東京地方裁判所 昭和47年(刑わ)4937号 判決 1978年6月23日
被告人 渡邊輝男 外八名
主文
被告人らはいずれも無罪。
理由
第一検察官並びに被告人ら及び弁護人らの主張の要旨
一 公訴事実の要旨
本件公訴事実の要旨は、
被告人渡邊輝男は、映画の製作、販売等を業とする株式会社プリマ企画において、同社の製作する映画の企画、製作等の業務を行うもの、被告人村上覺は、映画の製作、配給、興行等を業とする日活株式会社の映画本部長として、同社の製作する映画の企画、製作、配給、興行等の業務一切を統轄掌理するもの、被告人黒澤滿は、昭和四六年九月三〇日から昭和四七年三月三一日までは同社映画本部長室々長、同年四月一日以降は同社映画本部企画製作部長として、同社の製作する映画の企画、製作等の業務を担当するもの、被告人藤井克彦、同山口清一郎及び同近藤幸彦は、いずれも同社の助監督であるもの、被告人荒田正男、同武井韶平及び同八名正は、いずれも映画業界の自主規制機関である映倫管理委員会の審査員であるものであるところ、
(一) 被告人渡邊は、株式会社プリマ企画と契約した映画監督梅沢薫、日活株式会社従業員(映画営業部長代理)山下敬幸らと共謀のうえ、別表(一)映画「女高生芸者」上映一覧表記載のとおり、昭和四六年一一月二七日から同四七年一月二七日までの間、多数回にわたり、兵庫県神戸市兵庫区湊町三丁目二五番八号所在の映画劇場「日活キネマクラブ」ほか三九か所の映画劇場において、株式会社プリマ企画の製作にかかり、男女の出演俳優らに性交・性戯、婦女凌辱、婦女相互間の性戯等の姿態、それらの間における表情・発声等につき露骨な演技をさせ、これを詳細に撮影・録音した場面等を随所に包含する「女高生芸者」と題するカラー三五ミリトーキー映画(全六巻)を公開上映して、滝耕三ら合計延べ約五〇、二五二名の不特定・多数の観客に観覧させ、もつて、わいせつの図画を公然陳列し
(二) 被告人黒澤及び同藤井は、日活株式会社従業員(プロデユーサー)岡田裕らと共謀のうえ、別表(二)映画「牝猫の匂い」上映一覧表記載のとおり、昭和四六年一二月二九日から同四七年一月二七日までの間、多数回にわたり、愛知県名古屋市千種区今池町一丁目三〇番地所在の映画劇場「今池平和会館」ほか四三か所の映画劇場において、同社の製作にかかり、男女の出演俳優らに前同様の姿態・表情・発声等につき露骨な演技をさせ、これを詳細に撮影・録音した場面等を随所に包含する「牝猫の匂い」と題するカラー三五ミリトーキー映画(全六巻)を公開上映して、関和訓ら合計延べ約六二、一七五名の不特定・多数の観客に観覧させ、もつて、わいせつの図画を公然陳列し
(三) 被告人黒澤及び同山口は、日活株式会社従業員(プロデユーサー)三浦朗らと共謀のうえ、別表(三)映画「恋の狩人」上映一覧表記載のとおり、昭和四七年一月一八日から同月二七日までの間、多数回にわたり、神奈川県横須賀市若松町一丁目六番地所在の映画劇場「有楽座」ほか二八か所の映画劇場において、同社の製作にかかり、男女の出演俳優らに性交・性戯、婦女凌辱、婦女相互間の性戯、婦女の自慰行為等の姿態、それらの間における表情・発声等につき露骨な演技をさせ、これを詳細に撮影・録音した場面等を随所に包含する「恋の狩人」と題するカラー三五ミリトーキー映画(全七巻)を公開上映して、関和訓ら合計延べ約三九、九七〇名の不特定・多数の観客に観覧させ、もつて、わいせつの図画を公然陳列し
(四) 被告人村上、同黒澤及び同近藤は、前記三浦朗らと共謀のうえ、別表(四)映画「愛のぬくもり」上映一覧表記載のとおり、昭和四七年四月一九日から同月二七日までの間、多数回にわたり、東京都新宿区歌舞伎町二〇番地所在の映画劇場「新宿オデヲン座」ほか四四か所の映画劇場において、日活株式会社の製作にかかり、男女の出演俳優らに性交・性戯、婦女凌辱、婦女の自慰行為等の姿態・それらの間における表情・発声等につき露骨な演技をさせ、これを詳細に撮影・録音した場面等を随所に包含する「愛のぬくもり」と題するカラー三五ミリトーキー映画(全六巻)を公開上映して、山本昇ら合計延べ約六四、八二九名の不特定・多数の観客に観覧させ、もつて、わいせつの図画を公然陳列し
(五) 被告人荒田及び同武井は、
(1) 昭和四六年一一月二六日ころ、東京都中央区銀座三丁目九番一八号東銀座ビル内映倫管理委員会試写室において、前記株式会社プリマ企画のもとめに応じ、同社製作にかかる前記映画「女高生芸者」につき、映倫管理委員会の審査員としての審査を行つた際、わいせつの図画である同映画を、ともに、合格と判定し、よつて前記渡邊輝男らの前記(一)の犯行を可能ならしめてこれを幇助し
(2) 昭和四七年一月一三日ころ、同都品川区五反田二丁目一四番一号所在の株式会社東洋現像所東京工場試写室において、前記日活株式会社のもとめに応じ、同社製作にかかる前記映画「恋の狩人」につき、映倫管理委員会の審査員としての審査を行つた際、わいせつの図画である同映画を、ともに、合格と判定し、よつて、前記黒澤、同山口らの前記(三)の犯行を可能ならしめてこれを幇助し
(六) 被告人八名は、昭和四六年一二月一五日ころ、前記株式会社東洋現像所東京工場試写室において、前記日活株式会社のもとめに応じ、同社製作にかかる前記映画「牝猫の匂い」につき、映倫管理委員会の審査員としての審査を行つた際、わいせつの図画である同映画を合格と判定し、よつて、前記黒澤、同藤井らの前記(二)の犯行を可能ならしめてこれを幇助し
(七) 被告人武井及び同八名は、昭和四七年四月一二日ころ、前記株式会社東洋現像所東京工場試写室において、前記日活株式会社のもとめに応じ、同社製作にかかる前記映画「愛のぬくもり」につき、映倫管理委員会の審査員としての審査を行つた際、わいせつの図画である同映画を、ともに、合格と判定し、よつて、前記村上、同黒澤、同近藤らの前記(四)の犯行を可能ならしめてこれを幇助し
たものである、
というのであり、検察官は、被告人渡邊、同村上、同黒澤、同藤井、同山口及び同近藤の右各所為は、刑法第一七五条前段、第六〇条に、被告人荒田、同武井及び同八名の右各所為は、同法第一七五条前段、第六二条第一項にそれぞれ該当する旨主張する。
二 被告人ら及び弁護人らの主張の要旨
被告人ら及び弁護人らの主張は、多岐にわたるが、その要旨は、ほぼ次のとおりである。
(一) 刑法第一七五条は、表現の自由を保障する憲法第二一条に違反する。
(二) 刑法第一七五条にいうわいせつの概念は不明確であり、同条は罪刑法定主義を定めた憲法第三一条に違反する。
(三) 刑法第一七五条を本件各映画に適用することは、幸福追求の自由を規定する憲法第一三条に違反する。
(四) 本件公訴は、刑法第一七五条を適用法条として提起されているが、同条は右(一)ないし(三)のように違憲なものであるから、本件公訴の提起は、無効である。
(五) 本件公訴は、同種の映画などのうち日活関係の本件各映画のみを検挙して提起されたものであつて、公平、公正さを欠き、公訴権を濫用してなされたものである。
(六) 被告人荒田、同武井及び同八名に対する公訴事実は、罪となるべき事実が特定されていない。
(七) 本件各映画は、刑法第一七五条にいうわいせつ図画に該当しない。
(八) 被告人らは、本件各映画について、そのわいせつ性の認識がなく、刑法第一七五条の故意がない。
(九) 被告人荒田、同武井及び同八名については、いずれも幇助の故意がなく、かつまた、本件各映画の上映を阻止すべき法的義務がない。
よつて、被告人らについては、右(四)ないし(六)の理由による公訴棄却、または右(一)ないし(三)、(七)ないし(九)の理由による無罪を言渡すべきである。
第二当裁判所の認定した事実
本件審理において取調べた証拠によれば、次のような事実が認められる。
一 被告人らの経歴等
被告人渡邊輝男は、昭和四二年ころから、映画を製作する株式会社ワールド映画で、映画助監督、舞台演出などをしていたが、昭和四六年五月ころから、株式会社プリマ企画(代表取締役藤村政治)で働くようになり、映画の製作等を担当し、後記のように映画「女高生芸者」の製作等に関与した。
被告人村上覺は、昭和二二年二月日活株式会社(本店所在地は東京都千代田区有楽町一丁目一番地。以下単に日活という。)に入社し、昭和三七年四月配給部長となり、昭和四〇年三月取締役に就任し、その後撮影所長、映像本部長を経て、昭和四六年九月三〇日映画本部長となり、後記のように映画「愛のぬくもり」製作当時も同じ地位にあつた。
被告人黒澤滿は、昭和三〇年三月日活に入社し、撮影所俳優部次長、本社映像本部芸能担当部長などを経て、昭和四六年八月映画本部長室々長となり、昭和四七年四月一日、右映画本部長室の名称替えに伴つて、映画本部企画製作部長となり、後記のように映画「牝猫の匂い」、「恋の狩人」及び「愛のぬくもり」の各製作当時は、右映画本部長室々長の地位にあつた。
被告人藤井克彦は、昭和三三年四月日活に入社し、同年八月ころ助監督となり、映画の製作に従事していたが、後記のように映画「牝猫の匂い」の製作にあたつて、監督として演出を行つた。
被告人山口清一郎は、昭和三七年四月日活に助監督として入社し、映画の製作に従事していたが、後記のように映画「恋の狩人」の製作にあたつて、監督として演出を行つた。
被告人近藤幸彦は、昭和三五年三月日活に助監督として入社し、映画の製作に従事していたが、後記のように映画「愛のぬくもり」の製作にあたつて、監督として演出を行つた。
被告人荒田正男は、昭和二六年ころ当時の映画倫理規程管理委員会の審査員となり、昭和三一年一二月右委員会が改組されて、新たに映倫管理委員会が発足したのに伴い、同委員会審査員に委嘱され、以後同委員会において映画の審査にあたり、後記のように映画「女高生芸者」及び「恋の狩人」の審査を行つた。
被告人武井韶平は、昭和二五年八月ころ当時の映画倫理規程管理委員会の審査員となり、昭和三一年一二月映倫管理委員会の発足に伴い、その審査員に委嘱され、以後同委員会において映画の審査にあたり、映画「女高生芸者」、「恋の狩人」及び「愛のぬくもり」の審査を行つた。
被告人八名正は、昭和三一年一二月映倫管理委員会の発足とともにその審査員に委嘱され、以後同委員会において映画の審査にあたり、後記のように映画「牝猫の匂い」及び「愛のぬくもり」の審査を行つた。
二 本件各映画が製作されるに至る経緯
映画産業は、テレビ産業の飛躍的発展とレジヤーの多様化などの影響により、昭和三〇年代半ばころを頂点として、その後は観客数の減少とともに衰退を余儀なくされて、不振の一途をたどり、映画産業界各社ともその経営は悪化する一方であつた。このような状況下にあつて、日活も経営は悪化し、年々赤字額は増えるばかりで、昭和四五年ころには年間約一〇億円前後の赤字を出すようになつたばかりか、更に、同年四月ころ、企業経営建直しの挽回策として、経費の削減と観客数の回復を目論んで大映株式会社と共同出費して映画配給会社ダイニチ映配株式会社を設立したところ、これも一年足らずで失敗に終り、なお一層の赤字を抱えることとなり、映画製作も一たん中止せざるをえない事態に陥つた。
そこで、日活においては、昭和四六年七月ころ、会社建直しを図るため、会社側及び労働組合側双方の委員より成る経営委員会及び映像委員会がつくられ(被告人村上及び同黒澤は、同映像委員会の構成員であつた。)、経営再建策と今後の映画製作の方針が討議された。その結果、同年九月ころ、経営再建の方策として、映画製作については、大作映画は年間五、六本製作する、児童映画の製作を行う、映画以外のテレビ、コマーシヤル部門にも積極的に進出するなどの方針が打出されるとともに、当時いわゆる独立プロ製作の成人映画(通称ピンク映画)が製作費も低廉であるうえに市場も安定していたことなどから、日活においてもいわゆる成人映画の製作、配給にも乗り出すことが決定された。日活では、右の映画製作の方針に則り、その頃開いた全国の営業所長等の出席する全国営業会議で成人映画製作の方針を説明するとともに、映画本部長室々員による企画会議において、成人映画製作の具体的方針や企画を討議し、同社で作る成人映画は、日活ロマンポルノ映画の名で市場に出すこととし、また、成人映画の演出を行う監督には、助監督の中からも起用することとし、昭和四六年一〇月から成人映画の製作を開始し、第一回作品の「色暦大奥秘話」、第二回作品の「団地妻昼下りの情事」をはじめとして、順次日活ロマンポルノ映画が製作され、全国各地の映画館に配給されて上映されるに至り、本件映画「牝猫の匂い」は第一一回作品、「恋の狩人」は第一二回作品、「愛のぬくもり」は第二八回作品にそれぞれあたる。また、日活は、自社製作・配給映画の穴埋めのため、いわゆる独立プロ製作の成人映画を利用することとし、独立プロの成人映画を買い受けるなどした。
三 映倫管理委員会の沿革、組織及び機能(審査)等
1 (沿革)現在の映倫管理委員会は、昭和三一年に設立されたものであるが、そもそもこうした自主的な映画倫理水準の維持を目的とした制度がつくられたのは、現在の映倫管理委員会の前身である映画倫理規程管理委員会に遡る。右映画倫理規程管理委員会は、昭和二四年六月、当時の映画製作業者等の集りである日本映画連合会により設立されたもので、戦後国家による映画の検閲統制に関する一切の法令が廃止され、憲法上表現の自由が保障され、映画製作の自由が確保されたことに鑑み、当時の占領軍総司令部の指令もあつて映画形式による表現の自由を守り、再び国家による検閲制度を招かないため、映画の社会的影響について製作者自身が自覚し、観客の倫理的水準を低下させるような内容の映画を自主的に排除することを目的として、日本映画連合会が映画倫理規定を定め、これを自主的に管理運用していく組織として設立された。そして、同委員会の委嘱による審査員が映画の実際の審査に当つた。しかし、昭和三一年ころになつて、映画の青少年に対する影響が問題とされたいわゆる太陽族映画問題をきつかけに、それまでの同委員会による規制の在り方に対する批判が起り、映画業界から独立した第三者による規制を行うべきであるとの意見が強くなり、映画業界では同委員会の組織、構成を改める構想を練り、その結果、まず、映画倫理を保持し新たな映倫管理委員会を支える業界組織として、業界四五社の参加する映倫維持委員会がつくられ、同委員会の委嘱に基づいて実際に映画倫理維持のための活動を行い、映画倫理規定の運用にあたる機関として、委員長をはじめ各委員が業界と全くつながりのない学識経験者から成る映倫管理委員会がつくられ、同委員会は、昭和三一年一二月一日に発足し、昭和三二年一月一日から業務を開始した。
2 (組織)映倫管理委員会は、発足当初は委員長及び委員とも非常勤であつたが、後記のようないわゆる映画「黒い雪」事件をきつかけとして常勤委員一名が置かれるようになり、本件各映画が製作、審査された昭和四六、七年当時は、管理委員長高橋誠一郎、管理委員宮沢俊義、同有光次郎、同大浜英子及び常任管理委員池田義信によつて構成され、その下に事務局と、審査部門として管理委員長の委嘱により実際に映画の審査にあたる審査員が存在し、審査員は、映画についての一般的知識及び社会教育並びに国際文化に理解ある者として委嘱されたものであり、当時、邦画担当の審査員として被告人荒田、同武井及び同八名と木村貞雄の四名、洋画担当者として三名、宣伝広告担当者として一名がいた。
また、映倫管理委員会には、青少年映画審議会が設置されており、同審議会は、映画の青少年に及ぼす影響に鑑み、心身の未成熟な青少年に対する対策として、非青少年向き作品の指定(成人映画の指定)、並びに青少年に奨める作品の選出について、映画管理委員会の諮問に応えあるいは助言を与えるために設けられたものであり、学識経験者がその委員となつている。そこで、成人映画の指定は、審査員が審査の際成人向き映画かどうか判定し(審査申請者の方で当初から、成人映画として上映する旨申請してくる場合が多い。)、映倫管理委員会に報告し、これを受けた同委員会が青少年審議会に諮つたうえ、成人映画の指定を行うことになつている(実際には、審査員の審査の際の判定により、ほとんど決まるといつてよい。)。
なお、映倫管理委員会の活動に対しては、常時各方面から意見、要望、照会等が寄せられており、また、同委員会においても、それら各方面との意見交換を行つたり、各種会合に出席して意見聴取を行つている。
3 (審査の実際)審査の実際は、邦画審査の場合一般的に次のように行われている。審査は、映画製作者からの審査申込により行われ、原則として二名の審査員による複数審査制を取つており、製作者からの申込を受けた事務局において順次二名の審査員に割当て、割当てを受けた審査員が審査を行うのであり、その審査は、本来完成映画(ゼロ号プリント)について行えば足りるのであるが、従来からの慣行により、実際には製作者側及び審査員側双方の便宜のため、それ以前の段階で脚本審査及びオール・ラツシユ審査(完成映画について行われる本審査に対して、内審といわれる。)が行われており、まず、審査申込の際、製作者側は作品の脚本を提出することが多く、その場合には、担当審査員はその提出された脚本を読んだうえ、描写が映倫規程に牴触しあるいは描写上注意すべき個所があるときは、製作者側にそれを指摘し、製作者側の意見も聞いたうえ、演出注意、代替案考慮、せりふ削除等の適当な勧告を行い(指摘個所、勧告内容は、審査カードに記入される。)、その後撮影が終りフイルムを粗つなぎしたオール・ラツシユ(粗つなぎの音やせりふのないプリント)ができた段階で、オール・ラツシユ審査が行われ(本件各映画のうち日活製作映画三本にはせりふも入つていた。)、担当審査員は、オール・ラツシユを観たうえ、審査員同志で合議をし、その結果を審査員側の意見として、製作者側の監督やプロデユーサーなどの担当者に伝え、製作者側でそれに対して意見があるときは述べ、両者の間で意見交換を行つて、審査員は、最終的に、切除、短縮、ぼかし等のプリントに対する処置を決定し指示する(審査カードにその旨記入される。)。製作者側では、その後の編集にあたつて右指示に従つた処置を施し、完成映画ゼロ号プリントを仕上げ、最終的な本審査を受ける。本審査においては、審査員は、オール・ラツシユ審査の段階で指示した通りの処置が取られているか否か、せりふはどうかなどについて最終的な検討をし、必要とあればなお処置を要求して(この処置については、通常製作者側の処理に委ねて再び審査することはしない。)、審査合格とするが、この段階でも問題が残るような場合は、次の初号プリントによつて再び審査したうえ、合格とすることもある。なお、審査の過程では、審査員側と製作者側との間で意見が折り合わないなどの場合、審査を何度か繰返したり、担当審査員以外の審査員の意見を参考にしたり、あるいは審査員同志の会議において協議し合う、といつたことが行われる(管理委員会規程上は、再審査制度が設けられているが、実際にこれが行われたことは今日までない。)。そして、審査員が審査した結果は、毎月二回定期的に開かれる管理委員の定例会議に報告され、了承を得ることとなつており、その報告は、通常、前回会議から当該会議までの間に審査された映画を、一覧表形式により報告するものであるが、特に問題となつたり、話題にのぼつたりした作品については、その内容についても報告し、管理委員会全体の意見を聴くということが行われる。
なお、輸入映画である洋画についての審査は、いわゆる税関の検査を受けて輸入を許可されたものについて、輸入配給業者等からの申請により行われ、通常邦画の場合の完成映画に対する本審査と同様の形で行われる。
4 (審査基準)現在の映倫管理委員会発足当時は、以前の映画倫理規程管理委員会当時の映画倫理規程が審査の基準とされ、社会情勢の変化に従つた実際上の解釈を加えて審査が行われた。しかし、右発足当初から新しい映画倫理規程を制定することが目論まれており、前記映倫維持委員会は、発足早々、映倫管理委員会に対して映画倫理規定の改訂について諮問し、昭和三三年三月同委員会から改訂のための意見の答申を受けたうえ、昭和三四年八月一〇日、映画製作者らの守るべき映画倫理として新しい映画倫理規程を制定した(昭和四九年押第一〇三号の一五参照。本裁判に関係する映画における性表現については、その「六、性及び風俗」に規定する。)。また、この新しい映画倫理規程の制定に併せて、その運用を映倫維持委員会から委ねられた映画管理委員会は、同年九月三〇日、委員長名で審査部に対し、審査にあたつての指示として、右倫理規程についての「覚え書」(同号の一五参照。)を示し、更に、審査部において、実際上の審査にあたつての指針となる倫理規程の解釈基準である「具体的了解事項」を定め、この映画倫理規程と「覚え書」が、その後の審査の基本的な基準として運用されていた。
昭和四〇年、映倫管理委員会の審査を通過した映画「黒い雪」が捜査当局より摘発され、関係者が起訴されるといういわゆる「黒い雪」事件が起り、これを契機に、映画倫理規程の解釈のより明確化が必要であるとの声が、管理委員会内外において高まり、その結果、昭和四〇年八月、映倫管理委員会では、当時問題の対象となつていた寝室描写等に関連して、従前の前記「具体的了解事項」を改め、委員長名で、同月一〇日、「『寝室描写』『凌辱描写』の具体的了解事項の明確化について」と題する通達(同号の一七参照。)を出し、これが以後における審査の具体的な基準とされた。
しかし、その後、成人映画が多数製作されたり、外国からも多くのいわゆるセツクスもの映画が輸入されるようになり、また、そもそも右通達が「黒い雪」事件の後に、それを意識してつくられたものであるところから、当初から窮屈であるとの意見もあり、同通達で示された基準は時勢に合わないので審査基準の洗直しが必要であるとの意見が強くなつたため、昭和四四年一〇月、映倫管理委員会内に、管理委員、審査員及び映倫維持委員会加盟会社代表をメンバーとする審査基準研究委員会が設けられ、以後同研究委員会において、新たな具体的審査基準をめぐつての研究、討議が続けられた。本件各映画の審査がなされた当時は、まだその研究、討議は継続中であり、本件各映画が警視庁によつて摘発された後である昭和四七年五月一七日、右研究委員会は、映画倫理規程のうち「性・風俗」の項についての審査基準に関して、中間発表という形で答申(同号の二七参照。)をなし、これを受けて映倫管理委員会は、同月二三日、委員長名でもつて、「映画倫理規程『性・風俗』の項に就いて『映画審査基準』を改め、これを明らかにする」と題する文書「同号の二八、二九参照。)を発表し、前記研究委員会から出された答申をもつて、今後「性・風俗」についての審査基準とする旨公表し、これがその後の審査基準とされた。なお、昭和四四年の前記審査基準研究委員会設置の前後のころから、前記昭和四〇年の委員長名の通達は、実情に合わないとして審査の実際においては、必ずしもそれに拘束されない映画倫理規程の弾力性ある解釈のもとに審査が行われ、また、前記研究委員会での討議内容は、その都度審査員にも伝えられ、審査の実務にも反映されるようになつていた。更に、日常の審査の実務においては、新しい表現内容や描写方法に遭遇したりした場合、週一回開かれる審査員会議で互いに意見交換をして、社会的良識に反しないように表現の許容性を検討し、意見調整を行つたり、具体的な審査基準について相互了解を行うなどして、審査員の個人差をなくし公平に審査できるように努めており(なお、邦画担当審査員も、洋画担当審査員を通して、税関における輸入映画の検査方針、基準を知り得た。)、また、「黒い雪」事件後、審査体制の強化及び管理委員と審査員との意思疎通のために、常任管理委員が置かれ、同管理委員、事務局長、各部門の審査員代表が参加する審査調整会議を通じたり、あるいは個々的に常任管理委員や事務局長を介して、審査員は、管理委員会の意見、見解を認識しうる体制にあつた。そして、本件各映画の審査当時においては、成文化はされていなかつたけれども、具体的な審査基準として了解されたものがあり、邦画担当の審査員四名全員の間には個々の審査にあたつて格別の差異はなかつた。
四 本件各映画の製作、映画審査及び上映の状況
1 映画「女高生芸者」の製作、映画審査及び上映の状況
前記株式会社プリマ企画では設立以来成人映画の製作を行つており、それら映画の企画、製作を担当していたのは被告人渡邊であつたところ、昭和四六年七月ころ、女子学生を主体にした成人映画をつくることとして同被告人が企画し、監督は梅沢薫に、脚本の執筆は矢吹丈こと宮田雪にそれぞれ依頼し、「女学生芸者一発勝負」と題する脚本の第一稿ができた段階で、被告人渡邊や作家宮田、監督梅沢が集まつて協議して書き直しをし、その後キヤストについては、「花文」役には松浦康、「公平」役には木南清、「中条キツ子(秀香)」役には南祐美などを決め、同年一〇月一八日から同月二三日までの間、栃木県塩原温泉にて撮影をし、撮影終了後現像、編集を行い、同年一〇月二六日都内新宿所在の大久保スタジオで、被告人渡邊や監督梅沢、編集員中島照雄らが同席してオール・ラツシユを上映し、映画管理委員会(以下、管理委員、事務局審査部等を包括した総体としての映倫管理委員会を、映倫という。)の審査を受けた。このとき映倫において審査を担当したのは被告人武井であり、当日は時間の都合で半分のみを審査したが、同被告人は、その際、公平と芸者牡丹との性戯場面、町長の猪熊と芸者梅との性交、性戯場面、ポルノ作家蚊風の面前での芸者牡丹と梅との性戯場面などについて、それぞれ短縮するよう要望した。その後、プリマ企画においては、アフレコ、ダビングをして完成した初号プリントを試写してみた結果、題名を「女高生芸者」と変更するとともに、追加シーンを撮影することとなり、村の有力者栄作と芸者梅との情事場面、番頭花文と芸者梅との夢の中での情事場面が追加され、同年一一月二六日映倫試写室で、被告人渡邊や監督梅沢らが出席して、映倫の最終本審査が行われ、被告人荒田及び同武井の両名がこれを担当し、右被告人両名は、追加された栄作と梅との情事場面のうちの性交や接吻の大写しの描写等について、短縮するよう要望したうえ、合格と判定し、成人映画に指定した。こうして映倫審査が終了した映画「女高生芸者」のプリントは、先にプリマ企画と日活との間で取り交されていた配給上映委託契約に基づき、日活側に引渡され、日活においては、プリントを焼増しするなどし、同社の配給システムに従い、映画営業部から直接あるいは管轄の支社、営業所を通じて、別表(一)映画「女高生芸者」上映一覧表記載の神戸市兵庫区湊町三丁目二五番八号所在の映画劇場「日活シネマクラブ」ほか三九か所の映画劇場にプリントを配給し、映画「女高生芸者」は、右各映画劇場において、同表記載の上映期間中、上映、公開された。
2 映画「牝猫の匂い」の製作、映倫審査及び上映の状況
日活では、映画本部長室々長である被告人黒澤が主催し、同室々員全員の参加する企画会議において、日活が製作する映画の企画決定を行つていたが、昭和四六年一〇月初旬開かれた企画会議において、日活ロマンポルノ映画の第一一回作品として、被告人藤井を監督に起用し、先に同被告人から出されていたプロツト(筋書)を採用して、一人のOLの生き様を描いた映画「牝猫の匂い」を製作することを企画決定し、担当プロデユーサーには岡田裕を当て、シナリオライター西田一夫に脚本執筆を依頼した。その後、同月中旬ころ、脚本の準備稿ができた段階で、被告人黒澤及び同藤井や栗林茂映画本部長室次長、岡田プロデユーサー、吉川昭日活撮影所長らが出席していわゆる本読みを行い、それと前後して製作スタツフが決められ、また、キヤストについては、被告人藤井及びプロデユーサーの岡田らが日活撮影所俳優部と協議のうえ、出演者と面接、交渉するなどし、「立花千弘」役に中川梨絵、「藤村信吾」役に仲浩などを決めた。そして、脚本決定稿の完成を待つて、同年一一月四日ころ、当時日活において映倫との折衝にあたつていた映画本部長室調整担当課長安井幹雄が映倫に対し右脚本決定稿を提出して審査を申請し、映倫においては被告人八名と木村審査員とが脚本の審査を担当し、同月八日、千弘と叔父健介との性交場面、電車内での男性乗客と美樹との性戯場面、ホテル内での藤村と千弘との性戯場面、デパートのトイレ内での桐島と美樹との性交場面、待合の一室での岩崎の千弘に対する強姦場面、ホテル内での木塚と千弘との性交場面、自動車内での一郎と恵子の性交場面、乱交パーテイでの男女の性戯場面などについて、演出注意、せりふの一部改訂などの勧告をした。そして、撮影は、同年一一月一八日から日活撮影所などで、被告人藤井演出のもとに行われて、同年一二月三日に終了し、その後アフレコを行い、同月九日、調布市所在の日活撮影所試写室で、被告人黒澤及び同藤井や岡田プロデユーサーらが出席して、映画「牝猫の匂い」のオール・ラツシユ試写上映が行われ、木村審査員は都合で出席できなかつたため、被告人八名のみが審査をした。被告人八名は、審査の結果、電車の中での男性乗客と美樹との性戯場面の短縮、デパートのトイレ内での桐島と美樹との性交場面の一部削除ないし短縮、待合の一室での岩崎の千弘に対する強姦場面の短縮、野外での一郎と千弘との性交場面の短縮などを要望し、同月一五日都内五反田所在の東洋現像所試写室において、ゼロ号プリントを試写上映して、被告人八名が本審査を行い、先に要望したとおりの処置が取られていたので、特に問題なしとして合格と判定し、同時に成人映画に指定した。右映倫審査終了後、日活においては、プリントの焼増を発注し、その納品を受けると直ちにその配給システムに従つて、別表(二)映画「牝猫の匂い」上映一覧表記載の名古屋市千種区今池町一丁目三〇番地所在の映画劇場「今池平和会館」ほか四三か所の映画劇場にプリントを配給し、映画「牝猫の匂い」は、右各映画劇場において、同表記載の上映期間中、上映、公開された。
3 映画「恋の狩人」の製作、映倫審査及び上映の状況
昭和四六年一〇月ころ、被告人黒澤も出席して開かれた日活映画本部長室の企画会議において、日活ロマンポルノ映画の第一二回作品として、被告人山口清一郎を監督に起用して、同人から出されたプロツトをもとに、同人に演出させて映画を製作することを企画し、担当プロデユーサーには三浦朗を当て、脚本の執筆を神代辰巳と被告人山口に委ねた。同年一〇月中旬ころ、「初霜が茂みを濡らした」と題する脚本の第一稿ができあがり、前記調整課長安井がこの脚本を映倫に提出して審査を申請し、映倫においては、被告人武井及び同荒田の両名が右脚本の審査を担当し、今日子と英之との性交場面二か所、ホストクラブでの男女の性交、性戯場面、和男の下宿での和男と久子との性戯場面、今日子の部屋での和男と今日子との性交、性戯場面、今日子の部屋での今日子の自慰行為及び和男と今日子の性交場面、別荘内での今日子と久子との性戯場面、乱交パーテイでの今日子と久子との性戯場面、海辺での和男と久子との性交場面などについて、演出注意、代替案考慮、せりふの一部削除などの勧告をした。その際、脚本第一稿を改訂した同第二稿ができると、被告人黒澤及び同山口や吉川日活撮影所長らが出席して本読みを行つて決定稿を作り、一一月ころには、製作スタツフが決められ、また、キヤストについては、被告人山口及びプロデユーサーの三浦が日活撮影所俳優部等と協議のうえ、「今日子」役には原英美、「久子」役には田中真理、「和男」役には大泉隆などを決めた。そして、撮影は、同年一二月一〇日から日活撮影所やロケ地鎌倉などで、被告人山口演出のもとに行われ、同月二八日ころ終了し、その後アフレコが行われたが、その間、被告人黒澤も出席した企画会議で、題名を「恋の狩人」と変更した。翌昭和四七年一月八日、被告人黒澤及び同山口やプロデユーサーの三浦その他製作スタツフ等が出席して、前記日活撮影所試写室で、映画「恋の狩人」のオール・ラツシユ試写上映が行われ、被告人武井及び同荒田の両名が審査をした。右被告人両名は、審査の結果、ホストクラブでの今日子とじゆんあるいは他の登場人物らの性交、性戯場面、和男の下宿での和男と久子との性戯場面、今日子の部屋での今日子と和男との性戯、性交場面、今日子の部屋での今日子の自慰行為及び和男と今日子との性交場面、今日子の祖父の母に対する凌辱場面、別荘内での今日子と久子との性戯場面、海辺での和男と久子との性戯場面、海辺での和男と久子との性交場面などにおける全裸抱擁描写、性器愛撫暗示描写などについて短縮を要望し、また、短縮を指示した場面のうち今日子の自慰場面及びラストシーンにおける海辺での和男と久子との性交場面については、更に審査をすることとした。被告人山口らは、右要望に従つて、短縮を行い、同月一〇日、部分ラツシユ上映により右二場面について審査を受けたが、被告人武井及び同荒田の両名は、今日子の自慰場面については、今日子が氷を下腹部へ持つていく描写を削除すること、海辺での和男と久子の性交場面については、全裸抱擁の描写にぼかしを掛けることを要望した。そして、同月一三日、前記東洋現像所試写室において、ゼロ号プリントを試写上映して、被告人武井及び同荒田の両名が本審査を行い、先に要望したとおりの処置が取られていたので、特に問題なしとして合格と判定し、同時に成人映画に指定した。その後日活においては、プリントの焼増しを発注し、その納品を受けると直ちにその配給システムに従つて、別表(三)映画「恋の狩人」上映一覧表記載の横須賀市若松町一丁目六番地所在の映画劇場「有楽座」ほか二八か所の映画劇場にプリントを配給し、映画「恋の狩人」は、右各映画劇場において、同表記載の上映期間中、上映、公開された。
4 映画「愛のぬくもり」の製作、映倫審査及び上映の状況
昭和四七年二月上旬ころ、被告人黒澤も出席して開かれた日活映画本部長室の企画会議において、日活ロマンポルノ映画の第二八回作品として、シナリオライターはたの三郎から出されたプロツトを採用して、同年四月封切り予定の映画として仮題名「恍惚の朝」を製作することを企画し、監督に被告人近藤を起用し、担当プロデユーサーに三浦朗を当てることとし、また、そのころ、被告人村上は、映画の企画、製作、配給上映についての最高責任者として、右企画を決裁承認した。その後、製作スタツフが決められ、キヤストについては、主役の「浅見リナ」役には田中真理がすでに企画会議で決められており、その他の役については、被告人近藤及びプロデユーサーの三浦が日活撮影所俳優部等と協議のうえ、「中上助教授」役に仲浩、「中上助教授夫人」役に南条マキ、「学生二宮」役に森竜二などを決め、一方、脚本については、被告人近藤及びプロデユーサーの三浦が右はたの三郎と粗筋を協議したうえ、同人に準備稿の作成を依頼し、同年三月一〇日ころ、準備稿のできるのを待つて、被告人黒澤及び同近藤やプロデユーサーの三浦らが出席して本読みを行い、若干の手直しをし、決定稿ができるや、同月一七日、前記調整課長安井が脚本を映倫に提出して、審査を申請した。また、同月一六日、日活撮影所で映画本部長室及び撮影所の各幹部等関係者による予算会議が開かれ、右映画の製作予算が決定されると、被告人村上は、そのころ右予算を決裁承認し、同映画を製作することを最終的に承認決定した。映倫においては、被告人八名及び同武井の両名が脚本の審査を担当し、ホテルでの中上とリナとの性交場面、中上夫人の浴室での自慰場面、中上宅での学生二宮と中上夫人との性交場面、屋内での石川とチヤコとの性交場面、ホテルでの二宮とリナとの性交場面、マンシヨンでの中上とリナとの性交場面などについて、演出注意、せりふ改訂などの勧告をした。そして、撮影は、同月一七日から同月三〇日までの間、日活撮影所、ロケ地横浜などで、被告人近藤演出のもとに行われ、一方その間に、企画会議において、題名を「恍惚の朝」から「愛のぬくもり」に変更することが決定され、撮影が終るとアフレコが行われて、同年四月五日、被告人黒澤及び同近藤やプロデユーサーの三浦らが出席して、前記日活撮影所試写室で映画「愛のぬくもり」のオール・ラツシユ試写上映が行われ、被告人武井及び同八名の両名が審査をした。右被告人両名は、審査の結果、タイトル前のホテルでの中上とリナとの性交場面のうち全裸抱擁などの描写の一部削除やぼかし、ホテルでの中上とリナとの性交場面のうち後からの抱擁、性交行為描写の一部削除、中上夫人と二宮の最初の性交場面のうち性交行為描写の短縮、せりふの一部省略、屋外での中上とリナとの性交場面の短縮、屋内での石川とチヤコとの性交場面の短縮、ホテルでの二宮とリナとの性交場面のうち抱擁などの描写の一部削除やぼかし、性交行為描写の短縮、せりふの一部省略、二宮と中上夫人との二回目の性交場面の短縮、せりふの一部省略、マンシヨンでの中上とリナとの性交場面の短縮などを要望した。そして、同月一二日、前記東洋現像所試写室で、ゼロ号プリントの試写上映をして、被告人武井及び同八名の両名が本審査を行い、先に要望したとおりの処置が取られていたので、特に問題なしとして合格と判定し、同時に成人映画に指定した。その後、日活においては、プリントの焼増しを発注するとともに、同月一三日日活撮影所試写室で、初号プリントの試写上映をし、被告人村上、同黒澤及び同近藤や撮影所長らが出席して、劇場公開される映画「愛のぬくもり」を観覧し、内容を確認したうえ、配給システムに従つて、別表(四)映画「愛のぬくもり」上映一覧表記載の東京都新宿区歌舞伎町二〇番地所在の映画劇場「新宿オデヲン座」ほか四四か所の映画劇場にプリントを配給し、映画「愛のぬくもり」は、右各映画劇場において、同表記載の上映期間中、上映、公開された。
第三当裁判所の見解及び判断
一 弁護人らの公訴棄却の主張について
刑法第一七五条の合憲性については、後記二のとおりであり、また、本件審理において取調べた証拠によつても、本件公訴の提起が公平、公正さを欠き公訴権を濫用してなされたものであるとは認められない。更に、被告人荒田、同武井及び同八名に対する公訴事実の記載には、罪となるべき事実の特定に欠けるところはないと解される。
よつて、弁護人らの公訴棄却の主張は、いずれも採用できない。
二 刑法第一七五条の合憲性について
刑法第一七五条が憲法第一三条、第二一条、第三一条に違反するものでないことは、最高裁判所の判例(昭和三二年三月一三日大法廷判決・刑集一一巻三号九九七頁、昭和四四年一〇月一五日大法廷判決・刑集二三巻一〇号一二三九頁等)の趣旨に徴し明らかである。
付言すると、刑法第一七五条は、性的秩序を守り、最少限度の性的道徳を守るという合理的理由に基づく規定であるといえるので、憲法第一三条、第二一条に違反するものとはいえないのである。弁護人ら主張のように、他国の中にはいわゆるポルノ解禁といわれて、性交あるいは性器それ自体を描写した映画がすでに刑事罰の対象から除外されている国もあるけれども、それは、その国の性に関する風俗、習慣や社会事情などを考慮したうえでの立法政策に基づくものとみられるのであり、わが国においては、現在そのような政策をとつていないのである。また、刑法第一七五条にいう「わいせつ」の概念が不明確であるといえないことについては、次に説示するとおりである。
三 刑法第一七五条の解釈及びその適用について
1 刑法第一七五条にいう「わいせつ」の概念については、弁護人においても縷々述べるところであるが、最高裁判所の判例においては、同条にいう「わいせつ」とは、「いたずらに性欲を興奮又は刺激せしめ、かつ、普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反すること」を意味するとされており(昭和二六年五月一〇日第一小法廷判決・刑集五巻六号一〇二六頁、昭和二七年四月一日第三小法廷判決・刑集六巻四号五七三頁、前記昭和三二年三月一三日大法廷判決、前記昭和四四年一〇月一五日大法廷判決、昭和四五年四月七日第三小法廷判決・刑集二四巻四号一〇五頁等)、当裁判所としても、弁護人の主張するところにはなるほど傾聴すべき点が存するとはいえ、「わいせつ」という概念の一般的な定義づけとしては、最高裁判所の判例に従うのが妥当であると思料する。しかしながら、最高裁判所の判例の示すところは、「わいせつ」概念の一般的、抽象的な定義であつて、その具体的な内容ないし適用については、なお考慮を要する点が存する。すなわち、いわゆるチヤタレー事件に関する前記最高裁判所昭和三二年三月一三日大法廷判決も述べるように、いかなるものが右にいうわいせつの要件を満たすかは、裁判所が一般社会において行われている良識すなわち社会通念に従つて判断しなければならないところ、この社会通念は、所によりまた時代とともに変遷するものであり、わが国においても、性に関する国民の意識に変化が認められ、以前には禁遏されるべきであると考えられたような絵画、写真、小説等が公刊、公開されていて、それを異としない意識もあるのであつて、問題となつている物件がわいせつ物にあたるかどうかを判断するについては、このように判断の基準となる社会通念自体にも変遷があるものであることを考慮したうえ、その判断時点での社会における良識すなわち社会通念がいかなるものであるかを洞察することが必要である。
そして、このような社会通念によるわいせつか否かの判断は、困難さを伴うものであることは否定できないけれども、通常の判断能力を有する一般人にとつて、ある物件がわいせつであるかどうかを識別することは不可能ではないのであつて、わいせつの概念が不明確であるとはいえないし、また、裁判所がその判断をすることは、当然のことながら可能であり、その困難さは他の法解釈の場合と同様であるといえるのである。
ところで、本件においてわいせつか否かが問題となつているのは、映画であるところ、わが国における現在の時点においては、性器そのものを描写したり、実際の性交行為や性器愛撫行為を実際の性交や性器愛撫とわかるように描写した映画さえもわいせつに当らないと考えるのが社会通念になつているとは、いまだいえないことは明らかであるというべきであるが、そのような描写のある映画ではなくして性器や性交や性器愛撫を連想させるような描写があるにすぎない映画の場合には、その描写がどの程度まで許容されると考えるかが問題であり、その点についての社会通念を判断するにあたつては、今日における国民の多様な価値観、倫理観、性に関する意識、娯楽に対する観念、更には現代の世相などを広く考慮に入れて判断しなければならないと考える。
2 次に、本件において問題となつているのは、映画の中でも映倫の審査を通過した一般劇場公開用の映画であるが、こうした映倫審査を通過した映画に対する刑法第一七五条の適用については、次のように考える。
(一) 刑法第一七五条のわいせつ物処罰の目的は、性道徳、性秩序の維持にあり、それは「最小限度の道徳」を維持すること(前記チヤタレー事件に関する最高裁判所昭和三二年三月一三日大法廷判決参照。)を目的とするものであるが、こうした性道徳、性風俗の維持は、まず第一次的には、宗教、教育(学校教育のみならず、広く家庭教育、社会教育等も含めて考えてよい。)、その他国民の社会的良識などの法以外の社会的規制手段に依るべきであり、法、特に刑事罰がこれら道徳、風俗の維持に直接乗り出すのは、法以外の社会的規制手段、規制機構が十分機能しない場合に限られるべきであり、それが法の謙抑性に合致するであろうと考えられる。それは、そもそも道徳、風俗といわれるものの内容自体が時代により変化、変遷するものであるから、こうした性質をもつ道徳や風俗の擁護、維持は、まず第一に法以外の規制手段、規制機構による社会の自己規制機能に委ねるのが妥当であると思料されるからである。
そこで、本件におけるように一般劇場公開用の映画の場合考慮しなければならないのは、映倫による審査制度の存在である。
(二) 全国の映画興行業者のほとんどは、それぞれ各都道府県の興行環境衛生同業組合に所属し、同組合の全国組織である全国興行環境衛生同業組合連合会の適性化基準(厚生大臣の認可を受けている。)や、それを受けた右各都道府県の組合の適性化規程には、組合員は映倫の審査に合格していない映画を一般興行用として上映してはならない旨定められていることに示されるように、本件各映画が製作、公開上映される以前から、つとに映倫の審査を通過しない映画を国内の一般の劇場で上映しないとの慣行が映画興行界では確立し、映倫の審査を通過しない映画は日本国内の一般の劇場で上映できない状況下にある。
そして、映倫の沿革、機構、機能等については、先に認定判示したとおりであつて、そもそも映倫は、映画の製作、輸入、配給を行う業者等の自主的な規制機関として、観客ひいては国民一般の倫理的水準を低下させるような映画の提供をきびしく抑制することを目的としてつくられたものであり、その組織機構、実際の構成、運営においては、映画製作業者等の関係業界からは独立し、かつ国民各層、各方面の意見と良識を反映し得るとともにその活動に対しても一定の評価を与え得る組織として存在し、審査の実際においても、一般的に見て、審査が審査員の恣意的、独断的な判断に委ねられたり、映画製作業者らの言いなりになつたり、あるいはそれにおもねて審査に公正を欠いたりしたなどの事情は認められず、各方面からの意見を汲取つて社会的良識に反することのないように表現の許容性を検討しながら、映倫設置の目的と趣旨に沿う審査を行うべく努力が重ねられ、本件各映画の審査当時までにも数多くの映画を審査し、その結果については社会的な信頼を得、すでにわが国内においては、その実績に対して一定の社会的評価と信頼が存すると認められる。
しかも、映倫審査は、特定の映画についてその場限りのものではなく、具体的な審査基準に基づいて日日新たな映画についてなされるのであり、ある特定の映画において許された描写はその映画のみでなく他の映画においても許されるというように連続性のあるものである。従つて、もし仮にある映画がわいせつであると判断されるときには、その映画の審査が当時の具体的な審査基準から逸脱していない限り、当然にその映画と前後して審査を通過した映画の中にもわいせつなものがあることを示すことにもなるのであつて、映倫審査の結果の及ぼす影響は大きく、それだけ映倫審査は大きな社会的役割を担つてきたといえるのである。
このように、映倫審査制度は、かつて映画「黒い雪」事件という望ましくない出来事があつたけれども、映画による性道徳、性風俗の侵害の防禦という点に関して、本件各映画の審査当時には、すでに一定の定着した社会的役割を果していたものといえ、それはいわば社会的良識による性道徳、性風俗の維持であり、一つの社会的規制手段であるということができる。
そうすると、本件のように映画のわいせつ性が問題となつている場合、映倫審査制度の存在する一般劇場公開用の映画であつて映倫の審査を通過したものであるときには、前記のように映倫の審査が性道徳、性風俗の維持のための社会的規制手段であり、その審査が具体的な審査基準に基づいて社会的良識に反することのないように表現の許容性を検討しながらなされていることなどに鑑み、わいせつ性の判断にあたつては、映倫の審査の結果をできるだけ尊重するという見地に立つて判断するのが妥当であると考える。
なお、この点に関して付言すると、映倫の審査は、本来その目的からすれば、刑法第一七五条のわいせつにあたる映画はもちろん、わいせつとはいえなくても倫理水準を低下させるような映画の提供を抑制するのであるから、審査を通過したものは、通常はわいせつか否かの限界に至らない段階のものであろうし、それが望ましいといえよう。また、ポルノ解禁というような声のある昨今であるとはいえ、わが国においては、現在、刑法第一七五条は厳として存在しているのであるから、映倫審査においては、映画業界の圧力に屈して抑制すべきものを抑制せずいわゆる「隠れ蓑」になつているなどといわれるようなことがあつてはならないのである。そして、もし映倫の審査結果と裁判所の判断とが一致しないような事態が生じたときには、当然に裁判所の判断が優先することはいうまでもないのである。
3 本件各映画に対する映倫の審査については、前記認定のとおりであり、いずれも脚本審査、オール・ラツシユ審査及び本審査が行われ(なお、映画「女高生芸者」については、脚本審査が行われていない。)、担当審査員が当時の具体的な審査基準に従つて表現上問題となる場面について一部削除、短縮などを要望し、その要望に従つて処理がされたことを確認したうえで(映画「女高生芸者」については、要望に従つた処理がなされることの確認を得たうえで)、合格としたものであり、担当審査員が製作者側と馴れ合つたり、製作者側の圧力に屈したとか、審査員が社会的良識を無視して審査にあたつたとかの事実は全く認められず、当時成文化はされていなかつたものの邦画担当の審査員全員の間で了解されていた具体的な審査基準に則つて審査したものであることが明らかである。もつとも、具体的な審査基準については、審査が日々行われるものであることからすると、改訂の必要が生じた都度新しい基準を成文化した方が審査員にはもちろん映画製作者側にも徹底し、審査の不公平をなくすのに有効であり、望ましいことはいうまでもないが、本件各映画の審査当時においては、新しい基準を成文化する必要は認められながらも、いまだ成文化されるまでに至らず、そのため邦画担当の審査員全員の間で了解されていた具体的な審査基準に従つて審査せざるをえなかつたもので、当時の状況下においては、審査員としてはやむをえなかつたものというほかない。邦画担当の審査員四名全員の間で具体的な審査基準が了解されていたことは、本件公訴の対象となつた映画の担当審査員が特定の者でなく四名中三名であつて、特定の審査員の審査した映画だけが性的な描写において問題があるとされていないことや、他の審査員一名は本件映画「牝猫の匂い」の担当者であつたがたまたま都合で審査にあたらなかつたものであり、本件各映画と性的な描写において同程度とみられる日活製作の映画「団地妻昼下りの情事」を被告人荒田とともに審査し合格としていることからも窺えるのである。のみならず、映倫管理委員会においては、本件各映画がわいせつ映画の疑いで検挙されたのち、担当の審査員に対し、その審査に関して注意等の処分をしたこともないのである。
従つて、本件各映画のわいせつ性の判断にあたつては、映倫の審査の結果は十分に尊重できるものであるということができる。
四 本件各映画のわいせつ性について
1 まず、わいせつ性の判断にあたつて、映画であるということから特に考慮する必要があると考えられるのは、次のようなことである。
映画の性質ないし特徴としては、映画は、映像と音声より成り、映像が動き、かつ、映像の写し出される個々の画面が一定の速さで次々と転換変化していくことにあるといえよう。すなわち、それは動く映像により視覚に訴えるものであるため、与える印象は直接的で強く、また、そのため刺激も強いものになりうるのであり、一方、写し出された画面には人物等の映像に動きがあり、俳優達の演技通りに画面に写し出されるのであつて、画面は、色彩や音声と相まつて臨場感を与え、現実的、迫真的となり、観る者に与える印象、暗示力は強いものがある。しかしまた反面、写真のように画面が静止状態になく、刻々変るため、前後の事情もわかり、また、画面の動き具合によつては、瞬間的に視覚に感じるだけで、はつきりした印象として残らないような場合もあり、その意味で、写真におけるように静止した映像を凝視するときよりも、印象が弱かつたりあるいは印象がほとんど無かつたりして、刺激性が弱かつたりあるいはほとんど無い場合もある。
ある特定の映画がわいせつかどうかは、もちろん個々の場面の集積によつて構成された一つの作品としての全体としての映画がわいせつなものかどうかの判断ではあるが、映画は、一つ一つの場面の集積により一つの作品が構成されているのであるから、やはり、まず個々の場面についてそのわいせつ性を検討し、そのうえに立つて、個々の場面の集積された全体としての映画のわいせつ性を判断すべきである。もちろん、個々の場面のわいせつ性を判断するに当つては、全体としての映画の性格、その場面の全体としての作品の中に占める位置関係、前後の脈絡などを考慮する必要があるのは当然である。
2 次に、本件各映画のわいせつ性について個々具体的に検討することにするが、本件各映画は、いずれも男女の性器そのものを描写したものではないし、また、実際の性交行為や性器愛撫行為を実際の性交や性器愛撫とわかるように描写したものでもなく、検察官主張の後記性交場面とか性戯場面とかいうものは、俳優達があたかも性交や性器愛撫をしているかのような演技をしているのを写したものであつて、いわば性交や性器愛撫のまねごとであり、観客に性交や性器愛撫をしているように暗示を与え連想させるものである。従つて性器そのものを描写したり、実際の性交行為や性器愛撫行為を実際の性交や性器愛撫とわかるように描写したいわゆるブルーフイルムとは全く異なるものである。
ただ、本件各映画は、演技によるものであるとはいえ、ロマンポルノといわれることからも明らかなように、それぞれ一つのストーリーに従つて、性交や性戯等の場面が設定されており、観客に暗示を与え連想させて、性的刺激を与えようとしているのである。
そこで、本件各映画が社会通念上、露骨で、過度に性欲を興奮又は刺激させるといえるか、普通人の正常な性的羞恥心を害するといえるかなどのわいせつの要件に該当するかどうかについて検討することとする。
(一) 映画「女高生芸者」について
検察官は、本件映画においてわいせつな場面として、(1)旅館の主人公平と芸者牡丹との性戯場面、(2)町長猪熊と芸者梅との性戯場面、(3)ポルノ作家蚊風の面前での牡丹と梅との女性同志の性戯場面、(4)蚊風の芸者秀香に対する強姦場面、(5)村の有力者栄作と梅との性戯、性交場面、(6)バスの中での村の若者と栄作の娘との性交場面、(7)夢の中での旅館番頭花文と梅との性交場面などを指摘する。
そこで、これら場面を含む本映画について検討するに、右各場面は、全裸あるいはそれに近い姿の男女が登場し、男女の絡み、抱擁の姿態を描写していて性交や性戯の模様を連想させるように描いたものであるが、この映画の特徴は、全体が喜劇風に作られており、登場人物の風体、仕草等も面白おかしく、滑稽にあるいはわざとらしく不自然に感じる程にも描かれており、これら映画全体の性質、個々の場面における演技の滑稽さ、わざとらしさが、右各場面における描写の現実感、迫真性を弱め、性的な好奇心を殺いで刺激性を減殺しているものといわざるをえない。
検察官指摘の各場面についてみると、前記認定のように、(1)、(2)、(3)の各場面は、オール・ラツシユ審査の際に短縮を要望され、(5)の場面は、本審査の際に性交や接吻の大写しの描写等について短縮を要望され、それぞれ処理されたものであり、他の各場面は、審査の際には特に問題がなかつたものであるが、この映画における描写は、本件の他の三本の映画と比較してみても、むしろ抑えられた表現となつており、描写時間が全般に短く、また、せりふも短く、これらの場面が性交や性戯などを連想させて何程かの性的興奮ないし刺激を与えるものであることは間違いないとしても、いまだ、露骨で卑わい感を与え性的羞恥心を害する程のものとはいえない。
すなわち、(1)の場面は、男性が女性の下半身に顔をうずめて性器愛撫を連想させる描写があるが、むしろ女性が足指で金庫より金をはさみ取り、また男性がそれを取返すというような描写もあり、男女の金銭と色欲とを描いたおかしさ、滑稽さの目立つ場面である。(2)の場面は、男女が重なり合い性交を連想させる描写があるが、男性は下帯をしており、両者の腰の動きというようなものもない。(3)の場面は、全裸の女性同志が両足を交叉させ股間を密着させて腰を動かすというような描写があるが、その間の動作やせりふ、音声などからもわざとらしさの目立つ場面である。(4)の場面は、男性が全裸の女性に乗りかかり強姦を連想させる描写があるが、男性は下帯をしており、腰の動きはあるが局部は紙くずの山で隠されている。(5)の場面は、男性が全裸の女性に乗りかかつたり、下半身を密着させて腰を動かし性交を連想させる描写があるが、男性は下帯をしており、尺取虫のような動作をしたりしていて、滑稽さの目立つ場面であり、また、フレンチキスの大写しとミルクが注がれるシーンも、瞬間的には女性性器等を連想させないでもないが、仔細に見るならば、それがそういうものの描写でないことは割合容易に認識でき、続く場面の転回によつてそれがいかなる場面であつたかが直ちに了解できるものである。(6)の場面は、男性が全裸の女性の股間に入り性交を連想させる描写があるが、男性は下帯をしたままであり、いわゆる体位のずれも認められるのである。(7)の場面は、女性が男性に乗りかかり性交を連想させる描写があるが、直接露骨とみられる仕草などは認められないのである。以上のとおりであつて、右各場面は、いずれもいまだ、露骨で卑わい感を与え性的羞恥心を害するようなものとはいえないのである。
従つて、映画「女高生芸者」には、わいせつな描写は存在せず、映画全体としてもわいせつなものとは認められない。
(二) 映画「牝猫の匂い」
検察官は、本映画においてわいせつな場面として、(1)タイトル前の千弘と叔父との性交場面、(2)電車内での男性乗客と美樹との性戯場面、(3)ホテル内での藤村と千弘との性戯場面、(4)デパートのトイレ内での桐島と美樹との性交場面、(5)待合の一室での岩崎の千弘に対する強姦場面、(6)浴室及び寝室での千弘と若い男との性戯、性交場面、(7)ホテル内での千弘と木塚との性交場面、(8)自動車内での一郎と恵子との性戯場面、(9)野外における千弘と一郎との性交場面、(10)乱交パーテイでの男女の性交、性戯場面などを指摘する。
そこで、これらの場面を含む本映画のわいせつ性について検討するに、右各場面は、男女による性交や性戯の模様を連想させるように描いたもので、全裸あるいはそれに近い姿の男女が登場し、男女が絡み抱擁などするさまざまの姿が描写されているのであるが、右各場面は、前記認定のように、その多くが脚本審査の際に演出注意などを勧告され、(2)、(5)、(9)の各場面は更にオール・ラツシユ審査の際にも一部削除、短縮などを要望され、それぞれ処理されたうえ、本審査において合格とされたものであり、全般的にみると、この映画では、性交、性戯場面の表現方法としては、顔の表情や音声などによつているところが多く、性交、性戯を連想させるように描いている場面においても、男女の体の一部の描写に過ぎなかつたり、性交、性戯を連想させる男女の動作も途中でカツト中断されていて、それらの行為の部分的描写に止まり、性交、性戯を連想させる具体的動作を微に入り露骨に描写するということはなく、また、男女の絡み、抱擁の全景描写であつても、男女の交接を直接想像させる腰部付近は、画面上毛布あるいは電灯等のしやへい物でもつて隠されたり、遠景描写であつたり、あるいは描写角度を工夫するなどされているのであつて、これらの場面が性交や性戯などを連想させて性的興奮ないし刺激を与えるものであることは間違いないとしても、いまだ、露骨で卑わい感を与え性的羞恥心を害する程のものとはいえない。
すなわち、(1)の場面は、全裸の男女が抱擁して性交を連想させる描写があるが、局部は毛布で隠され、体位のずれもみられるのである。(2)の場面は、男性の手が女性の大腿部に伸びパンテイをずり下げ、陰部に入れようとする描写があるが、それもその直前で終つている。(3)の場面は、全裸の男女が抱擁して性交を連想させる描写があるが、性交体位ではなく、男性の体の動きもなく、女性のせりふで性交を暗示しているにすぎない。(4)の場面は、便器に腰かけた男性の膝の上に下半身裸の女性が座り性交を連想させる描写があるが、明らかな性交体位とはいえないし、男女の体の動きもそれほど鮮明に描かれているわけではなく、描写角度にも考慮が払われて腰部の密着を露骨に表現する描写もない。(5)の場面は、全裸の男性が全裸の女性にのしかかり性交を連想させる描写があるが、性交体位となつた男女の姿態を直接描写しておらず、女性の表情や音声で性交を暗示するものである。(6)の場面は、全裸の男女が重なり合い絡み合うというような全景の描写があり、性交を連想させる場面として大胆、煽情的ともいえそうな描写ではあるが、腰部付近は電球などで隠されており、それ程卑わい感を与えるものではない。(7)の場面は、男性が女性を膝の上に乗せたりなどして性交を連想させる描写があるが、男性はガウンを着ているし、明らかな性交体位でもない。(8)の場合は、特に問題とするほどの描写はない。(9)の場面は、全裸の男女が抱擁して性交を連想させる描写があるが、遠景描写であるし、性交体位となつた男女の姿態を直接描写したものでもない。(10)の場面は、多数の男女の性交、性戯の模様を連想させる描写があるが、男性は着衣を着けており、また、次々と登場人物が変化して場面は転回し、個々の男女の性交、性戯を描く時間も極く短く、多人数が登場するため、かえつて注意が散漫になるという面がある。以上のとおりであつて、右各場面は、いずれもいまだ、露骨で卑わい感を与え性的羞恥心を害する程のものとはいえないのである。
従つて、映画「牝猫の匂い」には、わいせつな描写は存在せず、映画全体としてもわいせつなものとは認められない。
(三) 映画「恋の狩人」
検察官は、本映画においてわいせつな場面として、(1)ホストクラブにおける今日子とじゆんその他の男女らの性交、性戯の場面、(2)和男の下宿での和男と久子との性戯場面、(3)今日子の部屋での今日子と和男との性交、性戯の場面、(4)今日子の部屋での今日子の自慰行為及び和男と今日子の性交場面、(5)今日子の祖父の母に対する凌辱場面、(6)別荘内での今日子の久子に対する性戯場面、(7)乱交パーテイでの今日子と久子との性戯場面、(8)海辺での和男と久子との性交場面などを指摘する。
そこで、これらの場面を含む本映画のわいせつ性について検討するに、右各場面は、男女による性交や性戯、女性の自慰、女性同志の性戯などの模様を連想させるように描いたもので、全裸あるいはそれに近い男女が登場し、男女が絡み抱擁などするさまざまの姿が描写されているのであり、本映画には、本件の他の三本の映画と比較しても大胆といえそうな描写が随所に存するといえよう。
しかしながら、右各場面は、前記認定のように、その多くが脚本審査の際に演出注意や代替案考慮などを勧告され、(7)を除く各場面についてはオール・ラツシユ審査の際に短縮などを要望され、更に(4)、(8)の各場面は部分ラツシユの審査をうけて一部削除やぼかしを掛けることなどを要望され、それぞれ処理されたうえ、本審査において合格とされたものであり、大胆ともいえそうな描写も極く短時間に止まつていたり、体の動きが部分的であつたり、体位のずれが割合はつきりしていたり、ぼかしがしてあつたりなどしてあるのであつて、これらの場面が性交や性戯、自慰などを連想させて性的興奮ないし刺激を与えるものであることは間違いないとしても、いまだ、露骨で卑わい感を与え性的羞恥心を害するものであると断定するには躊躇を感ぜざるをえない。
すなわち、(1)の場面は、全裸の男女の性交を連想させる描写があるが、ややぼかしが入つており、また、男性が女性のパンテイに手を入れて愛撫しているかのような描写もあるが、その女性の股間部に体液が付着していると連想させる描写がわざとらしく、一見して人為的に油を塗つたと判るものであり、性的刺激を殺がれるのである。(2)の場面は、特に問題とするほどの描写はない。(3)の場面は、女性の男性性器への接吻を連想させる描写があるが、下腹部に顔を近づけるだけであり、また、全裸の男女が抱擁して女性の表情や音声とともに性交を連想させる描写があり、かなり大胆で露骨ともいえそうであるが、演技がオーバーで不自然さを感じさせるうえ、体の動きは部分的にしかも極く短時間しか写されておらず、体位のずれも割合はつきりしている。(4)の場面は、全裸の女性が股間部に手を差入れるなどして悶え自慰行為をしていると連想させる描写があり、それもかなり長く煽情的ともいえそうな描写であるが、その演技もオーバーであり、かえつて不自然で奇異な感じさえも与える結果となり、性的刺激性をそれほど強いものとはしていないし、また、下半身裸の男性が全裸の女性の股間に割り込み女性の表情や音声とともに性交を連想させる描写もあり、大胆で露骨ともいえそうであるが、この描写については前記(3)と同様のことがいえるし、結合部は物陰になつている。(5)、(6)、(7)の各場面は、女性の陰部に杖を突き込むというような描写があるが、その行為の異常さがかえつて性的好奇心を殺いで刺激性を減殺している。(8)の場面は、全裸の男女が抱擁していてかなり大胆に愛撫、性交の模様を連想させるように描いたものであるが、腰部にはぼかしもしてあり、映画の筋からするこうした場面のラストシーンとしての必要性は首肯できないところではなく、画面の構成、色調、俳優の演技等に照しても、この場面の描写から受ける印象は、決して卑わい感を与えるとはいえない。以上のとおりであつて、右各場面のうち(1)、(2)、(5)ないし(7)の各場面は、いずれもいまだ、露骨で卑わい感を与え性的羞恥心を害する程のものとはいえないし、また、(3)、(4)、(8)の各場面は、かなり大胆で露骨ともいえそうな描写があるが、前記審査経過からも明らかなように、これらの各場面は審査において十分な検討が加えられたうえで合格とされたものであり、それぞれ露骨で卑わい感を与えたり強い性的刺激を与えたりすることのないような配慮がなされているものであることをも考慮すると、いずれもいまだ、露骨で卑わい感を与え性的羞恥心を害するものであると断定するには躊躇を感ぜざるを得ないのである。
従つて、映画「恋の狩人」には、わいせつな部分があるとまではいえないし、映画全体としてもわいせつなものとは認め難いのである。
(四) 映画「愛のぬくもり」
検察官は、本映画においてわいせつな場面として、(1)タイトル前のホテル内での中上とリナとの性交場面、(2)中上夫人の浴室での自慰場面、(3)ホテルでの中上とリナとの性交場面、(4)中上宅での学生二宮と中上夫人との最初の性交場面、(5)屋外での中上とリナとの性交場面、(6)屋内での石川とチヤコとの性交場面、(7)ホテル内での二宮とリナとの性交場面、(8)中上宅での二宮と中上夫人との二回目の性交場面、(9)マンシヨンでの中上とリナとの性交場面などを指摘する。
そこで、これらの場面を含む本映画のわいせつ性について検討するに、右各場面は、男女による性交などの模様を連想させるように描いたもので、全裸あるいはそれに近い姿の男女が登場し、男女が絡み抱擁などするさまざまの姿が描写されているのであるが、右各場面は、前記認定のように、その多くが脚本審査の際に演出注意やせりふ改訂などを勧告され、(2)を除く各場面についてはオール・ラツシユ審査の際に一部削除や短縮、せりふの一部省略などを要望され、それぞれ処理されたうえ、本審査において合格とされたものであつて、男女とも全裸の場合には下半身部分がぼかされていたり、隠されていたりしており、また、全裸、着衣いずれの場合もいわゆる体位のずれが割合はつきりしていて、性交を連想させる姿態を直截露骨に描写するところもなく、更に、性交の模様を連想させる描写もいずれも割合短くて、執拗にわたるということもないし、せりふも簡単で短いものであり、この映画での描写は、全般的にみて、抑えられた描写となつており、これらの場面が性交や性戯などを連想させて性的興奮ないし刺激を与えるものであることは間違いないとしても、いまだ、露骨で卑わい感を与え性的羞恥心を害する程のものとはいえない。
すなわち(1)の場面は、全裸の男女が抱擁して性交を連想させる描写があるが、腰部から下の部分はぼかしてあり、性交を連想させる男女の動作の部分部分の描写に止まり、せりふも簡単で短いし、また、女性がハンカチ様のものを取出す等の描写もそれ自体それ程刺激的とは認められない。(2)の場面は、特に問題となるような描写はない。(3)の場面は、下半身裸の男性が女性のパンツを剥取り背後から抱きつくなどして女性の表情や音声とともに性交を連想させる描写があるが、腰部付近は電気スタンドで隠れており、体位のずれがあつたり、また、早い場面の切換がなされており、せりふも簡単で短いものである。(4)の場面は、下半身裸の男性が女性にのしかかつたり、女性が上位となつたりして女性の表情や音声とともに性交を連想させる描写があり、やや刺激的ともいえそうであるが、女性の演技がオーバーな感じで現実性を疑わせる一面もあるばかりか、女性は着衣をつけており、体位のずれも割合はつきりしており、せりふも簡単で短いものである。(5)の場合は、男性が女性の右足を持ち上げていて性交を連想させる描写があるが、男女とも着衣を着けていて肢体もよくは見えない。(6)の場面は、女性が男性の膝の上に乗りかかつていて性交を連想させる描写があるが、男女とも腰には布を巻いているうえに、そのコミカルな描写が刺激性を減殺しており、また、体位のずれもはつきりしている。(7)の場面は、全裸の男女が抱擁していて女性の表情や音声とともに性交を連想させる描写があり、やや刺激的ともいえそうであるが、体位のずれが割合はつきりしていたり、男女が絡み合う下半身の部分がぼかされていたり、男女の全身描写にわたることなく、体の部分的描写に止まるなどしており、また、せりふも簡単で短いものである。(8)の場面は、女性が全裸の男性に乗りかかり女性の表情や音声とともに性交を連想させる描写があるが、女性の演技がオーバーな感じで現実性を疑わせる一面があるばかりか、女性は長襦袢を着ていて、腰部はこれで隠されており、せりふも簡単で短いものである。(9)の場面は、全裸の男女が抱擁していて性交を連想させる描写があるが、腰部は電気スタンドで隠されており、せりふも簡単で短いものである。以上のとおりであつて、右各場面は、若干刺激的とはいえそうな描写もあるが、いずれもいまだ、露骨で卑わい感を与え性的羞恥心を害する程のものとはいえないのである。
従つて、映画「愛のぬくもり」には、わいせつな描写は存在せず、全体としてもわいせつなものとは認められない。
(五) 右のように、本件四本の各映画は、いずれも社会通念上許容し難いようなわいせつなものとは認められないのである。
五 結論
以上のように、本件各映画は、映倫の審査を通過した一般劇場公開用の映画であるところ、映倫の審査が映画業界の自主的規制として、性道徳、性風俗の維持にあたる一つの社会的規制手段の役割を果しており、社会的良識に反することのないように表現の許容性を検討しながらなされていることなどに鑑み、刑法第一七五条の適用にあたつては、その審査の結果をできるだけ尊重すべきであるとの見地に立つて、慎重に検討した結果、いずれもいまだ、社会通念上許容し難いような露骨で卑わい感を与え性的羞恥心を害するようなものであるとは認め難いのである。
従つて、本件各映画は、いずれも刑法第一七五条にいうわいせつ図画とはいえないので、本件公訴事実のように、被告人渡邊が映画「女高生芸者」を、被告人黒澤及び同藤井が映画「牝猫の匂い」を、被告人黒澤及び同山口が映画「恋の狩人」を、被告人村上、同黒澤及び同近藤が映画「愛のぬくもり」をそれぞれ公開上映して不特定、多数の観客に観覧させたとの行為、並びに被告人荒田及び同武井が映画「女高生芸者」及び「恋の狩人」を、被告人八名が映画「牝猫の匂い」を、被告人武井及び同八名が映画「愛のぬくもり」をそれぞれ映倫審査員として合格と判定し前記被告人村上らの行為を可能ならしめたとの行為は、その余の点について判断するまでもなく、結局罪とならないので、刑事訴訟法第三三六条により、被告人らに対しいずれも無罪の言渡しをする。
よつて主文のとおり判決する。
(裁判官 竪山眞一 松浦繁 出田孝一)
別表(一) 映画「女高生芸者」上映一覧表(略)
別表(二) 映画「牝猫の匂い」上映一覧表(略)
別表(三) 映画「恋の狩人」上映一覧表(略)
別表(四) 映画「愛のぬくもり」上映一覧表(略)