉砕」、「中学生の政治活動を」と、自分の個人用ロツカーに「解放戦線」、「卒闘勝利」といずれもマジツクインキで落書きしたり、ビラを貼るなどした。原告が落書きなどを始めたのはこのころからで、それまでは落書などしたこともなく、制服制帽も着用していたが、その着用を拒むようになつた理由は、それより少し前の一一月一三日開催された生徒総会の席上、原告が所定の手続を践んで提案した議題について、予め学校側より発言することを禁じられたうえ、議案に関し質問するため登壇し発言しようとしたところ、マイクのスイツチを切られ、教職員より求められて降壇させられ、全生徒の眼前で腕を取り押さえられて発言を封じられたあげく、全生徒の前でその態度を非難されたことからいたく屈辱感を味わい、その際の学校の措置に対する抗議の意を込めて始めたものであつた。
(12) このように、原告の行動は第二学期に入つてからは活発となり、それだけ学校側とのあつれきを増してゆき、原告の欠席、遅刻の日数も多くなつた。しかし、原告は登校した日には授業を普通に受け、進学のための業者のテストも受け、冬休み中には予備校に通い進学のための講習を受け、家族ともども志望校の一つであつた和光高等学校を見学に行くなどして、高校進学の意思は変ることなく持ち続けた。
(13) 一方、本件中学校側においては、原告の前記のような行動に対し、その都度、生徒指導部の小出教諭、学年主任の坂野教諭、原告の担任の菅野教諭らが学内でのビラの配付、砦の発行並びにデモへの参加などは、あるいは学校の規則に反するものであり、あるいは生活の規律が乱れて疲労も残り危険でもあるとの見地から、原告にこれを中止するよう繰返して直接説論し指導に当たつたほか、前叙のとおり野沢校長も原告の父武義を三回ほど学校に呼出し、家庭での指導について協力を求めるなどし、殊に菅野教諭は、再三にわたり直接原告に対し、原告が現に関心をもつている事柄は今直ちに解決しうる事柄ではなく将来にわたつて熟考すべき問題であり、今は中学生として人生の基盤を固める時機であり、そのためには専ら与えられた教科について勉学に励むべきであり、行動を慎しむべき旨を説論し熱心な指導を試みたが、原告の納得するところとならず、原告が前記のような行動を繰返したため、昭和四五年秋ころからのちは、次第に原告と右の件について話合い指導をする機会は少くなつていつた。
(14) こうしたのち、昭和四六年一月から二月にかけて、作成担当者として本件調査書に実際の記入をした菅野教諭及び本件中学校長として本件調査書を作成した野沢校長は、原告について、調査書の行動及び性格の記録所定の「基本的な生活習慣」、「自省心」及び「公共心」につき特に指導を要するものと考え、いずれもCと評定するとともに、C評定をした場合に調査書の備考欄に記載すべき事項については、菅野教諭の作成した原案に野沢校長が若干の加筆をしたうえで成案を得、本件備考欄記載事項のとおりこれを調査書に記入し、かくして、本件調査書が作成された。
(四) 調査書の作成提出行為の性質
中学校の調査書は、前叙のとおり、中学校長が高等学校入学者選抜の資料に供する目的で作成するもので、その内容は生徒の中学校での平常の学習成績、性格及び行動等の評価を表示するものであるから、調査書を作成しこれを高等学校に提出する行為は、生徒の教育を掌る(昭和四九年法律第七〇号による改正前の学校教育法二八条四項、四〇条参照)権能を有する教師の教育評価権の行使というべきである。
(五) 本件調査書作成提出行為の違法性
(1) 憲法二六条一項によると、すべて国民は法律の定めるところにより、その能力に応じてひとしく教育を受ける権利を有するが、この国民の教育を受ける権利は、各自が人間として成長発達し、自己の人格の完成を実現するために必要な学習をするものとして生まれながらに有する固有の権利というべきである。そして、子どもは、自らの力のみによつては、その人格を完成せしめるに足りる学習をすることはできないから、子どもの教育は、子どもの学習する権利に対応し、子どもの人格完成の実現を目指し、専ら子どもの利益のため教育を施す者の責務として行われるべきものである。
(2) ところで、調査書の行動及び性格の記録は、既に述べたように、生徒を性格及び行動について前記各項目の観点からA、B、Cの三段階に分類評定し、必要な場合にはその理由を付記するものであるが、この分類評定及び理由の付記は、生徒の右学習権を不当に侵害しないように、客観的に公正かつ平等にされるべきであることはいうまでもない。したがつて、評定が具体的な事実に基づかないか、評定に影響を及ぼすべき前提事実の認定に誤りがあつた場合、又は非合理的もしくは違法な理由もしくは基準に基づいて分類された場合等には、当該評定は、不公正、又は不平等な評定というべきであり、教師の教育評価権の裁量の範囲を逸脱したものとして違法というべきである。
そして、公立中学校は教育の場であつて、政治活動の場ではないから、当該中学校の生徒以外の者が、直接的にはもとより生徒を通ずるなどして間接的にであつても政治活動をすることは許されないが、教育の目的が生徒の人格の完成をめざし(教基法一条)、思想、信条により差別されるべきでない(同法三条)とされていることにかんがみれば、公立中学校においても、生徒の思想、信条の自由は最大限に保障されるべきであつて、生徒の思想、信条のいかんによつて生徒を分類評価することは違法なものというべきである。また、生徒の言論、表現の自由もしくはこれにかかる行為も、教育の目的にかんがみ最大限に尊重されるべきであるから、右行為が生徒の精神的発達に伴う自発的な行為であるときには、当該学校の正常な運営もしくはその教育環境が破壊されるおそれがあるなど学校側の教育の場としての使命を保持するための利益が侵害されるおそれのある場合は格別そうでないかぎり、右行為を行動及び性格の点においてマイナスの理由とすること、もしくはかかる要因として評価することは、違法な理由もしくは基準に基づく評定として許されないものというべきである。
(3) そこで、以上のような観点から、野沢校長及び菅野教諭が原告に対し、本件C評定をしたことの適否についてみる。
被告らは、原告がC評定をされた「基本的な生活習慣」、「自省心」及び「公共心」の三項目とそれらの具体的な理由として記入された本件備考欄記載事項との対応関係につき、「基本的な生活習慣」の項目には右記載事項の全部が該当し、「自省心」の項目には右記載事項のうち、学校当局の指導説得をきかないとの部分が該当し、「公共心」の項目には右記載事項のうちから指導説得をきかないとの部分を除いたその余の事実が該当する旨主張している。
(ⅰ) しかし、原告が本件中学校内でML派に関係あるかのごとく誇称したことがある事実は前記認定のとおりであるが、前記認定によれば、右は原告がほしいままにML派の名称を使用したにすぎないのであつて、原告が同派の集会に参加するなどして現実に同派とかかわりを持つた事実までは認めることができないから、本件備考欄記載事項には、一部評定に影響のあると認められる事実の認定に誤りがあるといわなければならない。
(ⅱ) 次に、<証拠>によれば、「基本的な生活習慣」とは、生命の尊重・健康・安全の習慣が身についている、正しいことばづかいや能率的な動作ができる、身のまわりを整理整とんする、時間や物資や金銭をだいじにし、合理的に活用するなどを意味すると解されるところ、本件備考欄記載事項は、原告が右の意味での「基本的な生活習慣」を身につけておらず、この点につき特に指導を要する状態にあつたと認めうるようなものとはいえず、また、前記認定の原告の本件中学校における生活行動からも、原告が右のような状態にあつたものということはできない。
したがつて、「基本的な生活習慣」の項についてのC評定は、具体的な事実に基づかない評定というべきである。
(ⅲ) 更に、<証拠>によれば、「自省心」とは、自分の特性や長短を知つている、自分のあやまちを卒直に認める、わがままな行動をしないで節度を守る、謙虚に他人の意見に耳を傾けるなどを意味し、「公共心」とは、決まりや規則を理解して守る、公共物をたいせつにする、公共の福祉のために尽そうとするなどを意味するものと解されるところ、本件備考欄記載事項の事実中、学校当局の指導説得をきかないとの点が「自省心」の項の評定の基礎となつたと認められ、また、右備考欄記載事項中、学校当局の指導説得をきかないとの点を除くその余の諸点が「公共心」の項の評定の基礎となつたと認められる。そして、前記認定の事実によれば、原告が、大学生ML派の集会に参加したとの点を除いては、右記載に照応する行為をしたことは認められるが、原告の右行為は前記二4(三)認定の事実によれば、いずれも中学生としての真摯な政治的思想・信条に基づく言論、表現の自由にかかる行為というべきである。
尤も、これらの原告の行為は、本件中学校側よりすれば、充分な思索と体験を経ない偏頗な思惟に基づくものであるうえ一般の生徒に影響を及ぼすおそれのあるものと危惧したことは想像に難くない。また、原告の行動自体、誇張と煽動を交えいささか穏当を欠くと認められるものもないわけではない。そして、一般に中学校は心身ともにはなはだしく個人差を有する青年期前期にある感受性の強い多数の少年少女の教育をつかさどる場であるから、学校長はじめ教師が、個々の生徒の教育に意を用いるとともに、その人的、物的の教育環境の保持について特段に配意しなければならないことは当然である。しかしながら、一般に中学二、三年時は、青年期前期に見られる第二反抗期にあるものとして、自我形成の途上に伴う不安定な自己主張の出現のため、ややもすれば合理的な判断を欠き青年特有の正義感や独善的な思考より、往往にして既成の秩序に対する激しい反撥的行動となつてあらわれることもありうるもので、このようなことは青年の通常の精神発達の過程における自立性の促進を反映するものともいえよう。したがつて、原告のいささか穏当を欠くと認められる行動も、このような自我形成期らあることを考えると、慎重な配慮をもつて対応しなければならないところであり、原告のとつた一連の行動により本件中学校側との間に多少のあつれき、混乱を生じたことは否定しがたいとしても、原告の行為自体により、直接もしくは多数の同調者が出るなどして、本件中学校の教育活動自体に混乱支障を生ぜしめたとまで認めることはできない。
そうだとすれば、原告の前記行為は、前記説示のとおり中学生として真摯な政治的思想、信条に基づく言論、表現の自由にかかる行為であり、本件中学校側の教育の場としての使命を保持するための利益を侵害したものとはいえないから、原告の右行為を「自省心」及び「公共心」の項においてマイナスの理由とし、またその要因として評価することは許されないものというべきである。したがつて、右各項についてのC評定及びその理由としての本件備考欄記載事項の記載は違法な理由もしくは基準に基づく評定及びその理由の記載というべきである。
(ⅳ) なお、原告が登校時に制服制帽を着用しなかつたり、長髪にしたりしたことなど本件中学校の規則に違反する行為をしたことのあつたことは前認定のとおりであるが、前示のように、右規則違反行為は本件C評定の理由として本件備考欄記載事項には記載されていないから、右行為があつたからといつて、本件C評定を理由のあるものとすることはできない。
(ⅴ) 以上説示したところから明らかなように、原告については、本件調査書において行動及び性格の記録欄中の「基本的な生活習慣」、「自省心」及び「公共心」の三項目のいずれについても特に指導を要するものであつたとしてした本件C評定は、不公正であるか、非合理的なものというべきであるから、右評定は、教育評価権の裁量の範囲を逸脱した違法なものというべきである。
(4) そして、本件C評定及び本件備考欄記載事項の記載は原告の本件各高等学校不合格の結果に対し原因を与えたものであり、右両者の間に相当因果関係があることは前記認定のとおりであるから、右評定の誤り及び本件備考欄記載事項の記載は、原告が本件各高等学校に進学し教育を受ける権利すなわち学習権を侵害したものというべきである。
なお、都教委の定めた本件実施要綱は、私立高等学校に提出されるものについては適用はなく、本件において、和光高等学校等に提出されたものは同要綱の定めるところに事実上準拠して作成されたにすぎないが、原告の学習権を侵害するものであることは、同要綱に基づき作成され都立第二六群に提出された調査書となんら異なるところはない。
5 野沢校長の故意又は過失
進んで、本件調査書を作成提出した野沢校長につき、原告の学習権侵害についての故意、過失の有無を検討する。
調査書が高等学校入学者選抜のための重要な資料となるものであり、しかるに野沢校長は、本件調査書の作成に当たり、行動及び性格の記録欄所定の項目中、「基本的な生活習慣」、「自省心」及び「公共心」の三項について原告の学習権を侵害する態様で原告にとつて不利に評定を誤りその旨を表示したものであることは前記認定のとおりである。そして、野沢校長において、このような本件調査書が本件各高等学校に提出されれば、それがために原告が選抜試験に不合格と判定されることを予測しその結果を認容していたとまでの事実はこれを認めるに足りる証拠はないが、教育専門家である同人が裁量の範囲を逸脱して違法に教育評価権を行使したものであることからすれば原告の学習権侵害について少くとも過失があつたものと認めるのが相当である。
なお、この点について被告らは、野沢校長は調査書の行動及び性格の記録は選抜の資料とはならないものと議論していた旨を主張し、証人野沢登美男はそれに副つて、昭和四五年一〇月ころ行われた都教委の説明会でこのような説明を受けた旨を供述しているが、前示のとおり調査書に関しては、その記載内容中単に学習の記録ばかりでなく、行動及び性格の記録も選抜の資料となることは法規及び都教委の定めた本件実施要綱に照らして明らかであるから、前記証言は措信し難いといわなければならない。また、被告らは、本件中学校では原告のために努力をして向上高等学校受験の機会を得た旨主張する。たしかに、原告が同校を受験した経緯は、前記二3(四)(8)認定のとおり藤野教諭らの努力によるものであると認められるけれども、野沢校長は同校についても、それまでに不合格が判明していた和光高等学校等に提出した調査書と全く同一内容のものを作成提出したものであるから、右事実のみをもつてしては、同人に原告の学習権侵害について過失がなかつたとすることはできない。
三分離卒業式強行の主張(請求の原因3)について
1 本件分離卒業式の実施
請求の原因3(一)の事実は当事者に争いがない。
2 本件分離卒業式の適法性
右争いのない事実に<証拠>を総合すると次の事実が認められ、<証拠判断略>他にこの認定をくつがえすに足りる証拠はない。すなわち、
(一) 原告が本件中学校に入学したのち、第三学年の第二学期末ころまでにした主要な行動は前記二4(三)認定のとおりであり、原告は、昭和四五年七、八月ころからKMM(麹町中学校マルクス主義研究会の略称の意)を名乗り始め、その後まもなくその名称を麹町中学全学共闘会議に改めてその機関紙砦の発行を開始し、同年八月始めころ、原告が中心となつて全関東中学校全共闘連合を結成し、同年九月一三日文化祭粉砕闘争を唱えて、他校の中学生を含む十名とともに裏門を乗り越え本件中学校内に入り、屋上から多数のビラをまいたことなどがあつた。
(二) 原告は、第三学年の第三学期に入つた昭和四六年一月初めころから、春季大闘争と称し、紀元節粉砕や同年三月一八日に予定されていた本件中学校の卒業式に向けての卒業式闘争なるものを標榜し始め、それを唱道し、「卒業式闘争勝利へ進撃せよ」との記事を載せた砦を発行するなどした。原告の標榜した卒業式闘争の内容は、当初は、従来行われてきた卒業式のあり方に反対し、卒業式を通して本件麹町中学校の内包する問題点にふれ、反動化される教育秩序に反対する旨を主張する程度の漠然としたものであつたが、二月に入り、次次と自らが受験した私立高等学校を不合格になつていくなかで、次第に卒業式闘争の内容を、自分の不合格になつた原因が調査書の内容にあるとしこれに抗議をするとともにそのことについても学内で討論すべき旨を訴えるものに改めていつた。
(三) 原告の発行した砦は、前記二4(三)(8)認定のとおり、原告の卒業時までに一六号を数えたが、原告は砦のほか、砦の号外版や砦とは関係なく別個に学校の調査書の作成につき抗議するビラも発行したことがあり、昭和四六年一、二月ころにおけるこれらビラ類の発行は相当頻繁で、そのうち卒業式闘争に触れた砦は四、五回あり、各回ともわら半紙にガリ版印刷したものが三〇〇枚ないし五〇〇枚くらいあつた。原告はこれらのビラ類を他の学友らに手づから配る方法で配付したが、学友の中には原告の主張に共鳴しビラの配付を手伝う者も四、五名ほどいた。しかし、原告は、卒業式闘争を遂行するために他校の中学生と協議し合うなどしたことはなかつた。
原告らのしたビラの配付は、卒業式が近づくにつれて他の学友にも反応を生ぜしめ、原告らが同年二月二五日から同月二七日まで連日にわたり、学校に対する公開質問状や卒業式闘争の継続を主張するビラを配付したところには、原告らの行動に反発を示す者も現われ、原告らと言い争いを生ずるような事態もあらわれるに至つた。
(四) ところで、当時においては、前記二3(五)認定のとおり多数の高等学校が学園紛争に巻き込まれ、かつ、時には卒業式の混乱を生ずる事態すら見受けられたが、高等学校のみならず中学校においても、かつて卒業式が生徒の教師批判の演説のため混乱に陥らしめられた事例が新聞紙などを通じて大きく報道されたことがあつた。
このような状勢下にあつて、野沢校長は、原告が卒業式闘争を主張し始めたころから、原告のそれまでの活動状況にかんがみて、卒業式が原告のいう卒業式闘争によつて混乱に陥る事態の生ずることもありうると思慮し、同年二月二六日ころ、都教委及び区教委の係官と生活指導連絡会を開いて卒業式を正常に実施する方策について指導助言を求め、同年三月三日にも協議を重ね指導助言を求めた。ところで、本件中学校の昭和四五年度の卒業予定者は、原告を含め四九〇名余で、卒業式には卒業予定の三年生のほか、在校生の代表、父兄、教職員及び来賓の列席も予定されていたところ、都教委及び区教委に指導助言を求めていた時点では、原告に対する卒業式を分離して行うことまでは話題とはならなかつたが、そうするうちにも原告は、昭和四六年三月中旬、「卒闘をやりぬけ、自らを問い返そう」という見出しをつけた砦特増号(一五号)を発行して、卒業式闘争を遂行する意思をいつそう明確にした。なお、原告の父武義は、学校側が原告に対する卒業式を分離して行うことを決める以前において、原告が卒業式闘争のビラを作成し、学内で学友らに配付している事実を知つていた。
(五) こうしたのち、本件中学校では同年三月一七日、職員会議を開催し卒業式の実施方策について協議した結果、前記のような状況下においては、原告らが卒業式場においてビラまきや勝手な発言をなすことにより、卒業式に混乱の生ずるおそれがあるものと判断し、右混乱を避けるため、現況では原告とこれに同調する一名の者については本件卒業式に参加させず、これらの者に対する卒業式は分離してするのもやむをえないとの意見の一致を見、野沢校長は右一致した意見に基づき、原告ほか一名に対する卒業式を分離して行うことを決定した。
そして、野沢校長はただちに原告の父武義に対し、自ら電話で事情を説明して協力を求めるとともに、原告に対する卒業式を同月一八日午後一時から保護者同伴のもとで分離して行うのでその時刻に登校するよう通告した。武義は、右通告に対し、原告及び家族に相談して答える旨返答して原告にその旨を伝えることは約したが、それ以上に進んで、原告の保護者として右通告の趣旨を了承したことはなかつた。原告及び母圭子は、武義からの連絡により右通告を知つたが納得せず、圭子は、すぐさま学校に電話して応対に出た菅野教諭に対し、明日の卒業式には午前一〇時の定刻に自分が付添いのうえ原告を登校させる旨伝えた。
なお、野沢校長は、同月一七日、分離卒業式を実施することを決定したのち、都教委に対し、その旨を連絡しその了解を得た。
(六) 原告は、翌一八日午前九時一五分ころ、本件卒業式に出席するため母の圭子に付添われて本件中学校に登校した(この点は争いがない。)。原告は、右登校に際し制服制帽を着用していたが、本件調査書の作成提出に抗議し、その抗議に答えないまま本件卒業式の出席をも拒む学校の措置に重ねて抗議する旨の内容のビラ二〇〇枚ないし二五〇枚くらいを紙袋に入れて持参した。
しかし、学校側は前日野沢校長のした決定に基づき、同日午前一〇時から同校体育館で挙行された本件卒業式への原告の出席を制止し、これに出席させなかつた。次いで、野沢校長は、本件卒業式が終了したのち、同日午前一一時三〇分ころ、校長室で原告に卒業証書を授与することとし、職員を通じ同校内の他の場所にいた原告に校長室に出頭するように伝えたが、原告は校長室への出頭を拒む意向を示したので、区教委教育長の同席立会いのもと、校長室において原告の母圭子に卒業証書を交付した。
思うに、中学校における卒業式は、そこで教育を受け、学び育つて成長してきた生徒が、ともに過してきた学友及び教育の任に当たつてきた教師と一緒に義務教育課程の修了を迎えることを確認し、喜び合うとともに、別離の感をかみしめ、卒業後に踏み出すべき新しい人生への決意を固める場であり、このようにいわば人生の一つの節目ともいうべきときに当たるのを機に、校長はじめ地域社会の諸知輩より祝福並びに有益な助言の与えられる場である。このように、卒業式は単なる始業式や終業式とは意義が異なり、教育活動そのものの一環であり、生徒にとつて中学校時代の最後の学習をする場である。このような意義を有する卒業式は、卒業生が全員一堂に参集して行うことにこそ意義があるものというべきであつて、施設や人数の制約などによるやむをえない事情から卒業式を分離して行う場合は格別、全卒業生及び教師の参加する卒業式が実施される場合には、この式への参加は、生徒の教育を受ける権利すなわち学習権の内容をなすものというべきであり、生徒はこれに出席する権利を有するものというべきである。
しかしながら、卒業式は生徒の個人的意見の発表や、討論のための場ではないし、前記のようなその深い意義に照らせば、卒業式は厳粛な秩序のもとに挙行されることが望まれるものであり、ある生徒の勝手な行動により卒業式が混乱に陥るときは、卒業式のもつ前記のような教育的効果は損われるから、ある卒業生を他の卒業生全員の参集する卒業式に出席させた場合、その生徒の個人的行動により右卒業式が混乱に陥るおそれが十分に予見されるときには、右生徒を他の卒業生全員の参集してする卒業式に出席させないで、分離して卒業式を行うことは、適法な教育上の規制措置といわなければならない。
しかして、前記認定の諸事実、なかんずく、原告が卒業式直前まで卒業式闘争を継続して主唱して行動し、そのビラ配付の活動には数名ではあるが原告に同調してこれを手伝う者もいたこと、原告が前年秋の文化祭当日、文化祭粉砕闘争を叫んで数名の者とともにヘルメツトを着用して侵入し、校舎屋上より多数のビラを散布したこと、卒業式の少し前ころから生徒の中には原告らの行動に反発したりする者も出始め、あつれきを生ずる事態もあつたことなどの事実にかんがみれば、原告を本件卒業式に出席させた場合には、卒業式阻止を唱えて勝手な発言、ビラの散布などの行為に及ぶことにより、卒業式が混乱に陥るおそれが十分に予見され、また、卒業式闘争を取りやめるように原告を説得することは、直接的にはもとより父母を通じての説得指導も困難な状況にあつたこと、学校側も都教委及び区教委に指導助言を求めるなどして慎重に検討したが、分離卒業式以外に有効適切な方策を見出すことができなかつたことなどの諸事情にかんがみれば、野沢校長が、原告を本件卒業式に出席させれば卒業式に混乱を生じさせるおそれがあると判断し、これを避けるため、原告に対し本件卒業式に出席することを禁じ、原告に対する卒業式を他の生徒と分離して実施して実施したことは適法であるというべきである。したがつて、原告のこの点に関する主張は、その余の点について判断するまでもなく失当といわなければならない。
四卒業式当日における逮捕、監歴、暴行の主張(請求の原因4)及びこれに対する抗弁について
1 原告に対する加害行為
(一) 請求の原因4(一)(1)ないし(3)のうち、本件卒業式が昭和四六年三月一八日午前一〇時から行われる予定であつたこと、原告が同日午前九時一五分ころ母圭子に付添われて本件中学校の正門前に到着登校をした事実は、いずれも当事者間に争いがない。
(二) 右争いのない事実、<証拠>を総合すると、次の事実が認められ、<証拠判断略>他にこの認定をくつがえすに足りる証拠はない。すなわち、
(1) 原告が卒業式当日の午前九時一五分ころ登校したのは本件卒業式に参加するためであるが、これより先、原告は、その前日、野沢校長から父武義を通じ本件分離卒業式を行う旨の通告を受けたが右通告に納得できず、これを無視して右時刻に登校したものであり、登校に際しての服装は制服制帽を着用していたが、ビラの入つた紙袋を所持していたことは前記三2(六)認定のとおりである。なお、原告が登校した時刻は、原告と同様に分離卒業式をされることになつた他の一人の生徒が登校したのちであつた。
(2) 一方、本件中学校側では、その前日、前示のとおり職員会議により原告に対する分離卒業式の実施を協議した際、原告が学校からの通告を無視して登校した場合の対策として、原告の本件卒業式への出席を制止し、卒業式闘争をやめるよう本件教室において説得指導に当たることや原告を本件教室まで案内する任に当たる者として五名の教諭を決めるなどして原告の登校した場合に備えたが、前示のとおり、同日に原告の母圭子から菅野教諭に対し、本件卒業式に出席のため当日は定刻に登校させる旨の連絡があつたことから、原告が学校からの前記通告に従わず当日登校する決意であることを知り、その対策を固めた。
(3) 原告が正門前に着いた当時正門は閉鎖されていたため、原告は、別紙(二)の図面記載の正門脇通用門から校内に入ろうとしたところ、付近にいた運動服姿の藤田教諭が原告の前にかけ寄つてきた。同教諭は原告の肩に手をかけ、原告の進行を阻もうとしたところ、そばにいた圭子が同教諭の手を振り払い、原告及び圭子の両名は校内に入つた。その後、原告は藤田教諭が圭子との間で押問答をするすきに、独りで本件卒業式場と定められていた同校体育館の方に向つて歩き出したところ、そのころ他所からかけ寄つてきた藤井教諭、藤野教諭、北見教諭、厚味教諭及び堀越教諭らにとつさに手足をとられ、身体を持ち上げられ宙吊り状態で仰向けにされ、本件教室のある校舎の近くまで運ばれた。同教諭らは、原告を右校舎近くまで運んでその場に降ろしたが、その後も引き続き原告を囲むようにして本件教室まで誘導し、原告を同教室内に連れ込んだ。
(4) 前記藤井教諭及び藤野教諭らは、本件教室内で中にあつた七、八個ほどの椅子のひとつに原告を坐らせた。当時、本件教室内は事前に机、椅子類が片づけられ、二箇所ある出入口のうち、一箇所は机を寄せて閉塞され、他の一方のみが開閉できるようにされていたもので、藤井教諭ら数名が右の出入口付近において原告の行動を見張つていた。本件教室内に連れ込まれた原告は、右のような本件教室内の状況から自由に同教室外に出ることはできないと観念し、しばらくの間、携帯していた書物を読んだりしてすごし、同教室外に出ようとしたこともなかつたが、そうするうち、本件卒業式に出席できないのなら帰宅しようと思い、付近にいた教員に対し、「卒業式に出ないから帰らしてほしい。」と求めたところ、同人からは本件卒業式が終了するまでは同教室外に出さない旨断わられ、その後同日午前一一時すぎまで同教室内にとどめ置かれ、その間その身体的行動の自由を拘束された。原告が本件教室外に出ることが許されたのは、同教室内のスピーカーにより卒業式の終了したことが判明したのちのことであつた。原告が本件教室内にいた間には、付近にいた教員から、卒業式闘争を取りやめるよう指導説得が行われたことはなかつた。
(5) こうして、原告は藤井教諭らにより一時的であるにせよ行動の自由を拘束されたけれども、それ以上に進んで原告が本件教室から外に出ようとしたところをかけ寄つてきた教員によりその場に引き倒され馬乗りにされたとの事実は、これに副う原告本人の供述部分は他にこれを裏付ける資料はなく、ただちに措信できないし、他にこれを認めるに足りる確証がない。
2 右加害行為の違法性
被告らは、前記原告に対して加えられた行為は、原告に対する教育的見地からなされたもので、教育作用の一環として許される範囲内のものであつた旨主張する。
しかしながら、前記認定のもとにおける原告の身体的自由の拘束に原告に対する教育的効果が存するものとは到底解されず、教員らの原告に対して加えた前記諸行為が、学校側の企図した分離による本来の卒業式を円滑に行うための手段としてなされたものとしても、右目的を達するためには、原告が校内もしくは卒業式場に入ることを阻止するなどをもつて足り、そのような手段は容易にとることができたと認められるに拘らず、そのような措置に出ることなく、前認定のようにあえて原告をその意に反して教室内に実力を用いて連れ込み、一定時間同所に拘束したことは、手段として許される相当な範囲を逸脱したものというべきである。
したがつて、藤井教諭らのとつた行為が違法性を欠くものということはできない。
五被告らの責任
1 被告区の責任
(一) 請求の原因5(一)のうち、被告区が地方自治法二八一条二項一号により本件中学校を設置管理しこれに関する教育事務を行う地方公共団体であり、本件中学校の野沢校長、菅野教諭及び藤井教諭らがいずれも被告区の地方公務員である事実は、当事者間に争いがない。
(二) そこで、特別区たる被告区のする教育事務が国賠法一条一項にいう公権力の行使に当たるかどうかについて検討する。
思うに、右にいう公権力の行使とは、国又は地方公共団体がその権限に基づき優越的な意思の発動として行う権力作用のみに限らず、純然たる私経済作用と公の営造物の設置管理作用を除くその他のすべての作用を包含するものと解すのが相当であるから、被告区のする教育事務も公権力の行使に当たるものというべきである。
(三) そして、野沢校長による本件調査書の作成提出行為がその職務行為として行われたものであることは明らかであり、藤井教諭らによる前記の如き本件加害行為も中学校における教育活動の実施に伴い発生したものとして、その職務について行われたものというべきである。
(四) したがつて、被告区は、国賠法一条一項により、本件調査書の作成提出による本件各高等学校への進学妨害及び本件拘束等の加害行為により原告の被つた後記損害を賠償する責任がある。
2 被告都の責任
(一) 請求の原因5(二)の事実は当事者間に争いがない。
(二) したがつて、被告都は国賠法三条一項に基づき、前同様の原告の被つた損害を賠償する責任がある。
六原告の損害
原告は、本件調査書が作成提出されたことにより、進学を志望していた本件各高等学校に入学することができず、定時制高等学校への進学を余儀なくされ、また、思い出になるべき中学校の卒業式の日に母校の教員から不当に身体の自由を侵害されたものである。原告は、当時一五歳の感受性の鋭い少年であつて、右各不法行為により多大の精神的苦痛を被つたことは容易にこれを認めることができる。また、原告本人尋問の結果によれば、原告は、入学した都立新宿高等学校を二年余りで中途退学し、現在はすでに成人に達し、父の出資した出版社で働いているが、希望する全日制普通科高等学校に入学できなかつたため、その間数々の試練と辛酸を経て現在に至つたものであることがうかがわれる。その他これまでに認定した前記各不法行為に至るまでの経緯等の諸般の事情をも総合勘案すれば、原告が被つた右精神的苦痛を慰藉するには、本件調査書の作成提出行為関係については金一五〇万円を下るものではないが、本件拘束等の加害行為関係については金五〇万円をもつて相当と認める。<以下、省略>
(宇野栄一郎 柴田保幸 榎本克巳)
別紙(一)、(二)<省略>