東京地方裁判所 昭和50年(行ウ)148号 判決 1982年12月22日
原告 戸坂則安
被告 国 陸上自衛隊第三二普通科連隊長 外四名
訴訟代理人 都築弘 田中一泰 外一二名
主文
一 被告陸上自衛隊第三二普通科連隊長が原告に対し昭和五〇年一一月二四日付けでした退職承認処分を取り消す。
二 被告国は原告に対して金六〇万円及びこれに対する昭和五〇年一一月二四日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。
三 原告の被告国に対するその余の請求並びに被告森田讓、同萩原嘉明、同小林松明及び同阿部誠八郎に対する請求をいずれも棄却する。
四 訴訟費用は、原告に生じた費用の二分の一及び被告陸上自衛隊第三二普通科連隊長に生じた費用を同被告の負担とし、原告に生じたその余の費用及び被告国に生じた費用の各一〇分の一を被告国の負担とし、原告及び被告国について生じたその余の費用並びにその余の被告について生じた費用を原告の負担とする。
事実
第一当事者の求める裁判
一 原告
1 次の判決
(一) 主文第一項と同旨
(二) 被告国、同森田讓、同萩原嘉明、同小林松明、同阿部誠八郎は、原告に対し、連帯して、金六〇〇万円及びこれに対する昭和五〇年一一月二四日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。
(三) 訴訟費用は被告らの連帯負担とする。
2 1の(二)につき仮執行の宣言
二 被告陸上自衛隊第三二普通科連隊長
1 本案前
次の判決
(一) 本件訴えを却下する。
(二) 訴訟費用は原告の負担とする。
2 本案
次の判決
(一) 原告の請求を棄却する。
(二) 訴訟費用は原告の負担とする。
三 被告国
1 次の判決
(一) 原告の請求を棄却する。
(二) 訴訟費用は原告の負担とする。
2 担保を条件とする仮執行免脱の宣言
四 被告森田讓、同萩原嘉明、同小林松明、同阿部誠八郎
次の判決
1 原告の請求を棄却する。
2 訴訟費用は原告の負担とする。
第二当事者の主張
一 請求原因
1 当事者
(一) 原告
原告は、昭和四八年一月三〇日、陸上自衛隊に入隊した。入隊したのち、第一一七教育大隊第三三一教育中隊で前期教育を、第三二連隊で後期教育を受けた。教育終了後、同連隊第四中隊に配属された。その後、中隊長伝令、一般小銃手を経て、市ケ谷駐屯地業務隊に臨時勤務を命ぜられ、図書係、貯金係を担当した。昭和五〇年九月、第四中隊に復帰し、同年一一月当時は、同中隊において勤務していた。この間、昭和四八年四月に、日本大学経済学部第二部に入学した。また、入隊時は二等陸士であつたが、昭和四九年一月に一等陸士に、昭和五〇年一月に陸士長に昇進した。
(二) 被告ら
昭和五〇年一一月当時、被告陸上自衛隊第三二普通科連隊長(以下「被告連隊長」という。)は、坪井美弘(以下「坪井」という。)であつた。また、同月当時、被告森田讓(以下「被告森田」という。)は同連隊第四中隊長、被告萩原嘉明(以下「被告萩原」という。)は同中隊副中隊長、被告小林松明(以下「被告小林」という。)は同中隊付准尉、被告阿部誠八郎(以下「被告阿部」という。)は同中隊車両係であつた。
2 退職承認処分の存在
被告連隊長は、原告に対して、昭和五〇年一一月二四日付けで退職承認処分を行つた(以下これを「本件退職承認処分」という。)。
3 退職勧奨及び退職承認処分の経過
(一) 昭和四九年九月から、「隊内通信」というパンフレツトが自衛隊内に送付されてくるようになつた。「隊内通信」においては、自衛隊の反憲法性、侵略行動、治安出動、隊内精神教育等について批判がなされていた。原告は「隊内通信」に全く関与していなかつたが、被告らは、きわめて薄弱な根拠に基づいて、原告が「隊内通信」に関与していると判断した。そして、次のようなことを行つた。
(1) 昭和五〇年九月五日、被告小林は、原告を呼び出し、原告に対し、「九月三日、四日は何をしていたか。行動を言え」と大声でどなつた。原告はこれを拒否した。
(2) 同月一〇日、被告萩原は、岩手県水沢市在住の原告の父戸坂安太郎(以下「安太郎」という。)を呼びつけ、「息子は反戦自衛官である。退職を勧めてくれ。」と言つた。
(3) 同月二二日、被告萩原は、原告を呼びつけ、同月三日、四日の外泊場所を繰り返し執ように尋問した。原告が答えると「それはうそだ。」と言い、原告に対し、通学及び外出禁止を申し渡した。
(4) また、同年八月から九月初旬にかけ、被告小林は、原告を呼びつけ、「お前の行動は不明確だ。自衛隊をやめろ。」などと退職を強要した。そして更に、被告らは、同年一一月二一日から、原告に対し、退職勧奨を行うに至つた。
(二) 昭和五〇年一一月二一日
(1) 昭和五〇年一一月二一日、第三二普通科連隊第四中隊の主力部隊は、音楽まつりの訓練のため市ケ谷駐屯地を離れていたが、原告は、残留していた。
同日の午前中、原告は、歯の治療のために病院に行つたが、午後は、ベツトの組立て作業を命ぜられた。原告が第三営内班居室で右作業に従事していると、被告小林から「来い。」と言われ、営内班長室へ連れていかれた。
営内班長室では、窓際の応接用テーブルのところの折りたたみいすに、ドアを背にし、窓側を向いて座らされた。被告小林は、「ちよつと待つてくれ。」と言つて、原告を残して一旦部屋の外に出て行つた。やがて、同室に、被告萩原、同小林、同阿部及び菅谷一曹が入つて来た。被告萩原は、テーブルをはさんで原告の反対側にあるひじつきいすに座り、被告小林、同阿部、菅谷は原告の左隣から被告萩原の方へ、この順でいすに座つた。被告萩原は、分厚い書類のようなものを持つてきていた。
(2) 被告萩原は、原告に対し、開口一番「もうゲームは終りだ。君の負けだ。一年半御苦労だつたな。」と言い、更に「お前は二葉健太郎という名前で隊内通信に中隊長の話についての記事を書いただろう。」と言つた。また、被告小林も「お前が隊内通信に書いたのだ。中隊の中の同僚に、自衛隊は帝国主義軍隊だとか、自衛隊は憲法違反だとか、自衛隊を崩壊させようなどと言つたのだ。」などと言つた。原告は身に覚えのないことばかりで、何を言われているのか全く理解できなかつた。そこで原告は、自分はそのようなことを書いていないし、言つてもいない旨述べ、「証拠を見せてほしい。」と申し出た。すると「嘘をつくな。証拠はあがつている。」などと言われ、特に被告阿部からは「戸坂士長、証拠を見せろ、証拠を見せろと言つているけれども、証拠がなくてこんなことができますか。事実に基づいてやつておるんですよ。真実は一つだ。」と言われた。原告は、「私はそういうことをやつておりません。書いておりません。」と繰り返し述べたが全く聞き入れてもらえなかつた。
そのうち、被告萩原は、退職願用紙を取り出して原告の前に置き、「これを書け。」と強要した。原告が「書かない。退職するつもりはありません。」と答えると、被告萩原は、「お前が退職しないと言つても、どんなことがあつても出て行つてもらう。お前は自衛隊を解体するというような意味のことを言つているから、自衛隊に置いておくわけにはいかない。退職願を早く書いて出ていつた方がいいぞ。若い血気盛んな陸曹連中が帰つてきたらどうなるかわからんぞ。」と、求めに応じなければ身体に危険が及ぶことを示唆して、脅迫した。
(3) 同日午後七時ころまで、右のようなことが繰り返されたが、その間、原告は営内班長室から自由に退出することを次のとおり禁止された。
被告萩原、同小林は一時営内班長室を出て行つたが、その際、入れ替りに坂下二曹、幡谷二曹が入室して原告を監視した。
原告が用便のため便所に行きたい旨申し出ると、被告小林は「だめだ。」と言つた。その後原告はかろうじて用便に行くことを認められたが、そのときにも、便所の入口まで被告らが同行した。
被告小林らは、営内班長室とその隣の私物庫の各入口に立入禁止の張り紙をして、営内班長室を密室状態にした。
午後三時ころ、原告は、自分の居室に帰らせてほしいと申し出た。すると、被告小林は、「営内班長室で退職勧奨を受けるのがお前の任務だ。執務時間中だからだめだ。」と言つた。原告は、任務だと言われれば従わざるをえず、その場にとどまつた。
夕食は、当日は原告の居室でとるべきところ、営内班長室でとることを強制された。原告は命令に従つて中隊事務室前で配食を受けて営内班長室に戻つた。
(4) 午後七時ころ約二〇名の陸曹らが営内班長室に入つてきた。原告は陸曹らに身体を持ち上げられ、部屋の中央に連れて行かれた。そして入口の方を向いていすに座らされた。約二〇名の陸曹らは原告を取り囲んだ。
陸曹らは原告に対し「出て行け。お前は非人間だ。精神異常だ。スパイだ。俺たちをなめるな。」などと大声でば声を浴びせかけた。彼らは、先に被告萩原、同小林らが、原告を反戦自衛官だと決めつけた、その内容について知つている様子で、やはり原告を反戦自衛官であると決めつけていた。
次々に浴びせられるば声に対し、原告が黙つていると、被告小林が原告を挑発するかのように、原告の陰部を平手で三、四回殴打し、更に両ほほにいわゆる往復ピンタを加えた。更に、西二曹が、原告の後ろから手を伸ばして、原告の陰部を握つた。
そのほか、千葉三曹が、原告の髪の毛を引つ張つて「吐け。吐け。」と言い、長谷川三曹が原告の顔にタバコの煙を吹き掛け、被告萩原も同様のことを二、三回行つた。
被告萩原、同小林は、右陸曹らの中にあつて、積極的に陸曹らをせん動し、彼らに暴行をやらせていた。
自分から手を出したら負けだと考えた原告は、どんなことをされても背筋を伸ばして前を向き、手をひざの上に乗せて不動の姿勢をとつていた。原告は極度の緊張のせいか眠くなり、こつくりし始めたことがあつた。すると陸曹らは、原告の身体を後ろから抱え、頭を上げさせたり、立たせて背中を足で蹴つたり、眼を指で無理矢理あけたりした。
午後一〇時に消燈ラツパが鳴つた際、原告は、「部屋に帰つて寝る。」と言いながら立ち上がり、入口のドアの方に歩いて行き、自分の居室に帰ろうと試みたところ、直ちに、何名かの陸曹らが原告の背中を押えつけ、「俺たちを何だと思つておるんだ。なめるなよ。」と言いながら、上からのしかかり、再び部屋の中央のもと居たいすに連れ戻されてしまつた。
陸曹らは多少の出入りはあつたが、終始約二〇名居り、午後一二時ころまで同様の状態が続いた。
午後一二時ころ、原告が眠気でこつくりしていて気がつくと、約二〇名の陸曹らは、六、七人を残して営内班長室を出て行つた。
(三) 昭和五〇年一一月二二日
(1) 昭和五〇年一一月二二日午前零時ころから午前六時半ころまで約二〇名の陸曹らのうち六、七名が常時交替で営内班長室に居り、原告は引き続き同室にとどまることを強制された。
六、七人の者たちは、原告に対して大声でどなるというようなことはしなかつたが、原告を眠らせないようにするためらしく、原告の身体が眠気で傾いたりしたときには、身体を起こさせたり、頭をあげさせたりした。そして、「自衛隊をやめろ。」と退職を強要し続けた。
起床ラツパが午前六時半に鳴つた際、二名くらいの陸曹らが営内班長室から出て行つた。そして被告小林が原告に「課業時間(午前八時半)まで寝ろ。」と言つた。原告はようやく二時間程度同室内のベツドで横になることができた。
(2) 午前八時半ころ、原告は、被告小林から課業時間だということで起こされた。
午前中は、前日と同様、被告萩原、同小林、菅谷一曹、幡谷二曹、坂下二曹が営内班長室に入つて来て、退職を強要した。前日と異なり、飯塚一曹がこれに加わつた。飯塚は非常に居丈高な態度をとつていた。やはり、原告一人を部屋に残して誰もいなくなるということはなく、食事中を含め、終始何人かの者が必ず居り、原告が便所に行く際には必ず二、三人の者がついて来た。
午後も午前と同様の状態が続いた。
同日は、午前、午後ともに、原告は、さほど眠くはなかつた。
(3) 午後七時ころ、昼間音楽まつりの訓練のため外に出ていた陸曹らが帰つて来て、原告の居た営内班長室に入つて来た。前日より多く約三〇名であつた。
原告は、部屋の中央の石油かんの上に座らされた。
突然、部屋の電燈が消え、原告は誰かから右後頭部を手けんで一回殴打された。電燈はすぐについたが、あまりのタイミングの良さから、あらかじめ打ち合わせて殴打のために電燈を消したことがうかがわれた。
電燈がつくと、今度は部屋の中央に立たされた。以後、翌日の朝食時まで起立を強制された。
午後一〇時ころ、被告小林が、原告に対し、「自衛官であるという証明は何だ。」と尋ねたので、原告は、「身分証明書です。」と答えた。すると、被告小林は、「それじや出してみろ。」と言つた。原告は身分証明書を取り出して被告小林に渡した。すると被告小林は、急に、「もうお前には必要ないということだ。」と言つて、原告の身分証明書を取りあげてしまつた。
原告は「返してくれ。」と言つて手を伸ばしたが、被告小林は右身分証明書を後ろにいた陸曹に手渡した。原告がこれを取りに行こうとすると、それは次々に陸曹らの間で手渡されて、原告から遠ざけられた。他方、被告小林は、原告の前に立ちはだかり、「取れるものなら自分を突きとばして取つてみろ。」などと言つた。結局、原告は身分証明書を完全に取りあげられてしまつた。
身分証明書を取りあげると、被告小林は、作業服に作業ズボンを着用していた原告に対し、「もうお前は身分証明書もないから、自衛官じやない。官品を着せているわけにはいかないから脱げ。」と命じた。原告は、右命令に従わずに立つていた。すると被告小林は、陸曹の誰かに原告のロツカーから原告の私服を持つて来させ、原告に対し私服に着替えろと命じた。原告がこれにも応じないでいると、二、三人の陸曹らが原告の作業着の上着及びズボンを無理矢理脱がさせた。原告が何もしないでいると、今度は私服を無理に着せた。原告は、ズボンがずり落ちないように自分でズボンのチヤツクを上げベルトを締めたが、そのほかのことは、すさまじくおそろしい雰囲気の中で抵抗することもできず、陸曹らのなすがままにされていた。
(4) 午後一〇時すぎころ、六、七名を残して他の陸曹らは、営内班長室を出て行つた。六、七名の陸曹らは、引き続きその場に残つた。陸曹らが営内班長室に入つて来て合図をし、それまでいた陸曹らが出て行く、という形で常時六、七名の陸曹らが同室にいた。
原告は立たされ続けていたが、次第に眠気で立つていられなくなり身体が弓なりや前かがみになつたりした。すると、その都度、陸曹らが「しつかりしろ。」などと言いながら、原告の身体を抱きかかえ起こした。また原告は「退職しろ。」と強要され続けた。
原告は、立たされ続けながら、自分は頑張つて彼らがどんなことをやつても耐えてみせるという気になつたが、反面、朝を待ち遠しくも思つた。
(四) 昭和五〇年一一月二三日
(1) 昭和五〇年一一月二三日午前七時半か八時半ころ、右起立の強制が解かれ、原告は朝食を与えられた。六、七名いた陸曹らは四、五名となつたが、相変わらず原告を一人置いて全員部屋の外に出てしまうということはなかつた。
(2) 午前一一時ころ、陸曹らが営内班長室から出て行き、誰もいなくなつたと思うと、急に原告の両親が被告森田、同萩原、同小林とともに入室してきた。
まず、被告森田が、原告に対し「退職する決心がついたか。」と尋ねた。原告が「辞めるつもりはない。」と言うと、被告森田は「両親がみえたのだから、はつきり言いなさい。」と言つた。
原告の両親は、「辞めて帰ろう。」と原告に話しかけたが、原告は「帰らない。大学があるから。」と答えた。原告の母百合子は大学ばかりが人生じやない旨述べたが、原告は、自分のほうからはあまり話をしなかつた。
安太郎の被告森田に対する申入れにより親子三人だけで話をすることになり、二、三時間親子三人で話した。ここでも両親は原告に対し自衛隊を辞めて故郷の水沢に帰ることを勧めたが、原告の意思は変わらず、「いや、帰らない。」と明言した。そして原告は、同月二一日から暴行を受け、全然寝かせられていないことなど違法不当な退職勧奨を受けていることを話した。軍隊経験があり、できれば故郷に連れ帰りたいと考えていた安太郎は「軍隊だからそういうこともあるだろうな。」と応答した。
親子三人だけのとき、原告は安太郎から、中隊長室で被告森田から、このままだと懲戒免職になるから、退職願用紙にあなたが書けば、それが通用しますよと言われた旨聞かされた。
両親が帰るに際し、安太郎が被告森田にあいさつをしに中隊長室へ行くというので原告も同行した。原告は、被告森田から再び「退職の決心がついたか。」ときかれたが、原告はきつぱり「退職の意思はない。」と述べた。
(3) 両親が帰つた後、原告は、再び営内班長室で五、六人の陸曹らに囲まれ、「やはり辞めて帰れ。退職願を書け。」と言われた。その場にいた陸曹らの一人である須部二尉は「君は明日の二四日付で懲戒免職になり、それとともに明日朝君を田舎に連れて行く。」と述べた。
五、六人の陸曹らに取り囲まれた状態は、翌二四日午前四時ころまで続いたが、その間の二三日午後一二時ころ、原告は、坂下二曹、幡谷二曹から「頼むから辞めてくれ。」といつた調子で退職を強要された。そこへ被告小林が来合わせ、これを見て、「こいつはそんなことを言つたつて聞くやつじやないんだ。」と言いながら、原告の両ほほに往復ビンタを加えた。被告萩原は被告小林を制止してなだめた。
この夜も一晩中眠ることを許されなかつた。
(五) 昭和五〇年一一月二四日
(1) 昭和五〇年一一月二四日午前四時ころ、被告小林が、B四のわら半紙にマジツクインキで「一身上の都合にて退職します。」と横書きに書いたもの一枚、白紙数枚及びボールペンを持つて来て原告の前の机の上に置き、「この手本通り白紙に書け。」と言つた。原告がこれを拒否したので、「書け。」「書かない。」の押し問答になつた。その後被告小林は、原告が胸のポケツトに差していた万年筆を取り、原告にこれを握らせようとした。しかし原告はこれを握る意思がなかつたので、被告小林が手を離すと万年筆は下に落ちた。そこで、被告小林は、今度は万年筆を原告に握らせ、その上から手を添えて、手本通りのものを書かせようとした。
原告は、はじめは抵抗したが、そのうち気力がなくなり、なされるままになつた。被告小林は、これを、字の練習だと称した。
このころの原告は、ほとんど眠らされず監禁、暴行、脅迫を受け続けた結果、疲労困ぱいし、意識がもうろうとしている状態であつた。座つていても体は弓なりになり、目を開けているのがやつとの状態であつた。
原告は体がまがれば持ち上げられる一方、字の練習をしたら寝かせてやると言われた。原告は、退職願を書かないという最低限の線だけ守つていればいいのだから、監禁、暴行、脅迫の状態をまぬがれるために、とにかく自分で手本通り書いて寝ようと考えるに至つた。
自分で手本通り書こうとしたが、疲労の激しい原告は、すぐには手本通り完成できなかつた。何度も失敗して書き直していると、印刷してある退職願用紙を持つて来て、「これに書け。」と言われた。原告が、これを拒否すると、被告小林は、それをすぐに引つ込めた。
再び白紙に新しく書き始めると、そのうち、白い紙の一部分が横一五センチ縦二~三センチくらいの大きさで切り取つてあるものが出されてきた。そして「その切り取つてある部分の、下にある紙に書け。」と言われた。原告は、下の紙の色から退職願ではないかと思い、上の、一部を切り取つてある紙を取り上げてみると、案の定、退職願用紙が出てきた。そこで、原告はこれに書くのを拒否した。
このようなことがあつた後、「一身上の都合にて退職お願いします。」と最後まで書けたものができた。すると、そこに原告の階級と氏名を書くように言われ、「士長戸坂則安」と書いた。ここまで書いたら、「よし」と言われ、ようやく営内班長室のベツドで寝ることが許された。
(2) 原告は、午前六時ころ、被告小林から起こされ、「辞令を出すから中隊長室へ来い。」と言われた。原告は、前日の安太郎や須部二尉の言葉から、懲戒免職の辞令が出されるものと考えた。懲戒免職の辞令が出されれば訴訟をして徹底的に争うほかはないだろうとも考えた。退職の意思はなく、退職願も書いていなかつたので、依願退職の辞令が出されるとは思つてもみなかつた。
原告は、被告小林に連れられて中隊長室に入つた。中隊長室には被告森田がいた。原告は、被告森田の前に進んで敬礼し、被告森田が黙つて差し出す辞令を受けとつた。反戦自衛官の嫌疑がかけられてはいたが、軍人であるから形式だけは守ろうと礼式に従つた。
見ると、懲戒免職ではなく、依願退職であつた。さつき字の練習だといつて書かされたものが使われ、自分はだまされたと思い、がつくりきた。
被告小林が、これを読んで申告せよと言いながら、マジツクで「一身上の都合にて退職します。」と書いた紙を原告に見せた。原告は、ここではもう何を言つても仕方がない、改めて裁判で争う以外はないと思い、言われるまま申告し退室した。
玄関前に行くと陸曹らがおり、被告小林が、原告が辞めることになつたと説明した。原告は、「世話になりました。」とだけ言つた。陸曹らが握手をもとめてきたが、ここで何をしても仕方がない、という気持でされるままになつていた。
玄関前に何の説明もなく車が用意されており、それに乗り込ませられ、出発した。
(3) 原告は、車中ではひたすら眠つた。途中トイレに降りたほか、食事もとらず眠つた。両脇には陸曹が座り、トイレに降りるときにはついて来た。
水沢の自宅に帰りついても眠り続けた。
(4) 翌日、原告は裁判を起こすために東京へ出た。そして名前を知つていた長谷川弁護士に相談して、本訴を提起するに至つた。
4 本件退職承認処分の違法性
(一) 自衛隊法三一条に基づく退職承認処分は、あくまでも退職の申し出が有効であることを前提とする行政処分であるから、退職の申し出がそもそも存在しない場合や無効あるいは取り消された場合には、結局、違法な行政処分として取消しを免れない。
(二) しかるところ、本件においては、次のとおり、退職承認処分の前提となる退職の申し出は存在しない。
(1) 原告は、前記3記載のとおり、「一身上の都合にて退職お願いします。士長戸坂則安」という書面を作成した。
(i) しかし、右書面は、前記3記載の事実から明らかなように、退職の意思を持たない原告が、監禁、暴行、脅迫から免れるために、被告小林から促されるまま作成したにすぎないものであつて、右書面があるからといつて退職の申し出があるということはできない。
(ii) また、隊員のする退職の申し出がきわめて重大な意味をもつ意思表示であることを考慮すると、それは、真意であることにつき疑義を残す余地がないほど明確にされる必要があるのであつて、隊員自らが所定の様式による退職願を提出できない特段の事情がある場合を除いては原則として所定の様式に従つてすることを要するものといわなければならない。しかるに、右書面は、所定の様式に従つたものではないから、この点からも右書面があるからといつて退職の申し出があるということはできない。
(2) その他原告が退職の申し出をしたと認められる事実はない。
(三) 仮に、右書面が存在することをもつて退職の申し出が存在するということができるとしても、この退職の申し出は次のとおり無効である。
(1) 前記3記載の退職勧奨(以下「本件退職勧奨」という。)は、前記3記載の事実から明らかなように「反戦自衛官」と目された原告を自衛隊から排除することを目的としてされたものであるが、自衛隊員といえども憲法の保障する思想、表現の自由を有しているのであるから、原告が仮に「反戦自衛官」であるとしても、そのこと故に原告が自衛隊をやめるよう説得されるいわれは全くないし、またそのようなことがあつてはならない。したがつて、本件退職勧奨は、その目的の点において明らかに違憲といわなければならず、その結果得られた右退職の申し出も公序良俗に反して無効である。
(2) 更に、本件退職勧奨は、前記3記載の事実から明らかなように、その態様が原告の自由な意思の形成を強度に妨げるものであつたというべきであり、その結果なされた右退職の申し出は、公序良俗に反して無効である。
(四) 仮に、右退職の申し出が無効でないとしても、本件退職勧奨は前記のようにその態様が原告の自由な意思の形成を著しく妨げるものであつたから、強迫によるものとして取り消すことができるものというべきであり、原告は、昭和五〇年一二月九日に送達された本件訴状をもつて、被告連隊長に対し、右退職の申し出を取り消す旨の意思表示をした。
(五) 以上のとおり、本件退職承認処分は、違法な行政処分として取消しを免れない。
5 被告らの損害賠償責任
(一) 国の公権力の行使に当たる自衛官である被告森田、同萩原、同小林、同阿部その他の陸曹らが、その職務として行つた本件退職勧奨の態様は、前記3記載のとおり従来に例を見ない明らかに異常なものであつて、本件退職勧奨が違法であることは明らかである。したがつて、被告国は国家賠償法一条一項により、また、本件退職勧奨に関与した被告森田、同萩原、同小林及び同阿部は民法七〇九条、七一九条により、原告が本件退職勧奨により被つた損害を賠償する責任を負う。
(二) 原告が本件退職勧奨により被つた損害は次のとおりである。
(1) 慰藉料 金五〇〇万円
原告は本件退職勧奨により重大な精神的苦痛を被つた。この精神的苦痛を慰藉するには金五〇〇万円が相当である。
(2) 弁護士費用 金一〇〇万円
原告は、本訴の提起及び訴訟追行を本件訴訟代理人に委任し、金一〇〇万円を支払うことを約した。
6 結論
よつて、原告は、被告連隊長に対し、本件退職承認処分の取消しを、被告国、同森田、同萩原、同小林及び同阿部に対し、連帯して、金六〇〇万円及びこれに対する不法行為の日である昭和五〇年一一月二四日から支払ずみまで民事法定利率年五分の割合による遅延損害金を支払うことをそれぞれ求める。
二 被告連隊長の本案前の主張
1 訴えの利益
(一)(1) 自衛隊員は、特別職の国家公務員として、国家公務員法の規定の適用はなく(同法二条三項一六号、同条五項参照)、自衛隊法第五章の規定が適用される。同法三六条一項は、「陸士長、一等陸士、二等陸士及び三等陸士(以下「陸士長等」という。)は二年を、……任用期間として任用されるものとする。」と規定しているから、陸士長等は採用の日から二年間に限り自衛官としての地位を取得し、同期間の満了により当然にその地位を失う。
(2) ところで、同法三六条四項は、「長官は、陸士長等……の任用期間が満了した場合において、当該陸士長等……が志願をしたときは、引き続き二年を任用期間としてこれを任用することができる。」と規定している。この陸士長等の継続任用の性質についてみるに、同法三一条二項の規定に基づいて防衛庁長官の制定した「隊員の任免等の人事管理の一般的基準に関する訓令」は、「継続任用」とは「法第三六条第四項の規定に基づき、任用期間の定めのある隊員を任用期間が満了した場合引き続いて隊員に任命すること」と定め(三条三号参照)、かつ、継続任用の発令方法について、任用期間の定めのある隊員の採用の場合と全く同様の方法を定めていること(一八条二号参照)及び右継続任用手続の運用に関し、防衛庁長官の「陸士の任用期間に関する訓令」及び陸上幕僚長の「陸士の継続任用に関する達」が制定されており、同訓令六条及び同達四条ないし七条は、採用の際の選抜試験に代え、継続任用に際し適任者を選抜するための基準を定め、同達二条は右基準に該当する者のうちから適任者を選抜し、任用する旨定め、また同訓令一〇条、一一条は、任免権者は、継続任用選考審査会議の意見を徴したうえ継続任用者を決定し、発令する旨定めていることからすれば、陸士長等の継続任用は、自衛官の採用の場合と同様に、任用期間の満了した陸士長等に引き続き任用された日から二年間自衛官たる地位を設定する行政処分であると解せられる。
(3) 原告は、昭和五〇年一月三〇日をもつて、継続任用された者であるから、仮に本件退職承認処分が取り消されたとしても、昭和五二年一月二九日の任用期間の満了により自衛官たる地位を失つたことになる。
仮に、原告が同日前に継続任用を志願する意思表示をしていたとしても、前記のとおり継続任用は任免権者の行政処分であり、志願者を採用するか否かを決定することは任免権者の裁量に委ねられ、任免権者が継続任用をする義務を負うものでないから、後述するように反自衛隊活動をしていたことの明らかな原告を継続任用することなど全く考えられない。
(4) そうすると、仮に、本件退職承認処分が取り消されたとしても、原告の任用期間が満了した昭和五二年一月二九日後は、原告は自衛官としての地位を回復する可能性がなく、したがつて、原告は本件退職承認処分の取消しを求める法律上の利益がないのである。
(二)(1) もつとも、最高裁昭和四〇年四月二八日大法廷判決(民集一九巻三号七二一ページ)は、免職された公務員が違法な免職処分さえなければ公務員として有するはずであつた給料請求権その他の権利、利益を回復するために必要な手段として、免職処分取消しの訴えの利益を認めている。
(2) しかしながら、本件の場合、本件退職承認処分を取り消し、原告の自衛隊員としての地位を過去の一定期間にわたつて回復することによつて、その期間に対応する俸給請求権等の権利がどれだけ直接、自動的に回復できるかを検討してみると、原告は右期間現実に勤務していないのであるから勤務しなかつたことの責めが使用者にある場合に初めて俸給の全額支払請求権が存在することになるのであるが、この使用者の責めに帰すべき事由の判断は国家賠償請求訴訟の故意、過失の要件と同じといえるので、この部分については本件退職承認処分を取り消すことにより直接、自動的に回復される利益とはいえない。もつとも、本件退職承認処分が取り消されると在職期間が長くなるので退職金はその分だけ増額されることになる。したがつて、過去の一定期間にわたつて地位を回復することによつて直接、自動的に回復される附随的利益は、退職金の増額だけにすぎないことになる。
(3) これら退職金、俸給請求権等の経済的利益は国家賠償請求訴訟によりすべて回復することができる。これらすべての経済的利益が過去の一定期間による地位の回復により自動的にすべて回復される場合であれば取消訴訟を認める利益があるといえるとしても、本件のように、そのわずか一部しか自動的に回復できず、他は国家賠償請求によるのと変りない場合にまで取消訴訟の訴えの利益を認める必要はない。前記最高裁判決も「特段の事情」の存するときには訴えの利益が認められない場合があることを予想している。
(4) したがつて、右に述べた事情と、本件では国家賠償請求訴訟が併合審理されているからその訴訟の中で給料相当損害金等を請求するのが訴訟経済にかなうものであることを併せ考慮すれば、取消訴訟の本来の利益としての地位の回復が不可能な場合に本件退職承認処分の取消しというう遠な手段をとらなくとも、右処分の違法を理由とする国家賠償請求訴訟でその目的を達しうるのであるから、本件退職承認処分の取消しを求める法律上の利益は存在しないというべきである。
2 不服申立て前置主義
原告は、本訴において、退職承認処分の取消しを求めているが、その実質は、その意に反した免職処分の取消しを求めているものと解しうるところ、意に反した免職処分の取消しを求める訴えは不服申立て(審査請求又は異議申立て)を経ることが要件とされている(自衛隊法五〇条の二参照)。しかるに、原告は不服申立てを経ていない。
そうすると、原告の本件退職承認処分の取消しを求める訴えは、不適法である。
三 請求原因に対する被告らの認否
1 請求原因1について
(一) (一)の事実は認める。
(二) (二)の事実は認める。
2 請求原因2の事実は認める。
3 請求原因3について
(一) (一)の事実のうち、昭和四九年九月から「隊内通信」というパンフレツトが自衛隊内に送付されてくるようになつたこと、「隊内通信」の一部に原告主張のような自衛隊に対する批判的な記事が掲載されていたこと及び安太郎が岩手県水沢市に在住していることは認めるが、その余は否認する。
(二) (二)について
(1) (1)の事実のうち、第三二普通科連隊第四中隊の主力部隊は音楽まつりの訓練のため市ケ谷駐とん地を離れていたが原告は残留していたこと、原告が被告小林から呼ばれて被告小林とともに営内班長室へ行つたこと、原告は営内班長室では窓際の応接用テーブルのところの折りたたみいすにドアを背にし窓側を向いて座つたこと、被告萩原が営内班長室に入つて来たこと、被告萩原はテーブルをはさんで原告の反対側にあるひじつきいすに座つたこと及び被告小林もいすに座つたことは認めるが、その余は否認する。
(2) (2)の事実のうち、被告萩原が原告に対して反自衛隊活動について尋ねるとともに退職を勧めたこと及び原告が退職することを拒否したことは認めるが、その余は否認する。
(3) (3)の事実のうち、被告小林が営内班長室とその隣の私物庫の各入口に立入禁止の張り紙をしたこと及び原告が中隊事務室前で配食を受けて営内班長室に戻つたことは認めるが、その余は否認する。
(4) (4)の事実のうち、午後一〇時に消燈ラツパが鳴つた際原告が自分の居室に帰ろうと試みたことは認めるが、その余は否認する。
(三) (三)について
(1) (1)の事実のうち、被告小林が原告に対して課業時間(午前八時半)まで寝るよう言つたこと及び原告が二時間程度営内班長室内のベツトで横になつたことは認めるが、その余は否認する。
(2) (2)の事実のうち、原告が被告小林から課業時間だということで起こされたことは認めるが、その余は否認する。
(3) (3)の事実のうち、電燈が瞬間的に消えたことがあつたこと、原告が身分証明書を取り出して被告小林に渡し被告小林がこれを預つたこと及び被告小林が陸曹に原告の私服を持つて来させ原告に私服に着替えるよう言つたことは認めるが、その余は否認する。
(4) (4)の事実は否認する。
(四) (四)について
(1) (1)の事実のうち、原告が午前七時半ころ朝食を食べたことは認めるが、その余は否認する。
(2) (2)の事実のうち、午前一一時ころ原告の両親が被告森田、同萩原、同小林とともに営内班長室に入室したこと、原告の両親は「辞めて帰ろう。」と原告に話しかけたが原告は「帰らない。大学があるから。」と答えたこと、百合子は大学ばかりが人生ではない旨述べたが原告は自分のほうからはあまり話をしなかつたこと、親子三人で二、三時間話したこと及び安太郎が帰る際原告とともに中隊長室へ行つたことは認める。親子三人で話した際の話の内容は知らない。その余は否認する。
(3) (3)の事実は否認する。
(五) (五)について
(1) (1)の事実のうち、原告が退職する旨の文言、階級及び氏名を書いたことは認めるが、その余は否認する。
(2) (2)の事実のうち、午前六時ころ原告が被告小林から呼ばれて中隊長室に入つたこと、中隊長室には被告森田がいたこと、原告は被告森田の前に進んで敬礼し被告森田が差し出す辞令を受け取つたこと、原告は礼式に従つていたこと、辞令は依願退職の辞令であつたこと、玄関前に陸曹らがいたこと、原告が陸曹らと握手をしたこと及び玄関前に車が用意されており原告はそれに乗り込んで出発したことは認めるが、その余は否認する。
(3) (3)の事実は否認する。
(4) (4)の事実のうち、原告が本訴を提起したことは認めるが、その余は知らない。
4 請求原因4について
(一) (一)は争う。
(二) (二)のうち、原告が退職する旨の文書、階級及び氏名の記載のある書面を作成したことは認めるが、その余は争う。
(三) (三)ないし(五)は争う。
5 請求原因5は争う。
四 被告らの本案についての主張
1 事実経過
(一) 原告に対し服務指導を行うに至つた経緯
(1)(i) 昭和四九年九月下旬、第三二普通科連隊(以下「連隊」という。)員五〇余名に対し、小西事務所「整列ヤスメ」編集部発行の「隊内通信」創刊号(発行日不明)が郵送されてきた。そして引き続き「隊内通信」第二号(同年一〇月二〇日版)、第三号(発行日不明)、第四号(昭和五〇年一月二七日版)、「整列ヤスメ」(同年二月版)、「隊内通信」第五号(同年三月三一日版)、第六号(同年五月一二日版)が次々と郵送されてきた。
(ii) これら「隊内通信」等の記事の中には、自衛隊について事実と相違する内容のもの、自衛隊を故意にひぼうする内容のものなどが含まれていたので、連隊においては、外部からの反自衛隊工作と判断した。
(iii) これら「隊内通信」等の郵送を受けた隊員は主として夜間通学者であつたので、外部からの工作の比較的容易な者を働きかけの対象者として選定したものと考えられた。また、連隊から他の隊に転属した隊員に対しては、その転属先に郵送されたし、隊員が退職すると間もなくその隊員には郵送されてこなくなつた。これらのことから、「隊内通信」等には、連隊の隊員、ことに隊員の異動、退職、通学等の状況を知りうる者が関与していることが推察された。
(iv) そこで、連隊においては、「隊内通信」等に関与している者の有無について調査した。この調査に当たつては、「隊内通信」の記事の内容、通学隊員の状況を知りうるかどうか、隊員の異動状況を知りうるかどうか、外出・外泊の状況等種々の観点から可能性のある隊員の範囲をしぼつていき、それらの隊員のうち諸般の状況から「隊内通信」等に関与しているとは到底考えられない隊員を除外していつた。すると、他の隊員との比較において、原告が最も疑わしいと判断された。
(v) 右の判断の根拠は次のようなことであつた。
(ア) 「隊内通信」第六号(昭和五〇年五月一二日版)に、昭和五〇年六月二三日から七月五日にかけて岩手県において実施を予定していた連隊の陸上及び海上機動演習(黒潮演習)の記事が掲載された。この記事は特に海上機動演習に着目して、この演習をアジア侵略のための戦闘訓練であるとするものであつた。
ところで、右海上機動演習に参加を予定されていたのは被告森田を指揮官とする第四中隊であつたが、原告は、同年六月八日ころ及び六月一八日の二回にわたり中隊係幹部(運用訓練幹部)に右演習に参加することを熱心に希望して参加することを認められた。
原告は、当時市ケ谷駐屯地業務隊に臨時勤務をしていたので通常の演習には参加していなかつたし、また、一般的にも演習にあまり熱意を示さず、鼻の治療を理由に参加を免除してもらつたりしていたが、右海上機動演習にかぎつて、右のとおり異常な熱意をもつて参加を希望したので、極めて奇異な感を与えた。
右に述べたように、「隊内通信」第六号に海上機動演習に触れた記事が掲載されたので、海上機動演習実施後に右演習の記事が掲載されるであろうと予測していたところ、予測どおりに、「隊内通信」第八号(昭和五〇年八月一三日版)に演習の概要と右演習を朝鮮侵略出兵を想定した演習であるとする記事が掲載された。
これらのことから、右演習の記事と原告との関係について疑いがもたれた。
(イ) 原告は、夜間通学者であり、夜間通学隊員の状況に明るいものと推察された。また、原告は業務隊厚生課貯金係に勤務していた昭和五〇年七月ころ、原告の担当職務とは直接関係がないにもかかわらず、隊員の異動通報綴りを一枚一枚めくつて眼を通していたことがあり、他の者から不審に思われていた。
(ウ) 原告は、他の隊員に比較して、通学のための外出のほか、特別外出(外泊を伴う外出)、普通外出が多かつた。
(エ) 原告は、昭和五〇年八月二日の特別外出の申請に際し、申請簿に「豊島区南長崎二―四―二」とのみ記載して宿泊先を明記しなかつたので、被告小林が原告に注意するとともに、宿泊先を尋ねたところ、原告は元隊員の岩間宅である旨答えた。
右注意にもかかわらず、原告は同年九月三日の特別外出の申請に際しても、再び宿泊先を明記しなかつた。そこで、被告小林が原告に尋ねて、みずから申請簿に宿泊先として岩間宅と記入した。
その際、原告の態度に不自然なところがあつたので、念のため調査したところ、原告は九月三日には岩間宅に宿泊していないことが明らかとなつた。なお、後日たまたま判明したところによれば、原告が申請簿に宿泊先として岩間宅の住所を記載して外出した七月七日、八月二日の両日の夜、岩間は自宅を留守にしていた。したがつて、原告は右両日も岩間宅には宿泊していないものと考えられる。
このように、原告が九月三日岩間宅に宿泊していないことが明らかになつたので、同月上旬、被告小林が原告に対し服務指導をし、更に同月二二日被告萩原が原告に服務指導をした。その際原告は岩間宅に宿泊していないことは認めたが、宿泊先については、言う必要がないとして宿泊先を明らかにすることを拒否した。その時の原告の態度は異常なまでに反抗的であつた。
(オ) これらの諸事実に加えて、当時、原告の挙動に不自然な点、不審な点があるとの風評もあつたので、連隊では、原告が「隊内通信」等に関与しているのではないかとの疑いを抱いた。
(vi) しかし、原告が「隊内通信」等に関与していることについての直接的な証拠は存在しなかつたので、原告が関与していると断定するには至らなかつた。
(2)(i) 昭和五〇年一〇月下旬、第四中隊陸士長増田善宣(以下「増田」という。)及び同金久保安男(以下「金久保」という。)から、原告が同年五月ころから両名に対して自衛隊をひぼうしたり、自衛隊破壊の勧誘を行つたりしていた事実が報告された。
(ii) 右報告の内容は、次のとおりであつた。
(ア) 増田に対する行為
原告は、昭和五〇年春ころ、増田に対し、営内班居室及びその他の場所において、「自衛隊は一部資本家のためのものであつて、国民のためのものではない。われわれは利用されている。」、「一部の国家権力のための自衛隊である。」、「自衛隊はアメリカ帝国主義のアジア侵略の一翼を担つている。海外派兵もありうる。」、「自衛隊は違憲である。」、「自衛隊は必要ない。」などと話しかけ、説得しようとした。しかし、増田は取り合わず聞き流していた。
(イ) 金久保に対する行為
昭和五〇年五月から九月までの間、金久保は外出中原告といつしよに歩いたり、食事をしたり、喫茶店で過ごしたりしたことがあつたが、それらの機会に原告は金久保に対して「自衛隊は不必要である。」、「自衛隊は国を守るといつているが、政府の御用軍隊であり、国民のためのものではない。」、「専守防衛というが、自衛隊は韓国を肩代りしてアジア侵略の足場となつている。」、「自衛隊は違憲である。」、「自衛隊は資本家の犬だ。兄弟同胞に銃を向けている。」などと言つて説得するとともに、「自衛隊の中にこのような思想、考えの者を獲得しよう。」、「こういう運動を隊内で広めて行き、内部から自衛隊を崩壊させよう。」などといつて熱心に勧誘した。
金久保は、そのような運動は自衛隊をやめてからやつた方がよいのではないかとの意見を述べたが、原告から否定された。
(iii) 右報告により、被告連隊長坪井は、原告が反自衛隊活動を行つていると結論するに至つた。
(3) そこで、被告連隊長坪井は、原告に退職を勧奨し、両親のもとに帰郷させることが、連隊のためにも、原告の将来のためにも最も望ましいと判断し、このことについて原告の両親と相談することにした。そして、被告連隊長坪井及び被告森田は、被告萩原ほか一名の者に命じて、同月一六日、岩手県水沢市在住の原告の両親を訪問させ、被告連隊長坪井の意向を伝えさせた。すると、原告の両親も原告の将来について深く憂慮し、被告連隊長坪井の意向に全面的に賛同した。そして、相談の結果同月二三日、原告の両親が上京し、原告を説得して帰郷させることとなつたが、その際、被告萩原は原告の両親から上京するまでの間、連隊においても、原告に対し十分に指導をしてくれるよう特に依頼された。
(4) 同月一九日、被告萩原から原告の両親との相談の結果について報告を受けた被告連隊長坪井は、被告森田及び同萩原に対し、原告に対する進路指導として退職を勧めるよう指示をした。
被告連隊長坪井の指示を受けた被告森田らは、原告の両親の上京する日(同月二三日)の二日前である同月二一日から原告に対する進路指導を行うこととしたが、その当時、被告森田は、同月二八・二九日に予定されていた自衛隊音楽まつりに第三二連隊から参加する隊員の指揮官を命ぜられており連日第三二連隊の主力を率いて朝霞駐屯地に出向き準備訓練を行つていたため、原告に対する指導は被告萩原及び被告小林に任せることとした。
(二) 原告に対する服務指導の経緯
(1) 昭和五〇年一一月二一日
(i) 午後一時半ころから午後二時半ころまで
(ア) 午後一時すぎ、被告萩原は、被告小林に対し、これから原告に対する指導を行うので、原告を営内班長室に呼ぶように指示した。また、被告萩原は、被告阿部、菅谷一曹、坂下二曹及び幡谷二曹に対して、営内班長室で原告に対し指導を行うので、用件のあるときは営内班長室に連絡するように告げた。
(イ) 被告萩原の指示を受けた被告小林は、原告を呼び出し、午後一時半ころ原告とともに営内班長室に入つた。間もなく、被告萩原も入室し、三名はいすにすわつて話を始めた。
被告萩原は、原告を呼んだ理由を説明し、原告の反自衛隊活動について尋ねたが、原告は「何のことですか。」、「証拠はあるのですか。」などと反問するほかは沈黙していた。また、被告萩原は、原告に対し、原告の両親の意向を伝え、退職して帰郷する方が原告の将来のためにもよいのではないかと種々説得し、退職を勧めたが、原告は沈黙しているのみであつた。
その間、被告小林は二、三度発言しただけで、もつぱら被告萩原の指導を見ていた。
(ii) 午後二時半ころから午後三時半ころまで
(ア) 午後二時半ころ、菅谷一曹が、被告萩原に俸給の差額支給の準備ができた旨の連絡に来た。そこで、被告萩原は、指導を中断し、差額支給に立会するため被告小林とともに営内班長室を出た。その際、被告小林は原告にも差額支給を受ける準備をするよう声をかけた。
(イ) 原告は、菅谷としばらく雑談してから、幹部室に行き、差額を受領して営内班長室に戻つた。
間もなく、被告阿部がやつてきて、原告及び菅谷とお茶を飲みながら雑談した。菅谷及び被告阿部は、前述したように、被告萩原から原告に対し指導が行われていることを聞いていたので、原告の反自衛隊活動に対する関心から、雑談の途中で、原告の反自衛隊活動について尋ねた。すると原告は急に黙り込んでしまつた。
(iii) 午後三時半ころから午後四時半ころまで
午後三時半ころ、被告萩原は、原告に対する指導を再開すべく、被告小林に対し、もう一度原告を営内班長室に呼ぶように指示した。そこで、被告小林は原告を探したところ、原告は営内班長室で被告阿部及び菅谷と雑談していたので、その旨被告萩原に報告した。間もなく、被告萩原及び同小林は営内班長室に入つた。被告阿部らは雑談をやめて直ちに退室した。
被告萩原らは原告に対する指導を再開したが、その途中、被告小林は、隊員の出入りにより指導が妨害されるのを防ぐために営内班長室に「立入禁止」の張り紙をした。また、営内班長室と隣接する私物庫にも「立入禁止」の張り紙をした(営内班長室と私物庫との仕切りの壁は天井まで達していないので、私物庫の物音は直接営内班長室に聞こえる。)。
そして、被告萩原らは午後四時半ころ指導を終つて営内班長室を出た。なお、被告萩原らは退室する際、原告の自由を拘束するような指示はいつさい行つていない。
(iv) 午後四時半ころから午後八時半ころまで
(ア) 午後四時半ころから午後五時ころまで原告は自由に行動していた。第四営内班居室(原告の居室)にも出入りしていたようである。
(イ) 前述したように、当時、第四中隊の主力は音楽まつりの準備訓練に出かけており、夕食の時間をすぎた午後六時ころ帰隊するので、残留者が夕食時に中隊全員の食事を駐屯地食堂から一括受領し、中隊事務室前で各人の飯ごうに配食していた。原告も当日午後五時ころ他の残留者といつしよに配食を受けていた。その際、被告小林は原告に「いつしよに食べよう。」と話し、午後五時半ころから営内班長室において、被告小林、同阿部、菅谷一曹及び原告の四名がいつしよに食事をした。
食事後、原告は自己の食器を洗いに洗面所に出かけた。また、原告は第四営内班居室にも出入りしていた。
(ウ) 夕食後、被告小林及び同阿部は営内班長室を出たが、菅谷はそのまま同室で休息していた。すると原告が戻つて来たので、お茶を飲んだりお菓子を食べたりしながら、午後八時半ころまで雑談した。
その間、午後七時ころ坂下二曹が入室し、コーヒーを入れて原告と飲みながら、菅谷と三人で約二〇分間雑談したが、そのほかには営内班長室に出入りした者はいない。
なお、菅谷及び坂下は、営外者(自衛隊法第五五条、同法施行規則第五一条ただし書により営舎外居住を許可された者)であるが、当時は前述した音楽まつり準備訓練中のため、営外者も含めて中隊全員が駐屯地営舎内起居を命ぜられていたので、帰宅しないで営舎内にいたのである。
(エ) 午後六時すぎ、音楽まつり準備訓練から帰隊した被告森田に対し、被告萩原は、原告に対する指導の模様について説明するとともに、更に指導を行う必要がある旨述べた。また、被告萩原は、被告森田に対し、原告に対する指導について陸曹以上の者に説明しておいた方がよいのではないかとの意見を述べ、被告森田の了承を得た。そこで、被告萩原は、午後七時半ころから実施された音楽まつり準備訓練の打合せの際、陸曹以上の者に原告に対する指導について説明した。
(v) 午後八時半ころから午後一二時ころまで
(ア) 被告小林は、午後八時半ころ当直業務が一段落したので、原告に対し指導をしようと思い、原告の所在を確認した。すると、原告は菅谷一曹と営内班長室において雑談していたので、同室に入つて行つた。
被告小林が原告に対し指導を始めたので、菅谷はベツドの上にすわつてこれを聞いていた。
(イ) 午後九時ころ、永井三曹が営内班長室に入つてきた。また、少しおくれて原告の営内班長である久保田三曹が入つて来た。両名とも被告小林が原告に話をしていたのでそれを聞いていた。
(ウ) 午後九時半ころ、被告萩原は、被告小林が営内班長室で原告に対して指導をしているということを耳にはさんだので、営内班長室に入つて行つた。被告小林は被告萩原が来たので指導をやめて退室した。
被告萩原は、原告に対し、反自衛隊活動について反省を促したが、原告は反自衛隊活動を否定し、「証拠を見せて下さい。」などと発言した。
(エ) その後しばらくして、原告の元営内班副班長であつた徳岡三曹が、午後一〇時近くになつて、原告の元営内班長であつた長谷川三曹が、それぞれ営内班長室に入つてきた。また、午後一〇時ころ、佐藤三曹が入つてきたが、ごく短時間で退室した。
(オ) 午後一〇時に消燈ラツパが鳴ると、原告は立ち上がり、居室に帰らせてもらいたい旨申し出た。被告萩原は「まあ私の話を聞けよ。」と言い、同席していた者たちも副長の指導中だからすわるようにと注意した。すると、原告はすなおにこれに従つた。
(カ) 消燈ラツパ後間もなく、菅谷が退室した。そのころ、古川三曹が入つてきたが、ごく短時間で退室した。午後一一時ころ永井も退室した。
(キ) 午後一一時すぎ、千葉三曹が入室した。同人は、原告と同県人であることから、常日頃原告を身近な後輩と思つていたので、原告に対し、本当に反自衛隊活動をやつたのかどうか、もしやつていないのであればやつていないとはつきり言つた方がよいという趣旨のことを真剣に話した。
ところが、原告は返事もせず、そつぽを向いて一向に話を聞こうとしなかつた。そこで、千葉が、「私の方を向きたまえ。」と言つて、原告の顔を同人の方へ向けさせたことが一度あつた。しかし、それはもちろん暴力と呼ばれるようなものでなかつた。
(ク) 午後一二時近くなつたので、被告萩原は、原告に対し「終りにしよう。」と言つて退室し、千葉も続いて退室した。
なお、被告萩原は、原告に対し、就寝場所を指定するようなことはいつさい行つていない。
(2) 同月二二日
(i) 午前零時ころから午前八時半ころまで
(ア) 同月二一日午後一二時近くに、被告萩原及び千葉三曹が退室したあと、営内班長室には、原告と長谷川三曹、久保田三曹、徳岡三曹が残つて雑談をしていたが、午前零時半ころ長谷川が退室した。そのあと、久保田、徳岡及び原告は、お茶を飲んだり、お菓子をつまんだりしながら、結婚のこと、家族のこと、将来のことなどを話題に雑談した。久保田、徳岡はいすに座つたままいつの間にか眠つてしまい、午前六時の起床ラツパで目をさました。その時、原告もいすに座つたまま眠つていた。久保田、徳岡は起床して部屋を出た。
(イ) 被告小林は、営内班長室で、原告、久保田、徳岡がいすに座つたまま寝ていたことを知つたので、午前六時すぎ、原告にベツドで寝るように言つた。そして、ベツドに入つた原告に毛布の上から布団をかけてやつた。原告はそのまま午前八時半ころまで眠つていた。
(ii) 午前八時半ころから午前一一時ころまで
(ア) 被告小林は、課業開始時刻(午前八時三〇分)が迫つたので、原告を起こした。
原告は起床して、ベツドを整理し、洗面に出かけていつた。
(イ) 当日は朝から激しく雨が降つていたので、被告小林及び同阿部は三〇〇メートル余りも離れている食堂まで雨の中を食事をしに行くのが面倒で朝食をとつていなかつた。また、原告が起床したときはすでに朝食の時間を過ぎていた。そこで、被告小林は、原告の気持ちをなごませるために、原告及び被告阿部とともに朝食を食べようと思い、幡谷二曹に指示して即席ラーメン三名分を調理して営内班長室に持参させた。
そして、午前九時ころ、被告小林及び同阿部は原告といつしよに食事をし、そのあとせんべいなどを食べながらしばらく雑談した。
(ウ) 午前九時半ころ、被告小林は、所用があつたので、被告阿部に対し、原告の外出簿を渡し、原告が申請どおりの外泊先に外泊したかどうかを念のために聞いておくよう依頼して営内班長室から退室した。
被告小林から依頼を受けた被告阿部は、原告に対して外出簿記載の外泊先に宿泊したかどうか尋ねた。すると、原告は、「阿部一曹は警務隊なのになぜ私を調べるのですか。」と言つたので、被告阿部は、「今は警務ではなく、中隊の陸曹として、また、君の同郷なので君を心配して聞いている。」と説明したが、原告は、外泊先については、「そんなことは答える必要はない。どうでもいいでしよう。」と言つて、被告阿部の質問に答えなかつた。
被告阿部は、原告と話をしている間も、所要のため二、三度中座しなければならない状況にあり、落ちついて話をすることができなかつたし、また、原告から誠意のある回答を期待することもできないと思われたので、三〇分程度で話を打ち切り、被告小林にその旨連絡した。
(エ) 午前一〇時ころから午前一一時ころまで、原告に会つた者はいないが、原告は営内班長室に在室していたものと推測される。
(iii) 午前一一時ころから正午ころまで
被告萩原は、午前一一時ころ、被告小林に、原告の所在を尋ねた。被告小林は、さきほどまで営内班長室にいた旨答えた。そこで、被告萩原は、営内班長室に赴いた。すると、原告がひとりいすに座つていたので、親の子を思う気持などを話題に原告と話をしたが、原告は話をよく聞き応答もはきはきしていた。しかし、話題が反自衛隊活動に移ると原告は固く口を閉ざした。
正午ころ、被告小林が昼食の配食準備ができた旨連絡にきたので、被告萩原は原告に対する指導を終つた。
(iv) 正午ころから午後三時ころまで
(ア) 被告萩原は、正午ころ、原告に対する指導を終つた後、原告に「ここで二人でいつしよに食べよう。」と言つて、被告小林に二名分の食事を持参させ、原告と二人で食事をした。
食事を終つた後、原告は自己の飯ごうと被告萩原の飯ごうを洗いに行こうとしたので、被告萩原は「自分の分はいいよ。」と言つたが、原告は被告萩原の飯ごうもいつしよに洗いに行つた。
そのあと、被告萩原は、原告とお茶を飲み、菓子をつまみながら雑談をし、午後一時ころ退室した。
(イ) 午後一時すぎ、菅谷一曹が営内班長室をのぞいたところ、原告がひとり在室していたので、話相手になつてやろうと思つて、部屋に入り雑談した。
(ウ) 午後一時半ころ、坂下二曹が入室し、コーヒーを入れて原告と飲んでいたが、コーヒーを飲まない菅谷は退室した。
坂下は、原告のブラジル生活のことなどを話題に原告としばらく雑談した後、原告に反自衛隊活動をしてもだれも喜ばないなどと話したが、原告が話に乗つてこないので短時間で退室した。
(エ) 午後二時すぎ、飯塚一曹が営内班長室の前を通りかかつたところ原告がいたので入室し、原告に反自衛隊活動は自衛官としてふさわしくない行為であるなどと話した。
(v) 午後三時ころから午後四時半ころまで
(ア) 午後三時ころ、被告萩原は、原告を指導しようと思つて営内班長室まで来た。すると、原告と飯塚一曹が話をしているのが見えた。被告萩原が室内に入つて行くと、飯塚は被告萩原に席を譲つて退室した。
(イ) 被告萩原は、雑談等も織り込みながら、自衛隊には「隊内通信」に書かれているような侵略の意図はないこと、自衛隊にそんな力はないことなどを話したが、原告は話に乗つてこなかつた。
(ウ) 午後四時半ころ、原告が小用を足しに行くと言つたので、被告萩原は「それでは時間もきたことだし、夕食にしようか。」と言つて営内班長室を出た。
(vi) 午後四時半ころから午後八時半ころまで
(ア) 午後四時半ころからの原告の行動は不明であるが、午後五時ころ、原告は他の隊員にまじつて中隊事務室前で夕食の配食を受けていた。
(イ) 午後五時すぎから約一時間、被告小林は営内班長室で原告と食事をしながら雑談をした。
被告小林が退室するとき、原告もいつしよに部屋を出て、洗面所に食器を洗いに行つた。その後午後八時半ころまでの原告の行動は明らかでない。
(vii) 午後八時半ころから午後一二時ころまで
(ア) 午後八時半ころ、被告萩原の指示により被告小林が原告の所在を確かめたところ、原告は営内班長室のベツドにすわつていた。そこで、被告小林は、その旨被告萩原に報告した。間もなく被告萩原は営内班長室に行つた。
被告萩原は、原告に対し、「明朝両親が上京するので、いつしよに帰郷した方がよいのではないか。」と退職を勧めた。しかし、原告は「辞めない。」と答えた。
その時、被告小林が入つて来たので、被告萩原は、所用もあり短時間で退室した。
(イ) 被告小林は、午後一二時ころまで原告に対する指導を行つたが、その間の他の陸曹の出入りは次のとおりである。
被告小林の入室後間もなく久保田三曹が入室し、ベツドにすわつて約一時間在室した。
少し遅れて西二曹(現在一曹)が入室し、午後一一時ころ退室した。
更に少し遅れて山田二曹、横田二曹が入室した。山田は午後一二時ころまで在室した。横田は入室後ベツドにすわつているうちに眠り込んでしまつた。
午後一〇時ころ、川井田三尉が入室し、入口附近に立つて被告小林の指導を見ていたが、五分ほどで退室した。また、そのころ、逓駅准尉が入室したが、ごく短時間で退室した。
午後一〇時すぎ、小林三曹が入室し、入口附近に立つて被告小林の指導を見ていたが、短時間で退室した。
松坂一曹は営外者であるが、前述したように、音楽まつりの関係で営舎内起居を命ぜられており、宿泊場所として、営内班長室を割り当てられていたので、午後一一時すぎに入室し、ベツドの上でしばらく被告小林の指導を眺めていたが、そのうちに眠つてしまつた。
以上のほかに営内班長室に出入りした者はいない。
(ウ) 被告小林は、指導を始めて間もなく、原告に対し、くつろげるように私服に着替えてはどうかと言つて、久保田に原告の営内班居室から原告の私服(背広上下)を持つて来させた。
原告は私服を受け取つて着替えたが、その際、原告は作業衣から身分証明書を取り出さなかつた。
身分証明書はひもをつけた「証明書入れ」に納め、着用している上着のポケツトに入れてひもを結びつけるように定められているので、被告小林が「身分証明書はどこにあるのか。」と尋ねたところ、原告は着替えた背広のズボンの後ろポケツトから身分証明書を取り出して差し出した。見ると、「証明書入れ」のひもの長さが一〇センチメートル程度しかなく、ひもをつけたままで取り出して呈示するには不便な状態であつた。被告小林は、このことが、原告が右のように平素の指導に反する方法で身分証明書を保管している原因にもなつていると考え、後に人事係の陸曹に指導させようと思つて、右身分証明書を一時預つた。
(エ) 小林三曹は、前述したように、午後一〇時すぎ入室し、入口の壁にもたれて立つていたが、身体を動かしたときに電燈のスイツチに背中が触れ、一瞬電燈が消えた。しかし、すぐに点燈した。
(オ) 被告小林が指導していた間、西及び山田が若干発言したことはあつたが、その他の者は傍観していただけである。
被告小林の指導に対し、原告はあたりを見まわしたりして熱心に聞こうとしないので、被告小林が「私の方を見て話を聞くように。」と言つて原告の両肩に手をやつたことはあつたが、それはもちろん暴力と呼ばれるようなものではない。
(カ) 被告小林は、午後一二時近くになつたので「もう寝よう。」と言つて退室した。西も退室した。
被告小林及び西が退室するとき、松坂及び横田はベツドで寝ていた。
(3) 同月二三日
(i) 午前零時ころから午前五時ころまで
前述したように、松坂一曹及び横田二曹はベツドで寝ていた。午前五時近くに、物音で横田が目をさましたところ、原告が起き出していた。
松坂も目をさまし、その後、原告と松坂、横田の三名で雑談をしていた。
(ii) 午前五時ころから午前六時ころまで
(ア) 被告小林は、午前三時ころ不寝番に起こされて起床し、約二時間隊舎周辺及び関係箇所の巡察を行い、午前五時ころ中隊に帰つてきた。すると、営内班長室が明るかつたので、のぞいてみると、原告と松坂、横田が雑談していた。そこで、被告小林もその中に入つた。
被告小林が入室すると間もなく横田は退室した。
(イ) 被告小林は原告に対して退職の意思について尋ねた。すると、原告は「退職したいという気持になりました。」と答えたので、被告小林が「そうか、退職願を書くか。」と言つたところ、原告は「退職の意思はあるが、自分の信念として、退職願は書けない。」と答えた。
(ウ) 被告小林は、午前六時前に退室し、同時に松坂も起床時間が迫つていたので、洗面に出かけた。
(iii) 午前六時ころから午前一一時ころまで
(ア) 午前六時ころから午前七時半ころまでの原告の行動は明らかでないが、洗面などをしたりしていたのではないかと推測される。
(イ) 午前七時半ころ、被告小林は、営内班長室で原告と朝食を共にしたが特段の話はしていない。
朝食終了後、被告小林は直ちに退室し、被告森田に、原告が退職の意思はあるが信念として退職届は書けないと話していたことを報告した。
(ウ) 午前八時ころ、須部二尉が営内班長室前を通りかかつたところ、原告が同室にひとりで居たので、須部は同室に入つて行き、被告萩原が原告の両親を迎えに行つていることを話し、両親といつしよに帰郷した方がよいのではないかと勧めた。すると、原告は「両親と話し合つた上で決めたい。」と答えたので、須部はすぐ退室した。
(エ) 午前一〇時ころ、千葉三曹が営内班長室をのぞいたところ、原告がいたので、原告の両親が来ていること(両親の来隊については後述する。)を知らせてやり、「辞めてもしつかりやれよ。」と激励した。これに対し原告は「いろいろ迷惑をかけてすみません。」と答えた。千葉は、それから少し雑談をして退室した。
(オ) 右に述べた須部と千葉を除いては、朝食後午前一一時ころまでの間に原告とことばを交わした者はいない。
(iv) 原告の両親の到着
原告の両親は、午前八時すぎ市ケ谷駅に到着し、出迎えた被告萩原に案内されて、午前八時四五分ころ第四中隊長室に入つた。
被告森田、同萩原、同小林と原告の両親は中隊長室でしばらく懇談した。中隊側からは、原告に対する指導状況を説明し、原告の退職、帰郷の意思がはつきりしないと伝えた。原告の両親は、ぜひ本人を辞めさせて連れて帰りたいとの意向を表明した。
そして、原告の両親は退職手続の説明を受け、退職願用紙に所定事項を記載した。
(v) 午前一一時ころから正午ころまで
被告森田は、被告小林に指示して原告の所在を確認させた。すると、原告は営内班長室にいるとのことであつたので、被告森田は、被告萩原及び同小林とともに原告の両親を営内班長室に案内した。
原告の両親は営内班長室において原告と話をした。被告森田らはこれに同席していた。
原告の両親は、原告に対し、反自衛隊活動をしたのかどうか尋ねたが、原告はいつさい沈黙していた。また、原告の両親は、原告に対し、退職して帰郷するように説得したが、原告は「大学があるので帰らない。」と答えた。
話の途中で、百合子が、原告に対し、「話すときは相手の目を見て話しなさい。」と机をたたいて注意したこともあつたが、原告の態度は変らなかつた。百合子は、しまいには涙を流して、「大学ばかりがすべてではない。やめてお母さんといつしよに水沢に帰ろう。」と訴えたが、原告は沈黙していた。
そのうちに、正午近くになつたので、被告森田らは原告の両親に食事の準備ができた旨告げて退室した。
(vi) 正午ころから午後七時半ころまで
(ア) 正午ころ被告小林が三名分の食事を営内班長室に持参した。原告と原告の両親は親子三人で食事をした。食事のあと、引き続き原告と原告の両親との間で話合いが行われた。
(イ) 午後二時半ころ、原告は第四営内班居室で同僚と雑談をしていた。
(ウ) 午後三時ころ、安太郎が第四中隊長室に居た被告森田のところに来て、明朝原告をぜひ連れて帰りたいので、部隊の方で水沢まで送つてもらいたい旨依頼した。そして、即刻退職の手続をしてもらいたい旨申し出て、その趣旨の請願書を作成し提出した。
そこで、被告森田は、右請願書を坪井のもとに持参して相談した。その結果、原告が原告の両親の説得に応じて退職する場合には原告及び原告の両親を水沢まで送ることとし、そのための車両及び随行者の準備をすることとした。
(エ) 午後四時半ころから午後五時ころまでの間、原告の両親は、原告の私物品を整理し、被告小林らがこれを手伝つた。持ち帰る物、残していく物については、原告の意向を確かめつつ選別した。
(オ) 午後五時ころ、被告小林は夕食三名分と別に被告森田の提供した寿司折詰三個を営内班長室に居た原告の両親及び原告のもとに持参した。原告は、被告小林に対し、両親を大切にしていただいてありがたい旨のお礼を言つた。
そして、原告と両親はいつしよに食事をし、そのあと原告は洗面所で食器を洗つた。
(カ) 午後六時半ころ、被告小林は、原告の両親に宿泊先を連絡するために営内班長室に入室し、市ケ谷会館を手配した旨伝えた。安太郎は「何から何までお世話になりました。」と謝意を表した。
用件が済んだのち、被告小林は、原告に対し、信念で退職願が書けないというが、どんな信念かわからない、信念ということで黙つているのは男らしくないではないかという意味のことを述べた。百合子も「自分の思つていることをはつきり言いなさい。」と言い、また、安太郎も「自分の口から男らしくはつきりやめると中隊長さんに言いなさい。」と言つた。すると原告は「はい。」と答えた。更に、安太郎が「自分の口から中隊長さんに辞めると言えるね。」と二、三度念を押したところ、原告はそのつど「はい。」と答えた。
そして、安太郎は「中隊長さんに話に行こう。」と言つて立ち上がり、原告も立ち上がつた。そこで、被告小林は一足さきに部屋を出て、中隊長室に行き、被告森田に、原告が退職の意思を明らかにし、すぐに父親と来る旨連絡した。
(キ) 間もなく、原告及び安太郎が中隊長室にやつてきた。安太郎は、被告森田に対して、「息子が話をすると言うから連れて来た。」と述べ、原告に対し、「さきほどお前が言つたことを中隊長さんに言つてごらん。」と言つた。しかし、原告は沈黙したままであつた。安太郎は重ねて原告に発言を促したが、原告は依然沈黙したままであつた。
そこで、被告森田は、「退職の手続は終つたのか。」と尋ねた。すると、原告は、「退職の意思はあるが、信念で退職願は書けません。」と答えた。
安太郎は、更に、「中隊長さんに言うと言つたではないか。」と発言を促したが、原告は沈黙したままであつた。
安太郎は、被告森田に、「私たちは明朝早く出立したいので、こちらに出向くことはできませんが、ぜひ本人を連れて帰りたいと思いますので、あとはよろしくお願いします。」と依頼して、被告森田と別れのあいさつを交わし、原告とともに退室した。
そして、原告の両親は久保田三曹の案内で宿舎に向つた。
(vii) 午後七時半ころから午後一一時ころまで
(ア) 午後七時半ころ、須部二尉が営内班長室に行き、原告に対し、明日は両親も帰られることだし、明朝いつしよに帰つたらどうかという趣旨のことを述べたところ、原告は「現時点では退職の意思はあるが、退職願を書くことは信念に反するのでできない。」と話した。
(イ) しばらくして、石塚一曹が入室し、原告にお茶を入れてやり、話に加わつた。
更に、営内班長室を宿泊場所に割り当てられていた松坂一曹が入室し、話に加わつた。
やや間をおいて、飯塚一曹が入室した。飯塚は他の者から原告が退職することになつたという話を聞いて原告を激励してやろうと思つてやつてきたので、原告に「元気でやれよ。」と言つて握手した。原告も「いろいろご迷惑をおかけしました。」と言つて握手に応じた。飯塚は握手を終つてすぐ退室し、間もなく(午後八時二〇分ころと推定される。)、須部、石塚も相前後して退室したが、松坂はすでに眠つてしまつていた。
また、午後八時ころ、古川三曹が営内班長室に入つたが、ごく短時間で退室した。
(viii) 午後一一時ころから午後一二時ころまで
被告萩原は、午後一一時ころ、原告を中隊長室に呼んで、約一時間、今後の人生について話した。被告萩原は、退職の意思がはつきりしている以上、けじめをつけるのが大切であり、退職願を書くことは、一見後退のように見えても前進のための後退であるなどと登山の例を引くなどして話し、新たな気持で再出発すべきことを勧めた。
しかし、原告の明確な意思表示がないので、「帰つて休むように。」と言つて話を打ち切つた。
(4) 同月二四日
(i) 午前零時ころから午前四時半ころまで
営内班長室では、前述したように松坂一曹が寝ていたが、そのほか松坂と同様に当夜営内班長室を宿泊場所に割り当てられていた飯塚一曹が前日午後一一時すぎに入室し、寝ていた。
午前四時半ころ、松坂が目をさますと、原告はベツドの上で眠つていたが、しばらくして原告も目をさましたので、松坂と原告は、二言三言話をした。
(ii) 午前四時半ころから午前五時半ころまで
営外陸曹室で寝ていた被告小林は、午前四時半すぎに目をさまし起床したが、原告の両親が原告を早朝に連れて帰りたいと言つていたので、原告のことが気にかかり、営内班長室に赴いた。すると、営内班長室では、原告と松坂が話をしていたので、被告小林はその中に入つた。被告小林が原告に話を始めると、松坂一曹と飯塚一曹は起きて眺めていた。
被告小林は、原告に対し、「信念で退職願が書けないというのであれば、今の君の気持を書いてみてくれ。」と言つてけい紙を渡したところ、原告は背広の内ポケツトから万年筆を取り出し、「一身上の都合により退職をお願いします。皆さんには大へん御迷惑をおかけしました。」という文章を二、三枚書き、階級を書いて署名した。そして、そのうちの一枚を被告小林に差し出した。
原告は右けい紙を差し出したあと、急に立ち上がり、容儀を正して被告小林、松坂、飯塚にあいさつをした。
(iii) 午前五時半ころから原告の出発まで
(ア) 被告小林は、原告の書いた右けい紙を被告森田のもとに持参し、右の経過を報告した。
被告森田は自宅にいた被告連隊長坪井に電話で報告し、被告連隊長坪井は被告森田に人事発令通知を代理交付することを命じた。
被告森田は、被告萩原に、原告の帰郷の準備をし、準備ができたら原告を連れてくるように指示するとともに、被告小林に中隊の者を起床させ、原告を見送らせるよう指示した。
そして、被告森田は、当直司令室に行き、被告連隊長坪井が前夜預けておいた原告の「人事発令通知」を当直司令から受け取つてきた。
(イ) 被告小林に起こされた石塚一曹ら数名の陸曹が営内班長室に入つたところ、原告は、これらの陸曹に対し、「一身上の都合により退職します。色々お世話になりました。」と述べ、陸曹らとあいさつを交わした。
(ウ) 午前六時ころ、原告は第四中隊長室に入つた。
原告は、入口附近において、「戸坂士長入ります。」と言つたのち、被告森田の机の前に進み出て、被告森田に正対し、礼式にかなつた敬礼を行つた。そして、被告森田に正対したまま姿勢を正して直立した。
ついで被告森田は、被告萩原及び同小林立会のもとに、前記退職意思表示のけい紙を読みあげたのち、原告に対し、原告が書いたものに間違いないかどうかを確認した。原告は「はい。」と答えた。
そこで、被告森田は「人事発令通知」を読みあげたうえ原告に交付した。
原告は右通知を受け取り、その内容を確認したのち、ていねいに折りたたんで上衣のポケツトにしまい、姿勢を正して「戸坂士長は本日付をもつて退職を承認されました。」と申告を行つた。そして、「大変ご迷惑をおかけしました。」と述べて、礼式にかなつた敬礼をした。
その際、被告森田は、原告に「両親の希望により、君を車で水沢市まで送るから」と申し添えた。
その後、原告は「戸坂士長帰ります。」と言つて、中隊長室を出た。原告は、幹部室前附近まで行つたとき、右人事発令通知を上衣ポケツトから取り出し、その内容を再確認したのち、再びていねいに折りたたんで右ポケツトに納めた。
(エ) 被告森田に付き添われた原告は、隊舎前に行き、原告を見送るために参集していた幹部陸曹一〇数名に対し「本日付で退職することになりました。皆様には大変ご迷惑をおかけしました。」と述べ、これら参集者と個別にあいさつをしたり、握手をしたりした。
松坂一曹から「元気でやれよ。」と言われた原告は、「はい。」と答えて頭を下げ、握手し、石塚一曹から「元気でな。身体に気をつけてな。」と言われた原告は、「お世話になりました。」と述べ、握手し、握手をした西一曹から「また一から出直せよ。」と言われた原告は、これにうなづき頭を下げるなどした。
(オ) 午前六時半ころ、原告は千葉三曹所有の乗用車に乗り、被告萩原らが同行して隊舎前を出発した。
途中、市ケ谷会館に立ち寄り、原告の両親とともに水沢へ向った。
2 原告の主張に対する反論
(一) 原告に対する服務指導の適法性、正当性
(1) 自衛隊における服務指導の意義
(i) 自衛隊においては、未成年者を含む若い隊員が営舎内で二四時間生活している関係上、上官は若い隊員を立派な隊員として育成するため、服務指導として、勤務上あるいは共同生活上の種々の問題について指導を行う必要のあることが多い(陸上自衛隊服務規則九ないし一一条)。
(ii) これらの服務指導は、課業時間内の手空き時間を利用して行うことがあるほか、課業時間外の時間に行うことも多い。このように服務指導を課業時間外の時間に行うことが多いのは、自衛隊においては、隊員は営舎内居住義務を課され(自衛隊法五五条、同法施行規則五一条)、常に職務に従事することのできる態勢になければならない義務を負つている(自衛隊法五四条一項)関係上、上官も部下も二四時間顔を合わせていること、平日の課業時間外あるいは休業日又は祝日であつても必要があるときは勤務を命ぜられることがある(自衛隊法施行規則四三条一項、三項、四五条、陸上自衛隊服務規則二九条)反面、訓練のないときは課業時間内であつても手空き時間が多いこと、野外訓練、災害派遣(風水害等のほか火災、人命救助などの場合を含む。)、パレード、儀仗などの行事及びその準備、警衛勤務、不寝番、当直勤務、炊事勤務、ボイラー勤務、消防勤務等の特別勤務、非常呼集等、通常の日課に基づく勤務時間が変動することが極めて多く(自衛隊法五四条二項、同法施行規則四三条一項、自衛官の勤務時間及び休暇に関する訓令一〇条)、かつ超過勤務の観念がないことなどの理由による。この服務指導が違法でないことはいうまでもない。
(iii) 服務指導は一般に懇談的に行われるので、指導を受ける義務を課すというような堅苦しい形式で行われることは少ない。ただ、指導を受ける者の立場からすると一応指導を受ける義務があるというべきであろう。しかし、指導を受ける者が指導を受けることをあくまでも拒否した場合には、服務指導を行うことは事実上不可能であつて、このことは服務指導の性質からしても当然である。したがつて、服務指導を拒否する者を実力をもつて拘束し、指導を行うなどということはありえないことであるし、また、そのようなことは行つていない。
(2) 原告に対する服務指導の目的
(i) 被告萩原及び同小林の原告に対する服務指導の目的は、原告に対して原告の反自衛隊活動について尋ねるとともに、原告を依願退職させ、事態を円満におさめることにあつた。
(ii) 右の目的のうち、後者は一種の退職勧奨であるが、このような退職勧奨を含めて隊員の将来の進路について指導を行うことを一般に進路指導と称しており、この退職勧奨も広義の服務指導の一つである。
(iii) およそいかなる組織体にあつても、その組織体を内部から崩壊させようという思想を持ち、それに基づいて反組織的活動をしている疑いのある者が存在する場合には、まず事実を解明し、これが明らかになつた時点で、その者が自発的に組織を脱退するよう勧告するのが組織防衛のために講ずる当然の処置である。
前述したとおり、原告は、自衛隊の存在を否定し、これを内部から崩壊させようとする考えをもち、これに基づいて反自衛隊活動をしていたのであるから、自発的に組織を脱退するよう勧告するのが当然であつて、右服務指導は正当な目的をもつているということができる。
(3) 原告に対する服務指導の時間帯
(i) 被告萩原及び同小林が原告に対して服務指導を行つた時間帯を示すと次のとおりになる。
(ア) 昭和五〇年一一月二一日
<1> 午後一時半ころ~午後二時半ころ(約一時間)
<2> 午後三時半ころ~午後四時半ころ(約一時間)
<3> 午後八時半ころ~午後一二時ころ(約三時間半)
(イ) 同月二二日
<1> 午前一一時ころ~正午ころ(約一時間)
<2> 午後三時ころ~午後四時半ころ(約一時間半)
<3> 午後八時半ころ~午後一二時ころ(約三時間半)
(ウ) 同月二三日
午後一一時ころ~午後一二時ころ(約一時間)
(エ) 同月二四日
午前四時半ころ~午前五時半ころ(約一時間)
(ii) 右のほか被告小林は、同月二三日の午前五時ころから午前六時ころまでの間、原告と話をしているが、これは、巡察を終つたあとたまたま原告が起きていることを知つたので懇談したというにとどまり、服務指導をするというほどの深い意味はなかつた。
また、同月二二日の午前九時半ころから一〇時ころまでの間、被告阿部が被告小林に頼まれて原告の外泊先について尋ねているが、被告阿部はその間二、三度中座しており、話した時間も短いので、特に取り上げるほどのものではない。
更に、同月二三日の午前一一時ころから正午ころまで原告の両親が原告と話をしている間、被告森田、同萩原及び同小林が同席しているが、これは単に儀礼的に同席していたものであり、特に発言もしていないのであるから、服務指導を行つたということはできない。
そのほか、被告萩原及び同小林が原告と食事をともにした時間があるが、自衛隊においては上官が部下と食事をともにすることはしばしばあるし、また、個人指導を行つたあとなどに指導を受けた者の気持をほぐし、なごませるために食事などをしながら雑談をすることもままあるのであり、被告萩原らも原告と食事をした際は雑談しかしていないのであるから、これも服務指導ということはできない。
(iii) このように、被告萩原及び同小林が服務指導として原告と話をしたのは、同月二一日から二四日までの間に合計一三時間半に満たない。そして、右指導のうち、課業時間外の時間帯に行われたのは、合計九時間に満たない。この課業時間外の指導が適法かつ正当なものであることは、前述のとおりである。
(iv) なお、被告萩原及び同小林は、原告に対し、消燈時刻(午後一〇時)後まで服務指導を行つているが、この消燈時刻というものは、必ずしも厳格に守られているわけではない。すなわち、陸曹以上の外出者の帰隊門限時刻は午後一二時、その他の隊員の外出者の帰隊門限時刻は午後一一時であるし、また、第三二連隊の営内居住隊員の四〇パーセント強は、夜間、大学等に通学しているので、午後一一時ころ帰隊する者も多い。そして、これらの者は、帰隊後シヤワーを浴びたり、自動販売機を利用して即席ラーメンを食べたり、自習室において午前一時、二時まで勉強したりする。また、娯楽室においては、許可を得れば深夜(午前零時すぎまで)テレビを見ることもできる。ことに、原告に対する服務指導が行われた当時は、音楽まつりの準備訓練中であつたため、午後一二時近くまで打合せをしていた者などもおり、多少時間が不規則になつていた。したがつて、被告萩原及び同小林が原告に対して消燈時刻後まで服務指導を行つたことは、当時の状況からみれば決して異常な状態ではなかつたのである。
また、同月二四日早朝、被告小林が原告に対して服務指導を行つているが、このときは、被告小林は当直であつたのでいつもより早くめざめ、前日原告の両親が明朝早く原告を連れて帰りたいと強く希望していたので原告の両親の希望にそいたいとの気持ちから、最後の指導を試みたのであつて、これをもつて違法な指導というべきではない。
(4) 服務指導に対する原告の態度
(i) 原告は、被告萩原及び同小林の服務指導に対し、これを拒否したことはなかつた。ただ、同月二一日午後一〇時の消燈ラッパが鳴つたとき、居室に帰らせてもらいたい旨申し出たことがあつたが、被告萩原が「まあ私の話を聞けよ。」と言い、同席していた者が「副長の話を聞くように。」と注意したところ、原告はすなおにこれに従つたのであり、指導を受けることを拒否するという態度を示したわけではない。
(ii) 原告は、服務指導の間、話題が雑談的な場合、教訓的な場合はまじめに聞き、応答もはきはきしていたが、話題がいつたん反自衛隊活動に移ると極めてかたくなな態度を示し、沈黙を守るか、証拠の呈示を求めて反問するのみで、積極的に弁解をするということはいつさいなく、時には明らかにそつぽを向くといつた風であつた。他方、退職の勧奨に対しては、当初拒否していたが、その拒否の仕方は、絶対にやめないというようなものではなく、沈黙による消極的拒否ないしは考えこんでいるといつた風の態度であつた。そして、同月二三日の朝以降は、退職の意思があることを明確に表明しながら、ただ、退職願だけは信念から書けないという態度を示すに至つたのである。
(iii) 以上のとおり、原告は、服務指導の間、指導を拒否することはなかつたし、また、反自衛隊活動についての質問や退職の勧奨に対しては、あいまいな態度を示した。
(5) 「立入禁止」の張り紙について
被告小林が、営内班長室及び隣接する私物庫の扉外側に「立入禁止」の張り紙をした目的は、隊員の出入りにより服務指導が妨害されるのを防ぐことにあつたのであり、原告が営内班長室から外に出ることを禁止することにあつたのではない。現に、原告は営内班長室から自由に出入りしていたのであつて、右張り紙の存在によつて原告が営内班長室から出られないということはありえない。また、右張り紙は、一般隊員の営内班長室又は私物庫への出入りにより原告に対する服務指導の内容が一般隊員に洩れることを防ぐ効果をも併せ有していたのであるから、結果的にもきわめて妥当な措置であつたということができる。
右張り紙は、同月二一日午後三時ころから午後四時半ころまでの服務指導が終つた後も張られていたが、これは、被告小林が右指導が終つたときに直ちに右張り紙を取りはずさなかつたからにすぎない。被告小林には、右張り紙を服務指導が行われていない間も、あるいは翌日も張つておこうというような深い考慮はなかつた。
(6) 服務指導中に他の陸曹が在室したことについて
被告萩原及び同小林の指導中に営内班長室に在室していた陸曹がいたことについてはすでに述べたところであるが、これらの陸曹は、いずれの者も、指導中は遠慮して発言を控えていたので、若干の積極的発言を除けば、単に同席していたか、傍観していたというにとどまる。そして、被告萩原及び同小林がこれら陸曹を退室させなかつたのは、これら陸曹の中には、原告に対する身近な先輩として明らかに原告のことを心配している者もいたのであるから、そのような陸曹をあえて退室させるまでの必要もないと判断したからにほかならない。
(7) 以上のとおり、被告萩原及び同小林の原告に対する服務指導には、何ら違法、不当な点はなく、適法かつ正当なものであつた。
(二) 陸曹らの行動について
(1) 陸曹らの個別的行動
(i) 昭和五〇年一一月二一日
(ア) 午後二時半ころから三時半ころまでの間、菅谷一曹及び被告阿部が営内班長室に在室し(被告阿部は途中から在室)、原告が俸給の差額を取りに行つている間を除いて原告と話をしたが、話は主として雑談であつた。ただ、両名とも被告萩原から原告の反自衛隊活動について聞いたので、そのことに関心をもち、話題を原告の反自衛隊活動に向けたことはあつた。しかし、それはあくまでも私的な会話であり、原告を調べるとか指導するとかといつたものではなかつた。
(イ) 午後五時半ころから六時ころまでの間、菅谷、被告阿部は被告小林とともに原告と食事をした。当日、中隊主力は音楽まつりの準備訓練に出かけており、残留者は少なかつたので、それらの者は隊舎内の適当な場所で適宜いつしよに食事をしたのであり、菅谷らの食事もそれ以上の意味を有するわけではない。
(ウ) 菅谷は夕食後午後一〇時すぎまで営内班長室に在室していたが、菅谷は営外者であり、別段の用事もなかつたので時間つぶしに在室していたにすぎない。
坂下二曹の入室もコーヒーを入れて飲んだだけのことである。
(エ) 午後八時半ころから服務指導が始まつたのち、永井三曹、久保田三曹、徳岡三曹、長谷川三曹が営内班長室に入室した。久保田三曹は原告の営内班長、徳岡三曹は原告の元営内班副班長、長谷川三曹は原告の元営内班長であつたので、原告のことを心配し、できれば何らかの助言あるいは忠告をしたいと思つて入室したものと思われる。しかし、服務指導中、右陸曹たちは若干の発言をしたのみで、指導を妨害するようなことはしなかつた。
最後に千葉三曹が入室したが、同三曹の行動についてはすでに述べたところである。
これらの若い陸曹は、原告が反自衛隊活動を本当に行つたのかどうかについて半信半疑であつたので、原告が反自衛隊活動を行つたことを前提として原告を非難攻撃するというようなことはそもそもありえない。
(ii) 同月二二日
(ア) 午前零時ころ以降、長谷川三曹、久保田三曹、徳岡三曹が営内班長室に残つたが、長谷川は間もなく退室し、久保田、徳岡は原告と雑談していた。久保田は原告の営内班長、徳岡は原告の元営内班副班長であつたし、また久保田は二八歳、徳岡は二六歳といずれも若くかつ独身であつたので原告と共通の話題も多かつたことから、原告の気持ちをまぎらせてやろうと思つて雑談をしていたものと思われるが、両名とも昼間の訓練の疲れからそのまま眠つてしまつた。
(イ) 朝食後(午前九時半ころから)、被告阿部が原告に外泊先を尋ねたことについてはすでに述べた。
(ウ) 午後、菅谷一曹、坂下二曹、飯塚一曹が営内班長室に入室した。これらの陸曹は、音楽まつりの準備訓練に参加していないため隊舎に残つていたが、特段の用務もなかつたので、原告が営内班長室にいるのを見て話相手になつてやろうと思つて入室したものである。坂下、飯塚は雑談の傍ら先輩として原告に忠告的な話をしたが、これらは、まつたくの善意から出たものである。
(エ) 午後九時ころから服務指導が行われている間に、久保田三曹、西二曹、山田二曹、横田二曹が営内班長室に入室したが、これらの者は、西、山田が若干発言したほかは傍観していたのであり、横田は間もなく眠つてしまつた。
午後一〇時すぎ、小林三曹が入室したが、小林は入口附近でちよつとのぞき見した程度であり、また午後一一時ころ松坂一曹が入室したが、これは就寝のためであり、間もなく眠つてしまつた。
(iii) 同月二三日
(ア) 午前五時近く松坂一曹、横田二曹が目をさまして原告と雑談をしたが、これはたまたま目をさましたので雑談したというにすぎない。
(イ) 午前八時ころ須部二尉が原告と短時間話をし、午前一〇時ころからしばらく千葉三曹が原告と話をしたが、これらは、いずれも原告の両親を迎えに行つていること、あるいは両親が来隊したことを原告に伝えてやろうという善意から出たものである。
(ウ) 午後七時半ころ以降、須部二尉、石塚一曹が営内班長室に入室したが、これも、これまで述べたところと特に異なるところはない。また、午後八時すぎの飯塚一曹の入室は原告が退職することになつたものと誤解しての行動であり、松坂一曹の入室及び午後一一時すぎの飯塚一曹の入室は就寝のための入室にすぎない。
(2) 以上述べたところから明らかなように、陸曹らの営内班長室への出入りは各人各様の動機、理由によるものであるが、いずれも私的なものであつて職務とは関係がなく、原告との会話も雑談、原告の反自衛隊活動に対する関心(興味)からする問答、先輩としての助言、忠告といつたものである。
自衛隊においては、若い隊員が親元を離れて団体生活を送つている関係上、先輩が公的な立場を離れて、私的に隊員の相談にのつたり、注意、助言を与えることはしばしばあるのであり、原告に対する助言、忠告のごときも別段異とするに足りない。したがつて、およそ原告の自由に対する拘束とは無縁である。
もつとも、一部の陸曹は課業時間中営内班長室に入つて原告と話をしているが、これらの陸曹はいずれも音楽まつり準備訓練に参加していない残留者であり、中隊の大部分が出払つている関係で課業時間中であつても別段仕事がなかつたので、営内班長室に入りこんで原告と雑談したり、原告に対して助言、忠告したりしていたにすぎない。
また同月二一日の夜の指導が終つたのち、同月二二日午前零時をすぎてもなお、久保田三曹、徳岡三曹が原告と話をしていたのも、両三曹が原告の立場に対して同情的な気持ちを持つていたからであり(そうでなければさつさと寝たはずである。)、雑談を強いたなどということは絶対にない。
(三) 監禁の主張に対する反論
(1) 被告萩原及び同小林の原告に対する服務指導の状況は前記(一)記載のとおりであつたし、また、被告萩原及び同小林は、原告に対して営内班長室にとどまるよう命じたこともなければ、その部屋から許可を得ないで出ることを禁じたこともないのであるから、被告萩原及び同小林が原告を営内班長室に監禁したとの事実が存しないことは明らかである。
(2) 原告に対する服務指導が行われていた期間の陸曹らの行動は、前記(二)記載のとおりであつたし、また、陸曹以上の者は、昭和五〇年一一月二〇日から同月二七日までの間、自衛隊の「音楽まつり」の準備のため、昼間は朝霞駐屯地で演技指導を受け、夜は昼間指導を受けたことについての反省などを行つており、これらの予定を消化するだけで精神的にも肉体的にも精一杯であつたのであるから、徹夜で原告を監禁する時間的余裕などはなく、陸曹らが原告を監禁したとの事実が存しないことは明らかである。
(3) 原告は、服務指導が行われた期間、営内班長室から自由に出入りしていた。すなわち、同月二一日には、中隊幹部室で支払われた俸給差額の受領に行つたり、夕食の時に配食を受けに行つたり、食器洗浄のため洗面所に行つたりしていた。また同月二二日には、朝洗顔に行つたり、夕方自己の居室のベツトの上で作業服を着たまま寝たりしていた。更に同月二三日には、午後一時ころ第一か第二の営内班居室で隊員と話し合つていた。
原告は、両親に対して監禁されたと訴えていないし、両親から被告森田に対して原告が監禁されたとの抗議もされていない。
これらのことからしても、原告が監禁されたとの事実が存しないことは明らかである。
(四) 暴行及び脅迫の主張に対する反論
前記1記載の事実経過から明らかなように、被告萩原及び同小林並びに他の陸曹らが原告に対して暴行、脅迫を加えた事実はない。
そもそも、暴行・脅迫が犯罪として刑罰の対象となることは周知のとおりであるが、自衛隊においては、これらを重大な規律違反として規定し、その違反者に対して厳しい懲戒処分を行つている。そして、暴行・脅迫を含む規律違反を現認した者は何人でも懲戒権者に申立てをすることができるように定められている(自衛隊法施行規則六八条)。しかるに、原告が懲戒権者に対し、このような申立てを行つた事実は認められず、また原告の両親が来隊した時に、原告が両親を通じて抗議した事実も認められない。更に、自衛隊においては基本的人権の尊重が強調されており、指導的立場にある幹部、陸曹が暴行・脅迫のような事実を看過することはあり得ない。仮に、原告主張のような事実があるとすれば、原告にかわつて規則違反を申し立てた者があるはずである。しかるに今日に至るまでそのような申立てを行つた者は一人もいない。
また、昭和五〇年一一月二四日朝、原告が退職し隊舎前から車で離隊する際、幹部、陸曹等が多数見送り、握手し、励ましの言葉をかけた。これに対し、原告は「お世話になりました。」とあいさつをしている。これらは暴行・脅迫の当事者間では考えられない行動であり、これらのことも原告主張の暴行・脅迫の事実がありえなかつたことを示している。
(五) 原告に退職の意思はなかつたとの主張に対する反論
(1) 原告は、昭和五〇年一一月二三日には、すでに退職の意思を固めていた。このことは、原告は、同日朝、被告小林に対し、「退職の意思はあるが、信念で退職願は書けない。」と表明していること、原告は、同日の午後、第一か第二営内班居室に退職のあいさつのために訪れていること、原告は、同日の午後私物品の整理に際し、郷里に携帯するか否かについていちいち具体的な指示を与えていること、原告は、右整理の際、印鑑や貯金通帳を被告小林が原告の退職帰郷後、一時預ることに同意していることなどから明らかである。
(2) 原告は、同月二四日、文書により退職を表明した際、退職の意思を有していた。このことは、右文書を原告が書いた直後に、被告森田が原告に自分で書いたか否かを確めたところ、原告は自分で書いた旨答え、右文書は自由意思に基づかないで書いたものであると表明していないこと、原告は、その後も引き続き反対の意思や態度を示さず、退職辞令書の交付を受け、退職の申告をしていることなどから明らかである。
(3) 仮に、文書により退職意思を表明した際、原告に退職の意思が存在しなかつたとしても、退職の申し出は別段要式行為とされているわけではないから、同日朝被告森田から退職辞令書の交付を受け、退職の申告をした時点において退職の意思が存在したことが明らかである。
3 結論
(一) 本件退職承認処分の違法性について
(1) 退職の申し出が存在しないとの主張について
前記1、2記載のとおり、原告に対する監禁、暴行、脅迫、強要等の事実はなく、原告は自己の意思に基づいて退職を申し出たのであるから、原告の退職の申し出が存在しないということはできない。
また退職の申し出は別段要式行為とされているわけではないから、原告の退職の申し出が所定の様式に従つていないからといつて退職の申し出が存在しないということはできない。
(2) 本件退職勧奨は、その目的の点において違憲であり、その結果得られた退職の申し出も無効であるとの主張について
本件退職勧奨の目的は、前記2の(一)の(2)記載のとおり正当なものであり、本件退職勧奨に反社会性はない。したがつてその結果なされた退職の申し出も公序良俗に反するものではなく、有効である。
(3) 本件退職勧奨はその態様が原告の自由な意思の形成を強度に妨げるものであつたからその結果なされた退職の申し出は無効あるいは強迫により取り消すことができるものであるとの主張について
前記1、2記載のとおり、原告に対する監禁、暴行、脅迫強要等の事実はなく、原告は自己の意思に基づいて退職を申し出たのであるから、原告の退職の申し出が無効あるいは取り消すことができるものであるということはできない。
また仮に原告の退職の申し出に取り消すことができる瑕疵があるとしても、右退職の申し出に基づき本件退職承認処分の発令があつたのちには、その公定力により右処分の効力は妨げられず、また、右退職の申し出を取り消すことはできないと解されるから原告の主張は失当である。
(4) 以上のとおり本件退職承認処分に違法な点はない。
(二) 被告らの損害賠償責任について
前記1、2記載のとおり、原告に対する監禁、暴行、脅迫、強要等の事実はなく、原告は自己の意思に基づいて退職を申し出たのであるから、本件退職勧奨に違法な点はなく、被告らは損害賠償責任を負わない。
五 被告らの主張に対する認否及び反論
(被告連隊長の本案前の主張について)
すべて争う。
なお、これらの主張はそれまで長期間いつでも提出することができたにもかかわらず、証拠調の完了した口頭弁論の最終局面において突如として提出されたものであるから「時機ニ後レテ提出シタル攻撃又ハ防禦ノ方法」にあたる。しかも右被告は、これらの主張が本訴と関連性必要性を有することを容易に判断できたはずであるから、これらの主張の提出が時機に遅れたことは、右被告の「故意又ハ重大ナ過失ニ因ル」ということができる。更に、これらの主張については原告において種々の反論、立証を行う必要があるから、これらの主張を取り上げて審理すると「訴訟ノ完結ヲ遅延セシムル」ことになる。したがつてこれらの主張は民事訴訟法一三九条により却下されるべきである。
(被告らの本案の主張について)
1 1について
(一) (一)について
(1) (1)について
(i) (i)の事実は認める。
(ii) (ii)の事実のうち、連隊においては外部からの反自衛隊工作と判断したことは、知らない。その余は否認する。
(iii) (iii)の事実は知らない。
(iv) (iv)の事実は知らない。
(v) (v)の事実について
(ア) (ア)の事実のうち、「隊内通信」第六号が被告ら主張のような内容のものであつたこと、海上機動演習に参加を予定されていたのは被告森田を指揮官とする第四中隊であつたこと、原告が海上機動演習に参加したこと、原告は当時市ケ谷駐屯地業務隊に臨時勤務をしていたので通常の演習には参加していなかつたこと、原告は鼻の治療を理由に演習への参加を免除してもらつていたこと及び「隊内通信」第八号に演習の概要と演習を朝鮮侵略出兵を想定した演習であるとする記事が掲載されたことは認める。連隊では海上機動演習実施後にこの演習の記事が掲載されるであろうと予測していたこと及び連隊では海上機動演習の記事と原告との関係について疑いをもつたことは知らない。その余は否認する。
第四中隊の隊員数は約一三〇名であつたこと、第三二連隊には、いわゆる「反戦自衛官」が出現していたこと「隊内通信」第八号の記事は海上機動演習に参加した者であれば誰でも書くことができたこと等からすれば、右記事と原告との関係を疑わせる根拠はきわめて薄弱であつた。
(イ) (イ)の事実のうち、原告は夜間通学者であり昭和五〇年七月ころ業務隊厚生課貯金係に勤務していたことは認めるが、その余は否認する。
(ウ) (ウ)及び(エ)の事実は否認する。
(エ) (オ)の事実のうち、連隊では原告が「隊内通信」等に関与しているのではないかとの疑いを抱いたことは知らない。その余は否認する。
(vi) (vi)の事実は知らない。
(2) (2)について
(i) (i)の事実は知らない。
(ii) (ii)の事実は否認する。
原告は、自衛隊関係の本を読み、自衛隊に対する批判の存在を知り、それを金久保に話したことはあるが、被告主張のように自己の思想を断定的に述べて勧誘したことはない。また、原告は、増田に対しては、何ら話をしていない。
(iii) (iii)の事実は知らない。
(3) (3)の事実のうち、昭和五〇年一一月一六日被告萩原が岩手県水沢市在住の原告の両親を訪問したことは認める。原告の両親と相談の結果、原告の両親が上京することとなつたことは否認する。その余は知らない。
被告萩原は昭和五〇年一一月一六日に原告の両親を訪ねた際、原告の両親に対し、原告を退職させて郷里に連れ帰つた方がよいと説得し、そのため早い時期に東京へ出て来てほしいと述べた。そして同月二〇日ころ、原告の両親に電話をして上京する日を尋ね、原告の両親から同月二三日に上京する予定であることを聞きだした。同月二一日夜には、原告の両親に対して今説得中だが来てもらえるかと念押しの電話をした。更に同月二二日の夜にも原告の両親に確認の電話をし、同月二三日には市ケ谷駅まで原告の両親を迎えに行つた。これらのことからすれば、原告の両親の上京は連隊からの積極的な働きかけの結果、実現したものであることが明らかである。
(4) (4)の事実は知らない。
(二) (二)について
(1) (1)について
(i) (i)について
(ア) (ア)の事実のうち、被告萩原が被告小林に対し原告を営内班長室に呼ぶよう指示したことは知らない。その余は否認する。
(イ) (イ)の事実のうち、被告小林が原告を呼び出し午後一時半ころ原告とともに営内班長室に入つたこと、間もなく被告萩原も入室したこと、被告萩原は原告を呼んだ理由を説明し原告の反自衛隊活動について尋ねたが原告は「何のことですか。」「証拠はあるのですか。」などと反問するほかは沈黙していたこと、被告萩原が原告に対して退職勧奨を行つたが原告は沈黙し続けたことは認めるが、その余は否認する。
(ii) (ii)について
(ア) (ア)の事実は否認する。
(イ) (イ)の事実のうち、菅谷及び被告阿部が原告の反自衛隊活動について尋ねたことは認めるが、その余は否認する。
(iii) (iii)の事実のうち、原告が営内班長室にいたこと及び被告小林が退職勧奨の妨害を防止するために営内班長室と私物庫に「立入禁止」の張り紙をしたことは認めるが、その余は否認する。
(iv) (iv)について
(ア) (ア)の事実は否認する。
(イ) (イ)の事実のうち、当時第四中隊の主力は音楽まつりの準備訓練に出かけており夕食の時間をすぎた午後六時ころ帰隊するので残留者が夕食時に中隊全員の食事を一括受領していたこと並びに午後五時半ころから営内班長室において被告小林、同阿部、菅谷及び原告の四名がいつしよに食事をしたことは認めるが、その余は否認する。
(ウ) (ウ)の事実のうち、菅谷及び坂下が営外者であることは認める。当時は音楽まつり準備訓練中のため営外者も含めて中隊全員が駐屯地営舎内起居を命ぜられていたので菅谷及び坂下は帰宅しないで営舎内にいたとの事実は知らない。その余は否認する。
(エ) (エ)の事実は知らない。
(v) (v)について
(ア) (ア)の事実のうち、菅谷及び被告小林が営内班長室に在室していたことは認めるが、その余は否認する。
(イ) (イ)の事実のうち、永井及び久保田が営内班長室に在室していたことは認めるが、その余は否認する。
(ウ) (ウ)の事実のうち、被告萩原が営内班長室に在室していたことは認めるが、その余は否認する。
(エ) (エ)の事実のうち、徳岡、長谷川及び佐藤が営内班長室に在室していたこと並びに徳岡は原告の元営内班副班長、長谷川は原告の元営内班長であつたことは認めるが、その余は否認する。
(オ) (オ)の事実のうち、午後一〇時に消燈ラツパが鳴ると原告は立ち上がり居室に帰る旨申し出たことは認めるが、その余は否認する。
(カ) (カ)の事実のうち、古川が営内班長室に在室していたことは認めるが、その余は否認する。
(キ) (キ)の事実のうち、千葉が営内班長室に在室していたこと及び千葉は原告と同県人であることは認めるが、その余は否認する。
(ク) (ク)の事実は否認する。
(2) (2)について
(i) (i)について
(ア) (ア)の事実のうち、長谷川、久保田、徳岡が営内班長室に在室していたこと及び起床ラツパが鳴るのは午前六時であることは認めるが、その余は否認する。
(イ) (イ)の事実は否認する。
(ii) (ii)について
(ア) (ア)の事実のうち、被告小林が原告を起こしたこと及び原告は起床しベツドを整理したことは認めるが、その余は否認する。
(イ) (イ)の事実のうち、当日は朝から雨が降つていたこと、食堂まで約三〇〇メートルあること及び原告が起床したときはすでに朝食の時間を過ぎていたことは認める。被告小林及び同阿部は食堂まで雨の中を食事をしに行くのが面倒で朝食をとつていなかつたことは知らない。その余は否認する。
(ウ) (ウ)の事実のうち、被告小林が午前九時半ころ営内班長室に在室していたことは認める。午前九時半ころ被告小林に所用があつたことは知らない。その余は否認する。
(エ) (エ)の事実は否認する。
(iii) (iii)の事実のうち、午前一一時ころ被告萩原が営内班長室に入室し原告に対して反自衛隊活動について尋ねたが原告は黙つていたことは認める。午前一一時ころ被告萩原が被告小林に原告の所在を尋ねたところ被告小林はさきほどまで営内班長室に居た旨答えたことは知らない。その余は否認する。
(iv) (iv)について
(ア) (ア)の事実のうち、正午ころ被告萩原と原告は食事をしたことは認めるが、その余は否認する。
(イ) (イ)の事実のうち、午後一時すぎに菅谷が営内班長室に入室したことは認める。午後一時すぎ菅谷が営内班長室をのぞいたこと及び同人が原告の話相手になつてやろうと思つたことは知らない。その余は否認する。
(ウ) (ウ)の事実のうち、坂下が営内班長室に入室したことは認めるが、その余は否認する。
(エ) (エ)の事実のうち、午後二時すぎ飯塚が営内班長室に入室し原告に反自衛隊活動は自衛官としてふさわしくない行為であるなどと話したことは認めるが、その余は知らない。
(v) (v)について
(ア) (ア)の事実のうち、午後三時ころ被告萩原が営内班長室に入室したこと及びそのころ同室には飯塚が在室していたことは認めるが、その余は否認する。
(イ) (イ)及び(ウ)の事実は否認する。
(vi) (vi)の事実は否認する。
(vii) (vii)について
(ア) (ア)の事実のうち、午後八時半ころ原告が営内班長室に在室していたこと並びに被告萩原及び同小林が同室に入室したことは認める。午後八時半ころ被告萩原が被告小林に原告の所在について確かめるよう指示したことは知らない。その余は否認する。
(イ) (イ)の事実のうち、被告らの主張する陸曹らが営内班長室に在室していたこと及び松坂が営外者であることは認めるが、その余は否認する。
(ウ) (ウ)の事実のうち、被告小林が久保田に原告の私服を持つて来させたこと、原告が着替えたこと及び身分証明書は「証明書入れ」に納めるよう定められていることは認めるが、その余は否認する。
作業服は私服より窮屈であるとはいえない。また私服は外出時に着用するものとされているから、退職勧奨の継続中にくつろげるよう私服に着替えさせるということは不合理である。
(エ) (エ)の事実のうち、午後一〇時すぎに電燈が消えたことは認めるが、その余は否認する。
(オ) (オ)及び(カ)の事実は否認する。
(3) (3)について
(i) (i)の事実は否認する。
(ii) (ii)について
(ア) (ア)の事実のうち、午前五時ころ営内班長室が明るかつたこと、松坂及び横田が同室に在室していたこと並びに被告小林が同室に入室したことは認める。被告小林が午前三時ころ起床し隊舎周辺等の巡察を行い午前五時ころ中隊へ帰つてきたことは知らない。その余は否認する。
(イ) (イ)及び(ウ)の事実は否認する。
(iii) (iii)について
(ア) (ア)の事実は否認する。
(イ) (イ)の事実のうち、朝食終了後被告小林が被告森田に報告したことは知らない。その余は否認する。
(ウ) (ウ)の事実のうち、須部が営内班長室に入室したことは認めるが、その余は否認する。
(エ) (エ)の事実のうち、千葉が営内班長室に入室したことは認める。午前一〇時ころ千葉が同室をのぞいたことは知らない。その余は否認する。
(iv) (iv)の事実のうち、原告の両親が出迎えた被告萩原に案内されて午前八時四五分ころ第四中隊長室に入つたこと、中隊側から原告に対する説得の状況を説明したこと及び原告の両親が退職願用紙に所定事項を記載したことは認めるが、その余は知らない。
原告の両親は、右退職願を積極的に書いたのではない。被告森田から原告を懲戒免職にすれば傷がついて将来にさしさわるので、依願退職はどうか、書類を用意しているが書いてもらえるかと言われて書いたのである。
(v) (v)の事実のうち、原告の両親が被告萩原及び同小林とともに営内班長室に入室したこと、原告の両親が原告と話をしたこと、原告の両親は原告に対し退職して帰郷するよう説得したが原告は「大学があるので帰らない。」と答えたこと並びに百合子は涙を流し「水沢に帰ろう。」等と訴えたが原告は沈黙していたことは認める。被告森田は被告小林に指示して原告の所在を確認させたこと並びに被告森田は被告萩原及び同小林とともに原告の両親を営内班長室に案内したことは知らない。その余は否認する。
(vi) (vi)について
(ア) (ア)の事実は認める。
(イ) (イ)の事実は否認する。
(ウ) (ウ)の事実のうち、安太郎が即刻退職の手続をしてもらいたい旨の請願書を作成し提出したことは認めるが、安太郎が明朝原告をぜひ連れて帰りたいので部隊の方で水沢まで送つてもらいたい旨依頼したこと及び安太郎が即刻退職の手続をしてもらいたい旨申し出たことは否認する。その余は知らない。
部隊の方で水沢まで送るということは、被告らの側から申し出たことであり、また早朝出発という時刻設定も全く被告ら側の都合のみによるものであつた。原告の両親は、翌二四日、列車で帰る予定にしていたのであり、また出発時刻についても特に早朝でなければならないと考えていたわけではない。その日のうちに帰りつければよいと考えていた。
請願書は安太郎が自発的に書いたものではない。被告森田からガリ版刷りのサンプルを渡され、このとおりに書いてほしいと言われて書いたものである。なお、この請願書は、両親が説得に成功しなかつたあとを受けて今度は自分たちの側でいかなる手段を用いてでも退職の手続を完結させようと考えた被告らが、これに対する異議を封じるために書かせたものと考えざるをえない。
(エ) (エ)の事実は否認する。
原告の両親は、被告小林から隊の者が原告の荷物を整理するから立ち合つてほしいと言われて立ち合つたにすぎない。
また原告は、いまだ退職の意思を表明していないのであるから、持ち帰る物、残しておく物について指示を与えるなどということはありえない。
いずれにしても、いまだ退職の意思表示がない段階で荷物の整理をするのは異常である。
(オ) (オ)の事実は否認する。
(カ) (カ)の事実のうち、被告小林が午後六時半ころ営内班長室に入室したことは認めるが、その余は否認する。
(キ) (キ)の事実のうち、原告の両親が久保田の案内で宿舎に向つたことは知らない。その余は否認する。
(vii) (vii)について
(ア) (ア)の事実のうち、須部が午後七時半ころ営内班長室に入室したことは認めるが、その余は否認する。
(イ) (イ)の事実のうち、石塚、松坂、飯塚及び古川が営内班長室に入室したことは認める。松坂が営内班長室を宿泊場所に割り当てられていたことは知らない。その余は否認する。
(viii) (viii)の事実は否認する。
(4) (4)について
(i) (i)の事実のうち、飯塚が営内班長室を宿泊場所に割り当てられていたことは知らない。その余は否認する。
(ii) (ii)の事実のうち、被告小林が原告に対しけい紙を渡したこと並びに「一身上の都合により退職をお願いします。皆さんには大へん御迷惑をおかけしました。」との文章及び原告の階級、氏名の記載のある文書ができあがつたことは認める。原告の両親が原告を早朝に連れて帰りたいと言つていたので被告小林は原告のことが気にかかつたことは知らない。その余は否認する。
(iii) (iii)について
(ア) (ア)の事実のうち、被告連隊長坪井が前夜原告の「人事発令通知」を当直司令に預けておいたことは認めるが、その余は知らない。
なお、右の「人事発令通知」は昭和五〇年一一月二四日付けであつた。被告連隊長坪井がこのように昭和五〇年一一月二四日付けの「人事発令通知」を同月二三日に用意していたということは、被告連隊長坪井が同月二四日までに原告の意思いかんにかかわらず、いかなる手段を用いても退職手続を終了させるという方針をとるに至つたことを示している。
(イ) (イ)の事実は否認する。
(ウ) (ウ)の事実のうち、午前六時ころ原告が第四中隊長室に入つたこと、被告森田が被告萩原及び同小林立会のもとに「人事発令通知」を原告に交付したこと並びに原告が右文書を受け取り上衣のポケツトにしまつたことは認めるが、その余は否認する。
(エ) (エ)の事実は否認する。
(オ) (オ)の事実は認める。
2 2について
(一) (一)について
(1) (1)は争う。
(2) (2)は争う。
被告萩原は、原告に対して、原告が働きかけたという金久保、増田の名まえを出していないし、同人らに対する原告の働きかけを示す文書を提示してもいない。被告らは原告が反自衛隊活動を行つていると確信していたのであり、被告らの指導は原告に反自衛隊活動の有無を尋ねたり、弁明をきいたりするようなものではなかつた。被告らの指導の目的は、原告の両親が上京する機会に何としてでも原告に退職の意思を表明させ、両親と一緒に帰郷させることにあつたのである。
被告らの指導が右のようなものである以上、陸上自衛隊服務規則九条ないし一一条にその法的根拠を求めることはできない。なぜならこれらの条項は、駐屯地内における自衛官の勤務及び居住に関する服務(営内服務)についてのものであり、勤務関係を離脱させるための退職勧奨の根拠とはなりえないからである。
(3) (3)は争う。
(4) (4)は争う。
原告は、昭和五〇年一一月二一日から終始退職の意思がないことを表明し続け、退職勧奨を受けることそのものを拒否する態度をとり続けてきた。
(5) (5)は争う。
「立入禁止」の張り紙により退職勧奨の妨げとなる営内班長室への立入りは禁じられ、以後同室は、原告に対する退職勧奨を行うための特殊な空間に変えられた。そしてこの張り紙は退職勧奨が終了するまで張り続けられたのであつて、その間、被告萩原、同小林のほか陸曹らは原告に対する退職勧奨のためにのみ同室に入るということになつた。
(6) (6)及び(7)は争う。
(二) (二)は争う。
陸曹らは誰でも原告に対する指導の権限を有しているのであり、彼らは、原告を必ず退職させるべきとの方針を隊がもつていることを承知のうえで積極的に退職勧奨に加わつたのである。したがつて、被告萩原及び同小林が行つた行為は正規の退職勧奨であるが、他の陸曹らが行つた行為は原告の将来を憂慮してした自主的行為であると区別することはできず、原告は、被告萩原及び同小林のみならず、陸曹らからも退職勧奨を受けたことになる。
(三) (三)は争う。
原告は確かに俸給の差額を受領に行つたり、配食を受けに行つたりしている。しかし原告はこれらの際常に用事が終われば営内班長室へ戻るよう命ぜられていたのであり、営内班長室から自由に出ることができたわけではない。
(四) (四)は争う。
原告を退職させるための暴行、脅迫を連隊全体が許容している以上、幹部、陸曹が懲戒権者に対する申立てを行うということはありえない。また原告が申立てを行つても聞き入れられないことは明らかである。更に、被告らから説得され原告の退職を希望していた原告の両親に抗議を期待することも難しい。
昭和五〇年一一月二四日朝、隊舎前から車で離隊する際、原告は、ここで何を言つても仕方がない、すべては裁判で争おうと考えていた。したがつて、このときの原告の行動は、暴行脅迫を否定する事実たりえない。
(五) (五)について
(1) (1)は争う。
原告が昭和五〇年一一月二三日にはすでに退職の意思を固めていたのであれば、それ以降被告らがなすべきことは退職願用紙に必要事項を書き入れさせることのみであつたはずであるが、そのようなことは行われていない。また被告らは同日原告の両親に退職願や請願書を書かせているが、原告が退職の意思を固めているのであればこのようなことは必要なかつたはずである。更に被告らは原告に対して退職願が書けない信念とは何かについて尋ねていないし、原告の両親に対して原告の退職の意思は確認できた旨の説明もしていない。
(2) (2)及び(3)は争う。
3 3は争う。
第三証拠<省略>
理由
第一当事者及び本件退職承認処分について
一 請求原因1の(一)(二)の各事実は、当事者間に争いがない。
二 請求原因2の事実(本件退職承認処分の事実)は、当事者間に争いがない。
第二被告連隊長に対する訴えの適否について
一 原告は、被告連隊長の本案前の主張は、「故意又ハ重大ナル過失ニ因リ時機ニ後レテ提出シタル攻撃又ハ防禦ノ方法」にあたり、しかもこの主張を取り上げて審理すると「訴訟ノ完結ヲ遅延セシムヘキモノ」であるから、民事訴訟法一三九条により却下されるべきであると主張する。しかし、被告連隊長の本案前の主張は、訴えの利益及び不服申立て前置に関する主張であり、職権調査事項に関するものであるから、民事訴訟法一三九条が適用される余地はなく、原告の右主張は採用することができない。
二 訴えの利益について
1 自衛隊法三六条一項は、「陸士長、一等陸士、二等陸士及び三等陸士(以下「陸士長等」という。)は、二年を、…任用期間として任用されるものとする。」と規定している。弁論の全趣旨によれば原告は昭和五〇年一月三〇日をもつて継続任用されたものと認められるから、本件退職承認処分が取り消されることにより、原告は、少なくとも昭和五二年一月二九日までの間の自衛官としての地位を回復することができる。そして原告は、本件退職承認処分の取消しによる右地位の回復がない限り、右期間の俸給請求権等の権利、利益を回復することができないのであるから、原告にとつて本件退職承認処分を取り消す判決を求めることは、右権利、利益を回復するために心要不可欠な手段である。したがつて、継続任用の法的性質について判断するまでもなく、原告は、本件退職承認処分の取消しを求める訴えの利益を有すると解するのが相当である。
2 被告連隊長は、原告は右期間勤務をしていないから本件退職承認処分を取り消すことにより直接、自動的に右俸給請求権を回復することはできず本件退職承認処分を取り消すことにより直接自動的に回復される利益は退職金の増額だけであつて極めてわずかなものにすぎないこと、右期間の俸給、退職金の増額分等の利益は国家賠償請求訴訟によつてすべて回復されること、ことに本件では国家賠償請求訴訟が併合提起されているからその訴訟の中で俸給相当損害金等を請求するのが訴訟経済にかなうことを理由に原告に本件退職承認処分の取消しを求める訴えの利益はない旨主張する。弁論の全趣旨によれば、原告は本件退職承認処分後全く勤務をしていないものと認められる。ところで、隊員が勤務すべき勤務時間について勤務しなかつた場合には、原則として、勤務しなかつた時間に応じて給与額の減額を受けることになるが(防衛庁職員給与法一一条二項)、隊員に対しその地位を失わせる処分があり、その処分の適否をめぐつて当該隊員と任免権者又は国との間に紛争があるために隊員が勤務することができなかつた場合において当該処分が取り消され隊員の地位の回復が認められたときには、給与の減額はされるべきではないものと解するのが相当であるから(防衛庁職員給与法施行令七条二号参照。もつとも同規定が本件について直接適用されるものと解することはできないが、隊員の利益保護に関する右規定の趣旨は本件の場合についても類推されるべきである。)原告が前記期間勤務をしていないからといつて本件退職承認処分の取消しにより原告の回復すべき利益がないということはできない。また、仮に被告連隊長主張のようにその回復することができる利益がわずかであるとしても、その故に本件退職承認処分の取消しを求める訴えの利益がないと解すべき理由を見出すことはできない。また、たしかに右期間の俸給、退職金の増額分等の相当額の利益は国家賠償請求訴訟によつても回復することができる。しかし、国家賠償請求訴訟は本件退職承認処分の取消訴訟よりも直截かつ有効な救済手続であるということは必ずしもできないから、右相当額の利益を国家賠償請求訴訟によつても回復することができるからといつて直ちに本件退職承認処分の取消しを求める訴えの利益が失われるものと解することはできない。そしてこのことは、本件のように国家賠償請求訴訟が併合提起されているからといつて変わるものではない。したがつて、右主張は失当である。
三 不服申立て前置について
自衛隊法五〇条の二は、「第四十九条第一項に規定する処分についての取消しの訴えは、当該処分についての審査請求又は異議申立てに対する裁決又は決定を経た後でなければ提起することができない。」旨定めている。そして、同法四九条一項は「隊員に対するその意に反する降任、休職若しくは免職又は懲戒処分」についての審査請求又は異議申立てについて定めているのであるが、右規定は同法第三節の隊員の身分保障について定めた規定の一環としての不服申立てに関するものであるから、右規定にいう「隊員に対するその意に反する降任、休職若しくは免職」とは同節中の同法四二条各号の規定に該当する場合に行われる降任及び免職並びに四三条に規定された休職を指し、また懲戒処分とは同法四六条に規定された各処分を指すものと解するのが相当である。ところで、隊員の退職についての承認は、懲戒処分に当たらないことは当然のことであるが、隊員の身分保証について定めた第三節とは別の任免を定めた同法第二節中の四〇条に規定されているものであるばかりでなく、隊員の意思に基づく退職申し出を前提として行われるべき処分であり、制度的には隊員をその意に反して退職させる処分ということができないものであるから、同法四二条に定めるその意に反する免職にも含まれないと解すべきである。したがつて、本件退職承認処分については同法五〇条の二の規定の適用はないものといわなければならない(なお、右規定は隊員の訴え提起の権利を手続的に制約するものであるから、みだりに拡張して解釈すべきものでないことは、いうまでもないところである。)。また、その他、隊員に対する退職承認処分の取消しの訴えは当該処分についての審査請求又は異議申立てに対する裁決又は決定を経た後でなければ提起するができない旨定めている規定は存しない。したがつて、原告が不服申立てを経ずに本件退職承認処分の取消しの訴えを提起したからといつて、その訴えが不適法になると解することはできない。
第三本訴請求の当否について
一 事実関係
1 本件退職勧奨に至る経緯
請求原因3の(一)の事実のうち、昭和四九年九月から、「隊内通信」というパンフレツトが隊内に送付されてくるようになつたこと、「隊内通信」の一部に原告主張のような自衛隊に対する批判的な記事が掲載されていたこと及び安太郎が岩手県水沢市に在住していること、被告らの本案の主張1の(一)の(1)の事実のうち、(i)の事実、「隊内通信」第六号が被告ら主張のような内容のものであつたこと、海上機動演習に参加を予定されていたのは被告森田を指揮官とする第四中隊であつたこと、原告が海上機動演習に参加したこと、原告は当時市ケ谷駐屯地業務隊に臨時勤務をしていたので通常の演習には参加していなかつたこと、「隊内通信」第八号に演習の概要が掲載されたこと及び原告は夜間通学者であり昭和五〇年七月ころ業務隊厚生課貯金係に勤務していたこと、同1の(一)の(3)の事実のうち、昭和五〇年一一月一六日被告萩原が岩手県水沢市在住の原告の両親を訪問したことは、当事者間に争いがない。これらの争いがない事実に、申請欄、備考欄及び「連絡先」個所の肉筆部分並びに原告の印影部分の成立は争いがない乙第八号証、弁論の全趣旨により真正に成立したと認められる乙第一〇ないし第一七号証、被告小林本人尋問の結果により真正に成立したと認められる乙第二一号証、被告森田本人尋問の結果により真正に成立したと認められる乙第二二号証、成立に争いがない乙第二七号証の一、二、証人坪井、同安太郎及び同百合子の各証言、原告、被告森田、同萩原及び同小林各本人尋問の結果並びに弁論の全趣旨を総合すると次の事実を認めることができ、この認定を覆すに足りる証拠はない。
(一)(1) 昭和四九年九月ころから市ケ谷駐屯地の自衛隊員にあてて「隊内通信」という文書が送られてくるようになつた。この「隊内通信」には、毎号、「自衛隊は、侵略と人民弾圧を目的とする帝国主義軍隊であり、一部の特権ブルジヨワジーの利益のためにしか存在しないから、内側から解体しなければならない。そしてそのためには自衛隊内に革命党を建設しなければならない。」旨の主張が掲載されていた。
(2) 被告連隊長坪井、被告森田、同萩原、同小林らは、原告が右「隊内通信」に関係しているのではないかとの疑いを持つに至つた。そして原告が「隊内通信」に関係しているとすれば「隊内通信」の右のような内容から、原告は反自衛隊活動(自衛隊の規律を乱し、団結を弱め、士気を低下させるような活動)を行つていることになると考えた。しかし確証は得られなかつた。
被告連隊長坪井らが右のような疑いを持つに至つたのは、次のような事情があつたからである。
(i) 昭和五〇年五月に送られてきた「隊内通信」六号には、同年四月初めころ、被告森田が第四中隊員に対して行つた精神教育の内容が掲載されていた。そこで、被告連隊長坪井は、第四中隊員の中に「隊内通信」に関係している者がいると考え、同中隊員を調べさせた。その際、原告は、右精神教育に出席したにもかかわらず、出席したかどうか覚えていないなどとあいまいな返事をした。
(ii) 同年六月二三日から同年七月八日まで東北地方において陸上及び海上機動演習(黒潮演習)が行われた。この演習のうち海上機動演習は、第四中隊が中心となつて行つたものであるが、原告は、当時、業務隊に勤務していたので、右演習には参加しないことになつていた。しかし、原告は、右演習への参加を強く希望し、その結果、許されて参加した。
同年八月に送られてきた「隊内通信」八号には、右海上機動演習の内容が掲載されていた。
(iii) 「隊内通信」には、市ケ谷駐屯地全体の隊員の氏名及び親の氏名を知ることができる立場にある者が関係している疑いがあつた。すなわち、「隊内通信」は市ケ谷駐屯地全体の隊員に送られてきていたが、同駐屯地から他の駐屯地へ移つた隊員には送られてこなくなつたし、また、隊員の親が差出人であるかのようにして送られてきたことがあつた。原告が当時勤務していた業務隊厚生課貯金係は、このような氏名を知ることができる地位の一つであつた。
(iv) 「隊内通信」は、学校へ通つている隊員のほとんどの者に送られてきていたので、「隊内通信」には、学校へ通つている隊員が関係している疑いがあつた。原告は、当時大学へ通つていた。
(v) 原告の外出の回数は他の隊員に比べて多かつた。更に、外出に関しては次のようなことがあつた。
自衛隊員は、常に所在場所を明らかにしておく必要があるので、外泊を伴う外出をする場合(これを「特別外出」という。)には、外泊先の住所、氏名及び電話番号を外出簿に記載して提出しなければならないとされている。
しかるに、原告は、昭和五〇年八月二日から三日にかけての外泊に際し、外出簿に「豊島区南長崎二―四―二」と外泊先の住所を記載したのみで、外泊先の氏名及び電話番号を記載しなかつた。そこで、被告小林は、原告に対し、このことを指摘し、注意したところ、原告は、外出簿に「岩間宅」と外泊先の名前を記入した。
原告は、同年九月三日から四日にかけての外泊に際しても、外出簿に「豊島区南長崎二―四―二」と外泊先の住所を記載したのみで、外泊先の氏名及び電話番号を記載しなかつた。そこで、被告小林は、再びこのことを指摘し、注意した。原告は、「なんで記入するんですか。」などと言つて記入しようとしなかつた。しかし、原告は、岩間宅に泊まつた旨述べたので、被告小林が外出簿に「岩間宅」と記入した。
その後、被告小林は、岩間に対し、原告が八月二日及び九月三日に同人宅へ泊まつたかどうか尋ねた。岩間は泊まつていない旨答えたので、原告の右申告は虚偽であることが判明した。
被告小林から右の各事実の報告を受けた被告萩原は、同月二二日、原告に対し、九月三日はどこに泊まつたのか尋ねた。原告は、「なぜそういうようなことを聞くのか。」「そういうことを言う必要はない。」などと言い、答えなかつた。そこで、被告萩原は、原告の通学を禁止した。もつともこの処分は数日後には解除された。
被告小林及び同萩原は右の事実を被告森田に報告した。
(二) 被告萩原は、同年九月初めころ、原告から、安太郎が長野県での会合の帰りに東京へ寄つて原告と会うことを聞いた。そこで、被告萩原は、百合子を通じて、安太郎に対し、会いたいので東京へ来たときに自衛隊の方へ寄つてほしい旨伝えた。同月一〇日、被告萩原は、安太郎と会い、同人に対し、具体的な事例をあげて原告が反自衛隊活動をしている疑いがある旨説明し、いずれは原告を水沢の実家に連れて帰つてほしい旨話した。
安太郎は、百合子の実家のおばが亡くなつた旨の連絡を旅行中に受けていたので、おばの葬式を口実に原告を水沢の実家へ連れて帰つた。そして水沢の実家で原告に対し、「自衛隊の方ではお前が過激な活動をしている疑いがあると言つているが、ほんとうにそのような活動をしているのか。」「自衛隊の方ではお前を必要としないようだから自衛隊を辞めてはどうか。」などと話した。原告は、「過激な活動には関係していない。」「自衛隊を辞める気はない。」などと言い、四、五日間水沢の実家にいただけで東京へ戻つて行つた。
(三) 被告小林は、昭和五〇年一〇月二四日から同月二八日までの間に、当時第四中隊員であつた金久保安男に、同人に対する原告の言動について尋ねた。金久保は、「同年五月一日、原告に誘われてホテル・オークラで原告と食事をしながら話した。その際、原告は、『自衛隊は国を守ると言つているが政府の御用軍隊だ。国民のためにならない。』『専守防衛と言うが侵略だ。自衛隊は韓国を肩代りし、ひいてはアジアの侵略の足場を作るんだ。』『一にぎりの金持ちに利用されている自衛隊は資本家の犬だ。』『同胞、国民へ銃を向ける自衛隊はいらない。』『我々は自衛隊を力を合わせて破壊しなければだめなんだ。』『自衛隊の中にこういう思想の者を獲得しよう。』『自衛隊を内部から崩壊させるんだ。』などと話した。その後も原告は、喫茶店などで話した際に、同様の話をした。」旨述べた。被告小林は、金久保が述べたことを文書にし、金久保に内容の確認を受けたうえ、署名押印をさせた。
被告小林は、同年一一月初めころ、当時第四中隊員であつた増田善宣に、同人に対する原告の言動について尋ねた。増田は、「同年春ころ、原告と話した際、原告は、『自衛隊は一部資本家のためのものであつて国民のためのものではない。我々は利用されている。』『一部の国家権力のための自衛隊である。』『自衛隊はアメリカ帝国主義のアジア侵略の一翼をになつている。海外派兵もありうる。』『自衛隊は必要ない。』などという趣旨の発言をしていた。」旨述べた。被告小林は、増田が述べたことを文書にしようと思つたが、増田が、自分で述べたことを文書にしてくると言つたので、文書を作成することを依頼した。増田は右の文書を作つて数日後に被告小林に提出した。
被告小林は、被告萩原に対し、右の各文書を見せて、右の各事実を報告した後、被告森田に対し、右の各事実を報告し、右の各文書を提出した。被告森田は、被告連隊長坪井に対し、右の各事実を報告し、右の各文書を提出した。
以上のことから、被告連隊長坪井、被告森田、同萩原、同小林らは、原告が反自衛隊活動を行つていると考えるに至つた。
(四) 被告連隊長坪井は、右のとおり原告が反自衛隊活動を行つていることが明らかになつた以上、原告に退職を勧奨し、両親のもとへ帰らせるのが、連隊のためにも、原告の将来のためにも最も望ましいと判断した。そして、このことについて原告の両親と相談するために、被告萩原ほか一名を同年一一月一六日、水沢の原告の実家へ派遣した。
被告萩原らは、水沢の実家において、原告の両親に対し、「隊内通信」及び右(三)記載の文書を見せて、原告が反自衛隊活動を行つている旨説明し、原告を早く水沢の実家に連れ戻した方がよい旨述べた。原告の両親は、これに賛同した。更に、被告萩原らは、原告の両親に対し、早い時期に東京へ来てほしい旨述べた。原告の両親は、同月二三日、二四日が連休なので、そのころなら行くことができる旨答えた。
被告萩原らと原告の両親との右会談の結果の報告を受けた被告連隊長坪井は、同月一九日、被告森田に、原告に対し退職を勧奨するよう命じた。被告森田は、被告萩原及び同小林に、原告に対し退職を勧奨するよう命じた。
2 本件退職勧奨の経緯
請求原因3の(二)の(1)の事実のうち、第三二普通科連隊第四中隊の主力部隊は音楽まつりの訓練のため市ケ谷駐屯地を離れていたが原告は残留していたこと、原告が被告小林から呼ばれて被告小林とともに営内班長室へ行つたこと、原告は営内班長室では窓際の応接用テーブルのところの折りたたみいすにドアを背にし窓側を向いて座つたこと、被告萩原が営内班長室に入つて来たこと、被告萩原はテーブルをはさんで原告の反対側にあるひじつきいすに座つたこと及び被告小林もいすに座つたこと、同3の(二)の(2)の事実のうち、被告萩原が原告に対して反自衛隊活動について尋ねるとともに退職を勧めたこと及び原告が退職することを拒否したこと、同3の(二)の(3)の事実のうち、被告小林が営内班長室とその隣の私物庫の各入口に立入禁止の張り紙をしたこと及び原告が中隊事務室前で配食を受けて営内班長室に戻つたこと、同3の(二)の(4)の事実のうち、午後一〇時に消燈ラツパが鳴つた際原告が自分の居室に帰ろうと試みたこと、同3の(三)の(1)の事実のうち、被告小林が原告に対して課業時間まで寝るよう言つたこと及び原告が二時間程度営内班長室内のベツトで横になつたこと、同3の(三)の(2)の事実のうち、原告が被告小林から課業時間だということで起こされたこと、同3の(三)の(3)の事実のうち、電燈が瞬間的に消えたことがあつたこと、原告が身分証明書を取り出して被告小林に渡し被告小林がこれを預つたこと及び被告小林が陸曹に原告の私服を持つて来させ原告に私服に着替えるよう言つたこと、同3の(四)の(1)の事実のうち、原告が午前七時半ころ朝食を食べたこと、同3の(四)の(2)の事実のうち、午前一一時ころ原告の両親が被告森田、同萩原、同小林とともに営内班長室に入室したこと、原告の両親は「辞めて帰ろう。」と原告に話しかけたが原告は「帰らない。大学があるから。」と答えたこと、百合子は大学ばかりが人生ではない旨述べたが原告は自分のほうからはあまり話をしなかつたこと、親子三人で二、三時間話したこと及び安太郎が帰る際原告とともに中隊長室へ行つたこと、同3の(五)の(1)の事実のうち、原告が退職する旨の文言、階級及び氏名を書いたこと、同3の(五)の(2)の事実のうち、午前六時ころ原告は被告小林から呼ばれて中隊長室に入つたこと、中隊長室には被告森田がいたこと、原告は被告森田の前に進んで敬礼し被告森田が差し出す辞令を受け取つたこと、原告は礼式に従つていたこと、辞令は依頼退職の辞令であつたこと、玄関前に陸曹らがいたこと、原告が陸曹らと握手をしたこと及び玄関前に車が用意されており原告はそれに乗り込んで出発したこと、同3の(五)の(4)の事実のうち、原告が本訴を提起したこと、被告らの本案の主張1の(二)の(1)の(i)の事実のうち、被告小林が原告を呼び出し午後一時半ころ原告とともに営内班長室に入つたこと、間もなく被告萩原も入室したこと、被告萩原は原告を呼んだ理由を説明し原告の反自衛隊活動について尋ねたが原告は「何のことですか。」「証拠はあるのですか。」などと反問するほかは沈黙していたこと及び被告萩原が原告に対して退職勧奨を行つたが原告は沈黙し続けたこと、同1の(二)の(1)の(ii)の事実のうち、菅谷が原告の反自衛隊活動について尋ねたこと、同1の(二)の(1)の(iii)の事実のうち、原告が営内班長室にいたこと及び被告小林が退職勧奨の妨害を防止するために同室と私物庫に「立入禁止」の張り紙をしたこと、同1の(二)の(1)の(iv)の事実のうち、当時第四中隊の主力は音楽まつりの準備訓練に出かけており夕食の時間をすぎた午後六時ころ帰隊するので残留者が夕食時に中隊全員の食事を一括受領していたこと並びに午後五時半ころから営内班長室において被告小林、同阿部、菅谷及び原告の四名がいつしよに食事をしたこと、同1の(二)の(1)の(v)の事実のうち、菅谷、被告小林、永井、久保田、徳岡、長谷川、佐藤、古川及び千葉が営内班長室に在室していたこと、徳岡は原告の元営内班副班長、長谷川は原告の元営内班長であつたこと、午後一〇時に消燈ラツパが鳴ると原告は立ち上がり居室に帰る旨申し出たこと、同1の(二)の(2)の(i)の事実のうち、長谷川、久保田及び徳岡が営内班長室に在室していたこと、同1の(二)の(2)の(ii)の事実のうち、被告小林が原告を起こしたこと、原告は起床しベツトを整理したこと、当日は朝から雨が降つていたこと、食堂まで約三〇〇メートルあること、原告が起床したときはすでに朝食の時間を過ぎていたこと及び被告小林が午前九時半ころ営内班長室に在室していたこと、同1の(二)の(2)の(iii)の事実のうち、午前一一時ころ被告萩原が営内班長室に入室し原告に対して反自衛隊活動について尋ねたが原告は黙つていたこと、同1の(二)の(2)の(iv)の事実のうち、正午ころ被告萩原と原告は食事をしたこと、午後一時すぎに菅谷が営内班長室に入室したこと、坂下が同室に入室したこと及び午後二時すぎ飯塚が同室に入室し原告に反自衛隊活動は自衛官としてふさわしくない行為であるなどと話したこと、同1の(二)の(2)の(v)の事実のうち、午後三時ころ被告萩原が営内班長室に入室したこと及びそのころ同室には飯塚が在室していたこと、同1の(二)の(2)の(vii)の事実のうち、午後八時半ころ原告が営内班長室に在室していたこと、被告萩原及び同小林が同室に入室したこと、被告らの主張する陸曹らが同室に在室していたこと、被告小林が久保田に原告の私服を持つて来させたこと、原告が着替えたこと並びに電燈が消えたこと、同1の(二)の(3)の(ii)の事実のうち、午前五時ころ営内班長室が明るかつたこと、松坂及び横田が同室に在室していたこと並びに被告小林が同室に入室したこと、同1の(二)の(3)の(iii)の事実のうち、須部及び千葉が営内班長室に入室したこと、同1の(二)の(3)の(iv)の事実のうち、原告の両親が出迎えた被告萩原に案内されて午前八時四五分ころ第四中隊長室に入つたこと、中隊側から原告に対する説得の状況を説明したこと及び原告の両親が退職願用紙に所定事項を記載したこと、同1の(二)の(3)の(v)の事実のうち、原告の両親が被告萩原及び同小林とともに営内班長室に入室したこと、原告の両親が原告と話をしたこと、原告の両親は原告に対し退職して帰郷するよう説得したが原告は「大学があるので帰らない。」と答えたこと並びに百合子は涙を流し「水沢に帰ろう。」等と訴えたが原告は沈黙していたこと、同1の(二)の(3)の(vi)の事実のうち、(ア)の事実、安太郎が即刻退職の手続をしてもらいたい旨の請願書を作成し提出したこと及び被告小林が営内班長室に入室したこと、同1の(二)の(3)の(vii)の事実のうち、須部が午後七時半ころ営内班長室に入室したこと並びに石塚、松坂、飯塚及び古川が同室に入室したこと、同1の(二)の(4)の(ii)の事実のうち、被告小林が原告に対しけい紙を渡したこと並びに「一身上の都合により退職をお願いします。皆さんには大へん御迷惑をおかけしました。」との文章及び原告の階級、氏名の記載のある文書ができあがつたこと、同1の(二)の(4)の(iii)の事実のうち、被告連隊長坪井が前夜原告の「人事発令通知」を当直司令に預けておいたこと、午前六時ころ原告が第四中隊長室に入つたこと、被告森田が「人事発令通知」を原告に交付したこと及び原告が右文書を受け取りポケツトにしまつたこと及び(オ)の事実は、当事者間に争いがない。これらの争いがない事実に、昭和五〇年ころ原告が所持していた身分証明書入れの実物大の写真であることは当事者間に争いがない甲第一号証の一、二、昭和五〇年ころ原告が所持していた印鑑及びそのケースの実物大の写真であることは当事者間に争いがない甲第二号証、成立に争いがない甲第三号証、第五、第六号証、第七号証の一ないし三、第八、第九号証、乙第六号証、弁論の全趣旨により真正に成立したと認められる乙第一ないし第四号証、証人安太郎及び同百合子の各証言並びに被告森田本人尋問の結果により真正に成立したと認められる乙第五号証の一、第一八号証、被告小林本人尋問の結果により真正に成立したと認められる乙第五号証の二、証人坪井の証言により真正に成立したと認められる乙第七号証、第一九号証、前掲乙第八号証、証人坪井、同安太郎及び同百合子の各証言(ただし証人安太郎及び同百合子の各証言中後記信用できない部分を除く。)、原告、被告森田、同萩原、同小林及び同阿部各本人尋問の結果(ただし原告及び被告小林各本人尋問の結果中後記信用できない部分を除く。)、検証の結果並びに弁論の全趣旨を総合すると次の事実を認めることができ、証人安太郎及び同百合子の各証言並びに原告及び被告小林各本人尋問の結果中この認定に反する部分は信用することができない。
(一) 昭和五〇年一一月二一日の経緯
(1) 同日、被告森田をはじめとする第四中隊員の多くの者は、一日中、朝霞駐屯地に行つていた。これは、音楽まつり(自衛隊員が吹奏楽や演舞などを行つて一般の人に見せる行事)が同月二八日、二九日に予定されており、第四中隊もそれに参加することになつていたので、その準備訓練のためであつた。
しかし、被告萩原、同小林、原告らは、右訓練には参加せず、市ケ谷駐屯地に残つていた。
(2) 午後一時ころから午後五時ころまで
(i) 午後一時すぎ、被告萩原は、被告小林に対し、原告を営内班長室に呼ぶよう指示した。また、被告萩原は、音楽まつりの準備訓練に参加せず市ケ谷駐屯地に残つていた石塚一曹、菅谷一曹、幡谷二曹らに対し、これから営内班長室で原告に対して指導を行うので用件のあるときは営内班長室へ連絡するよう告げた。
(ii) 被告小林は、原告を呼び出し、午後一時半ころ原告とともに営内班長室に入室した。そして原告を窓際の応接用テーブルのところにある折りたたみいすにドアを背に窓側を向いて座らせた。間もなく被告萩原が入室し、テーブルをはさんで原告の反対側にあるひじつきいすに座つた。また被告小林は、原告の側からみてテーブルの左横にあるいすに座つた。
被告萩原は、原告に対し、前記1記載の反自衛隊活動について具体的に尋ねたが、原告は「何のことですか。」「証拠はあるのですか。」などと反問するほかは沈黙していた。また、被告萩原は、原告に対し、「反自衛隊活動をしていても君のためにならない。ご両親も君が退職することを希望している。退職して水沢へ帰つたほうがいい。」などと述べて、退職を勧めたが、原告は「退職するつもりはない。」などと言うほかは沈黙していた。
その間、被告小林は、「言いたいことがあつたら言いなさい。」「やめて帰つた方がよい。」などと言つたほかは、ほとんど話さず、もつぱら被告萩原が話すのを聞いていた。
(iii) 午後二時半ころ、菅谷一曹が俸給の差額支給の準備ができた旨連絡に来たので、被告萩原及び同小林は、俸給の差額支給に立会するために、営内班長室を出て、幹部室へ行つた。以後、午後三時半ころまで、被告萩原及び同小林の原告に対する退職勧奨は中断された。
この間、原告は、幹部室へ俸給の差額を受領に行つたほかは、営内班長室において菅谷と話していた。菅谷は、原告が反自衛隊活動をしている疑いがあることを知つていたので、話の途中で原告に対し、反自衛隊活動について尋ねた。すると原告は黙り込んでしまつた。
(iv) 午後三時半ころから、被告萩原及び同小林は、原告に対する退職勧奨を再開した。被告萩原は、中断前と同様の話をしたが、原告の態度は変わらなかつた。
被告小林は、午後四時ころ、営内班長室及び隣接する私物庫の入口の扉に「立入禁止」と書いた張り紙をした。
また、被告阿部は、そのころ、営内班長室へ茶を持つて行つたが、すぐに退出した。
被告萩原及び同小林の原告に対する退職勧奨は、午後五時まえまで続いた。
(v) 右の被告萩原及び同小林の原告に対する退職勧奨の間に、原告は便所へ行つたり、薬を飲みに行つたりしたことがあつた。
(3) 午後五時ころから午後八時半ころまで
(i) 同日は、前述のとおり第四中隊の多くの者が音楽まつりの準備訓練に出かけており、夕食の時間をすぎた午後六時ころ帰隊するので、残留者が夕食時に中隊全員の食事を一括受領し、中隊事務室前で各人の飯ごうに配食していた。原告も午後五時ころ配食を受けた。
被告小林は、それまでの退職勧奨において原告はあまり話をしなかつたが、いつしよに夕食を食べながら話せば、話合いのきつかけがつかめるかもしれないと考え、原告に対して営内班長室で自分といつしよに夕食を食べるよう告げた。そして、午後五時半ころから、同室において、原告、被告阿部、菅谷とともに夕食をとつた。その際、被告小林は、自分の生立ちや郷里の思い出などを話した。被告小林は、中隊本部の事務や当直業務があつたので、夕食後、営内班長室から退室した。原告及び被告阿部は、夕食後、洗面所へ行き、食器を洗つた。
原告が食器を洗つて営内班長室へ戻ると菅谷が同室にいた。原告と菅谷は午後八時半ころまで同室で話をした。その間、午後七時ころ坂下二曹が入室し、三人で約二〇分間話した。
(ii) 一方、午後六時すぎころ被告萩原は、音楽まつりの準備訓練から帰つてきた被告森田に対し、原告に対して退職勧奨を行つているが原告は何も言つてくれないなどと退職勧奨の模様を簡単に報告した。これに対し、被告森田は引きつづき退職勧奨を行うようにと指示した。
(iii) 午後七時ころから幹部室において「ミーテイング」が行われた。これは、陸曹以上の者が集まつて、昼間の準備訓練で、演出家から指導を受けたことについて検討するという趣旨のものであつた。この「ミーテイング」には、三〇名くらいいる第四中隊の陸曹のうち、二〇名以上の者が参加していた。
右の「ミーテイング」の際、被告萩原は、出席した陸曹以上の者に対し、原告が反自衛隊活動を行つている疑いがあること、原告の両親が同月二三日ころに上京すること、原告に対して営内班長室において退職勧奨を行つていることなどを話した。
右の「ミーテイング」は午後九時ころ終了した。
(4) 午後八時半ころから午後一二時ころまで
(i) 被告小林は、午後八時半ころ、当直業務が一段落したので、営内班長室へ行き、原告に対して退職勧奨を開始した。それまで原告に話をしていた菅谷はベツトの上にすわつて黙つてこれを聞いていた。
被告小林は原告に対して「自衛隊を破壊しようと本当に思つているのか。」「自衛官としてはそういうことを言つてはいけない。」「そういう考えを持つてやつていくんであれば退職した方がいい。」などと話したが、原告は黙つていた。
午後九時ころ、永井三曹が、少しおくれて原告の営内班長である久保田三曹が、営内班長室に入室した。両名ともベツドの上にすわつて被告小林の話を黙つて聞いていた。
午後九時半ころ被告萩原が営内班長室へ来たので、被告小林は退職勧奨をやめて退室した。被告小林は以後当直業務に従事した。
(ii) 被告萩原は午後九時半ころから原告に対して退職勧奨を行つた。昼間よりも雑談的な話が多かつた。
被告萩原が退職勧奨をはじめてしばらくして原告の元営内班副班長であつた徳岡三曹が、午後一〇時近くになつて原告の元営内班長であつた長谷川三曹が営内班長室に入室した。また、午後一〇時ころ佐藤三曹が入室したが、短時間で退室した。
午後一〇時に消燈ラツパが鳴ると原告は立ち上がり、自分の居室に帰らせてほしい旨申し出た。これに対し、被告萩原は「話を聞け。」言つた。原告はやむなくこれに従つた。
消燈ラツパ後間もなく菅谷が営内班長室から退室した。そのころ古川三曹が入室したが、短時間で退室した。
午後一一時ころ永井が退室し、午後一一時すぎに千葉三曹が入室した。
右の陸曹たちが被告萩原の原告に対する退職勧奨の話に加わることもあつた。
なお、右のとおり多くの陸曹が夜まで営舎内にいたのは、当時は前述のとおり音楽まつりの準備訓練中であつたため、営外者(営舎外居住を許可された者)も含めて中隊員全員が営舎内起居を命じられていたからである。
(iii) 被告萩原は午後一二時ころまで退職勧奨を続けたが、原告の態度は従前と変わらなかつた。
被告萩原は午後一二時ころ「終りにしよう。」と言つて退室した。
千葉も被告萩原に続いて退室した。
(二) 昭和五〇年一一月二二日の経緯
(1) 午前零時ころから午前八時半ころまで
(i) 午前零時ころ被告萩原と千葉三曹が退室したのち、営内班長室には、原告と長谷川三曹、久保田三曹、徳岡三曹が残つた。午前零時半ころ長谷川が退室したのち、久保田及び徳岡は原告に対しほぼ一晩中話をした。久保田及び徳岡は雑談的な話をすることが多かつたが、原告に対し退職するよう勧めたりもした。原告は黙つて両名の話を聞いていたが、疲れた原告が眠りかけると久保田及び徳岡は原告を起こして眠らせないようにした。
(ii) 被告小林は、午前五時ころ起き、事務室の方へ行つたところ、営内班長室にあかりがついていたので中へ入つた。部屋の中では、原告、久保田及び徳岡がいすにすわつていた。
被告小林は原告に対して「課業時間まで寝なさい。」と言つた。そして同室のベツトに入つた原告に毛布と布団をかけた。原告はようやく眠ることができ、そのまま午前八時半ころまで眠つた。
(2) 午前八時半ころから午後六時ころまで
(i) 被告小林は、課業開始時刻(午前八時半)ころ、原告を起こした。
原告は起床して、ベツトを整理し、洗面に行つた。
(ii) 当日は朝から激しく雨が降つていたので、被告小林及び同阿部は三〇〇メートル余りも離れている食堂まで雨の中を食事をしに行くのが面倒で朝食をとつていなかつた。また原告が起床したときはすでに朝食の時間を過ぎていた。そこで、被告小林は、即席ラーメンを用意させ、午前九時ころ、原告及び被告阿部とともに営内班長室で食べた。
(iii) 午前九時半ころ、被告小林は、被告阿部に対し、原告の外出簿を渡し、九月三日から四日にかけて原告は申請どおりの外泊先に泊まつていないのでどこに泊まつたのか尋ねるようにと指示して、営内班長室から退室した。
そこで、被告阿部は、原告に対して、九月三日から四日にかけてどこに泊まつたのか尋ねた。原告は、「そんなことを言う必要はない。どうでもいいでしよう。」などと言つて答えなかつた。
被告阿部は、原告の態度が右のとおりであつたので、三〇分ほどで話を打ち切り、被告小林にその旨報告した。
(iv) 被告萩原は、午前一一時ころ、営内班長室へ行き、原告に対して反自衛隊活動について尋ねたが原告は黙つていた。また被告萩原は、原告の両親は原告のことを心配していること、原告の両親は原告を退職させて水沢へ連れて帰りたいと思つていることなどを話して原告に退職するよう勧めたが、原告は、はつきりした返事をしなかつた。
被告阿部が茶を持つて入り、すぐに退室したほかは、右退職勧奨の間に営内班長室に入室した陸曹はいなかつた。
(v) 被告萩原は、正午ころ、被告小林に二名分の食事を持参させ、原告と営内班長室で昼食をとつた。そして午後一時ころ同室から退室した。
(vi) 午後一時すぎに菅谷一曹が営内班長室に入室し、原告と話した。また午後一時半ころ坂下二曹が入室し、原告と話した。そのころ菅谷は退室した。坂下もその後短時間で退室した。午後二時すぎに飯塚一曹が入室し、原告と話した。
これらの陸曹たちは、原告に対して、反自衛隊活動は自衛官としてふさわしくない行為であるなどと話した。また雑談的な話もした。
(vii) 被告萩原は、午後三時ころ、営内班長室へ行つた。それまで原告と話していた飯塚は被告萩原に席を譲つて退室した。被告萩原は原告に対して午前中と同様の話をして退職を勧めた。しかし、原告の態度は同様であつた。
午後四時半ころ被告萩原は退職勧奨を終え、営内班長室から退室した。
(viii) 被告小林は、午後五時すぎころから、原告と営内班長室で夕食をとつた。午後六時ころ被告小林は同室から退室した。
(3) 午後六時ころから午後一二時ころまで
(i) 同日も被告森田は音楽まつりの準備訓練のため朝霞駐屯地へ行き、午後六時すぎに帰つてきた。そして被告萩原から、原告に対して退職勧奨を行つているが原告は黙つているのみで話そうとしない旨の簡単な報告を受けた。被告森田は、なお退職勧奨を行うよう指示した。
(ii) 同日も午後七時ころから午後九時ころまで「ミーテイング」が行われた。出席した陸曹の数は前日と同じくらいであつた。
(iii) 被告萩原は、午後八時半ころ、原告の両親に電話をかける前に、再び原告の退職の意思を確認しておこうと考え、営内班長室へ行つて原告に対し退職の意思があるかどうか尋ねた。原告から、はつきりした答えは得られなかつた。
(iv) 午後九時ころ、被告小林が入室してきたので、被告萩原は、あとを任せて退室した。そして、百合子に電話をかけ、何時に水沢を出発するのか尋ねた。百合子は、同日の二三時の列車で水沢を出発する旨答えた。そこで被告萩原は市ケ谷駅まで迎えに行く旨述べた。
なお、被告萩原は、同月二〇日及び二一日にも百合子に電話をかけ、二三日に上京することを確認していた。
(v) 被告小林は午後九時ころから原告に対して退職勧奨を行つた。被告小林は、自分の子供のころの話や郷里の話などをするとともに、「退職した方が君のためになる。」「両親は心配している。」などと述べて原告に退職を勧めた。原告はほとんど黙つていた。
(vi) 被告小林の右退職勧奨の間、営内班長室には次のような陸曹らの出入りがあつた。
被告小林の入室後間もなく久保田三曹が入室し、午後一〇時ころまで在室した。
少し遅れて西二曹が入室し、午後一一時ころまで在室した。
更に少し遅れて山田二曹、横田二曹が入室した。山田は午後一二時ころまで在室した。
午後一〇時ころ川井田三尉が入室したが、五分ほどで退室した。またそのころ逓駅准尉が入室したが、短時間で退室した。
午後一〇時すぎ小林三曹が入室したが、短時間で退室した。
午後一一時すぎ松坂一曹が入室した。
(vii) 右の陸曹らの多くはベツトにすわつていた。被告小林の退職勧奨の途中に、これらの陸曹らが原告に対して「戸坂土長のために言つておるんだよ。」などと話しかけたこともあつた。
(viii) 被告小林は、右退職勧奨を始めてしばらくしてから、原告に対し、作業服から私服に着替えるよう勧めた。そして久保田に原告の私服を取つて来させた。原告は私服を受け取つて着替えた。原告が脱いだ作業服は陸曹が片づけた。
原告は、右着替えの際、身分証明書を取り出さなかつたので、被告小林は、原告に対し、「身分証明書を持つておるか。」と尋ねた。原告は、身分証明書を着替えた私服のズボンの後ろポケツトから取り出して被告小林に差し出したが、身分証明書入れのひもが一五センチメートルくらいしかなく、三〇センチメートルくらいのひもを付けるようにとの平素の指導に反していた。そこで被告小林は、身分証明書入れとともに身分証明書を預つた。
(ix) 被告小林の右退職勧奨の間に、一瞬営内班長室の電燈が消えたことがあつたが、これは、入口のところにある電燈のスイツチに誤つてもたれかかつた陸曹がいたためであつた。
(x) 被告小林は、午後一二時ころ「私の言つたことをよく考えておいてくれ。」「もう寝よう。」と言つて退室した。
(三) 昭和五〇年一一月二三日の経緯
(1) 午前零時ころから午前八時ころまで
(i) 被告小林が退室したのち、午前零時ころから午前五時ころまでほぼ一晩中松坂一曹及び横田二曹が原告と営内班長室において話をした。松坂及び横田は原告に対して雑談的な話もしたが、退職するよう勧めたりもした。原告はやはり黙つて両名の話を聞いていたが、原告が眠りかけると、両名は原告を起こして睡眠をとらせないようにした。
(ii) 被告小林は、当直勤務であつたので、午前三時ころ起き、約二時間、隊舎周辺等の巡察を行い、午前五時ころ帰つてきた。すると営内班長室が明るかつたので、中へ入つた。同室では原告と松坂、横田が話していた。
被告小林は、右の話に加わり、原告に対して「退職する決心はついたか。」と尋ねた。すると原告は「はい。」と答えた。そこで被告小林は、原告に対して「退職する意思があるんであれば退職願を書いてほしい。」と言つた。これに対し原告は「書かない。」と答えた。そこで被告小林は「信念で書けないのか。」と尋ねた。すると原告は「はい。」と答えた。被告小林は「どんな信念なのか。」と尋ねたが、原告は答えなかつた。
被告小林は午前六時ころ退室した。
(iii) 被告小林は、午前七時半ころから原告と朝食をともにした。そして朝食後、被告森田に対し、原告は退職の意思はあるが信念で退職願は書けないと言つている旨の報告をした。
(iv) 午前八時ころ須部二尉が営内班長室へ入室し、被告萩原が原告の両親を迎えに行つていることを話し、両親とともに帰郷することを勧めた。須部は短時間で退室した。
(2) 午前八時ころから午前一一時ころまで
(i) 原告の両親は、同日朝、市ケ谷駅に着き、出迎えた被告萩原の案内で午前八時四五分ころ中隊長室に入つた。
(ii) 原告の両親は、同室において、被告森田、同萩原、同小林と話し合つた。被告森田は、原告の両親に対し、原告の反自衛隊活動について話したのち、「退職していただかなければならないが、懲戒免職にすれば本人に傷がついて将来のことにも差し障りがあるので、依頼退職がよいと思う。退職するよう説得しているが、退職する意思はあるものの退職願は書かないと言つている。両親からも説得してほしい。」などと述べるとともに、「過去に隊員の親に退職願を書いてもらつたことがある。親が書いた退職願でも通りますから。」などと述べ、暗に退職願を書くよう勧めた。
これに対し、原告の両親は、原告を退職させて連れて帰りたいとの意向を示すとともに、退職願を書くことを了承した。そして被告小林が事務室から持つてきた退職願用紙に、原告の氏名、階級、職種、号俸、特技、入隊年月日、生年月日、本籍地、帰郷先、家族の状況、離職後の就職予定、退職の理由を記入した。階級、職種、号俸、特技、入隊年月日については、自衛隊側から教えられて、退職の理由については、被告小林が持つてきた、以前別の者が書いた退職願を見てそれぞれ記入した。
(iii) 被告森田は、右の原告の両親との話合いの途中で、中隊長室から連隊長室へ行き、被告連隊長坪井に対し、原告に対して退職勧奨を行つているが原告は口を閉ざしている場合が多く話が進展していないこと、原告の両親が来ていることなどを報告した。被告連隊長坪井は、「両親と話をさせてあげなさい。」と指示した。
一方、原告は営内班長室にいたが、午前一〇時ころ千葉三曹が入室し、原告の両親が来ていることを知らせるなど原告としばらく話した後退室した。
(3) 午前一一時ころから午後七時半ころまで
(i) 被告森田は、午前一一時ころ、被告萩原及び同小林とともに原告の両親を営内班長室に案内した。
原告の両親は、同室において、原告に対し、退職して帰郷するよう説得したが、原告は「大学があるので帰らない。」と答えた。百合子は、涙を流して「大学ばかりがすべてじやない。いつしよに水沢へ帰ろう。」と説得したが、原告は黙つていた。
原告は、眠そうな様子で、右話合いの間に眠りかけたことが二、三回あつた。
(ii) 原告の両親は、親子三人だけで話し合えば原告はもつと自分の考えを話してくれるのではないかと考え、午後一二時ころ、三人だけで話し合いたい旨申し出た。被告森田らはこれを了承した。そして原告と両親は、営内班長室において、三人で、被告小林が持参した昼食を食べながら話した。原告の両親は原告に対し郷里の話などをするとともに退職するよう勧めた。
食事後、安太郎は、中隊長室へ行き、被告森田に対し、「もう少し息子と話したい。」と述べた。被告森田はこれを了承した。
その後、原告の両親は原告と営内班長室において午後三時ころまで話し、原告に退職を勧めるなどしたが、その間、陸曹らが同室へ来ては、二、三〇分間原告と両親との話に加わつては出て行き、また別の陸曹らが同室へ来ては二、三〇分間話に加わつては出ていくという状態が続いた。
右の間、原告は相変わらず眠そうな様子で、ほとんど黙つていた。
(iii) 午後三時ころ、原告の両親は、中隊長室へ行き、被告森田に対し、「何も話してくれない。」などと原告に対する説得の状況を話した。そして同日の夜、原告を外泊させたい旨申し出た。しかし被告森田は申し出に応じられない旨答えたので、原告の両親はこれを断念した。
被告森田は、原告の両親に対し、同日の夜の宿は自衛隊の方で用意した旨及び明日帰る際には車で送る旨述べた。原告の両親は同夜小平の親せきの家に宿泊する予定でいたし、また帰りは列車で帰る予定で乗車券を用意していた。しかし被告森田の右の申し出に対して「お願いします。」と答えた。
また、被告森田は、原告の両親に対し、「過去に隊員の親にこういう請願書を書いてもらつたことがあります。」と述べて、以前、隊員の親が書いた請願書を示し、暗に請願書を書くことを求めた。原告の両親はこれを了承し、安太郎が右請願書を見ながら原告を是非とも退職させていただきたい旨の請願書を作成し、被告森田に提出した。
更に、被告森田は、原告の両親に対し、原告の荷物の整理をするから立ち合つてほしい旨述べた。原告の両親はこれを了承した。そして被告森田の指示を受けた被告小林が原告の居室である第四営内班居室において原告の荷物の整理をするのに立ち合つた。被告小林は、原告からロツカーのかぎを借りて来て原告のロツカーを開け、その中の一つ一つの物について原告の両親の了解を得て私物と官物とに分け、私物については原告の両親に尋ねて持つて帰る物と残しておく物とに分けた。その際、持つて帰るか残しておくか原告の両親が判断できない物については営内班長室にいた原告に尋ねて分類した。また被告小林は、ロツカーの中にあつた原告の印鑑と貯金通帳を、右整理ののちに、原告の両親の了解を得て原告のところへ持つて行き、これらを営内班長に預けておいてもらいたい旨述べて承諾を得た。そして被告小林は、「印鑑一個」「普通貯金五一〇二六」などと紙に書いて原告に渡した。
(iv) 一方、被告森田は、被告萩原に対し、原告が明日両親とともに帰るかもしれない旨述べ、そのための車及び運転手の手配をするよう指示するとともに、被告連隊長坪井のところへ安太郎が書いた請願書を持つて行つた。被告連隊長坪井は被告森田に対し「本人の意向が大切だから本人の意向を聞きなさい。」と述べた。
被告連隊長坪井は、原告が二四日までに退職の意思表示をするかもしれないと考え、人事班長に原告の退職を承認する旨の人事発令通知書を作成させた。そしてそれを当直指令に預けておいた。
(v) 午後五時ころから、原告と両親とは、営内班長室において、三人だけで被告小林が持参した夕食を食べた。
右夕食後被告小林は同室に入室し、「話は決まりましたか。」と尋ねた。安太郎は、原告が返事をしない旨答えた。そこで、被告小林は、原告に対し、「退職の意思はあるのだから男らしく退職願を書いて退職した方がよい。」と言つた。安太郎は、原告に対し、「皆さんがこんなに心配をしてくれているんだから自分の口からはつきり言いなさい。」と言つた。百合子も、原告に対し、「自分の口から退職しますと中隊長さんに言えるね。」と言つた。すると原告は、「はい。」と答えた。安太郎は、「本当に自分の口から言えるね。」と念を押した。原告は「はい。」と答えた。百合子も同様に念を押した。
安太郎は、「中隊長さんに話しに行こう。」と言つて立ち上がつた。被告小林は、一足さきに同室を出て中隊長室へ行き、被告森田に対し、これから原告が退職するということを話しに来る旨述べた。
原告と安太郎は中隊長室に入つた。そして安太郎は、被告森田に対し、「息子が話をすると言うので連れて来た。」と述べ、原告に対し、「中隊長さんに話すと言つたことを言つてごらん。」と言つた。原告は黙つていた。安太郎は数回同様の催促をしたが、原告は黙つていた。そこで被告森田は原告に対し「退職の手続は終つたのか。」と尋ねた。すると原告は信念で退職願は書けない旨答えた。被告森田は、原告に対し、「もう少し考えてみるように。」と言つた。また安太郎は原告に対し、「中隊長さんにはつきり言うと言つたじやないか。」と言つた。
安太郎は、被告森田とあいさつを交わして原告とともに退室した。
(vi) 原告の両親は午後七時ころ久保田三曹の案内で宿舎である市ケ谷会館へ向つた。
(4) 午後七時半ころから午後一二時ころまで
(i) 午後七時半ころ、須部二尉が営内班長室に入室した。しばらくして石塚一曹が、更に松坂一曹が同室に入室した。やや間をおいて午後八時ころ飯塚一曹及び古川三曹が同室に入室した。
これらの陸曹らは同室において原告に対し退職を勧めるなどしたが、松坂を除いて短時間で退室した。
(ii) 午後一一時ころ、被告萩原は、原告を中隊長室へ呼んだ。そして原告に対し退職の意思があるなら退職願を書いた方がよいなどと話した。しかし原告は退職願を書かなかつた。
午後一二時ころ被告萩原は話を打ち切り、原告は中隊長室を出た。
(四) 昭和五〇年一一月二四日の経緯
(1) 原告は午前零時ころ営内班長室へ戻つた。松坂一曹及び飯塚一曹は、同室において、そのころから午前四時半ころまで原告に対して退職を勧めるなどした。
(2) 被告小林は、午前四時半ころ起き、営内班長室へ行つた。原告は同室において松坂及び飯塚と話をしていた。
被告小林は、原告に対し「退職願を書く気になつたか。」と尋ねた。原告は「書かない。」と答えた。そこで、被告小林は、原告に対し「退職する意思があるんだから男らしく退職願を書いた方がいい。」と説得した。しかし原告は「書かない。」と答えた。被告小林は、自衛隊の正規の退職願用紙以外のものであれば原告は退職願を書いてくれるかもしれないと考え、原告に対してけい紙を渡し、「一身上の都合により退職をお願いします。皆さんには大へん御迷惑をおかけしました。」と書くように言つた。原告は書かなかつた。すると被告小林は、再度、書くように言い、原告との間で「書け。」「書かない。」の押し問答となつた。また原告はこれに書けば寝かせるとも言われた。原告は、正規の用紙にある退職願を書くことはあくまで拒否するつもりであつたが、このころには既に疲労も眠気も激しくこれに耐える限界に近づいていたので、次第に抵抗する気力を失い、遂に右文言をけい紙に書いて寝ようと考えるに至つた。そして右文言をけい紙に書き始めたが、疲労と睡魔のために、うまく書けなかつた。そこで何度か書き直したのちようやくうまく書けたものができた。すると被告小林は、原告に対し、階級と氏名を書くように言つた。そこで原告は、右文言の下に「士長戸坂則安」と書いた。その後原告は許されて営内班長室のベツドで眠つた。
(3) 被告小林は、午前五時半ころ、原告が書いた右書面を持つて中隊長室へ行き、そこで寝ていた被告森田を起こして、原告が退職願を書いた旨報告した。そのとき被告萩原も立ち合つていた。
右報告を受けた被告森田は、自宅にいた被告連隊長坪井に電話をかけ、原告が退職願を書いた旨報告した。被告連隊長坪井は被告森田に対し、当直司令に原告の退職を承認する旨の人事発令通知書を保管させているから、これを受け取り、原告に交付するよう指示した。
被告森田は、被告萩原に対し、原告が水沢へ帰る準備をするよう指示した。また被告小林に対し、幹部及び陸曹に原告を見送らせるよう指示した。
そして被告森田は当直司令である後藤三佐のところへ行き、右人事発令通知書を受け取つた。
(4) 被告森田は、午前六時ころ被告小林を呼び、原告に人事発令通知書を渡すので原告を中隊長室へ呼ぶようにと指示した。被告小林は営内班長室で寝ていた原告を起こして中隊長室へ連れて行つた。
原告は「入ります。」と言つて中隊長室へ入り、被告森田の前に進み出て、被告森田に対し敬礼をした。そして姿勢を正して直立した。
被告森田は、右(2)記載の退職の意思を表示している文書は原告が書いたものであるかどうかを確認した。原告は「はい。」と答えた。そこで、被告森田は右人事発令通知書を読みあげたうえ原告に交付した。原告は、それを両手で受け取り、内容を確認したのち被告小林が示した紙を見ながら「申告いたします。陸士長戸坂則安は本日付けをもつて退職を承認されました。」と申告し、人事発令通知書を二つに折りたたんでポケツトに入れた。原告がこのような行動をとつたのは、ここではもはや何を言つても仕方がない、改めて裁判で争うしかないと考えていたためであつた。
そして原告は敬礼をし、まわれ右をして中隊長室の入口のところまで行き、そこでもう一度まわれ右をして敬礼し、「帰ります。」と言つて同室の外へ出た。
原告は廊下において人事発令通知書をポケツトから取り出して内容を確認し、再びポケツトに入れた。
(5) 原告は午前六時半ころ隊舎前へ行つた。一〇数名の幹部及び陸曹が見送りに来ていた。原告は見送りの幹部及び陸曹に「お世話になりました。」などとあいさつをした。幹部及び陸曹は原告に対して「しつかりやれ。」「元気でな。」などと言つたり握手を求めたりした。
(6) そして千葉三曹所有の車に原告、被告萩原、千葉及び他の二名の隊員が、自衛隊のジープに二名の隊員がそれぞれ乗つて隊舎前を出発した。
二台の車は市ケ谷会館へ行き、同会館の入口のところで待つていた原告の両親をジープに乗せた。そして水沢へ向けて出発した。
午後三時ころ二台の車は水沢の原告の実家に着いた。
この間、原告は、一回便所へ行つたほかは車の中で眠つていた。他の者は途中で食事をしたが原告は食事もしなかつた。
水沢の実家へ着いたのち、原告は、奥の部屋で寝た。
(五) 昭和五〇年一一月二五日以降の経緯
(1) 原告は、昭和五〇年一一月二五日昼ごろ、水沢の実家を出て東京へ行き、長谷川幸雄弁護士の自宅を訪れた。そして同年一二月二日同弁護士等を代理人として本訴を提起した。
(2) 同年一二月五日ころ、前記(三)の(3)の(iii)記載の貯金通帳が収支決算表とともに水沢の原告の実家に送られてきた。また翌昭和五一年一月二〇日ころ、前記(二)の(3)の(viii)記載の身分証明書入れ及び前記(三)の(3)の(iii)記載の印鑑が水沢の原告の実家に送られてきた。
なお、原告は、被告萩原、同小林及びその他の陸曹らが原告に対して暴行を加えたり暴言を吐いた旨主張し、原告本人尋問中には、これに沿う供述が存する(もつとも、原告は右暴行及び暴言が前記(四)の(2)の書面を作成する直接の原因となつたことまでの供述をしているわけではない。)。しかし、この供述は、原告の両親から右の点について抗議のあつた形跡が全くうかがわれないこと、証人坪井の証言並びに被告森田、同萩原及び同小林各本人尋問の結果に照らし、にわかに信用することができず、事柄の性質上原告の主張を裏付ける証拠を得ることは困難とは考えられるが、他に右事実を認めるに足りる証拠はない。
二 右一で認定した事実に基づき原告の主張の当否について判断する。
1 本件退職承認処分の違法性について
(一) 本件退職承認処分には退職の申し出は存在しないとの主張について
前記一の2の(四)認定の事実によれば、原告は、通常隊員が退職の際提出する印刷された退職願用紙による退職願は提出しなかつたものの、けい紙に、「一身上の都合により退職をお願いします。皆さんには大へん御迷惑をおかけしました。士長戸坂則安」という文言を記載した書面を作成して提出したと認められる。このことからすれば、右書面の作成が原告の自由な意思に基づくかどうかには問題があるとしても、原告の退職の申し出と解することができる外形的な事実は存在しているということができるから、原告の退職の申し出が存在しないという原告の主張は採用することができない。
なお、原告は、右書面は所定の様式に従つていないから退職の申し出が存在するということはできない旨主張するが、隊員の退職の申し出は法令上別段要式行為とされているわけではなく、右書面が所定の様式に従つていないからといつて退職の申し出が存在しないということはできない。
(二) 本件退職勧奨は、その態様が原告の自由な意思の形成を強度に妨げるものであつたというべきであり、その結果された退職の申し出は、無効又は少なくとも強迫によるものとして取り消すことができるものであるとの主張について
(1) 被告萩原及び同小林の退職勧奨
前記一認定の事実からすれば、(i)被告連隊長坪井は、原告に対して退職勧奨を行うことにし、被告森田に対し、原告に対する退職勧奨を行うよう命じた、(ii)坪井の命を受けた被告森田は、被告萩原及び同小林に対し原告に対する退職勧奨を行うよう命じた、(iii)被告萩原及び同小林は、昭和五〇年一一月二一日には、午後一時半ころから午後二時半ころまで、午後三時半ころから午後五時まえころまで及び午後八時半ころから午後一二時ころまで、合計約六時間、同月二二日には、午前一一時ころから午前一二時ころまで、午後三時ころから午後四時半ころまで及び午後八時半ころから午後一二時ころまで、合計約六時間、同月二三日には、午前五時ころから午前六時ころまで及び午後一一時ころから午後一二時ころまで、合計約二時間、営内班長室等において原告に対して退職勧奨を行つた、(iv)このほか、被告萩原及び同小林は、同月二一日の夕食から同月二三日の朝食までの五回の食事の際には、いずれかが、話合いのきつかけをつかむなどの目的で、同室において原告とともに食事をとつた、(v)また被告萩原及び同小林は、同月二三日、原告の両親が約一時間にわたり同室において原告と話すのに立ち合つた、と認められる。
被告連隊長は、被告小林が、同月二三日の午前五時ころから午前六時ころまでの間に、原告と話をしたのは、単なる懇談にすぎない旨主張する。しかし前記一の2の(三)の(1)の(ii)認定の、この際のやりとりからすれば、右の行為は退職勧奨の一環をなす行為であると解するのが相当である。
(2) 陸曹らの行動について
(i) 前記一の2認定の事実からすれば、(ア)昭和五〇年一一月二一日には、延べ二名の陸曹が、午後二時半ころから午後三時半ころまで及び午後六時ころから午後八時半ころまで、合計約三時間半原告と話した、また延べ八名の陸曹が、同日午後八時半ころから午後一二時ころまで行われた被告萩原及び同小林の退職勧奨に同席し、原告に話しかけたりした、(イ)同月二二日には、延べ七名の陸曹が、午前零時ころから午前五時ころまで、午前九時半ころから午前一〇時ころまで及び午後一時すぎころから午後三時ころまで、合計約七時間半原告と話した、また、延べ八名の陸曹らが同日午後九時ころから午後一二時ころまで行われた被告小林の退職勧奨に同席し、原告に話しかけたりした、(ウ)同月二三日には、延べ七名の陸曹らが、午前零時ころから午前五時ころまで、午前八時ころ、午前一〇時ころ及び午後七時半ころから午後八時半ころまで、合計約六時間半原告と話した、また、陸曹らは、同日午後一時ころから午後三時ころまで原告の両親が原告と話した際に、その話に加わつた、(エ)同月二四日には、二名の陸曹が、午前零時ころから午前四時半ころまで、約四時間半原告と話した、と認められる。
(ii) そこで、右(i)認定の陸曹らの行動の性格について検討するに、陸上自衛隊服務規則には、幹部、准尉及び陸曹は陸上の指導にあたる旨定められていること、前記一の2の(一)認定のとおり、被告萩原は、昭和五〇年一一月二一日に、陸曹らに対し、原告が反自衛隊活動を行つている疑いがあること、原告に対して営内班長室において退職勧奨を行つていることなどを話したので、陸曹らはこれらのことを知つていたこと、前記一の2認定のとおり陸曹らは原告に対して雑談的な話もしたが、反自衛隊活動について尋ねたり退職を勧めたりもしたこと、前記一の2認定のとおり被告萩原及び同小林は、陸曹らが原告と話すのを制止するといつたことはなく黙認していたことを総合すると、右(i)認定の陸曹らの行動は、被告連隊長の原告に対する退職勧奨の一環としての性格を有していたと解するのが相当である。
(3) 両親の説得
前記一の2の(三)認定の事実によれば、原告の両親は昭和五〇年一一月二三日午前一一時ころから午後三時ころまで及び午後五時ころから七時ころまでの間原告に対し退職をするよう説得を続けたことが認められるが、右説得は、原告の退職を望んでいた両親の意思も加つているにしても、被告連隊長の指示を受けた被告森田の依頼により始められたものであつて、その席に被告森田、同小林、その他の陸曹が加わつていた時期もあり、被告森田、同小林らは両親の説得により原告の退職勧奨の促進をはかろうとしていたとみられるのであつて、これらの点を考慮すると被告連隊長の原告に対する退職勧奨の一環として評価するのが相当である。
(4) 退職勧奨の行われた場所
前記一の2認定の事実によれば、原告に対する退職勧奨は、昭和五〇年一一月二一日午後一時三〇分ころから始められたが、原告は同日午後三時三〇分ころまでの間に幹部室に給与差額を受領に行き、午後三時三〇分から五時三〇分ころまでの間に薬を飲んだり、便所に行つたり、夕食の配食を受けたり、食事後食器を洗つたりするため室外に出たほか、同月二二日朝洗面に行つた際、同月二三日午後五時から七時までの間に中隊長室に赴いた際等に室外に出ていることが認められるが(これらの時間は短かつたと認められる。)、それ以外の間はほとんど営内班長室にとどまつていたものと認められる。そして、右(1)ないし(3)認定のとおり右営内班長室にとどまつていたほとんどの間は退職勧奨が行われていたと認められる。そして、一一月二一日午後一〇時ころ被告萩原が原告に対し退職勧奨を行つている際原告が営内班長室から居室に帰ろうとしたところとめられている事実に照らすと、退職勧奨の続けられている間原告が自由に営内班長室を退室することは許されていなかつたものと認めるのが相当である。
(5) ところで、本件においては、真に原告が退職の意思を有しこれを表示しようとするのであれば正規の用紙による退職願を提出することが容易にできたものと考えられるにもかかわらず(これを妨げるような客観的な事情の存在を認める証拠は全くない。)、既述のように、原告から、通常隊員が退職する際に提出する印刷された正規の退職願用紙による退職願は提出されておらず、けい紙に退職する旨の文言が記載された極めて異例の形態の書面が提出されているに過ぎないのであつて、この事実自体によつても原告の退職の意思表示の成立過程になんらかの異常な事態の存在を疑わせるものがあることを否定することができないのであるが、右(1)ないし(4)で述べたところに、前記一の2認定の事実を総合すると、原告は、被告萩原、同小林及びその他の陸曹らから、営内班長室において、多少の中断はあつたにしても昭和五〇年一一月二一日午後一時三〇分ころからほぼ連続して長時間にわたつて、ほとんど睡眠をとらせてもらえずに、執ような退職勧奨を受けたため、同月二四日午前五時ころには、激しい疲労と睡魔に苦しめられるようになり、その状態のもとで退職する旨の文言をけい紙に書くように何度も迫られ、更に書けば寝かせるなどと言われ、遂にそれ以上抵抗する気力を失い、やむなく右(一)認定の書面を作成して提出した、と認められる。このことからすれば、原告の、右書面の作成提出による退職の申し出は、少なくとも、原告が激しい疲労と睡魔による苦痛の状態に陥つているのに乗じ、退職願を書くことを拒否すれば更に苦痛の継続することを暗示し原告を畏怖させ、これを行わせたものというべきであり、強迫によりされたものとして取り消すことができると解するのが相当である。
(6) なお、被告連隊長は、原告はすでに同月二三日には退職の意思を固めていたし、右書面を作成した際にも退職の意思を有していた旨主張する。たしかに、原告は、前記一の2の(三)認定のとおり、同日の早朝及び夕方には、「退職の決心がついたか。」「自分の口から退職しますと言えるね。」との問いかけに対して「はい。」と答えているし、また同日の夕方には、持ち帰る物と残しておく物について指示を与えるなどしている。しかし、原告は、長時間にわたる退職勧奨の間に多少の動揺のあつたことは考えられるにしても、前記一の2の(三)認定のとおり、一方では退職願を書くことを一貫して拒否していたのであり、また右の退職の意思をうかがわせる行為も原告の方から積極的に退職の意思がある旨述べるなどの行為をしたものではないし、他方、原告本人尋問の結果によれば、原告は二三日には須部二尉及び両親から退職を拒否していれば懲戒免職になる旨を告げられていたことが認められ、自衛隊にとどまることができなくなることも予想していたと考えられるから、持ち帰る物と残す物について指示を与えたこともあえて異とするには足りず、右のような事実があつたからといつて直ちに、原告がすでに同日には退職の意思を固めていたということはできない。また、たしかに原告は、前記一の2の(四)の(4)認定のとおり、同月二四日朝、被告森田に対し、右書面は自分が書いたものであることを認めるとともに、被告森田から人事発令通知書を受け取り、退職の申告を行つている。しかし、原告は、このとき、前記一の2の(四)の(4)認定のとおり、もはやここで何を言つても仕方がない、改めて裁判で争うしかないと考え、いわれるままにしていたと認められるのであるから(このことは、原告が水沢の自宅に送られたのち、直ちに上京して長谷川弁護士のもとを訪れ本訴提起に及んでいる事実からも裏づけられる。)、右の各行為をもつて、右書面を作成した際、原告が退職の意思を有していたということはできない。
(7) 更に被告連隊長は、被告森田から辞令書の交付を受け、退職の申告をした時点において原告に退職の意思が存在したことが明らかである旨主張する。しかし、右(6)で述べたところからすれば、右の際に、原告に退職の意思があつたということはできない。
(三)(1) 右(一)及び(二)で述べたところを総合すると、本件退職承認処分については、退職の申し出は存在するが、この退職の申し出は強迫によりされたもので取り消すことができるものであるということができる。そして原告の本件訴状には退職の申し出を取り消す旨の意思表示が含まれていると解せられるところ、右訴状が被告連隊長に対し昭和五〇年一二月九日に送達されたことは、当裁判所に顕著な事実である。そうすると、右取消しの意思表示により原告の退職の申し出はさかのぼつて無かつたことに帰し、右退職の申し出を前提としてされた退職承認処分は違法な処分として取消しを免れないことになるものというべきである。
(2) 被告連隊長は、退職承認処分がされたのちは退職の申し出を取り消すことはできないと主張するが、隊員の自由な意思に基づいてされた瑕疵のない退職の申し出については、その承認がされたのちにはこれを撤回することは許されないものと解すべきであるが、退職の申し出は隊員の身分の得喪に関する重要な意思表示であり、隊員の自由な意思をできる限り尊重すべきものであるから、これに本件のような瑕疵がある場合にはその取消しにより公共の利益に重大な影響を及ぼすような特段の事情がない限りその承認がされたのちであつてもこれを取り消すことができると解するのが相当であり、本件においては右特段の事情を認めるに足りる証拠はないから、被告連隊長の右主張は採用することができない。
(3) また、被告連隊長は、仮に原告の退職の申し出に取り消すことができる瑕疵があるとしても、本件退職承認処分には公定力があるからその効力が妨げられることはない旨主張するが、公定力は、行政処分が一たんなされた以上、それが無効なものでない限り、権限ある行政庁または裁判所によつて取り消されるまでは、有効なものとして通用するという効力にすぎないのであるから、本件退職承認処分に公定力があるからといつて、退職の申し出が取り消すことができるものでありその取り消しの意思表示がされたことを理由に本件退職承認処分を違法として本判決においてこれを取り消すことが妨げられると解することはできず、右主張は失当である。
2 被告らの損害賠償責任について
(一) 被告国の責任
(1) 退職勧奨は、被用者に自発的な退職を促すための説得等の事実行為であるが、被用者は、退職するかどうかについて自由に意思を決定することができるのであり、この自由はできる限り尊重されるべきであるから、その説得等の手段、方法は、このような被用者の自由な意思決定を妨げる態様のものであつてはならず、説得等の手段、方法が社会通念に照らし相当性を欠くようなものであるときには、その退職勧奨は違法性を有するというべきである。しかるところ、本件退職勧奨は、前記一の1認定のように被告連隊長の原告が反自衛隊活動を行つているとの判断に基づいて原告を懲戒免職処分に付するよりは自ら退職させ両親のもとに帰らせるのが本人の将来のためにも連隊のためにも最も望ましいものとして開始されたものであり、そのこと自体を違法ということはできないが、その方法において右1の(二)記載のとおり長時間にわたりかつ原告にほとんど睡眠をとらせずに執ように行われたものであり、その結果、原告をしてやむなく退職の意思を表明するに至らせたものであるから、原告の自由な意思決定を妨げる態様のもので社会通念に照らし相当性を欠くものであつたということができ、違法性を有する。
(2) 右のような本件退職勧奨の態様からすれば、本件退職勧奨に関与した被告萩原、同小林及びその他の陸曹ら(必ずしもすべてとはいえない。)には、違法な退職勧奨を行つたことにつき、故意または少なくとも過失があつたということができる。
(3) 被告萩原及び同小林は、前記一認定のとおり原告の任命権者である被告連隊長坪井の命を受けた被告森田に命じられて本件退職勧奨を行つたのであるし、またその他の陸曹らの本件退職勧奨も前記1の(二)の(2)の(II)記載のとおり被告連隊長坪井の原告に対する退職勧奨の一環としての性格を有していたと認められるのであるから、被告萩原、同小林及びその他の陸曹らの本件退職勧奨は、被告国の公権力の行使にあたる公務員が職務として行つたものであるということができる。
(4) 以上を総合すると、被告国は、原告が本件退職勧奨によつて被つた損害を賠償する責任があるということができる。
(二) 被告森田、同萩原、同小林及び同阿部の責任
(1) 被告森田
被告森田が、仮に本件退職勧奨に際して故意又は過失により違法な行為を行つたとしても、同人は、前記一の1の(四)認定のとおり退職勧奨を行うことを原告の任命権者である被告連隊長坪井から命ぜられていたのであるから、その行為は公権力の行使にあたる公務員の職務行為ということができ、被告森田が原告に対して損害賠償責任を負うことはない。
(2) 被告萩原及び同小林
被告萩原及び同小林は、右(一)の(1)及び(2)記載のとおり原告に対して故意又は過失により違法な退職勧奨を行つたということができるが、これらの退職勧奨は、右(一)の(3)記載のとおり公権力の行使にあたる公務員の職務行為ということができるから、同人らが原告に対して損害賠償責任を負うことはない。
(3) 被告阿部
前記一の2認定の事実からすれば、被告阿部は原告に対して短時間外泊先を尋ねたのみであつたと認められるから、同人が故意又は過失により違法な退職勧奨を行つたということはできない。
(三) 損害
(1) 慰藉料
右(一)の(1)記載の本件退職勧奨の態様等からすれば、原告は本件退職勧奨により精神的苦痛を被つたと推認することができる。しかし、もともと本件退職勧奨は原告を懲戒処分に付するより自ら退職の申し出をさせ退職させたほうが原告の将来のため望ましいとの考えのもとに行われたものであり、その説得の手段方法において行き過ぎのあつたものであるが、原告が主張するような暴行、暴言の事実は前記一の2記載のとおり認めることはできないのであるし、更に、本件退職承認処分は本判決において取り消されるのであるから、これらの事情なども考慮すると、右精神的苦痛に対する慰藉料の額は金五〇万円が相当である。
(2) 弁護士費用
弁論の全趣旨によると、原告は本訴の提起及び訴訟追行を本件訴訟代理人に委任し、金員の支払を約していると認めることができるところ、本件事案の性質、審理の経過、認容額等に鑑みると、原告が違法な退職勧奨と相当因果関係がある損害として賠償を求めうる弁護士費用の額は金一〇万円が相当である。
第四結論
以上の次第で、原告の本訴各請求のうち、被告連隊長に対する請求は理由があるから認容することとし、被告国に対する請求は損害金合計金六〇万円及びこれに対する不法行為の日である昭和五〇年一一月二四日から支払ずみまで民事法定利率年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める限度で理由があるから、これを認容することとし、被告国に対するその余の請求及びその余の被告らに対する請求はいずれも理由がないから棄却することとし、訴訟費用の負担につき行政事件訴訟法七条、民事訴訟法八九条、九二条を適用し、仮執行宣言の申立てについては相当でないから却下することとして、主文のとおり判決する。
(裁判官 越山安久 吉野孝義 森義之)