東京地方裁判所 昭和50年(ワ)7230号 判決
以下は、判例タイムズに掲載された記事をそのまま収録しています。オリジナルの判決文ではありません。
【判旨】
二本件手術の経過と篤の死亡
1 昭和四九年八月七日被告が右医療契約に基づいてペルカミンエス注射液による腰椎麻酔を施した上篤の虫垂摘出手術を行なつたこと(以下「本件手術」という)、篤が右手術後ペルカミンエスによるシヨツクによつて被告医院において死亡したことは、当事者間に争いがない。
2 <証拠>によれば、本件手術の経過は以下の通りであることが認められる。
(一) 本件虫垂摘出手術に先だつて、被告は先ず前同日午後二時一〇分過ぎころに、麻酔剤であるペルカミンエス1.6CCを、篤に対して第四腰椎と第五腰椎の間に注入した。
(二) 続いて午後二時一五分ころ、被告は、右腹直筋旁切開の術式により篤の虫垂摘出手術を開始し、右手術は順調に進められ、午後二時三〇分頃無事終了した。
(三) 右手術終了後の午後二時四〇分ころ、篤は上田トヨ子・鈴木ナカ両看護婦に抱きかかえられて、一階の手術室から二階の病室へと運ばれた。<中略>
3 ところで、篤の死亡時刻については、原告らは八月七日午後四時三〇分、被告は同日午後二時五〇分ころと、それぞれ主張している、<が、><中略>遅くとも同日午後四時三〇分までには死亡したことの認定をもつて十分とすべきである。
三不完全履行について
原告らは、「篤の右死亡は被告及び同人の医療行為を補助した看護婦らの行なつた本件手術の術前・術中・術後の医療措置に種々の不完全な点があつたためである。」旨主張するので、以下この点について検討することとする。
1 術前の問診等について
(一) 医師は、麻酔及び手術を行なうに際して、その安全性を確保するため問・視・聴・打診等を十分行ない、患者の健康状態、特異体質の有無、使用薬剤に対する禁忌の有無等を予め把握しなければならないこと、及び被告が篤を診療するのは今回が初めてであつたことは、いずれも当事者間に争いがない。ところで、<証拠>によれば、被告は下腹部の触診、吐き気・便通についての問診及び白血球の検査などを通じて虫垂炎の診断を下すとともに、糖・タンパクの検査、体温・脈搏・血圧の測定、胸部の診察のほか、他に病気がないか問診するといつた程度の検査をした上本件手術にとりかかつたもので、特に使用薬剤に対する禁忌の有無について注意を払うこともなく、又右程度の検査を行なつたのみであつたため篤の心肥大・扁桃腫脹を把握していなかつたことが認められる。右認定事実によれば、被告が本件手術にとりかかるに際してその安全性を確保する為のチエツクを十分に尽さなかつたといわざるを得ない。
(二) しかしながら、成立に争いのない甲第一二号証(0.3%ペルカミンエス注射液の使用説明書、なお成立に争いのない甲第一六号証の一ないし四によれば、本件手術当時少なくともこれと同一の説明書が右注射液に添付されていたことが認められる。)の「使用上の注意事項」欄には、右薬剤を「投与しない」場合、「投与をさける」場合及び「慎重に投与する」場合がいくつか掲げられている。しかしながら、<証拠>によれば、篤にはそれらに該当するような所見は存在しなかつたことが認められる。以上の点と、篤の死因が前述のようにペルカミンエスによるシヨツクであることも併せて考察すると、被告において使用薬剤に対する禁忌の有無に関して注意を払わなかつたことが、篤の死亡とを関係づける不適切・不完全な措置ということはできない。
さらに、篤の死体解剖の結果より、胸腺リンパ体質であることを疑わしめる異常所見としてあげるもののうち術前の聴打診等によつてある程度把握しうるのは、心肥大と扁桃腫脹である旨の証人津田の証言部分が存する。しかしながら、心肥大は後述するように胸腺リンパ体質にみられる所見とは無関係なものであり、また扁桃腫脹は胸腺リンパ体質の所見のひとつとして数えられてはいるけれども、後記認定のとおり篤が胸腺リンパ体質であつたとは認めがたいところ、このような場合に医師はいかなる医療措置をとるべきかについて、原告らからは具体的な主張立証が為されておらないし、本件証拠によるも医師に格別の医療措置を要請するものとは認められない。されば、被告が術前に篤の心肥大及び扁桃腫脹といつた所見を把握していなかつた点についても、篤の死亡とを関連づける意味での不適切・不完全な措置ということはできない。
(三) 以上要するに、被告が行なつた術前の検査については、確かにずさんな点がいくつか指摘できるけれども、これをもつて直ちに被告の債務不履行の責任を基礎づけるものということはできない。
2 麻酔の副作用に対する対策について
(一) <証拠>によれば、腰椎麻酔においては血圧下降や呼吸抑制といつた副作用が存するところから、それが固定するまでの間の患者の血圧・脈搏及び呼吸の管理は極めて重要であつて、頻回に検査すべきで、もし異状の徴を認めた場合には直ちに適切な医療措置を施す必要があることが認定できる。ところで、本件において被告が、篤の血圧を麻酔剤注入前に一回測定したのみで(前掲乙第二〇号証によれば、九八―五五であつたことが認められる。)、その後全く実施しなかつたことは、当事者間に争いがない。
(二) この点につき、被告は、「血圧測定については右のとおりであるけれども、術中は瞳孔反射・脈搏・呼吸等全身状態を観察しながら手術を進めており、また術後の血圧測定も、術中及び手術終了時の篤の全身状態から判断して必要性を認めなかつたところ、突発的にシヨツク状態に陥つたのであつて、麻酔の副作用に対する管理は尽していた。」旨主張するので、以下この点を検討する。
(1) <証拠>によれば、被告が本件手術を実施するに際し、篤の全身状態に異常がないか外観上の観察をしながら手術を進めるとともに、終了時には脈搏をみたり聴診器を使つて全身状態を診断したことが認定できる。
(2) しかしながら、<証拠>によれば篤が手術の前日である八月六日の日にも新しい自転車を乗りまわして元気に遊んでいたほどであつて、手術当時カゼはひいていなかつたにもかかわらず、本件手術が終了した時(午後二時三〇分頃)に、くしやみをするなり鼻を動かすなりあるいは鼻をちよつとこするなりしたこと、少なくとも本件手術を補助して手術室に居合わせた上田看護婦において篤がカゼをひいているものと得心できるような症状を呈したこと、しかも被告の過去二〇数年にも及ぶ臨床外科医としての経験に照して考えても、右の如き症状は通常起こりうるものではなく特異な症状といわなければならないこと、しかるに被告は右症状を把握していなかつたこと、右症状を呈して後しばらくして後記認定のように「鼻がつまつて苦しい」「苦しいよ、横になりたい」と訴えたこと、この段階で呼吸抑制の症状を呈していたものと解されること(この点は後記(3)参照)次いで前述のとおりわずか二〇分程度経過した午後二時五〇分頃には、呼吸停止・瞳孔散大・心音聴取不能・脈搏もはつきり触れず、顔面が少しチアノーゼの状態に陥つていることが、認定することができる。
ところで、<証拠>によれば、呼吸抑制の症状の一部として鼻翼呼吸や「呼吸が苦しい」「胸が苦しい」との訴えが上げられており、またこれが高度になればチアノーゼ症状が現われるものとされていることが認められる。さらに<証拠>によれば、呼吸抑制が無気肺の原因となることもあるところ、<証拠>(死体検案報告書)によれば、篤の死体解剖結果中に無気肺の所見が存することが認められる。
(3) 以上の諸事実に前記2の(一)に記したところをも総合して考察すれば、前記篤の症状は麻酔による副作用であり、ことに呼吸抑制の症状と推認せられる以上、篤は遅くとも本件手術が終了した午後二時三〇分ころには呼吸抑制に陥つていたものといわなければならない。
(4) しかるに、前記(2)のとおり被告は本件手術終了までの時点において、篤の右症状を把握していなかつたのであるから、被告が主張するところの術中及び手術終了時における全身状態の観察は、これをもつて麻酔の副作用に対する管理を尽したものと認めることは、到底できないのは明らかである。
(三) 以上要するに、被告の本件手術には、麻酔の副作用に対する為の患者管理を十分尽さなかつたため、呼吸抑制の症状を初期の段階で把握し、それに対し適切な処置を講ずることができなかつた点において、過失があるといわなければならない。(これと篤の死亡との因果関係は後述する)。
3 術後の患者管理について
(一) <証拠>によれば、
(1) 鈴木・上田両看護婦の手によつて、本件手術終了後(前記認定のとおり午後二時四〇分ころ)篤は一階の手術室から二階の病室へと選ばれたこと
(2) 病室にて、上田看護婦は付添の原告両名に対して「枕をはずさないように」「水を与えないように」という旨の指示を与えたが、右看護婦らは格別の指示を与えることなく、又顔色はうかがつたものの血圧や脈搏の検査をすることもなく、間もなく退室したこと
(3) それから間もなくして、篤が鼻がつまつて苦しい旨訴えたため、原告華子は一階の受付まで赴いて鈴木看護婦に対してその旨を伝えたが、同看護婦は「大丈夫ですよ」と答えるのみであつたため、そのまま病室へ戻つたこと
(4) その後次いで、篤がのどに手をやり「苦しいよ、横になりたいよ」と訴えたため、原告華子は再び一階受付まで行き鈴木看護婦に対してその旨を伝えたが、「放つておいた方がいいでしよう」と答えるのみで取り合つてもらえず、再び病室へ戻つたこと
(5) ところが、病室に入るや、原告華子は、篤の両足及び顔が紫色になつているのを発見し、すぐさま一階に降りて上田看護婦にその旨を知らせたところ、それを伝え聞いた被告が直ちに篤のもとにかけつけたが、その時すでに前記認定のように篤はシヨツク状態に陥つていたこと
以上の事実が認められる。<証拠判断略>
(二) <証拠>によれば、術後の患者、特に麻酔の効果の継続中の患者については、十分な管理体制をとつて、容態の変化を遂一把握すべきであることが認められる。以上に照らして右(一)で認定したところを検討すると、先ず鈴木看護婦には患者側から呼吸抑制の症状をうかがわせる訴えがあつたにもかかわらず、その意味するところについて慎重な配慮をすることなく、かつそれに対して適切な処置をとらなかつた点において過失があつたというべきである以上、被告が履行補助者たる鈴木看護婦の過失に基づいて、債務不履行責任を負わなければならない。のみならず、右(一)で説示したとおり本件手術後の患者管理の大部分を患者側に委ね格別の注意を払わなかつた点において、被告自身にも過失が存するものといわなければならない。(これと篤の死亡の結果との間の因果関係については後述する)。
四因果関係
1 そこで、被告及びその履行補助者である鈴木看護婦の前記過失と篤の死亡との間に因果関係が認められるか否かにつき考慮を進めることとする。被告は、「篤の右死亡は篤が胸腺リンパ体質という先天性特異体質を有することに基づくものであつて不可抗力によるものである」旨主張するので先ずこの点から検討することとする。
証人津田の証言中には、右被告主張に副う「篤は特異体質、それもリンパ系が肥大しているところからして胸腺リンパ体質であつたと考えられる」旨の証言部分が存する。
しかしながら、<証拠>によれば、胸腺リンパ体質の概念の提唱者であるPaltaufはリンパ組織やリンパ節の肥大にさらに胸腺の肥大が合併する場合を胸腺リンパ体質と命名したことが認められる。また<証拠>によれば、胸腺リンパ体質の内部所見として胸腺の肥大、リンパ組織(脾臓・胃・腸管・扁桃・舌等のリンパ組織、腸間膜リンパ節)の増殖、循環系の発育不全(心臓は小さく、動脈なかんずく大動脈や脳の動脈が細く薄い)、副腎の発育不全、性器の発育不全が上げられていることが、認められる。そこで、以上に照らして篤の解剖所見を検討してみると、前掲乙第五号証(死体検案報告書)及び証人津田の証言によれば、口蓋扁桃腫脹及び脾臓稍肥大といつた胸腺リンパ体質の所見と符合する所見が存するものの、篤の胸腺には格別の異状がなく、その他右所見以外には胸腺リンパ体質の所見と一致する所見は存しないこと、却つて心肥大(一七〇グラム)という胸腺リンパ体質とは矛盾する所見も存することが、認定することができる。
さらに、証人津田の証言によれば、同人が篤を特異体質を有していたと推定したのは、警察の事件概況報告によると篤の虫垂摘出手術は適切に遂行されたものと考えられたので、その事実を前提として、篤の死体解剖の結果、一方シヨツクで死亡した死体に特有の所見が認められ、他方口蓋扁桃腫脹、脾臓稍肥大及び心肥大という三つの器質的特徴も認められたところから、シヨツク死の原因は「おそらく体質的なものであろう」と判断したというのである。しかしながら、前記認定のとおり被告医院における本件虫垂摘出手術には不適切・不完全な点が認められるところからすれば、先ず右証人の判断の前提にも疑問の余地が十分に存するといわなければならないし、前述のように同証人が篤の特異体質の根拠としてあげる三つの所見のうち心肥大はむしろ胸腺リンパ体質とは矛盾する所見である点を留意すべきである。しかも、<証拠>によれば、腰椎麻酔に伴うシヨツクのほとんどは、術前の準備と術中の患者の慎重な観察早期治療によつて回復しうるものであることが認められるので、少なくとも同証人がしたようにシヨツク死を直ちに特異体質と結びつけることは妥当ではないといわなければならない。
以上の説示を総合検討すると、篤の解剖所見中には口蓋扁桃腫脹及び脾臓稍肥大といつた胸腺リンパ体質特有の所見と符合する所見も一部みられるとはいえ、これのみをもつてしてはいまだ同人が胸腺リンパ体質であつたと推認することは困難というべきであり、従つて、篤の死亡が右体質に起因する不可抗力によるものであつたと認めることはできないものである。
2 そこで、被告及び鈴木看護婦の前記過失と篤の死亡との間の因果関係の存否について判断をすゝめる。<証拠>によれば、一般に腰椎麻酔に伴なう危険な偶発症として呼吸麻痺と血圧下降ないし心停止が生ずることがあり、それらのシヨツクにより死亡に至ることもあることが認められる。しかしながら、腰椎麻酔に伴うシヨツクのほとんどは適切な医療措置を施すことによつて回復が可能であることは前述のとおりである。ところが、被告医院における術中・術後の麻酔及び患者の管理には前記認定のとおり不適切・不完全な点が存していたのである。しかも、<証拠>によれば、篤は従来健康で本件手術当時も格別の病気もなかつたことが認められる。ところが篤はすでに本件手術終了時(二時三〇分頃にはカゼを想起させるような症状を呈示していたこと、その後病室に運ばれてからも「鼻がつまつて苦しい」「のどが苦しい」旨訴えていたこと、さらに本件手術後二〇分位経過した時点でペルカミンエスによるシヨツク状態に陥り死亡するに至つたことは、いずれも前述のとおりである。以上の諸事実に徴すれば、篤の右シヨツク状態は突発的なものではなく徐々に進行したものと推認されるので、もし被告らが麻酔管理及び術後の患者管理を十分に尽していたならば、篤の症状の変化を早期に発見し適切な措置を講ずることができたと判断すべきである。以上の説示に前記1に述べたとおり篤が胸腺リンパ体質であつたとは認められないことをも加味して、総合考察すれば、前記認定の被告及び鈴木看護婦の本件手術における術中・術後の麻酔及び患者管理に関する過失と、篤の死亡との間には因果関係を肯定することができるといわなければならない。
五してみれば、本件契約に基づく前記債務の不完全履行によつて、篤の死亡を惹起したものであるといわなければならない以上、被告はその死亡の結果本件契約当事者である篤及び原告らが被つた左記損害を賠償する義務がある。
(藤原康志 山崎末記 金子康雄)