東京地方裁判所 昭和54年(ヨ)4105号 判決 1980年12月09日
債権者 東高ハウス株式会社
右代表者代表取締役 井谷助二郎
右代理人弁護士 福家辰夫
債務者 甲野花子
<ほか二名>
右三名代理人弁護士 町田健次
同 藤井正博
同 西川美数
同 吉田信孝
同 渡辺一雄
主文
一 債権者が本判決言渡の日から七日以内に債務者らのため全部で金一億円の保証を立てることを条件として、債務者らは債権者に対し別紙物件目録記載の物件を仮に明渡せ。
二 訴訟費用は債務者らの負担とする。
事実
第一当事者が求めた裁判
一 申請の趣旨
債務者らは債権者に対し別紙物件目録記載の土地、建物(以下「本件土地、建物」または「本件不動産」という。)を仮に明渡せ。
二 申請の趣旨に対する答弁
債権者の申請を却下する。
第二当事者の主張
一 申請の理由
(被保全権利)
1 甲野太郎は昭和二〇年頃本件不動産の所有権を売買によって取得した。
2 甲野太郎は昭和五三年九月二五日本件不動産を株式会社竹中不動産(以下「竹中不動産」という。)に売渡し、昭和五四年四月一八日所有権移転登記を経由した。竹中不動産は、本件不動産の取得を債権者から委任されていたので、自己の名をもってこれを取得し、同年九月二〇日債権者に対し民法六四六条二項により本件不動産の所有権を移転し、同年一〇月一六日所有権移転登記を経由した。その事情は次のとおりである。
(一) 甲野太郎の昭和五三年度の申告所得額は三五〇〇万円であり、同人は、別居中の妻である債務者甲野花子に対し毎月一〇〇万円送金しており、また本件建物の維持に要する諸費用、税金などのために合わせて年間約一八三〇万円もかかっていたので、その収支計算は苦しく、現金調達のためには本件不動産を処分するしかないと考え、公認会計士丁原春夫(以下「丁原会計士」という。)に相談し、本件不動産の売却を委任した。
(二) 本件土地の売買価額三・三平方メートル当たり二〇〇万円は昭和五三年当時の付近の土地の公示価額と比較して適正である。
(三) 甲野太郎は昭和五五年三月中旬に至るまで、日本特殊陶業株式会社(以下「日特」という。)相談役として、毎日のように出勤して執務していたのであり、正常な判断を有していた。本件不動産を処分するについては、甲野一郎が説得して止めようとしたが、売却の意思は極めて固いものであった。
(四) 竹中不動産は本件不動産取得に際し、債権者から譲渡の申入れを受けていたところ、甲野太郎は本件不動産の譲渡所得税について、租税特別措置法三一条の二に定める優良住宅地の譲渡の税控除の適用を得るために、本件土地上に建築する共同住宅の建築主となる債権者を前記売買契約の当事者としたいと申入れ、当初から本件土地を取得したときは債権者に譲渡する旨の依頼があった実体に即し、竹中不動産は民法六四六条二項による移転という方法をとって所有権移転登記した。
3 債務者甲野花子は甲野太郎の妻、他の債務者二名は甲野太郎の子であるところ、債務者らは本件不動産を占有している。
(保全の必要性)
4 債権者は所有権に基づき、債務者らに対し本件不動産の明渡請求権を有するところ、次のような理由により即時に明渡を求める必要がある。
(一) 債務者らは本件建物に居住していないし、神奈川県大磯町に敷地の広大な住居があり、本件建物には氏名住所不詳の男子一名にこれを看守させて、債権者の使用収益を妨害しているにすぎず、債務者らは本件土地、建物の占有を継続すべき何らの利益もない。
(二) 債権者は、本件土地上に共同住宅の建築を予定していたが、債務者らのために実現できず、本件土地買受代金額の利息金相当の損害を受けているほか、固定資産税、都市計画税など年額二四六万円余の出費を余儀なくされている。
二 申請の理由に対する認否
1 申請の理由1の事実は認める。
2 同2の事実は否認する。その事情は次のとおりである。
(一) 本件不動産は甲野家の東京における本拠地として債務者甲野花子が管理していた。
(二) 甲野太郎と同棲していた乙山ハルは、甲野太郎が高令で脳軟化症のため正常判断もできない状態にあるのを奇貨として、本件不動産を処分して現金化しようとした。
(三) 本件不動産の時価は合計一五億円以上である。
(四) 甲野太郎の昭和五三年度の所得申告額が三五〇〇万円であったほか、昭和五一年に日特から五億円、昭和五三年に東陶機器株式会社から三〇〇〇万円受取っていたので、経済的な破綻はなかった。
3 同3の事実は認める。
4 同4の保全の必要性があることは否認する。
(一) 債務者甲野花子は大磯の居宅と本件建物を交互に使用して居住していた。
(二) 甲野太郎は債務者らに対し、本件建物明渡の本案訴訟を提起し、当庁昭和五四年(ワ)第五四四五号として係属中であるから、更に断行の仮処分の必要はない。
(三) 債権者は、本件不動産を、甲野太郎と甲野一郎らとの間で権利関係につき紛争があることを知ったうえで買ったもので、いわゆる事件物であることを知っていたはずであるから早期解決を主張しえない。
三 抗弁
仮に、申請の理由2の事実が疎明されたとしても、甲野太郎はその前に次のとおり本件不動産の所有権を失なっており、債権者は対抗できない。
1 甲野太郎は、甲野一郎、甲野春子、債務者甲野花子の三名に対し、本件不動産を贈与した。即ち、甲野春子は、甲野太郎・債務者甲野花子の長女であり、甲野一郎は甲野春子の夫で、かつ甲野太郎・債務者甲野花子の養子で、甲野家の承継者とされており、しかも甲野太郎は乙山ハルと同居して、本件建物に居住していなかったこともあって、本件不動産を右三名に贈与した。
2 甲野一郎は昭和五一年ころ本件土地上にマンションを建築する計画を立て、株式会社竹中工務店(以下「竹中工務店」という。)に設計を請負わせた。この計画は資金の都合で中止になったが、竹中不動産は竹中工務店の子会社であるから、右のいきさつによって本件不動産は甲野太郎から甲野一郎らに贈与されて所有権が移転したことを知っていたはずで、債権者も当然知っていたはずであり、右のような事情があることを知りながら敢て本件不動産を取得したのであるから、債権者は背信的悪意者であり、甲野一郎から所有権移転登記をしていないことを主張できない。
3 債務者・甲野夏子、同丙川秋子は債務者甲野花子から昭和二〇年ころ本件建物の使用を許されて占有している。
四 抗弁事実に対する認否
1 抗弁1の事実は否認する。甲野一郎は甲野太郎が本件不動産を処分したいといったとき、これに反対したものの、自分が所有するとは主張していないし、甲野花子も甲野太郎に対する離婚等調停申立で自分の所有権を主張してはいない。
2 同2の事実は否認する。債権者は、本件不動産が甲野一郎らに贈与されたことを全く知らなかった。甲野一郎らのマンション計画が仮にあったとしても、所有者の親族が建設業者に相談することはよくあるし、竹中工務店の中の一部署が右のような計画にタッチしていても竹中工務店全体として知っていたわけではなく、竹中不動産及び債権者がこれを知っていたことはない。
五 再抗弁
甲野一郎は、甲野太郎の援助により、東京都港区南青山にマンション一戸を購入して、昭和五四年五月七日転居し、本件不動産を甲野太郎に明渡した。
六 再抗弁事実に対する認否
甲野一郎が本件不動産から退去したことは認める。
七 再々抗弁
甲野一郎が右退去したのは、甲野太郎の代理人丁原会計士が、退去しなければ、甲野太郎と甲野一郎の養子縁組を解消し、また甲野一郎の甲野商事株式会社の代表取締役たる地位を株主総会で追放すると強迫してさせたのであるから、強迫による意思表示として取り消されるべきである。
第三疎明《省略》
理由
一 申請の理由1及び3の各事実は当事者間に争いがない。
二 申請の理由2の譲渡の成否について検討する。
1 《証拠省略》によれば、次のような事実が疎明される。
甲野太郎(昭和五五年三月二三日死亡)は昭和五三年四月ころ、当時の家庭経済が破綻の状況にあったので、丁原会計士に相談を持ちかけて、本件不動産を売却したいとの意向を示したところ、丁原会計士は税制上不利になるため反対したものの、甲野太郎の売却の意思は固く、また税制の改正が見込まれたこともあって売却の方針を決定し、丁原会計士は初めは竹中工務店、後に竹中不動産を相手に交渉し、不動産鑑定士の意見を参考にして、三・三平方メートル当たり二〇〇万円で竹中不動産との間で合意し、後に竹中不動産は債権者の委任によって買取り交渉していたことが判明し、更に、現実に本件土地上に建物を建てる施主は債権者であるので、租税特別措置法の優良宅地に関する規定の適用を考慮し、甲野太郎(代理人・丁原会計士)と竹中不動産との間の契約書を一旦作成した後、改めて、甲野太郎(代理人・丁原会計士)と債権者(代理・竹中不動産)との間の契約書を作成した。
2 《証拠省略》によれば、甲野太郎の長女甲野春子(昭和五二年八月二五日死亡)の夫で、甲野太郎の養子でもあった甲野一郎は、本件不動産が甲野家にとって重要な財産であることを理由に反対したものの、甲野太郎は自分から出向いて直接甲野一郎に面会し、本件不動産の処分の意思を伝えて了解を求めていたものであることが疎明され、乙山ハルがこれに関与し、または代行したことを示す資料はなく、本件売買が甲野太郎の意思によるものであったことは疑う余地がない。
3 《証拠省略》を総合すると、甲野太郎は昭和五三年当時高令のため、視力、聴力が低下し、記憶力、思考力も減退し、脳軟化の傾向にあって、他人の意見をよく聞こうとしない老人特有の頑固な状況にあったが、日特の東京営業所に毎日のように出社するなど社会的な活動を継続していたのであり、正常な判断力を失なっていたものではないことが疎明される。
4 本件売買価額は、前記のとおり、不動産鑑定士の意見を参考にして、甲野太郎側と竹中不動産との交渉で決まったのであるから一応合理性を有していたと考えられる。
《証拠省略》によれば、三井不動産株式会社は昭和五五年六月二三日本件不動産を総額一五億円で買取る用意があることを表明したことが疎明される。
不動産の売買には一応の時価があるものの、なお、売主と買主との関係で若干の相違が生じるし、また、近年東京都内のマンション用地は不足気味で、マンション業者が熱心に土地を求めていることは当裁判所に顕著である。右の一五億円という評価は現実の売買価額一〇億円余と比較してかなり高く、一流の不動産業者の評価であるだけに採算を無視したものとは考えられず、時期の違いを考慮に入れるとしてもなお、甲野太郎にとってより高く売却できる可能性があったことは否定できず、本件売買が売主の希望によって始まったとはいえ、価額においてかなり不利なものであったと考えられる。
しかし、右事情によっても売買契約そのものの成否に疑問を生じるとはいえない。
三 《証拠省略》によれば、次のような事実が疎明される。
1 甲野一郎は海軍大将甲原冬夫の長男に生まれ、前記のとおり甲野春子と結婚した後、甲野太郎に特に望まれて、それまで勤めていた乙野商事株式会社を退社したうえ、甲野商事株式会社(以下「甲野商事」という。)に入社し、更に甲野太郎夫婦の養子になって甲野姓になった。甲野太郎夫婦の子は女子三人であったが、甲野太郎と乙山ハルとの間には非嫡出の男子があり、そのことを承知のうえで右のような扱いをしたので、甲野一郎は甲野家の正統な承継者としての待遇を受けるべきものと考えられた。
2 甲野一郎、春子夫婦は結婚以来約三〇年間本件建物に住み、建物を維持する費用などは甲野家の会計係(財源は甲野太郎の収入と推定される。)から支払われ、甲野太郎は仕事の都合で名古屋などに住み、また東京では乙山ハルと同居していたためもあって本件建物には住んだことがなかった。
3 甲野一郎は、本件建物に住むようになってから、しばしば甲野太郎から本件不動産を与えるから自由に使ってよいといわれていた。
4 甲野太郎は、かつて遺言書を作成したことがあり、その中には本件不動産を甲野一郎、春子に与えると記載した。
5 甲野一郎は、自分または債務者甲野花子の名で本件建物の全部または一部を何度か他人に賃貸していた。
6 甲野一郎は、甲野太郎に対し、本件建物の所有権移転登記を申入れたが、甲野太郎は不公平になるからとの理由で拒否した。
7 甲野一郎は、前記のとおり本件不動産の売却に反対したが、その時にも自分に贈与されたものであるとは主張してはいない。
8 債務者甲野花子は、甲野太郎から本件建物の管理をまかされたけれども、所有権が自分に帰属するとは考えていないと供述した。
以上の事実によって、本件不動産をめぐる甲野太郎と甲野一郎らの権利関係を考えてみる。右の6及び7の点から、甲野太郎、甲野一郎のいずれも本件不動産の所有権が甲野一郎に帰属していたとは認識していないから、確定的に贈与がなされたとは考えられない。しかし、他の諸点及び前記のとおり甲野太郎は本件売買に先立ってわざわざ甲野一郎の了解を求めようとしたことから、単に相続分を定めたにすぎないものとはいえない。結局、甲野太郎は、甲野一郎を甲野家の正統な承継者と認め、事情に大きな変動のない限り、本件不動産を将来甲野一郎及び甲野春子に贈与することを内容とする条件付贈与の予約をしたとみるのが相当である。
四 《証拠省略》によれば、甲野太郎は丁原会計士を代理人として、甲野一郎に対し、本件建物の明渡を求め、交渉の結果、甲野一郎が折れる形で、昭和五四年四月三〇日限りで明渡すことになり、この明渡費用と新しい住居の購入費用として、甲野太郎が甲野一郎に対し一億二五〇〇万円支払うことになり、同人は一億一〇〇〇万円で東京都港区南青山にマンションを購入し、同年五月七日本件建物を明渡して新しい住居へ転居した。(退去の点は当事者間に争いがない。)なお、右の支払約束のうち九七五〇万円は既に支払われた。
五 《証拠省略》によれば、甲野太郎は、本件建物の明渡要求に際し、甲野一郎に対して、丁原会計士を通じ、任意に明渡さないときは、甲野太郎と甲野一郎の間の養子縁組を解消し、また甲野太郎が甲野商事の株主である地位を使って、株主総会で影響力を及ぼすとの趣旨の意思を伝えたこと、甲野一郎は、甲野商事の実権は自分にあるものの、その経営が従来一〇〇パーセントの賛成でなされていた慣行を乱すことを恐れ、やむをえず、甲野太郎の明渡要求を承諾したものであることが疎明され(る。)《証拠判断省略》 また、《証拠省略》の文言では、甲野一郎が平穏に明渡すような表現になっているが、《証拠省略》によれば、右書面は丁原会計士が一方的に作成したもので、甲野一郎の内心の意思とはかけ離れていたことが疎明される。
右の養子縁組の解消と株主権の行使は事の性質上から容易に実現できるとは考えられないが、甲野一郎に対する少なからぬ圧迫であったと推測され、同人は極めて困難な立場に置かれたというべきである。
右の状況にあって甲野一郎があくまで反対すれば、甲野太郎の不動産売却を阻止する可能性はわずかに残っていたし、阻止できる立場にあったのは甲野一郎だけであったと思われる。しかし、甲野一郎が、甲野家の正統な承継者とされながら、養子であったこと、甲野太郎の実子である春子が死亡したこと、甲野太郎と債務者甲野花子との別居生活、乙山ハル及びその子らの存在などの状況の中にあって、甲野一郎の立場は微妙なものであったと思われる。売却にあくまで反対すれば、甲野商事の経営に対する影響もさることながら、甲野太郎との間で深刻な対立状態になることは当然であり、これを回避すべく、明渡を承諾せざるをえなかったと推測される。本件不動産を維持することが絶対必要であるとの価値観に立てば別であろうが、甲野商事の健全な経営、親族間の平和も重要であり、甲野一郎の右判断はやむをえないし、甲野太郎の明渡要求における態度には強迫に類する面が窺われないわけではないが、甲野一郎のように、社会的にも親族内でも重みのある地位の人間が、右のような状況の下でなした判断は一応尊重すべきであり、取消すべき筋合のものではない。(当然ながら、取消権者は甲野一郎であり、同人は取消す意思を表示していない。)
六 以上の事実関係に基づいて考えてみる。甲野太郎が甲野一郎及び甲野春子に対し、本件不動産を条件付贈与の予約したことによって、本件不動産の所有権が移転したとはいえないが、何らの法的拘束力もないわけではなく、甲野太郎にとっても自由に本件不動産を処分することはできない結果になっていたと考えられる。(仮に、甲野太郎が勝手に処分すれば、甲野一郎らは期待利益の侵害として責任を追及することも考えられないわけではない。)ところが、本件売買に際し、甲野一郎に対し、一億二五〇〇万円を支払う約束をして、本件建物の明渡を受けたことにより、右の条件付贈与の予約は、将来に向かって実現しないものであることが両者の間で了解されたというべきである。右明渡は形式的には占有に関することにすぎないが、右のような両者の浮動的な権利関係を解決する意味を持っていたと解するのが相当である。なお、当初甲野春子も当事者の一人であったが、後に死亡したことにより、右のような期待利益は当然には相続の対象とはならず、結局、甲野太郎と甲野一郎との間で、春子に関する部分も含めて解決されたとみなすべきである。甲野一郎の明渡の意思表示が取消すべきものでないことは前記のとおりである。
従って、甲野太郎は本件不動産の所有権者として処分しうる地位にあったというべきであり、対抗問題について判断するまでもなく、債務者らの抗弁は失当である。
七 債権者は、本件不動産の所有権者として、これを占有している債務者らに対し明渡請求権がある。そこで、本案判決に先立って明渡を求める必要があるかについて検討する。
1 不動産の明渡請求は、継続する権利関係ではないが、争いある権利関係として、必要な場合には仮処分を求めうるが、被保全権利についての疎明が十分で、必要性も高い場合に限られると解するのが相当である。
2 被保全権利のうち、売買契約の成否については、処分文書の存在によって明らかであり、売主甲野太郎の意思によることも疑いの余地がなく、債務者らの主張はいずれも間接的な事情にすぎず、前記の認定及び判断を左右するには至らない。次に所有権喪失の抗弁については、事実関係は債務者らの主張にある程度そっている疎明資料はあるものの、法的判断のレベルでは結論に影響を及ぼすにはほど遠いというべきであり、従って、被保全権利の疎明は十分である。
3 債権者が本件不動産の所有権を取得しながら、占有を妨げられていることにより、取得価額の利息相当額及び租税負担分の損害を受けていることは疎明を待つまでもなく明らかであるが、これは不動産明渡事件に必ず生じることで、金銭賠償で解決すべき問題であり、これのみでは仮処分の必要性の理由にはならない。ただし、近年の都会の住宅事情により、土地の有効な利用を求める社会的要求があることは否定できない。
4 《証拠省略》によれば、債務者甲野花子は、甲野一郎、甲野春子が結婚して本件建物に住むようになった後、時々本件建物を使用したが、それは主として甲野春子を助けて本件建物の管理などをするためで、生活の本拠地は大磯にあったこと、本件不動産を維持したいのは、甲野家の東京における本拠地で、子孫に伝えなければならないと考えているためであること、甲野太郎を相手に離婚等調停を申立てたが、離婚が目的ではなく、乙山ハル及びその子らとの間で財産上の争いがあり、財産保全(本件不動産を含む。)の必要があったためであったこと、大磯の居宅は債務者甲野花子が相続するはずであること、以上の事実が疎明される。
右事実によれば、債務者甲野花子が生活のために本件建物を使用する必要はないことは明らかである。次に、甲野家の本拠地を維持したいとの点については、心情として理解できないわけではないが、現実問題としては疑問である。もし、真に本件不動産の所有権回復を望むのであれば、処分禁止の仮処分を申請し、更に本案を提起すべきであり(認容されるか否かは別として)、それらを怠って、占有だけ続けるのは納得できない。調停を申立てたとはいっても、甲野太郎の死亡後では右調停は何の意味もない。右のような状況でなお占有を続けていることは、乙山ハルらとの間の財産上の紛争を有利に導こうとするためではないかとの疑いがないわけではない。
5 甲野太郎が、本件売買に際し、租税特別措置法の優良宅地の税控除の規定の適用を受けるために、契約書を再度作成して、債権者を買主とする形式をとったことは前記のとおりである。
甲野太郎は、本件売買による所得の申告に際して、右規定の適用を受けたと推認される。
租税特別措置法三一条の二によれば、優良住宅地等のための譲渡に該当して、譲渡のあった日から二年を経過する日の属する年の一二月三一日までに要件を備えた住宅を建築する場合には税額の軽減が認められ、もし右期間内に建築できないと修正申告しなければならないことになる。従って本案訴訟のため明渡が長びいて、債権者が右期間内に建築できないと、甲野太郎の相続人である債務者らは修正申告しなければならない。本案訴訟で債権者が勝訴するものであれば、早期に明渡した方がむしろ債務者らにとっても利益になる。
6 本案訴訟(当庁昭和五四年(ワ)第五四四五号)は、債権者が提起したものではなく、また甲野太郎の死亡により訴訟承継の問題がどうなるか明らかではなく、右事件の係属によって、仮処分の必要性が減少するとはいえない。
7 債権者が、本件不動産を事件物であると知っていたとの点については、これを疎明するに足りる資料はない。
以上のとおり、被保全権利の疎明は十分で、本案訴訟での債権者勝訴の見込は高く、仮処分の必要性については、不動産の明渡事件は一般的に仮処分で解決すべきではないが、本件においては債務者らに占有すべき法律上の利益はなく、租税特別措置法の適用上ではむしろ早期明渡の利益があることに加えて、本件土地の有効利用の社会的要請や、利用が遅れることによる債権者の負担も無視することはできず、結局、民事訴訟法七六〇条但書の「その他の理由により必要な」場合に該当すると判断するのが相当である。
八 以上の次第で、債権者の本件仮処分申請は理由があるから、当裁判所が相当と認める一億円の保証を本判決言渡の日から七日以内に立てることを条件に認容することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九三条を適用して主文のとおり判決する。
(裁判官 佐藤道雄)
<以下省略>