東京地方裁判所 昭和49年(ワ)4818号 判決 1978年1月30日
原告 吉田アサ
右訴訟代理人弁護士 高山俊吉
同 鳥生忠佑
同 梓澤和幸
同 斉藤義房
同 藤本えつ子
被告 豊信用組合
右代表者代表理事 宮村耕馬
右訴訟代理人弁護士 宮崎章
同 宮崎治子
右訴訟復代理人弁護士 伊藤喬紳
主文
一 被告は原告に対し金一五〇万円及びこれに対する昭和四九年六月一八日から完済に至るまで年五分の割合による金員の支払をせよ。
二 原告のその余の請求を棄却する。
三 訴訟費用はこれを二分し、その一を原告の負担とし、その余を被告の負担とする。
四 この判決は原告勝訴の部分に限り仮に執行することができる。
事実
第一当事者の求めた裁判
一 請求の趣旨
1 被告は原告に対し金五八五万円及びこれに対する昭和四九年六月一八日から完済に至るまで年五分の割合による金員の支払をせよ。
2 訴訟費用は被告の負担とする。
3 仮執行宣言
二 請求の趣旨に対する答弁
1 原告の請求を棄却する。
2 訴訟費用は原告の負担とする。
第二当事者の主張
一 請求原因
1 被告は昭和四五年五月、原告を相手方として東京地方裁判所に不動産仮差押を申請し(昭和四五年(ヨ)第四一七三号)、同年五月二二日仮差押決定を得え、そのころ右仮差押の執行として原告所有の不動産について仮差押命令が登記簿に記入された(以下、本件仮差押という。)。
その被保全権利とするところは、昭和四二年一二月、被告は訴外株式会社王子シャーリング(以下、王子シャーリングという。)との間に金員貸付契約を締結し、昭和四四年四月五日から同年七月一一日の間に合計二九六三万五八五三円を貸付け、原告が王子シャーリングの右債務を連帯保証しているので、その連帯保証債務二九六三万五八五三円のうち一〇〇〇万円であるというのである。
原告は右仮差押決定に対し昭和四五年九月二日、仮差押異議訴訟を提起し(東京地方裁判所昭和四五年(モ)第一四六五七号)、昭和四七年九月二九日、仮差押決定を取消し、被告の仮差押申請を却下するとの原告勝訴の判決があり、これに対して被告は控訴しなかったため、右判決は同年一〇月二〇日に確定した。
2 また原告は昭和四五年七月九日、起訴命令の申立をし、これを受けて東京地方裁判所は同月一四日、被告に対して本案訴訟の提起を命ずる決定をした。
そして被告は原告を相手方として同月一八日東京地方裁判所に前記二九六三万五八五三円の連帯保証債務のうち二二五一万二七五三円の支払を求める本案訴訟(昭和四五年(ワ)第七三八六号、以下、本件本案訴訟という。)を提起した。
右訴訟についても昭和四九年四月一二日請求棄却すなわち原告(右訴訟における被告)全部勝訴の判決があり、これに対して被告(右訴訟の原告)が控訴しなかったので、右判決は同年五月五日に確定した。
3 原告は昭和四二年一二月二五日ごろ、王子シャーリングが被告から年末短期融資として一〇〇万円を借入れた際、連帯保証人となったことがあり、その際取引約定書(連帯保証契約書)に記名押印し、印鑑証明書一通を渡したことがある。
右一〇〇万円は王子シャーリングが翌四三年初めに返済したにもかかわらず、王子シャーリングがその後倒産し、被告は債権回収に苦しむこととなったので、前記連帯保証及び返済の事情を知悉しながら、右連帯保証契約書をまだ原告に返還しておらず、かつ、同契約書の文言上、この連帯保証が年末一時融資のためのものであることが明記されていないことを奇貨として、これを悪用して前記一〇〇万円以外の王子シャーリングに対する融資には全く関係のない原告からこれを回収することを企図して本件仮差押及び本件本案訴訟に及んだものである。
なお、被告の右不法行為の直接の実行者は、当時の被告の貸付係近藤滋三、王子シャーリング倒産後に同社との間で債権回収の交渉に当たった被告役員の三井田好らである。
4 仮に右主張が認められないとしても、前記連帯保証契約書の対象が特定の融資のために限定されているものであることは融資前後の事情から明白であったのに(被告は王子シャーリングに対し、本件年末短期融資については、他の一般金融と異なり、金利も特に異例にし、いわば取り分けた取扱いをしている。また、契約締結後長期にわたり包括的に王子シャーリングの債務を連帯保証するのであれば、特殊の臨時金融の際に、しかも原、被告間で直接の連絡協議をせず、主債務者である王子シャーリングを仲介人として契約書を作成するというのは極めて不自然、不合理である。)、被告の担当者は金融機関としてあるまじき軽率な判断をもってこれを他の王子シャーリングの債務をも保証する趣旨のものと即断し、実情を関係者から十分聴取することもせず、原告に対し本件仮差押の申請をし、本件本案訴訟を提起したのであるから、被告には重大な過失があることは明白である。
5 被告の右不法行為により原告は次のような損害を被った。
(一) 慰藉料 三〇〇万円
原告の経営する訴外株式会社吉田商会(以下、吉田商会という。)は、当時その経営方針上、金融機関からの融資枠を拡げることが必要であったにもかかわらず、本件仮差押により、業績不振を疑われ、かえって既往融資の繰上げ返済を求められることをおそれて、融資枠の拡大を全く果せず、設備投資のために同業者が競い合っていた昭和四五年五月から同四九年五月まで従前の経営規模のままで事業を継続せざるを得なかった。このことは、原告の経営する前記吉田商会が企業間競争に大きな遅れをとる原因となったことは明らかである。
また、原告が金融機関から訴求されているということは、狭い業界の中にあって直ちに周知の事実となったが、このことは原告及び前記吉田商会の商取引上の信用を失墜させるに十分であった。そのため事件発生後その最終落着に至るまで吉田商会の経営障害は長期にわたって継続し、原告は血圧に変調を来たし、医者通いを余儀なくされるなど、苦痛の絶えない毎日を送らざるを得なかった。
右のような原告の精神的打撃を慰藉するに足る金額は少なくとも三〇〇万円を下らない。
(二) 弁護士費用 二八五万円
原告は、法的抗争には全く未熟であるため、被告の不当、不法な訴訟に対する応訴のために訴訟の追行を弁護士に委任し、次のような弁護士費用を既に支払い、または支払う予定である。
(1) 仮差押異議事件
着手金 一〇万円(既払)
報酬金 六七万円
(請求債権の三パーセント、未払)
(2) 貸金請求事件(本件本案訴訟)
着手金 二〇万円(既払)
報酬金 一三五万円
(請求額の六パーセント、未払)
(3) 本件損害賠償請求事件
着手金 一五万円(既払)
報酬金 三八万円
(請求額の七パーセント、未払)
なお、右報酬金額は弁護士会報酬規定の最低額で計算し、端数を切捨てたものである。
6 よって原告は被告に対し、五八五万円及びこれに対する不法行為の後である昭和四九年六月一八日から完済に至るまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。
二 請求原因に対する答弁
1 請求原因1、2項は認める。
2 同3項のうち、原告が昭和四二年一二月二五日ごろ被告と王子シャーリングとの間の取引約定書に連帯保証人として記名捺印したこと、一〇〇万円が王子シャーリングから昭和四三年二月二二日に返済されたこと、王子シャーリングが倒産したことは認めるが、その余は否認する。昭和四二年一二月二五日ごろは、王子シャーリングと被告との取引額が急激に増加してきた時期であり、そのため被告は王子シャーリングに増担保を要請したものであって、原、被告間の連帯保証契約は原告主張のように連帯保証額を一〇〇万円に限定して行ったものではない。
3 同4項は否認する。
以下述べるような事情に照らせば、被告の本件仮差押の申請及び本件本案訴訟の提起は権利の行使として許容されなければならない。
(一) 本件連帯保証契約書が作成されたのは昭和四二年一二月であるが、このころは保証契約を締結する場合に、主債務者を通じて行うのが普通であり、またこの場合保証人に対し、保証契約の内容を告知して保証契約を締結する意思の確認をとることは一般に行われていなかった。昭和四二、三年ごろ以後、保証人に対する確認の有無がしばしば問題とされ、その種の判例も形成されてきたのであって、昭和四二年当時においては保証人に対する確認というよりも主債務者と保証人の取引約定書等の筆跡の同一性、印鑑証明書との照合、主債務者に対する質問、約定書の持参人に対する信用度等から判断するのが通常であった。
(二) 被告の職員である近藤滋三は、後日、吉田商会の専務取締役であり原告の代理人ともいうべき吉田久治が被告に対する別の債務の件で被告を訪れた際、被告の職員が原告が王子シャーリングの債務を個人保証していることを確認する趣旨の発言を右吉田に対してしているのを傍で聞いている事実がある。したがって、連帯保証の実情を関係者から十分聴取しない点に被告の過失があるとする原告の主張は当たらない。
(三) 原告としては、本件連帯保証契約書を良く読めば、それが極度額の定めのない約定書であることを認識し得たはずであるから、当然約定書に限度額を書入れる等の配慮も期待できる訳であるが、原告はこのようなことをしていない。
(四) 原告は、本件連帯保証契約書等の関係書類の返還を被告に請求していない。後日被告と接触した際、既に倒産している王子シャーリングの債務につき保証人になっていたことを想起して、確認をすべきであるが、それもしていない。
4 同5項の損害は、発生自体が明確なものでないばかりか、被告の行為が正当なものである以上、損害賠償の対象とはならない。
第三証拠《省略》
理由
一 請求原因1、2項の事実は当事者間に争いがない。
二 右事実によれば、被告の本件仮差押及び本件本案訴訟はいずれも根拠のない違法なものであったことになるが、これらが被告の故意によるものであることを認めるに足りる証拠はない。
もっとも、成立に争いのない甲第一五、一六号証には、昭和四五年三月ごろ王子シャーリングの代表者沢井正富が、王子シャーリングの被告に対する債務の弁済について被告と折衝した際、被告の営業部長三井田好、係長近藤滋三から、王子シャーリングの右債務については代表者の個人保証のほかは何らの担保もないので、更に二人以上の連帯保証人をつけるようにいわれたとの供述記載があるが、《証拠省略》と対比して措信できない。
また証人吉田久治は、本件仮差押等は金融機関に対する監査、調査等に対処するために連帯保証契約書を悪用して作為されたものであると証言しているが、憶測に過ぎず、採用することができない。
更に、証人沢井正富の証言とこれによって成立を認め得る甲第一一号証の記載及び甲第一五、一六号証の供述記載は、王子シャーリングの代表者沢井正富は、被告担当者から昭和四二年一二月二五日に借入れる一〇〇万円につき連帯保証人をつけるようにいわれて、原告に右連帯保証の依頼をして承諾を得たものであり、この事情は被告も十分承知しているものであるとしているが、昭和四二年当時の貸付担当者が仮にこのような事実を知悉していたとしても、直ちに本件仮差押及び本件本案訴訟の担当者がこれを知っていたということにはならない。
三 そこで被告に過失があったか否かについて検討する。
仮差押命令が、その被保全権利が存在しないために当初から不当であるとして取り消された場合において、右命令を得てこれを執行した仮差押申請人が右の点について故意または過失のあったときは、右申請人は民法七〇九条により、被申請人がその執行によって受けた損害を賠償すべき義務があるものというべく、一般に、仮差押命令が異議もしくは上訴手続において取り消され、あるいは本案訴訟において原告敗訴の判決が言い渡され、その判決が確定した場合には、他に特段の事情のないかぎり、右申請人において過失があったものと推定するのが相当である。
しかし、以下述べるとおり、本件においてはこのような特段の事情が存在したものとは認められない。
《証拠省略》によれば、本件仮差押申請に当たって、被告において原告が王子シャーリングの一切の債務について連絡保証したものであると判断した資料としては、連帯保証人として原告が記名捺印したことに当事者間に争いがない王子シャーリングと被告間の昭和四二年一二月二五日付取引約定書(甲第一〇号証)が唯一のものであったことが認められる(右被告代表者は、ほかに原告側で被告がどのような態度に出て来るかを心配そうに探っているという意味の報告が貸付係からあり、原告は王子シャーリングの保証人であることを認識していると判断したと供述しているが、措信できない。)。
そして、なるほど右取引約定書は、手形貸付、手形割引、証書貸付、当座貸越その他被告と王子シャーリングとの間の一切の取引に関して生じた債務の履行について適用されるものとされており(第一条)、連帯保証の限度額については何ら記載されておらず、かつ、本件仮差押申請当時王子シャーリングまたは原告に返還されずになお被告の手元に保管されていたものである。
しかし、《証拠省略》によれば、被告では、昭和四七年までは、手形貸付、手形割引の場合には、継続的取引における一切の債務を保証する場合にも、一回限りの個別的取引における債務または保証限度額のある場合にも、すべて同一の甲第一〇号証の取引約定書を使用していたこと、現に吉田商会振出の約束手形を王子シャーリングが被告で割引いていたので、王子シャーリング倒産後、吉田商会では被告と交渉して連帯保証人を付して右約束手形金債務合計一九五万七九三五円の支払期限を延長してもらったことがあるが、その際吉田商会と被告が昭和四四年八月五日付及び一一月二九日付で取交わした二通の取引約定書(甲第一二号証及び第一四号証)は甲第一〇号証の取引約定書とほぼ同一のものであって、債務額は記載されていないことが認められる。
したがって、この甲第一〇号証の取引約定書から直ちに原告は王子シャーリングの被告との間の継続的取引に基づく一切の債務を保証したものとは推認できないのであって、個別的な貸付についての保証または限度額のある保証である可能性があったものといわなければならない。
甲第一〇号証の取引約定書が被告の手元に残存していた点についても、被告では取引の終了した約定書は必ず債務者ないし保証人に返還していたということを認めるに足りる証拠はない。むしろ《証拠省略》によれば、前記甲第一二号証と第一四号証の取引約定書については、この債務を吉田商会が昭和四八年一、二月に完済したので、右取引約定書の返還を再三要請した結果、ようやく同年六月ごろに至って被告はその返還請求に応じたことが認められるのであって、債務を完済して取引が終了しても通常の場合は関係書類は債務者に返還していないのではないかと推測される。したがって、取引約定書がなお被告の手元に残されているからといって、右のような事情の下においては、右約定書記載の債務が残存しているものと即断することはできない。
しかも《証拠省略》によれば、被告においては、昭和四二年当時は、主債務者を通じて連帯保証契約書を徴した場合であっても、一般的に保証人に直接保証契約を締結する意思の有無、保証限度額等の保証契約の内容について確認をすることは行われておらず、本件の原告との間の連帯保証契約についても同様であったことが認められる。
その上、《証拠省略》によれば、原告と王子シャーリングとの間の関係は、王子シャーリングが設立された昭和二七年ごろから吉田商会が王子シャーリングから鉄屑を継続的に買受け(昭和四二年ごろは月商約一〇〇万円)、また吉田商会が王子シャーリングに製品を納入しており(王子シャーリングが倒産した当時は一か月六〇万円ないし七〇万円)、王子シャーリングが倒産した昭和四四年七月の時点では吉田商会は王子シャーリングに対して五三一万六六八四円の債権を有しており、一般債権者の中では九番目の債権者であったこと、右の取引関係にあったほかは、王子シャーリングと原告とはすぐ近所に居住していたというだけであって、原告と王子シャーリングの代表者沢井正富とは親戚関係にあった訳でもなく、右両者あるいは両者の経営する会社間で金銭の貸借をしたり、本件以外に相互に債務の保証をしたりすることも全くなかったことが認められる。このように原告と王子シャーリングとの間柄は、長期間取引が継続していたというに過ぎず、密接な関係にあったとは決していえないのであるから、原告が王子シャーリングの被告に対する一切の債務(結果的にはその金額は約三〇〇〇万円の多額にのぼっている。)について真に保証をしたものかどうか、疑念を抱くのが通常であろう。
以上のような事情が存するのであるから、被告としては、仮差押の申請に当たって、取引約定書が存在するとの一事に依拠するのではなく、関係者から連帯保証契約締結当時の事情について聴取し、被保全権利が存在するか否か、更に調査を尽くすべきであったといわなければならない。もっとも仮差押については緊急性の要請を無視することができないのであるが、前記のとおり王子シャーリングの倒産は昭和四四年七月であるところ、本件仮差押の申請がされたのは昭和四五年五月であって、本件においては十分な調査ができないような緊急性はないのである。
また、仮差押については穏密性の要請もあるから、原告本人から事情を聴取することまでは必要がないであろうが、被告職員で昭和四二年当時に原告との間の連帯保証契約の締結の事務を担当した者はもとより、本件取引約定書を原告から受領して被告に渡した主債務者の代表者沢井正富からは事情を聴取すべきものであり、それを妨げるような障害は何ら存在しなかったはずである。ところが証人近藤滋三の証言によれば、同人は昭和四二年当時、王子シャーリングへの貸付を担当していた係長であるが、本件仮差押申請に際し、当時の事情について全く調査を受けていないことが認められ、また、証人沢井正富の証言によれば、同人は王子シャーリングの被告に対する債務の処理に関して、倒産後本件仮差押の申請に至るまでに数回被告を訪れて折衝をしたが、その際原告の連帯保証の件に関しては何ら聞かれていないし、話題にものぼらなかったことが認められる。
この点につき証人近藤滋三は、前記認定の吉田商会振出の約束手形金の支払期日の延期の件につき、同社の専務取締役吉田久治が被告を訪れた際、当時の貸付係北島が右吉田に対し、本来ならば約束手形金の支払の延期は認められないが、今回は原告が王子シャーリングの保証人にもなっており、その債務の回収の必要もあるから、特に延期を認める旨述べたと証言しているが、《証拠省略》と対比して措信できない。
以上要するに、被告は本件仮差押の申請に際して、およそ何らの調査も試みていないのであって、過失の推定を覆すに足りる特段の事情があるものとは到底いえない。
四 次に本件本案訴訟の提起に関し被告に過失があったか否かについて判断する。
裁判所の判断を求めるために訴えを提起する権利は、みだりに制限すべきではないことはいうまでもないことであり、訴えの提起は、原告が自己の主張に根拠のないことを知悉していた場合、または自己の主張を裏付ける証拠が皆無に近いのにその主張が理由があるものと軽信したというような重大な過失がある場合に限り、損害賠償の対象になるものと解すべきである。
ところが本件においては、一応被告の請求を裏付けるに足る取引約定書が存在していた訳であって、被告としては全く証拠がないのに本件本案訴訟に理由があるものと信じたものではない。したがって、本件本案訴訟の提起については、被告には損害賠償の責任はないというべきである。
仮差押申請の場合には、相手方を審訊することなく命令を発するのが実務の一般的実情であって、相手方には主張、疎明資料提出の機会は与えられていないから、これを申請する者に対しては被保全権利の存在についてより慎重な調査が要請されてしかるべきであるが、本案訴訟の場合には被告側には主張、立証の機会が十分に与えられているのであるから、仮差押申請の場合ほど高度の注意義務は要求されていないというべきである。
しかも本件本案訴訟は、原告の起訴命令の申立に基づく裁判所の起訴命令に従って提起されたものである。すなわち、仮差押決定及びその執行の取消のためには異議訴訟における勝訴で十分であるにもかかわらず、原告みずから本案訴訟による抜本的解決を希望して本件本案訴訟の提起を求めたものであって、特に本案訴訟における判決を求める必要が原告に存在した事実は窺われないから、これによる損害を被告に負担させるのはこの点からいっても相当ではない。
五 そこで本件仮差押によって原告に生じた損害について検討する。
1 《証拠省略》によれば、原告は、自己所有の建物(自己の居宅及び吉田商会が使用している工場、事務所等)全部について仮差押を受け、しかもその被保全債権額が二九六三万五八五三円のうち一〇〇〇万円ということであったので、非常な精神的衝撃を受け、心痛の余り昭和四五年九月から睡眠障害、頭重感が生じ、昭和四九年一二月ごろまで病院通いを続けていたこと、原告が代表者をしていた株式会社吉田商会は、本件仮差押当時、金融機関からの借入枠を三五〇〇万円から五〇〇〇万円程度に増額して営業規模の拡大を意図していたが、原告所有の不動産を新に担保として提供できなかったため、これを断念せざるを得なかったこと、そのため新しい機械設備の導入も思うにまかせず、同業者との競争においても不利な立場に立たざるを得なかったこと、その間、原告はじめ吉田商会の役員の苦労は極めて大きいものであったことが認められる。
以上認定の事実と本件仮差押の執行(昭和四五年五月)から異議訴訟における原告勝訴の判決の確定(昭和四七年一〇月、この時点で原告は執行の取消ができたはずである。)までの期間(約二年半)とを併せ考えると、原告の慰藉料としては五〇万円が相当である。
2 原告本人尋問の結果によれば、原告は仮差押異議訴訟の追行を弁護士に委任し、その弁護士費用として合計七七万円を既に支払い、またはその支払を約していることが認められる。
したがって右七七万円は本件仮差押による損害というべきである。
なお原告は、異議訴訟の提起に先立ち、起訴命令を申立て、本案訴訟により紛争の根本的解決を図るという方法を採りながら、更に異議訴訟を提起している。しかし、本案訴訟に比較して異議訴訟はより簡易迅速な手続で早期の判断が期待できるものであり、しかも本案訴訟における仮差押債務者勝訴の判決が確定しても仮差押命令の効力は当然には失われず、事情変更として仮差押命令の取消を申立てなければならないのに対し、異議訴訟において仮差押債務者勝訴の仮執行宣言付判決があった場合には、直ちに仮差押執行の取消を申請することができるのであるから、原告が起訴命令を申立てた上に重ねて異議訴訟を提起したのは仮差押債務者としてまことにやむを得ないことであって、異議訴訟の費用を相当因果関係の範囲内にない損害ということはできない。
3 原告本人尋問の結果によれば、原告は本件損害賠償請求訴訟の追行を弁護士に委任し、その弁護士費用として合計五三万円を支払い、またはその支払を約したことが認められる。そして、本件損害請求事件の事案の難易、請求額、認容された額その他諸般の事情を斟酌して、被告の本件不法行為と相当因果関係に立つ損害としては二三万円が相当と認められる。
六 よって被告は原告に対し一五〇万円及びこれに対する不法行為の後である昭和四九年六月一八日から完済に至るまで民法所定年五分の割合による遅延損害金を支払う義務があり、原告の本訴請求は右限度において理由があるからこれを認容し、その余は失当であるから棄却すべく、訴訟費用の負担について民事訴訟法八九条、九二条本文を、仮執行の宣言について同法一九六条を適用して主文のとおり判決する。
(裁判官 矢崎秀一)