東京地方裁判所 昭和48年(刑わ)4634号 判決 1974年8月08日
主文
被告人を懲役八月に処する。
この裁判確定の日から三年間右刑の執行を猶予する。
本件公訴事実中起訴状記載第二の二(報告義務違反)につき被告人は無罪。
訴訟費用は全部被告人の負担とする。
理由
(罪となるべき事実)
被告人は
第一、業務として自動車を運転していた者であるが、昭和四七年一二月六日午後二時ころ、普通乗用自動車(タクシー)を運転し、東京都渋谷区渋谷三丁目一番八号付近道路を、並木橋方面から六本木通り方面に向かって時速約一五キロメートルで進行中、同方向前方約一〇メートルの車間距離をおいて先行していた普通貨物自動車が、進路前方の交差点にさしかかった際、同交差点の手前で右折のため停止したのを認めたのであるが、同所は道路の幅員が片側約五メートルであり、当時道路左側には駐車車両があったため、右先行車両と駐車車両との間隔がその間を自車が安全に通り抜けるのが困難なほど狭くなっていたのであるからこのような場合、自動車運転手としては、右先行車両の動静を注視し、同車後方で一時停止して右先行車両の発進をまって進行する等自車進路の安全を期して運転し、以て事故の発生を未然に防止しなければならない業務上の注意義務があるのにこれを怠り、軽卒にも容易に先行車両と駐車車両の間を通過できるものと誤信し、そのまま前記の速度で進行し、先行車両の後方約三メートルまで接近してその左側方を通過しようとした過失により、同車と衝突する危険を生じたため、急激にハンドルを左転把すると共に急制動の措置をとったが、その衝撃が急激であったため、自車の助手席に同乗していた乗客鈴木政子(当時四七年)をして自車の無線予約用プラスチック器具にその額を打ちつけさせ、そのため同女に対し加療約六か月半(実通院二〇日)を要する頸椎捻挫等の傷害を負わせ
第二、右記載の日時場所において右記載のとおり自己の運転する自動車の交通による事故により右鈴木政子に傷害を負わせたのに、直ちに運転を停止して負傷者を救護する措置を講じなかったものである。
(証拠の標目)≪省略≫
(弁護人の主張に対する判断)
弁護人は、本件事故の態様、被害の程度、事故后の諸般の事情に照らし被告人には、道交法上の救護義務違反はない旨主張している。
しかし、前掲各証拠に徴すると、被告人の判示過失により、被害者鈴木政子は、判示の経緯で額に約四センチメートル大の傷を受け、血がにじんでいる状態にあったことが認められ、事故の発生は外部的に明白であったところ、被告人はこれを認識しながら漫然被害を軽微なものと速断して「けがが大きくなれば、会社に電話して下さい」と言い、自己所属の会社名、電話番号、自己の姓をメモして被害者に渡したのみで、直ちに車両の運転を停止し十分に被害の程度を確かめ、速やかに医師の診療を受けさせる等の措置を講じなかったものであって、たとえ本件被害者が法的に無知なため被告人に対してそれを要求しえないものと考え積極的にこれを求めなかったとしても、被告人が、車両を運転する者に課せられた救護義務を充分に尽したものとはいえず、弁護人の右主張は理由がない。
(一部無罪の理由)
本件公訴事実中起訴状第二の二の要旨は、
「被告人は、前記第一記載の日時場所において、同記載のとおり、普通乗用自動車を運転中、自車に同乗中の鈴木政子(当時四七年)に傷害を負わせる交通事故を起したのに、直ちにその日時場所等所定の事項をもよりの警察署の警察官に報告しなかったものである。」
というものである。
右日時場所において被告人の判示過失により鈴木政子が傷害をうけたこと、および、被告人が警察署に事故発生の日時場所等道路交通法七二条一項後段所定の事項を報告しなかったことは、前掲各証拠によって明らかである。
しかしながら、本件の場合、被告人に同法七二条一項後段所定の事項を報告する義務があるか否かについては疑問があるので、検討する。
≪証拠省略≫を総合すれば、被告人の判示過失により生じた同車内の衝撃により、被害者鈴木政子は同車助手席のフロントガラス上辺に設置されていた無線予約用プラスチック製器具にその額を打ちつけ、右額に約四センチメートル位の長さのはれを生じ、血がにじむ程度の傷害を受けたこと、同車後部座席に同乗していた相客の杉本久仁子が「大丈夫ですか」と声をかけたが、右鈴木は遠慮して「大丈夫です。痛くありません」と答え、同人らには格別の措置を要求しなかったこと、被告人は軽卒にも被害の程度を比較的軽微なものと判断し被害者らが下車するに際し、「ここえ連絡してくれれば費用は会社で負担する」旨述べ、自己所属の会社名、その電話番号、自己の姓をメモした紙を被害者に渡して別れたこと、右杉本らも右タクシーより下車后、被害者の負傷が大したものでない旨見てとり格別の留意もせず被害者とはそのまま別れたこと、事故当時の被告人車の速度は時速約一五キロメートルで、被告人の判示急転把により本件事故を惹起したが、その間、他の車両あるいは物件との何らの接触もなく、直ちに通常の運転走行に復していて交通秩序の混乱を生じた形跡は全くないこと、
が認められる。
ところで、右報告義務が課せられる所以は、交通事故が発生した場合、警察官をして速やかに被害の拡大を防止し、交通秩序を早急に回復せしめ、さらに被害者の救護等につき適切な措置を講じさせるため、当該車両等の運転者に対し、事故の態様に関する客観的事項のみの報告をさせ、その限度で交通警察に対する協力義務を負わせるところにある。車両運転に伴う高度の危険性と、それが事故に結びついた場合の一般国民に及ぼす危害の重大性に鑑みると、自らすすんで車両運転の場に身を置いた者に対し、免許の有無を問わず、能う限りすみやかに事故惹起に伴う危険を除去し交通の円滑を確保するため、それ相応の義務を負担させるのも一定の合理性の存するところである。すなわち、車両運転者に対し、交通事故発生に伴い、前記の限度で警察官に報告すべきものとすることは、直ちには憲法三八条一項に違反しないと考えられ、現実の交通取締の中では、右の程度をこえ、不利益な供述を強要する結果にややもすればつながる虞がある(最判昭三七・五・二刑集一六巻五号四九五頁の中における奥野、山田両裁判官の補足意見)としても、それが前記の趣旨の必要合理的な範囲に止まる限り黙秘権に対する必要最小限度の合理的制約として許容される(東京高判昭四七・五・二九高裁判例集二五巻二号二二八頁)と解されるのである。
しかし、公共の福祉を理由とする人権の制約は、もとより必要にして合理的な限度に止められるべきであり、そこには自ずから黙秘権の保障と道路交通行政の必要との間の健全なる調和点が存在する筈であって、ひとしく、交通事故というも、その態様に照らし、およそ迅速なる交通警察関与の必要性を一律には必ずしも肯認しえない態様の事故の如きは、法形式上は報告義務を負担するものの如くでありながらも、解釈上報告義務を発生させない場合があるものと解される。すなわち、交通秩序の早期回復、被害者救護の必要性等の観点から、外形的に見て交通警察関与の必要性を合理的に承認しうるような交通事故ではなく抽象的にも具体的にも、もはや迅速なる交通警察官関与の必要性がないと明らかに判断されうる態様の事故は、それが車両の走行の過程で生じた事故であったにせよ、必ずしも同条に定める報告義務を生じさせるものとは解されない。けだし、交通警察官は、かような態様の事故につき直ちに報告を受けたところが、道交法七二条二項、三項等による関与の余地もないのであって、かような場合においても国民に対し、一律に警察官に直ちに報告すべきことを刑罰で以て強制するに足るだけの合理性を同条の立法趣旨に見出すことはできないからである。もとより、車両運転者がかような場合にも自発的にこれを警察官に申告すべきものと考え報告することは望ましいとはいえるかもしれないが、それを刑罰で強制し得るかどうかの問題とは論点を異にしているし、又、被害者には少なくとも自己の氏名、住居を告げるべき義務を課すべきであるとも考えられるが、現行法上においては所詮は立法論の域を出ない。
かように報告義務を伴う交通事故であるか否かを、場合によれば当該運転者の主観的判断に委ねる結果に導きかねないような解釈が妥当ではない旨の懸念が或いは予想される。
しかし、当該運転者が、自ら勝手に報告義務がないと判断したところで、客観的に警察官関与の必要性を否定しえない限りは報告義務を免れない(おそらく講学上交通事故と称されるもののうちの大多数がこの態様のものであろうことも又、当裁判所に顕著である)のであり、その点につき争いがあれば、事后的にではあれ、裁判所の判断を通じて、自ら事柄が明らかにされる筋合であって、右の懸念は必ずしも妥当しないと考えられる。
本件においては、右のとおり純然たる車内事故であり、その態様につき交通警察の関与を必要とするような交通秩序の混乱を認めることはできず、又被害者救護の観点よりするも、被告人自らがそれ相応の而るべき救護の方法を尽さなかった点はとがめられるべきであるが(判示第二の事実)、その点につきさらに交通警察の関与を必要とするような態様を伴っていないことも又明白であって、警察官が、交通秩序の混乱を防止し、被害を早急に回復すべく積極的な措置を講じる必要性(同法七二条一項後段によると報告は直ちにしない限り無意味なのであり、当該運転者は一律に処罰から免れ得ないのである)は、抽象的にも、具体的にも発生していなかったとみるほかはなく、かような態様の本件事故についてまで、直ちに警察官に報告すべく刑罰を以て被告人に強制することは、同条の立法趣旨に照らしても相当ではないと考えられる。
従って、被告人は、本件事故につき所定の事項を警察官に報告する義務を負わないというほかはない。
よって本件公訴事実中起訴状第二の二の事実は罪とはならないものとして刑事訴訟法三三六条により無罪の言渡をすべきである。
(法令の適用)
被告人の判示所為中、判示第一の所為は、刑法二一一条前段、罰金等臨時措置法三条一項一号に、判示第二の所為は、道路交通法七二条一項前段、一一七条に該当するので判示第一につき禁錮刑を、判示第二につき懲役刑を各選択し、以上は刑法四五条前段の併合罪であるから、同法四七条本文、一〇条により重い判示第二の罪の刑に法定の加重をし、その所定刑期範囲内で被告人を懲役八月に処し、その情状を考慮して刑法二五条一項一号によりこの裁判確定の日から三年間右刑の執行を猶予し、訴訟費用については刑事訴訟法一八一条一項本文によりこれを全部被告人に負担させることとする。
よって、主文のとおり判決する。
(裁判官 秋山賢三)