東京地方裁判所 昭和53年(ワ)4430号 判決 1979年7月17日
原告 関トリ
右訴訟代理人弁護士 宮下明弘
右同 宮下啓子
被告 池田芳江
右訴訟代理人弁護士 板垣圭介
右同 福田晴政
主文
被告は原告に対し、三〇〇万円及びこれに対する昭和五三年五月一八日以降支払済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。
訴訟費用は被告の負担とする。
この判決は仮に執行することができる。
事実
第一当事者の求めた裁判
一 原告
主文第一、第二項と同旨の判決並びに仮執行の宣言。
二 被告
1 原告の請求を棄却する。
2 訴訟費用は原告の負担とする。
との判決。
第二当事者の主張
一 請求原因
1 (被告の仮処分申請)
被告は、訴外田中つ禰(以下「亡田中」という。)が昭和五〇年九月二〇日死亡した後である同年一一月二五日、亡田中の実妹であり相続人である訴外亡平松とく(以下「亡平松」という。なお、亡田中の相続人は亡平松と原告であった。)を債務者として東京地方裁判所に亡田中の所有していた別紙物件目録(一)記載の土地(以下「本件土地」という。)につき、処分禁止の仮処分の申請をなし(昭和五〇年(ヨ)第七〇一五号)、およそ次のとおりの主張をして同月二七日仮処分決定を得、翌二八日これを執行した(以下右仮処分を「本件仮処分」という。)。
(1) 被保全権利
亡田中は昭和四九年一月三〇日、被告に対し亡田中の所有する一切の財産を遺贈する旨の遺言(以下「本件遺言」という。)をなした。
被告は同年一〇月一五日、東京家庭裁判所において亡平松立会の上で右遺言書の検認を受けた
(2) 保全の必要性
被告は右遺言執行者の選任を東京家庭裁判所に申立てているが未だその選任がなされないところ、亡平松は昭和五〇年一一月六日、本件土地につき相続を登記原因とする所有権移転登記手続をなしてしまい、更にこれを他へ売却してしまう可能性が高い。
2 (本案訴訟)
(一) 亡平松は昭和五一年四月二八日、起訴命令の申立をなし、これを受けて東京地方裁判所は同年五月六日、被告に対して本件仮処分事件につき本案訴訟の提起を命ずる決定(昭和五一年(モ)第五六八八号)をなした。
(二) 被告及び昭和五〇年一二月一六日本件遺言の執行者に選任された被告の実兄である訴外岡本盛利(以下「訴外岡本」という。)は亡平松を被告として、昭和五一年五月二一日本件土地所有権移転登記抹消登記手続請求事件(昭和五一年(ワ)第四一七〇号)を、同年六月二六日亡田中の所有していた別紙物件目録(二)及び(三)記載の各建物の所有権保存登記抹消登記手続請求事件(昭和五一年(ワ)第五四三二号)を各提起し、右両事件は併合して東京地方裁判所で審理された。
(三) 亡平松は右本案訴訟係属中の昭和五一年二月六日死亡し、同人の唯一の相続人である原告が訴訟を承継した。
(四) 昭和五三年三月三一日、本案訴訟につき、亡田中は本件遺言書作成時自己の行為の結果を弁識し判別する能力を欠いていたものであって本件遺言は無効であるとして、訴外岡本の原告に対する請求をいずれも棄却するとの判決が言渡され(なお、被告は本案訴訟最終口頭弁論期日である昭和五三年三月一日、本案訴訟の原告適格は遺言執行者である訴外岡本のみにあるとして、訴を全部取下げた。)、右判決は同年四月一八日の経過により確定した。
3 (被告の不法行為)
(一) 亡田中は昭和四二、三年頃からいわゆる老人ボケの状態になり、同四六年に同人の自宅が火災にあってからは、そのショックのためか右症状が嵩じていたが、同四九年一月一〇日頃急性気管支肺炎に罹患した際には、体が衰弱したこともあって、医師から脳動脈硬化症による老人性痴呆との診断を受け、日時の感覚に乏しく、自分の排泄物を食べてしまうこともあるなど、本件遺言のなされた昭和四九年一月末頃には遺言をなす能力なきことは誰の目にも明らかであった。
(二) 本件遺言書の作成された昭和四九年一月末頃には、本件遺言書と同趣旨の亡田中の全財産を被告に遺贈する旨の亡田中の遺言が、短時間の間に少なくとも八通作成されており、被告は亡田中に右当時遺言をなす能力がないことを熟知していながら、何らかの方法で亡田中に数通の遺言書を書かせてこれを保管していた。
(三) 前述のとおり本案訴訟において、本件仮処分申請の際に被告が主張した被保全権利が当初から存在しなかったことが確定したのであるから、(一)及び(二)記載の事情から右被保全権利の不存在であることを知っており、若しくは過失でもってこれを知らず右仮処分を執行した被告は、被申請人である亡平松(相続人原告)がその執行によって被った損害を賠償すべき義務がある。
4 (損害)
(一) 弁護士費用
(1) 亡平松は2(一)記載の起訴命令の申立及び本案訴訟の応訴を弁護士宮下啓子に依頼し、同弁護士の所属する東京弁護士会報酬規定に定める謝金の支払を約し、亡平松の死亡後原告は右約定どおりの謝金の支払を右弁護士になすことを約した。
(2) 本件土地の時価は六、八一九万二、〇〇〇円であるから、原告は弁護士費用(謝金)として少なくとも三〇〇万円を下らない金額を右弁護士に支払わなくてはならない。
(3) なお、原告は昭和五三年六月六日、右弁護士に対し、前記2(二)記載の各事件の謝金内金として四〇〇万円を、同五四年三月三一日右各事件の謝金残金及び右両事件に関連する諸手続に対する謝金として四〇〇万円をそれぞれ支払った。
(二) 因果関係
亡平松が本件仮処分事件につき仮処分異議の申立をなさずに本案訴訟による解決をはかったのは以下の事情による。
(1) 本案訴訟において原告にとって最も重要な証拠は本件遺言書の鑑定と亡平松本人尋問の結果であるところ、仮処分異議手続においては立証の方法が疎明であるため、本件遺言書の鑑定申請もなし得ず、当時高齢と病気のため床にあった亡平松の臨床尋問手続もなすことができなかった。右鑑定申請に代えて鑑定書を提出することは右遺言書を被告が所持したいたことから事実上不可能であったし、亡平松本人尋問に代えて同人の供述書を提出することも適切ではなかった。
(2) 被告は亡田中から同人の所有する一切の財産の遺贈を受けたと主張していたため、本件土地以外の亡田中の遺産についても同様の紛争が生ずるであろうことが容易に予想された。
以上の次第であるから、亡平松が仮処分異議手続によらずに本案訴訟にその解決を求めたのは適切な方法であり、そのために要した(一)記載の弁護士費用は、被告のなした違法な仮処分の執行の結果亡平松(相続人原告)が被った損害といえる。
よって原告は被告に対し、4(一)記載の三〇〇万円及びこれに対する訴状送達の日の翌日である昭和五三年五月一八日以降支払済に至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。
二 請求原因に対する認否
1 請求原因1の事実は認める。
2 同2の事実は認める。
3 同3の事実は否認若しくは争う。
亡田中に遺言能力があるか否かは、素人である被告に判断できることではない。
4(一) 同4(一)の事実は争う。
東京弁護士会報酬規定の謝金の定め方は、一定の具体的な金額を定めたものではなく、その事件によって得た経済的利益の価額を基準としてその割合が表示されており、かつ、事件の内容によりそれぞれ三〇パーセントの範囲内で増減額することができるとされていて、原告の主張する損害は確定していないこととなる。
(二) 同4(二)の事実は争う。
同4(二)(1)の事実中、本件遺言書の鑑定書を仮処分異議手続で提出することも被告の協力があれば可能であったのであり、原告は右のための努力も何らしていない。又亡平松本人尋問に代えて同人の供述書を提出すれば充分であった。
同4(二)(2)の事実は何ら仮処分異議又は取消の申立をなさなかった理由とはなり得ない。
以上即ち、原告の本訴で主張する損害は被告の仮処分執行によるものではない。
第三証拠《省略》
理由
一 請求原因1及び2の事実はいずれも当事者間に争いがなく、右事実によれば、被告が本件土地について亡平松を債務者としてなした本件仮処分の執行は、本案訴訟において右仮処分申請の際に被告が主張した亡田中から被告へ一切の財産を遺贈する旨の本件遺言が亡田中において自己の行為の結果を弁識し判別する能力を欠いていたため無効であると判断され、右仮処分命令の被保全権利が当初から存在しなかったことが確定したことによって根拠のない違法なものであったこととなり、右の点について被告に故意又は過失のあったときは、被告は民法七〇九条により被申請人(債務者)である亡平松がその執行によって受けた損害を賠償すべき義務があるものというべきである。
ところで、一般に仮処分命令が異議もしくは上訴手続において取消され、あるいは本案訴訟において原告敗訴の判決が言い渡され、その判決が確定した場合には、他に特段の事情のないかぎり、右申請人において過失があったものと推定するのが相当である(昭和四三年一二月二四日、最高裁判所判決、民集二二巻一三号三四二八頁)ところ、本件の場合被告において本件仮処分執行につき被告が、その挙に出るについて相当な事情があったことその他右推定を覆すに足りる特段の事情の存在につき格別の主張はない。
二 のみならず、《証拠省略》によると、かえって、亡田中と亡平松は姉妹であって、共に本件土地に居住しており、被告は本件土地の近所に居住していたこともあって、昭和四五年六月頃、近所の公衆浴場で亡平松と知り合い、更に亡田中とも顔見知りとなったこと、昭和四六年二月二八日亡田中宅から火が出て同人の居宅及び亡平松の居宅が全半焼した際には、二ヵ月間余り右両名は被告宅に身を寄せていたこと、右火災後亡田中はそのショックのためかいわゆる老人ボケがひどくなり、真夜中に用もないのに頻繁に亡平松宅を訪れ、窓ガラス等を執拗に棒等をもってたたき大声を出して周囲の者の顰蹙をかったり、意味もなく通行人に何回となく時間を尋ねる等奇異な行動が目立つようになったこと、昭和四九年一月一一日頃亡田中は風邪をこじらせ急性気管支肺炎に罹患し、同月一七日から亡平松と共に再び被告宅で世話になったこと、その際亡田中を診察した医師は同人は前記疾病の外脳動脈硬化症による老人性痴呆であると診断したこと、亡田中は当初生命も危険な状態で、意識朦朧としていたが、気管支肺炎がなおるにつれて次第に食欲は回復したにも拘らず、体が衰弱したため高度の老人性痴呆の症状を呈するようになり、日時の感覚に乏しく、自己の排泄物を食べてしまうこともあったこと、亡田中は昭和四九年三月一一日自宅に戻るまで二ヵ月間被告宅で世話になったが、右期間中である同年一月末頃短時日の間に本件遺言書を含む五通の遺言書が作成されていること、右遺言書はいずれも亡田中が全財産を被告に遺贈する旨の内容であるが作成日付は前後三年ほど異なっていることが各認められ(る。)《証拠判断省略》。
そして以上の認定事実によれば、亡田中は本件遺言書の作成された昭和四九年一月末頃被告宅に居住しており、被告は亡田中の状態を観察することができたのであるから、前認定のとおりの老人性痴呆の症状のあった亡田中の作成した遺言書が、同人において自己の行為の結果を弁識し判別する能力をそなえた上で作成されたものでないことを容易に知り得たものである。然るに被告は右の点を看過して本件仮処分申請をなしたのであって、過失の推定を覆すに足りる特段の事情のあるものとは到底いえない。
三 ところで、原告が被告に対して本訴において請求する本件仮処分執行による損害は、弁護士に対し本件仮処分事件に対する起訴命令の申立及び本案訴訟に被告代理人として応訴することを依頼することによって、右弁護士に支払うことを約した謝金相当額であるところ、右が本件仮処分執行により亡平松(ひいては右の相続人であり訴訟承継人である原告)の被った損害であるといえるか否かにつき検討するに、まず、本件紛争の事案にかんがみ、その解決のため原告が弁護士に対して訴訟行為の代理を委任したことは必要かつ相当の措置であったものというべきであり、他方、《証拠省略》によれば、本案訴訟においての争点は本件遺言の効力の有無であって、右の判断のためには本件遺言書の鑑定及び亡平松本人、被告(池田芳江)本人尋問の結果等が重要であることが認められるが、仮処分異議手続においては立証の方法は疎明であるため、本件遺言書の鑑定は申請することができず、又右遺言書は当時被告が所持していたため、これを被告から入手して鑑定を亡平松においてなした上、右鑑定書を仮処分異議手続において提出することは困難であり、更に《証拠省略》によれば、当時亡平松は高齢で病床にあったため臨床尋問によらなくては本人尋問はなし得なかったことが認められるところ、右に代えて亡平松の供述書を異議手続に提出することでは、事案の内容からみて真意を直截に伝えるのは困難が伴うものと考えられるほか、被告は亡田中から同人の一切の財産を遺贈により取得した旨本件仮処分申請において主張し、亡田中の財産は本件土地のみではなかったため、本件土地についての仮処分の異議を申立てるのみではなく、既判力のある本案訴訟において一挙に本件遺言書の効力を確定した方が抜本的解決のためには効果的であり、反面、右異議手続に要する弁護士費用と本案訴訟におけるそれとは大差のないものであろうことが事案の内容から認められることなどを考慮すれば、亡平松が本件仮処分異議の申立をしないで直ちに本案訴訟にその解決を求めたとしても、右は適切な方策であったものということができるから、右手続を弁護士に依頼するにつき要した費用が、本件仮処分執行と因果関係がないものとはいえない。
四 《証拠省略》によれば、請求原因4(一)(1)及び(3)の事実の外、昭和五三年一月一〇日の時点での本件土地の価額は六八一九万二〇〇〇円ほどであり、右が東京弁護士会所定の「弁護士報酬規定」にいわゆる「経済的利益の価額」であることが認められるところ、右報酬規定によれば本案訴訟における原告が弁護士に支払うべき報酬額は標準額で三五六万五〇〇〇円を下らないことが認められ、右事実と、前認定の原告が本案訴訟と別紙物件目録(二)及び(三)記載の各建物に関する訴訟(東京地方裁判所昭和五一年(ワ)第五四三二号)についての弁護士報酬(右両事件に付随する諸手続をなしたことについての謝金も含む)として合計八〇〇万円を弁護士に支払っていること等を考慮すれば、原告の本案訴訟(起訴命令申立を含む)遂行につき必要な弁護士費用で、被告がした本件仮処分の執行と相当因果関係のある損害として被告に賠償請求のできる金額は三〇〇万円を下らないものと認められ、被告は原告に対し右金員及び被告に対する本訴状送達の日の翌日である昭和五三年五月一八日以降支払済に至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金を支払う義務がある。
四 よって原告の請求は理由があるからこれを認容し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条を、仮執行の宣言につき同法一九六条一項を、それぞれ適用して主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 佐藤安弘 裁判官 島田周平 高林龍)
<以下省略>