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東京地方裁判所 昭和48年(ワ)3663号 判決 1976年3月02日

原告 斉藤政雄

<ほか二名>

右原告三名訴訟代理人弁護士 秋田瑞枝

同 山田勝昭

被告 学校法人駒沢大学

右代表者理事 榑林皓堂

右訴訟代理人弁護士 原田進安

同 青木俊文

同 柿本啓

主文

一  原・被告間において、被告が昭和四七年六月二六日付で原告らに対してした各無期停学処分はいずれも無効であることを確認する。

二  被告は

1  原告斉藤政雄及び同広兼満に対し、それぞれ金四四万〇一九七円及び内金三四万〇一九七円に対する昭和四八年一一月八日からその支払の済むまで年五分の割合による金員の

2  原告島川進に対し、金八二万五八四七円及び内金六二万五八四七円に対する昭和四八年一一月八日からその支払の済むまで年五分の割合による金員の

各支払をせよ。

三  原告らのその余の請求をいずれも棄却する。

四  訴訟費用は被告の負担とする。

五  この判決は、主文第二項に限り仮に執行することができる。

事実

第一申立

原告訴訟代理人は、

一  原被告間において、被告が昭和四七年六月二七日付をもって原告らに対してなした無期停学処分はいずれも無効であることを確認する。

二  被告は

1  原告斉藤政雄及び同広兼満に対し、それぞれ金四九万一一九七円及び内金四四万一一九七円に対する昭和四八年一一月八日からその支払の済むまで年五分の割合による金員の

2  原告島川進に対し、金一六九万六二四七円及び内金七二万五九四七円に対する昭和四八年一一月八日からその支払の済むまで年五分の割合による金員の

各支払をせよ。

三  訴訟費用は被告の負担とする。

との判決並びに仮執行の宣言を求め、被告訴訟代理人は、本案前の答弁として

原告らの無期停学処分の無効確認を求める訴を却下する。

との判決を、本案の答弁として

一  原告らの請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

との判決を求めると述べた。

第二主張

原告訴訟代理人は、請求の原因として

一  被告は私立学校法に基く学校法人であって駒沢大学(以下「被告大学」という。)を設置しており、原告らはいずれも昭和四六年四月に被告大学に入学したものであり、原告斉藤政雄は同大学文学部地理学科に、同広兼満は同大学仏教学部禅学科にそれぞれ在籍しており、同島川進は同大学経済学部経済学科に在籍していたが、昭和四八年九月三〇日に同大学を中途退学したものである。

二  被告は昭和四七年六月二六日、原告らに対し、学内暴力行為及び加担を理由としてそれぞれ無期停学の処分(以下「本件各処分」という。)をした。右学内暴力行為とは、同年四月二六日午前一〇時頃から同日午後四時頃までの間、約三〇名の学生が被告大学本館内へ乱入し、総長室の封鎖等をなしたことをいう。

三  しかしながら右当日、原告らはいずれも被告大学構内に立入ったことはない。同日昼頃原告斉藤は友人の引越の手伝のために埼玉県所沢市に、同島川はビリヤードのため新宿に、同広兼は帰省のため広島行列車の車中にいたのである。従って本件処分は、被告の事実誤認に基く違法・無効なものである。

四  被告は同年一二月二〇日、本件処分を解除したが、それにも拘らず原告らは以下の通りの損害を被った。

1  原告斉藤及び広兼

(一) 授業料半年分 各金四万一一九七円

原告斉藤及び同広兼は、いずれも本件処分を受けた同年六月二六日から本件処分を解除された同年一二月二〇日までの間、五箇月二五日間にわたって被告大学学生としての権利を停止され、授業を受けることができなかったが、その間に失った経済的利益は被告大学授業料年額八万四七五〇円の右期間の部分に相当する金額であり、即ちそれぞれ金四万一一九七円である。

(二) 慰藉料 各金三〇万円

原告斉藤及び同広兼は、いずれも事実に反する違法・無効な本件処分によって約半年間停学処分に付され、被処分者の汚名を着せられたこと及び本来第二学年において修得すべき語学全科目について出席日数不足のために単位を修得できなかったために甚大な精神的損害を被った。これを償う慰藉料はそれぞれ金三〇万円が相当である。

(三) 弁護士費用 各金一五万円

被告は右各金員の任意の支払に応じないので、原告斉藤及び広兼は、いずれも弁護士秋田瑞枝及び同山田勝昭に本件の処理を委任し、着手金として金一〇万円、報酬として金五万円をそれぞれ支払う旨を約したが、これは本件処分に起因する損害である。

2  原告島川進

原告らは昭和四七年一一月、当裁判所に本件各処分停止の仮処分を申請したところ、その審尋の場において被告は教務部長名で、その段階で本件処分停止の仮処分決定があっても、原告らはいずれも出席日数不足で進級は不可能であること及び被告は原告らの進級のために特別の措置を講ずることはない旨の回答をした。翌年春の期末試験において、受験又は欠試届提出によって進級は可能であったにも拘らず、原告島川は右回答によって留年は必至と考えて期末試験を放棄したため、同年四月に進級することができずに留年を強いられることになった。

而して原告島川は、被告が本件各処分をなしたこと及び島川に所謂アリバイがあることを知りながら、島川らが当裁判所に申請していた前記仮処分の決定が出るのを嫌って、その直前に本件各処分を解除することによって終了させてその効力を維持させた被告の姿勢に衝撃を受けた上、留年によって両親にそれ以上の金銭的負担をかけるに忍びず、遂に被告大学を中退して働かざるを得ない状況に追い込まれたのである。結局、本件処分によって原告島川が被った損害は次の通りとなる。

(一) 授業料半年分 金四万一一九七円

本項1の(一)と同じである。

(二) 慰藉料 金三〇万円

本項1の(二)と同じである。

(三) 授業料一年分 金八万四七五〇円

原告島川は、被告大学を昭和四八年九月に中退するまでに本来なら大学二年修了という資格を得られる筈であったにも拘らず、本件処分によって一年終了という資格しか得られなかった。右損害を金銭に見積れば被告大学の一年分の授業料である金八万四七五〇円となる。

(四) 逸失利益 金七七万〇三〇〇円

原告島川は前記の通り、被告大学を中退せざるを得ない事態に追い込まれたが、現在のわが国においては、大学卒業者と中退者との間には就職条件及び収入を中心とするその後の労働条件に著しい隔差があり、しかもこれが一生つきまとうため、島川が今後受けるべき収入の右隔差の統計は金七七万〇三〇〇円を下回ることはない。

(五) 慰藉料 金二〇万円

前述の如き留年という事態に対する慰藉料として金二〇万円が相当である。

(六) 弁護士費用 金三〇万円

被告は右各金員の任意の支払に応じないので、原告島川は弁護士秋田瑞枝及び同山田勝昭に本件の処理を委任し、着手金として金一〇万円、報酬として金二〇万円を支払う旨を約したが、これは本件処分に起因する損害である。

五  原告らはいずれも将来俸給生活者となる以外に生活の途のないものであるが、企業への就職にあたって本件処分を受けたことが判明すれば不利な取扱を受けることは明白である。従って本件処分は既に解除されているが、原告らは現在においても本件処分の無効確認を求める訴の利益を有する。

六  よって被告に対し、原告らは本件各処分が無効であることの確認を求めると共に、原告斉藤及び同広兼はそれぞれ第四項1(一)ないし(三)記載の損害金合計四九万一一九七円及び内金四四万一一九七円((一)授業料半年分、(二)慰藉料及び(三)弁護士費用のうちの着手金の合計)に対する履行期の後であることが明らかな昭和四八年一一月八日からその支払の済むまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を、同島川は第四項2(一)ないし(六)記載の損害金合計一六九万六二四七円及び内金七二万五九四七円((一)及び(三)の授業料、(二)及び(四)の慰藉料並びに(六)の弁護士費用のうちの着手金の合計)に対する履行期の後であることが明らかな昭和四八年一一月八日からその支払の済むまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

と述べた。

被告訴訟代理人は、まず訴の一部却下を求める理由につき、

原告らの本件処分の無効確認の訴は、以下に述べる理由によって不適法なものである。即ち第一に、本件処分は既に解除されているから右の訴は過去の法律関係に対する無効確認を求めるものであって訴の利益がなく、第二に、本件処分という法律行為はその法律効果として生じる法律関係に対しては単なる前提事実に過ぎないものであって、かかる前提事実を確認の訴の対象とすることはできないのである。

と述べ、請求の原因に対する認否として、

一  第一項は認める。

二  第二項も認める。

三  第三項は否認する。当時、被告大学においては、文化系クラブの部室使用問題をめぐって被告大学と学内過激派集団との間に紛争が続いていたが、右学生集団は昭和四七年四月二六日、被告大学の態度を不満として最後の決戦を唱え、被告大学本館内に乱入して総長室を封鎖した上、これを阻止しようとした大学事務職員に暴行を働いた。原告ら三名は右当日、いずれも右暴力行為に加わっていたのであり、多数の被告大学職員が原告らの行動を目撃している。原告らはいずれも所謂活動家であったし、殊に原告島川及び同広兼はいずれも当時、被告大学の文化系クラブのうちで前記のような活動の中核であった文芸部の役員であったから、四月二六日の右闘争に参加していたことは明らかである。

四  第四項中、被告が本件各処分を解除したこと(但しその解除日時は昭和四七年一二月一九日である。)、被告大学の当時の授業料が年額八万四七五〇円であること、原告らが昭和四七年一一月に当裁判所に対し、本件処分停止の仮処分を申請したこと、その審尋の席において、被告が仮処分決定があっても原告らは出席日数不足のためにもはや進級は不可能であると述べたこと及び原告島川が留年したことは認めるが、その余はすべて否認する。

五  第六項は争う。

と述べた。

第三証拠関係≪省略≫

理由

第一無効確認の利益について

被告は、本件各処分はいずれも既に解除されており、かかる過去の法律関係に対しては現段階においてその無効を確認する利益がないと主張している。そこでまずこの点について検討するに、過去の法律関係については一般にその無効を確認する利益がないとされる所以のものは、要するに確認の訴はその対象が無限に広がり得るものであるところ、現在の法律的紛争を解決するには現在の権利関係を明確にすることが最も直接的かつ有効なものであるから、専らこれによるべきであるというにある。ところが本件の無効確認の訴は、損害賠償請求という本来の訴訟物の判断に付随してその前提関係に立つ法律関係についても同時に確認の判決を求め、右前提関係に立つ事項についても一挙に紛争を解決しようとするものであると解されるから、これは即ち民事訴訟法第二三四条にいう中間確認の訴と同視し得べきものである。かかる場合には、判決主文に前記法律関係についての判断が付加されるのみであって、それ以上何人に対しても何ら特別の煩累を及ぼすものではないから、過去の法律関係についても確認の訴の対象とすることができると解するのが相当である。

また被告が別に主張しているところの、法律行為は法律効果の前提である云々という点については、要するにここで問題にしている本件各処分をもって前提となるべき過去の法律関係と構成し、これから引き出される現在の法律効果を直接争うべきであるというに帰し、結局過去の法律関係に対する無効確認の訴は許されないということを別の言葉で言い換えたに過ぎないものであるから、前示の通り、本件の場合にはあてはまらない。従って原告らの本訴請求中、本件各処分の無効確認を求める部分について確認の利益がないとは言えず、右部分の却下を求める被告の申立は理由がない。

第二本案の請求について

一  請求の原因第一項記載の事実については当事者間に争いがない。そこで同第二項以下記載の事実の検討に入る前に、予め本件処分の原因となった昭和四七年四月二六日の段階における被告大学の情況を概観しておくこととする。

≪証拠省略≫を総合すると、かねて被告大学においては同大学文化部連合に属する反帝学評系の学生と被告大学との間で部室使用の問題をめぐって紛争が続いていたが、学生らは右四月二六日を期限として所謂大衆団交を要求していたところ、被告大学はこれを拒否したため、当日昼頃までに被告大学本館前に集合した約三〇名の学生は実力行使を叫んで集会及び構内のデモ行進をした後、本館内の総長室の封鎖を図って角材等を手にして二度にわたって被告大学本館内に乱入し、これを阻止しようとした被告大学の職員と激しくもみ合い、被告大学構内は同日午後三時頃まで騒然とした状態であったことが認められる。而して被告大学が右暴力行為参加者と見られる者を同年六月二六日付で無期停学処分に付したことについては当事者間に争いがない。

そこで次に、右四月二六日における原告らの行動、所在について判断すべきことになる。

二1  まず原告斉藤の当日の行動について検討するに、≪証拠省略≫を総合すれば、以下の通りの事実を認めることができる。

斉藤は当日、かねて友人である佐藤桂樹から引越の手伝を頼まれていたため、午前八時三〇分頃から、それまで佐藤が住んでいた東京都世田谷区野沢所在の新見荘より埼玉県所沢市所在の水戸方まで松本雄慈の運転する自動車で赴き荷物の積下しに協力した後、同日午後三時頃、再び右自動車に同乗して前記新見荘に戻った。その後買物のために外出した際、見知らぬ男の甘言につられて背広三着を購入したものの、その品質に疑いをもち世田谷区三軒茶屋の洋品店に相談をもちかけるなどした後、同日午後四時頃、当時斉藤が住んでいた同区野沢所在の岡部荘に帰宅したのである。してみれば、斉藤は当日午後〇時頃から午後三時頃までの間に被告大学構内に立入ったことはなく、前項記載の暴力行為に加担していなかったことは明らかであると言わなければならない。

2  もっとも斉藤らの当日の行動には、一般的に見て疑念をさしはさむ余地が全然存しない訳ではない。即ちまず≪証拠省略≫によれば、斉藤は外出した際、誘われるままに見知らぬ男に同行し、背広三着を合計一万五〇〇〇円といういささか常識外れの価格で買受けたことになるが、斉藤が背広の詐欺にかかったこと自体は≪証拠省略≫によっても裏づけられ、また上京後一年に過ぎない(斉藤が昭和四六年四月に被告大学に入学したことについては当事者間に争いがない。)学生が一着五〇〇〇円の背広を安い買物と思って乗じられたとしても、あながち非常識と責めることはできまい。また原告斉藤本人尋問の結果によれば、斉藤はその後一旦新見荘に戻った際、佐藤が不在だと思ってすぐに松本方へ向ったことが認められるが、同じく斉藤本人の供述によって、斉藤は佐藤が松本方へ行ったと考えたこと及び前記背広詐欺の被害は戻らないものと思って警察にも届出なかったことが認められるから、新見荘において詐欺にかかったことを打明けるために直ちに佐藤を捜し回ることはなかったというのも不思議はない。更に≪証拠省略≫によれば、佐藤は同日午後五時頃まで新見荘にいた旨の記載があるが、それまでに佐藤が自室を何度もあけていたことも≪証拠省略≫によって明らかであるから、一旦新見荘に戻って来た斉藤が、その時に佐藤は既に外出していたと考えることも十分あり得ることである。また斉藤本人尋問の結果によれば、斉藤は前記の背広及び佐藤から買って来ることを頼まれていたトイレットペーパーを松本の隣室である知人の菅原方に置き捨てたままにしておいたことが認められるが、≪証拠省略≫によれば、斉藤は佐藤が来ていると思って松本方を訪れたこと、松本方は不在で施錠されていたために隣の菅原方を利用したものであること及び斉藤等知合いの学生の間では互いの下宿、アパートを突然訪ねて上り込むこと等は日常茶飯事であることが認められるし、また粗悪品の背広をつかまされた斉藤がそんな物をもう見たくないと思って知人方に放置しておいたままにしておいたことも一応首肯し得る。

次に証人松本の証言によれば、松本は同日午後三時三〇分頃、友人に会おうとして漫然と被告大学に行ったことが認められ、これも一見奇異に感じられないではない(これは後に認定する原告島川についても同様である。)が、松本の右行動は当時の斉藤の所在に直接関係を有しないのみでなく、別に明確な約束がなくとも所属学部・学科、所属サークル等によって学生の大学構内における行動の範囲は自ら制限されているものであるから、広い構内を隈なく捜さなくとも友人に会えるということは十分考えられることであり、学生にはありがちな行動であるということができる。松本、佐藤及び斉藤は、斉藤の所謂アリバイを故意に作出しようとすれば、同日は一日中行動を共にしていたことにすれば足りるのである。他方、佐藤が当日、転居先の水戸方に運び込んだ荷物の荷ほどきもせずに新見荘に戻ったこと(右事実は≪証拠省略≫によって認められる。)や、前示の如く松本が友人に会えるかも知れないと考えて大学へ行ったことはいずれも当時の斉藤の所在に全く関係のないことであって、仮に斉藤が当日、彼らと行動を共にしていなかったとしても、佐藤及び松本の右各行動には変りはなかった筈であることは明らかである。してみれば佐藤及び松本の行動に社会人の所為としては疑問に思われる点があるとしても、これが当日の彼らの行動に後になって斉藤が加わっていたことにしようとして当日の行動を虚偽に作出したために生じた混乱であるとすることができないのは言うまでもない。

なお≪証拠省略≫によれば、佐藤及び松本は当時いずれも被告大学の学生であり、被告大学構内の学生運動に加わっていた事実が認められるが、右両名が前記四月二六日昼頃、引越のために被告大学文化部連合の前記闘争に参加せず、都内を留守にしていたことは明らかであるから、同様に原告斉藤が所謂活動歴を有しながら当日はこれと無関係に過ごしていたとしても何の不思議もないことである。

3  最後に1の認定に反する≪証拠省略≫について検討する。

証人柘植は、かねて原告斉藤の顔を見知っていたところ、当日は被告大学本館に約三〇名の学生が乱入したため、これを排除しようとして他の事務職員と共に右本館に駆けつけ、そこで本館内の総長室を封鎖しようとしていた学生ともみ合いになったのであるが、その際、学生の隊列の中に斉藤がいるのを目撃した旨供述する。

しかしながら同証人の証言によれば、その時は学生・職員の激しいもみ合いの最中であり、斉藤と覚しき学生は先頭の隊列から二、三列後方にいたこと、しかも該学生はヘルメットを着用し、覆面をしていたことが認められるから、その覆面が多少ずれていたとしても、結局柘植は、混乱のさ中にやや離れていた学生の顔の一部を視たに過ぎないのであるから、誤認するおそれは極めて大きいものと考えられる。また証人柘植は、その後においても、斉藤が三号館から本館へバリケード用の机(なお前記乙第一号証には「机かイスか不明である。」とある。)を搬入しているところを目撃した旨供述するが、その時の情況は同証人の証言によって、該学生との間に約一〇メートルの距離があり、かつ該学生は依然としてヘルメットを着用し、覆面をしていたことが認められるから、これまた誤認の可能性が甚だ大きいものと言わねばならない。

また証人芳村も、前記もみ合いの際に同様に斉藤を目撃した旨供述するが、同証人の証言によれば、芳村は元来斉藤の名前を知らず、当日は身体の危険を感じかねない相当激しいもみ合いの中で、二、三列後方にいた該学生につきたまたま隣にいた柘植に教えられてその名前を知ったという程度であること及び後刻学生部で改めて確認したというものの、それも該学生の身長と眉の特徴を記憶していたに過ぎないことが認められる。してみればその信用性はきわめて疑問であると言わざるを得ない。

結局、証人柘植及び同芳村の前記各供述は、いずれも彼等は目撃した学生を斉藤であると考えていたこと以上の事実を証するものではなく、当日の原告斉藤の所在に関する前記認定を左右するに足りない。≪証拠省略≫もまた同様である。

三1  次に同じく四月二六日における原告島川の所在について検討するに、≪証拠省略≫を総合すると、以下の通りの事実を認めることができる。

島川は当日、午前七時五〇分から同八時五〇分まで新宿駅で乗客整理のアルバイトをした後、同一〇時過ぎに同駅を出た。一旦被告大学へ行ったが、午後〇時過ぎには新宿へ向い、来合せた友人の名取利明及び金沢和正と共に同一時四〇分頃から新宿の「ヒカリ会館」でビリヤードをしていたが、同四時頃には再び新宿駅へ行き、同五時二〇分頃から朝と同様のアルバイトの作業に就いたのである。してみれば当日、原告島川が被告大学構内の前記暴力行為に参加していないことは明らかであると言わなければならない。

2  もっとも前記各証拠の内容については更に多少の検討を要するものがない訳ではない。即ちまず前示認定の通り、島川が当日昼頃、一旦被告大学構内に立入ったことは明らかであり、また原告島川本人尋問の結果によれば、当時島川は前記文化部連合に属する文芸部の副幹事長であったことが認められる。而して被告は、当日は被告大学文化部連合の部室問題について最後の決戦がもたれようとしていたのであると主張し、そうであるならば、このことから島川は文芸部の役員として当日の行動に参加していたのだと推認し得なくはない。しかしながら昼間部の学生数が一万二〇〇〇名余に及ぶ被告大学(右事実は≪証拠省略≫によって認められる。)において当日の行動に参加したのが僅々三〇名前後に過ぎないこと並びに被告大学内で活動歴を有する松本雄慈、佐藤桂樹及び原告斉藤がいずれも参加していなかったことは前示認定の通りであり、またほかならぬ文芸部の幹事長であった原告広兼も当日被告大学に来ていないことは後に認定する通りである。してみれば「最後の決戦」云々は当日の行動に参加していたごく少数の学生がかく叫んでいただけのものであり、その実体とはかけ離れたものであったと解されるから、島川が当時文芸部の役員であったことと当日の闘争参加とを結び付けるのは失当である。従って島川が一旦被告大学へ行きながら、格別何にも気を留めることなくそのまままた構外へ出たことも、当時の被告大学では学生運動リーダーによる所謂アジ演説等は日常的なものであったことが同じく原告島川本人の供述によって認められる以上、さして異とすべき程のことではない。

また≪証拠省略≫によって島川は当日、朝及び夕方の二回にわたって新宿駅で乗客整理のアルバイトをしたことが明らかであるが、当日の被告大学構内における一部学生の行動が被告の主張するように「最後の決戦」であり、島川ら文芸部役員がその中核であったとするならば、当の決戦日に島川は決起行動の準備も総括もなく朝夕のんびりとアルバイトをしていたことになり、いかにも不自然との感を免れない。

ところで原告島川本人は、当日大学へ行ったのは、広兼に会って文芸部の活動方針等について相談したいことがあったからだと供述している。これについては、友人に会えるかも知れないと思って大学へ行くこと自体は学生の行動として珍しいものでないこと前述の通りであるほか、≪証拠省略≫によっても、被告大学を出た後の島川が漫然と新宿へ向かったこと並びに金沢及び名取と共に新宿で別に当てもないまま麻雀仲間が来合せるのを待っていた事実が認められるが、これも同様の行動であると言うことができる。また文芸部の活動方針云々という点については、≪証拠省略≫によれば、当時の右文芸部の活動自体二年生が中心で、さして熱のこもったものでもない情況であったことが窺われるから、仰々しく活動方針の決定等といっても要するに友人の広兼が帰省する前に一度会っておきたいという程度のことに過ぎず、どうしても当日中に文芸部の役員同士で相談しておかねばならないような重大な事項であったとは到底考えられない。従ってその後に島川が広兼の下宿に連絡することもなく、そのまま新宿へ行って夕方のアルバイトの時間までビリヤードで時を過すことになったのもまたもっともである。結局当日の島川の行動にさして奇異な点は見当らないとすべきであろう。

3  最後に本項1の認定に反する証人大内勝蔵の証言及びこれによって成立の認められる乙第九号証並びに証人中田英彦の証言及びこれによって成立の認められる同第一〇号証について検討する。

証人大内は、当日本館内で学生集団と押し合っていた際、その集団内に島川がいるのを目撃した旨供述する。しかし同証人の証言によっても、大内が島川と覚しき学生を目撃したのは当日一回のみであること、該学生は最前列ではなく、二、三列後方でほぼ集団の中央にいたのみでなく、ヘルメットを着用して覆面をしていたため顔の一部しか見えなかったこと及びその時は学生集団とのもみ合いによって大内自身も身体の危険を感じかねない切迫した情況であったことが認められる。してみれば大内も混乱のさ中に該学生を一瞥したに過ぎないものであって、前記供述のみをもって該学生が島川であったとすることができないのは明らかである。また証人中田も同様な情況下で学生集団の中に島川がいるのを目撃した旨供述するが、同じくその供述によれば、その島川らしい学生は集団の後方にいたというのであり、かつ該学生が覆面をしていたかどうかすら覚束ないのであって、これもにわかに採用することができない。

結局、証人大内及び同中田の右各供述は、前記のように混乱した事態であったことを考え合せるとその信用性に疑問が存するものとしなければならず、当日の島川の所在に関する前示認定を左右するに足りない。前記乙第九号証及び同第一〇号証もまた同様である。

四1  次に同じく四月二六日における原告広兼の所在について検討するに、≪証拠省略≫を総合すると、以下の通りの事実を認めることができる。

当日、かねて帰省するつもりだった広兼は午前七時三〇分頃、東京都練馬区大泉町所在の友人である和田健爾の下宿を出て一旦同都世田谷区駒沢所在の自分の下宿に寄った後、午後〇時過ぎに「ひかり三三号」で東京駅を発ち、岡山駅で「つばめ六号」に乗り継いで同七時過ぎ頃に広島駅で下車し、友人である河野洋子、次いで平元和博に会い、その夜はそのまま平元方に宿泊したのである。してみれば原告広兼は当日、被告大学構内に立入ったことはなく、前記暴力行為に加担していなかったことは明らかであると言わなければならない。

2  もっとも前記各証拠の内容については更に多少の検討を要するものがある。まず原告広兼本人尋問の結果によれば、広兼は被告大学文化部連合に属する文芸部の幹事長であること及び広兼は本件の約一箇月前である春休みにも郷里の山口県へ帰省していた事実が認められる。しかしながら文化部連合の「最後の決戦」の実態が前項2で認定した通りのものであるから、文芸部の幹事長が必ず参加している筈のものであると言えないことは勿論である。確かに広兼がその頃帰省しなければならない必然性はないが、当時の文芸部の活動が甚だ他愛ないものであったことも前示(前項2)認定の通りであるから、その頃帰省してならないという理由もない。むしろ近時の学生の風潮に照して、休暇や連休の度毎に親元へ帰省することはいくらもあり得ることである。また≪証拠省略≫について見るに、その本文は広兼がその文学論を展開したものであって、河野・平元らと近々会うことを予定しているとは見難く、他方これに対して河野に広島で会いたいとしたその追伸部分はいささか唐突の観がある。しかし右追伸部分の筆調・筆跡を本文と対比してもこれは本文と同じ時期に書かれたものと解されるし、また本文で一気に独自の文学論を展開した後に、追伸部分で帰省の際の広島下車の点について触れたとてしも、相手との関係から必ずしも奇異なこととは言えないであろう。結局右追伸部分を所謂アリバイ工作のために後日加筆されたものと見ることはできず、従って広兼が同年四月二二日以前の段階から帰省の意思を有していたこと及びこれによって河野が広兼を広島駅に迎えるに至ったことが明らかである。

次に広島到着後の広兼と河野の具体的な行動については、≪証拠省略≫によれば、広兼は前記「つばめ六号」が遅れたために午後七時過ぎ頃に広島駅に到着(なお「つばめ六号」の正確な広島駅到着時刻については、これを認めるに足りる証拠は存しない。)したのであるが、河野と共に同駅ビルで夕食を摂った後、喫茶店「望郷」で約三〇分程度話をしていたという事実が認められる。この点について証人柘植(第二回)は、柘植らの調査によれば「望郷」は閉店時間が午後八時であるから、広兼らは当日、「望郷」へ行けた筈はないと供述するが、右調査はそれから約八箇月後の昭和四七年一二月になされたということもあってその調査結果を直ちに採用することは躊躇され、結局このことから広兼らの供述が虚偽のものであると断ずることはできない。

なお広兼の同年四月二七日の行動については、広兼本人の供述によっても多少不明確なところがあるけれども、本件のためには広兼が同月二六日に広島において河野及び平元と会っていたという点の心証をもって足りる。

このほか原告広兼本人尋問の結果によって成立を認め得る甲第一八号証によれば、広兼は同年四月二九日、広島市内で眼鏡を購入した事実を認めることができる。証人柘植忠章の証言(第二回)中には右認定に反するが如き部分があるが、右部分は同証人の前後の供述に照らしてその意味が不明確であって採用することができず、他に右認定に反する証拠はない。右事実もまた広兼が同月二六日に東京を発った旨の前記認定と一致するものである。

3  最後に1の認定に反する証人水谷延久の証言(第一回)及びこれによって成立を認め得る乙第一一号証の一・二並びに証人山本泰憲の証言及びこれによって成立を認め得る同第一二号証の一・二について検討する。

証人水谷は、当日被告大学本館内総長室前廊下において、乱入した学生集団と被告大学職員が激しく押し合う形となった際、学生集団の中にいた広兼が職員の一人に何か言っているのを目撃した旨供述する。しかし水谷が広兼と覚しき学生を見たのはその混乱した情況の中でこの一回のみであり、かつ該学生はタオルで口が隠れる程度にまで覆面をしていて、広兼とわかったのは「直感」によったというのであるからたやすく信を措き難い。また水谷は、その場で広兼以外にも十数名の学生を確認したとしながら広兼以外の学生の位置はほとんどわからないと供述しているのであって、広兼の位置だけを明瞭に記憶している点についてもいささかの疑問をさしはさまざるを得ないのである。

次に証人山本は、同日昼頃、本館前の広場で集会を開いていた学生の中に広兼がいるのを目撃したと供述する。しかし右供述によれば、山本が広兼と覚しき学生を見た際の相互の距離は約一五メートルに及び、しかも右集会に参加していた学生はほとんどヘルメットを着用して覆面をしていたというのであるから、結局山本が見たのは集団の中の学生の目元付近という一点に過ぎず、誤認の可能性はきわめて大きいものと言わなければならないのである。

従って証人水谷及び同山本の右各供述は、いずれも単に彼らが見た学生を広兼であると考えていたこと以上の事実を証するものではなく、当日の広兼の所在に関する前示認定を覆すに足りない。前記乙第一一号証及び同第一二号証の各一・二もまた同様である。

五  なおこのほかに、原告ら三名の前記二ないし四の各認定のいずれにも反する証人田久岩雄の証言及びこれによって成立の認められる乙第六号証があり、証人田久は、当日被告大学構内でデモ行進をしていた学生の中に原告ら三名が加わっているのを目撃した旨供述するが、田久は当時原告らの名を三人とも知らず、また原告らの位置もわからず、かつ原告らの写真を見てその氏名を確認したのはそれから約半年後の同年一一月のことであるというのであるから、原告らを目撃した旨の前記供述は到底措信できず、取るに足りないものと言わなければならない。前記乙第六号証もまた同様である。

以上の検討によれば、結局、前記四月二六日に原告ら三名が被告大学構内における暴力行為に加担していたという被告主張の事実はいずれもこれを認めることができない。してみれば本件処分が無効なものであることは多言を要しないところである。

六  そこで進んで本件処分によって原告らが被った損害について検討する。

1  本件処分の決定が昭和四七年六月二六日であることは前示認定の通りであり、その解除は≪証拠省略≫によって同年一二月一九日であったことを認めることができる。従って原告らは右期間合計一七七日にわたって被告大学学生としての権利を停止され、授業を受けることができなかったものであることは明らかである。而して当時の被告大学の授業料が年額八万四七五〇円であることについては当事者間に争いがなく、また弁論の全趣旨によって原告らはいずれも当時既に右授業料を納入済であったことが認められるから、結局納入額中、前記停学期間に相当する部分は無駄になったものとしてこれを原告らの損害であると解することができる。従って原告らのこの点に関する損害は前記八万四七五〇円に三六五分の一七七を乗じるとそれぞれ金四万一〇九七円となる。

2  原告ら三名が本件処分によって被った精神的損害に対する慰藉料については、本件処分が事実に反する無効なものでありながらその解除まで五箇月余に及んだことは前示の通りであり、また本件処分が無期停学処分であって現実に解除されるまでその解除の時期について不安を与え続けたことは容易に考えられるところであるから、これらの事情を考慮して原告一人につき金三〇万円を相当と認める。

3  原告島川のみが被った損害については、まず同人が留年するに至った事情について検討するに、昭和四七年一一月頃、原告らが当裁判所に本件処分停止の仮処分を申請し、その審尋の席において被告が仮にその段階において右の仮処分決定があっても原告らはいずれも出席日数不足で既に進級は不可能であると表明していたことについては当事者間に争いがなく、また≪証拠省略≫を総合すれば、更に被告は原告らの進級について特別の措置をとるつもりはないとも言っていたこと、従って原告らはその段階においていずれも留年は免れないものと考えていたことを認めることができ、右認定に反する証拠はない。而して原告島川本人尋問の結果によれば、島川は右事情によって期末試験を受験しても無効となるものと考えて右試験を放棄し、そのために留年となった事実が認められる。してみれば島川が留年したのは、当時全く同様の状態にあった原告斉藤及び同広兼が試験の受験又は欠試届提出という方法によって進級している事実(これらの事実は≪証拠省略≫によって認められる。)と照し合せて、期末試験の時期に至っても被告大学に対する何らの問合せも友人に対する相談もしなかった島川にも過失が認められるとしても、専ら本件処分及びその後の被告の言明に起因するものであることが明らかである。従って被告は右留年によって島川に生じた損害についてもこれを賠償すべき責任を負うものと言わなければならない。

そこでその損害について検討するに、島川は昭和四六年四月に被告大学に入学し、昭和四八年九月に被告大学を中途退学したものであることは当事者間に争いがない。してみれば島川は被告大学に二年余在籍しながら右退学までに大学一年終了の資格しか得られなかったのであるから、在籍二年目の授業料一年分は全く無駄になったものということができ、これは右留年によって島川に生じた損害であるということができる。而して当時の被告大学の授業料が年額八万四七五〇円であったことは前示認定の通りである。また右留年の事態に対する慰藉料としては、当時同様の状況にあった原告斉藤及び同広兼がいずれも一応進級していること等諸般の事情を勘案して金二〇万円を相当と認める。

そのほか原告島川は大学を中退したことによる逸失利益として金七七万円余を請求しているが、島川が被告大学を自主的に退学したものであることは原告島川の自陳するところであり、その際に中途退学によって将来の就職にあたって不利な取扱を受けかねないということは十分予見し得た筈である。それにも拘らず原告島川は敢て退学の途を選んだものであるから、これによって島川に損害が生じたとしてもこれを被告に賠償させるのは相当でない。従って原告島川のこの点に関する主張は失当である。

4  最後に弁護士費用について判断するに、原告らが本件の処理を弁護士秋田瑞枝及び同山田勝昭に委任したことは本件記録に徴して明らかであるが、原告らの右弁護士費用の約定及びその支払に関する主張を認めるに足りる証拠は存しない。しかしながら本件の事案に即して着手金と報酬を併せた弁護士費用につき、原告斉藤及び同広兼についてはそれぞれ金一〇万円、同島川については金二〇万円の限度においていずれも本件処分と相当因果関係に立つ損害と認める。

七  結局以上判示の通り、本件処分は事実誤認に基くものであり、従って被告はこれによって原告らに生じた損害を賠償すべき責任を免れないものと言わなければならない。もっとも大学を理性の府にふさわしい落ち着いた環境たらしめんとし、学内の暴力行為に対しては厳正な態度で臨むとする被告の姿勢はもとより正当なものであり、また本件のようにヘルメット・覆面姿の学生集団によってまき起された一瞬の混乱した事態につき、後刻に至ってその加担者を確認・照合しようとする作業が甚だ困難なものであることも理解し得るところである。しかしながら右確認作業を本件のように学生集団との激しいもみ合いの中で学生らの容貌の一部を一瞬目撃したに過ぎない事務職員の記憶のみに頼る限り、学生集団への参加者中その氏名を遂に明らかにすることができない者が出るのはもとより、認識及び記憶の各過程において錯誤の入り込む余地が相当に大きいものであることは容易に考えられることである。それにも拘らず、被告は前述の如く職員の記憶(該職員が特定の学生についてはその容貌・特徴を見知っているつもりであったとしても、その認識・記憶も時には甚だ覚束ないものであり得る。)のみに頼り、当該学生らに何ら弁明の機会を与えることもないままに本件処分を断行したために、≪証拠省略≫によって認められるように後日に至って改めて原告らの所在調査をせざるを得ないことになったのであって、これらの点に関する被告の慎重さの欠如が今日の事態を招いたものと評するほかはない。

第三結論

以上の次第であるから、原告らの本訴請求は、前記の限度での損害賠償、即ち原告斉藤及び同広兼については各合計四四万一〇九七円、同島川については合計八二万五八四七円並びに右各金員からそれぞれの弁護士費用を各控除した部分に対する履行期の後であることが明らかな昭和四八年一一月八日からその支払の済むまで民法所定の年五分の割合による各遅延損害金の支払並びに本件処分の無効確認を求める部分については理由があるのでこれを正当として認容し、その余はいずれも理由がないのでこれを失当として棄却し、訴訟費用の負担については民事訴訟法第八九条、第九二条、仮執行の宣言については同法第一九六条第一項を各適用して主文の通り判決する。

(裁判長裁判官 倉田卓次 裁判官 井筒宏成 西野喜一)

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