東京地方裁判所 昭和49年(ワ)7801号 判決 1979年3月27日
原告
酒井恭子
外三名
右原告三名訴訟代理人
古瀬駿介
同
森本宏一郎
被告
池田病院こと
医療法人社団睦会
右代表者理事
池田佐嘉衛
被告
池田佐嘉衛
右被告両名訴訟代理人
饗庭忠男
主文
一 被告らは各自、
1 原告酒井恭子に対し金一、一一〇万四、九六六円及び内金一、〇一〇万四、九六六円に対する昭和四九年一〇月一日から支払済みに至るまで年五分の割合による金員、
2 原告酒井博章に対し金二、〇〇〇万九、九三三円及び内金一、八二〇万九、九三三円に対する前同日から支払済みに至るまで前同利率の割合による金員、
3 原告酒井美代子に対し金二二〇万円及び内金二〇〇万円に対する前同日から支払済みに至るまで前同利率の割合による金員を各支払え。
二 原告らのその余の請求を棄却する。
三 訴訟費用は被告らの負担とする。
四 この判決は原告ら勝訴部分に限り仮に執行することができる。
事実《省略》
理由
一請求原因1記載の事実(当事者の地位等)は当事者間に争いがない。
二本件死亡事故の発生について
請求原因2記載の啓行が昭和四八年八月一八日突然の腹痛のため被告法人経営の池田病院に入病し、十二指腸穿孔との診断を受けて同日同病院で胃・十二指腸の切除手術を受け、その後引続き治療を受けていたところ、右手術後九日を経過した同月二七日被告池田の指示により病室を二階から三階へ変更するため、同日四時ころ歩いて同病院内の二階から三階への階段を移動中、三階間近の階段で、突然意識を失つて倒れ、同日午後五時四〇分ころ同病院内で死亡したとの事実はいずれも当事者間に争いがない。
三啓行の死因について
1 <証拠>によれば、千葉大学医学部病理学教室に所属する医師である右岩崎は昭和四八年八月二八日被告池田からの依頼に基き(但し、形式的には千葉県医師会からの依頼によるとの手続きが後にとられた。)、啓行の病理解剖を施行し、その結果同人により以下の解剖所見が示されたことを認めることができ、他にこれを覆すに足りる証拠はない。
(一) 肺臓 両側肺の急性うつ血、水腫(肺動脈枝内への凝血塊充満と肺胞壁毛細血管の高度のうつ血、水腫)。両肺上葉の肺気腫。
(二) 心臓 右心室の急性拡脹(滴状心)、右心室心筋間質への限局性円形細胞浸潤と水腫。(「円形細胞浸潤」は比較的慢性の炎症時に組織内に多量の円形の核を持つ遊走細胞が現われることをいうが、本所見では右の浸潤が右心室心筋間に見られたので、そこに比較的慢性に経過した心筋炎の起つていたことを示している。)
(三) 亜急性汎腹膜炎 骨盤腹膜下結合織内の好酸球浸潤を含む多数の炎症性細胞浸潤及び腸管漿膜の線維性肥厚と同形細胞浸潤。
(四) 脾臓 感染脾と線維素性脾周囲炎、うつ血。脾洞内への炎症性細胞浸潤。
(五) 肝臓 高度のうつ血と脂肪化。
(六) 食道粘膜下、胃粘膜下、腸管粘膜下、膀胱粘膜下、腎臓等のうつ血。
右認定の解剖所見に、前記の啓行の病歴(十二指腸穿孔)及び死亡に至る経過等の事情を考え合せると、啓行の死因は、<証拠>にもあるとおり、「心筋炎を伴う急性心不全」、すなわち、啓行が罹患していた亜急性汎腹膜炎が心臓に波及して心筋炎を招来し、これに急激な体動が誘因となつて心臓(特に右心室)に過重の負担が加わつて起つた急性心不全であると一応推認することができる。
2 一方、被告らは啓行の死因について、剖検診断書(甲第一号証)に対する疑問点を指摘し、同人の死因は肺塞栓(血栓)梗塞症である旨主張する。
そこで右被告らの主張の当否を検討するに、<証拠>によれば、同人らによつて
(一) 解剖所見中、心筋炎の根拠とされる円形細胞浸潤は「限局性」というにすぎず、体動が誘因となつて急性心不全を惹起するほどの重度の心筋炎があつたとはいえないこと、
(二) 啓行の生前の心電図には、心筋炎を示す結果が表われていないこと、
(三) 啓行は事故直後ほとんど呼吸停止、心停止の状態にあり、強心、強圧剤の投与、輸血、輸液、酸素補給などの措置に対しても心機能の回復はなく、撓骨動脈にも触れることができなかつたこと、
(四) 啓行の解剖所見中の「右心室急性拡張」は病変としては特殊な事象であつて(後記のとおり肺塞栓血栓症の場合には通常見られる所見であるが)、心筋炎に基く病変としては考えにくいものであること、
等の指摘がなされたことを認めることができ、証人関口は、右の疑問点を踏まえて啓行の死因については、同人の解剖所見中肺臓に見られた「肺動脈枝内への凝血塊充満、肺胞壁毛細血管の高度のうつ血」及び「右心室急性拡張」等の所見を最も合理的に説明できる肺塞栓(血栓)梗塞症と判断すべきであるとしたことを認めることができる。そして<証拠>によれば、肺塞栓(血栓)梗塞症は、肺血管床に血栓が詰まることにより血流阻害あるいは閉塞を起す病態であるが、その原因は下腿の深部静脈や骨盤静脈に発生した血栓の遊維が殆どであり、このような血栓は長期間安静を続けることにより発現することが多いこと、肺動脈の血流が阻害され血管抵抗の増大のために右心の負担が増大し(このようにして惹起される心臓疾患を「肺性心」と称する。)、そのため右室拡大を伴うことが多いことを認めることができる。
しかしながら、同証拠によれば、肺塞栓(血栓)梗塞症の場合、通常死亡例には巨大血栓が見られることが多いこと、急性肺性心を生ずるのは肺循環の六〇パーセントを閉塞する塞栓であると言われていることを認めることができるのに対し、<証拠>によれば、過去に数例の肺塞栓(血栓)梗塞症の解剖経験を有する右岩崎は、啓行の解剖に当り、その死亡時の状況等から肺塞栓(血栓)梗塞症の可能性も少なくないことを念頭において解剖を施行したにもかかわらず、啓行には通常右症病を惹起すると考えられるような血栓は発見できなかつたこと、解剖所見中の「肺動脈枝内への凝血塊充満」との所見は、顕微鏡検査のうえ発見し得たものであるが、あくまでも「凝血塊の充満」にすぎず、右検査によるも「血栓」と称すべきものは発見できなかつたこと、右の程度の凝血塊充満は全身臓器及び末梢血管内にも認められ、一般に急死の場合に見られる所見であることを認めることができる。さらに<証拠>によれば、急性肺塞栓(血栓)梗塞症の場合には臨床所見として失神、激裂な前胸部痛等が現われることが多いものと認められるが、本件全証拠によるも啓行に右の症状があつたことは認めることはできない。
以上の事実を総合すると、啓行が肺塞栓(血栓)梗塞症であつたとは認め難く(もつとも証人関口は必ずしも血栓を生じなくとも、抹梢の肺動脈枝にわずかの凝血塊が詰まつた場合でも、塞栓部分以外の血管の攣縮によつて、大きな塞栓状態になりうることを指摘し、<証拠>によれば、肺塞栓が血管の器質的閉塞ばかりでなく機能的収縮の関与する可能性のあることを認めることができるけれども、本件の場合、その可能性を肯定しうるような証拠はない。)、また、<証拠>によれば、剖検診断書(甲第一号証)の記載は心臓への円形細胞浸潤は「限局性」であるが、実際はむしろびまん性にその浸潤が見られ、そのうち高度のものは巣状に一塊となつていた状態であつたことを認めることができ、右事実に、証人関口は啓行の死因等の判断に際しては書類等間接的資料にのみ頼らざるを得なかつたこと等を考え合わせると、心筋炎に基く急性心不全と死因を考えることに対する凝問点の指摘も、いずれも絶対的なものと考えることはできない。
結局、被告らの以上の主張、立証によつても、前記死因に対する推認を覆すに足りるものとは解し得ず、他に右認定を左右するに足る証拠はない。
四被告らの責任原因
前示三記載のとおり、啓行は体動を誘因として惹起された急性心不全により死亡したものであり、また、右体動(二階から三階への病室の移動)が被告池田の指示に基くものであることは当事者間に争いのないところであるので、右指示(病室の変更のための移動)の適否について判断する。
1 啓行に対する手術後の離床指導の経過等
<証拠>を総合すると以下の事実を認めることができ、他にこれを覆すに足りる証拠はない。
(一) 昭和四八年八月二五日(手術後七日)、被告池田は啓行の手術部位からの抜糸を行うとともにベツドの上での起床を許可し、これに伴い啓行は二、三分間ベツドの上で起きていた。
(二) 同月二六日(手術後八日)、啓行は五、六分ベツドの上に起床して食事をとつた。
(三) 同月二七日(手術後九日、本件死亡当日)、被告池田は回診時(原告恭子は午後四時ころ回診と供述するが、その後の経過等も考え合せると、回診の時間はより早い時間、であつたと考えられる。)に啓行に対し歩行を許可し、これに従つて啓行はその後直ちに部屋内及び廊下へ出ておよそ一五メートル程度の距離を、付添人の肩につかまりながら歩行した。
(四) 右歩行の後、同日午後四時ころに至り、被告池田は再び啓行の病室を訪れ、その際ベツドに腰掛けた状態であつた啓行に対し、二階から三階への病室の変更を促し、啓行がこれを承諾すると、直ちに変更をさせるため、看護婦に連絡して病室を移動させた。
(五) 右二七日当日、啓行は食事は未だ二日前に初めて許された重湯のみを摂取していたにすぎず、二六日までは一日三本の点滴(栄養剤等)を行つていた。
(六) 二七日の病室変更は、啓行から申出たものではなく、また啓行にも、病院側にも特に必要なものではなかつた。
2 注意義務の存在
一般に、医師が開腹手術等を行つた患者について手術後の看護をなすに当つては、当該手術の経過に注意し適切な治療行為等をなし、その回復を計るべきことはもちろん、特に手術後の離床指導をなす際には、当該患者の病状から体力回復の程度を正確に把握してその時期方法等を指示すべきであり、急激な体動を与えることにより患者に悪影響を及ぼすことを厳に回避すべき注意義務を負うものと解するのが相当である。
3 被告池田の過失
前記1認定の事実から2記載の注意義務違反の有無を判断するに、被告らは前記認定のとおり啓行に対しては段階的に離床指導をなし、本件死亡事故当日の二七日には既に歩行を行わせていたのであるから、被告池田に何らの注意義務違反は存在しない旨主張し、また<証拠>によれば、一般に離床指導に当つては、患者の体力回復の促進、肺合併症、静脈血栓の発生の予防のためにもなるべく早期に離床させるようすべきであると言われていることが認められ、被告池田本人尋問の結果によれば、啓行に対する離床の指導はむしろ遅い方であつたとの事実を認めることができるけれども、同各書証によれば、早期離床の場合であつても、起座を許してから歩行を許すまでには二、三日の間をおいて行うべきであり、また、歩行の許可をなすに際しては、二、三日間をかけて徐々に歩行距離を延ばした後、初めて洗面所まで歩行させる等、段階的な指導を行うべきであるとしていることが認められ、早急な離床指導はシヨツクを誘発する危険のあることが指摘されている。これらの事実と前記1認定の事実を総合すると、啓行の離床は確かにいわゆる早期の離床ではなく、やや遅い方であると言えるけれども、それは、離床開始の時期の問題であり、徐々に運動量の増加を計るべきであるとする段階の問題とは別個のものであつて、前記認定経過から見れば、本件死亡事故当日の二七日に、啓行に対して初めて歩行が許可され(しかも起座の許可はその二日前であつた。)、啓行はこれから徐々に歩行距離を延ばしていくべき状態にあつたものというべきであり、しかも当日啓行は未だ十分な食事もできず、洗面所へも自ら行つていなかつた状態であり、体力の回復は十分ではなかつたにもかかわらず、いきなり階段を登ることを含む病室の移動を指示したことは、右経過から見れば、飛躍的に運動量の多い体動であつて急激な体動を行わせたというべきであるから、右の指示は、時期尚早の非難を免れず、被告池田には前記の注意義務違反の過失があつたものと認めることができ、他にこれを覆すに足りる証拠はない。
従つて、被告池田は、啓行の死亡により生じた損害につき賠償をなすべき義務があるというべきである。
4 被告法人の責任
被告法人が被告池田の使用者であり、被告池田の前記啓行に対する指示が被告法人の事業の執行としてなされたことはいずれも当事者間に争いのない事実であるから、被告法人もまた被告池田と連帯して損害の賠償をなすべき義務を負うべきである。
五損害
1 啓行の損害
合計金二、四三一万四、九〇〇円
(一) 逸失利益
金一、九三一万四、九〇〇円
<証拠>によれば、本件死亡事故当時啓行は満三〇歳の健康な男子であり、訴外日経アルミ株式会社に勤務し、一ケ月平均金一一万七、一二〇円の給与を得ていたことを認めることができ、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。
従つて、啓行の逸失利益は、右金一一万七、一二〇円から啓行の右月収額、年令、家族構成等に鑑みその生活費として三分の一を控除し、また啓行は本件死亡事故に遭わなければ満六七歳までの三七年間は稼働可能であつたというべきであるから、新ホフマン方式により中間利息を年五分として控除すると、その現価は、原告ら主張の金一、九三一万四、九〇〇円を下らないものと認めることができる。
(二) 慰藉料 金五〇〇万円
<証拠>によれば、啓行は本件死亡事故により今後の生活への展望も大きかつた三〇歳の年令で死亡するに至つたのであるから、その受けた精神的苦痛は甚大であるものと推認でき、本件事故の態様、被告らの過失の程度等諸般の事情を考慮すれば、右精神的苦痛を慰藉するには金五〇〇万円をもつて相当と認める。
(三) 原告恭子及び同博章の相続
原告恭子が同人の妻であり、原告博章が同人の子であることは当事者間に争いがないので、原告恭子及び同博章らは右啓行の蒙つた損害(一)(二)の合計額金二、四三一万四、九〇〇円の損害賠償請求権を、原告恭子はその法定相続分三分の一に当る金八一〇万四、九六六円(円未満切捨て)、原告博章はその法定相続分三分の二に当る金一、六二〇万九、九三三円の割合でそれぞれ相続により承継したことは明らかである。
2 原告ら固有の慰藉料
合計金六〇〇万円
<証拠>によれば、原告恭子は啓行の妻として原告博章はその子として、原告美代子はその母として啓行の死亡により甚大なる精神的苦痛を受けたことは容易に推認でき、本件事故態様、被告らの過失等諸般の事情を考慮すれば、右精神的苦痛を慰藉するには各自金二〇〇万円をもつて相当と認める。
3 弁護士費用 合計金三〇〇万円
<証拠>によれば、原告らが本件訴訟追行のため本件訴訟代理人らに委任をなし、その報酬として請求金額の一割を支払う旨約したことを認めることができるが、本件の認容額、訴訟追行の難易、審理期間等を考慮すると、原告らが本件事故に関して被告らに賠償を求め得べき損害としての弁護士費用は、原告恭子について金一〇〇万円、原告博章について金一八〇万円、原告美代子について金二〇万円と認めるのが相当である。<以下、省略>
(山田二郎 古屋紘昭 内田龍)