東京地方裁判所 昭和51年(ワ)5778号 判決
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【判旨】
二そこで、原告主張の死因贈与の申込について、まず判断する。
1 原告は、「セイから、昭和二九年三月一〇日付け及び昭和四三年五月一一日付の各書面によつて、同人所有にかかる本件不動産を死因贈与する旨の申込を受けた」旨主張し、昭和二九年三月一〇日付書面として甲第一号証を、昭和四三年五月一一日付書面として甲第二号証を、それぞれ提出している。
而して、右甲号各証中には意味内容の解釈いかんによつては、原告の右主張をある程度うかがわせしめる記載が存するところ、原告本人は右各書証は真正に成立したものである趣旨の供述をしている。
2 しかしながら、以下説示するとおり、原告本人の右供述部分はにわかに措信できないだけではなく、他の証拠を加味して考察し、さらに甲第一、第二号証の記載自体を検討しても、右甲号各証はいずれも真正に成立したと認めることはできないのみではなく、本件認定の証拠資料とは到底なりえないものである。
(一) 指印についての疑問点
甲第一号証中には「角田せい」名義の署名及び指印が、甲第二号証中には「角田セイ」名義の署名及び指印が、それぞれ存在する。しかしながら、右各指印がセイのそれと一致することを認めるに足る証拠は存しない。また、右各文書に指印がなされている理由が必ずしも明白ではないが、文書の作成者において、署名のみでは不十分であると考慮したからだとすると、それでは、なぜ二通とも捺印でなしに指印をするにとどめられているのか(自己の印鑑を押印するについて、さしたる障害はないはずである)、疑問が存するといわなければならない。
(二) 署名についての疑問点
(1) <証拠>によれば、セイはその死亡に至るまで滅多に筆・ペンの類を手にすることなくその筆跡はたどたどしいものであつたこと、そして、乙第五・第六号証の賃貸人欄の「角田セイ」の記載並びに乙第七ないし九号証中の記載は何れもセイの筆跡であることが認定できる。右認定事実により考察すれば、甲第一及び第二号証中の署名がセイのそれと一致しないことは明白であり、何れもセイの自署とはとうてい認められない。
(2) <証拠>によれば、昭和四〇年ころから、財産の管理も含めてセイの身辺の一切の問題については、右証人が相談にのり処理していたことが認められるところ、本件全証拠によるも、右証人が甲第二号証を代筆したものと認めることはできない。また、他に、何人が右各文書をセイの意思に基づいてその作成を代行したのかについて、何ら立証が存在しない。
(三) 記載内容の不自然性
(1) 甲第一号証中には、「昭和二九年三月一〇日」付で「兄長太郎死後私ずつと一人暮しになつてしまいました」「当方一人淋みしくはありますが……」といつた記載がなされている。
しかしながら、<証拠>によれば、兄長太郎は、すでに大正一一年一月三〇日に死亡しており、それ以来、セイは何ら変ることなく五歳下の実妹のもとと二人で生活を続けて来たことが認められる。さすれば、右記載部分は、セイの昭和二九年三月一〇日当時の身辺状況とは明らかにくいちがつているものといわなければならない。
(2) 甲第一号証中には「生前の父より伺つて居りますが私のなき後碑文谷二千番地の家屋敷有り金株券其の他一切を忠義に譲り渡し……」との、また甲第二号証中には「父からの遺言通り碑文谷参丁目十六番地(もと碑文谷弐千番地)の土地建てもの金品のすべてを貴殿に差し上げます……」との記載がそれぞれ存する。
しかしながら、<証拠>によれば、セイの父滝次郎は大正六年三月一日に死亡したのであるが、その当時、同人の子供のうち長男長太郎(明治二四年一二月三日生)、長女セイ(明治二七年一一月一四日生)及び三女もと(明治三二年六月二六日生)が健在であつたことが認められる。他方、原告の家とセイの家のつながりについてであるが、原告本人は、「セイの父滝次郎は、原告の祖父三郎右エ門(通称重右エ門)の姻外子として出生し、その後セイの祖父長左エ門の養子となつたものである。それ以後、山梨の角田家と東京の角田家とは親族として交際するようになり、両家は、祝儀不祝儀にも参列して親密に交際していた」旨供述するけれども、他に右身分関係を明らかにする戸籍等の確たる証拠は存在しない。却つて、<証拠>に照らせば、原告の右供述はにわかに措信できない。
そこで、右の諸点を総合勘案して前記各記載を検討すると、滝次郎が死亡するにあたり、自らの子供が三人も健在であるにもかかわらず、しかも、別段交流が存したとは認められない山梨の角田家に対して、前記記載からうかがわれる趣旨の遺言を残していつたというのは不自然という外ない。
(3) 甲第一号証中には「色々考へる所も有りましたがたよるのは山梨の角田家より外ありません」「……祖先の供養等をおねがひする……」「貴方の所へおたのみするのが一番安心と心にきめました」との記載が存する。
しかしながら、<証拠>によれば、セイは、同人の死後の先祖の供養は立源寺にしてもらう意向であつたこと、なお、セイの家の本家・総本家は健在であり、碑文谷一帯には多数の親威が存し、セイは死亡する少し前には、本家の角田正男の子供を養子として迎えたいとの意向を示したこともあつたが、山梨の角田家に対し先祖の供養を依頼してある旨の話は全く口にしていなかつたことが認められる。右認定事実に、前述の原告の家とセイの家との間に格別の交流があつたとは認めがたいことをも併せて考察するならば、前記各記載もまた不自然な記載といわなければならない。
(4) 甲第二号証は、「昭和二十九年に差上げた手紙で承知された事と存じますが念の為め申し添へさして頂きますれば……」という記載からも明らかなように、記載自体からして甲第一号証と密接不可分なものとなつているところからすれば、以上に述べた甲第一号証についての疑問は、そのまま甲第二号証に対する疑問としても通ずるといわなければならない。
(5) 以上のように、甲第一・第二号証の記載内容には、セイの側の身辺状況と照し合わせて考察するとき、不自然・不合理な点がいくつか指摘でき、右各文書の成立について重大な疑問を呈するものというべきである。
(四) 原告本人は、「甲第一号証は、昭和二九年ころ、原告が母愛用の文箱を整理していた際に、封筒に入つていたのを発見し、また、甲第二号証は、昭和四三年七月ころ郵送されて来たのを受け取つた」旨の供述をしているが、右供述部分は、右甲号証の発見の経緯・それに対する応答についての原告の説明の一貫性の欠如及び前記認定の各事実に照せば、到底措信できない。
3 他に、セイが原告に対し死因贈与の申込をしたことを認めるに足る証拠は全く存しない。
(藤原康志 山崎末記 金井康雄)