東京地方裁判所 昭和53年(行ウ)147号 判決 1981年9月17日
原告
山本理平
外一四名
右訴訟代理人
斉藤驍
外一一名
被告
環境庁長官
鯨岡兵輔
右指定代理人
松永榮治
外六名
主文
1 本件訴えを却下する。
2 訴訟費用は原告らの負担とする。
事実《省略》
理由
一請求の原因1の二酸化窒素に係る環境基準に関する本件告示がされた事実は、当事者間に争いがない。
二原告らは、本件告示による二酸化窒素に係る環境基準の改定は、抗告訴訟の対象となる行政処分性を有すると主張し、被告は、これを争うので、以下この点について判断する。
1 環境基準の法的性質
(一) 基本法第一条は、「この法律は、国民の健康で文化的な生活を確保するうえにおいて公害の防止がきわめて重要であることにかんがみ、事業者、国及び地方公共団体の公害の防止に関する責務を明らかにし、並びに公害の防止に関する施策の基本となる事項を定めることにより、公害対策の総合的推進を図り、もつて国民の健康を保護するとともに、生活環境を保全することを目的とする。」と定めている。右規定は、公害に対処する基本的態度と公害対策の終局的目標を明らかにするとともに、右目標を達成するうえで重要な役割を果たすべき事業者、国及び地方公共団体の各責務と国及び地方公共団体の公害の防止に関する基本的な施策を定めることにより、これらを通じて公害防止行政の有機的一体性を確保し、施策の総合的かつ計画的推進を可能ならしめることを宣言しているものということができる。
そして、右第一条を受けて、まず第一章「総則」第三条(事業者の責務)、第四条(国の責務)、第五条(地方公共団体の責務)及び第六条(住民の責務)において、それぞれの公害に対処すべき立場に応じた責務を規定するとともに、第二章「公害の防止に関する基本的施策」においては、主として国及び地方公共団体が右の各責務に応じて講ずべき公害の防止に関する施策のうちその基本となる事項を規定し、もつて前記第一条に定める公害対策の総合的推進を可能ならしめようとしているのである。
そこで、右の関係を国についてみると、基本法第四条は、国の責務について、「国は、国民の健康を保護し、及び生活環境を保全する使命を有することにかんがみ、公害の防止に関する基本的かつ総合的な施策を策定し、及びこれを実施する責務を有する。」と定めているところ、右は、国がすべての国民の健康を保護し、その生活環境を保全すべき立場にあることから、公害対策においてもその使命と権能に照らし中心的役割を果たすべきであり、かつ、諸々の公害防止施策は、有機的一体性の保持なくしては実効を期し難いため、公害防止上指導的役割を果たすべき国が施策の総合的かつ計画的推進を図るうえで基本となる公害防止施策を策定し、実施する責務を有することを宣言したものと解される。そして、基本法は右第四条を受けて国の基本的施策を第二章第一節「環境基準」及び第二節「国の施策」において規定しているところであるから、まず、以下において後者の「国の施策」についてその内容と法的性格を検討することとする。
(二) 第二章第二節は、第一〇条ないし第一七条の二からなつているところ、第一〇条は、「政府は、公害を防止するため、事業者等の遵守すべき基準を定める等により、大気の汚染、水質の汚濁又は土壌の汚染の原因となる物質の排出等に関する規制の措置を講じなければならない。」(第一項)ものと定め、第二項において、騒音、振動、地盤の沈下及び悪臭」についても、右第一項の措置に準じた措置を講ずるものとしている。右は、大気汚染等の公害の原因となる物質自体の排出を規制するため、これを排出する事業等の遵守すべき排出基準を設定すべきことを主たる内容とするものであるから、公害対策の最も基本的にして重要な施策の採用を政府に義務づけているものということができる。しかしながら、右政府の義務の法的性格については、前記のような排出規制の措置は、事業者等に対する関係においては生産活動等に対する制限を意味するものであるから、法律による行政の原理に照らせば、かかる措置を採用し実施するためには、法律、すなわち国会の定める個別規制法の根拠を要するものというべきところ、法律の制定は、立法府たる国会の専権に属するから、この意味で右政府の義務とは、右のような個別規制法制定の準備ないし促進あるいは個別規制法の存在を前提とするその執行等の努力義務ないし責務を意味するものと解するほかはない。したがつて、右規定それ自体により何らかの具体的法律効果が生ずるものと解することはできない。
次に、第一一条についてみると、第一一条は、「政府は、公害を防止するため、土地利用に関し、必要な規制の措置を講ずるとともに、公害が著しく、又は著しくなるおそれがある地域について、公害の原因となる施設の設置を規制する措置を講じなければならない。」と定めているところ、右は、政府において、前段においては公害防止の観点からする土地利用の規制を、後段においては公害の原因となる施設の設置それ自体の規制をそれぞれ講ずるものとしているが、右各規制措置については、いずれも所有権等の財産権の制限を内容とする点において前条と同様国会の定める個別規制法の根拠を要するものというべきであるから、政府は右のような個別規制法制定の準備ないし促進あるいは個別規制法の存在を前提とするその執行等の努力義務ないし責務を有することを明らかにしたものにすぎず、この規定それ自体により何らかの具体的法律効果が生ずるものと解することはできない。
さらに、第一二条は、「政府は、緩衝地帯の設置等公害の防止のために必要な事業及び下水道、廃棄物の公共的な処理施設その他公害の防止に資する公共施設の整備の事業を推進する措置を講じなければならない。」と定めているところ、右は政府において、緩衝地帯の設置、下水道の整備、廃棄物の公共的な処理施設の設置等の公害防止に関する公共的な施設の積極的な整備等の推進策を講ずべき義務を有することを明らかにしたものであるが、右規定内容の一般性、抽象性及び公害防止に関する施設の整備等の措置がいずれも財政的裏付けを要することにかんがみれば、右政府の義務とは、行政上の努力義務ないし責務を明らかにしたものにすぎず、前同様これにより何らかの具体的法律効果が生ずるものと解することができないことは明らかというべきである。
政府は、右第一〇条ないし第一二条に規定する公害防止施策の中心となるべき基本的事項以外に、公害状況の把握及び規制措置の適正な実施のための監視及び測定等の体制の整備(第一三条)、公害予測及び公害防止施策策定のための調査の実施(第一四条)、公害防止に資する科学技術の振興(第一五条)並びに公害に関する知識の普及(第一六条)等の措置を講ずべきものとされているが、これらの各規定は、いずれもその内容の一般性、抽象性に照らせば、政府の環境行政運営上の努力義務ないし責務の要点を明確化したものにすぎず、これらにより何らかの具体的法律効果が生ずるものと解することはできないし、また、地域開発施策等における公害防止の配慮を定めた第一七条及び自然環境の保護を定めた第一七条の二についても、右と同様にいずれも何らかの具体的法律効果を伴うものでないことは、右各規定の文言自体から明らかである。
以上のように、基本法が第二章第二節「国の施策」において規定するところは、いずれも政府が公害防止行政を総合的かつ計画的に推進していくうえでの基本となる施策の要諦を綱領的に明らかにしたものであつて、行政上の努力義務ないし責務を具体化したものにすぎず、右第二節に定めるところの規定それ自体により何らかの具体的法律効果が生ずるものではないといわねばならない。
(三) そこで、次に第二章第一節「環境基準」にもどつて検討するに、環境基準とは、「政府は、大気の汚染、水質の汚濁、土壌の汚染及び騒音に係る環境上の条件について、それぞれ、人の健康を保護し、及び生活環境を保全するうえで維持されることが望ましい基準を定めるものとする。」(第九条第一項)との規定に基づき、政府が大気汚染等に係る環境上の条件につき、人の健康を保護し、生活環境を保全するうえで維持されることが望ましい基準として設定した環境上の条件であり、右環境基準は、「常に適切な科学的判断が加えられ、必要な改定がなされなければなら」ず(同条第三項)、また、「政府は、公害の防止に関する施策を総合的かつ有効適切に講ずることにより、」右基準が「確保されるように努めなければならない。」(同条第四項)と定められている。
右規定によれば、次のことが明らかというべきである。すなわち、環境基準の設定及び改定は、政府が行なうものであり、その設定及び改定の手続については格別の規制はなく、政府の合理的裁量に委ねられているものと解されること(もつとも、前記第三項によれば、改定は「適切な科学的判断」に基づくことが要請されている。)、環境基準の実体的内容を規定するについて、「人の健康を保護し、及び生活環境を保全するうえで維持されることが望ましい基準」との文言が用いられているところ、右の措辞は通常将来に対する願望ないしは目標を表わすものであり、これに対し、事業者等に対する排出規制の措置を規定する第一〇条においては、「事業者等の遵守すべき基準」なる文言が用いられ、両者は区別して使用されていること、さらに、環境基準実現の方途については、「政府は、公害の防止に関する施策を総合的かつ有効適切に講ずることにより、第一項の基準が確保されるように努めなければならない。」とされているところ、前記(二)に述べたように、政府の施策を定めた第二章第二節は、いずれも政府の公害防止行政上の努力義務の要諦を綱領的に規定したものにすぎないし、また、その達成については右方途により「確保されるように努めなければならない。」と規定されているところ、かかる措辞は確保それ自体よりも確保に向けての努力、遂行に重点を置いているものと解されるのである。
以上のような環境基準設定の主体及び手続並びに基準内容及び達成の方途を定める文言等に加えて、前項に述べたように基本法第一条が明定する基本法制定の目的並びに同法第二章第二節が定める国の公害防止施策についての諸規定が政府の公害防止行政上の施策の要諦を綱領的に規定したもので、それ自体では直ちに具体的法律効果を生ずる性格を有していないところ、環境基準に関する規定は、かかる第二章の冒頭第一節に位置づけられていること及び後記2ないし4に述べるような関連する諸規定との関係などに照らすならば、環境基準とは、第一条の「公害対策の総合的推進を図」るべきことを受けて講じられるところの、公害防止諸施策の基本となるべき政府の施策の達成目標を明らかにすることにより、施策の有機的一体性を確保し、総合的かつ計画的な推進を可能ならしめるための行政上の努力目標ないし指針を意味するものと解するのが相当である。
したがつて、環境基準は、右のように政府の公害防止施策の達成目標を表わすものと解すべきものであるから、これを汚染の許される上限を表わす許容限度と解したり、あるいは、国民が汚染を容認しなければならない受認限度と解することはできない。また、原告らは、大気の汚染に係る物質はいずれも人の健康に直接関係するものであるから、これについて定められる環境基準は、事柄の性質上当然に法的強制力をもつ規範と解すべきであると主張するが、当該規定がいかなる法的効力を有するかは、当該規定の文言、当該規定を含む法全体の仕組み、関連する諸規定との関係等を総合考慮して決せられるべきものであり、当該規定の規制対象の性質から当然に法的効力の有無ないし性格が決せられるものと解することはできない。これを環境基準に関する第九条についてみると、右の諸要素(関連する諸規定との関係については、後記2ないし4のとおりである。)に照らすと前記のように解すべきものであるから右原告らの主張は採用できない。
以上のように、環境基準とは、政府が公害防止行政を推進していくうえでの政策上の達成目標ないしは指針としての性質を有するのであるから、これが直ちに国民に対し具体的な法的効果を及ぼすものとは解し得ず、したがつて、その設定又は改定があつたからといつてこれが直ちに国民の権利義務ないし法的地位に影響を及ぼすことはあり得ないものといわねばならない。
2 環境基準と排出基準及び総量規制基準との関係
原告らは、環境基準が法的効力を有することは、大気汚染防止法の諸規定や条例等に照らせば明らかであると主張するので、以下この点について判断する。
(一) まず、原告らは、大気汚染防止法第三条の排出基準は、環境基準を達成するために必要かつ十分であるべく法的に拘束されたものであるから、両基準は法的連動関係にあり、したがつて、環境基準が緩和されれば、それは排出基準の緩和につながると主張する。
そこで、大気汚染防止法の定める排出基準決定の仕組みに照らして検討するに、「排出基準は、ばい煙発生施設において発生するばい煙について、総理府令で定める。」ものとし(同法第三条第一項、なお、二酸化窒素は、同法第二条第一項第三号、大気汚染防止法施行令第一条第五号により同法第三条第二項にいうところの有害物質の一つとして右ばい煙に含まれるものである。)、また、右有害物質に係る排出基準は、「有害物質に係るばい煙発生施設において発生し、排出口から大気中に排出される排出物に含まれる有害物質の量について、有害物質の種類及び施設の種類ごとに定める許容限度」である(同法第三条第二項第三号)と定め、さらに前記総理府令である大気汚染防止法施行規則第五条第二号が窒素酸化物の排出量を施設の種類及び規模ごとに定めている。
ところで、窒素酸化物の排出基準を定める右の各規定によれば、環境基準が右排出基準決定の法律上の要素とされている関係にはないし、さらに、窒素酸化物の排出基準は、大気汚染防止法施行規則の前記規定によつて具体的に定められているところ、環境基準が改定されれば当然に右排出基準を定める施行規則が改正されるとか、あるいは右施行規則が改正されねばならない旨の規定は存しないのであるから、二酸化窒素に係る環境基準が改定されたからといつて、前記施行規則第五条第二号に定める排出基準が当然に変更されるものではない。
もつとも、前記1の(三)に述べたように、環境基準は、政府が公害防止の諸施策を総合的かつ計画的に推進していくうえでの達成目標ないし指標と解すべきものであるところ、大気汚染防止法が定める排出基準による規制の措置は右目標としての環境基準を達成するための基本的施策の一つであるから、排出基準の実質的内容は、目標値としての環境基準を考慮して決定されることは極めて当然というべきである。しかし、環境基準が目標値ないし指針としての法的性質を持つものであること前述のとおりであるし、右のように排出基準が環境基準を考慮して決定されるといつても、既に述べたところからすれば右関係は事実上のものにすぎないのであるし、さらに、排出基準は、汚染物質の排出状況並びに公害防止のための諸施策、すなわち土地利用の規制、公害施設の立地規制及び公害防止技術の進展状況等の複雑かつ流動的な諸要素を総合的に考慮して決定されるべきものであるから、排出基準が環境基準から一義的に導き出されるものではない。以上に述べたことからすると、環境基準と排出基準とが法的連動関係にあるとする原告らの主張は採用できない。
(二) 次に、原告らは、昭和四九年法律第六五号による大気汚染防止法の改正により導入された総量規制方式によれば、従来の排出基準のみによつては環境基準の確保が困難と認められる地域においては、環境基準確保のために指定ばい煙総量削減計画が作成され、これに基づき総量規制基準が定められるところ、右総量規制基準は法的強制力をもつて実現されるものであるから、この結果環境基準との法的連動関係は明瞭になつたと主張する。
(1) そこで、大気汚染防止法の定める総量規制基準決定の仕組みに照らして検討するに、まず総量規制基準の設定につき、「都道府県知事は、工場又は事業場が集合している地域で、第三条第一項若しくは第三項又は第四条第一項の排出基準のみによつては公害対策基本法第九条第一項の規定による大気汚染に係る環境上の条件についての基準(次条第一項第三号において「大気環境基準」という。)の確保が困難であると認められる地域としていおう酸化物その他の政令で定めるばい煙(以下「指定ばい煙」という。)ごとに政令で定める地域(以下「指定地域」という。)にあつては、当該指定地域において当該指定ばい煙を排出する工場又は事業場で総理府令で定める基準に従い都道府県知事が定める規模以上のもの(以下「特定工場等」という。)において発生する当該指定ばい煙について、指定ばい煙総量削減計画を作成し、これに基づき、総理府令で定めるところにより、総量規制基準を定めなければならない。」(第五条の二第一項)とし、右総量規制基準とは、「特定工場等につき当該特定工場等に設置されているすべてのばい煙発生施設において発生し、排出口から大気中に排出される当該指定ばい煙の合計量について定める許容限度とする。」(同条第四項)と定めている。そして、総量規制基準と定める前提となる指定ばい煙総量削減計画につき、「指定ばい煙総量削減計画は、当該指定地域について、第一号に掲げる総量を第三号に掲げる総量までに削減させることを目途として、第一号に掲げる総量に占める第二号に掲げる総量の割合、工場又は事業場の規模、工場又は事業場における使用原料又は燃料の見通し、特定工場等以外の指定ばい煙の発生源における指定ばい煙の排出状況の推移等を勘案し、政令で定めるところにより、第四号及び第五号に掲げる事項を定めるものとする。」とし、右第一号に掲げる総量を、「当該指定地域における事業活動その他の人の活動に伴つて発生し、大気中に排出される当該指定ばい煙の総量」、第二号に掲げる総量を、「当該指定地域におけるすべての特定工場等に設置されているばい煙発生施設において発生し、排出口から大気中に排出される当該指定ばい煙の総量」、第三号に掲げる総量を、「当該指定地域における事業活動その他の人の活動に伴つて発生し、大気中に排出される当該指定ばい煙について、大気環境基準に照らし総理府令で定めるところにより算定される総量」及び第四号に掲げる総量を、「第二号の総量についての削減目標量(中間目標としての削減目標量を定める場合にあつては、その削減目標量を含む。)」と定めている(第五条の三第一項)。
ところで、総量規制基準を定める右の各規定によれば、都道府県知事が総量規制基準の設定を義務づけられるのは、政令で定められる指定ばい煙及び指定地域についてであるところ、右のばい煙及び地域の指定は工場又は事業場が集合していて、かつ、大気汚染防止法第三条第一項若しくは第三項、第四条第一項の排出基準のみによつては大気環境基準の確保が困難と認められることを要件とするものであるが、右指定要件、殊に後者の排出基準のみによつては大気環境基準の確保が困難と認められるか否かの判断は、汚染状況の推移に対する見通し、公害防止技術の開発進展状況及び排出規制以外の諸施策の効果等の複雑かつ流動的な諸条件に対する高度の専門的技術的判断を要するところから、右判断を政府の合理的裁量判断に委ね、政令で定めることにしているのである。したがつて、総量規制が行なわれるか否かは、当該大気汚染物質が政令によつて指定ばい煙として定められていて、かつ、当該地域が地域指定されているか否かにかかつているのであつて、当該大気汚染物質につき環境基準が設定されており、右基準の確保が排出基準による規制のみによつては困難であるからといつて当然に総量規制が行なわれることにはならないのである。そこで、右政令による指定についてみると、右政令である大気汚染防止法施行令第七条の二は、硫黄酸化物を指定ばい煙と定めているだけで現に窒素酸化物を指定ばい煙に定めていないことが明らかである。
そうすると、窒素酸化物が指定ばい煙とされていない現状においては、二酸化窒素について総量規制が行なわれる余地はないのであるから、指定ばい煙総量削減計画が作成されこれに基づき総量規制基準が定められることもなく、したがつて、二酸化窒素に係る環境基準が総量規制基準に連動することはあり得ないのであるから、このような連動関係を論ずること自体無意味というほかはなく、原告らの主張は採用できない。
(2) もつとも、原告らは、前記の総量規制の仕組みに照らすならば、環境基準は法的強制力をもつ規範であり、このことは、窒素酸化物が指定ばい煙とされていないからといつて変わるものではないと主張するので、以下この点についても検討してみる。
総量規制とは、一定地域の大気汚染濃度を環境基準のレベルまで改善することを目的として行なわれるもので、具体的には指定ばい煙総量削減計画に基づいて実施されるところ、右指定ばい煙総量削減計画の仕組みは、次のようになつている。まず、当該指定地域における事業活動その他の人の活動に伴つて発生し、大気中に排出される指定ばい煙の総量を一号総量とし、次にこの一部分を占める特定工場等のばい煙発生施設において発生し、排出口から大気中に排出される指定ばい煙の総量を二号総量とするものであるが、これらの総量はいずれも当該指定地域の全体ないし特定工場等に係る現状における排出総量を表わすものである。そうして、右一号総量の削減目標量としての三号総量及びこれに対応した二号総量の削減目標量としての四号総量並びに計画達成期間及び方途をそれぞれ定め(大気汚染防止法第五条の三第一項)、右四号総量の達成が可能となるように一定の算式を用いて特定工場等の総量規制基準を定めるものとしている(大気汚染防止法施行規則第七条の三)。
ところで、右三号総量は、「大気環境基準に照らし総理府令で定めるところにより算出される」(前記第五条の三第一項第三号)ところ、右総理府令である大気汚染防止法施行規則第七条の五は右三号総量の算定方法をおおむね次のように定めている。すなわち、三号総量の算定は、まず、科学的かつ合理的な大気汚染予測手法(指定ばい煙の排出と当該指定ばい煙による大気の汚染との関係を明らかにする手法)に基づき、当該指定地域の風向、風速等の気象条件、指定ばい煙の発生源の位置及び排出口の高さ、指定ばい煙の排出状況並びに当該指定地域以外における指定ばい煙の発生源の状況及び排出状況等の諸条件を考慮して、指定ばい煙総量削減計画の達成期間経過後の当該計画がない場合の指定ばい煙濃度を推定し、この推定をもとに当該指定地域の当該指定ばい煙濃度が大気環境基準を確保する濃度となることを目途として三号総量を算定するものとされている。
そして、前記のように二号総量の削減目標量であり、総量規制基準を決定する基礎となる四号総量については、前記三号総量の範囲内で一号総量に占める二号総展の割合、工場又は事業場の規模、工場又は事業場における使用原料又は燃料の見通し、特定工場等以外の指定ばい煙の発生源における指定ばい煙の排出状況等の推移を勘案して政令で定めるものとされているのである。
そこで以上の指定ばい煙総量削減計画及びこれに基づく総量規制基準決定の各仕組みに照らして考察すると、三号総量は大気環境基準に照らし、科学的かつ合理的な大気汚染予測手法に基づいて算定されるものであるから、環境基準との関連性を一応認めることができる。しかし、右三号総量は、環境基準自体から自動的に導き出されるものではなく、大気汚染予測手法の確立の程度によつても左右されるほか、前記のような当該指定地域の気象条件、ばい煙発生源の状況及び当該指定地域以外のばい煙発生源の状況その他の各時期における指定ばい煙の状況に影響を及ぼすべき諸要因によつて差異が生ずるものであるから、環境基準によつて直ちに一義的に決定されるものではない。そして、総量規制基準は、算定された四号総量に基づき一定の算式により決定されるところ、右四号総量の決定については、一号総量に占める二号総量の割合、工場又は事業場の規模、工場又は事業場における使用原料又は燃料の見通し、特定工場等以外の指定ばい煙の発生源における指定ばい煙の排出状況の推移等を総合勘案して政令で定める(大気汚染防止法第五条の三第一項)ものとされているのであるから、四号総量が環境基準ないしこれに照らして算定される三号総量から一義的に導き出されるものでないことは明白である。したがつて、四号総量は政府の右のような諸条件に対する専門的認定判断を基礎とする高度の技術的裁量判断に委ねられているものと解されるのである。
そうすると、環境基準は、三号総量の算定を通じて四号総量の算定に当たつても重要な要素となるものではあるが、環境基準によつて直ちに四号総量ひいては総量規制基準が自動的に決定されることにはならないのである。また、手続的にみても、環境基準の改定が総量規制の解除ないし総量規制基準の改定をもたらす法的仕組みにはなつていないのであつて、これらの点からすると、環境基準と総量規制基準とが法的連動関係にあるとの原告らの主張は採用し難いものである。
(3) さらに、原告らは、本件告示による二酸化窒素の環境基準の緩和により我が国のほとんどの地域が右環境基準に適合することになつたため、総量規制を行なうことができなくなつたのであるから、右環境基準の緩和は処分性を有する旨主張するようであるが、前記(1)に述べたように、総量規制については、政令で定める指定ばい煙につき政令で定める指定地域に限つて都道府県知事に総量規制基準の設定が義務づけられるものであつて、国民に総量規制の実施を求める権利を認める法律上の根拠は存在しないのであるから、一定の環境基準に基づき総量規制を受ける法的地位が国民に保障されているものと解することは困難といわねばならない。したがつて、仮に原告ら主張のとおりとしても、本件告示による二酸化窒素の環境基準の改定により原告らの権利ないし法的地位に変動が生じたものということはできないから右主張は採用できない。
(三) 原告らは、環境基準は川崎市、横浜市等の地方自治体が総量規制等の公害防止行政を推進していく上での法的根拠になつていた旨主張する。
そこで検討するに、基本法は、第五条で地方公共団体の公害防止上の責務を、第一八条で地方公共団体の施策をそれぞれ定めているが、右第一八条によれば、地方公共団体は、法令に違反しない限りにおいて、前節に定める国の施策に準ずる施策を講ずるほか、当該地域の自然的、社会的条件に応じた」、「その他の施策を実施する」ものとしているところ、右規定は、国の施策の場合と同様、直ちに個別具体的な施策の実施を義務づけるものではなく、地方公共団体が公害防止行政を推進していくうえでの要諦を綱領的に明らかにしたものであり、地方公共団体の行政上の努力義務を宣言しているものと解すべきである。そして、環境基準を達成すべく地方公共団体に公害防止に関する具体的な施策の採用を義務づける旨の規定は存在しないのであるから、地方公共団体が環境基準の確保のために独自の公害防止施策を講ずることも、個別的具体的な法的義務ではなく、行政上の一般的責務に属するものというべきである。そうして、原告ら主張の地方公共団体による総量規制等の公害防止施策において、前述したような意味で環境基準が具体的な法的強制力を有するものとして機能していると解すべき証拠は全くないし、前判示の環境基準の法的性質からすれば、そのようなことは、本来あり得ないといわなければならない。
3 環境基準と土地利用等の規制及び公害防止施設の整備等
原告らは、本件告示による環境基準の緩和により基本法第一一、一二条に規定する諸施策を享受する権利を奪われたと主張するが、右第一一、一二条が直ちに政府に具体的な施策の実施を義務づけるものではなく、政府の公害防止上の努力義務を具体化したにすぎないことは既に1の(二)において述べたとおりであり、したがつて、右各規定によつて、国民が所定の政府の施策を享受する具体的な権利を与えられたものと解することはできない。また、前判示に係る環境基準の政策上の達成目標ないし指針としての法的性質にかんがみれば、環境基準の改定によつて直ちに法的に公害防止施策を行なうことができなくなるというわけでもない。したがつて、いずれにしても、原告らの主張は採用できない。
4 環境基準と補償法の地域指定要件との関係
原告らは、補償法が定める地域指定要件は環境基準と連動しているから、本件告示による環境基準の緩和は、公害健康被害者から補償法による補償給付を受ける権利を奪う結果となると主張するので、以下この点について検討する。
(1) まず、補償法の定める補償給付の仕組みについて検討する。補償法は、「事業活動その他の人の活動に伴つて生ずる相当範囲にわたる著しい大気の汚染又は水質の汚濁(水底の底質が悪化することを含む。以下同じ。)の影響による健康被害に係る損害を填補するための補償を行なう」(第一条)ことを主たる目的とするものであるところ、公害による健康被害者が補償法第三条所定の補償給付の支給を受けるためには、まず同法第四条に定める都道府県知事又は政令指定市の長の当該疾病が大気の汚染又は水質の汚濁の影響によるものである旨の認定を必要とするものとされている。右の趣旨は、当該疾病が大気の汚染又は水質の汚濁の影響によるものであるか否かの判断と都道府県知事等の認定にかからしめているものであり、その仕組みは次のようになつている。すなわち、事業活動その他の人の活動に伴つて相当範囲にわたる著しい大気の汚染が生じ、その影響による疾病が多発している地域を第一種地域とし(補償法第二条第一項)、事業活動その他の人の活動に伴つて相当範囲にわたる著しい大気の汚染又は水質の汚濁が生じ、その影響により当該大気の汚染又は水質の汚濁の原因である物質との関係が一般的に明らかであり、かつ、当該物質によらなければかかることがない疾病が多発している地域を第二種地域とし(同条第二項)、右各地域及び疾病の具体的指定についてはこれを政令に委任している(同条第一項ないし第三項)。そして、認定にあたつては、右地域及び疾病の指定を前提とし、第一種地域にあつては、右地域における指定疾病がその発病の原因となる特定の汚染物質との関係を厳密に特定し得ないいわゆる非特異的疾患であるため、右指定地域及び疾病のほかに第四条第一項所定の曝露要件の充足を要求し、この三要件を充足することにより当該疾病と大気の汚染との間に因果関係があるとみなすものとしているのであり、これに対し、第二種地域にあつては、指定疾病とその発病の原因となる特定の汚染物質との関係を明らかにすることが可能であるいわゆる特異的疾患であることから、個々に因果関係を判断することにしているのである(第四条第二項)。
(2) ところで、右認定の仕組みに照らせば、地域指定は、認定ひいては補償給付を受けるための不可欠の要件であるから、以下右地域指定要件と環境基準との関係について検討することとする。前記のように地域指定要件は、第一種地域にあつては、「事業活動その他の人の活動に伴つて相当範囲にわたる大気の汚染が生じ、その影響による疾病が多発している」ことであり、右要件は、相当範囲にわたる著しい大気の汚染の発生とその影響による疾病の多発との二つの側面から規定されているものと解することができ、そのうち大気の汚染の程度に関しては、基本法第九条第一項の規定による大気の汚染に係る環境上の条件についての基準、すなわち大気環境基準が関連してくるといえる。ところで、右大気環境基準は、前述したように、「人の健康を保護し、及び生活環境を保全するうえで維持されることが望ましい基準」であり、政策上の達成目標ないし指針としての法的性質を有するのであるから、大気環境基準が直接地域指定要件としての大気の汚染の程度についての判断を法律上拘束したり、あるいは、大気環境基準の改定が当然に右地域指定要件の改定をもたらすというような連動関係が存在するということにならないのは、排出基準及び総量規制基準との関係について前述したのと同様である。
ところで、地域指定要件の認定が原告ら主張の昭和四九年一一月二五日付中公審答申「公害健康被害補償法の実施に係る重要事項について」に基づき運用されていること及び右答申の要旨については、当事者間に争いがない。そうして、右争いない答申の要旨によれば、その内容は次のとおりである。
ア 大気汚染の程度は、当面は、硫黄酸化物、窒素酸化物及び浮遊粒子状物質の三種類の汚染物質を指標として判定する。
イ 大気の汚染の程度を判定する方法としては、当面はそれぞれの汚染物質ごとに大気の汚染の程度を定め、これらを総合的に考慮して判定するのが適当である。
ウ 各汚染物質に係る汚染の程度は、おおむね次の四区分に分けるのが適当である。
第一度 汚染物質の濃度が環境基準を越えている程度
第二度 有症率が環境基準を満たしている地域にみられる「自然有症率」にくらべて明らかに高くなる(おおむね二倍)程度の汚染の程度
第三度 旧環境基準(昭和四八年五月の改定前の二酸化硫黄に係る環境基準を指す。)を越し、有症率が自然有症率の二〜三倍、ときにはそれ以上となる程度の汚染の程度
第四度 極めて著しい汚染があり、有症率が自然有症率の四〜五倍、ないしそれ以上に達する程度の汚染の程度
エ 第三度以上の大気の汚染があれば、「著しい大気の汚染」があるものと判定してよい。
そうして、<証拠>によれば、前記中公審答申のその他の趣旨及び内容は、次のとおりであると認めることができる。すなわち、右答申が大気の汚染の程度の判定につき、当面は、硫黄酸化物、窒素酸化物及び浮遊粒子状物質を指標とすることとしているのは前述のとおりであるが、窒素酸化物については、疫学的研究により健康被害との関係を量的に把握するための資料が乏しいこと等の理由により、答申の時点においては公害健康被害補償の見地から窒素酸化物による大気の汚染の程度を数字で示すのは困難であり、浮遊粒子状物質についても同様の問題があるとされた。そこで、答申は、硫黄酸化物で代表された大気の汚染の程度を示すこととし、その例として二酸化硫黄の年平均値により、次のとおり大気の汚染の程度を示している。
大気の汚染の程度 溶液導電率法による二酸化硫黄濃度(年平均値ppm)
一度 0.02以上0.04未満
二度 0.04以上0.05未満
三度 0.05以上0.07未満
四度 0.07以上
なお、この点に関し、一度に示す最低値(年平均値0.02ppm)については環境基準との統計的な対応において考える必要があり、地域によつて異なり得るとされ、また、硫黄酸化物で代表される大気汚染の程度は、年平均に基づいたものを示すが、さらに季節的変動、高濃度汚染の出現頻度等についても考慮して汚染の程度を判定すべきであるとされている。
また、現時点において大気の汚染が軽度になつていても、過去に著しい大気の汚染があれば現在においても過去の著しい大気の汚染の影響を受けた疾患が多発していることも考えられるので、大気の汚染の程度は、現時点のみならず、できるだけ過去にさかのぼつて(ただし、原則としておおむね一〇年程度を限度とする)汚染の程度を判定することが必要な場合もあろうとされ、また、大気の汚染物質の排出量が同一であつても、山、海の存在、風向、気温等の気象条件、発生源と大気の汚染の影響を受けている地域との距離、特殊の立地条件等の個別的条件により大気の汚染の程度には差があり得ること等も十分考慮して大気の汚染の程度を決定する必要があるとされている。
次に、健康被害に関する要件については、大気の汚染の影響による健康被害の発生程度は、次のとおりに区分されている。
有症率の程度 四〇歳〜五〇歳代の「自然有症率」を標準として
一度 おおむね二倍
二度 おおむね二〜三倍
三度 おおむね四〜五倍以上
なお、右にいう「自然有症率」とは、大気の汚染が極めて軽度(新環境基準(昭和四八年五月の改定後の二酸化硫黄に関する基準を指す。)を満たす程度)の地域における有症率をいうものである。
有症率の程度の一度、二度、三度は、おおむね大気の汚染の程度の二、三度、四度程度の地域においてみられる有症率に相当する。
第一種地域の指定を行なうに当たつては、補償法第二条第一項に示されている「著しい大気の汚染」があることと、「その影響による疾病が多発」していることが客観的に明らかにされることが必要なのであるが、「著しい大気の汚染」(例えば三度以上の大気の汚染)があり、「その影響による疾病が多発」(例えば有症率が二度以上)している場合には問題はないが、両者が併行していない場合には調査対象地域についての地域特殊性を十分に考慮し慎重に判断する必要がある。例えば、有症率が二度以上であるにもかかわらず、年平均値に基づいた大気の汚染の程度が三度未満の場合には、季節別の平均値や高濃度汚染の出現頻度、硫黄酸化物以外の汚染物質による大気の汚染の程度等を考慮しつつ、大気の汚染の程度を総合的に判断して、二度以上の有症率が説明しうるかどうか(つまり、総合的な汚染の程度がおおむね三度相当とみなされるかどうか)を検討し、逆に年平均値に基づいた大気の汚染の程度が三度以上であるにもかかわらず、有症率が一度程度である場合には、指定疾病による受診率その他の有症率に関連した資料により著しい大気の汚染の影響による疾病が多発していると考えられるかどうか(つまり総合的にみた有症率の程度がおおむね二度相当とみなされるかどうか)を検討して、当該地域の指定の可否について判断するのが適当である。
前記中公審答申の趣旨及び内容は以上のとおりであると認められ、他にこの認定を左右するような証拠は存在しない。
そうして、以上判示の事実によつて考えるのに、まず、現在地域指定要件としての大気の汚染の程度を判定する指標として用いられているのは、硫黄酸化物であるから、二酸化窒素についての環境基準を改定したからといつて、右大気の汚染の程度の判定に対し直接の影響を及ぼすことにはならない。のみならず、仮に将来窒素酸化物に関する資料が整備され、健康被害との関係が量的に把握することが可能となつた結果窒素酸化物が指標として用いられることになつたとしても、窒素酸化物についての環境基準がどのように設定されるかによつて、地域指定の要件としての大気の汚染の程度の判定が一義的に決定されるわけでは決してなく、大気の汚染の季節的変動や高濃度汚染の出現頻度、過去における著しい汚染の有無、具体的事案における気象条件、立地条件等の個別的要因等をも総合的に考慮して判断するべきものとされているのである。
また、地域指定の第二の要件である「健康被害に関する要件」についてであるが、大気汚染の程度の判定についての指標が現に硫黄酸化物とされていることは前述したとおりであるから、大気の汚染が極めて軽度で環境基準を満たす程度の地域における有症率を「自然有症率」とし、これとの比較において有症率の程度を定めること前判示のとおりであるにしても、二酸化窒素の環境基準が改定されたからといつて、健康被害に関する要件の判断になんらの影響の及ぶ筋合ではないことは、前同様というべきである。のみならず、仮に窒素酸化物が指標として用いられることになつた場合を考えても、その環境基準がどのように設定されるかによつていわゆる「自然有症率」に影響が及ぶことがあるのは格別、その設定によつて一義的に大気汚染の影響による疾病の多発の要件の存否が確定されるものでないことは、前記中公審答申の趣旨及び内容に照らしても明らかである。
(3) 次に、既に第一種ないし第二種地域に指定されている地域についてみると、当該地域が環境基準の緩和により環境基準に適合することになつたからといつて当然に右地域指定が失効すると解すべき根拠はなく、右地域指定の解除には内閣総理大臣が補償法第二条第四項所定の関係機関の意見を聴取したうえ政令改廃の手続を必要とする。のみならず、<証拠>によれば、前記中公審答申は、地域指定の解除要件として「著しい大気の汚染」がなくなり、「その影響による疾病が多発」しなくなることが考えられるとし、具体的には相当期間(例えば五年程度)にわたり大気の汚染の程度が一度か環境基準を満たす程度に改善され、かつ、その地域における新しい患者の発生率が自然発生率(大気の汚染が極めて軽度の地域でみられる患者の発生率)程度に低下することが要求されるとしていることが認められる。したがつて右答申も、指定地域が環境基準に適合するようになつたからといつて、直ちに地域指定を解除すべきものであるとはしていないのである。
さらに、既に認定を受けている者については、当該指定地域か環境基準の緩和により環境基準適合地域になつたとしても、右事実は認定の取消事由ではない(補償法第九条)し、また、認定の更新(補償法第八条)を受ける妨げとなるものではないから、これらの者の権利ないし法的地位が影響を受けることはないものといわねばならない。
(4) 以上の次第で、二酸化窒素についての環境基準が改定されたからといつて、現時点において補償法第二条第一項の規定による第一種地域の指定になんらの影響が及ぶことはないし、また、そもそも右地域指定は、公害健康被害補償の見地から独自に決定されるべき性質のものであつて、大気の汚染の指標とされる汚染物質の環境基準の数値によつて一義的に決定されるような性質のものではないから両者の間に法的な連動関係があるわけではない。したがつて、二酸化窒素についての環境基準を改定する本件告示は、国民の具体的な権利ないし法律上の利益に対し、直接に具体的法律効果を及ぼすものとはいえない。
5 環境基準をめぐる基本法制定の経緯
原告らは、環境基準に関する基本法第九条は、公害審議会の昭和四一年八月の中間報告及び同年一〇月の答申を基礎とし、右答申における環境基準に関する基本的考え方が国会において受容され、成立したものであるところ、右答申においては、環境基準は、単なる政府の努力目標ではなく、法的拘束力を有する規範として考えられていたものであるから、右経緯からしても環境基準が政府の努力目標でないことは明らかであると主張する。
そこで検討するに、<証拠>によれば、昭和四一年一〇月七日決定された公害審議会答申は、冒頭に「公害対策のすすめ方」として、(1)今後の公害対策は、地域全体について一定の目標を明らかにしたうえ、総合的、計画的に行なわなければならず、環境基準にその目標として重要な役割をになわせること。(2)従来の公害対策が事後規制的にすすめられていたのに対し、今後は土地利用その他に着目した予防的施策を基調とすべきこと。(3)当面の効果を急ぐべき施策と長期的目標をふまえて策定されるべき施策を正しく認識すること等の五項目にわたる施策を進めるにあたつての原則的態度を明らかにするとともに、環境基準については中間報告をふまえ、その原則的考え方を次のように明らかにした。すなわち、「(1)環境基準は、公害から国民の健康や生活環境その他の利益を保護するために、環境上守られるべき条件を公害の種類ごとに定めたものである。(2)環境基準は、行政の目標となるべき基準であつて規制基準ではない。この目標が達成されるように、排出基準の強化、発生源の立地規制、使用燃料の規制その他の施策を実施することになる。(3)したがつて、その具体的数値は、科学によつて究明された汚染物質等の量と影響との関係を基礎にし、社会的、経済的、技術的配慮を加えて定めるべきものである。(4)環境基準を設定する場合に、公害の及ぼすどのような影響を排除しようとするかについては、当面は人の健康に及ぼす影響を中心にするべきである。」としていることが認められる。右の考え方によれば、環境基準は、政府の公害防止行政上の政策目標ないしは達成目標であつて、規制基準でないことは明白であるから、公害審議会答申が環境基準を法的強制力ある規範として取り扱つているとの原告ら主張は、前提において誤つており採用できない。
6 結論
以上のように、環境基準は、政府が公害防止行政を総合的かつ計画的に推進していくうえでの政策上の達成目標ないし指針を示すものであつて、これを国民に対する法的拘束力ある規範と解することはできないから、本来的に処分性を有するものではないといわねばならない。したがつて、本件告示による二酸化窒素に係る環境基準の改定は右政府の公害防止行政上の政策目標ないし指針を変更したものにすぎないのであるから、これが原告らの権利義務ないしその法的地位に変動をもたらすものと認めることはできず、本件全証拠によつてもそのような事実を認めることはできない。また仮に、環境基準の改定によつて、公害防止、公害健康被害補償等に関する施策の内容に何らかの影響が及ぶことがあるとしても、前記2ないし4に説示したところに照らすなら、それによつて環境基準の改定それ自体が処分性を持つことになるということはないのであつて、改定により具体的な施策の変更がされた段階でこれに関する行政処分等を争うのは格別、それ以前において環境基準の改定それ自体を処分として争うことは許されないものといわねばならない。
原告らは、二酸化窒素は特に人体の呼吸器系統に対し強い毒性を有するものであつて、本件告示による二酸化窒素に係る改定基準値では、呼吸器系健康被害を防止することはできないとし、国民が本件告示によつて受ける被害を救済するためには、右告示に行政処分性を認め、これを抗告訴訟の対象とする以外に方法がない旨主張する。もちろん公害対策基本法を頂点とする公害法の体系においては、国民の健康で文化的な生活の確保が基本的理念であり、とりわけ国民の生命、身体及び健康を公書から保護することが、もつとも重要な目標であることについては、何人も疑いを持たないであろう。そうして、この目標を達成するために環境基準が極めて重要な指導的役割を演ずるものであり、公害防止施策の要ともいうべき機能を持つものであることも否定できない。しかし、環境基準は、すでに何度もくり返したとおり、あくまでも、公害防止施策上のガイドライン、すなわち達成目標であり、指針としての性質を有するものである。もちろん、前記公害対策の基本理念からすれば、環境基準は、単なる理想としての希望値ではなく、あくまで終局的には達成されるべきところの現実的な実現目標でなければならないし、排出規制、土地利用、公害施設の設置の規制及び公害健康被害補償等の具体的施策の策定及び実施をリードする具体的、現実的な指導値としての機能を果たさなければならない。したがつて、この意味で、環境基準は前述の国民の生命、身体、健康の保護という理念に副うように、できる限り理想的なレベルに設定しなければならず、みだりに安易な妥協に走つてはならないことは当然である。しかしながら、それはあくまで政治及び行政の分野における施策上の目標としてそうなのであつて、環境基準が具体的な法的拘束力を持ち、遵守を法的に強制するものとして理解されるからではない。国の政策一般のなかに位置づけられる公害防止施策の上での達成目標をどのレベルに置くかは、立法及び行政の分野において、国民の総意に基づいて決せられるべき政策的課題であり、司法が立ち入るべきは、これに基づき国民の権利ないし法的地位に具体的影響を及ぼすものとして個別的に実施される行政処分の適否等の分野である。
以上要するに、本件告示は、「行政庁の処分その他公権力の行使に当たる行為」ということはできず、右に該当することを前提とする本件訴えはその余の点につき判断するまでもなく不適法といわねばならない。
三よつて、本件訴えを却下することとし、訴訟費用の負担につき行政事件訴訟法第七条、民事訴訟法第八九条、第九三条第一項本文を適用して主文のとおり判決する。
(藤田耕三 原健三郎 田中信義)
別紙
記
二酸化窒素に係る環境基準について
公害対策基本法第九条第一項による二酸化窒素に係る環境上の条件につき人の健康を保護するうえで維持されることが望ましい基準(以下「環境基準」という。)及びその達成期間等は、次のとおりとする。
第一 環境基準
一 二酸化窒素に係る環境基準は、次のとおりとする。
一時間値の一日平均値が0.04ppmから0.06ppmまでのゾーン内又はそれ以下であること。
二 一の環境基準は、二酸化窒素による大気の汚染の状況を的確には握することができると認められる場所において、ザルツマン試薬を用いる吸光光度法により測定した場合における測定値によるものとする。
三 一の環境基準は、工業専用地域、車道その他一般公衆が通常生活していない地域又は場所については、適用しない。
第二 達成期間等
一 一時間値の一日平均値が0.06ppmを超える地域にあつては、一時間値の一日平均値0.06ppmが達成されるよう努めるものとし、その達成期間は原則として七年以内とする。
二 一時間値の一日平均が0.04ppmから0.06ppmまでのゾーン内にある地域にあつては、原則として、このゾーン内において、現状程度の水準を維持し、又はこれを大きく上回ることとならないよう努めるものとする。
三 環境基準を維持し、又は達成するため、個別発生源に対する排出規制のほか、各種の施策を総合的かつ有効適切に講ずるものとする。