東京地方裁判所 昭和52年(ワ)1866号 判決
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【判旨】
一請求原因のうち、原告会社が本件第一建物を、原告兤二郎が本件第二、第三建物をそれぞれ所有し、被告らが本件第一、第二建物を、被告和夫及び被告良子が本件第三建物を、昭和四七年七月中旬から、占有使用を始めたことは当事者間に争いがない。
二被告らは、抗弁として、本件各建物の占有権限は賃借権もしくは使用借権に基づくものであり、仮りに右権限がなくとも、原告らの請求は権利の濫用であると主張し、原告らが争うので、判断する。
1 原告会社が原告兤二郎を代表者とし、ネジ製造を目的とする金属挽物加工を営む会社であり、本件第一建物を工場として、本件第二建物を事務所として使用していたこと、被告らがいずれも原告兤二郎の子であり、被告和夫、被告健次及び被告孝幸は原告会社の従業員であつたこと、津山昇が援助し、被告らが第一、第二各建物でスチール家具製造の仕事を手掛けるようになり、原告会社の機械類を搬出したこと、原告兤二郎の後妻美代子が、原告と結婚し、原告兤二郎と後妻美代子は、昭和四七年五月まで、本件第三建物に居住していたが、その後に転居したこと、原告兤二郎が被告らから、その後、一ケ月金一〇万円、更に同金一六万円を受取つたことはいずれも当事者間に争いがない。
2 以上の争いのない各事実に<証拠>によれば、次の事実を認めることができ<る。>
(一) 原告兤二郎は訴外亡後藤吉蔵と訴外亡後藤チヨの次男として生れ、成人後、昭和一八年四月一七日、先妻であつた訴外亡英子と結婚し、同年一〇月一六日、長女訴外美代子を、昭和二二年五月一八日、二女被告良子を、昭和二四年一月一四日、二男被告和夫を、昭和二六年一月一七日、三男被告健次を、昭和二七年九月一一日、四男被告孝幸をそれぞれ儲けた(長男は生後間もなく死亡)が、先妻英子は、昭和三七年八月一三日、死亡したため、原告兤二郎は、知人の訴外秋沢の紹介で、昭和三八年七月三日、後妻である美代子と婚姻し、原告兤二郎と同居するようになり、長女美代子は、昭和三七年一二月一八日、和家具製造卸売業を営んでいる津山昇と婚姻し、更に三男被告健次は、昭和四六年五月二日、訴外山下照代と婚姻し、東京都墨田区立石にあるアパートで生活するようになり、原告兤二郎と別居することになつたが、被告良子、被告和夫及び被告孝幸は、昭和四七年五月までは、原告兤二郎及び後妻美代子と同居し、一緒に生活していた。
(二) 原告兤二郎の先代亡吉蔵は、大正時代から、ネジ製造を始め、原告兤二郎も、成人後、先代のネジ製造の家業を受け継ぎ、昭和二三年九月二〇日、原告会社を設立し、以後は原告会社がネジ製造を主とする金属挽物加工を営むようになつたが、原告会社は原告兤二郎の個人会社といえる状況であり、原告兤二郎は、昭和三二年一月二八日、兄である訴外後藤兤一から本件各建物の敷地を賃借すると共に、右土地上の本件第三建物を買受けて、被告らの家族と共に生活するようになり、更に、そのころ、右土地上に本件第一、第二各建物を建築し、同月三一日、本件各建物について所有権移転又は保存登記をなしたが、所有名義は本件第一建物については原告会社、本件第二、第三建物については原告兤二郎とし、本件第一建物を工場として、本件第二建物を事務所として使用してネジ製造を営み、昭和三七年ころには職人を7.8人使用していたが、その後、職人が減少したことから、昭和四一年ころ、当時全日制高校に存学していた被告和夫がネジ製造を手伝うため、定時制高校に変り、昼間は仕事をするようになり、昭和四二年には原告会社に被告和夫以外の従業員がいなくなつたため、原告兤二郎と被告和夫の二人でネジ製造を続け、後妻美代子と被告良子は、時折、原告兤二郎の仕事を手伝つたり、伝票の整理などをし、更に昭和四四年には被告健次が、昭和四六年には被告孝幸がそれぞれ、高校卒業後、原告会社の従業員としてネジ製造をするようになつた。原告会社の経営は、昭和四五年ころまでは、被告らに小遣銭程度の給料しか支払うことができなかつたものの、一応、順調であつたが、その後のアメリカの港湾ストやいわゆるドル・ショックの影響で注文が激減し、それまでの三分の一程度になつてしまつたため、原告会社の経営状態は急激に悪化し、被告和夫がネジ製造の他にプラスチック切断のアルバイトをしたり、被告健次が、妻の実家が鉄工所を経営していたことから、その下請として旋盤加工をしたが、うまくいかず、原告兤二郎は、昭和四六年一二月末には、被告らに対し、原告会社は翌年には倒産するかもしれないと諦めの言葉を述べるようになつた。その間、義兄の津山昇は、原告会社の窮状を知り、昭和四六年夏ころ、被告健次に対し、ガラス・テーブルなどの金属家具製造が将来性あるので手掛けてみないかともちかけ、被告健次は原告兤二郎の同意を得て、本件第一建物の一部を使用して試作を始め、当初はうまくいかなかつたが、被告和夫と被告孝幸とは、同年一二月末の原告兤二郎のネジ製造に対する悲観的な言葉を聞いて、原告兤二郎の賛成をえたうえ、ネジ製造の傍ら、ガラス・テーブルの製造を被告健次と一緒に行うこととし、被告和夫は津山昇の資金援助を受けて、昭和四七年一月には、原告兤二郎と共に名古屋に赴き、ガラス・テーブル製造に必要な機械を購入し、本件第一建物の一部に機械を設置して、ガラス・テーブルの製造を始めるようになつた。
(三) ところで後妻美代子は、結婚直後から、被告ら特に被告良子とは仲が悪く、お互いの言動に反撥し合い、後妻美代子は被告らと些細なことで争い、口論になると実家に戻り、原告兤二郎がしばしば迎えに行くような状態で、家庭内のごたごたが収まらず、原告兤二郎は苦労していたが、昭和四七年一月末ころにも、後妻美代子は被告らと争い、実家に戻つてしまつたことから、原告兤二郎は、後妻美代子の両親や兄弟に来てもらい、被告らや長女美代子夫婦と共に、原告兤二郎の家庭内の問題について話し合つたところ、被告らから後妻美代子の態度について強く批判されたことから、原告兤二郎も家庭内のごたごたを静めるためには後妻美代子との離婚も仕方がないと考え、右気持を明らかにしたが、その後、後妻美代子と会い、後妻美代子の考えに同調して、離婚について翻意し、再び後妻美代子が原告兤二郎のもとに戻り、被告らと一緒に生活するようになつたが、後妻美代子と被告らとの関係は改善されず、原告兤二郎も後妻美代子の味方をするようになり、被告らに本件各建物から出て行つて欲しいと言うようにさえなつた。しかし被告らは本件第一建物でガラス・テーブルの製造を継続する意思を持つていたので、津山昇と相談したりし、更に、同年二月末ころ、被告らと原告兤二郎は、津山昇の両親や津山昇夫婦らを迎えて、相談した結果、被告らが原告兤二郎のネジ製造の仕事を手伝うことを条件として、本件第一建物の三分の一程度の部分を利用してガラス・テーブルの製造をすることで話し合いがつき、被告らは後藤工作所の名称でガラス・テーブルの製造をするようになつた。
(四) しかしながら、後妻美代子と被告らとの仲はますます悪くなり、後妻美代子は被告らと争つては実家に戻ることがしばしばあつたことから、原告兤二郎は、昭和四七年五月、後妻美代子と共に本件第三建物から転居することを決意し、被告健次が結婚後居住していたアパートに移ることを希望し、被告健次も同意して、原告兤二郎夫婦がアパートに、被告健次の家族が本件第三建物に移り、原告兤二郎はアパートから本件第一、第二各建物に通うようになつたが、それ以前から、原告会社の受注はますます減少し、しかも被告らが前記約束に反してネジ製造の仕事をほとんど手伝わなくなり、注文の納期に間に合わなくなつたりしたことがあつて、原告会社の業績は悪化する一方、被告らは、ガラス・テーブル製造に力を注ぎ、そのため、ガラス・テーブル製造にはより広い場所が必要なことから、原告兤二郎に対して、使用していないネジ製造の機械を退けてほしいと要求し、原告兤二郎が同意しなかつたにもかかわらず、一部の機械を資材置場などに移したことにより、原告兤二郎と被告らとの間も急激に悪化し、両者間の紛争のため、パトカーが出動するような状況になり、同年六月二九日には、本件第一建物内で、被告健次が原告兤二郎に対してネジ製造の機械を移すことを要求したことから争いになり、押し合う形になり、二人で一緒に床に倒れ、原告兤二郎は全治一〇日間を要する左後胸部、左上腕挫傷の傷害を負い、更に、同月末ころ、原告らが被告らを相手方として、本件各建物の明渡しを求める調停期日が開かれたが、不調に終つたことがあつた。また、同年七月三日ころ、被告健次と原告兤二郎が、本件第一建物の電力の変更で諍いが生じ、その結果、原告兤二郎は全治約二週間を要する右後胸部、左上腕挫傷の傷害を負つた。続いて、同月一六日、原告兤二郎が本件各建物に行つた際、被告らのそれまでの態度に腹を立て、本件第一建物内に設置されていたガラス・テーブル製造の機械をハンマーで打ち毀しかけたが、これを知つた被告和夫が原告兤二郎の背中から強くはがい締めにしてこれを阻止し、更に被告孝幸が警察に行くと言う原告兤二郎の肩を押えて止めたことがあり、このため、原告兤二郎は全治約三週間を要する前胸部及び左胸部打撲の傷害を受け、このことで被告健次を検察庁に告訴し、以後、原告兤二郎は本件各建物に姿を見せなくなつた。
(五) 本件第一、第二各建物は被告らだけが使用するようになつたが、原告と被告らとでは本件各建物の使用についての話は全くされず、原告兤二郎は、その後しばらくして、ネジ製造の機械のスクラップ化したものを売却処分し、更に、昭和四八年夏ころ、残りの機械の約半分のものを、本件第一建物から搬出してしまつた。また原告兤二郎は、工場の一部を改造してつくつた駐車場の収入と訴外東京都商工信用金庫の預金を取りくずして生活費としていたが、昭和四九年五月ころからは、被告らから毎月一〇万円を受けとるようになつたが、被告らは昭和五〇年二月、原告兤二郎が、本件各建物を担保にして東京都商工信用金庫から借り受けた原告会社の借金について、利息だけを預金から返済していることを知り、右借金返済のため、毎月、金一〇万円を上積して、原告兤二郎に金二〇万円を支払うようになつたが、昭和五一年四月二六日、金一〇万円ではほとんど利息だけの返済となるので、被告らが調査の結果、原告会社の東京都商工信用金庫に対する借金と預金を相殺すると金四七〇万円の借金となることが判明したので、被告和夫が、原告兤二郎の同意を得たうえ、訴外株式会社ときわ相互銀行から、本件各建物に金五〇〇万円の根抵当権を設定して、金四七〇万円の融資を受け、右金員で原告会社の右借金を返済し、以後、原告兤二郎には毎月金一〇万円を、昭和五二年一月からは毎月一六万円を支払つており、原告兤二郎は、被告らの要求で、領収証には名目を使用料と記載したこともあり、ときわ相互銀行に対する借金は、昭和五五年三月三一日に完済し、本件各建物の税金は被告らが支払つてきた。被告らは、昭和五四年三月、後藤工作所を会社組織にして、ガラス・テーブル製造をし、被告孝幸が昭和四八年一一月に、被告和夫が五〇年七月にそれぞれ結婚したので、本件第三建物は、専ら、被告良子が住居として使用するほか、ガラス・テーブル製造のために使用している。
3 前記2認定の事実に基づいて、被告らの抗弁について検討するに、
(一) 賃貸借の主張については、被告らが原告兤二郎に支払つてきた金員の性質は、本件各建物の使用の対価というよりも、原告兤二郎に対する扶養料と解するのが相当であり、右金員支払は賃貸借を認めるに足りると事実とはいえず、賃料支払の事実を認められない以上、前記2の事実だけでは賃貸借を認めることができず、他にこれを認める証拠はない。
(二) 使用賃借の主張については、
(1) 本件第一、第二各建物に関しては、原告兤二郎と被告らの紛争の結果、原告兤二郎が本件第一、第二各建物の使用をやめ、被告らだけの使用となつたもので両者間に黙示の使用賃借が成立したということができず、他にこれを認めるに足りる証拠はない。
(2) 本件第三建物に関しては、原告兤二郎は、後妻美代子と被告らとの紛争を避けるため、被告孝幸の居住していたアパートに移ることを希望して、本件第三建物を退去したもので、被告和夫及び被告良子の居住、使用を認めたと考えるのが相当であり、原告兤二郎の退去が被告らの暴行、脅迫によるものとは認められず、その後の経過はともかく、黙示の使用貸借を認めることができ、右認定に反する証拠はない。そして、使用貸借が終了したことの主張、立証がない以上、原告兤二郎の請求は理由がない。
(三) 権利濫用の主張については、被告らは、以前から、本件第一、第二各建物を使用してきたもので、原告兤二郎も右使用を承諾していたこと、本件第一、第二各建物は被告らのガラス・テーブル製造の根拠になつていること、しかも原告兤二郎は被告らの仕事による収入から扶養料を受け、原告会社の金融機関からの借金も被告らが返済したこと、原告兤二郎と被告らとの紛争は被告らだけに責任があるのではなく、原告兤二郎や後妻美代子にも責任があること、原告兤二郎は本件第一、第二各建物を使用して、仕事をする意思がなく、本訴も被告らを本件各建物から退去させることだけを目的としていることからすると、被告らが原告兤二郎の承諾をえずにネジ製造の機械を本件第一、第二各建物から搬出したことがあること、原告兤二郎が被告らとの争いによつて受傷していることを勘案しても、原告らの本件第一、第二各建物の明渡請求は権利の濫用で許されないものと考えるのが相当である。なお、使用料相当損害金の請求については、被告らが本件第一、第二各建物を使用している以上、明渡請求が権利の濫用であるとしても、原告らに支払うべきであるところ、本件第一、第二各建物の昭和四七年当時の賃料相当額が一坪当り金五〇〇〇円が相当であることを認めるに足りる証拠がない。
(小松峻)