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東京地方裁判所 昭和48年(合わ)169号 判決 1983年3月24日

《目次》

被告人等の表示

主文

理由

はじめに

第一基礎的考察

一日石土田邸事件の共犯者等の範囲及び公訴事実の概要

二日石土田邸事件における被告人ら一一名の役割及び犯行の具体的態様に関する検察官の主張

三日石土田邸事件の客観的事実関係

四被告人ら一一名の経歴・交友関係等

五日石土田邸事件の捜査及び公判の概要

六弁護人の主張の概要

七当裁判所の判断の範囲及び理由説明の順序

第二全体的考察

一被告人ら九名の自白の信用性を判断するにあたって考慮すべき概括的諸事情

二客観的証拠と自白の関係をめぐる主要問題

三被告人ら九名の自白の問題点の各人別検討

第三個別的考察

一日石搬送関係

二土田搬送関係

三爆弾製造関係

四その他の準備活動及び謀議関係

第四補充的考察

一その余の証拠関係と検察官の立証制限について

二証拠能力をめぐる主要な問題点

結語

松本博

昭和二三年二月二六日生

右の者に対する爆発物取締罰則違反、殺人、殺人未遂被告事件について、当裁判所は検察官遠藤寛、弁護人下山博造、同後藤昌次郎、同中村了太、同石川道夫、同山崎龍一各出席のうえ審理を遂げ、次のとおり判決する。

主文

被告人は無罪。

理由

はじめに

本件公訴事実は、「被告人は、ほか数名と共謀のうえ、治安を妨げ、かつ、警視庁警務部長土田國保及びその家族らを殺害する目的をもって、弁当箱に塩素酸ナトリウム・砂糖を充填し、これに手製雷管・乾電池・マイクロスイッチなどを用いた起爆装置を結合させ、これを収納する木箱の蓋を開くことにより爆発する装置を施した爆発物一個を、昭和四六年一二月一七日東京都千代田区神田神保町一丁目二五番四号神田南神保町郵便局に小包郵便物として差し出し、同都豊島区雑司が谷一丁目五〇番一八号前記土田國保宛郵送し、翌一八日午前一一時二四分ころ右土田方においてこれを爆発させ、もって、爆発物を使用するとともに、右爆発により同人の妻土田民子(当時四七歳)を即時爆死させて殺害したほか、同人の四男土田恭四郎(当時一三歳)に対しては加療約一か月を要する顔面・両手第二度熱傷などの傷害を負わせたにとどまり同人殺害の目的を遂げなかったものである(罰条 爆発物取締罰則一条、刑法一九九条、二〇三条、六〇条)。」というのである。

当裁判所は審理の結果被告人は無罪であるとの判断に到達したが、その理由は以下に述べるとおりである。

なお、説明の便宜上以下の判文においては、事件名・関係者名・関係場所等について多くの略称を用い、証拠の引用にあたっても簡易な略語を使用し、年月日等についても簡略な表現を用いることとするが、その主要なものは次のとおりである。

(事件名)

土田邸事件

……昭和四六年一二月一八日土田國保方(土田邸)で発生した第一・三2記載の爆発事件

日石事件

……同年一〇月一八日日石本館地下郵便局(日石郵便局)で発生した第一・三1記載の爆発事件

日石土田邸事件……右両事件の総称

なお、これらの事件名は、第一・一記載の増淵ら及び被告人に対する右各事件に関する公訴事実を示す意味で用いることもある。

(関係者名)

増渕…………増渕利行

前林…………前林則子

堀 …………堀秀夫

江口…………江口良子

榎下…………榎下一雄

中村(隆)………中村隆治

中村(泰)………中村泰章

金本…………金本ミネ子

松村…………松村弘一

坂本…………坂本勝治

(以上一〇名及び被告人の人定事項については第一・四の「共犯者等一覧表」参照。引用文中においては、被告人は松本と略記されるほか、右表中のあだ名等が用いられることもある。)

(関係場所)

日石本館(日石ビル)

……東京都港区西新橋一丁目三番一二号日石本館

日石郵便局

……右日石本館地下一階所在の郵便局南神保町(郵便)局

……同都千代田区神田神保町一丁目二五番四号神田南神保町郵便局

土田邸

……同都豊島区雑司が谷一丁目五〇番一八号土田國保方

日大二高

……同都杉並区天沼一丁目四五番三三号日本大学第二高等学校

(喫茶店)サン

……同都同区上荻一丁目一三番三号喫茶店「サン」

高橋荘

……同都世田谷区給田四丁目一九番一五号高橋荘二階三号室

白山自動車

……同都杉並区上荻二丁目一八番一一号白山自動車工業有限会社

八王子保健所

……同都八王子市東町五番一三号東京都八王子保健所

陸運習志野支所(習志野陸運事務所)

……千葉県船橋市習志野台八丁目五七番一号東京陸運局千葉県陸運事務所習志野支所

石田茂方

……東京都世田谷区千歳台二丁目四六番四号横山荘二階石田茂方

岡田香料

……同都武蔵野市吉祥寺本町二丁目八番五号岡田香料株式会社

月島自動車

……同都中央区月島四丁目七番一四号月島自動車有限会社

衛生研

……同都新宿区百人町東京都立衛生研究所

堀方

……同都杉並区方南二丁目四番二四号江口のアパート

……同都中野区鷺の宮三丁目二八番一号みゆき荘一階二号室

中村(泰)のアパート

……同都国立市西一丁目一四番四二号若木荘

金本のアパート

……同都同市東一丁目四番地の一九竹花荘

坂本のアパート

……同都中野区中央五丁目三七番七号

榎下方

……同都杉並区和泉四丁目三一番七号

中村(隆)方

……同都中野区江古田四丁目二三番一八号

中村の工場

……右同所の株式会社隆博製作所

被告人方(松本商店)

……肩書住居地生花園芸鳥獣販売業松本商店

(冒頭陳述等)

冒陳……検察官の冒頭陳述(特に断らない限り、第一三七回公判で陳述した冒頭陳述変更書を指すものとする。)

論告……検察官が一七六回公判で陳述した論告要旨

意見書……特に断らない限り検察官が被告人らの供述調書の証拠能力について陳述した補充意見書を指し、例えば増渕利行に引する補充意見書を「増渕意見書」というように表示する。

各補充意見書が陳述された公判期日は左記のとおりである。

第一四五回……金本関係

第一四九回……松村・堀・被告人関係

第一五〇回……増渕・中村(隆)・中村(泰)関係

第一五三回……坂本関係

第一六八回……榎下関係

なお、第一六八回及び一七六回公判において一部訂正がなされている。

弁論……弁護人が第一七七回・一七八回公判で陳述した弁論要旨

(証拠の引用に関する略語)

証拠の引用については、次のとおりの略語及び用語例に従うこととする。

○ 証拠書類記録中の所在の表示は例えば同記録第七冊九四三丁以下を「⑦九四三」というように略記する。

○ 当部の公判調書を除くその余の書証はその大部分が謄本・抄本ないし写しであるが、煩を避けるため、原本、謄本等の別が特に問題となるものを除いて、これらの表示は省略する。

○ 司法警察員及び検察官に対する供述調書

それぞれ員面調書及び検面調書と略称するが、更に簡略化し、被告人及び共犯者等については、例えば増渕利行の司法警察員に対する昭和四八年三月一三日付供述調書を「増渕3.13員」、同人の検察官に対する同日付供述調書を「増渕3.13検」というように表示し(なお、同日付の右両調書を「増渕3.13員・検」というように表示し、被告人のことを単に被と表示することもある。)、証拠書類記録中の所在の表示は省略し、その他の者についてはこれにならって例えば、片岡計雄の司法警察員に対する昭和四六年一二月二七日付供述調書(証拠書類記録第七冊九四三丁以下)を「片岡計雄46.12.27員⑦九四三」というように表示する。

なお、増渕らの同一作成日付の検面調書・員面調書については、次表のとおり(A)、(B)の符号を用いて特定することとする。

○ 被告人及び共犯者等に関する弁解録取書及び勾留質問調書

右要領に従い、それぞれ「被告人4.10弁録」、「被告人4.13勾質」というように表示する。

○ 被告人及び共犯者等作成のメモ等ないしこれらの者に関する取調状況報告書等

司法警察員作成のメモ作成状況報告書に添付のメモ等については、例えば右報告書により榎下一雄が昭和四八年四月八日に作成したメモとされているものを「榎下4.8メモ」というように表示し(実際のメモ作成日付が右報告書のとおりであるか否かが争われているものも多く、右表示はあくまで特定のための便宜にすぎず、当裁判所がその日付に作成されたと認定することを意味するものではない。)、その他のものについては上申書、供述書等簡潔な表題がついているものについては右略語中の「メモ」に代えてこれらの表題を記載する。

次に、被告人及び共犯者等についての司法警察員作成の被疑者取調状況報告書については、例えば松村弘一についての昭和四八年四月九日付被疑者取調状況報告書を「松村4.9取報」と表示する(なお、右メモ作成状況報告書のことを「メモ報」と略称する。)

これらについては、原則として証拠書類記録中の所在は示さず、特に紛わしいものや特定の箇所を示すときにのみ示し、また、適宜検察官の証拠請求目録の符号を特定のため用いることとする。

○ 当部における証人及び被告人の供述もしくは供述記載については、公判廷における供述(第一四〇回公判期日以後)と、公判調書中の供述記載部分(第一三六回公判期日以前)とを区別せず、例えば第四五回公判調書中の証人中村隆治の供述記載部分及び同証人の当公判廷(第一四八回公判)における供述を「四五回・一四八回中村(隆)証言」というように表示する(被告人については「被告人供述」とする。)。被告人及び共犯者等は前掲略称に従うほか、取調官については原則として姓のみで表わすこととする。

○ 当裁判所の証人増渕利行に対する尋問調書を「増渕期日外証言」と表示する。

○ 当庁他部公判調書中の証人等の供述記載部分については、例えば、当庁刑事第三部の被告人坂本勝治に対する被告事件の第一回公判調書中の右被告人の供述記載部分を「三部一回坂本供述」と、当庁刑事第九部の被告人増渕利行外一名に対する被告事件の第一三回公判調書中の証人坂本勝治の供述記載部分を「九部一三回坂本証言」というように表示する。

○ 被告人及び共犯者等に関する司法警察員作成の留置人出入簿の抄本作成状況報告書等(〜)については単に「出入簿」と表示する。

○ 被告人及び共犯者等に関する司法警察員作成の留置人接見差入状況に関する調査復命書等(一二二二〜一二二七二)については単に「接見復命書」と表示する。

○ その他の書証については、例えば司法警察員石崎誠一作成の昭和四八年四月七日付実況見分調書(証拠書類記録第六〇冊一〇九二〇丁以下)を「(員)石崎48.4.7実況(一〇九二〇)」というように表示することとし、なお、次のとおりの略語を使用する。

実況……実況見分調書

検証……検証調書

引当り…(被疑者)引当り状況(捜査)報告書

報 ……捜査報告書

写報……写真撮影報告書

実査……実査状況報告書

鑑 ……鑑定書(「鑑定結果回答について」と題する書面に添付されているものを示すこともある。)

鑑嘱……鑑定嘱託書

捜照……捜査関係事項照会回答書(照会書を含むこともある。)

任 ……任意提出書

領 ……領置調書

捜押……捜索差押調書

○ 特に頻出する司法警察員古賀照章作成の昭和四八年五月一〇日付「爆弾の構造等に関する捜査報告書」二通については⑦一〇五一のものを「古賀土田報告書」、一〇三二三のものを「古賀日石報告書」とそれぞれ呼ぶこととする。

○ 新聞記事については、例えば朝日新聞縮刷版昭和四六年一二月一八日夕刊を「朝日46.12.18夕」というように表示する(及びにおいて集大成されているものについては証拠書類記録中の所在の表示は省略する。)。

○ 証拠物の押収番号は昭和四八年押第一九三六号の符号1ないし143であり、その表示は符号のみをもってする。

(年月日)

○ 年号(昭和)はいずれも省略する。

○ 年月日のうち年を表示していないものは、日石土田邸事件及びその前後の事柄に関しては四六年の、右事件の捜査段階及び初期の公判段階の事柄に関しては四八年のそれぞれ月日を指すものである。

(取調官の階級等)

(検) ……検察官、検事、副検事

(視) ……警視

(警) ……警部

(補) ……警部補

(部) ……巡査部長

(査) ……巡査

但し、右階級等はすべて当時のものとする。

(法令名)

爆取 ……爆発物取締罰則

銃刀法……銃砲刀剣類所持等取締法

第一  基礎的考察

一  日石土田邸事件の共犯者等の範囲及び公訴事実の概要

二  日石土田邸事件における被告人ら一一名の役割及び犯行の具体的態様に関する検察官の主張

1 爆発物の郵送を計画するまでの経緯等

2 日石事件

3 土田邸事件

三  日石土田邸事件の客観的事実関係

1 日石事件の客観的事実関係

2 土田邸事件の客観的事実関係

3 日石・土田爆弾の組成・構造等

四  被告人ら一一名の経歴・交友関係等

1 被告人ら一一名の人定事項

2 被告人ら一一名の略歴

3 被告人ら一一名の交友関係・政治活動歴

4 運転免許及び自動車所有等について

五  日石土田邸事件の捜査及び公判の概要(関連事件も含む)

1 増渕の東薬大事件による逮捕及びその後の同人に関する窃盗事件の捜査等

2 ピース缶爆弾関係事件等

3 日石土田邸事件の捜査の端緒

4 日石土田邸事件の捜査の進展

5 日石土田邸事件の捜査の終局

6 日石土田邸事件の公判の経過

――以上、省略――

七  当裁判所の判断の範囲及び理由説明の順序等

1 判断が日石土田邸事件のほぼ全面にわたることについて

これまでみてきた検察官の主張、捜査の経緯、証拠関係のいずれの面においても日石事件と土田邸事件は不可分一体の関係にあり、本件における最重要証拠である被告人ら九名の土田邸事件に関する自白の信用性を適正に判断するためには右自白中の日石事件に関する部分をも考慮に入れることが必要不可欠といわなければならない。ほぼ同時的になされた両事件に関する自白のうち、一方の自白の信用性に疑問が残ることになれば、他方の自白の信用性もまた疑問になつてくるのみならず、検察官の主張及び被告人ら九名の自白によると、増渕、堀、前林、江口を中心とするグループは、まず、日石事件を敢行し、その失敗を踏まえて、更に工夫、検討を重ねたうえ、土田邸事件を敢行したとされているのであって、日石事件は土田邸事件に至る極めて重要なステップとなっており、増渕らが日石事件に関与することなく、いきなり土田邸事件を敢行したと認定することは不可能であるから、もし、日石事件につき、その自白に客観的証拠との矛盾や不自然不合理な点があったり、アリバイが成立するなどの証拠上の疑問があるということになれば、それはとりもなおさず土田邸事件についての証拠上の疑問となるということができよう。したがって、被告人は土田邸事件のみについて訴追されているにとどまるとはいえ、本件においては、日石事件に関する争点についても土田邸事件に関する争点とほぼ同程度の検討を加えざるをえないことになる。

また、比較的局部的判断のみで無罪の確定をみている坂本の場合と比較すると、坂本については、日石事件の幇助犯ということで訴追されているにとどまり、土田爆弾製造見張りを担当したとはされているものの、土田邸事件についての訴追はなく、したがって日石事件以後のことについて判断する必要はなく、問題の日石リレー搬送について後記の中村(隆)アリバイがこれを直撃しているという事情が存したのであるが、被告人については、検察官は具体的加功行為として、土田搬送、土田爆弾被告人保管、土田爆弾製造見張、二回の南神保町郵便局下見、雑司が谷下見、土田筆跡準備及びこれらの前提としての増渕らとの謀議ないし意思連絡という多岐にわたる主張をしており、土田邸事件の共謀加担に至る経過的事実として、久保邸下見、日石下見、下落合下見及び日石筆跡準備をも主張しており、最も重大な土田搬送に関する前林や被告人のアリバイは検察官がその成立を争っているのであり、争いのない日石事件の中村(隆)アリバイとは趣を異にするのである。検察官も坂本の公判は局地戦争であったのに対し、本件の公判は刑事第九部と同様の全面戦争であるとの考え(坂本意見書一六頁ないし二五頁)のもとに広範な主張・立証を展開しており、弁護人においてもこれを受けて立ち、ほぼ全面にわたって検察官の主張・立証に反駁を加えているのであり、当裁判所の判断も日石土田邸事件のほぼ全面にわたらざるをえないことになる。そして、説明の便宜上個々の事項毎に判断を示していくことになるが、被告人ら九名の自白の信用性が中心となる本件の証拠関係の構造上、各判断は当該事項限りの意味を持つのではなく、相互に広く影響し合うものであり、以下特に明示しない場合でもこのことは当然の前提としているのである。

2 理由説明の順序等

被告人と土田邸事件を結びつける証拠としては被告人ら九名の直接・間接の自白しかなく、したがって、本件においてこれら自白の信用性が有罪・無罪の決め手となることは明らかであることから、まず、第二の全体的考察のはじめにこれら自白の信用性をめぐる概括的諸事情を明らかにし、次いで、これら自白を現場遺留証拠物等の客観的証拠と対比した結果生ずる疑問点のうち主要なものを一〇項目にまとめて説明し、これら自白の信用性が基本的に脆弱であることを示すとともに日石土田邸事件と増渕との結びつきについて唯一の客観的証拠ともいうべき黒田鑑定についての疑問をも明らかにし、更に、被告人ら九名の自白を縦割り的にみて、その特徴等を分析し、後の個別的考察において事項別に取り上げにくい問題点をも拾い上げることとして全体的考察を締めくくることとする。そして、これら考察を踏まえたうえで、第三の個別的考察に移ることとし、ここでは第一・二の検察官主張の事項の時間的順序に従うことなく、自白の出方等の点からみて日石土田邸事件をまとめて搬送、爆弾製造、その他の準備活動及び謀議関係ごとに検討することとする。この第二及び第三の検討の結果、第一・二の検察官の主張はほとんどすべての点において証拠上疑問があるといわざるをえないのであって、検察官においては、なお、増渕を中心とする主犯グループと日石土田邸事件との結びつきに関する佐古プランタン供述等の証拠を重視すべきであるとしたり、ピース缶爆弾関係事件等の立証が必要であるとしているが、増渕らが全く無実であるか否かまで判断する必要のない本件においては、これらの諸点については証拠能力の点とあわせてごく簡単に、第四の補充的考察に譲ることとした。

第二  全体的考察

一  被告人ら九名の自白の信用性を判断するにあたって留意すべき概括的諸事情

1 自白の信用性を肯定する方向に働らく諸事情

(一) 事件関係者の供述、特に自白の信用性を判断するにあたって考慮すべき事情は、ごく一般的にいうならば、極めて多岐にわたり、また、個々の事件によっても、おのずから異なってくるものであるが、例えば、複数の被告人らの自白がいずれも大筋において一致し、その内容も詳細かつ具体的で、真実その事実を体験した者でなければ供述しえないような事項を含み、不合理、不自然な点も特に見受けられないといった場合には、それらの自白の信用性は高いものと認められる場合が多いように思われる。また、それらの自白がいわゆる「秘密の暴露」を含み、客観的証拠が示す犯行の状況とも合致するといった場合には、それらの自白の信用性が一層強まることも多言を要しないところである。更に、自白の出方をみても、その出方に首肯しうるものがあり、かつ、取調べの初期の段階からその自白がなされ、終始それが維持されるとともに、公判においても被告人がその事実を認めているような場合には、その自白の信用性が高く評価されることも一般論としてはこれを肯定してよいと思われる。

また、自白に変遷が認められ、共犯者らの区々にわたる自白が次第に一点に収れんしていったり、あるいは訂正を重ねて徐々に客観的証拠関係に合致していく場合、更には自白と否認が繰り返され、そこに著しい動揺がみられるような場合であっても、それによって直ちに自白の信用性が否定されるものではなく、このような自白の変遷、動揺をもたらした背後の事情、原因といったものを仔細に検討し、そのうえでその信用性を慎重に判断する必要性があることもあらためていうまでもないところである。

(二) 検察官は、本件においてもこのような視点から被告人ら九名の自白の信用性を判断すべきことを強調し、信用性を肯定する方向に働らく諸事情として、次のような諸点を指摘している。

(1) 日石土田邸事件は被告人ら一一名の犯行(幇助・爆取違反を含む。)として訴追されているが、このうち前林・江口を除く被告人ら九名が自白をしているのであって、主犯者格の者に対しては極刑すら考えられるこのような重大事犯についてこれほど多数の者が程度の差こそあれ、口を揃えて自白をするということは、被告人らが真実本件に関与しているのでなければありえないことである。しかも右一一名は、いずれも高等教育を受け、その大半は公務員等の職業に就いて社会生活の経験を有し、十分な判断能力を備えていたのであるから、このような重大な事件への加功を自白した場合の自己及び家族に及ぼす影響についても承知していたと思われるにもかかわらず、なおかつ、そのほとんどの者が自白しているのである。

(2) 日石土田邸事件の首謀者というべき増渕は三月一三日他の者に先駆けて初自白をして以来、自白内容に曲折、変動を重ねつつも、自己の刑責を認める態度においてはほぼ終始一貫しており、一度として日石土田邸事件についての自己の刑責を否定していないのである。増渕が日石土田邸事件について全く無実であるとするならば、このような自白の経過や態度の一貫性は不可解であるといっても過言でない。

(3) 増渕・堀を除く自白者七名は、いずれも自らに直接日石土田邸事件への嫌疑が及び取調官の追及を受け始めるや、ほとんどの者が、その日もしくは翌日という極めて早い時期から重要自白を開始し、中村(隆)・坂本・中村(泰)に至っては在宅取調中に重要供述を始め、松村も犯人隠避事件での勾留中の早期から重要な供述をしているのであって、このような自白・供述の出方は自白の信用性を裏付けるものである。

(4) 松村・坂本・中村(隆)はいずれも初期の公判において、捜査官に対する自白と同旨の自白をしており、とりわけ中村(隆)は、アリバイが明白となった日石搬送について否認しているものの、土田爆弾製造等に関する重要な自白・供述を起訴後約一年間の長きにわたって、自己の法廷のみならず、否認している増渕ら他の共犯者らの法廷においても反復していたのである。ちなみに土田爆弾の配線関係についてみると、中村(隆)は九部六回、七回各公判において、四六年一二月上旬増渕方に何人かの者が集まり、マイクロスイッチを使って配線作業を行い、そのマイクロスイッチを木箱に取り付けた状況等を認め、また、二〇部一一回公判での被告人質問でも、日時についての明確な供述を避けたものの、それ以外の事実については右同様の供述を行い、その後全面否認に転じた二〇部一三回公判における被告人質問に至ってもなお、増渕達と一緒に配線作業をしたという記憶はないが、自分の趣味で同じような配線作業をした記憶はある旨供述し、九部三五回公判における被告人質問においても、増渕に爆弾の配線図を示し、渡した事実を認めているのである。このような中村(隆)の初期公判自白自体に信用性が強く認められるべきはもとより、このことは捜査段階の自白についても信用性が認められるべきであることを明らかにしているものである。

(5) 被告人ら九名の自白は、迂余曲折を経てはいるものの、とにかく、最終形においては、現場遺留証拠物の状況と一致する点が多く、たとえば、中村(隆)の土田爆弾のマイクロスイッチに関する自白とりわけ端子の選択を誤らないように赤色ラッカーで印をつけたとの点及びもともとは直線状であった作動線をクランク型に曲げて蓋を閉じた時に完全に絶縁されるように工作したとの点、並びに金本の土田爆弾の特殊な二重包装の仕方に関する自白に至ってはいずれもいわゆる「秘密の暴露」にあたるというべきものである。

(三) 被告人ら九名の自白の信用性に関する検察官の主張は多岐にわたり、到底そのすべてをここに列挙しうるものではなく、右に挙げた諸点もそのうちのごく主要なものに止まるが、要するに、検察官としてはこのような諸点から「自白の信用性を検討するにあたっては、自白の細部の一つ一つが客観的事実と合致しているか否かとか、自白内容の細部が変遷しているか否かといった微視点な判断にとらわれることなく、全体的な大局的見地から、その自白が信用できるかどうかを検討することが必要である」旨主張するのである。

検察官の右のような指摘については、当裁判所としてももとより十分に耳を傾け、慎重な検討を加えたところであるし、他方、被告人らの法廷弁解中にも不自然不合理と思われる点が見受けられ、そのすべてが措信しうるものでないこともいうまでもないところである。例えば、被告人ら九名の法廷弁解は、それぞれの自白を否定したうえ日石土田邸事件との関わりは皆無であるとするのみならず、相互の交友関係についても捜査段階とは異なっている点が多く、特に増渕との接触・高橋荘への出入り、日大二高への出入りなどの時期をいずれも四六年一〇月ないし一二月から遠く隔たった四五年あるいは四七年にずらしており、その理由としては捜査官の誘導、自己らの錯覚を挙げているが、その弁解内容自体不自然なところが多く、しかも各人の法廷弁解同士が相互に大幅に食違っていることも見受けられるのである。

また、これら法廷弁解中の何故に自白するに至ったかに関する部分をみると、捜査当時の資料からみてほぼ動かないと思われる取調べの時間等の捜査経緯と矛盾するところも多く、取調官の暴行・脅迫・誘導・押付け・利益誘導等を強調している点も、かなりの誇張を伴っているといわざるをえない。被告人ら九名はいずれも相互に他を巻き込むような自白をしていることから、法廷弁解では他の共犯者等の手前を考えざるをえず、自分がそのような自白をしたについては苛酷な取調べというやむをえない状況があったのであり、誰がその立場に置かれてもこうなったであろうという言訳け的方向へ供述が傾斜しているものと認められるのである(後にみるとおり、各自白内容をみただけでも、強引な取調べに対し屈服したというだけで、これだけ多彩な自白が形成されたとは到底考えられず、各人とも自己以外の共犯者らについては真犯人ないしその加担者であると信じ、捜査官に対し協力ないし迎合したことが相互に不利に作用し合い、相互不信を招き、罪のなすりつけ合いというべき泥沼にはまり、ついには自己も広範囲に深く事件に関与した旨の自白をせざるをえない立場に追い込まれたということがうかがわれるが、法廷弁解ではこの側面は取調べの苛酷さほどには強調されていない。)。

(四) また更に、被告人ら九名の取調べや自白内容そのものに直接関わるものではないが、四七年九月の増渕逮補後に堀・榎下らを中心としていわゆる口裏合わせその他の罪証隠滅的活動が相当活発に行われており(これらの多くは公判供述においても争われていない。)、これらの行動は被告人らの増渕との関わり合いが法廷弁解のとおりであるとすれば、その説明は苦しいといわざるをえないほか、佐古・檜谷・石田・長倉・鈴木らからも、増渕らが日石土田邸事件に何らかの形で関与したことをほのめかす趣旨の供述がそれぞれなされていること及び増渕ら主犯格とされている者たちに認められる爆弾闘争志向等をも念頭におき、被告人ら九名の自白の信用性を判断する必要性があることも否定できないところである。

なお、堀・榎下らを中心とする口裏合わせ、その他の罪証隠滅活動のうち、大筋において争いのないものを列挙してみると左のとおりである。

① 四七年九月増渕逮捕直後前林は、江口・榎下・被告人・金本及び同女を通じて森谷義弘、牛乳屋グループ、藤田和雄、平野博之らにそのことを電話連絡した(一四四回前林証言等)。

② 四七年九月榎下は前林からの電話で増渕の逮捕を知るや直ちに東久留米市の堀の新しい家に赴き、これを伝え、堀は「増渕が何でつかまったか分るかもしれない。」と言いながら、二人で夜遅く多摩ニュータウンに行き、堀が藤田和雄方を訪問した。

③ 四七年一〇月一五日増渕の関係で藤田和雄が逮捕されたことを知った堀は愛人のキティ方(堀の新しい家の隣り)に被告人と榎下を集め、被告人に対しては、警察から調べられたら、被告人は増渕の烏山アパートは知らないことにし、阿佐ケ谷の喫茶店華厳で増渕と知り会ったことにし、堀は高橋荘へは一年位行っていないことにしてくれと頼み、榎下とも、榎下が増渕を知らないことで通そうなどと口裏合わせをした(以下「キティ方口裏合せ」という。)。

④ 榎下が四七年九月ないし一〇月に中村(隆)や坂本に増渕逮捕のことを伝え、警察には自分と堀のことは話してもよいが増渕のことは話さないよう依頼した。

⑤ 四七年一〇月二六日増渕はいったん釈放されるや、直ちに堀に電話して「堀もやばい」と注意し、そのため堀は化学の書物、メモ、機関紙、週刊誌等を処分することとし、中村(泰)の協力を求めるべく、中村(泰)のアパートに行き、被告人にも連絡して来てもらい、右書物等の処分の前に、三人で増渕・堀らと関係のあった世田谷区三宿の森口信隆方付近に向かい、堀は被告人・中村(泰)にはもし自分が二〇分たって戻らなかったら逃げろなどと指示し、自ら森口方の様子をうかがうなどし、引き続き堀は中村(泰)とともに方南町の堀方から右書物等を持ち出し、その後中村(泰)がこれらを当時勤務していた青梅保健所の焼却炉で焼却した。

⑥ 四八年三月一四日、金本は増渕・堀らの日石土田邸事件での逮捕の報を昼のテレビニュースで知るや、そのあと被告人方を訪ねて被告人にニュースの内容を告げたほか、同日夕刻立川駅南口の喫茶店で中村(泰)・花岡と会い、堀の救援対策を話し合ったうえ、自分のアパートに戻って手帳の一部を破り捨て、更に堀から買った左翼関係図書等の保管をアパートの隣室の友人である永松ひとみに依頼していること。

⑦ 更に、激しく争われている点ではあるが、四七年大みそかの日大二高での堀の坂本・榎下・松村に対する口止め、及び四六年大みそかの高橋荘での松村に対する口止め等の問題もある。

2 信用性を否定する方向に働く諸事情

(一) しかしながら、本件証拠関係を概観すると、被告人らが犯人であることを立証する決め手となるような物的証拠は皆無といってよく、また、被告人ら九名の自白は膨大な量にのぼるが、その中に厳密な意味において「秘密の暴露」にあたるといいうるものは、結論的にはこれまたないといってもよいのである(黒田筆跡鑑定の信用性並びに中村(隆)のマイクロスイッチ関係自白及び金本の二重包装自白がいわゆる「秘密の暴露」にあたるか否かについては後に詳述する。)。更に、これらの自白が検察官の主張の基礎とされている現在の最終形に落ち着くまでには数多くの曲折を重ね、さまざまの変遷を辿っているのであって、そのあまりにも激しい訂正やその経緯等に徴すると(検面調書では重要な自白の変更についても理由が録取されていないことが多いが、これまた極めて不自然というべきである。)、その変遷を一概に被告人らの記憶の欠落や誤りないしは意図的な秘匿や虚偽混入が取調官の追及によって是正され真実に近づいていく過程であると認めるわけにはいかないし、その最終形にすら、重要な点において自白相互に矛盾が残り、現在では検察官においても真実であるとは主張しえないような多くの過剰自白・虚偽自白が含まれているのである。

また、被告人らの自白については共犯者の一人からある自白が出ると、その事項に関連してすぐにそれとほぼ同趣旨の自白が他の共犯者からも出るといった自白相互の伝播性が顕著に見受けられるが、これらは取調官の介在、誘導を抜きにしては説明できないものであり、しかも、中村(隆)の日石搬送関与等の虚偽自白についてまでこの傾向が現われているなど、前記の警察における各被疑者ごとの縦割りの捜査方針が完全には守られておらず、かえって、正規又は非公式に入手した他の被疑者らの供述あるいは物的証拠に関する情報をもとに取調官の誘導的な追及が行われ、それによって多くの重要自白が得られた疑いがあるなど、被告人ら九名の本件自白に関しては、その自白の信用性を否定する方向に働く事情があまりにも数多く存在し、検察官の指摘する右1の点をいかに重視してもこれらをもって右自白の信用性を担保しきれるものではないとの判断に達せざるをえないのである。以下自白の信用性を否定する方向に働く諸事情のうち主だったものを、いずれ後に詳しく述べることとするが、いわばその要約もかねてここで若干指摘しておくこととする。

(二) 犯人と被告人らを結びつける物的証拠の欠如

本件のような郵送による小包爆弾事件は、いわば隔地者間の犯罪であり、実行行為と結果発生との間の時間的、場所的なへだたりから犯人発見の手がかりをとらえにくく、しかも爆弾によって物的証拠も散逸、破損され、直接犯人を割り出す決め手となるような物的証拠を得ることが困難であることも事実であるが、このような犯人と被告人との結びつきに関する物的証拠を欠く以上、被告人ら九名の自白の信用性を判断するにあたって、極めて慎重な態度が要求されることもこれまた論を俟たないところである。日石事件の場合、犯人が郵便局員に差し出した五百円札一枚から三号指紋一個が、また、日石(B)爆弾の包装紙の破片から同じく三号に該当する足紋一個がそれぞれ検出されているが、これらが被告人ら(指紋については特に前林・江口)のものであるという立証はなく、日石爆弾の差出し犯人であるいわゆる甲女・乙女を目撃した日石郵便局員もこの甲女・乙女と前林、江口との同一性については断定を避け、右郵便局係員らの協力によって作成された甲女・乙女らのモンタージュ写真もまた必ずしも前林・江口に似ているとはいいがたい。

また、日石土田邸事件の爆発現場から発見された爆弾構成物の破片等の出所については、徹底的な捜査が行われたにもかかわらず、被告人ら九名の自白を媒介とせずにはこれらの物が被告人らの調達したものとは認定しえず(むしろ逆の結論の出ている物も多い。)、日石・土田爆弾の荷札、包装紙等から採取された遺留筆跡も、もしこれが黒田鑑定の結論づけるように本当に増渕筆跡であるとするならば、被告人ら特に増渕と日石土田邸事件を結びつける極めて重要な物的証拠ということになるが、この黒田鑑定は後に詳述するとおり、被告人ら一一名のうちにこの遺留筆跡を書いた犯人がいることを意識的にも無意識的にも鑑定の前提に取り込んでいるという批判を免れず、鑑定資料、対照資料の統計的処理等においても極めて初歩的な誤りを犯していること、線質分析を重視する同鑑定の方法論自体にもいささか独善にすぎるところが見受けられる等の難点を有するのであって、これによって前記荷札、包装紙の遺留筆跡が増渕のものであるとは到底認定できないというほかない。その他、金本は三月三一日同女に対する勾留請求が却下されてからも警視庁において在宅取調べを受けていたが、自己の無実を捜査官に信じてもらう方法はないかと根本(補)に相談し、同警部補の示唆もあって四月九日自ら進んでポリグラフ検査を受けたところ、この検査結果においては犯人らしき心理的動揺を示すような異常反応はほとんど現われていないのである。

なお、このほか犯人と被告人らの結びつきに関する物的証拠としてニットーテープの問題もないではない。たしかに、土田爆弾の弁当箱を緊縛するのに用いられている青色ビニールテープは日東電気工業製のもの(ニットーテープ)に色調が酷似しており(飯田裕康他四名48.3.31鑑⑦九八四)、他方榎下の勤務していた白山自動車から同種のニットーテープが押収されていることが認められるが、ニットーテープの市場占有率の高さ(日東電気工業株式会社作成の回答書一三六三四以下)を考慮するならば、右ビニールテープの同質性は榎下らを土田邸事件に結びつける証拠としては証拠価値に乏しく、かかる事実によって土田爆弾に用いられたビニールテープは榎下が白山自動車から持ち出したと推認することはいささか危険すぎるのである。

結局、被告人らを日石土田邸事件の犯人と名指しうるような直接的な証明力をもった物的証拠は皆無であり、このことは、全体としてやはり一つの消極的な情況証拠であるといわざるを得ないのである。

(三) 自白と客観的証拠との不一致

(1) 被告人ら九名の自白は膨大な量にのぼるが、その中に「秘密の暴露」にあたる内容は極めて少なく、検察官によってこれにあたると主張されている諸点の中にも証拠物を仔細に検討すると、必ずしもそうとはいえない点もあり、かつ、いずれも前記縦割り捜査特に取調官の物的証拠からのしゃ断という捜査機関内部の情報統制の徹底を前提としてはじめて「秘密の暴露」に準ずる意味を有するにすぎないところ、その自白のなされた時点における情報統制の点には極めて疑問が多いといわざるをえず、結局、検察官が「秘密の暴露」にあたると主張する諸点も被告人らの自白の信用性を肯認するための決め手となるものではない。この点は後に詳述するが、土田爆弾製造の際、本来直線状のマイクロスイッチの作動線をクランク型に曲げたという中村(隆)自白は、マイクロスイッチの端子に赤ラッカーを塗布したという同人の自白と並んで最も重要な「秘密の暴露」にあたるものとして検察官の強調している事項であったが、証拠物や検証調書及び古賀土田報告書添付の各写真等の証拠を仔細に検討すると、肝心の証拠物たる作動線には捜査機関の手中にある間に変型が加えられているのであり、事件直後に発見、押収された時の形状からは、土田爆弾に用いられたマイクロスイッチの作動線がクランク型に曲げられていたとはにわかに速断できないところである。また、中村(隆)は、四月八日の取調べにあたった辻英男(部)に早くも増渕に起爆装置としてマイクロスイッチの使用を教示した旨の自白をし、同巡査部長も、この取調べにあたった当時、土田爆弾に関する知識としては同爆弾にマイクロスイッチが使われていたことはもとより、爆薬として塩素酸ナトリウムが用いられていたことその他電池、点火用ヒーター、雷管が使われていたことも知らなかった旨供述するが(一五五、一五七回辻証言)、同巡査部長も新聞報道で知る程度の知識があったことは認めているところ、当時同人の購入していた読売新聞にはマイクロスイッチ、塩素酸ナトリウム、乾電池、ガスヒーター等がいずれも土田爆弾に使われていたことが報じられているのであって(読売48.3.14夕)、四八年三月一二日に極左暴力取締本部に派遣され、日石土田邸事件の捜査にあたることになった矢先きの辻(部)がこれらのことを知らなかったとはいささか信じがたいところである。同巡査部長が土田爆弾の構造についての知識の欠如を誇張して供述するのも、中村(隆)のマイクロスイッチ関係自白の自発性を強調し、これがいわゆる「秘密の暴露」にあたるものであることを印象づけるためのものと推察され、中村(隆)の法廷弁解が信用できるかどうかの問題は別として、取調べ警察官の証言によって「秘密の暴露」を認定することには細心の注意が必要であることを示しているのである(したがって、厳密な意味での「秘密の暴露」とは捜査機関全体が全く知らずあるいは知りえなかった事項について被告人から先に自白が出て、それが客観的事実に合致するような場合に限られるべきであろう。)。

(2) 次に被告人ら九名の自白はそれぞれ程度の差はあるもののいずれも多くの事項にわたり、その内容も詳細を極めているのであるから、これらの自白によって、各爆弾の製造を含む日石土田邸事件の全容が明らかになってもよいと思われるのに、なお、客観的証拠との関連で多くの重要な事項が未解明のまま残されているのである。例えば、土田爆弾の爆力は、榎下の自白する塩素酸ナトリウムと砂糖との混合爆薬ということでは到底説明しきれるものではないし、土田邸の爆発現場から採取された土田爆弾に用いられたとみられる約三三グラムに及ぶアルミニウム箔片は、そのごく一部が雷管の管体として使用されたとほぼ推認されるほかは何に用いられたのかほとんど解明もされていないのである。中村(隆)の自白中には増渕がアルミホイルを引き出して爆薬の上に被せている状況が述べられているが、約三三グラムのアルミホイルから雷管の管体に用いられた分を差し引いたその残りを爆薬の上に被せたならば、爆薬を入れるべき弁当箱の容積がどれだけこのアルミ箔によってとられてしまうか試みに約三〇グラムのアルミホイルを弁当箱の大きさに折り畳んでみれば直ちに判明するところである。その他、日石爆弾の雷管の有無、管体の素材についても謎が残り、また、被告人らの自白が必ずしもその客観的裏付けを伴うものでないことは、榎下の日石、土田爆弾の弁当箱・包装紙の持出し、堀の多摩町役場からの事務服持出し、増渕・堀の日大二高からの電話帳持出し等にその例をみることができる。なお、検察官の主張によれば、増渕・堀は右の電話帳によって送り先の住所等を調査したこととされているが、横浜市に居住する今井栄文(日石(B)爆弾の送り先)の住所が都内二三区版の電話帳によって調査しえないことはもとより、日石(A)爆弾の荷札に記載された後藤田正晴の住所中「目白パークマンション」は電話帳に登載されていないのであって、これらのことも指摘に値する事柄であろう。

(3) 更に、被告人らの自白にはその最終形においても、他の証拠により客観的に認められる事実関係と矛盾するものも多いが重要なものを列挙すると、①日石事件における甲女・乙女の言動や爆弾製造関係における無計画性と自白にある周到な計画性、②日石事件における中村(隆)のアリバイと日石リレー搬送自白、③土田邸事件当日の前林の行動と土田搬送自白、④セメダインスーパーの接着所要時間等と土田爆弾製造関係自白(特に中村(隆)のマイクロスイッチ取付方法の自白)などである。

(4) 被告人ら九名の自白の多くが他の客観的証拠と符号しているといっても、それは自白の最終形においてであり、初期あるいは中間の自白中には客観的証拠関係と矛盾する点も多く、特に爆弾製造関係の榎下・中村(隆)の自白は変遷を重ねたすえ、やっと客観的証拠との明白な矛盾がほぼ解消されるようになったといってもよく、この変遷の過程においては取調官も現場遺留証拠物や客観的証拠関係についての認識を次第に深めていったと認められるので、むしろ初期自白中の矛盾点の方がより重要な意味を持つといってよい。爆弾製造関係の細かい点は別として重要なものを列挙すると、①堀の日石搬送の実行担当、②中村(隆)を含む土田リレー搬送、③日石爆弾のマイクロスイッチ使用の起爆装置、④蓋に施された日石爆弾のトリック装置、⑤榎下による日石爆弾の弁当箱調達などに関する自白があり、これらは①堀の出勤状況、②中村(隆)の交通事故とサニークーペの修理、③ないし⑤日石爆弾の破片等の分析結果等と明らかに矛盾していたものである。なお、土田爆弾の包装後のひもかけに関する中村(隆)・金本・榎下・増渕自白がこの点についての興味ある一例を提供しているのである。すなわち、土田爆弾のひもかけは爆発現場で発見された麻ひもの長さや結び目等からキの字型(横に二本、縦に一本)であると認められるのに、中村(隆)(4.17員、「前林が麻紐で爆弾を十文字に結びました」)、金本(4.20員(B)、「私は、その上を包装紙についていた麻縄かで十字用(様)に結束したのです」)、榎下(4.25検「増渕・堀・江口がこの木箱を麻ひもで十文字に縛りあげました」)、及び増渕(4.9検、「赤茶色の包装紙で包装され、ひもが十文字にかけられ」)はいずれも一時期麻ひもを十文字にかけたと供述しているのであって(但し、榎下及び増渕自白はそのまま残る。)、このように四人が四人とも当初は縦横十文字のひもかけを自白したというのは、記憶違いとみても虚偽自白とみてもいささか不自然であり(但し、九部二九回金本供述は想像で適当に述べた旨供述)、捜査のある段階までは古賀班においても土田爆弾のひものかけ方を十文字だろうと推測し、そのような爆弾模型を作成したりしていたこと(二部四回古賀照章証言)と無関係ではないように思われる(なお、一五二回公判で金本証人に示した朝日47.1.14朝の写真参照)。

(四) 虚偽自白・過剰自白の存在

明らかに虚偽もしくは検察官においても真実とは主張できない自白が被告人らによって数多くなされており、いわば自白の過剰ともいうべき現象が生起しているが、その中には表面的にみる限り体験したものでなければ述べえないほど具体的かつ詳細なものが数多く存するのである。事項的にみた場合のその最も顕著な例が弁護人らも指摘する日石リレー搬送に関する中村(隆)をはじめとする関係共犯者らの自白である。中村(隆)が日石事件の当日、警視庁府中運転免許試験場において午前九時二〇分頃から正午頃までの間、運転免許の学科試験を受験していた事実は今日では何人も争いえない明白な事実である。このような事実が存在していたにもかかわらず、中村(隆)・榎下・坂本・増渕らはいずれも中村(隆)を第二搬送者とする日石リレー搬送を自白しているのであって、その自白の迫真性からみても、もし中村(隆)のこの不動のアリバイが現われなかったならば、中村(隆)を第二搬送者とする日石リレー搬送があるいはそのまま認定されてしまったおそれも多分にあったといわざるをえないのである。したがって、日石土田邸事件に関する被告人らの自白の信用性を判断するにあたっては、この中村(隆)のアリバイ問題を軽視することは許されないところといってよい。つまり、日石リレー搬送のように詳細かつ具体的で迫真性に富んだ自白が多くの共犯者らから出て、それが大筋において一致していたとしても虚偽であることがありうるわけであり、被告人らの土田邸事件に関する自白についても同じ取調官の担当したものである以上、同様のことがないとはいえないということである。検察官はこの中村(隆)アリバイがいわば特殊的、局地的な問題であって、取調官がこれを看過したことにもやむを得ない事情があり、かつ、この問題の及ぼす影響は日石リレー搬送への中村(隆)の関与に関する限度にとどまり、他の日石土田邸事件に関する自白の信用性にはその影響が及ばない旨を強調するが、後に詳論するように、この問題は決して検察官の主張するような生易しい問題ではないのである。

また、各人別にみた場合には虚偽自白の典型を榎下自白にみることができる。土田爆弾製造時の爆弾二個製造等がその最たるものであるが、被告人との関係でも、右爆弾一個の妻良実験に際しての車の運転、日石爆弾製造時の見張り、日大二高謀議への参加等検察官においてもにわかに真実とは主張しえないような自白が多く存在し、取調官に対する同人の迎合的態度や次々に話を作っていく傾向等に照らすと、同人には真実発見を妨げ、更にはこれを誤らせるおそれのある極めて危険な供述者としての側面があることも否定しえないのである。もっとも、同人の虚偽自白の多くは取調官から疑問視されて追及を受け、その後に訂正を受けるに至っているが、たとえ訂正されようともその供述過程でいったんはこのような人を事件に巻き込み、その刑責を強めるような虚偽自白をしたこと自体が問題であり、また、取調官が虚偽自白のすべてを見破り、訂正させえたという保障が必ずしも得られないことは、日石リレー搬送自白をみるだけでも明らかであろう。

(五) 自白相互の矛盾、撞着

各自白間に顕著な食違いが残されているなど被告人ら九名の自白中には矛盾、撞着がしばしば見受けられ、いずれかを虚偽と断定することはその者の自白全体の信用性に重大な疑問を提起することになり、検察官としてもいずれが真実であるか明言を避けているものも少なくない。その最も顕著な例が日石爆弾製造に関する榎下自白と中村(隆)自白の根本的対立である。すなわち、中村(隆)は日石爆弾の製造に関しては榎下に銅板及びアルミ板を渡したことを認め、また手製スイッチについて技術的な指導をしたことは認めるものの、爆弾製造の現場に居合わせたことは強く否定しているのに対し、榎下は右爆弾製造に関する四月一四日の初自白以来そのメンバーとして終始中村(隆)の名をあげ続け、マイクロスイッチを使用した旨の供述が手製スイッチに変わってからも中村(隆)が製作したものと述べ、両者の供述は全く相反し、主任検事であった親崎(検)もそのいずれが偽りであるのかはっきりしなかった旨証言をしており(第一四二回親崎証言)、検察官の日石爆弾製造に関する主張も、この両者の自白のいずれを信用すべきかをあいまいにしたまま、「増渕・堀・江口・前林及び榎下ら」が製造したとして中村(隆)の名を明記することを避けつつ、しかも榎下らに中村(隆)が含まれる余地を残しているのである。

(六) 自白の変遷、動揺、相互伝播

(1) 被告人ら九名の自白はいずれも枢要な部分において顕著な変遷を重ねており、これは最も広範囲にわたった自白をしている榎下において特に顕著であり、同人及び次いで重要な自白をしている中村(隆)においては、当初直接体験ないし目撃した出来事としてではなく、「誰々から誰々が何かをしたということを聞いた」という形式で他に罪をなすりつける自白をし(立証趣旨との関連でこのような自白がすべて伝聞供述というわけでもないので、以下、この種の自白を便宜「聞いた話」と呼ぶこととする。)、しかもそれが後にめまぐるしいほどに変化し、当初の「聞いた話」は作り話であったとされたり、あるいは後の自白によって実質的に撤回されたとみるしかないこととなっているのである。

ちなみに、①榎下の日石搬送自白は、員面調書では堀から聞いた話として堀の搬送ということで始まったものであるが(但し、4.8検では堀の運転する車に増渕・江口が乗り込むのを見ていることとされている。)、②土田搬送自白もこの同じ4.8員で同じく堀から聞いた話として被告人の搬送ということで述べられ、その後土田搬送もリレー搬送に発展し、一時被告人の分担は爆弾差し出し後の帰路の送りにまで後退したのである(4.21員)。その他、前記妻良海岸での爆発実験時の被告人の車の運転(4.19員)も、被告人の南神保町郵便局下見(4.10員)も堀から「聞いた話」として始まったものであって、榎下の「聞いた話」はまだまだこれにとどまるものではないのである。

(2) 増渕・堀・榎下の自白についてはその最終形においてもなお虚偽部分の混入があるといわざるをえず、真相を語った部分とこれら虚偽部分とのえり分けをしなければならないわけであるが、後に検討するとおり、これらの自白については増渕自白の抽象性、堀自白の断片性、榎下自白の過剰性・激変性等の問題もあり、検察官が意見書等において行っているこのえり分けもいささか恣意的であって、検察官が描いた日石土田邸事件の構図に合致しているものを真相を話った部分とし、反する部分を虚偽部分としているきらいがないではない。また、従属的加担者とされている被告人・中村(泰)・金本・坂本・松村の五名については自白と否認の繰り返しがみられるなど供述の振幅が激しく、詳細な初期公判自白で裏うちされ最も安定しているかにみえる中村(隆)の自白にも明白なアリバイの成立した日石搬送関係自白及び爆弾製造関係自白の出方の不自然さなどの重大な問題が存しているのである。更に、全体を通じて、自白の過程において取調官にヒントを下さいと申し出たり、取調官が自白の細かい点を追及していくと否認に転じたり、自白を大きく変更ないし後退させるといった例も多く見受けられるのである。

(3) 最後に、各自白間には相互伝播性が顕著にうかがわれることを指摘しておきたい。この傾向は検察官も虚偽自白といわざるをえないものについても同様であり、その最も顕著な例が、中村(隆)・榎下・坂本・増渕らの日石リレー搬送自白であり、他に土田リレー搬送、堀の日石搬送等もあり、検察官が真実であると主張している事項については枚挙にいとまがないといってもよいくらいである。その典型的な例を日大二高謀議に関する榎下4.8員、松村4.9員及び中村(隆)4.11員の間にみることができる。

なお、検察官は真実であると主張する事項については前記の縦割り捜査・情報管理の徹底を主張し、期せずして一致した自白が得られたものであることを強調するが、このような主張に無理があることは後に指摘するとおりであり、このような取調官を媒体とする供述の全般的な相互伝播の状況をみていくと、各供述の前後関係が必ずしも明らかでない坂本の日石リレー搬送関与に関する榎下4.12員と中村(隆)4.12(A)の間や検察官において全く無関係になされた旨強調されている土田搬送に関する四月八日の榎下自白(4.8員)と四月九日の増渕自白(4.9検)の間にも相互の影響がなかったとは必ずしもいいきれないのである。

(七) 自白内容の筋書きとしての不自然さ

被告人らの経歴・相互の交友関係は前記第一・四で認定したとおりであり、日石土田邸事件のような爆弾テロを敢行したり、これに加担する動機・背景を有しているとみておかしくないのは増渕・堀・江口・前林の四名のみであり、被告人をはじめ他の七名にはいずれも過激派的な活動歴も強固な思想的背景もなく、各自白中の犯行加担動機に関する部分はいずれもとってつけたような不自然な内容といっても過言ではない。増渕から頼まれたが日石搬送は断ったとされる被告人が何故土田搬送を引き受けるに至ったか、思想的な共鳴もなく、「ステレオのことで世話になっている」とかはきちがえた義理ということで説明のつく問題ではないと思われる。一一名相互間には全く交友関係のない者もあり、一個の集団としてのまとまりがあったとは認め難く、先にもみたとおり前林と江口とは増渕を巡って三角関係にあったと認められるのである。

また、高橋荘で右一一名中九名もが集合して土田爆弾を製造したとの自白をはじめ、各自白中において、増渕らは必要もないと思われるのに、各種謀議や準備の際に多くの人間を集め、重大な計画等をこれらの者にいともたやすくさらけ出してしゃべっていることになっているのは、犯罪の性質を考えると極めて不自然といわざるをえず、増渕らはあまりにも不用意で、その犯行は密行性を欠いているというほかない。弁護人が「発覚すれば極刑が予想される重大な爆弾事件に、ただの友達や顔見知り、いや顔見知りですらない者まで加えて謀議と実行を共にするというようなことがありうるわけがない。計画中も実行後も秘密の厳守が要求されるのであるから、思想、目的ともに同志的に固く結ばれた少数者でなければできない事である。ところが検察官によれば「増渕は爆弾闘争を総力戦とするため全員で小包爆弾の製造を行うこととし」というのである。このような無謀を爆弾犯人が企てるはずがない。主張自体、荒唐無稽というほかない。」旨主張するのも無理からぬ面があるのである。総じて各自白内容及びこれに基づく検察官の主張にはそれ自体ストーリーとして不自然・不合理な点が多いといわなければならない。一例をあげれば、中村(隆)は日石サン謀議において日石リレー搬送の第二搬送者となることをいったん承知しておきながら、搬送日直前に至って怯じ気づいて脱落し、増渕らに搬送計画の練直しを余儀なくさせているというのに、その中村(隆)が増渕らと縁を切ることもなく、またエスケープをした気まずさにもかかわらず、日石総括に平然として出席し、手製スイッチの構造等に批判を加えている(中村4.19検(B))という筋書きも不自然というほかないし、被告人及び坂本の土田爆弾製造時の有害無益の見張りや日石・土田爆弾の転々移転、再三再四にわたる神田南神保町郵便局の下見等の自白にもストーリーとしての問題性が残ることは否めないところである。

(八) 自白調書の録取技術の技巧性

被告人ら九名の自白によると、日石事件・土田邸事件ともその準備的行動は多岐にわたり、各人の勤務等の客観的状況がこれを許すかどうかの問題もあり、また、いずれも相当過密なスケジュールとなっていたのであるから、自白中のある事項の日時の特定をゆるがせにすることはできず、この特定はその時にはたしてそのメンバーを集めることができたか否かの検討にも大きく影響するところ、検面調書においては員面調書において特定の日の出来事とされている事項の日付を「何日頃」あるいは「何月上旬頃」等としてぼかしていることが多く、また、自白に重要な変遷があるというのに、その理由が全く記載されていないこともしばしばで、この点もまた検面調書に顕著である。更に、検面調書、それも捜査の終結段階に近いものにおいては本来なら問答体ででも残しておくべき重要な事柄を取りあげることなく、逆に目立たないようにさりげなく欠落させている場合が見受けられるのである。このような供述調書ことに検面調書にみられる技巧性は、自白相互間の矛盾を小手先で糊塗せんとしたものではないかと疑われ、このような工夫のあとがみられるということは逆に自白の脆弱性を物語っているともいうことができよう。いくつかの例をあげてみることとする。

まず、日石事件の雷汞及び雷管作りは当初の榎下自白(4.18員)ではそれぞれ一〇月七日頃及び同月九日頃とされていたが、後の榎下自白(4.20検)ではそれが何の理由もつけられることなく、それぞれ一〇月六日頃及び同月八日頃のこととされ、一日ずつその日が繰り上げられているのである。この変更はおそらく雷管作りを一〇月九日頃の夜とすると、一〇月九日の夜は増渕が中村(泰)と土屋博子を高橋荘に呼んで御馳走をしていることと牴触することによると思われるが、かかる事情は榎下の知ることではなく、検察官のみの知っている事柄である。被告人らの自白によると、四六年一〇月上旬及び一二月上旬の増渕らの日石事件あるいは土田邸事件に向けての準備活動にはまことにめざましいものがあり、これらの活動が日によっては、衝突する可能性も生じているところ、調書上でその日を動かし、過密ダイヤを調整しているふしが随所に見受けられるのである。

次に、増渕4.9検、4.19検では「三省堂裏付近道路」とされていた土田爆弾差出し時の被告人運転車両の停車位置が増渕4.28員及び4.29検(B)では何の説明もなしに「三省堂前の交差点付近」に変えられているのである。これも被告人の自白する停車位置との調整を意識した訂正と思われるし、更に、増渕4.24検に「雷管に使った雷こうと硝化綿は二、三日前から私が作っておきました」とあったのが、その翌日の増渕4.15検ではこれまた何の断わりもなしに「雷管に使った雷こうは二、三日前から作っておきました」と変り、4.24検にあった「硝化綿」と「私が」という言葉が4.25検では抜けているのである。その違いの重要性を知っているのはこれまた榎下の自白状況を把握している津村(検)であって増渕ではないのであり、さりげなく落した技巧性やこの変更について何の理由も付されていない点からみてこの4.25検の記載は増渕の供述(期日外証言)するとおり同人の知らぬ間に行われたものと認められるのである。

(九) 被告人らの捜査に対する協力的態度等

検察官は被告人らの前記のような罪証隠滅的活動を強調し、もちろんその点も無視しがたいところであるが、他方、弁護人において「四七年九月に増渕が逮捕されてから、最後に坂本が逮捕されるまで七か月以上あるが、この間誰一人逃げようとした者がない。日石土田邸事件についてだけみても、増渕が日石土田邸事件を自白したとマスコミに報道されたとき、増渕ら四名は身柄を拘束されていたが、他の被告人ら七名は未だ自由の身であったから、誰か一人位は逃走しそうなものである。ところが誰一人逃げ隠れせず、逃げ隠れしようともしていない。それどころか、中村(隆)・中村(泰)・金本・坂本・松村は警察の呼出しに素直に応じ、逮捕されるまで捜査に協力していたのである。極刑を予想される爆弾事件、殺人事件の犯人が共犯者が自白したというのにこのようにのんびりとしていることがあろうか。」と主張する(弁論一七五頁・一七六頁)のもそれなりにもっともであると思われるし、また、逆に被告人ら七名のいずれもが日石土田邸事件の犯人であるとするならば、これらの者の先にみたような経歴や検察官も意見書の随所で認めているようなその善良な性格からして、日石土田邸事件の犯人としての厳しい追及を受ける前の在宅取調べ等の段階あるいは遅くとも日石士田邸事件についてはまだ参考人的取調べがなされている段階で一人ぐらい反省悔悟し、自ら進んで核心に触れる自白をしてもよいのではないかとも思われるのである。そして、公判が進むにつれ、坂本に対する求刑等を通じて従属的な関与者については相当寛大な刑が考えられることが判っても誰一人として反省の態度を示さず、一〇年近くもの間冤罪を叫び続けているというのもやはり疑問となるところである。

二  客観的証拠と自白の関係をめぐる主要問題

1 日石事件における甲女・乙女の言動

2 日石爆弾の雷管と榎下・増渕自白

3 日石爆弾製造等の粗雑さ

4 各爆弾の送り先・発送名義人の住所等の調査と増渕らの自白との関係

5 各爆弾の弁当箱・包装紙と榎下自白

――以上、省略――

6 各爆弾の爆力について

(一) 日石爆弾と土田爆弾の爆力の相違と爆薬に関する検察官の主張

検察官の主張によれば、日石・土田爆弾の爆薬は、前記第一・二記載のとおりいずれも塩素酸ナトリウムを主成分とし、これに砂糖(日石爆弾では更に若干のクロム酸ナトリウム)を混合したものとされているが、日石爆弾と土田爆弾の爆力に歴然たる差があることは、この二つの爆発現場を一瞥すれば、自ずから明らかとなるところである。すなわち、日石郵便局の爆発現場においては、まず(A)爆弾が爆燃ともいうべき弱い爆発を起こしたのに引き続いて(B)爆弾が完爆したが、負傷者は日石郵便局員星野栄ひとりにとどまり、付近に多くの郵便局員等がいたにもかかわらず他に負傷者はなく、右星野にしても、最初に爆燃した(A)爆弾によって前記第一・三1に判示したような火傷を負ったものの、突嗟に身の危険を感じて郵袋から一、二歩離れて難を避けたため引き続く(B)爆弾の爆発によってはこれといった負傷はしていない。また、右郵便局内の物的設備の破損状況からみても、爆心点から北東へ約三メートルの位置にある同郵便局東側ガラス壁体(高さ約2.27メートル、横約1.9メートル、厚さ六ミリメートル)の一枚が約八〇パーセントほど破壊されたほか、爆心点の床(床構造は上部から厚さ約四ミリメートルのリノリューム、厚さ約六ミリメートルのベニヤ板及び厚さ約一五ミリメートルの縁甲板の三枚合わせ)に穴(南北に三一センチメートル、東西に一七センチメートル)があき、テックス張りの天井も爆心点上方において螢光灯のプラスチック覆板一枚が破損するなどの状況を呈してはいるが、爆風方向からややはずれたと思われる爆心点近くの東側ガラス壁体は何ら損壊されず、局内全体の調度品類(戸棚、ロッカー等)にも特に移動倒壊はみられないところである(荻原嘉光48.4.28鑑一〇三〇四(以下荻原日石鑑定書という)、(員)北田稔46.10.30実況等)。

これに対し、土田邸の爆発現場においては、小包爆弾を開披しようとした土田民子において見るも無惨な爆死を遂げたほか同女の近くにいた土田恭四郎も爆発により加療約一か月を要する顔面、両手第二度熱傷などの重傷を負っているのであり、屋内の破損状況をみても、爆心点から約3.1メートルないし6.8メートルの位置にある南側の厚さ六ミリメートルの普通ガラス入りアルミサッシ引戸は全面的にガラスが破損し、爆心点から約5.5メートルの位置にある同引戸の重ね部分は上部サッシが枠組からはずれて「く」の字形に傾いたほか、爆心点の床(床構造は厚さ1.75センチメートルの七枚合わせ合板に厚さ0.6センチメートルのフェルト製と思われるクッション及び厚さ約0.7センチメートルのじゅうたんを重ねたもの)に穴(東西約五〇センチメートル、南北約四〇センチメートルのだ円形)があき、その穴は完全に地面に抜け、地面に若干の凹形を生じ、天井は床面から約2.7メートルの高さにあるが、北側は全体が上へ持ち上げられ、東、西、北側の各壁面も大きく損壊し、室内のテーブル、椅子等の物品は大きく移動倒壊し、まことに惨たんたる状況を呈し(荻原嘉光48.3.31鑑⑦一〇三九(以下荻原土田鑑定書という)、(員)藤田博46.12.31検証①〜⑤等)、日石爆弾との爆力の相違はまさに一目瞭然というほかない。

更に、この点について爆薬容器とされたアルマイト製弁当箱の破砕状況を日石(B)爆弾と土田爆弾とで比較してみると、現場から発見された弁当箱破片と認められるものの重さと数は次の表のとおりである(数字は破片の個数を示す。)。

爆弾

重さ(g)

日石(B)

土田

0.1以下

1

78

0.1~0.49

8

84

0.5~0.99

12

28

1~4.9

14

33

5~9.9

7

2

10以上

3

0

この差は、厳密にいうならば弁当箱そのものの違いや発見されないままになっている破片の存在等による若干の誤差を見込まなければならないが、それにしても極めて歴然としており、土田爆弾の威力を雄弁に物語っているということができる。

そこで、問題は検察官の主張するように日石・土田爆弾とも同じく塩素酸ナトリウムと糖類とを主成分とする混合爆薬であるとすると、何故これほどまでに両者の爆力に差が生じたのかということである。

① 日石爆弾に爆薬の一つとして用いられているクロム酸ナトリウム(重クロム酸ナトリウムの可能性もある。)が土田爆弾には用いられていないということが、両者の爆力の差特に土田爆弾の爆力のすさまじさを説明するものでないことは明らかである。

② 同じく塩素酸ナトリウムと糖類との混合爆薬といっても、この両者の混合率如何によっては爆力に差が生じてくることも十分考えられるところであるが、前記荻原日石鑑定書によれば、日石(B)爆弾の爆薬容器とされたアルマイト製弁当箱の破片の大きさ、重量、破断特徴等は、塩素酸ナトリウム七〇%と砂糖三〇%の混合爆薬約九〇〇グラムをアルマイト製弁当箱に入れ、ヒーター点火をしたときの爆発実験成績に比較的類似していると観察されたというのであるから、日石(B)爆弾における塩素酸ナトリウムと糖類との混合率は酸素バランスにおいて最も適切(九回古賀照章証言参照)なものであったと認められ、この点においては土田爆弾に劣るものではないと考えられるので、この塩素酸ナトリウムと糖類の混合割合から両者の爆力の差を説明しうるものでもない。

③ 土田爆弾においては爆薬容器としてチドリ印深大角弁当箱が用いられており、このため土田爆弾は日石(B)爆弾に比べて爆薬量が多かったのではないかという点が両者の爆力の差を解明する一要素として指摘されうるのである。しかし、右チドリ印深大角弁当箱の内容積が九四三立方センチメートルであるのに対し、日石(B)爆弾に用いられた富士印弁当箱の内容積は八六七立方センチメートルであって、前者が大であるとはいってもわずか九パーセントの容積増にすぎず、弁当箱の内容積から生ずる両者の爆薬量の差をもっては、日石(B)爆弾と土田爆弾との爆力の差を到底解明しきれるものではない(なお、中村(隆)自白にあるように、土田爆弾においてアルミ箔が大量に爆薬の押えとして弁当箱内に使われていたとするならば、弁当箱内の爆薬量は当然その容積分だけ減少することになろう。)。あるいは土田爆弾の弁当箱には爆薬を一杯に充填したが、日石爆弾においては、弁当箱に爆薬を十分充填しなかったということも考えられないではない。しかし、そのように爆薬が少なかったとするならば、なぜ、それを二つに分けて爆発力の弱い爆弾を二個作ろうとしたのか、はなはだ不自然ということにならざるをえないのである。

④ 最後に考えられることは、日石爆弾と土田爆弾の起爆装置の相違である。日石爆弾に果して雷管が用いられていたのかそれとも単なるガスヒーターが用いられていたにとどまるのかは前記2で検討したところであるが、土田爆弾の手製雷管の威力によって両者の爆力にこれだけの差異が生じたとみることは困難である。このことは、検察官主張のような手製雷管ではなく、典型的な高性能爆薬である二〇グラムのピクリン酸付雷管を使用しても、塩素酸ナトリウムを主成分とする砂糖との混合爆薬では土田爆弾ほどの威力を発揮するに至らなかったという次に述べる爆発物実験結果に徴しても明らかである。

以上のとおり、検察官の立証によっては、日石・土田爆弾の爆力の差はほとんど解明されておらず、むしろ、土田爆弾には塩素酸ナトリウムと糖類の混合爆薬(及び雷汞・硝化綿を使用した手製雷管)だけでなく、更に何らかの爆速の早い高級爆薬が使われている疑いが濃いのである。

(二) 爆発実験結果からの高級爆薬混入の推定

(員)関谷雄47.5.9第二回爆発物実験結果見分報告書(⑧一一〇九)によると次の事実が認められる。

四七年五月九日警視庁深川射撃場において、土田爆弾の爆薬容器とされた青田製作所の深大角弁当箱の容積(約九四三立方センチメートル)とほぼ同じ位の約九〇〇グラムの塩素酸ナトリウムと砂糖の混合物を主体とした爆薬の爆発実験を行った。弁当箱の緊縛度を強くして爆発力を大きくするため、弁当箱を青・黒ビニールテープ五巻長さ五〇メートルで緊縛したうえ更にガムテープを巻きつけ、塩素酸ナトリウム(あるいはこれを主成分とする除草剤クサトール)と砂糖(市販のグラニュー糖)の混合比を七四対二〇ないし七五対二五の割合とし、ガスヒーターを用い、これを単一乾電池六本の九ボルトの電流を遠隔通電して加熱し五回にわたって爆発実験をしたが、弁当箱の破砕状況からみていずれも土田爆弾ほどの威力には達しなかった。一回目、二回目は起爆剤を用いずに行い、三回目から五回目までは起爆剤を用いて行ったが、三回目は爆竹の爆薬一〇〇グラム、四回目は硫黄五四グラム、五回目は二〇グラムピクリン酸付雷管をそれぞれ用いたものである(なお、硫黄混入による第四回目の爆発力が特に強かったが、土田邸事件の現場でのガスの臭いとは異なる亜硫酸ガス(SO2)の臭いが強く残ったため、土田爆弾への硫黄混入は否定的に解されるとのことである。)。

右の実験のほか、これに先立って四七年二月に行われた爆発実験結果((員)松岡忠雄47.2.25爆弾実験結果見分捜査報告書)をもあわせ考えると、土田爆弾の爆発力は現場遺留証拠物の分析からその存在が確認される塩素酸ナトリウム及び糖(必ずしも砂糖に限定されない)のみによっては説明しきれないことが明らかであり、古賀班においても、起爆薬を含む手製雷管あるいは高級爆薬の混入が推定されるとの結論を出しているのである(古賀土田報告書、九回・一〇回古賀証言)。

(三) 爆力に関する荻原鑑定の問題点

検察官の主張(及び増渕・榎下らの自白)によると日石・土田爆弾はいずれも増渕らが製造したもので、その爆薬・起爆剤等爆発力に影響する部分については、基本的には同一ということであり(ただ、榎下自白では、日石爆弾では硝化綿ではなく脱脂綿が使われたとなっているが、この点の検察官の主張は明確ではない。)、爆薬の容器である弁当箱の容積については前記認定のとおり、土田爆弾の方が日石爆弾に比して約一割程度大きいにすぎないのである。この日石・土田爆弾の爆力については、警視庁科学検査所副参事荻原嘉光の手によって鑑定が行われ、土田爆弾に関するものが四八年三月三一日、日石(B)爆弾に関するものが同年四月二八日にそれぞれ鑑定書にまとめられているが(前記荻原日石鑑定書及び同土田鑑定書、以下これらを一括して荻原鑑定という。)、右荻原鑑定の結論は、両爆弾とも爆薬は塩素酸ナトリウム七〇%・砂糖三〇%の混合割合(その比重は約一である。)のものとして、その爆発力は新桐ダイナマイトに換算すると、日石(B)爆弾が約一七八グラム、土田爆弾が二九〇グラムないし三七〇グラム(検察官主張の約一七〇グラム、三三〇グラム前後はそれぞれこれに依拠していることが明らかである。)であり、爆薬の量は日石(B)爆弾については新桐ダイナマイトの三ないし四倍として約五三〇グラムないし七〇〇グラムとし、土田爆弾については、三倍として約八七〇グラムないし一一一〇グラムとしているのである。これによると、日石(B)爆弾の方は弁当箱の容量(約八六七立方センチメートル)に比し、爆薬を控え目に入れ、土田爆弾の方は弁当箱(約九四三立方センチメートル)に爆薬を一杯に詰め込んだと考えることにより、先に触れたような高級爆薬のことを考慮に入れることなく、増渕らの自白どおり塩素酸ナトリウムと砂糖の混合爆薬の使用ということでも両爆弾の威力の相違は説明が可能であるとするようである。

しかし、右荻原鑑定には次のような疑問があり、到底右結論を肯認することはできないといわざるをえない。すなわち、

① 両爆弾の爆薬の成分比を同一としておきながら日石(B)爆弾ではその爆力を新桐ダイナマイトの三分の一ないし四分の一程度としているのに、土田爆弾ではその二分の一ないし三分の一(後には三分の一ともしている)としているのは不可解であり、このような差をつける根拠が明らかでない。日石(B)爆弾については弁当箱の破片の大きさを考慮し、土田爆弾については弁当箱の密閉強度を問題にして右の結論を導びき出したかのようであるが、このような考慮の仕方もまた首尾一貫していないものというほかない。日石(B)爆弾についてその爆力を新桐ダイナマイトの四分の一程度とする余地を残したのは、次の(2)の点をもあわせて考慮すると、弁当箱の容量が既に判明していることからそれぞれの爆薬量をなるべく弁当箱の容量に合わせる上の操作と疑われてもやむをえない面がないではない。

② 日石(B)爆弾については前記(一)の表のように弁当箱破片の状態を分析し(同表の分類は荻原鑑定に従ったものである。)、一方では前記のとおり、「この生成破片の大きさ重量・破断特徴等は、(中略)塩素酸ナトリウム七〇パーセント、砂糖三〇パーセントの混合爆薬約九〇〇グラムをアルマイト弁当箱に入れヒーター点火したときの爆発実験成績に比較的類似していると観察される。」としているのに、他方で、日石(B)爆弾について「爆発物容器破片(アルマイト破片)が大きい点などを考慮に入れて」混合爆薬の量を五三〇ないし七〇〇グラムという結論を出しているのである。したがって、荻原日石鑑定は結論を出すまでの理由の整合性自体について疑問が残るとともに、より重大なことは、何故に同一手法を土田爆弾の鑑定に用いないのかということである。荻原鑑定の手法に倣って土田爆弾の弁当箱の破片を分析すると前記(一)の表のとおりであり、日石(B)爆弾の弁当箱の破砕状況と比較にならないものであることは右表自体が如実に示すところである。したがって日石(B)爆弾の生成破片の大きさ、重量等が塩素酸ナトリウム七〇パーセント、砂糖三〇パーセントの混合爆薬約九〇〇グラムをアルマイト弁当箱に入れ、ヒーター点火をしたときの爆発実験成績に類似していたとする荻原鑑定の説明が正しいとすれば、土田爆弾の爆力は塩素酸ナトリウムを主体とする爆薬(爆薬量九〇〇グラムといえばほぼ土田爆弾の弁当箱の容積に近い量である。)のみで説明できないことは明白であるといわねばならず、また、このことは前記(二)の爆発実験結果によって裏付けられているのである。

③ 荻原鑑定は新桐ダイナマイトに換算した薬量の算定について通産省実験資料「爆風圧と爆風被害」(一九九八六)及び東京大学の調査実験資料「爆発と被害」(一九九九五)の記載内容をもとにして各々の破壊状態から爆風圧力を見積り、同じく通産省資料における「地上爆発ブラストメーター値」による△P及びの二元グラフの直線

から、新桐ダイナマイトに換算した薬量を求めるという手法を用いている。(但し、

△Pは爆風圧力(kg/cm2)

dは爆心点からの爆風圧力を見積った場所までの距離(m)

wは薬量(kg)

を意味する。)

ところで、荻原鑑定は、日石(B)爆弾につき、右データーによると厚さ五ミリのガラス(四〇〇ミリ×九〇〇ミリ)の全面破壊はブラストメーター圧1.55(kg/cm2)であるが、これに対し日石郵便局の爆心点から北東へ約三メートルのガラス壁体は厚さ六ミリとはいうもののその面積が2.27メートル×1.9メートルで右実験ガラスより大きく、爆風によるガラスの破壊は目測約八〇%であるということから、1.55(kg/cm2)より低い圧力で破壊したものとしてそれを1.2(kg/cm2)としている。そして前記式の△Pを1.2、dを三としてwを計算し、新桐ダイナマイト一七八グラム相当という結論を出している。

ところが、土田爆弾については、鑑定書中で爆心点から約3.1メートルから6.8メートルの位置にある厚さ六ミリメートルのガラスが全壊しているという事実を指摘しているのに(この点は前掲(員)藤田博作成の検証調書によっても明らかである)、同人がこれを爆薬量の算定に全く用いていないのは理解しがたいところである(一六回荻原証言はガラスの破損も考慮してブラストメーター値を出したかのように述べているが何ら考慮していないことは同人の鑑定書自体から明らかである。)。

弁護人も指摘するように、荻原鑑定と同一の手法により、土田爆弾についてこのガラスの全壊をもとに計算すると、土田爆弾の爆薬の新桐ダイナマイト換算量は膨大なものとなるのである。すなわち、爆心点から3.1メートルないし6.6メートルの位置にあるガラス戸のガラスが全壊であったのであるから、当然6.8メートルを算定の基礎とすべきであり(いうまでもないが、より近距離については全壊に必要である以上の爆風圧がかかっていると考えられるからである。)、六ミリのガラスが全壊しているのであるから、引戸の大きさがある程度通産省実験データにあるガラスより大きいとしてもブラストメーター圧はデータどおりの1.55(kg/cm2)として計算するのが、日石(B)爆弾についての手法との均衡上妥当と考えられ(近傍の物件が爆発により吹き飛ばされ、これが衝突したことによって破損が生じたということも可能性としては考えられるが、ガラスすべてがこれら物件の衝突によって破損したとは考えがたく、これらの破損状況をみれば、爆風圧のみによっても破損は生じたものと推認される。)、前記式の△Pを1.55、dを6.8としてWの値を求めると次のようになる。

つまり、土田爆弾の爆薬量は新桐ダイナマイトに換算して3.375キログラムとなり、混合爆薬の量をその三倍とすると、実に10.125キログラムとの結果が出るのであって、土田爆弾の弁当箱にどのように詰め込もうとも、到底入りきれないことになるのである(なお、弁護人の計算過程は不明であるが、これよりもっと控え目な数字を出している。)。

④ 一六回荻原証言では、土田爆弾に関する右③の点につき、通産省のデータは、ガラスの破壊は0.6から0.7位であるから△Pを0.7に見積った旨述べているが、弁護人指摘のとおり、日石(B)爆弾については同じ厚さ六ミリのガラスの破壊につき通産省のデータが1.55であるところ八〇%破損であるからとしてブラストメーター圧を1.2として計算しているのであって、それにもかかわらず土田爆弾については全壊しているのに0.7とするのは完全に矛盾するというほかない。仮に右証言どおりにガラスの全壊の爆風圧を0.7(kg/cm2)とし、日石(B)爆弾の爆風圧を見積ると八〇%破壊であるから0.56(kg/cm2)ということになり、前記の式により、△Pを0.56、dを三としてWの値を求めると、

となり、新桐ダイナマイト41.7グラムに相当し、これを混合爆薬の量に換算するとその三倍としてわずかに約一二五グラム(四倍としても約一六七グラム)となり、日石(B)爆弾の弁当箱の容積に比しあまりにも爆薬の量が少なく釣り合いがとれなくなってしまうのである(なお、弁護人の計算では爆薬の量はより多目になっている。)。

⑤ 日石(B)爆弾について、計算のよりどころとした前記ガラスの破壊部分であるが、荻原鑑定自体にも爆発現場の概況の説明として「破損原因が爆風圧によるものか、爆発物破片によるものか、又は爆発により吹き飛ばされた近傍の物件の衝突によるものか断定できないが、広い面積でガラス壁体が破壊を受け、かつ破片が外部へ広く散乱していることから爆風圧の影響は無視できない。」と注意深く記載されているのであるが、その後の計算においては③に記載したとおり、これをすべて爆風圧によるものであるかのように取り扱っているのである。(員)北田稔46.10.30実況のなかの右ガラス破損に関する写真(特に九八八七・九九四〇等を検すれば、その下部の破損は割れ方などからみてむしろ傘立て等が衝突したためではないかと思われるし、また、そもそも、通産省データの基準となるガラスの約一二倍もの広い面積のガラスにつき八〇%破壊ということがはたしていかなる意味を有するのか疑問であると思われるところ、荻原氏自身△Pを1.2としたのは主観で計算した旨を述べ、やや科学的厳密さに欠けていることを自認しているのである(六回荻原証言)。更に、荻原鑑定中にも指摘されているところであるが、爆心点から最も近いガラスは東側の壁体であり、わずか0.7メートルしか離れていないのであるが、これは全く破損していないのであって、爆風はかなり強い方向性を持って作用したことがうかがわれ、かつ郵袋の中で爆発したことの影響も考えられ、これらは爆風圧からの爆薬量を算出するにあたり無関係ではありえないと思われるところ、これらを慎重に考慮した形跡は見あたらないのである。

⑥ 土田爆弾については、③で述べたようにガラスの全壊を基礎にブラストメーター圧を算出せず、爆状点から(以下同様)距離5.5メートル南側の位置にあるアルミサッシ引戸の重ね部分の上部サッシが枠組からはずれて「く」の字形に約三〇センチ庭の方に傾いている個所、距離4.2メートルの北側の壁が階段側に大きく破損し、かつ、天井との木組みがはずれて北側にやや傾いている個所及び距離3.1メートルの北側階段に隣接する壁と天井の木組みがはずれ、階段側の壁体が大きく破損している部分の三箇所を基準にとって、それぞれ順次△Pを0.7、1.0、1.5として前記式にあてはめて計算し、新桐ダイナマイトに換算して、それぞれ379.5グラム、326.3グラム、二九〇グラムとの結論を出しているが(検察官はその平均値に近い数字を主張している。)、前掲通産省実験資料中でも、建造物の被害について、「爆源のエネルギーより理論式に従い爆風圧力を算出し、(中略)この圧力が建造物の部材に加わっていかなる破壊を起こすか、連結部にいかなる力を生ずるかについて計算し、建造物の被害を評価するのが正統的な計算であろう。しかし実際にはこの種の解析理論は耐爆構造物についてはあるが、一般住居、学校、事務所、店舗の瓦屋根、トタン屋根、障子、ガラス、畳、土壁、板壁、軸組、小屋組等についてはないようである。爆風圧以外の火炎、飛散物の一般建造物への影響についても同様である。その理由は建造物が多種多様で個性的なことと実験することが容易でないためであろう。つまりは平均的・経験的な評価に止まらざるをえない。通産実験はこの現状を少しでも進歩させようとしたものである。」と断っており、しかもその実験は新桐ダイナマイト1.5トンを家屋から六一ないし三六八メートルの距離から爆発させて家屋各部分の破壊状態をみたものであって、規模が全く異なるものであり、他方、右資料はガラス窓については「建造物の構成要素のガラス窓は外界に面して比較的弱く破片は負傷を起こしやすく注目される。」と前置きしているのである。その他前掲東京大学の資料を検討しても、荻原鑑定が何故にわざわざ右三か所を選んだのか、更にはその△Pの値をいかなる根拠で前記のように設定したのか、十分な説明を欠くものというほかない。

荻原鑑定の結論が到底措信できないものであることは、その余の点について判断するまでもなく、右①ないし⑥の指摘によって明白であろう。

なお、当裁判所が荻原鑑定について右のような指摘をしたからといって、③及び④における爆薬量の試算の結果を正しいとするものではなく、これらはあくまで荻原鑑定の矛盾を指摘するためのものにすぎない。当裁判所としては、他に両爆弾の爆力を数量的に正確に算定する拠り所となる証拠はないので、前記(一)、(二)のとおり、土田爆弾は日石爆弾に比して圧倒的威力を有していること土田爆弾の威力は塩素酸ナトリウムと糖類との混合爆薬ということでは説明がつかないこと、したがって、土田爆弾の爆力の原因は未だ解明されていない高級爆薬の混入によるものと考えられるという諸点を指摘するにとどめざるをえないのである。

(四) 以上の検討の持つ意味

以上の爆力・爆薬等についての検討の結果が検察官の主張に及ぼす影響はまことに重大であるといわなければならない。

第一に検察官の主張するような塩素酸ナトリウムと砂糖との混合爆薬では、たとえ検察官の主張のような手製雷管を用いたとしても、土田爆弾の威力を説明しきれないということであり、この点についての検察官の立証は、結局、客観的事実を十分解明できないままに終わっているのである。また、このことは土田爆弾の爆薬を塩素酸ナトリウムと砂糖の混合爆薬であるとする榎下自白の信用性をも大きく揺がすものといわざるを得ない。すなわち、榎下は、江口のアパートでの日石・土田爆弾製造を初自白した四月一四日に「第一回目の爆弾製造の際塩素酸ナトリウム、白砂糖、他に薬品のびん三本位を見ているが、塩素酸ナトリウムと白砂糖のほかは確認していない、第二回目のときも薬品を多く使ったことのほかは前と変りはない」旨を述べ(4.14員)、続いて翌四月一五日にも「第一回目のとき金本が塩素酸ナトリウムを持ち出すのは大変なのよと話していた、第二回目のとき増渕・江口が塩素酸ナトリウムと白砂糖を混合しており、このことは第一回目のときに見て知っていたし、第二回目のときも薬びんのラベルを見ているから間違いない」旨供述し(4.15員)、製造場所に関する自白を江口のアパートから高橋荘に変えた後も、第一回目の爆弾製造時における金本の塩素酸ナトリウムの持出し発言に関する供述を繰り返し(4.21検)、第一回目のときに用意された薬品として塩素酸ナトリウム(従前の一びんが二びんになっている。)のほか薬品びんが二本位あったが、何が入っていたのかわからない旨を述べ(4.24検)、土田爆弾製造に関しては、増渕・江口が前林・金本を手伝わせて、塩素酸ナトリウムと白砂糖を混ぜ合わせ、その混ぜ合わせた爆薬を弁当箱に詰めていた旨を供述しているのである(4.25検)。右のような供述経過からも明らかなように、榎下自白においては、クロム酸ナトリウムの使われた可能性のある日石爆弾製造については他の薬びんの存在が比較的強く言及されているのに対し、土田爆弾製造については爆薬の調合、充填に関し、専ら塩素酸ナトリウムと砂糖のみが挙げられており、他の薬品が混合されたことについては全く供述がないのである。また、榎下の自白によれば、同人は雷汞・硝化綿製造等の多くの機会に増渕・江口らから数々の枢要な機密事項をも聞かされたことになっているのであるから、何らかの機会に土田爆弾について高級爆薬が使われたことを聞かされていてもよいと思われるのに、同人からかかる高級爆薬を示唆するような供述は全く出てこないのであり、土田爆弾の爆力の強化については日石総括の席上で「今度は爆発力を強くするため爆薬の量を多くする」あるいは「爆薬は塩素酸ナトリウムを使うか別のものにするか研究しておく」といった話が出たという程度の自白があるのみであり、こういった点からもこれらの自白の信用性に重大な疑問が生ずることは避けられないところである。なお、中村(隆)5.3員には「日大二高謀議の席上、江口が、爆薬の量を多くするとか、爆薬に何にかを混ぜるとか着火薬の量をふやすとか言っていた」旨の自白が録取されているが、中村(隆)からこの時期において突如このような自白が出るということ自体不自然であり、その内容も土田爆弾の爆発力の飛躍的強化を説明できそうな事項をすべて列挙するというあいまいなものであって、これをもって真相の一端が語られているとみることができないことはいうまでもない。

第二に土田爆弾に高級爆薬が使われていたとすると、増渕らはそれを入手しえたかということである。爆弾が塩素酸ナトリウムと砂糖のみということであれば、検察官も指摘するとおり、いずれも入手が容易なものであって、その入手先が判明しないことはさほど重視するほどのことではないかもしれないが(除草剤にはクサトールなどほとんど塩素酸ナトリウムから成るものがあり、当時農業協同組合や園芸店等において広く販売されていたし、純粋の塩素酸ナトリウムの代りにクサトール等を用いたとしても爆力に大差はないと認められる。)、それ以外の高級爆薬も用いられたということになると、その入手ルートが解明されることは極めて重要となり、少なくとも増渕らにその入手の可能性があったか否かは厳密に究明されねばならないところ、本件においてこの点の立証は全くなされていないのである。本件のように土田爆弾と増渕らとの結びつきがほとんど自白にかかっていて、しかも多くの詳細な自白が得られている事案においては、その点の未解明を江口・前林の否認・黙秘のせいにするのは当を得たものとはいいがたく、この面からも増渕らの自白の信用性に疑問が生ずるものといわざるをえない。

第三に荻原鑑定は前述のとおり日石爆弾の爆力を多めに計算し、土田爆弾のそれを少なめに計算することによって両者ともそれぞれの弁当箱に合った爆薬量に近づけ、かつ、両者の爆力の差を際立たせないようにしているものといわざるをえないが、このような作為性は、日石土田邸事件の双方を増渕らの犯行と考えていた捜査当局の見込み、予測が現場遺留証拠物等の分析・評価にも色濃く投影していることを疑わせるものであり、このような可能性が他の点についても存することを考慮しなければならないことを示唆しているのである。

第四に日石事件と土田邸事件がいずれも増渕らの犯行であるとする検察官の主張が爆薬、爆力という最も肝要な点において動揺してきたということである。もし、増渕らが両事件を敢行したとするならば、同人らは日石事件から僅か二か月の間に日石爆弾とは比べものにならぬ程の威力をもった爆弾を作り上げたことになるのであるから、はたしてそれが可能であったかどうかが証明されなければならないが、増渕らのグループがこの両事件の間にとくに爆薬に詳しい人間を新たにメンバーに加えたとかあるいは新たに高級爆薬を入手するルートを開拓したといった立証は全くなされていないのである(逆に土田爆弾を作る能力を従前から有していたとすると、何故日石事件においてはあの程度の爆力にすぎない爆弾製造にとどまっていたのかが問題とされよう。)。

7 各爆弾の遺留筆跡とその鑑定等をめぐる諸問題

(一) 日石・土田爆弾の荷札書き等に関する自白

(1) 日石爆弾・土田爆弾の荷札等に残存する荷受人・差出人の住所・氏名等の遺留筆跡は、前記第一・三3(八)に認定したとおりである。このうち日石爆弾の遺留筆跡に関する自白としては、筆跡準備について中村(泰)・被告人・榎下・増渕らの自白があるほか、中村(泰)において、(B)爆弾の荷札の差出人中「神」、「美」、「栄」の各字は、自分の字体に非常によく似ていて自分が書いたのではないかと錯覚するくらいである旨供述しているが(中村(泰)4.4員、4.6検)、示された荷札写真どおりの住所氏名を書いたこと自体は否定しており、結局、遺留筆跡に直結する自白はないといってよい。他方土田爆弾については榎下の筆跡準備に関する自白があるほか金本と中村(隆)に次のような自白がある。そこで、その自白の内容をその最終形によって要約してみる。

(2) 金本自白は「一二月初旬の土田爆弾製造の際、私は前林と一緒に荷札書きをした。荷札書きに使ったのは部屋にあった墨汁と毛筆、それに私が持って来た荷札であった。堀が、これを荷札に書いてくれと言って土田國保と差出人の住所・氏名を書いた紙片を渡してくれたので、私と前林は堀の指示した通り荷札に書いた。結局、同じ宛名の荷札二枚、同じ差出人の荷札二枚を私は書いた。差出人の住所と名前については現在思い出せない。包装した爆弾を増渕が前林から受け取りこたつ板の上に置き、それから増渕が自分に、宛名を書いてくれ、字の形をかえて書くように、と指示し、堀が先程の土田國保の住所・氏名を書いた紙をよこしたので、私はそれを見ながら、爆弾を包んだ包装紙に小筆と墨汁を使って宛先を書いた。その時私が書いた字で現在記憶しているのは豊島区雑司ヶ谷土田國保という字である。雑司ヶ谷の下の番地についてはその時書いたが、現在は思い出せない。私の記憶だと前林も小筆と墨汁を使ってその爆弾を包んだ包装紙に字を書いていたから、前林は差出人の住所と名前を書いたのではないかと思う。私自身は差出人の住所と名前を書かなかったように記憶している。この時は爆弾にはまだ荷札を付けなかったように記憶している。」(金本5.6検、なお5.5員)というものであり、他方中村(隆)自白は、「一二月五日頃の土田爆弾製造の際、隣りの台所のある部屋で茶卓を前にして前林と金本が荷札書きをしていた。茶卓の上には小筆と山吹色の缶の墨汁があり二人で荷札に何か書いていた。宛名書きをしていることは判ったが、内容は判らなかった。包装が終わると増渕が奥の間に爆弾を持って行き、こたつの上に乗せた。そして前林が小筆と墨汁で爆弾の包装紙に宛名を書いていた。正確な所・番地や名宛人の名前は覚えていないが、土田という字を書いたことはよく覚えている。この時増渕が、できるだけ字体を変えろよ、と言っていた。前林は宛名書きをする際スラックスの膝を畳につき、腰を上げて中腰の格好で小筆で書いていたことをよく覚えている。その時金本がどこにいたのかはよく覚えていない。また差出人の名前を誰が書いたかもよく判らない。爆弾の包みをひっくり返した記憶がない。それから金本と江口が荷札を紐にくくりつけた。この点ははっきりしないが金本が荷札を持っていてそれを江口に渡したか自分で付けたかそんなふうな印象がある。荷札は私の見た限りでは二枚だった。荷札は包装された爆弾の麻紐の表面の結び目のところにそれぞれ一枚ずつくくりつけられたと思う。荷札に何と書かれていたのかはよく覚えていない。」(中村(隆)5.8検、なお5.6員(A))というものであって爆弾を包んだ包装紙に前林が土田の宛名を書いている旨を述べている点で、これを自分が書いたとする金本自白と大きく異なっている

このほか堀が宛名書きについて多少の自白をしているが、それは「堀が土田爆弾製造の時に見張りをしている被告人と坂本のところへ行って部屋に戻ると部屋の中では誰かはっきりしない女の人が何かを書いていた。当然その時出来上がった爆弾の入った包みに宛名か差出人を書いていたと思うが、何を書いていたか又どの部分を書いていたのかははっきり記憶していない。」(堀4.29員、なお3.28員、3.29検)というものではなはだあいまいなものにすぎない。

(二) 警視庁科学検査所文書鑑定科主事鳩山茂による筆跡鑑定

本部は前記遺留筆跡と被告人ら一一名の筆跡の異同を明らかにするため、被告人らに次のとおり対照用筆跡を記載させた。すなわち、増渕には四八年三月二二日に、前林には三月二三日と四月九日に、堀には三月二二日と四月九日に、江口には三月二二日と二三日に、中村(隆)には三月二六日と三〇日に、松村には四月一日に、中村(泰)には三月二四日に、金本には四月四日、六日と九日に、榎下には三月二二日に(報告書は四月六日付だが、案文の日付によった)、被告人には三月二二日と四月九日に(四月九日付筆跡資料入手報告書によると採取日も四月九日となっているが、鬼嶌(視)は四月七日に採取したことは間違いない旨供述する。一二〇回鬼嶌証言。)、坂本には三月二六日にそれぞれ遺留筆跡中の文字が織り込まれた案文及び荷札の遺留筆跡と同様の記載をさせている(但し、増渕は毛筆による対照用筆跡の提出を拒否している。以上筆跡資料入手報告書等一一一三一ないし一一二九〇、九部二一四回高橋証言。)。なお、このように比較的早い段階で被告人ら一一名に対照用筆跡を書かせていることは、各爆弾の名宛人・差出人の住所・氏名に関する知識を被告人らに注入したことになり、したがってこの点に関する被告人らの自白はいわばヒントに基づく自白としての一面をも有することになろう。しかして、これらの資料を対照資料として、標記鳩山茂主事の手によって筆跡鑑定が行われたがその鑑定書中において、

① 日石事件については、「遺留筆跡はいずれも楷書体に近い書体で黒ボールペン又は青インクのペン書きのなぞり書きした筆跡であり、元の文字はほとんど不明瞭である。これらなぞり書きした筆跡を考察すると、いずれも右上がりの直線的傾向を示しているが、配字の間隔、傾斜角度などは不均一にて不安定で不自然な傾向を示している。筆勢ならび筆圧の特徴についてはともに不均一で不安定な運筆と圧力の傾向を示し、書字能力の特徴は総体的に中程度の傾向を示している。これら各荷札相互の共通同文字については字画形態構成の特徴がほぼ同様の傾向を示しているが、鑑定の対照条件として適正な資料でないため、元の文字やなぞり書きをした字画線が同一人か、あるいは数人のものが記載したか鑑別することができない。」としつつ、鑑定結果として「遺留筆跡中の一部筆跡と対照資料中の被告人ら一一名が記載した筆跡とは一部の筆跡はそれぞれ類似の特徴を示した筆跡である。但し、いずれも異同の決定ができない。」とし、

② 土田邸事件については、まず荷札二枚の遺留筆跡と金本の筆跡とは、「総体的に類似した特徴を示しているが、異質の特徴も各文字に認められ、したがって必ずしも同一筆跡であるか否か決定することはできない。」とし、次いで、包装紙片及び荷札筆跡と前林筆跡に関し「包装紙片と荷札の各遺留筆跡は、包装紙片がかなり欠如しているため異同の決定はできないが総体的には類似特徴を示した筆跡であり、これらと前林の筆跡を比べると一部類似した特徴は認められるが、異質の特徴が多く、しかも各文字とも顕著である。したがって、総体的には異なる特徴を示し、類似性は低い。」としている(以上、鳩山茂48.8.8鑑、同48.5.9鑑、同48.6.29鑑、同55.7.2鑑定経過補充説明書、同55.6.28鑑定経過補充説明書による。これらは鑑定嘱託書とともに、一一一一〇ないし一一一三〇、一一二九九ないし一一三二七、以下これらを「鳩山鑑定」という。)。

(三) 検察官の主張変更について

(1) 検察官は、当初は、前記(一)の自白にのっとり、日石爆弾については荷札の記載者については具体的な主張はしておらず(榎下に対する当初の冒頭陳述、第一三五回公判における検察官の釈明)、土田爆弾については、包装した小包爆弾には、前林と金本によって毛筆で送り先として土田國保及び差出人として久保卓也の住所・氏名が書かれ、麻ひもで結束されたうえ、金本・前林によって毛筆で書かれた荷札二枚が取り付けられた。」旨主張していたが(第一回公判における冒頭陳述)、その後、検察官は黒田鑑定が得られたことを重視して、前記第一・二2(三)(1)及び同3(三)(2)のとおり、荷札等への記載は、日石事件については「増渕らが」した旨、土田邸事件については「包装紙及び荷札二枚のうち一枚の表裏に記載された送り先の差出人の住所氏名は増渕がこれを毛筆で記載した」旨(但し、いずれも記載の時期は明らかにされていない。)主張を変更するに至った(なお、日石・土田筆跡準備については、右主張変更にかかわらずほぼ同一の主張が維持されている。)。

ところで、黒田鑑定の内容自体の考察は後にまわすこととし、ここではその結論のみをみることとするが、その概略はほぼ検察官の右主張と合致するものであり、日石爆弾については、最初に書かれた文字(原始筆跡)はすべて増渕の筆跡及びその筆跡に基づく手書き複製文字(江口の確度が高い)であり、そのうえに複数人がなぞり書きをしているが(一部になぞり書きのないものもある。)、なぞり書きをした者は増渕自身・中村(泰)(類似)・堀・前林又は金本(推定)であるとし、土田爆弾については、包装紙片と荷札一枚(ほぼ完全に残っているもの)についていずれも増渕の筆跡であるとしている。

(2) そこで、このような黒田鑑定及びそれに基づく新主張と前掲(一)の自白特に土田爆弾に関する金本・中村(隆)の自白との整合性が問題となってくるが、この点に関し、検察官は次のように主張する。

「黒田鑑定の結論には、捜査中における被告人、共犯者の自供内容とそごするかのごとき面が存することも事実であるが、捜査中における関係者の宛名・荷札の記載についての供述は、すべて爆弾製造の場面についての供述であるのに対し、黒田鑑定の結論及びこれを踏まえた検察官の主張は、いずれも「土田邸に郵送された小包爆弾に付けられていた荷札及び包装紙の筆跡」に関するものであって、爆弾製造から郵送差出しまでの間の約一〇日間の日時が存在すること、本件爆弾は各所に移動して保管されていることを考えると、爆弾が製造されてから実際に郵便局に差し出されるまでの間の経緯につき未解明の部分は存するものの、黒田鑑定の結論は、必ずしも捜査中の関係者の供述の信用性を損わせることにはならない。いずれにしても、本件が増渕を中心とするグループの犯行であるとする被告人及び関係者の自白の大筋と、実際に土田邸に郵送された爆弾の荷札・包装紙の筆跡が、疑いもなく増渕の筆跡であるとする鑑定結果とは合致しているのであって、このことを特に重視すべきである。」(論告八九頁・九〇頁)

(3) しかし、このような検察官の主張は妥当性を有するものであろうか。第一に検察官は土田爆弾製造後、別の機会に増渕が実際に送られた土田爆弾に宛名書き等をしたというような主張をしているが、一体どの段階でどのようにして行ったというのかについては全く明らかにすることなく、単なる抽象的な可能性を指摘して捜査中の関係者の自白との牴触を否定しようとするものにすぎない。しかし、前記(一)の金本・中村(隆)の自白も虚偽ではないとすると、荷札の点はともかくとして、包装紙に書かれた宛名書き等は、これをほどいて別の包装紙で包み直し、後に増渕が書いたということにならざるをえないが、完成した土田爆弾の包装を解くこと自体たとえ固定包装を施こしてあるとはいっても危険であり、極力避けるべきことであることは明らかであり、何故にそのようなことをする必要があったか不可解であるというほかない。第二に検察官は、増渕らは日石土田邸事件において犯跡隠ぺいのため、それぞれ筆跡練習等をしたとし、これらの日石・土田筆跡準備関係自白は、いずれも信用できるものと主張しているが(被告人意見書一八頁ないし二六頁、中村(泰)意見書七〇頁ないし九四頁、榎下意見書二二五頁ないし二二九頁、坂本意見書七四頁ないし七六頁、金本意見書一六頁ないし一二頁、堀意見書五四頁ないし五九頁)、それにもかかわらず、増渕は、最終的には土田爆弾について自分一人で宛名書き等をしたことになり、何故に筆跡隠ぺい工作を放棄したのか理解に苦しまざるをえないが、検察官においてこの点をどうみているのか全く明らかにされていない。

以上の考察のみからでも、黒田鑑定に基づく検察官の新主張と、前記(一)の金本・中村(隆)自白とが全く両立しえない関係にあることは明白といわなければならず、検察官において、黒田鑑定を採用して従前の宛名書き等に関する主張を変更したことは、いわば枝葉ともいうべき金本・前林(後者は鳩山鑑定によっても疑問視される)の宛名書きを切り捨て、根幹である増渕の刑責の追及に焦点を絞るという大きな選択をなしたものとみるほかなく、少なくともこの点に関する金本・中村(隆)自白の信用性が黒田鑑定のそれに劣るものであることを認めたものといわざるをえない。

(四) 黒田鑑定の経過とその内容

(1) 鑑定の経過

検察官は警視庁警察官を介して五五年五月中旬ないし下旬に岩手大学の黒田正典教授に日石土田邸事件の筆跡鑑定を依頼し、遺留筆跡の写真、被告人ら一一名の対照用筆跡のコピー、被告人らが捜査段階で作成した供述書、メモ(自白が記載されているものを含む)のコピーを渡したところ、同年六月五日頃検察官に対し黒田教授からこれを引き受けること及び遺留筆跡は増渕のものとの仮説が立ったことの連絡があり、検察官は同月一三日付で正式に黒田教授に鑑定嘱託し、遺留筆跡等の現物も持参して同月一六日頃同教授を訪れ、同教授にこれを見せたが、同教授はその場で見たものの、鑑定作業は写真・コピーで行うとして、その現物をすぐに返却した。このとき同教授に渡された鑑定資料は遺留筆跡の写真であり、対照資料は前記鳩山鑑定に使用されたもののほか、被告人ら作成の供述書・メモの写し(以上(検)遠藤寛55.6.10写報等一二四〇三ないし一二五二三と同一のもの)並びに、前林及び江口作成の封書計四通(符103〜106)であった。黒田教授はその後作業を進め、同年一〇月一三日付の鑑定報告書(一二二七六)をまとめ、前記のような結論を出した。その後当庁刑事第九部において右鑑定について黒田教授に対する証人尋問が二二七回・二三三回・二三四回・二三六回・二三七回の各公判期日を費やして行われ(その公判調書は〜一二五三〇ないし一三三六九)、その間、同教授により五六年五月二七日付で前記鑑定報告書についての補充説明書(一二三七三)が作成されている(以上を「黒田第一次鑑定」と呼ぶこととする。)。

その後増渕が当庁刑事第九部第二四一回公判期日において毛筆による対照用筆跡作成に応じたため(九部二四一回・二四六回公判調書一七四五六・一七四六五・異議申立調書一九九五八)、検察官は再び黒田教授(岩手大学から東北福祉大学に移っている。)に五六年一一月一五日付で土田爆弾の遺留筆跡と右増渕の対照用毛筆筆跡(増渕検証筆跡綴二綴・符123・124)の異同についての鑑定を嘱託し、同教授は五七年四月五日付筆跡鑑定書(一七三五四)を作成し、右鑑定書について第九部第二六三回公判期日において証人尋問(公判調書一七八八一)がなされている(以上を「黒田第二次鑑定」と呼ぶこととする。)。

(2) 鑑定の手法等

黒田鑑定の鑑定手法等につき検察官の主張するところは大略次のとおりである。

「黒田教授は昭和一五年東北帝国大学卒業以来一貫して学究生活を送り、その間、新潟大学、東北大学、岩手大学等において筆跡学・理論心理学の講座を担当しているところ、その筆跡学は性格学的筆跡学と筆跡の同一性検定の両面を含み、四〇年以上にわたってその分野の研究を続けてきた同教授が筆跡特徴の分析・検討に熟達していることは明らかである。もっとも同教授はこれまで刑事事件の筆跡鑑定をしたことはないが、警察の鑑識課員の指導もしており、これら職員において解決しがたい問題についての相談にあずかっていた。しかして、同教授は、計量・統計を重視する立場と質的分析を重視する立場の双方の必要性を認めつつ、それを統合・止揚した一段高い立場から鑑定を行っている。表現をかえれば、線形態の検討と線質の検討ともいえる。周知のように、従来の警察係官による筆跡鑑定は線形態に、他方書家による筆跡鑑定は線質に、それぞれ偏しているきらいがあり、また、戸谷富之教授のように計量・統計面を重視する立場をとる論者も線形態のみに着目するという基本的な欠陥があるのみならず、統計的処理の基礎とするところの母集団の集積・分類・整理が行われていないことから、現段階では、計量・統計面のみでは正確な鑑定をすることは困難である。このことを考えると、黒田教授のとった筆跡鑑定の手法は少なくとも現時点においては、最も適切なものといいうるとともに、前述の同教授の知識、経験等に照らしても、その鑑定結果には十分に信を措くことができるのである。」

(3) 第一次鑑定の問題点

しかしながら、黒田鑑定には多くの誤謬ないし疑問があるといわざるをえないのであって、まず第一次鑑定につきその主要と思われる点を指摘しておく。

① 黒田教授は、一方では増渕筆跡につきこれだけの特徴をもった字は日本国民全体の中から捜すこともほとんど不可能であると述べ、遺留筆跡はほぼ絶対的に増渕の筆跡に間違いない旨証言(二二七回)しながら、その鑑定手法については、まず増渕を鑑定資料の執筆者という仮説を設定し、この仮説が他の対照者の筆跡の検討によって覆るか、それともますます確実にされるかを検討したとしているが(第一次鑑定書五三頁等)、これは鑑定資料の執筆者が一一名の中にいることを前提とするものとみるほかないのであり、また、この筆跡鑑定だけで他に何の証拠もない人を犯人と断定するというのであれば自分は協力しないが、本件の場合鑑定依頼の趣旨から対照資料の一一名は爆弾事件を行うであろうとかそういう具体的状況があると考えていた旨受けとれる証言(二三三回)もしており、一一名の者を「同志の皆さん」と表現し(二三三回)、一一名を特別の集団と考えていたことがうかがわれ、鑑定書及び証言の全趣旨に照らすと、その結論は被告人ら一一名の中で検討した相対的なものとみざるをえないのである。また、このことは日石爆弾の筆跡につき、常同性の観点もほとんど無視して個々の筆跡の加筆者まで特定ないし推定していることに最も顕著に表われている(なお、加筆筆跡などのこのような鑑定は不可能とする鳩山鑑定の方がむしろ首肯しうる。)。

② 日石爆弾の荷札の筆跡(以下日石筆跡という。)と土田爆弾の荷札・包装紙の筆跡(以下土田筆跡という。)とが同一筆跡であるかどうかということは筆跡鑑定の結果によってはじめて判断されうる事項であり、両者の異同は直接には鑑定嘱託事項とされていないにしても(鑑定嘱託事項は日石原始筆跡と対照資料の筆跡の異同、土田筆跡と対照資料の筆跡の異同を中核とする。)、この両者が同一筆跡であることを前提に鑑定を進めることが許されないことはあらためていうまでもないところである。この点につき黒田鑑定は、日石・土田筆跡全体から筆跡特徴を抽出し、分析項目としたうえ、そのなかで最も重視すべき(a)縦線のうねり、(b)懐の広さ、(c)懐の末広がり、(e)中鋒及び(f)入念を起筆・簡易な終筆の各分析項目において日石筆跡及び土田筆跡がいずれもプラスを示すということから全鑑定資料の筆跡は同一筆跡であると結論づけ、それ以後の検討においては日石・土田筆跡を一体的なものとして扱い、出現個数や出現率の算定においてもすべて両者を合算して集計し、それと対照資料の筆跡特徴との比較検討を行っている。したがって、これをみると、黒田教授も日石筆跡と土田筆跡の異同については一応の吟味、検討を行っているようであるが、仔細にみると、その検討は極めてずさんなものといわざるをえない。例えば同教授は(a)、(b)、(c)、(e)、(f)を最も重視すべき分析項目としているが、そのうち(a)、(e)、(f)は線質に関するものであるから線質重視の同教授の立場上それも理解できないではないものの、(b)、(c)は(d)の偏と旁の接触と同じく字画形態に関する分析項目であるからなぜ懐の広さや懐の末広がりが重要であって、偏と旁の接触はそれに劣るのかが明らかにされなければならないがその点についての論証は全くなされていない。そして、この(d)の項目をみると、日石筆跡は接触出現可能文字四〇字中出現文字一八字で出現率四五パーセントであるのに対し、土田筆跡は一一文字中一文字で出現率はわずか九パーセントと両者の出現率は大きくへだたっているのである。また共通特徴を示しているとされる(a)縦線のうねりについてみても、日石筆跡における出現率が四〇パーセントであるのに対し、土田筆跡では二四パーセントにとどまり、しかも、出現率の順位でみると、日石筆跡では、うねりが第一位を占めるのに対し、土田筆跡では右方向凸の膨らみ、左方向凸の膨らみに次いで、うねりは三番目にすぎない。また(b)の懐の広さについてみても一字一懐の字を除いて出現率を算出すると、日石筆跡では懐大三七文字、小一三文字で、懐大の出現率は七四パーセントであるのに対し、土田筆跡では懐大一一文字、小一〇文字で、懐大の出現率は五二パーセントと、出現率の傾向は両者でかなり違ったものとなっているのである。その他(c)の懐の末広がりについても、日石筆跡については末広の字が多く出現している傾向が見受けられるのに対し、土田筆跡では、末広、末細の各字があい半ばしているなど、出現の傾向が異なっていることが明らかである。

③ 黒田鑑定は資料の統計的処理において初歩的な誤りを犯し、また、確率論に対する基礎的理解を欠いているといわざるをえない。例えば、第一次鑑定において一〇個の筆跡特徴(分析項目)を抽出し、増渕筆跡と遺留筆跡がいずれも合致していることから、直ちに増渕がその執筆者であることは一〇〇〇人程度の母集団を前提としてもいいうることであると短絡しているのがそれである。これは二の一〇乗分の一すなわち一〇二四分の一の計算を根拠としているものと認められるが、この論が成立するためには右一〇個の筆跡特徴が通常人中どれも二分の一の確率で発生することと、各々の特徴が互いに独立していることが必要であるが、このような条件が満たされているという論証は全くないのである(例えば第一次鑑定書五五頁によれば、懐の広さは一一人中九人に現われている。)。細かい点ではあるが、同教授は、鑑定資料中における懐大の字の出現率を計算するに際し、その広狭が判断できない「一字一懐」の字まで分母に加えているのは極めて不合理というほかなく、偏と旁の接触に関し、松村をマイナスとするにあたっても同様の誤りを犯しているのである(二三四回黒田証言によると、松村筆跡中雑の字は偏と旁が接触しているが四四文字中一字、二パーセントということでマイナスにしたということであるが、この四四文字中には偏と旁の接触可能性をもたない文字も多数含まれている。)。

④ 第一次鑑定の分析項目としては、(a)縦線のうねり、(b)懐の広さ、(c)懐の末広がり、(d)偏と旁の接触、(e)中鋒、(f)入念な起筆・簡易な終筆、(g)Z化、(h)破格筆順、(i)字形破格、(j)加筆が取上げられているが、主として字画形態を問題とする(b)(c)(d)(g)(h)(i)についてはその有無の判定基準がはっきりしないとともに(例えば(b)につき広狭は教科書字体と比較したとするが、参考にしたという「現代字体字典」(符108)に教科書字体が出ていない「弾」などについても判定している。)、個々の字体についての判定そのものにも必ずしも納得しがたい点が多く、また、黒田教授が最も重視したという線質に関する(a)(e)(f)についても、そもそもこのような点の鑑定をコピーや写真でやれるとして行っていること(例えば、黒田教授は第一次鑑定書三頁で、「線質は字画の黒い部分とその背景の白い部分の境界に生ずる輪郭線である。「ザラザラ」「にじみ」「滑らか」などは線質である。」としているが、この「ザラザラ」「にじみ」「滑らか」などはコピーや写真では極めて判定困難というべきであろう。)、ボールペン等による筆跡でも(e)(f)の判別が可能としていることに多大の疑問があるのみならず、それぞれの特徴の有無判定基準や個々の文字へのあてはめにもはっきりしない点が多く、第九部の証人尋問時においても、反対尋問等で指摘されている疑問に対して同教授が納得のいく説明を与えられず、返答に窮している場面が再三にわたって見受けられるのであり、鑑定資料と増渕筆跡の線質の類似性を強調する点も必ずしも同教授の主観的判断の域を脱却しているとはいいがたいのである。

⑤ 第一次鑑定においては推定、推測が数多く行われているが、その中には恣意的としか言いようのないものも少なくなく、しかも、それが日石筆跡と土田筆跡あるいは鑑定資料と増渕筆跡との同一性を肯定する方向で行われている傾向があることも無視できないところである。例えば項目(g)Z化の検討において鑑定資料A2、B1裏、B2、C2にZ化が見られないのはゆっくり書いたためとも考えられるとしているが(第一次鑑定書三六頁)、このように推測する根拠は全くないといってよい。B1の荷札は表面の記載において「横浜市緑区」の「緑区」を落とし、裏面の記載において「東京細田貿易」の細田を抜かして後から「細田」を挿入しているのであるし、B2にしても当初「横浜市」を抜かして後から「横浜市」を挿入しているのであって、到底ゆっくり書いたとは考えられないのである。また純粋形態破格に関して黒田教授は「隠蔽のための造形では習慣ないし急ぎの心理からの字形がそのモデルになると考えられる。この仮説から港の字形破格が増渕の筆跡から由来すると推定することができる。」(同四七頁)としているが、これなどはあまりにも大胆すぎる推測といえよう(増渕は「港」同様「己」という部首を含む「記」についてもZのような書き方をしていない。)。更に、黒田教授は鑑定資料中に現われる字形破格(同教授の呼び方に従うと、新、浜、丘における三角左半分形態、右鑑定書四九頁参照)の角度と酷似する角度をもった形態を増渕筆跡中の種々の文字の中に発見することができるとして、新、浜、丘は一貫した筆跡作為の原理によって書かれていると推定しているが、ここに至っては牽強付会の論というほかなく、弁護人の反対尋問にあって推論の根拠が薄弱であることを自ら認める形となっているのである(二三四回)。

(4) 第二次鑑定の問題点

次に、黒田教授は、第二次鑑定において、多数の増渕の毛筆筆跡と土田爆弾の遺留筆跡とを比較し、両筆跡の一致する程度は極度に高く、同一人によるものと断定できるとしている。しかしながら、同教授は右(3)でみたとおり多くの誤謬・疑問のある第一次鑑定により、既に土田爆弾遺留筆跡は増渕のものであると断定しているのであって、しかもそれは一〇〇〇人程度の母集団を前提としていいうることであるとまで証言しているのであるから、第二次鑑定においても自己のした第一次鑑定の結論に引きずられるのは当然であるといえよう。したがって、第一次鑑定の信用性が否定されるならば、第二次鑑定の信用性が大幅に減殺されることもこれまた当然といわざるをえないのである。

しかし、この点はさておき、まず第二次鑑定で目につくのは「筆跡資料比較の手続と判定の原理」における初歩的な誤りである。すなわち、同教授は次図のように図解しながら「小円は遺留筆跡、大円は増渕筆跡である。遺留筆跡は字数が少なく、増渕筆跡は字数が多いので、同一人の筆跡の比較においても、字画特徴の変動範囲については、鑑定資料より対照資料の方が広いことになる。すなわち遺留筆跡の特徴が図Ⅰのように増渕筆跡に全部吸収されてしまうならば、両資料筆跡は同一と判定できるのである。これに反して図Ⅱのように特徴のある範囲は共通であってもその外に重ならない部分があれば両者は異なると判定される。」(第二次鑑定書九頁・一〇頁)としているが、このような一方方向の検討のみで両筆跡が同一人の手になるか否かの判定ができないことは、数学の集合論等を考えるまでもなく、明らかといわねばならず(仮に遺留筆跡の字数が非常に少なく、対照筆跡の字数が膨大であれば、ほとんどの場合小円は大円の中に含まれるということになるであろう。)、逆方向すなわち増渕筆跡の中で認められる特徴が遺留筆跡の中にどの程度出現しているかの検討もやはり不可欠である。第二次鑑定は二二〇の観察項目において両筆跡が一致しているというが(二二〇の観察項目といっても、遺留筆跡の字画の総数が二二〇画程度に達し、その各字画に類似した字画が増渕筆跡中に見い出されるかを観察したというにすぎない。)、いずれも右にみた一方向からの検討のみの結果であり、増渕筆跡中の遺留筆跡と一致しない点も多数あるのにこれを増渕の作為などとして簡単に切り捨てているのである。

また、第二次鑑定の最も重視する線質についても、前記(3)④のコピー・ボールペンに関する問題点は解消しているものの、第二次鑑定書及び黒田証言を仔細に検討すると、やはり第一次鑑定と同様、黒田教授の主観的判断が強く介在し、その妥当性を他の者に納得せしめるほどには論証・検定が果されているとは認められない。

(5) なお、検察官は、捜査段階における増渕の毛筆筆跡採取拒否につき、「増渕は、起訴前の勾留取調べ中の三月二二日、筆跡採取を求められた際、ペン字については応じたものの、毛筆筆跡については、「他の人のと合わなければ俺のことだ」などと理由にならない理由を挙げて採取を拒否している(九部二一四回高橋証言)が、このような増渕の態度は、次のような理由に基づくものと認められる。すなわち、増渕は、ペン字を用いた日石事件関係の筆跡については、なぞり等によって筆跡を隠してあったことから同一性を識別されるおそれのないものと考え、容易に筆跡採取に応じたものの、土田邸事件のあて名等は、自己が直接毛筆で書いたものであるから、毛筆筆跡を書けば容易に対照され、同一性が確定されてしまうことを危ぐして「筆を持ったことがない。」などとあえて虚言を述べて、毛筆の筆跡採取を拒否したものと推認される。右の事実は、増渕の、いわゆる素人判断が、鑑定人の専門知識によって覆えされたことを示すもので、筆跡問題を考える上で、意味が深いものと言えよう。」(論告八八頁、八九頁)と主張しているが、そもそも、捜査段階において筆跡鑑定のための対照用筆跡を作成・提出するか否かは被疑者の自由であって、これを一部拒否したこと自体を筆跡問題に関する不利益な積極証拠とすることはできないのであり、黒田鑑定の精度に前記のような問題があることが、このことによって補われることにはならないことは多言を要しないところである。

(6) 以上のとおり黒田鑑定には疑問が多く、前記(3)①②に述べたように日石・土田筆跡の同一性の検定が不十分であり、かつ、増渕ら一一名のうち誰の筆跡が最も鑑定資料に近いかという相対的な判定にすぎないという批判を免れがたいのであって、増渕ら一一名が日石土田邸事件に関与している旨の被告人ら九名の自白を抜きにし、これと切り離してこの黒田鑑定のみで遺留筆跡の執筆者を断定ないし推定しうるほどのものでないことは明瞭であり、結局黒田鑑定は右九名の自白が大筋において信用性を肯認されてはじめてそれなりの意味を持ちうることになるのである。したがって、黒田鑑定は鑑定資料と増渕筆跡との同一性を証明しているものとは到底認めがたいのである。

残された問題は、黒田鑑定の結論の消極的側面、つまり黒田鑑定において日石(原始)筆跡及び土田筆跡が増渕の筆跡であって、金本や前林の筆跡ではないとされている点をどのように評価するかである。確率論や統計的処理における初歩的な誤り、日石筆跡と土田筆跡の同一性を十分吟味することなく肯定し、これを増渕筆跡との同一性を判断する際のいわば前提としてしまっていること、判断基準の不明確さと判断の恣意性、こういった諸点が黒田鑑定の致命的欠陥としていかんともしがたいということになれば、同鑑定は消極的結論の面においてもほとんど意味をもたないということになろう。しかし、黒田鑑定の最大の欠陥は増渕ら一一名のうちに真犯人がいるという意識的、無意識的な前提のもとにその中で誰の筆跡が最も遺留筆跡に近いかという相対的に判断方法をとったことにあり、その他の欠点は、黒田教授が遺留筆跡の執筆者を増渕とする仮説の論証を急ぐあまり、うかつにも犯した勇み足であって、致命的欠陥というほどのものではないとすると、この黒田鑑定も遺留筆跡が金本及び前林のものでないとする面ではそれなりの意味をもつことになろう。特に、黒田教授が四〇年以上にわたって性格学的筆跡学と筆跡の同一性検定についての研究を続け、警察・検察庁からも高く評価されているその道の専門家であることを重視すれば、同教授が遺留筆跡、特に土田筆跡を増渕の筆跡と断定し、それ以外の者の筆跡ではありえないとしていることの意味はそう軽いものとはいえないであろう。

したがって、この観点からすると、被告人ら九名の自白を離れて大して意味を持たない黒田鑑定そのものが金本・前林を土田爆弾の宛名書き・荷札書きの担当者とする前記金本・中村(隆)の自白の信用性を否定し、日石・土田筆跡準備関係自白の信用性をも間接的に減殺するという皮肉な事態を招いているというほかないのである。

(五) 日石土田邸事件における筆跡隠ぺい工作の相違

日石爆弾と土田爆弾の構造を振り返ると、日石爆弾はいずれも包装紙を解くと絶縁体がはずれて爆発する仕組みとなっているのに対し、土田爆弾は包装紙を解いただけでは爆発せず、木箱の蓋を開けることによってはじめて爆発する仕組みになっており、その構造上筆跡の残留する可能性は後者の方が大きいことは明らかであって(土田爆弾の場合、受取人が荷札・包装紙をきれいにはがして折りたたむなどすることも考えられないではない。)、筆跡隠ぺいの点では土田爆弾の方が退化しているともいえるのである。

したがって、日石土田邸事件の犯人グループが同一であるとするならば、日石筆跡についてもなぞり書などをして筆跡隠ぺいに工夫をこらしているのであるから、筆跡をあとに残しやすい構造的な弱点をもつ土田爆弾についてはなおさら筆跡隠ぺいに意を用い、日石爆弾以上になぞり書き等の細工を施こしそうであるのに、現実の土田筆跡にはそのようなあとはいっさいみられず、達筆な毛筆で宛名等を記載しているのである。この点は日石事件の犯人と土田邸事件の犯人との同一性を肯定することの支障となる一つの疑問として指摘することができよう。

(六) まとめ

以上述べてきたところを要約すると、まず日石原始筆跡及びその加筆筆跡に関する黒田鑑定の結論は措信しがたく、日石筆跡は依然として未解明のままというほかないし、土田筆跡についても、これを増渕筆跡と同一と断ずる黒田鑑定の結論を採りえないことは右(四)において詳論したところである。しかして、検察官においては黒田鑑定を正しいとすることによって、これと相容れない内容を持つ前記(一)の各自白を捨てたとみざるをえないのであるし、いったんこのような選択をなした以上、黒田鑑定が当裁判所の受け入れるところとはならなかったからといって、もとに戻って右各自白の方を選び直すということは検察官としての定見からいって主張しがたいところであろう。したがって、もはや、これら自白の信用性を検討すること自体実益に乏しいともいいうるが、ごく簡単にその主な点を指摘することとする。

まず(一)の金本・中林(隆)の自白は最も肝要な土田國保の氏名等を包装紙に誰が書いたかという点において相互に矛盾するばかりでなく、いずれも捜査の終末期に至ってようやく後記10の二重包装関係自白とセットになってはじめて具体的かつ詳細になされたものであり、その自白の出方にも疑問が少なくなく、前林が書いたとする点については鳩山鑑定からも疑問が残るし、黒田鑑定が土田爆弾につき増渕筆跡と断定したことは前林・金本の筆跡ではないと断定していることにも等しく、その限りではこれら自白の信用性を否定する方向に働くということができよう。また堀自白はあいまいでほとんど証拠価値をもちえないものといわざるをえないし、土田爆弾製造現場にいた女性の一人とされている江口についても黒田鑑定はその筆跡の可能性を否定しているのである。そして、筆跡隠ぺいに関する限り、日石事件の反省・検討に基づいてなされたという土田邸事件の方が日石事件よりその講じた手段が退化していることは右の(五)にみたとおりである。

8 土田爆弾中のアルミ箔について

9 土田爆弾のマイクロスイッチ関係の中村(隆)の自白

10 土田爆弾包装関係の金本の自白

11 まとめ

三  被告人ら九名の自白の問題点の各人別検討

1 榎下

2 中村(隆)

3 増渕

4 堀

5 金本

6 中村(泰)

7 坂本

8 松村

9 被告人

第三  個別的考察

一  日石搬送関係

1 検討の意義等

2 日石搬送関係自白の概要

3 検察官の主張の要旨

4 検察官の主張と日石搬送関係自白の対比検討

5 前林・江口のアリバイ問題

――以上、省略――

二  土田搬送関係

1 本件における重要性等

被告人が土田邸事件において果したとされている役割のうち最も重要なものは土田搬送の担当であり、この点が本件における最大の争点ともなっているのである。以下日石搬送と同様に関係自白を概観することから始めるが、日石搬送においては五名の自白が大筋においては一致していたのに反し、土田搬送関係自白にはこれほどの一致はみられず、むしろ相互間の矛盾、対立も顕著に残されている。そして、土田搬送当日に関しては前林及び被告人のアリバイが、土田爆弾八王子保管の関係では中村(泰)のアリバイが主張されているが、日石搬送の中村(隆)アリバイと異なり、いずれも検察官は虚偽であるとしてこれを争っているところである。しかしながら、このような相違点はあるにせよ、日石搬送と同種の性質の事柄であり、自白も同様に榎下の「聞いた話」に端を発している(但し、日石搬送については同じ日ではあるが、榎下4.8検が先行しており、これによると堀運転の車で増渕・江口が白山自動車から出発したのを榎下において現認したこととされている。)ことなど、自白の出方の面でも両者は密接に関連しており、土田搬送関係自白の検討については前記のような日石搬送関係自白の問題点を十分考慮していく必要がある。

2 土田搬送関係自白の概要

(一) 四月八日以前の供述状況

土田搬送に関し、三月一三日増渕は当初土田爆弾の差出しについて自ら南神保町局に赴いて行った旨自白したものの(増渕3.13検)、その日その後に行われた警察での取調べは直ちに郵送関係は堀が担当し、自分は直接は関与していないと自白を変更し、その後四月九日までこれを維持しており(増渕3.13員、3.14員、3.15検(A)・(B)、3.20員、3.23検、3.29検(A)・(B)、3.30検、4.2検、4.3検等)、一方、堀は三月二七日から金本に土田爆弾の郵送を頼んだことをほのめかし始め(堀3.27員、3.28員、3.29検、3.31検。この供述の微妙さについて堀3.27取報、3.28取報、3.31取報参照)、出来上がった土田爆弾の所在については、四月二日から中村(泰)が土田爆弾八王子保管に関する供述を始め(中村(泰)4.2員、4.3検、4.3員、4.8員)、四月四日からは堀もこれに符合するような供述を始め(堀4.4検、4.4員、4.6検)、四月七日から増渕も預けた方だけであるがこれに符合する供述を始めていた(増渕4.7メモ、4.8員)。なお、堀は土田爆弾八王子保管の供述後は金本への依頼の供述はしていないし(撤回もしていない)、また堀の供述から土田搬送の嫌疑を向けられた金本はこの間これを否定していた。

以上によると四八年四月八日段階(榎下の同日の供述を除く。)においては、土田爆弾は完成後増渕及び堀によって四六年一二月一一日に八王子保健所の中村(泰)のロッカーに預けられ、同月一五日まで同所に保管されていたことに固まりつつあったが、土田搬送については、堀が増渕の指示に従い何らかの方法(例えば金本に依頼するとか)によりこれを行ったのか、あるいは増渕が何らかの方法で行ったのか、とにかく具体的には明らかではないという状況であった。

(二) 榎下の四月八日供述

榎下は四月八日夜の石崎(警)の取調べにおいて、被告人に土田搬送の嫌疑がかかる端緒となる供述をしたが、その要旨は次のとおりである。

「一二月一八日夜堀が訪ねて来て、堀と一緒に白山自動車から堀の車で高橋荘に行ったが、その車中で、堀から「ビックリ爆弾の製造は江口のアパートで江口が中心になり、増渕が手伝って出来上がったものを金本という保健所の女の人が包装し、それを前林が持って、松本がローレルに前林を乗せ、神保町の郵便局まで行って前林が小包郵便で土田邸に出した。」と聞かされた。土田邸事件発生の二、三日前と思うが、堀が白山自動車に自分を訪ねて来て、ビックリ爆弾を郵送した旨教えてくれた。一二月一八日夜高橋荘には既に江口と松本が来ていて増渕・前林と何か話していたが、そこに堀と私が加わり土田邸事件の総括をした。」(榎下4.8員)

(三) 増渕の四月九日以降の自白

次いで四月九日増渕は津村(検)の取調べにおいて、被告人のローレルに乗って自分と前林が神保町に行き、前林が南神保町局に土田爆弾を差し出したという被告人への嫌疑をほぼ決定的にする土田搬送に関するかなり詳細な自白をしたが、その大要は次のとおりである。

「自分は、一二月一一日頃の夜堀と八王子保健所に行って宿直中の中村(泰)に頼んで土田爆弾を同人のロッカーに預かってもらったが、一二月一五日頃高橋荘に堀が金本と来て土田爆弾の郵送はそちらでやってほしいと言って手提袋に入った土田爆弾を渡したので、自分はこれを受け取り、その発送を前林に頼むこととした。郵送当日は前林を岡田香料に出勤させて途中でエスケープさせてアリバイ工作をしようと考え、当日は午前一一時頃阿佐ケ谷の喫茶店「華厳」で前林と待ち合せることとし、その旨同女に指示し、その承諾を得た。自分は被告人に頼んで同人の車で南神保町郵便局まで乗せてもらおうと思った。

翌一六日頃の午前八時頃前林が高橋荘から出勤し、自分は午前九時頃土田爆弾を持ってバスを乗り換え阿佐ケ谷駅に行き、そこから徒歩で午前一〇時半頃「華厳」に着いた。松本への車の依頼は当日の朝電話でしたか、「華厳」に着いてから直接会ってしたのかはっきりしないが、神田まで乗せて行ってくれるよう頼むと同人は承諾してくれた。午前一一時頃「華厳」に前林が来たので、そこから徒歩で三、四分位の松本方に行き、自分は助手席、前林は後部座席に乗り、松本がローレルを運転して神田に向かった。爆弾は自分のひざの上に置いた。青梅街道を通って神田に行き、三省堂の裏付近で停車させ、自分が爆弾を前林に渡して同女に南神保町局に出しに行かせた。この時間は正午前後頃と思う。自分は松本とともに車の中で待っていると一〇分位で前林が戻って来たので松本の車で阿佐ケ谷駅まで送ってもらい、前林はそこから国電で岡田香料へ行き、自分はバスで高橋荘に戻った。前林はいつものとおり午後六時半頃帰って来た。前林は当日は普段の服装であり事務服は着なかった。」(増渕4.9検)

その後も増渕は供述調書において基本的には右自白を維持しているが(4.17員(A)、4.19検(B)、4.21員、4.26検、4.28員、4.29検(B))、訂正された主要な点をみると、土田爆弾を郵便局に出した日につき、まず「一二月一六日頃と思うが、郵便局の方で調べて一七日ならば一七日だったと思う。」(4.19検(B))と述べ、その後「堀が実際に小包を送ってみて都内なら一日で着くというので上赤塚事件の記念日の一八日に爆発させようと考えて一七日を発送日にした。」旨(4.28員)供述し、以後は一二月一七日としている。次に、土田爆弾の郵送につき当初は堀に担当させることとしていたと述べていたのを、「一二月一一日頃八王子保健所に預けたのは、堀に包装等の準備をさせるためで、このときから自分と前林で郵送するつもりであった。」旨訂正し(4.26検)、土田爆弾の保管についても、当初は堀が八王子保健所から持って来て一七日当日まで高橋荘にあり自分自身でこれを持って行った旨述べていたのを改め、後に「堀が八王子保健所から高橋荘に持ってくるや直ちに堀とともに松本方に預けに行き、一七日まで預かってもらった。」旨の土田爆弾被告人保管を自白して(4.28員、4.29検(B))訂正している。

しかし、このように調書上は被告人の土田搬送につき増渕は四月九日以来一貫した自白をしているようであるが、同人作成のメモ(日付なし、八二一二)及び増渕4.27取報によると必ずしもそうではなくかなりの動揺がうかがわれる(その内容は後述)。

(四) 松村の四月九日以降の供述

松村は四月九日夜の坂本(補)の取調べにおいて、被告人の土田搬送をうかがわせる供述を始めているが、その内容は次のとおりである。

「四六年一〇月二三日頃の日石総括の席上、各人の任務分担は今後も日石事件のときのままとなったが、松本も車を持っているので輸送担当となった」(松本4.9・メモ八九九四、4.9取報、4.10員(B))

その後松村は、4.12員、4.14検(B)においても同旨の供述をしているが、四月一六日から日石総括自体を否定し、同月一九日にこれを再び自白し、被告人に関する前同様の供述をしたが、(4.19検(B))、四月二三日からは、供述を変えており、被告人への車の任務の割当てがあったのは、日石総括の席ではなくて一一月一三日の土田二高謀議の席であると述べるに至っており、またその謀議に被告人がいたかどうかはっきりしない旨及びその席上増渕が爆弾の輸送は堀に言いつけていた旨述べている(松村4.23員、4.24検(A)、4.30検、5.2検)。

(五) 被告人の初期自白

被告人は四月八日深夜の舟生管理官の取調べに対し、土田邸事件への関与を認めるようなメモを作成し、更に翌九日朝の同管理官の取調べに対し、土田搬送に関係すると思われる次のような内容のメモを作成した。

「四七年(四六年の誤記と思われる)一二月一七日の数日前、増渕から一七日に秋葉原に行くように頼まれた。用件を聞いても詳しくは言ってくれなかった。一七日午後一二時半頃高橋荘に行くと増渕・堀・前林の三人がいたので、自分は何も判らなかったが、この三人を乗せて車を走らせ、増渕の言うとおり、お茶の水駅から五〇〇メートル位の所で停車した。増渕はちょっと用事があるからと言い、三人は下車し、三〇分位して戻って来たが、増渕に「オヤジ、おそかったじゃないか」と言ったら、増渕はすまないと言った。三人を高橋荘まで送って五時半頃家に帰った。一二月一八日夜九時四〇分頃高橋荘に行くと、中村((泰)か(隆)か記載なし)・堀・榎下・増渕・前林がいたと思う。増渕が昨日うまくいったというようなことを言っていた。(一七日)車に乗るときちらっと見たら茶色い紙が見えたと思うが、長四角のお歳暮の包みのようなものが前林の横のシートの上に置いてあった。それが何かは判からない。」と記載し、更に図で助手席に増渕、後部座席の右から堀・前林の順で乗ったことを示し、コースとして給田(高橋荘)―甲州街道―新宿―飯田橋―お茶の水―秋葉原―渋谷―給田と書き、また、一八日の夜の高橋荘における席順らしい図も記載されている(被4.9取報、一二八回・一三〇回舟生証言)。

しかし、同日舟生(警)が退席し、鬼嶌(視)らの取調べになると被告人はまもなく右メモには嘘があると言って否認に転じ(被4.9取報、一一六回・一二〇回鬼嶌証言)、翌四月一〇日土田邸事件(幇助犯)で逮捕された際の弁解録取においてもこれを否認し(被4.10弁録)、翌一一日になって鬼嶌(視)の取調べにおいて再び自白を始め、土田搬送に関してはじめての自白調書が作成されるに至った。その大要は次のとおりである。

「四六年一二月一七日、自分は前日増渕から依頼されていたので、ローレルで正午すぎ頃高橋荘に行くと、増渕・堀・前林がいたが、増渕から「お茶の水の方へ行ってくれ」と言われ、三人を乗せて(位置関係は4.9メモのとおり)出発したが、そのときちょっと後ろをみると前林の右側の座席に茶の色の紙で包装し麻ひもで結んだ菓子箱くらいの大きさの小包があり、その上にショールのようなものがかけてあった。甲州街道、新宿の本陣、自衛隊前を通って外堀通りを進み、お茶の水駅の所で右折して駿河台下方向に進行したが、増渕の指示でお茶の水駅と駿河台下交差点の中間付近の明治大学の前くらいに停車した。増渕が「ちょっと用事があるから待っていてくれ」といって三人は駿河台下の方向に歩いて行ったが、前林が小包を脇にかかえていた。約二〇分待っていたら三人が一緒に帰って来たので自分は増渕に「遅かったじゃないか」と話したが、増渕は「すまなかった」などと言って車に乗り、今度は、前林は小包も何も持ってなかった。三人とも黙っていたので帰りは自分の判断で皇居前、青山通り、明治神宮横、甲州街道を通り高橋荘まで送った。そこで自分はお茶を一杯ごちそうになって堀よりも先に帰った。時間は夕方近くであったと思う。このように増渕らが土田爆弾らしい小包爆弾を運ぶのを手伝ったが、この当時増渕から爆弾闘争の話を聞いたこともあり、増渕らが危ない闘争をしているのではないかと心配していたが、当日は増渕から言われるまま断り切れずに行ってしまった。」(被4.11員(A))

「四六年一二月一六日午後九時少し前に増渕が訪ねて来て、店の裏の道路上で立ち話をしていると、前林が阿佐ケ谷駅方向から一七日にお茶の水に持っていった小包と同じものを持って来た。増渕に遊びに来いと言われて、自分はローレルで二人を乗せ、午後一〇時少し前に高橋荘につき、三人で雑談しているうち、増渕から明日(一七日)昼間来てほしいと言われ、昼間は店の仕事があるから行けないと一応断ったが、増渕が再三頼むので、増渕にはステレオのことで世話になったこともあるし、断りきれずに引き受けた。」(被4.11員(B))

なお、被告人は以上の自白に引き続き同日夜の取調べで、一一月下旬及び一二月上旬の二回にわたる南神保町局下見の自白をしている(被4.11員(C)、一一六回・一二〇回鬼嶌証言)。

以後、被告人は四月一七日までの間は、右自白の大綱は動かさず、これを若干発展させつつ、修正していったのであるが、その主な点を記すと、まず四月一二日に市川(検)に対し、当初また否認の態度を示したものの、「四六年秋頃、高橋荘で増渕・前林・堀・榎下・中村(泰)ほか一人の女(江口と思う。)と自分が集まっているとき、増渕が爆弾闘争の話をし、警察の幹部(土田とも言った)をやるといい、その二、三日後高橋荘で爆弾の運搬と郵便局の下見をたのまれ、いったんは断ったが結局承知した。増渕は爆弾を南神保町局から小包で送る、その前に俺と一緒に下見に行こうと言っていた。一六日夜の増渕・前林を乗せて高橋荘へ行く車中で前林が国立の金本のところへ寄ってきたと話しているのを聞き、自分は爆弾を金本のところへ預けておき、この晩これを受け取りに行き国電で阿佐ケ谷に来て増渕と待ち合せて私に高橋荘へ送らせたのではないかと思った。高橋荘に着くと増渕は、あした運ぶことになったから一二時頃来てくれ、と言った。一二月一七日は正午頃店を出て、ローレルで一二時半頃高橋荘に着いた。自分は店では主に店番をやっており、途中抜け出して喫茶店に行くこともよくあったので、誰にも断らずに出かけた。堀が増渕・前林と一緒に車に乗ったことは間違いない。南神保町局に向かったコースは下見のときと同じだが、この日は明治大学の門前付近で降り、三人は一団となって坂を降りて歩いていった。自分は三人がいよいよ小包爆弾を南神保町局から出しに行ったと思い、運転席で一五分か二〇分位待っていると、三人が戻って来て車に乗り込んだ。三人とも表情や態度は変わりはなかったが、三人とも黙りこくっていた。郵便局係員に小包を渡したのは前林と思った。車を停めた時間は午後二時か二時半頃だったと思う。帰りも三人をローレルで送り、高橋荘に着いたが、時間は暗くなりかけた頃で、五時半頃ではなかったかと思う。そこでお茶を飲んでいるとき増渕がこれで皆終わったといい、前林と堀がうなづいていた。翌一八日昼頃テレビで土田邸事件を知り後悔した。その夜堀から電話があって高橋荘に行くと増渕は、まあ成功だったなどと言い、他の人も喜んでいた。心から反省している。」と知情の点が明確化したほか、略図を作成するなどして詳細な自白をし、なお、市川(検)は特に問答体で一二月一七日の堀の参加の点、土田爆弾差出等の時間を確認しているが右要約どおりの供述となっている(4.12検、九八回・一〇二回市川証言)。更に、その日の鬼嶌(視)の取調べで、増渕から爆弾闘争で土田を狙うと聞いたのは四六年一一月中旬頃と述べ(4.12員)、翌一三日の勾留質問でも概括的に土田搬送を認め(4.13匂質)、四月一六日及び一七日にも自白調書が作成されている。4.17検では一二月一七日当日の松本商店の人々の状況等が詳細に録取され、高橋荘に帰ったのが午後四時半か五時頃と変わっているほか問答体で前林・堀の勤務について知っていたかどうかなどが質されているが、前林は高橋荘に戻ってから、今日は会社は休んだ、と言っていた旨及びウィークデー(一七日は金曜日)の昼間から夕方まで堀と一緒にいたようなことは当日がはじめてだったが、勤めを休んだかどうか堀は何とも言わなかった旨が述べられており、4.17員では、被告人は一二月一七日当日の松本商店の状況について詳細に述べたほか、「高橋荘へ行くときは車の混まない裏道を順調に走り、一二時三〇分か四〇分頃着いた。お茶の水までの車中では増渕と交通状況の話をしたが堀とはあまり話していない。堀は調子がよいのであまり好きではない。車の停車位置は(駿河台下)交差点のすぐ手前の左側でそこから交差点がよく見え、増渕らが交差点手前の横断歩道を反対側に渡るのが見えた。」旨供述し、神保町付近での停車位置を若干変更するなどしていたが、翌四月一八日朝から一転して否認に転じた。

(六) 中村(隆)の四月一七日以降の供述

前にみたとおり、中村(隆)は四月一一日以来日石搬送を自白していたが、四月一七日市川(検)の取調べにおいて土田搬送に関連して土田爆弾を誰が郵送したか知らないが、日石爆弾と同様江口・前林らではないかと思っていた旨供述し(中村(隆)4.17検)、同日の坂本(補)の取調べにおいて、「四六年一二月一七日午後三時頃白山自動車に榎下を訪ねた際榎下が、今日俺の車で増渕らを神保町の郵便局に運び土田に爆弾を送った、それで眠くてしようがない、と言い、ほんとうに眠そうな願をしていた。」旨供述して榎下の土田搬送を示唆し(4.17員)、翌四月一八日にはこの点につき、「榎下からそのような話を聞いたのが土田邸事件の前日だったから、早合点して榎下が土田爆弾を送ったと言ってしまった。推論と断わっていたが、言われてみると、榎下から、昨夜増渕と神保町に廻り眠い、と言っていたような気もするので下見をしたのか土田爆弾を搬送したのか判らなくなった。ともかく、榎下がそのような意味の言葉を言ったのは事実である。」と趣旨があいまいに変わっている(4.18員)。

同日、坂本(補)から中村(隆)自身の土田搬送関与の有無を追及されているが、これを否定し(4.18取報)、四月二〇日には「自分が知り得た範囲では榎下と松本であるが、これまで友達のよしみからポカしていた。土田邸事件の二、三日前頃午後三時頃白山自動車で榎下から、前の晩増渕らを乗せて神保町の方へ下見に行ってきたから眠い、と聞き、一二月一九日午後三時頃白山自動車で榎下から、俺は下見だけだ、松本が送った、と聞き、自分が、松本大丈夫だろうなあ、と言うと榎下は青い顔をして、大丈夫だ、日石もまだ判っていない、増渕のことを出さなければ絶対大丈夫だ、皆で口裏合せの必要がある、などと言った。」と供述を大幅に変更し(4.20員)、四月二三日以降も中村(隆)自身の土田搬送への関与を否定し、当日サニークーペが修理中であったと述べ、土田搬送は松本らであると聞いたなどとしており(4.23員、4.24検)、四月二六日榎下から松本の土田搬送の話を聞いたのは一二月一九日榎下と東京バザールに行った時である旨変更し、サニークーペの修理状況についてなお詳述している(4.26員(B)、4.27員(A)、4.28員(C)・(D)、5.6員(B))。

(七) 四月二〇日以降の被告人の再自白

被告人は四月二〇日夕刻からの江藤(警)が加わった取調べにおいて再び自白に戻り、四月一八日以降否認していたのは堀への憎しみから一二月一七日に堀も一緒だったと嘘をつき、そのままいくと偽証罪で処分されると思ったことと、自分以外の連中がアリバイ工作をしたらしく、それにもれた自分一人がしゃべって他人の罪まで背負わされるのが心配だったことからであると述べ、一二月一七日は増渕・前林のみを乗せたと変更しているが、高橋荘が出発点であることはそのままである(4.20員、4.21取報、一二七回・一二九回江藤証言)。

そして、四月二一日には土田爆弾保管も含む最終的自白の基本的骨組みが出来上がり、以後若干の修正ないし肉付けが施されて行くことになるが、以下その大要を記すと左のとおりである。

「四六年一二月一二、三日頃高橋荘で増渕から一五日に君の家に寄ると言われて会う約束をした。一二月一五日の午後八時頃増渕・前林が訪ねて来たが、このとき増渕から大事な物を預かってくれと言われ、爆弾と直感したが、手提袋入りの荷物を受けとり、家から二〇〇メートルぐらい離れた被告人方で物置代わりに使用している照井方八畳間に置き、店を閉めるまで待ってくれと言って、午後九時頃増渕・前林を車で高橋荘に送った。高橋荘で増渕から、一七日昼頃阿佐ケ谷駅で待っているから荷物を持って来て、神田まで行ってくれ、と指示され、それまでの増渕の話などから爆弾を出しに行くのだと思ったが指示通りに従うこととした。

一二月一七日は午前一一時すぎに起床し、店の人にわからないよう裏口から抜け出し前記八畳間から爆弾を取り出してローレルで阿佐ケ谷駅南口に行った。増渕・前林はすぐ自分の所に来たので増渕を助手席、前林を後部右座席に乗せ、自分が爆弾を前林に手渡して出発し(正午少し前)、青梅街道を通り、新宿、市ケ谷自衛隊前、後楽園、お茶の水駅手前を右折して駿河台方向へ行き、午後一時少し過ぎ増渕の指示で駿河台下交差点のすぐ手前で停車した。二人は交差点の方に下って行き、車の中で待っていると一五分か二〇分位で二人が戻って来たので、ちょっと遅かったね、というと、増渕は、あせってくると目につくのでわざとゆっくり来た、と言って乗り込んで来た。帰りは二人を乗せ、皇居前、警視庁前、青山通り、外苑いちょう並木、参宮橋駅、甲州街道、環状六号、立正佼成会前、環状七号を通って午後三時一五分頃阿佐ケ谷駅南口に帰り、そこですぐ二人と別れたが、増渕は友人のところへ、前林は会社へ行くと言いながら別れた。」(4.21員)

以後4.25検(A)、4.26(員)、4.28検と自白調書が作成されているが、一二月一七日当日の時間の点でかなり変動があり、最終の4.28検では、阿佐ケ谷駅出発が午前一一時四〇分か四五分頃、駿河台下交差点付近到着が午後〇時四〇分か四五分頃、待っていた時間が一五分位、阿佐ケ谷駅到着が午後一時五五分か二時頃となっている。なお、往復のコースについては変動はなく四月二六日には被告人は土田搬送コース(往復)と爆弾保管場所の実況見分・検証に立ち会い、指示説明しているし((員)杉山熊治48.4.30実況⑪一六二九、(員)鈴木和彦48.4.26検証⑪一六五九)、ずっと遅れて5.28員では一七日当日の増渕・前林の服装を押収された衣類等で確認している。

(八) 榎下の土田リレー搬送自白

榎下は前記のとおり、四月八日に被告人が土田搬送を行ったことを堀から聞いた旨の供述をして以来、土田搬送自体については特段の供述を録取されていなかったところ、その間、増渕・松村・被告人が相次いで右榎下供述に符合する自白等をし、被告人の土田搬送はほぼ動かないものとされていたようであるが、前記のとおり、四月一八日朝から被告人が否認に転じ、その前日の四月一七日から中村(隆)において榎下が土田搬送に関与しているかのような供述を始め、土田搬送に関する供述状況はやや流動的様相を呈し始めていた(もっとも前記のとおり被告人は四月二〇日夜再び自白に戻っている。)。榎下は四月二一日の石崎(警)の取調べに対し、土田搬送も日石事件と担当者は異なるが、これと軌を一にするリレー搬送であったとする大要次のとおりの新自白をなすに至った。

「一二月一五日頃の午後八時頃から喫茶店「サン」に増渕・堀・前林・松本・中村(隆)・坂本・榎下の七人が集まって一七日の土田爆弾の搬送手順につき打合せを行い、次のようなリレー搬送を行うことを確認した。

まず、榎下が午前一〇時頃増渕・前林を白山自動車から新宿まで送る。そのためにあらかじめ堀が一六日夜爆弾を榎下のところまで運んでおき、朝前林はいったん会社へ出てから増渕と落ち合って白山自動車へ行く。次に、中村(隆)が新宿で引き継ぎ増渕・前林を神田神保町の交差点まで送り、二人を降ろしてそのまま帰る。そして、坂本と松本の二人は神保町交差点から三省堂の南側を通っている道路へ九段方向に二台とも車を向けておき、午前一一時には到着している。坂本の車には増渕が乗って新宿まで行き増渕を降ろす。松本の車には前林が乗り、前林の勤めている会社まで送り届ける。

以上の打合せに従い、一二月一六日夜九時頃堀が土田爆弾一個を白山自動車に預けに来たので、日石事件の時と同様にトヨエースの中に保管し、一七日には打合せどおり、自分は土田爆弾を車に積み、増渕・前林を新宿まで送った。詳しいことはあとで述べる。」(榎下4.21員)

更に、榎下は翌四月二二日の石崎(警)の取調べにおいて、右土田サン謀議の日を一二月一四日頃とし、その謀議の内容を詳細に述べるうち、右4.21員のリレー搬送を次のとおり変更している。

「サン謀議において、人の輸送は4.21員のとおりのリレー方式だが、爆弾の輸送は松本が神保町に持って行くことと決定され、そのため爆弾はあらかじめ堀が松本のところに運ぶこととされた。土田爆弾は一五日に堀が中村(泰)のところから松本のところへ運んだ。一六日堀が白山自動車に榎下を訪ねてきて、松本が怖がっているので、爆弾を預って一七日に増渕・前林と一緒に爆弾も持っていってほしいと頼まれ、結局、自分が預ることとなった。」(4.22取報、なお榎下4.22〜23メモ)

そして榎下は四月二五日の神崎(検)の取調べに対し、一二月八日頃の土田爆弾製造直後に次のような会話がなされたと供述している。

「増渕が皆に一七日に爆弾を郵送するが、増渕・江口・前林でやるかと言い、堀か松本に当日行ってくれと頼んだが、松本はまだ判らないと答えていたので、増渕が榎下・中村(隆)・坂本に対し一応考えていてくれ、と言った。」(4.25検)

しかし、榎下はその後同日の石崎(警)の取調べに対し、これまで嘘をついていたとして始末書(九五三五)を書き、その中で、「これら土田リレー搬送は嘘だった。本当は行きは松本一人で阿佐ケ谷で増渕・前林と待ち合せて運んだ。」旨を述べ(帰りについては書いていない)、土田リレー搬送供述を撤回している。とはいうものの榎下はその後の土田サン謀議の自白及び土田搬送の帰りには坂本も関与していると述べた点は撤回せずに、維持強化しており、その自白の最終的なところは大要次のとおりである。

「一二月一四日頃の午後八時頃「サン」に増渕ら前記七名が集まり、一七日の搬送の相談をした。江口は日石の時二人で行って顔を見られているから今度は行かないということであった。結局行きは松本が運転を引き受け、朝一〇時頃松本方を出発、現場に一一時頃着く予定とし、その前に堀が爆弾を松本の所に預けておき、帰りに備えて坂本が車で神保町へ午前一一時頃来ることとし、当日松本が行けなくなった場合に備えて榎下も白山自動車で待機する旨決まったような雰囲気だった。一二月一六日夜堀が白山自動車に来て松本がびびっているが一応やらせることにしたが、だめなら榎下に頼むというので、一七日白山自動車でひやひやしながら仕事をしていたが何も連絡がなかった。一二月一八日夜高橋荘へ向かう車中(堀のスプリンター)で堀から昨日は松本が行った旨聞き、高橋荘で土田邸事件の総括をした際、増渕から、増渕・前林が松本の車で神田まで行ったと聞き、坂本からも、坂本が神田から新宿まで増渕を送ったと聞いた。松本は、もうやるのはいやだと言いながらひどく酔って寝転んでいた。」(4.28員、5.2検(A)、なお両者は若干異なるところもあるがその点は後述)

(九) 坂本の土田リレー搬送自白

坂本は四月四日夜から日石リレー搬送の自白をし、四月一六日からは否認に転じており、まして土田搬送については何も供述していなかったが、榎下が土田リレー搬送を自白した同じ四月二一日の夜の江藤(警)の取調べに対し、日石搬送を再自白するとともに榎下とはかなり内容の異なる次のような土田リレー搬送自白をなすに至った。

「四六年一二月一七日午後二時頃九段下付近で中村(隆)のサニーから増渕・前林・江口ともう一人の女(名前は知らない)の四人を引き継ぎ、南神保町局の近くで停まり、増渕以外の女三人が爆弾を右局に差し出しに行ったあと再ぎ右四名を乗せて東京駅へ行き全員降ろしたと思う。爆弾は直接見ていないが、前林が買物袋(紙袋)を提げていたのでそれが爆弾だと思う。」(坂本4.21員)

更に、坂本は翌二二日の根本(補)らの取調べにおいて右自白を次のとおり発展させた。

「四六年一一月終り頃日大二高に堀・増渕・榎下・中村・松村と他に二、三人が集まり、堀・増渕から今度やる爆弾闘争について榎下・中村とともに自分も車の運転をたのまれた。この時メガネをかけた背の大きい人もいたような気がする。車のスイッチはまちがいない。九段下付近で中村(もしかすると榎下)から引き継ぎ、増渕・前林・江口・女(どこかで見たことがある人)の四人を乗せ南神保町局に行き、前林・江口・女の三人が郵便局の中に入って行ったのを車を駐車したところから見ているような気がする。物は紙袋に入れて前林が持って行ったと思う。一〇分位して三人が帰って来て、大丈夫だった、と誰かが言っていた。その後東京駅まで四人を乗せて行ったが、ここで全員を降ろしたのかどうか今は思い出せない。」(坂本4.22取報)

しかし、坂本はその翌日二三日の栗田(検)の取調べにおいて、右土田リレー搬送自白は嘘であるとしてこれを撤回し、このような嘘を述べたことにつき少しはこんな話し方をした方が調べが早くすむのではないかという気持ちから勝手に自分で話をこしらえたと述べている(4.23検(C)、なお4.24員参照)。

(一〇) まとめ

以上(二)ないし(九)によると、四八年四月八日の榎下供述を皮切りに、翌九日増渕が、被告人のローレルに増渕・前林が同乗して、前林が土田爆弾を南神保町局へ差し出した旨の被告人単独搬送自白をし、同日被告人もあいまいながら、これと大局的には同旨の自白をし、松村もこれに沿う供述を始め、以後若干の曲折を経つつも、増渕及び被告人はほぼ一貫して被告人単独搬送の自白を維持しているが、その自白相互間には出発場所・時間等の点で相当顕著な食い違いを残したままとなっている。

他方四月二一日からは榎下及び坂本が相互にかなり内容の異なる土田リレー搬送自白をするに至り、一時期被告人単独搬送自白とこれらリレー搬送自白が併存していたが、後者はまもなく撤回され、ただ榎下自白中においてその名残りともいうべき土田サン謀議及び復路での坂本搬送が残されたままとなっている。なお、中村(隆)は終始自己の土田搬送関与は否定し、当初榎下の関与をうかがわせる供述をしたが、次第に被告人単独搬送に沿う供述に変わっている(以下の考察において、以上(二)ないし(九)の自白・供述を「土田搬送関係自白」と総称することとする。)。

3 検察官の主張について

(一) 検察官主張と前記自白の対応関係

土田搬送関係自白は右に概観したところからも明らかなように、日石搬送関係自白が共犯者等五名の間で内容が終局的にはほぼ一致していたのと著しく異なり、その最終形においても相互間に顕著な食違いを残しているのであるが、検察官の土田搬送についての具体的事実関係の主張(第一・二3(四))は主として被告人及び増渕の自白に依拠し、増渕・前林のローレルへの乗車地点、南神保町局付近での停車地点、右乗車・停車等の時間等両者の自白の異なる点は被告人の自白をより信用できるとし、前林を当日岡田香料に出勤させ、昼休みを挾んで右会社を抜け出させることとした点については増渕自白に依拠しているようである。なお、松本の日大二高での謀議における被告人への搬送任務割当てに関する供述(松村4.10員)も信用しうるものとしている(松村意見書四四頁ないし四六頁)。

検察官は、他方、榎下自白中に最後まで残されている坂本の土田搬送関与(帰路)をうかがわせる点は虚偽であるとするが、土田サン謀議の真偽に関しては搬送前にサンに共犯者が集まり、搬送方法の打合わせをした事実についてはあながち否定しきれないものがあるとしている(榎下意見書三四九頁ないし三五三頁)。

そこで、以下の検討においては、これら検察官の主張に鑑み、まず被告人及び増渕の各自白を中心に他の証拠と対比しつつ検討を進めて行くこととする。

(二) 中村(隆)の土田搬送からの故意の離脱との主張

ところで、不可解なのは、検察官が右の基本的な主張とともに、中村(隆)が土田搬送任務を割り当てられたことがあり、同人はこれを免れるため計画的に交通事故を起こしてサニークーペを使用不能にした旨を次のとおり詳細に主張していることである。

「榎下の土田リレー搬送自白については、石崎(警)もこれを報告したときの上司の反応を見て虚偽の疑いを抱き、四月二五日の取調べで榎下に対し語気鋭く追及したところ、榎下は「一蓮托生」という言葉を口に出したのである。同警部はその真意を計りかねて意味を問い質すと、榎下は、「中村(隆)は、土田搬送への参加を嫌って三多摩の方で車を壊してしまったが、彼も相談をしていた以上一蓮托生だ。」と述べて中村(隆)の名前を出した理由を説明し、リレー搬送の点を含め、従来は捜査を混乱させるために嘘を話していたと打ち明けた。中村(隆)の車が土田邸事件直前に事故を起こし、白山自動車で修理されていたことは同人の供述により判明していたものの、それが土田搬送実行を免れるための計画的行動であることは、捜査当局に全く知られていなかったのである。右榎下の言葉は、榎下の中村(隆)に対する反感を含め極めて具体的で説得力に富むものであり、到底石崎(警)の作り話とは思われない。のみならず、榎下は石崎(警)に対し、「中村(隆)は友達だから、これだけは調書にしないでくれ。」と懇顧したのであって、榎下は中村(隆)が土田搬送を免れるために小細工を弄したことに反感を抱き、いったんは同人をも土田搬送者と供述したが、四月二五日に被告人搬送という真実を語った後は、中村(隆)が友人である以上、同人が臆病風に吹かれて遁走した事実についてまでも証拠として残すことに逡巡ちゅうちょして調書への録取を断ったものであることが明白である。このような経緯があったために中村(隆)の計画的自動車事故の真相については、榎下の員面調書・検面調書を通じて録取されずに終始したのであるが、取調べの過程で石崎(警)榎下の間で中村(隆)の事故についてやりとりのあったことは明白である。なお事故によって破損した中村(隆)の車は修理のため榎下の勤務する白山自動車に運び込まれているのであるから、榎下がその事故の事実及び日時を警察官から教えられて知ったということはありえず、榎下がこのような供述をしたのは榎下自身経験して知っていたからである。」(榎下意見書三四四頁ないし三四九頁)

右検察官主張中の榎下の「一蓮托生」とか「調書にはしないでくれ」とかいう供述は石崎(警)の証言中にあるとしているが、九七回・九九回・一〇〇回・一〇一回石崎証言をみても、「一緒にやるという相談をしておきながら抜けたのがいる。相談した以上責任は同じだ。中村(隆)は土田の直前になって車をこわしてしまった。」などと四月二五日に榎下が述べた旨は出ているものの(九七回)、それ以上の内容は出ておらず、検察官主張は本件において証拠とされていない石崎(警)の他の法廷(おそらくは刑事第九部)における証言を引用しているのではないかと推察されるのである(そもそも、このような取調警察官の公判期日における供述で被告人以外の者の供述を内容とするものについては、被告人の犯罪事実認定には原則として供しえないものであり(刑事訴訟法三二四条二項・三二一条一項三号)、右石崎証言中の榎下供述について例外的に証拠能力を認めうる要件が欠けていることは明らかである。)。

しかし、ここで留意すべきは、これらのことよりも検察官がこのような主張をしていることそれ自体である。土田邸事件直前の中村(隆)の自動車事故は捜査段階の同人の供述によると、一二月一六日頃の午前九時頃昭島市中神の日本電子へ製品を届けた帰りに交差点でトラックに衝突し、サニークーペの前部が破損し、この事故は昭島警察署の扱いとなり、相手とは示談し、白山自動車に連絡してレッカー車でその下請の三鷹市内の板金工場に入れてもらい、一二月二二日頃修理が終わって引き取ったとのことである(中村(隆)4.24検、4.26員(B)、4.28員(C)、5.6員(B)、なお中村(隆)証言一四八回によると右事故は一二月一六日であるとしている。)。この事故の日時・場所・態様及びサニークーペの修理関係についての裏付け証拠は提出されていないが、この点は捜査段階において土田搬送につき被告人単独搬送自白とリレー搬送自白が併存していた際、リレーの一翼を担ったとされていた中村(隆)が関与していないと判断する決め手の一つとされたものであり、どのような裏付けがとれたかは別として、右中村(隆)の供述はおおむね事実であると判断されて前掲供述調書に録取され、検察官もこれを前提として右主張をしているので、右中村(隆)供述どおり認定してよいと思われる。そして、この事故が一二月一六日のことであったとすると、検察官の主張自体大きな自己矛盾を犯していることになろう。すなわち、検察官の主張によれば、中村(隆)は土田搬送の任務を割り当てられ、いやいやながらもこれを引き受けていたが、その後やはりこれを断る気持になり、並大抵のことでは断れないということで搬送予定日の前日故意に交通事故を起こしてサニークーペを破損させ、これを理由に搬送任務から離脱したというのであるから、その後中村(隆)はその旨を何らかの方法で増渕らに伝え、増渕らはやむなく土田搬送計画を練直し、被告人単独搬送が決定されたということになるはずであるところ、検察官は他方では、被告人単独搬送を前提として、被告人や増渕の自白に基づき、右事故より以前の一二月一五日夜増渕・前林は土田爆弾を被告人に渡し、その保管及び一七日の搬送を依頼したと主張しており、更に被告人の自白(4.21員等)によると増渕らが一五日に被告人方に来ることはその二、三日前の一二月一二、三日頃に約束していたというのであるから、これらの主張は両立しがたいものというべきであろう。したがって、検察官がこのように中村(隆)の土田搬送からの故意の離脱という主張をすること自体が、被告人及び増渕(更には松村)の土田搬送関係自白の信用性に全幅の信頼を置きえないとの暗黙の評価を下していることにもなるのである(なお、これら自白にそのような中村(隆)の離脱をうかがわせるような点は皆無である。)。

もっとも、検察官の中村(隆)に関する右主張は、日石搬送関係における中村(隆)のアリバイを同人の意図的な日石搬送からの離脱であったとする主張と同工異曲であり、後者が無理である(前記第三・一4(一))と同様、それ自体不合理というほかないものでもある。土田搬送を断るためにわざわざ危険を犯して故意に交通事故を起こすということ自体不自然・不合理な話であるし(日石搬送を断るのに被告人は特段のことをしたとされていない。)、検察官の日石搬送における中村(隆)の意図的離脱に関する主張をこれと並べてみると、同人は日石搬送を引き受けながら、怖じ気づいて当日は運転免許学科試験に逃避して増渕らに迷惑をかけ、その負い目にもかかわらず、日石総括では爆弾のスイッチのことなどについて相当の批判的な発言をし、また、土田搬送を引き受けながら、再び交通事故をわざと起こすまでして逃避したということになり、引き受ける方もおかしければ、増渕らが二度もこのような男に搬送を頼んだというのもおかしいということになろう。もしそのようなことがあれば、日石総括及び土田統括の席上名指して中村(隆)のとった態度は厳しく批判されなければならないはずであるのに、右各総括に関する共犯者らの自白中にもそのような点が出ているものは見当らず、榎下の「運ぶ足で不手際があった」という日石総括に関する自白も前述のとおり中村(隆)の故意的離脱を暗に述べたものとは認めがたいのである。

以上の検察官の主張に対する批判は、以下の土田搬送関係自白に立ち入っての検討と直接結びつくものではないが、土田搬送について前掲のような詳細な自白がありながら、なお、検察官においてそれと反する主張を敢えてしなければならないというのは、日石事件当日における中村(隆)の運転免許学科試験の受験を日石搬送からの故意的逃避であると言わんがためのものであり、このような自家撞着を犯す破目に陥るほど、日石事件における中村(隆)アリバイの出現が検察官主張に与えた衝撃は深刻であったということができるのである。

4 被告人及び増渕の自白と前林の行動

(一) 一二月一七日の前林の行動

土田爆弾が南神保町局に差し出されたとされている一二月一七日の前林の行動のうちほぼ客観的で動かない事実と認められるところをまず記しておく。

(1) 前林は当時国電吉祥寺駅から徒歩約一〇分の岡田香料という役員を含めて従業員が一三名という小規模の株式会社に勤務しており、平日の勤務時間は午前九時から午後五時までで、手当てを伴う超過勤務の制度はなかった。一二月一七日当日前林は午前八時五一分に出勤し、午後六時二四分に退社しているが、退社時間が通常より遅くなっているのは、同月一一日の同社のボーナス支給日に前林他一名には休暇が多かったことなどから他の人には支給された奨励賞が出なかったことに、前林が不満を表明し、そのことで上司の岡田啓専務取締役及び橋本義二研究室長と勤務時間後三人で話合いをしていたからであり、その際前林は泣いたりもしていたと認められる(九部一六〇回岡田証言・橋本証言、なお、この両名は検察官申請の証人であり、その証言は出勤表等当時の確実な資料に基づくものである。他に、(員)浜一夫48.2.22資料入手報告書(前林の出勤表添付)一一〇六六、岡田啓及び橋本義二の各出勤表一九七九一)。

(2) 前林自身が直接行ったとの裏付けはとれていないが、当日の正午前後(〇時一五分よりは前、時間の推定につき後述)に富士銀行吉祥寺支店の前林名義の普通預金口座から金六、〇〇〇円の預金払戻しが行われている(一七〇回田中証言、九部二四三回堂垣証言・矢萩証言、照会申出に基づく回答の通知(符118)、富士銀行吉祥寺支店の各伝票一七三二枚と一二束(符119)、普通預金請求書一枚(符120))。

(3) 岡田香料は化粧品・石けん等の工業用の香料の調合、調合香料の生産・販売を業としている会社であり、当時前林は研究助手として二階研究室で前記岡田啓、橋本義二の補助を沼山とともに担当していたもので、右研究室にはこの四名しかおらず、前林は外出するときは岡田・橋本がいれば同人らに断っていた。前林は欠勤等は少ないとはいえないが、仕事には意欲的に取り組み、とりわけ香りの評価によい感覚をもち、当時岡田啓は前林の補助を得てポーラ化粧品との関係でアルページュタイプの香料の試作に取り組んでいた。一二月一六日には中間的試作品をポーラに届け、もし採用されると大きい仕事でもあるため、その後もその改良仕上げを急いでいたもので、特に一二月一八日(土曜日)は会社の旅行会であり岡田はその前にこの仕事をできるだけやりたいと考えていた。そして、一二月二一日(火曜日)には改良品をポーラに届けているので、それ以前に調合が出来上がっているものと認められる。このように一二月一七日当日の前林の会社での仕事そのものは詳らかではないが、上司の岡田の右仕事にかなり実質的に関与していたことは明らかであり(香りの評価、プレゼンテーションやプレスクリプションへの記入等)、しかも右岡田自身は気持の上で忙しかった日であると述べている(前記岡田証言・橋本証言、特に岡田証人は当時のプレゼンテーション、プレスクリプション、自らのメモ等に基づき記憶を喚起しつつ証言している。)ところからして助手の前林としてもそう怠慢な態度をとっていたとは思われない。

(二) 前林の当日の長時間の外出の可能性の有無

(1) 被告人及び増渕の最終的自白に基づく検察官としては右前林の行動中(一)(2)が前林自身によるものと認めることは到底できないが、(一)(1)(3)のうち岡田香料への出勤の事実は当然の前提とし、前林が昼休みの前後をエスケープして抜け出し、土田爆弾を差し出しておきながら、ずっと出勤していたように見せかける一種のアリバイ工作であると主張するもののようである(検察官の依拠する前掲増渕自白ではこの点が詳細に出ている。)。

検察官の主張によると当日の前林の行動は次のようになる。

前林は朝高橋荘からいつものとおり岡田香料に出勤し、午前中に右会社を抜け出し、阿佐ケ谷駅付近(喫茶店「華厳」を指すものと思われる。)で増渕と落ち合い、二人で阿佐ケ谷駅南口に行き、被告人のローレルが来るのを待って午前一一時三〇分頃(但し、被告人は4.28検でも一一時四〇分か四五分頃と述べている。)これに乗車し、被告人の運転で青梅街道・新宿・市ケ谷・後楽園横・お茶の水駅前を経由して駿河台下交差点手前に至り、下車して午後一時頃土田爆弾を南神保町局に差し出し、再び増渕とともに被告人のローレルに乗って午後二時頃阿佐ケ谷駅前に戻り、前林は直ちに国電を利用して岡田香料に戻り、その後は仕事をして夜高橋荘に帰宅した。

そこで、右検察官の主張による前林の外出時間を確定するため、岡田香料から阿佐ケ谷駅までの地理的関係(所要時間)をみると、行きは、

① 岡田香料

9分 → 徒歩

② 吉祥寺駅

9分 → 国電中央線

③ 阿佐ケ谷駅

3分 → 徒歩

④ 喫茶店「華厳」

3分 → 徒歩

⑤ 阿佐ケ谷駅南口

(所要時間、いずれも約)

であり、被告人の車に乗るまで約二四分(もっとも検察官が増渕自白中の喫茶店「華厳」での待ち合せを虚偽と主張するのであれば、その往復の約六分が短縮される。)を要するため、午前一一時三〇分頃に被告人の車で出発したとすると(被告人4.28検では一一時四〇分ないし四五分だが、被告人の自白によると約束より一〇分くらい遅れて行ったことになっているから前林の外出時間には影響しないとみてよい。)、前林は午前一一時頃には岡田香料を出て、帰りは順調にいって午後二時一八分頃(二時頃阿佐ケ谷駅南口到着ということで右①―③間の時間を足したものである。)岡田香料に戻ったということになり(所要時間は(員)星川節雄他48.4.18実査七九一七による)、前林は当日一時間の昼休みを挾んでいるとはいえ合計三時間余にわたって会社を外出していたことになる。

(2) 検察官は前林のこのような長時間の外出の可能性につき左のとおり主張している。

「岡田香料は、香料を試作することなどを目的とした会社で、工場と研究室を備えているが、社長以下合計一四名に過ぎない小規模な組織であり、こうした会社においては、往々にして従業員の勤務管理が徹底を欠くことは一般に見られるところである。現に、岡田香料責任者らの供述をみても、従業員の勤務管理が寛容であり、私用外出の手続についても特段の定めはなかったことを認めている。そのような組織の中にあってさえ、前林の勤務状況が格別劣っていたことは、昭和四六年暮に、前林ほか一名の二人だけが奨励賞を受けていないことからも明白である。前林は、欠勤、遅刻、早退等が多いのみならず、勤務時間中に診察・治療等のためとして何か所もの医者に通い、又は外食するため等の理由でしばしば外出していることが明らかである。前林は、研究室に研究助手として勤務していたので、随時さまざまな業務に従事しており、その職務には化粧品等を適宜外部に購入に行くことも含まれているなど、外出がかなり自由であったことが認められる。更に上司の監督についても、直接の上司が業務の性質上、関係方面との折衝などに外出することも少なくなく、とりわけ本件犯行の行われた時期は年末にあたっていたため、年末のあいさつやお歳暮のため、上司らがしばしば長時間にわたって外出していて前林の在室の有無など容易に把握できなかったことが認められる。更に、前林が担当していた研究助手なるものは、当時から研究室にとってさほど必要なものでなかったことは、前林退職後、相当期間後任が補充されていないことからもうかがわれる。右の事情に徴すれば、前林において適宜口実を構えて外出したうえ、郵便局に赴くことは、会社関係者から何ら疑念を持たれるおそれなしに容易に行いえたところと認められる。」(論告七五頁ないし七七頁)

(3) そこで、この点についてみるに、なるほど検察官指摘のとおり、岡田香料は小規模な会社であり、従業員の私用外出の手続について特段の定めはないこと、前林に欠勤等が多く、前林ほか一名のみが奨励賞を受けていないこと、前林が何か所の医者通いをし、必要な品物を外部に購入に行くことも職務に含まれていたこと、前林退職後後任が補充されなかったことなどは前記岡田証言・橋本証言によって認められなくはないが、岡田香料が従業員への勤務管理に寛容であるとか、前林がしばしば外出し、当時は年末で上司の目がよく届かなかったとか、前林はいてもいなくてもいいような仕事をしていたとかいう点はこれらの証言からはうかがわれず、証言を全体的にみればむしろ結論は逆になるのではないかと思われるところである。しかし、これらはさておき、前林の当日の行動のうち注目すべきは前記(一)(1)のとおり同日夕刻勤務時間終了後前林が上司の岡田・橋本両名とボーナスのことで話合いをし、奨励賞をもらえなかったことに強く抗議していることである。よりによってこのような抗議をしたその日昼休みを挾んで合計三時間余もの間私用で外出していたとするならば、同女が泣きながらこのような抗議をしたというのはあまりにも厚顔であるとともに、知られたくないはずの外出を上司らに印象づけることになりかねない。また、岡田証言・橋本証言によると、岡田らとしても当日前林の長時間の外出があったとすれば、話合いの席で当然そのことを持ち出して反論しているはずであるが、そのような記憶はないということである。更に、岡田証言によると、前林の私用外出はあまりなく、外出のことで注意したことはないと思うし、医者通いといっても三〇〜四〇分くらい、昼休みの帰りは遅れても五分か一〇分程度であり、常識を上回る長い外出はなかったと思う。昼休みを挾んで二、三時間外出したことなど記憶にないということであり、全体的には検察官の主張には否定的であるとみるのが相当である。ニュアンスの差はあれ橋本証言も同様である。加えて、岡田は前記(一)(3)認定のとおりのポーラとの関係での仕事の状況等を踏まえ、当日自分自身会社にいた可能性が強いと述べており(前記岡田証言)、そうだとすると、その仕事の状況からみても午前一一時頃前林が外出し、午後二時過ぎ頃まで戻らなかったとすれば、そのことが岡田の印象に残らないはずはなく、前林としても外出しにくい状況であったといわざるをえない。このように、一二月一七日当日には特別な事情があったことを検察官は看過しているといわざるをえないし、小規模会社である岡田香料の勤務管理や前林の仕事内容について主張するところも、一般的にすぎて、逆に小規模の私企業であるからこそ、従業員一名といえどもおろそかにはできず、賃金を支払う以上はそれに見合う仕事をしてもらわなければならないということで、それなりにルーズにはできないという面があることを考慮していないきらいがある。

以上によると、一二月一七日の前林の岡田香料からの外出は検察官主張のとおり昼休みを挾んでの約三時間くらいであるとしても、証拠上これを肯認することは困難であるというほかない。

(三) 前林名義の普通預金口座の払戻し

(1) 検察官は前記(一)(2)の一二月一七日の富士銀行吉祥寺支店での前林名義の預金口座からの払戻しについて次のとおり主張する。

「一般に、銀行の普通預金の払戻しに際しては、所要の事項が記載され、届出印と合致する印影のある払戻請求書が提出されれば、格別相手方の身分証明を求めることなしに手続が運ばれるものであることは周知の事実である。現に銀行店舗に出頭するものが口座名義人と異なる性別の者であると認められる場合であっても、この取扱いは変わらない。更に、払戻請求書用紙は、何人でも店頭において容易に入手しうるものであるから、あらかじめ銀行の店舗外において払戻請求書を作成し、第三者にこれを携行させて払戻しの手続を行わせることに何ら支障はないのである。本件払戻請求書(符120)の記載を見れば、一見して明らかなように、署名欄の記載とその他の日付け・金額欄の記載とでは、文字が違っており、筆記用具が異なるものと認められるのである。右のような事実に徴すると、右払戻請求書の作成自体、署名とその他の欄の記載とが、別の機会ないしは別個の者によってなされた疑いを払拭できないのであって、極めて異常なものというほかなく、右預金払戻しの事実をもって、前林が自ら預金払戻しのために富士銀行吉祥寺支店に赴いたものとは到底言いえないのである。」(論告七八頁・七九頁)

(2) なるほど銀行における普通預金払戻手続に関する一般論はそのとおり肯認できるし、前林作成名義の右請求書を検すると、検察官指摘のとおり署名欄の記載とその他の日付・金額の記載とでは文字の濃さが明らかに異なり、そのような推論をさし挾む余地が全くないとはいえないようであるが、右署名欄の記載は、関係証拠中の前林自身の署名等と酷似しており、またその他の欄の記載はアラビア数字のみであって速断はできないが、明らかに前林の筆跡とは異なるともいえず、また、筆具が違うかどうかも定かではなく、ボールペンを取り換えたかあるいは記入のときに下にマットを敷いたか否かなどによって生じたと考える余地もないではない。そして、右普通預金が前林の全く私的なものであることは明らかであり、岡田香料の同僚等にこの払戻し手続の代行を頼んだということは証拠上全くうかがわれないところである。なお、検察官は、日石事件当日前林が住民票謄本の交付を受けたうえ、陸運習志野支所に行った事実をアリバイ工作であると強く主張しているが、土田運送についてはこの点の主張がさほど明確でなく、前林アリバイが成立しないことを主張するにとどまるようである。しかしながら、土田爆弾搬送当日増渕の指示により岡田香料に出勤し、出勤カードに打刻のうえ勤務中同会社を抜け出し、当日の預金払戻しを別人に依頼して行ったとするならば、これらはまさしく巧妙なアリバイ工作の一つといわざるをえないと思われるところ、次に検討するような前林アリバイの主張の出方、その立証の経緯、前掲の土田搬送関係自白の出方などからみて、これをアリバイ工作とみることは極めて困難であるというほかない。例えば、検察官の指摘する前林名義の請求書の記載上の不審点も、もしこれがアリバイ工作だとするならばなぜ前林がそのようなことをしたかが逆に問われなければならないであろう。つまり、アリバイ工作であるならば、検察官の指摘するとおり請求書用紙をあらかじめ入手し、すべて自分で記載したうえ、別人に依頼したはずであって、いやしくも不審を抱かれるようなことは当然避けたはずであるからである。

(3) 右前林の預金払戻しに関する主張の出方・立証の経緯をみると、前林の捜査段階における供述中にはこの点への言及は全く見当らないところ、四八年七月以来前林の私選弁護人となった弁護士田中健一郎の証言(一七〇回田中証言)によると次のような経緯が認められる(このような証人の立場を十分に考慮し、その証言の信用性は慎重に判断したことはいうまでもない。なお括弧内で右証言の裏付けとなる書証等を示した。)。

同弁護士は前林が勾留中であった四九年九月頃前林から、四六年一二月のボーナスを富士銀行吉祥寺支店の自由積立定期預金にしているかもしれないので調べてほしい旨調査を依頼され、同年一二月末には東京弁護士会長を通じて同支店に照会請求(照会請求書一三九九一)をし、五〇年二月に同支店からの回答(回答書一三九九二)を入手したところ、前林のいう自由積立定期預金は四六年一二月二八日にしているが、普通預金を同月一七日に払い戻していることが判明した。そこで同弁護士はさっそく同支店に電話で問い合わせ、伝票等の有無を確かめ、五〇年二月末に東京弁護士会長あてに前記前林名義の請求書(符120)の写しの送付を得て(回答書一三九九七)、前林に筆跡の確認を求めたところ、前林は当時銀行へは昼休みにしか行けないというので、その頃同支店に払戻しの時刻が判らないか照会すると、一年以内のものであればコンピューターの磁気テープで判るが一年以上前の分は判らないと言われ、同弁護士としてはいったんは時間の裏付けはとれないものと考えた。しかし、五二年四月頃になって他の弁護士の助言もあって右請求書の原本(符120)を裁判所(当庁刑事第九部)に取り寄せてもらうこととし、その後この請求書(写)を検討すると、いろいろの数字や印があり、番号札の記載もあるので何か判らないかと考えて同年五月二八日同支店に赴き竹田忠営業第一課長に会って請求書中の記号等の読み方を教えてもらい、他の四六年一二月一七日の分の伝票全部(符119)を見てもらううち、右竹田課長が前林の請求書に矢萩という得意先係の人の印があることから払戻しは昼休みだろうし、しかも早い時間だろうとか、右請求書中のオンライン端末機の進行番号によっても大体の時刻が判ると説明したので、同弁護士は大変な事実が判ったと考えて右竹田課長に証人となってくれるように依頼した。しかし、その頃は刑事第九部の公判は検察官立証が進行中であり、五四年三月に前林の保釈前にアリバイ関係の証拠があればその取調べをするということになったので、竹田課長に連絡をとると、すでに転勤しているということで断られ、富士銀行本店との交渉などが必要ということになり、五四年に行われた岡田香料関係者の証人尋問においても誰か前林に代わって同支店に行ってないかが問題とされている。その後同弁護士らにおいて、竹田課長に代わる証人等の交渉、打合わせや前記一二月一七日の伝票全部の分析・検討を進め、刑事第九部で五六年一〇月に弁護人側の冒頭陳述でこの預金払戻しを土田邸事件のアリバイとして正式に主張し、引き続いてその立証を行い、その結果が公判調書抄本の形で本件においても証拠とされるに至ったのである。

一般に、あまりに遅れたアリバイ主張及び立証は、それ自体不自然で疑わしいといわれてもやむをえないものであり、検察官側の反証も困難であって、その判断には慎重であるべきであることはもちろんではあるが、以上のような右前林の預金払戻し及びその時間の判明の経緯のほかその証拠ももっぱら第三者である銀行が保存していた四六年一二月当時の伝票等の分析に依存していること(前林自身が手続したかどうかは直接これらの証拠によるのではない。)を考えると、右アリバイ主張・立証が遅きに失しているとして、これを軽視することは相当でないということができる。

次に、右前林アリバイの証拠自体を検討すると、四六年一二月一七日当時同支店には普通預金の払戻し・預入れを処理するオンラインコンピューター端末機(セイバー)は三台あり、うち二号機がメインセイバーであり、一号機及び三号機は補助的に使用されていること、各セイバーは進行番号を記録し、特に二号セイバーではその番号のみからでもごく大雑把な時間の確定はできること、同支店では昼休みを二交替制とし、午前一一時三〇分から午後一時を〇時一五分で四五分ずつに二分し、交替で休むこととし、その間は矢萩節など得意先係の人が普通預金の受付けをしていること、当時の勤務体制及び当日分の二号セイバーの分の伝票を全部精査すると、二号セイバーの進行番号の一二〇前後からが昼休みの前半で、二二五前後からが昼件みの後半で、三二五前後までで昼休みが終わっていることがわかり、前林の分は二一一であるから昼休みの前半の終わりに近くに二号セイバーに入れられたと推定されることが明らかである。

さて以上によると、前林の預金払戻しの日時が右のように推定されるに至ったについてはかなりの幸運があずかっているということができよう。第一に受付けが矢萩節という得意先係の人によってなされたこと、第二に二号セイバーによって処理されたこと、第三に当日の伝票全部がそのままそっくり保存されていたこと、第四に田中弁護士が矢萩を知っている竹田課長が転勤する以前に同支店を訪れたことなどである。前林が払戻し時間がこのようにして割り出されることを予期しつつアリバイ工作をしたとするならば、同女がよほど銀行内部の事情に詳しいとともに、同支店内にも協力者がいなければならないことになろうが、前林にそのような知識があり、かつ銀行内部にも協力者がいたとする証拠はなく、右の点はあくまで一つの想像にすぎないものということができる。

(四) 被告人の自白の変遷中前林に関係する点について

前記2(五)と(七)を比較すれば明らかなように、被告人の土田搬送自白にはかなり重要な変遷があるが、以上みてきた一二月一七日の前林の行動と関連する部分をより詳しくみてみると、まず、被告人は前記2(五)掲記の初自白から4.17検・員まで一貫して、一二月一七日は増渕・堀及び前林を高橋荘から乗せて帰りも高橋荘まで送ったとし、堀と前林はそれぞれの勤務は休んだように述べていたが、この出発時及び帰着時の高橋荘での状況等についての被告人の自白は詳細であり、特に前林に関して述べている部分を摘記すると、次のとおりである。

(出発時) 「そのとき、私はアパートの前の電柱の横に車をとめ鍵をかけて階段を昇り二階の増渕の部屋を訪れました。ドアをノックしましたところ、前林が出て来て私を部屋の中に案内しました。」(4.11員(A))「……増渕の部屋をノックして、今日は、と言うと前林があけてくれたので中に入ると部屋の中には増渕と堀がいました。」(4.12検)、「……部屋にいた前林はスラックス姿……と思います。」(4.17員)

(帰着時)「高橋荘へ着いてから私はお茶を一杯ごちそうになり自分の家の仕事もあったので堀よりも先に帰りました。」(4.11員(A))、「高橋荘に着いてから前林がお茶を出してくれたのでお茶一杯を飲み、私はすぐに部屋を出て車で家に帰ったのです。高橋荘でお茶を飲んでいる時、増渕が「これで皆終った」というと、前林と堀がうなづいていました。」(4.12検)、「前林は高橋荘に帰ってきてから、今日は会社は休んだ、と言っておりました。」(4.17検、4.17員にも同旨の供述がある。)

ところが、前記2(七)記載のとおり、被告人はその後この高橋荘から出発して高橋荘に戻ったとの点を全く改め、いずれも阿佐ケ谷駅南口と変更し、また、ローレルに堀を乗せたことはないと述べるに至っている。そして従前堀について嘘をつき罪を着せようとした点及び出発点を高橋荘であると偽っていた点については前記のとおりそれぞれその理由が録取されているが(4.20員、4.21員、4.25検(A))、前林が当日欠勤していた旨事実に反する供述をしていたこと及び帰りを高橋荘と述べていたことの理由については何の説明もなされていないし、また被告人がこのような点につきこのようなまことしやかな嘘を述べなければならなかった合理的理由は見い出し難いところである(検察官もこの点については何も言及していない。)。

次に、一二月一七日の時間的な関係につき、被告人の供述は次のとおり変化している。

(自宅を出た時間)

「一二時頃」(4.12検、4.17検・員)、「午前一一時二〇分頃」(4.25検(A)) (増渕・前林を乗せた時間)

「一二時半頃」(4.9取報)、「正午すぎ頃」(4.11員(A))、「一二時半頃」(4.12検、4.17検)、「一二時三〇分か四〇分頃」(4.17員)(以上は高橋荘を前提)

「正午少し前」(4.21員)、「午前一一時四〇分頃」(4.25検(A))、「午前一一時四〇分か五〇分頃」(4.26員)、「午前一一時四〇分か四五分頃」(4.28検)

(駿河台下交差点付近に到着した時間)

「午後二時か二時半頃」(4.12検)、「午後一時ちょっとすぎ」(4.21頁)、「午後一時前後頃」(4.25検(A))、「〇時四〇分か四五分頃」(4.28検)

(駿河台下交差点付近で待っていた時間)

「三〇分位」(4.9取報)、「二〇分位」(4.11員(A))、「一五分か二〇分位」(4.12検、4.21員)、「一五分位」(4.25検(A))、「一五分か二〇分位」(4.26員)、「一五分位」(4.28検)

(増渕や前林を送って降ろした時間)「午後五時半頃、暗くなりかけた頃」(4.12検)、「四時半か五時頃」(4.17検)(以上は高橋荘を前提)

「三時一五分頃」(4.21員)、「三時前頃」(4.25検(A)、4.26員)、「一時五五分か二時頃、二時を少しまわっていたと思う」(4.28検)

(自宅に戻った時間)

「午後五時半頃」(4.9取報)、「夕方近く」(4.11員)、「午後六時頃」(4.17検)、「夕日が沈みかけていたがまだ明るい頃」(4.17員)

被告人が、当初前林の当日の欠勤を前提とした自白をしていたことはこのような時間の点からも明白であるが、ここで注目に値するのは、被告人が土田爆弾被告人方保管を自白し、出発も帰りも阿佐ヶ谷駅南口と変えてからも、前林の昼休み時間を挾んでの外出によるアリバイ工作があったにしては極めて不自然な時間を述べていることである。4.21員では阿佐ヶ谷駅出発が正午少し前で帰着が午後三時一五分頃とされ、前記の計算によると、やや少な目にみても、前林は岡田香料を午前一一時半頃から午後三時半頃までの約四時間も抜け出していたことになるのである。以後特に市川(検)においては、この時間を短かくすることに腐心した形跡が明らかであり(もっともこの間も警察官の方はこのような検察官の配慮に水を差すようなこともしている。)、4.28検においてようやく前林の外出時間が前記のとおり約三時間二〇分程度に短縮されているのである。このような時間の点の供述の変遷をみると、これが被告人の記憶喚起に基づくものではなく、前林の出勤をアリバイ工作とみた取調官のリードによるものであることは明らかというほかないであろう。

なお、前林名義の預金払戻しがアリバイ工作であったとすれば、被告人と増渕の土田邸事件の後にも続く頻繁な交際状況から考えて、増渕・前林が被告人にこのことを知らせていなかったとは到底考えられないところ、被告人は当初前林の土田爆弾差出しを午後二時か二時半頃と述べ、アリバイ主張があまり意味を持たなくなる(爆弾差出しがこの時刻だとすると、一二時一五分に富士銀行吉祥寺支店を出たとしても、必ずしも犯行は不可能ではない。)ような供述をし、出発時刻の変更はむしろ取調官のリードによって変更しているのであり、この点からしても預金払戻しをアリバイ工作とみることが困難であることは明らかである。

(五) 増渕自白中の前林アリバイ工作の不合理性

増渕は四月九日前林の土田邸事件関与を自白して以来、前林の昼休みを挾んだエスケープというアリバイ工作を一貫して認めているのであるが、前林の出勤がアリバイ工作であるとすると、何よりも不合理なのは、何故に国電利用を考えなかったのかということである。四六年一二月一七日当時の吉祥寺・御茶の水間の国電(中央線)の所要時間は快速で上りが二七分、下りが二五分、普通でも上りが三四分、下りが三五分であって(日本国有鉄道東京西鉄道管理局長作成の回答書一九九二四)、往復とも快速電車を利用し、お茶の水駅と南神保町局の間を徒歩とすれば、岡田香料と吉祥寺駅間の往復が各約一〇分、国電乗車時間が往復で五二分、お茶の水駅から歩いたとしてもせいぜい往復三〇分もあれば足りたと思われるので、電車の待ち時間を考慮に入れても、前林の外出時間は二時間以内におさまることは明らかである。更にお茶の水、南神保町郵便局往復及び吉祥寺駅から岡田香料の間、タクシーを利用するなどして急げばあるいは一時間三〇分程度でも可能であったかもしれず、そうすれば昼休みを引くとわずか三〇分程度の外出で足りるわけであり、自動車利用の場合に比べて時間は大幅に短縮されることとなる(しかも、このような所要時間はほぼ正確に予測できる。)のである。

もっとも、往路については、前林にしても土田爆弾を持って電車に乗ることを避け、自動車利用を考えたとしてもさほど不自然とはいえないが、前林は当時指名手配になっていたわけでもないのであるから国電を利用し、爆弾を持った増渕と南神保町局付近で合流することも可能であったはずである(日石事件の甲女が前林であるとすると、増渕らは既にこの方法をとっていることになる。)。また、この点は譲るとしても、帰りを急いでいるはずの前林が何故に被告人の車に同乗し、これよりはるかに早く帰着できる国電にお茶の水駅から乗らなかったのかが疑問として残るのである。上司等に気付かれないように外出し、これをアリバイ工作にするというのに往復とも自動車利用というのはあまりにも時間におうようにすぎて不自然といわざるをえない。

(四) 前林アリバイ(預金払戻し)の本件における意義

これまでの検討により、一二月一七日正午すぎ頃の富士銀行吉祥寺支店における前林名義の普通預金払戻しはアリバイ工作ではありえず、したがって、前林自身が行ったものと認めるのが相当であり、被告人のローレルに乗って午後一時頃土田爆弾を南神保町局に差し出したという検察官の主張を前提とすればほぼ決定的なアリバイであるといっても過言ではない。しかし、この前林アリバイは検察官の右主張を前提にしてはじめて成り立つ相対的アリバイにすぎず、これを離れて考えれば、前林自身についても絶対的アリバイとはなりえないことが明らかである。つまり、土田爆弾が南神保町局に差し出された日時は一二月一七日午前一〇時〇七分頃から午後五時までであることまでは明らかであるにせよ、この時間帯の中のいつということまでは確定できないのであるから、前林自身が預金払戻しを行い、一方で電車等を利用して土田爆弾を差し出すことは不可能ではないし、増渕3.13検のように増渕が自分で直接土田爆弾を差し出したということであれば前林アリバイは無意味である。しかしながら、このように、一二月一七日正午すぎ頃に富士銀行吉祥寺支店で前林が普通預金の払戻しをしているという事実は、被告人の土田搬送自白と真向から牴触するものであり、その自白の信用性をほとんど全面的に否定するものであることは間違いないところである。

5 自白の出方・変遷・相互矛盾(被告人以外の者の自白を中心に)

6 被告人の自白の経緯及び内容をめぐる諸問題

7 被告人のアリバイ問題

三 爆弾製造関係

1 検討の範囲について

2 爆弾製造関係自白の概要

3 右自白及び検察官主張の全般的問題点

4 爆弾製造関係自白に関する若干の問題点の検討

5 土田爆弾製造見張りの検討

四 その他の準備活動及び謀議関係

1 検討事項の概要等

2 筆跡準備関係

3 下見関係

4 爆弾保管関係

5 謀議関係

第四 補充的考察

一 その余の証拠関係と検察官立証の制限について

1 その余の証拠関係についての説明

2 増渕らの爆弾闘争志向関係の立証を制限した理由

――以上、省略――

二 証拠能力をめぐる主要な問題点

1 増渕3.7取報と初自白との関係

(一) 増渕3.7取報の内容及び増渕が三月一三日に初自白をした理由についての公判供述

増渕3.7取報によると、三月七日の高橋(補)他三名による増渕の取調べは午後一時三〇分から午後一〇時一五分まで警視庁刊事部管理課二〇号調室で行われたようであるが、同取報に取調べ状況として次のような記載がなされている(文字の一部修正及び句読点の付加以外は原文のままである)。

「1 八機、文化センターの関係において嘘を言っていたことを強力に衝いて、今後は中途半端な態度で対処できない旨を強調し、弁解を聞かない姿勢で被疑者の口を閉じさせた上すべてを清算しろと向け、午後二時三〇分「土田邸と日石を清算しろ」と切り出したところ、態度としては平静を装い、「え、僕が土田邸をやっているというんですか。ちょっと待って下さいよ。あれはいつだったんですか。僕はやってませんよ」と声を荒げるわけではなく、やや弱くキョトンとしたような状態で若干しどろもどろに弁解する。

2 右時点における表情は、顔面色は普通なるも、顎から下頬にかけて若干鳥肌が立った。

3 この後、総べて清算して綺麗な人間となって再出発を誓えるよう十分反省することを説得すると、力強い言葉に対しては、「やってませんよ。そのころ闘争をやってませんよ」と声強く反撥し、耳元に近く静かに「次元の低いことをいうんじゃない。われわれはこれだけの重大事件をぶっけて調べるにはプロの捜査官として相手の人権を尊重しながらやっているんだ。あやふやなことでなく確たる証拠、資料を積み重ねて、君にやっているのかどうかと聞いているのじゃなく、君がやったこの事件を清算する決断を下すように話しているんだ」と説得すると、何の反論もできず、うつろな目を視点の定めなきところに向けている。

4 午後五時一五分から同六時一五分まで夕食休憩とし、その後説得を続け、午後八時、土田邸被害者の写真を顔前につきつけ、語気強くあらゆる言葉をぶつけて反省、清算を迫ると、「爆弾闘争そのものは間違っていました。十分反省して清算します」と申し立て、八機、文化センターの隠していた点を申し立てたので、そんなことは聞いているんじゃないとはねつけると、しばらくして「紙と鉛筆を下さい。自分の気持を書く」と申し立てたので「心の底から反省できるまで何も聞かん」とはねつける。こちらが並々ならぬ心構えでやるという言葉を察し、「自分も頑とした態度で立ち向います。それはやっていないといい張るのでなく、白黒をつけてもらうためにやります」と申し立てる。

5 この後しばらく説得してから午後九時一五分再び写真をつきつけ、「人間の血が流れているなら被害者、仏様の前に線香でもあげる、あるいは申しわけないと涙の一つも流してみろ」というと、「爆弾事件は申しわけない。でもこれはやっていない」と主張した。その際言いわけは聞かんと説得すると、うつろな瞳で捜査官をにらみつけるような態度をとっていたが、入房に際しよく考えておけと申し渡すと「はい」と答えていた。」

右は高橋(補)の補助をしていた坂口清(部)の筆になるものであるが、高橋(補)も、証言においてこのニュアンスを弱めようとは努めているものの、書かれた内容については否定はしていないのである(九一回・九三回・九五回高橋証言)。

右の取調べは三月六日八機九機事件について起訴された増渕に対する余罪取調べとして行われたものであるが、右取報からうかがわれるその取調べの厳しさには一考を要するものがあり、弁護人らがその違法性を強調することにも無理からぬものがあるといってよいであろう。

しかしながら、右取報が開示される以前の増渕証言(一九回ないし二三回、二五回、二六回・三〇回、四九年六月一七日から五〇年一月一三日まで)においては右取報の内容に符合するようなことはほとんど述べられていないのであって、日石土田邸事件に関してはじめてなされたこの三月七日の取調べが増渕にあまり印象づけられていないことがうかがわれるのである。また、三月一三日の初自白に関する増渕の法廷弁解の面からこの点をみていくと同人は初自白は津村(検)に対してではなく、その前に高橋(補)に対してなしたものとしたうえ、3.13検と3.13員の間の内容の相違は取調官の誘導の相違に起因するとしているのであって、この弁解がにわかに措信しがたいことは前述(第二・三(3)(二))したとおりである。そして、高橋(補)らに対して初自白をなすに至った理由としては、もちろん、取調べが増渕を日石土田邸事件の犯人だと決めつける厳しいものであったとは強調しているものの、他方、取調官から、前林・江口も認めているといわれたとか、江口が逆うらみをして述べていると思ったとか、土田・日石のことはさほど大きなことと思っておらず、やっていないことは確実だから反証が容易だと思ったなどとも述べており(二三回・二五回・二六回増渕証言)三月七日から取調官の態度が急変したことは特に強調せず、ましてやそのことが自白の原因となったなどという趣旨は全く出ていないのである(増渕期日外証言によっても3.7取報の記載内容のことが初自白に直結したという趣旨が明瞭になっているわけではない。)。

なお、右増渕の法廷弁解のうち、取調官から前林・江口も認めていると告げられたという点は、これを否定する右高橋証言をまつまでもなく措信しがたいというほかない。右弁解のとおりだとすると、高橋(補)らは前林と江口が日石土田邸事件への関与を否認しているのに、二人とも自白していると告げて増渕をあざむいたということになるが、これまでの検討においても日石土田邸事件の捜査において取調官が他の共犯者等から実際になされた自白をもとに被疑者を誘導したことは多々認められるところであるが、他から自白がないのにあったなどと故意に嘘をついて被疑者を陥れたというようなことまでは存しなかったのであって、高橋(補)らが積極的に両者が自白しているなどと告げたとは考えがたいところである。

(二) 増渕3.7取報の意義

ここで、もう一度3.7取報の内容を振り返ってみると、取調官が並々ならぬ気迫をこめて増渕を追及したことが強調されており、表現も「弁解を聞かない姿勢」「力強い言葉」「語気強くあらゆる言葉をぶつけて」などという抽象的なものが多く、同様の傾向は発問状況の要約にも見受けられるのであって、右取報は、必ずしも三月七日の増渕の取調状況を彷彿とさせるものではないのであり、被害者の写真をつきつけることが場合のいかんを問わず、その後得られた自白の任意性に影響するともいえないであろう(現に増渕自身、右にみたとおり土田、日石は大したことではないと思って認めた旨述べており、そのような写真を見せられたことの影響など全くなかったかのようなことを述べている。)。また、当時捜査官の手許には増渕を日石土田邸事件に結びつける証拠としては佐古プランタン供述及び檜谷供述くらいしかなかったのに、「あやふやなことではなく確たる証拠、資料を積み重ねて」などと述べて増渕を追及したという点についても、増渕自身右にみたとおり、日石・土田についてはやっていないという反証は容易だと思って自白したなどと述べているのである。

なお、右取報はもともと横内公安第一課長あての警察部内における報告文書であって、必ずしも部外の者の目に触れることを予定して書かれたものでないが、土田邸事件は警視庁幹部の夫人等が殺傷されたという特異な重大事件であり、増渕に強い嫌疑がかけられていたものの、高橋(補)らとしても増渕から自白が得られるという確信は持てなかったはずであって、仮に捜査がこのまま行き詰まるようなことがあったとしても、自分たち増渕の取調担当者としては並々ならぬ意気込みで精一杯努力したものであることを取調状況報告書に強調し、自己らの努力を上司に訴えんとしたであろうことも十分考えられるのである(もっとも、この観点からすると、三月八日から一二日まで増渕が否認している間の取調状況報告書が全く存しないとされているのは不思議な感を禁じえないといわざるをえないところでもある。)。

いずれにせよ、本件においては、増渕3.7取報は増渕自白の証拠能力を否定する絶対的価値を有するものではないというほかない。

2 増渕・堀に対する起訴後の取調べをめぐる問題点

(一) 起訴後の余罪取調べと増渕の三月一三日の自白

三月七日から同月一三日までの増渕に対する日石土田邸事件についての取調べは、同事件について逮捕・勾留することなく、三月六日起訴にかかる八機九機事件及びその前の二月一二日起訴にかかる米文化センター事件の各起訴後の勾留を利用し、身柄を引き続き麹町警察署留置場に留置したまま、いわゆる余罪の取調べとして行われたものである(前記第一・五4(一))。ところで、このような起訴後勾留中の余罪取調べについては、取調受忍義務の有無やこれが無いとした場合にそのことの告知を要するのではないかといった議論の存するところであるが、本件においてはその事実関係からすれば、このような議論に立ち入る必要はないように思われる。

まず、三月七日からの日石土田邸事件の取調べにおいて、増渕が警視庁本庁取調室への同行を拒否するような言動を示したことも、また、取調べ中否認はしていても取調べそのものを拒否する言動に出たこともないことが明らかであるし、増渕はつとに弁護人を選任しており、右取調べ期間中の三月九日にも弁護士村田寿男が二五分間にわたって接見していることが明らかである(接見復命書一二二二八参照。起訴後であるから、弁護人の接見に起訴前のような制約はなかった。)。取調時間も連日夜九時ないし一〇時まで行われているとはいえ、取調べの開始はいずれも午後一時ないし二時くらいからと認められ(出入簿による。但し三月一三日は午前一〇時二〇分に出房している。)、この種の重大事件の取調べとして許容されないほどの長時間とはいえないのであって、このような事実関係に鑑みると、仮に取調受忍義務がなく、しかも事前にその告知を条件としてはじめて余罪の取調べが許されるとの考えをとるとしても(当裁判所がこの考えに与するというわけではない。)、そのような告知をしなかったことと三月一三日の津村(検)への初自白との間の因果関係を肯認することは困難といわざるをえないのである。

したがって、この起訴後の余罪取調べという面から増渕の三月一三日及びそれ以降の自白の証拠能力を否定することができないことは明らかである。

(二) 起訴後の起訴事実取調べと四月五日以降の増渕・堀自白

増渕及び堀は三月一四日日石事件・土田邸事件及びピース缶爆弾製造事件で逮捕され(但し堀はピース缶爆弾製造事件につき三月一三日に逮捕された。)、三月一六日右三つの事件につき勾留され、勾留期間延長後、勾留期間の切れる四月四日に土田邸事件及びピース缶爆弾製造事件につき勾留中のまま起訴され、日石事件の処分は保留されたままであった。しかし、翌四月五日以降もそれまでと同様右両名に対し日石土田邸事件の相当長時間にわたる連日の取調べが行われ、多数の自白調書が録取されていることはこれまでにみてきたとおりである。そして、日石事件と土田邸事件の捜査及び証拠上の不可分一体ともいうべき密接な関係から、当時検察官としては、日石土田邸事件という枠組みで事件を受けとめ、日石事件の十分な解明なしに土田邸事件の公判を維持していくことは困難であり、また土田邸事件の十分な解明なしに日石事件の起訴不起訴についての適正な判断も困難であると考えていたであろうことは明らかである。このことは当時の証拠状況からみて当然のことといわなければならず、四月五日以降の取調べは事項的には日石事件に関するものであっても起訴事実である土田邸事件に関する取調べともみられるし、逆に事項的には土田邸事件に関するものであっても余罪である日石事件に関する取調べともみられるという二面的性質を帯びているとみるべきであり、これを表面的な供述調書の記載内容からみて土田邸事件、日石事件関係に分類してそれぞれにつき別異の法的判断を加えることは相当でないといわなければならない。したがって、本件で検察官から取調べ請求されている四月五日以降の増渕・堀自白はいずれも、起訴後の起訴事実に関する取調べ(捜査官による被告人の取調べ)の結果得られたものということになると同時に、余罪である日石事件に関する取調べ(被疑者の取調べ)の結果得られたものといえることになろう。

そのうち後者の面については、増渕関係では右(一)に述べたところがほぼそのままあてはまるし、堀関係でも前記第二・三4(一)のとおり極めて頻繁で長時間に及ぶその弁護人との接見にもかかわらず取調べそのものには応じているのであって、やはり増渕関係と同様にみることができるであろう。

問題は前者の被告人の取調べという面であり、この点については、種々の見解があるが、判例は「起訴後においては被告人の当事者たる地位にかんがみ、捜査官が当該公訴事実について被告人を取り調べることはなるべく避けなければならないが、これによって直ちにその取調べを違法とし、その取調べの上作成された供述調書の証拠能力を否定すべきではない。」としているのであって(最高裁判所昭和三六年一一月二一日第三小法廷決定・刑集一五巻一〇号一七六四頁、なお同昭和五七年三月二日第二小法廷決定・裁判集刑事二二五号六八九頁参照)、当裁判所もこれに従うのを相当とするのである。なお、右判例が起訴後における当該公訴事実に関する被告人の取調べをなるべく避けるべきであるとしている点も、取調べうる事項が起訴前の捜査の補充的事項に限られるといった形式的制約を設定する趣旨を含むものではないと解される。また、増渕・堀の自白は本件においては被告人以外の者の供述を録取した書面になるのであって刑事訴訟法三二一条一項二号あるいは三二八条によって証拠調べ請求されているのであって、仮に増渕・堀に対する取調べに手続的瑕疵があるとしてもそのことが右各法条による証拠能力の否定に直ちにつながるとみることは困難であろう。本件における土田邸事件の起訴後の増渕・堀の取調べの必要性についてみるのに、前記第二及び第三の検討で明らかなとおり、日石事件、土田邸事件とも極めて複雑困難な事件であることが明らかであり、増渕・堀はこれに加えてこれまた難件であるピース缶爆弾製造事件につきあわせて逮捕・勾留されていたのであって、そもそも、わずか二〇日余の期間内にこれら三つの重大事件についての被疑者らの取調べを尽くしてしまうことを要求することは捜査機関に不可能を強いるものといっても過言ではないであろう。また、四月四日までの捜査においても増渕・前林・堀・江口の四名以外の被告人ら七名から、日石土田邸事件について何らかの関わりがあることをうかがわせる供述がかなり出ていたのであり、これらの供述の真偽を増渕・堀らに問い質し、明確にすることは日石土田邸事件の解明につながるほか、四月八日の榎下自白以降は日石土田邸事件の共犯者の範囲が大幅に広がり、捜査は新展開をみ、以後被告人ら七名が日石土田邸事件で続々と逮捕・勾留されることとなったのであって、増渕・堀についても、同人らが取調べに応じて具体的な供述をする以上は、榎下らの自白の真偽を確かめる必要があったのは明らかであって、土田邸事件について起訴済であるからといって、これら両名の取調べをしないまま、増渕らについての公判に備えるということは、はなはだ乱暴なこととも評しうるのである。また、取調べる以上は共犯者らの自白と食違いがあれば単に弁解を聞くというにとどまらず相当程度追及的になることもやむをえないことといわなければならないのである(本件のような場合、増渕の四月四日以前の自白のあいまいな点等の補充的事項の取調べに限定さるべきであるとして取調べ事項ないし程度を限定することは、四月八日以降の榎下らの自白内容をみれば非現実的であり、取調べそのものを否定するに等しいし、元来取調べというのは被疑者・被告人らの応答いかんによってどのようにでも発展しうる動的なものであって、取調官が補充的な質問をしたのに対しても、思わぬ新自白が得られることもあるのであって、それが補充的事項の域を越えるからといって取調べの続行ないし供述調書への録取を断念することを要求するのは理にかなわないところというべきであろう。)。更に、前述のとおり、増渕・堀自身の日石事件の起訴不起訴の決定のためにもその取調べの必要性は大だったというほかない。

他方、増渕・堀の「被告人の当事者たる地位」という点についてみると、両名とも自由にそれぞれの弁護人と接見していたことは前述のとおりであり、検察官側のみならず弁護人側としても、他の共犯者らの取調べが済み、その起訴不起訴及び関連事件である日石事件についての増渕らや他の共犯者らの起訴不起訴の大勢が決まるまでは、十分な公判活動の準備はなしえなかったものと思われ、他の共犯者らの取調べの間これと並行して増渕・堀を取調べたとしても、同人らの当事者としての地位や防禦権を不当に害したことにはならないと思われるのである(本件において増渕・堀の土田邸事件及びすでに起訴済であった諸事件のみについて可及的速やかに第一回公判期日を開くように増渕・堀の弁護人らが希望していたことはうかがえず、かえってできるだけ多くの共犯者らとの併合審理を希望していたことが看取される。)。

このようにみてくると、四月五日以降の増渕・堀の取調べは右判例の趣旨に反するものとはいえないと認められるのであって、本件において起訴後の取調べであるということによって、四月五日以降の増渕・堀自白の証拠能力を否定することはできないものというほかない。

3 被告人らの犯人隠避事件といわゆる別件逮捕・勾留の問題

被告人榎下・中村(泰)・金本及び松村の五名はそれぞれ日石事件や土田邸事件で逮捕される前に、東薬大事件で指名手配中の増渕を隠避させたということで逮捕・勾留されている(但し、中村(泰)・金本については勾留請求が却下されているし、被告人には他に銃刀法違反事件もあった。)ことは前記第一・五4(三)とおりであるが、弁護人はこの犯人隠避事件はいずれも軽微な事案であって、捜査官としては主として日石土田邸事件に関する取調べを目的として被告人ら五名を逮捕等したのであって、これは違法な別件逮捕・勾留にあたる旨主張している。そして、被告人ら五名に対し、犯人隠避事件での身柄拘束中に日石土田邸事件にも関係する事項の取調べが行われていることもまた事実である。

そこで、この点について考えてみると、まず右犯人隠避事件が軽微な事案といえるか否かであるが、たしかに被告人らの逮捕当時、増渕の東薬大事件については懲役一年、三年間執行猶予の判決が確定していたのであって、このように本犯が比較的軽い刑で終わっていることは、犯情を軽くみる大きな要素であるとはいえようが、犯人隠避罪の保護法益は国の司法作用であって、増渕は三年近くにわたって、指名手配を受けているにもかかわらず、逮捕を免かれ逃亡生活を続けていたものであり、被告人ら五名の容疑内容はこのような増渕に対し長期間あるいは多数回にわたって各種の便宜を提供したというものであってその犯情は必ずしも軽微とはいえないし、また、四五年から四七年にかけては過激派によると思われる爆弾事件等が続発しており、指名手配中の過激派のメンバーを検挙することはこの種事件の続発を防止するためにも焦眉の急を要することであったのであって、このような時期に、赤軍派に関係していた増渕を隠避させるということは、極めて反社会性の強い行為とみられてもやむをえなかったといわざるをえないのである。

次に、犯人の「隠避」とは「蔵匿以外の方法により官憲の逮捕・発見を妨げる一切の行為」をいうと解されており、しかも同一本犯について複数の隠避行為があっても一罪として取扱うべきものであるから、逮捕・勾留の被疑事実として列挙されている行為以外にも隠避と目すべき行為があればこれをもあわせて捜査し、処分が決せられなければならないのであって、被告人らに対する犯人隠避事件の取調べが逃亡期間中の増渕及び増渕と被告人らの間に介在する堀らとの交際状況全般にわたるのは当然のことといわなければならない。また、その逃亡期間中に増渕は日石土田邸事件を敢行したとして勾留・起訴されていたのであるから、取調官としては被告人らに対し、増渕が日石土田邸事件の犯人であることをも知りつつ隠避を続けたのかどうか、あるいは増渕がこの種の爆弾闘争を志向しつつ逃亡していることを知っていたのかどうかなどについて取調べが及ぶのも当然のことであって、増渕が日石土田邸事件の真犯人であることを知りつつ隠避行為を行ったとすれば、被告人らの犯人隠避の犯情は重いということになるし、更に進んで被告人らが日石土田邸事件について正犯ないし幇助犯の刑責を問われるほどに深入りしているということになれば、もはや東薬大事件についての犯人隠避どころではなくなり、日石土田邸事件の準備段階に入ったとみられる四六年九月以降については犯人隠避罪が成立するか否かすら疑問となってくるのである。このようにみてくると、検察官としても、被告人らの犯人隠避事件につき不起訴処分にするか、略式命令請求にするか、公判請求をするか等を決するためには、増渕らの日石土田邸事件についての知情ないし関与の有無・程度を把握することが必要不可欠であったことが明らかであり、被告人ら五名について結局犯人隠避事件の起訴がなされていないのは、いずれも日石土田邸事件について刑責を問われるに至っていることと密接な関係があるということができよう。

そしてこの種犯人隠避事件については関係者間の通謀等による罪証隠滅のおそれが大きいことも顕著というほかなく、現に被告人らも相当活発な口裏合わせ等の挙に出ていたことは前記第二・一1(四)のとおりであって、逮捕・勾留の必要性がないとは到底いいがたいのであるし、金本以外の被告人ら四名については捜査官らが当初から日石土田邸事件へ深く関与しているとの嫌疑を抱いてはいなかったことは明白であって、その疑いは取調べが進むにつれて濃くなって行ったものであり、右にみたような犯人隠避事件の処分決定上の必要もあるのであるから、これに応じて、特に勾留期間切れが迫ってくるにつれて日石土田邸事件への関与の有無・程度に関する取調べが多くなってきていることも無理ないのであって、これを違法と目すべきいわれはないというべきであろう。

以上によると、被告人・榎下・中村(泰)・金本及び松村の各自白について、いわゆる違法な別件逮捕・勾留という面からの問題は存しないというべきである。

4 取調べの苛酷さ一般について

被告人ら九名に対する取調べが連日長時間にわたり、取調べ態度にも極めて厳しいものがあったことは否定しがたいが、被告人ら九名の法廷弁解中、取調べの厳しさを強調する点にはかなりの誇張があり、また、自白の大半を取調官の強要、誘導等のせいにしている点も必ずしもそのとおり措信できないことは前述したとおりである(第二・一1(三))。被告人らの体力・気力・年齢・経歴・知能やその供述態度等を総合すると、右の取調べの厳しさをもって、直ちに違法な取調べと目するわけにはいかないであろう。このことは前林・江口の一貫した否認の供述態度をみればおのずから明らかということができよう。この両名は、検察官により、堀と同様増渕に次ぐ主犯格とされている者であって、その余の被告人ら七名よりは重要な役割を演じているとみられていたのであるから、いかに女性であるといっても、これら両名のみが、他と比べてゆるやかな取調べを受けたとは到底考えられないのである(現に両名に関する取調べ状況報告書等によっても、他とさほど変わりない相当厳しい取調べが行われたことが明らかである。)。しかも、両名とも被告人ら七名よりはるかに長期間身柄の拘束を受けつつ(四八年二月二〇日から)、取調べを受けていたのであって、前林に至っては当時妊娠中であり、嘔吐を催すこともあったという状況下にあったものであるが、いずれも一貫して否認し、江口は土田邸事件による起訴後警察官の取調べに応じない旨の意思表明をしたところ、すぐに東京拘置所に移監する手続がとられているのである。

5 被告人を除く増渕ら八名の検面調書の特信性

日石土田邸事件について自白した被告人を除く増渕ら八名の検面調書はその大部分が刑事訴訟法三二一条一項二号により取調べ請求がされているものであるが、増渕らの法廷弁解にも不自然で措信しがたい点が多いことはこれまでも再三指摘してきたところであり、更に一例を付加するならば、中村(隆)が、高橋荘を訪れたのは土田邸事件の後である四七年春頃の一回のみであるとして、複数の機会に経験したとしか考えられないようなさまざまの出来事をすべてこの機会におけるものとして供述している点をあげることができよう(一四八回中村(隆)証言)。このように右八名の法廷弁解中には増渕との交際関係をことさらに少なくしたり、時期を四六年ではなく、四五年あるいは四七年のことにしてしまっている点で不自然な点も見受けられるのである。当裁判所は右八名の自白の信用性は極めて疑問であると判断したものであるが、それは、右自白と物的証拠との対比、自白内容の個々的な分析、各自白の出方その相互間の影響の検討、種々のアリバイに関する証拠の検討、捜査当時作成された資料を基礎にした取調状況の分析等を多角的かつ立体的に行った結果はじめていいえたことであって、捜査段階における自白と公判供述の相対的判断、情況的判断にとどまらざるをえない各検面調書の採否決定の段階において、多くの不利益事実の承認を含む右各検面書の特信性を否定することは困難であったというほかない。当裁判所としてはこのように右八名の検面調書の証拠能力を肯定したうえで、その信用性を多角的に吟味した結果、その信用性は極めて乏しいとの判断に到達したのであるが、これはあくまで証明力のレベルの問題といわざるをえないのである。

6 信用性に乏しい膨大な自白がなされた原因等

被告人ら九名の自白の信用性はほぼ全面的に疑問であるといわざるをえないことは前記第二・第三の検討により明らかであるが、このような多くの虚偽自白がなされたについては任意性を否定するほどではないにせよ取調官の相当厳しい追求が大いに与っていることも否定はできないところである。しかし、それと同時に被告人らが取調官に迎合してそれぞれ友人関係にあった者について極めて不利な供述をし合っていたことが大きく原因しているといわざるをえないと思われる。

三月一四日増渕・前林・堀・江口が日石土田邸事件で逮捕されるや、マスコミ等によりこれら四名が真犯人であることは間違いないかのような大々的な報道がなされており、被告人ら七名もこのような報道に加え、取調官から増渕らは真犯人である旨繰り返し説得され、取調べ当時ほとんどの者がその旨信じ込んでいたのであり、そのためか、例えば、中村(隆)などは、自分よりも増渕・堀との交際が深い榎下などは本当に増渕らに利用されていたに違いないと思い込んだとしか思えないような供述を在宅段階からしているのであるし、中村(泰)は、被告人と増渕との交友関係からみて自分すら知っている指名手配のことを被告人が知らないはずはないと思ったのか、被告人の逮捕の決め手となった供述をし、坂本も大みそか二高口止めという不可解な供述をし、堀・榎下・松村更には中村(隆)をも巻き込み、自らは何も知らないとして逃げを打っているのである。榎下と中村(隆)との自白合戦ともいうべき責任のなすりつけ合いや、榎下の「聞いた話」をふんだんに盛り込んでの捜査官に対する迎合ぶりについてはすでにみたとおりであるし、同様の傾向は多かれ少なかれ、他の者にも見受けられるのである。このような供述が出ればこれに基づいて捜査官が名指しされた者に対し相当厳しい追及を行うのも当然のことといわなければならなず、いったん他人を陥れるような供述をした者が、他の共犯者らの供述に基づき逆に追及を受けるようになった際、自分は事件には無関係であると言い張ることが困難なことは明らかであろう。このようにして、被告人ら九名は相互に疑心暗鬼になり、捜査官への迎合を深めるとともに、いわばバスに乗り遅れまいとして自白を積み重ねていった状況が看取されるのである。

増渕も3.13員以来江口及び堀に責任を転嫁するような供述をし、堀も早くから、自分の刑責は否定しておきながら、金本・中村(泰)・榎下らにつき不利益となる供述をしている。また、被告人に関してみるならば、榎下という危険な供述者がいたことは極めて不幸なことであったというほかないのである。

これらの点を考えるならば、被告人らの本件自白の多くについてその信用性を否定すべきことはこれまで再三詳論してきたところであるが、しかし、それは信用性の問題であって、任意性・特信性の問題ではないといわざるをえないのである。

なお、このように述べたからといって当裁判所が被告人ら九名に対する取調官の追及のあり方をすべて是としているものではないことはこれまで各所で指摘して来たところであって、そのような取調べの問題性は自白の信用性の判断にあたって十分に考慮しているところである。

結語

以上詳述したとおりの理由により、その余の点について判断するまでもなく、検察官は本件公訴事実について合理的疑いをさしはさむ余地がないほどに立証を尽くしたとはいえないことが明らかであって、結局本件は犯罪の証明がないことに帰し、刑事訴訟法三三六条に則り被告人に対し無罪の言渡をすることとする。

よって主文のとおり判決する。

(早川義郎 安廣文夫 松尾昭一)

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