東京地方裁判所 昭和48年(ワ)3722号 判決 1974年7月25日
原告 石田明
右訴訟代理人弁護士 後藤孝典
同 鈴木一郎
同 浅野憲一
右訴訟復代理人弁護士 高橋耕
被告 株式会社三一書房
右代表者代表取締役 竹村一
右訴訟代理人弁護士 田口康雅
主文
一 原告の請求を棄却する。
二 訴訟費用は、原告の負担とする。
事実
第一当事者の求めた裁判
〔請求の趣旨〕
一 被告は、原告に対し、金二、四五三、六七六円及びこれに対する昭和四八年五月三〇日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。
二 訴訟費用は、被告の負担とする。
三 仮執行の宣言
〔請求の趣旨に対する答弁〕
主文と同旨
第二当事者の主張
〔請求原因〕
一 原告は、昭和三一年九月一七日から昭和四八年四月五日までの間、被告会社にその従業員として勤務した。
二 被告と原告の所属する三一書房労働組合(以下「組合」という。)との間には、別紙のとおり労働協約たる性質を有する退職金規定が存在する。
三 原告は、次の経緯によって被告会社を退職した。
1 被告は、昭和四五年ころから経営状態が逐年悪化し、昭和四八年一月二二日、全従業員を集めた全社員会議において、次の事項を明らかにした(以下「本件退職者募集」ともいう。)。
(一) 経営改善のために希望退職者を募集する。
(二) 希望退職者に対する退職金は、退職金規定第三条の規定による額に、勤続年数に応じ次の額を付加して支給する。
一年未満 三〇万円
二年未満 四〇万円
五年未満 五〇万円
一〇年未満 七〇万円
一〇年以上 一〇〇万円
(三) 希望退職申出期限を同年二月末日とする(ただし、この期限は、その後、まず同年三月五日に、次いで同月一九日にそれぞれ延期された。)。
2 組合は、前記一月二二日の全社員会議において、被告が提示した希望退職者に対する退職金のうち、退職金規定第五条の規定による額よりも少ない部分は認めない旨及びその部分について退職金を支給すべきである旨を主張した。これに対し、当時の被告会社代表取締役社長田川敬吾は、同条の規定による額よりも少ない退職金しか支給されない退職者については問題が残ることを認めた。更に、組合は、同年三月三一日の組合総会において、「組合は、被告の退職金規定第五条の無視を認めていない。」と報告し、本件退職者募集に応じた退職者は、少なくとも同条の規定による額以上の退職金請求権を有することを確認している。
3 原告は、同年三月一七日、被告会社の経営状態の悪化などから同社を退職することを決意し、「被告会社の都合による希望退職者の募集に応じて退職する」旨を明記して退職届を提出し、同年四月五日付で退職した。
四 原告の退職は、被告会社の都合による希望退職者募集に応じたものであり、退職金規定第五条にいう」会社の都合で退職させられるとき」に該当する。したがって、原告は、被告に対し、同条の規定による額の退職金請求権を有する。
1 退職金規定第五条の文理解釈
退職金規定第一条は、「労働協約第三十一条により、会社は社員の退職または解雇にさいして、この規定により、退職金を支給する。」と規定し、「退職」と「解雇」とを明確に区別している。退職金規定第五条にいう「会社の都合で退職させられるとき」とは、人員整理による一方的解雇の場合を意味するのみならず、会社の都合によって(会社の要望に従って)退職に応じた場合(この場合には、円満に人員整理が達成されるので、むしろ感謝されるべきである。)をも含むものと解すべきである。会社がその都合によって一方的に解雇した場合よりも、会社の要望に従って会社のために人員整理に応じた場合の方が退職金の面で不利になるということは、会社側から見ても、退職者本人から見ても、到底納得できることではない。
2 労使の共通した解釈とその運用の実態
(一) 前記のような解釈は、被告会社における労使間の一貫した共通の解釈である。このことは、第三項2の事実によっても明らかである。
(二) 従来、被告会社においては、組合員の異動、配置転換又は身分の変更その他組合員の生活や労働条件に影響を及ぼす人事については、組合の同意を得て行なうことになっており(労働協約第一六条)、現実には、被告の一方的意思によって組合員を解雇することなどは考えられなかった。したがって、退職金規定第五条が会社の都合によって行なう一方的解雇(ただし、懲戒解雇を除く。)の場合にのみ適用されると解するときは、同条はほとんどあり得ない場合を予想して置かれた規定であるということになり、極めて不自然である。
(三) 原告と同時期ころに被告会社の都合によって退職した従業員の大多数は、被告から退職金規定第五条の規定による額とほぼ同額又はそれ以上の額の退職金を支給されている。被告は、被告会社に比較的永年勤続し、退職金額の多額にのぼる原告のような従業員に対する正規の退職金の支給を削減し、その負担によって人員整理を遂行しようと図ったのである。
(四) 原告は、本件退職者募集に当たって被告が提示した基準による額の退職金の支給を受けたが、退職金規定第五条の規定による額よりも少ない部分については、その請求権を留保したままの状態で、退職者募集に応ぜざるを得なかった。そのため、原告は、被告から退職金の支給を受けた際、領収証に「退職金仮払いとして」受領することを明記している。
3 原告を含む希望退職者は、やむを得ず本件退職者募集に応ずるほかはない状況にあった。したがって、このような場合には、退職そのものは一応被告との合意に基づくものとはいえ、退職金規定第五条を解雇された場合に準じて原告の退職に適用すべきである。
五 原告の退職時における給与(税込み)は一か月一四五、九三〇円、勤続年数は一六年八か月であり、退職金規定第三条、第五条の規定によって退職金を計算すると、その額は、六、九〇七、三五二円となる。それなのに、被告は、本件退職者募集に当たって被告が提示した基準による額である四、四五三、六七六円しか原告に支払わない。
六 よって、原告は、被告に対し、退職金残二、四五三、六七六円及びこれに対する退職金規定第七条所定の弁済期経過後である昭和四八年五月三〇日(訴状送達の翌日)から支払ずみまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。
〔請求原因に対する認否〕
一 第一項及び第二項の事実を認める。
二 第三項について
1の事実を認める。2の事実を否認する。3の事実を認める。
本件退職者募集については、次のような経緯がある。
被告は、昭和四八年一月、経営状態の悪化を打開するため、役員の刷新及び従業員の人員整理を図ることになった。しかし、人員整理については、希望退職者を募集するにとどめ、もし希望退職者がない場合でも、これを強行することは考えていなかった。
昭和四八年一月二二日の全社員会議における本件退職者募集の発表後、被告は、同年二月中旬ころ、被告会社取締役寺村嘉夫ほか二名が辞任することを発表し、次いで、同年三月五日ころ、被告会社代表取締役社長田川敬吾が役員を辞任し、これに代わって同社取締役会長竹村一が代表取締役社長に就任することを発表したところ、それぞれの発表の際、従業員の中から、新たな役員体制を見極めてから退職するかどうかを決めたいという意見が出た。そこで、被告は、当初定めた希望退職申出期限を、まず同年三月五日に、次いで同月一九日にそれぞれ延期した。
組合は、当初から本件退職者募集を支持し、何ら異議を申し立てなかったが、同月一五日、組合執行部と被告会社の新代表取締役社長竹村一との団体交渉の際、一部の組合執行部員から、希望退職者に対する退職金については退職金規定第五条の規定に従うべきではないかという疑義が出た。しかし、竹村社長が、同条の規定に従うと勤続年数の短い若年退職者が著しく不利になるし、退職金総額も莫大になることなどを説明したところ、組合は、これを了解した。
原告を含む被告会社の従業員一五名は、前記三月一九日の希望退職申出期限までに本件退職者募集に応ずることを申し出て、それぞれ同年四月五日付で被告会社を退職し、被告が提示した基準による額の退職金の支給を受けた。
なお、原告は、もし前社長田川敬吾が引き続き社長であるならば退職しないつもりであったが、竹村一が新社長となったので、同人を嫌って被告会社を退職したのである。
三 第四項1ないし3の事実を争う。
退職金規定第五条にいう「会社の都合で退職させられるとき」とは、会社の都合によって行なう一方的解雇(ただし、懲戒解雇を除く。)の場合を意味するものであって、本件のような希望退職の場合は含まれない。
本件退職者募集は、被告会社の経営不振を立て直すためのものであり、その都合によるものというを妨げない。しかし、被告は、単に希望退職者の一般的募集をしたにとどまり、個々の従業員に対する退職の強要はもとより、その説得すら行なったことはなく、退職者募集に応ずるかどうかは全く個々の従業員の自由に任されていたのである。したがって、原告の退職は、退職金規定第五条にいう「会社の都合で退職させられるとき」には該当しない。組合が本件退職者募集を支持して何ら異議を申し立てなかったのも、このためである。しかも、原告が被告会社を退職した真の理由は、前項末尾に記載したとおりなのである。被告が提示した希望退職者に対する退職金は、退職金規定第五条の規定による場合に比し、勤続年数の長い退職者に不利であるが、これは、単に被告会社の負担を軽減する目的のみならず、原告を含む経験豊かで有能な年輩者層の退職を欲しない気持の表われでもあった。これによっても、原告の退職は、むしろ専ら原告の都合によるものであって、同条にいう「会社の都合で退職させられるとき」には該当しない。
四 第五項の事実を認める。
〔抗弁〕
仮に原告の退職が退職金規定第五条にいう「会社の都合で退職させられるとき」に該当するとしても、原告の所属する組合は、前記の事実によって明らかなとおり、本件退職者募集について明示又は黙示の同意を与え、希望退職者に対する退職金について同条を適用しないことを被告と合意した。また、原告も、被告主張のような経緯によって本件退職者募集に応じたのであり、他の退職者の場合と同様、退職金規定第五条の規定に従わず、被告が提示した基準による額の限度で退職金の支給を受けることを被告と合意したのである。
〔抗弁に対する認否〕
抗弁事実を否認する。仮に原告が被告主張のような合意をしたとしても、そのような合意は無効である。けだし、退職金に関する労働協約の定めは、労働組合法第一六条にいう「労働条件その他の労働者の待遇に関する基準」に該当するから、労働協約たる性質を有する退職金規定第五条に違反する内容の合意をしても、それは、同法の右規定によって無効となるのである。
第三証拠≪省略≫
理由
一 原告は、昭和三一年九月一七日から昭和四八年四月五日までの間、被告会社にその従業員として勤務した。
被告と原告の所属する組合との間には、別紙のとおり労働協約たる性質を有する退職金規定が存在する。
被告は、昭和四五年ころから経営状態が逐年悪化し、昭和四八年一月二二日、全従業員を集めた全社員会議において、原告主張のとおりの希望退職者募集に関する事項を明らかにした。
原告は、同年三月一七日、被告会社の経営状態の悪化などから同社を退職することを決意し、「被告会社の都合による希望退職者の募集に応じて退職する」旨を明記して退職届を提出し、同年四月五日付で退職した。
以上の事実は、当事者間に争いがない。
二 そこで、原告の退職が退職金規定第五条にいう「会社の都合で退職させられるとき」に該当するかどうかを考える。
1 原告は、退職金規定第五条の文理解釈として、同条にいう「会社の都合で退職させられるとき」とは、人員整理による一方的解雇の場合を意味するのみならず(右文言がこのような場合を意味することは、被告も争わないところである。)、会社の都合によって退職に応じた場合をも含むものと解すべきであると主張する。しかし、原告が指摘する退職金規定第一条の規定が「退職」と「解雇」とを区別しているという点は、右のような解釈を採るべき理由にはならない。また、人員整理による一方的解雇の場合には、その解雇の意思表示について無効事由がない限り従業員がこれを拒否する自由を持たないけれども、希望退職者の募集に応ずる退職の場合には、通常、これに応ずるかどうかは従業員の自由に任されており、退職は会社の将来性、会社に残留した場合における賃金その他の労働条件、退職の条件及び再就職の難易など諸般の利害得失を総合判断した従業員の意思に基づくものなのであるから、両者の間には質的な差異がある。したがって、仮に前者の場合における退職金の額が後者の場合のそれよりも多額であるとしても、これを一概に不合理であるということはできない。
2(一) 原告は、前記のような原告主張の解釈が被告会社における労使間の一貫した共通の解釈であると主張するが、これを認めるに足りる証拠はない。
かえって、≪証拠省略≫によれば、(1)退職金規定第五条にいう「会社の都合で退職させられるとき」との文言の意味については、被告と組合とが同規定を締結した当時から労使間の協議による格別の解釈がなかったこと、(2)被告は、当初から希望退職の場合は同条にいう右文言の場合には該当しないという解釈の下に本件退職者募集をしたこと、(3)これに対し、組合は、被告と何回も行なった団体交渉において、被告の右のような解釈に対して異を立てたことは一度もなかったし、労働協約第六六条には、「この協約の解釈について疑義を生じた場合は、会社、組合双方で協議してこれを定める。」と規定されているところ、労働協約の右規定による協議を求めたこともなかったこと(なお、前記一月二二日の全社員会議においては、荒木和夫ら一、二名の組合員から、希望退職者に対する退職金は、退職者全員について少なくとも退職金規定第五条の規定による額によるべきであるという意見が出たにすぎない。また、昭和四八年三月三一日の組合総会においては、組合執行委員児玉盛光から、被告が提示した希望退職者に対する退職金のうち、同条の規定による額よりも少ない部分については、組合はこれを認めるものではないという発言があったが、それについて、格別の決議はなかった。)が認められる。≪証拠判断省略≫
(二) ≪証拠省略≫によれば、被告会社においては、原告主張のような人事については、組合の同意を得て行なうことになっており(労働協約第一六条)、事実、そのとおり行なわれていることが認められる。しかし、だからといって、万一起こるかもしれない人員整理などによる解雇の場合に備えて、労働協約中に退職金についての優遇措置を定める規定を置いたとしても、それが原告主張のように不自然であるとはいい難い。
(三) ≪証拠省略≫によれば、原告を含む希望退職者一五名のうち、被告から退職金規定第五条の規定による額とほぼ同額又はそれ以上の額の退職金を支給された者は半分程度であることが認められる。また、被告が提示した希望退職者に対する退職金は、同条の規定による場合に比し、勤続年数の長い退職者に不利であるが、その理由の一部に被告会社の負担を軽減する目的があったことは、被告の認めるところである。しかし、これらの事実は、退職金規定第五条を解釈するについてほとんど関係がない。
(四) 原告は、本件退職者募集に当たって被告が提示した基準による額の退職金の支給を受けたことを自認し、退職金規定第五条の規定による額よりも少ない部分については、その請求権を留保したなどと主張する。しかし、原告が右留保したという部分についての退職金請求権を有するかどうかがまさに本件の争点なのであるから、原告が主張するような事実の存否は、同条を解釈するについて関係がない。
(五) 以上に見たとおり、本件退職者募集に応ずる希望退職が退職金規定第五条にいう「会社の都合で退職させられるとき」に該当するという原告の主張は、これをたやすく肯定できない。かえって、被告は、当初から希望退職の場合は同条にいう右文言の場合には該当しないという解釈の下に本件退職者募集をし、その解釈は規定の通常の文言の意味に反するものではなく、労働協約の一方の当事者である組合も、原告主張のような解釈を主張しなかったのであるから、同条にいう「会社の都合で退職させられるとき」との文言の意味は、被告主張のように解するほかはない。
3 原告は、原告を含む希望退職者は、やむを得ず本件退職者募集に応ずるほかはない状況にあったと主張する。
しかし、≪証拠省略≫によれば、(1)被告は、本件退職者募集に当たって個々の従業員に対して退職の説得などを行なったことは全くなく、希望退職者がない場合には、人員整理による解雇を行なうことを予定したこともなければ、これを発表したこともなかったこと、(2)初めに延期された昭和四八年三月五日の希望退職申出期限までに、本件退職者募集に応じた原告を含む退職者一五名のうち、原告ほか一名を除く一三名の者が退職の申出をしたこと、(3)その後、被告会社代表取締役社長田川敬吾が役員を辞任し、これに代わって同社取締役会長竹村一が代表取締役社長に就任することになったが、竹村一は、同月一六日の全社員会議において、その挨拶をするとともに、既に希望退職の申出をした者であっても、その申出を撤回することは構わない旨を述べたこと、(4)原告は、本件退職者募集の発表後、特に、当時の被告会社代表取締役社長田川敬吾から、被告会社を退職しないで一緒にやってゆこうという趣旨のことを何回も言われ、そのころは退職しないつもりであったが、前記のように同人が役員を辞任することになってから心境の変化をきたし、竹村一の挨拶があった日の翌日である同月一七日、退職の申出をしたことが認められる。
右認定した事実によれば、原告の退職は、被告会社の都合による希望退職者募集に応じたものではあるが、被告から少しも強制を受けない原告の自由な意思に基づくものというべきである。したがって、これを被告から解雇された場合に準じて考えることは妥当でないから、退職金規定第五条を解雇された場合に準じて原告の退職に適用すべきであるという原告の主張も、肯定できない。
三 以上の次第で、原告の退職は、退職金規定第五条にいう「会社の都合で退職させられるとき」には該当しない。そして、原告が本件退職者募集に当たって被告が提示した基準による額の退職金の支給を受けたことは前記のとおりであるから、原告には、もはや被告に対し請求し得る退職金はない。
よって、原告の請求は理由がないので棄却することとし、訴訟費用の負担について民事訴訟法第八九条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判官 安達敬)
<以下省略>