東京地方裁判所 昭和48年(ワ)1879号 判決 1974年3月28日
原告 高松脩隆
右訴訟代理人弁護士 中村嘉兵衛
同 内野稠
被告 株式会社第一勧業銀行
右代表者代表取締役 横田郁
右訴訟代理人弁護士 野村昌彦
同 稲葉隆
主文
原告の請求を棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
事実
第一当事者の求めた裁判
一 請求の趣旨
被告は原告に対し四九〇万円およびこれに対する昭和四八年三月二二日から完済まで年六分の金員を支払え。
訴訟費用は被告の負担とする。
仮執行宣言。
二 請求の趣旨に対する答弁
主文と同旨
第二当事者の主張
一 請求原因
(一) 原告は、昭和四七年一月二五日、矢島隆敏と名乗る男(偽名である。本名不詳)から、同人が発起人代表となって設立準備中の東都スチール工業株式会社の株式払込金の立替払方を依頼された。同人の説明によると、昭和四六年一二月七日に定款を作成し、同月一三日に東京法務局所属公証人大賀遼作の認証も受けているとのことで、矢島の取引銀行である被告の東新宿支店との間で株式申込事務取扱委託契約ができており、原告が株式払込金を被告の同支店に支払ってくれるならば、会社設立手続が完了後に直ちに立替金を返済するとのことであったので、原告は信用して立替払を承諾した。
(二) 原告は昭和四七年二月一五日、山本普功を使いとして被告の東新宿支店に五〇〇万円を払い込んだ。
(三) ところが、矢島は同年二月一六日の午前中に、偽造した会社登記簿謄本および代表取締役の印鑑証明書を使って、被告の東新宿支店から原告の払込にかかる五〇〇万円の払渡を受けて行方をくらましてしまった。
(四) 右の事情で、原告は矢島と称する者から受け取った立替手数料一〇万円を差引いて四九〇万円の損害を蒙ったことになるが、これは被告の東新宿支店の担当行員大矢紀夫の過失による違法行為に基づく損害であるから、被告の担当行員と矢島と称する者の共同不法行為により原告が損害を受けたものというべく、よって被告は使用者として民法七一五条により、原告に対して損害賠償義務を負うというべきである。
すなわち、矢島隆敏というのは偽名であり、東都スチール工業株式会社の発起人とされている者もすべて偽名であったから、同会社の設立自体虚偽架空のものという他なく、矢島隆敏の印鑑証明も偽造されたものであった。したがって被告が矢島と称する者との間でした株式申込事務取扱委託契約は公の秩序に反し無効な契約であり、被告東新宿支店の担当行員が矢島隆敏と称する者と同支店との間で普通預金契約があるという理由で十分な調査をしなかったのは過失がある。さらに、一般に会社設立登記の申請後これが受理されて設立登記がなされるまでには少なくとも数日を要するのが実情であるのに(現に、原告の使者である山本普功が株式払込金を支払って被告から株式払込金保管証明書を受領し、同日中に矢島と称する者から預っていた他の登記申請の必要書類とともに東京法務局新宿出張所で設立登記の申請をした時にも、申請書類の補正の有無の確認日は二日後の同年二月一七日であるとのことであって、早くとも同月一八日にならないと謄本を得られない実情であった)、原告の払込の翌日に矢島に払渡をしている。登記事務の実情からすれば、登記簿謄本の下附、代表取締役の印鑑証明書の下附が早すぎることは容易に気付くはずで、矢島の持参した登記簿謄本や印鑑証明書の真偽に疑問を懐き、照会する等の手段を講じたなら、おそらくそれらの偽造に気付き、事故を未然に防止しえたはずである。しかるに慢然と形式的に書類が揃っているとして払渡しに応じたのは注意義務を怠ったものというべきである。
(五) よって被告に対し、四九〇万円とこれに対する昭和四八年三月二二日(訴状送達の翌日)から完済まで年六分の遅延損害金の支払を求める。
二 請求原因事実の認否
請求原因(一)の事実は不知。同(二)、(三)の各事実は認める。同(四)の主張は争う。
原告は矢島と称する者と被告との間の株式申込事務取扱委託契約は無効であり、調査を怠った被告の担当行員に過失があるというが、発起人が実在しないからといって右契約が無効となるいわれはないし、取扱銀行が会社設立の実体まで調査しなければならない義務はない。また、保管金の払渡しについても、偽造文書が利用されたことは認めるものの、とうてい偽造とは判断できない書類であったから、過失があったとはいえない。いちいち登記所等に確認する義務はない。原告がもし矢島という者に欺されて損害を受けたというなら、同人に損害賠償を請求すべく、被告に請求するのは筋違いである。
第三証拠関係≪省略≫
理由
一 ≪証拠省略≫によると請求原因(一)の事実を認めることができ、同(二)、(三)の事実は争いがない。
二 被告の責任につき判断する。
(一) 原告は被告と矢島と称する者との株式申込事務取扱委託契約が無効であり、担当行員の注意義務違背があると主張するが、委託者が架空人名義を使用し、あるいは株式会社設立発起人が架空人であるからといって、右委託契約自体が当然に無効となるわけではない。また≪証拠省略≫によると、被告の東新宿支店の担当者大矢紀夫は、矢島と称する者から同人の印鑑証明書(実は偽造)の提出を受けて、これを真正なものと考えて右契約締結事務を処理したことが認められるが、同時に、右印鑑証明書は一見して偽造とはとうてい気付かない位巧妙に作られていることが認められるのであって、大矢紀夫がこれを真正なものと考え、なんら疑問を持たなかったことにも無理はなく、株式払込事務の委託を受ける銀行としては、申込者の言動等から不審を懐くような特別の事情のない限り、これ以上更に進んで申込者の身許を調査したり、印鑑証明書の真偽を発行者に照会したりする義務があるとはいえない。
(二) 次に、矢島と称する者が偽造にかかる会社登記簿謄本および代表者の印鑑証明書により払渡を請求し、被告がこれに応じた点につき、原告は注意義務違背をいうが、これも失当である。
≪証拠省略≫によると、右各書類は、これまたきわめて巧妙に作られており、真正な書類との違いは、登記官の記名と押印との間隔および押印の印影のわずかな相違がある―「登記官之印」とある「之」の字体に違いがある―にすぎず、証人大矢紀夫の証言により、同人が真正な書類と考えたのも決して無理とはいえないと認められる。
たしかに、原告の主張するように、登記事務の実際においては、申請とこれが現実に登記される時点との間に若干のずれがあり、「補正」という名目で申請の欠点を追完する扱いが行われる例の多いことは、≪証拠省略≫によって認めることができる(このことは、不動産登記においては当裁判所も職務上経験するところである)。しかし、証人大矢紀夫の証言によると、同人としてはそのような実際の扱いが多いことはともかく、理論上は、登記申請とその受理から登記原本への記入までの間が時間的になるべく接着して処理されるべきであると考えていたし、またそのような例もあると聞かされていたこともあって、とくに疑問を懐かなかったと認められ、このこと自体責められるべき理由はない。登記事務の遅滞を前提として被告の担当行員の調査義務違背をいう原告の主張は採用できない(本件のような異常な事態を予想して行動しなければならないとすると、ほとんどの場合に登記官等への照会を要することになって実際にも適しないと思われる)。
三 以上判断のとおりであるから、原告の請求はその余の点の判断に進むまでもなく失当である。
(裁判官 上谷清)