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東京地方裁判所 昭和55年(ワ)6446号 判決 1989年8月28日

主文

原告らの請求をいずれも棄却する。

訴訟費用は原告らの負担とする。

理由

【事 実】

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は、原告甲野花子に対し、二一二三万三六五四円及びこれに対する昭和五三年七月二四日から支払済みまで年五分の割合による金員の、原告甲野春子及び同甲野一郎に対し、それぞれ一八五三万三六五四円及びこれに対する同日から支払済みまで右割合による金員の各支払をせよ。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行の宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

主文と同旨

第二  当事者の主張

一  請求の原因

1  当事者

(一) 原告甲野花子(以下「原告花子」という。)は、亡甲野太郎(以下「太郎」という。)の妻であり、原告甲野春子(以下「原告春子」という。)は太郎の長女、原告甲野一郎(以下「原告一郎」という。)は太郎の長男である。

(二) 被告は、東京都目黒区東ヶ丘二丁目五番一号に国立東京第二病院(以下「被告病院」という。)を設置し、その管理・運営に当たるとともに、太郎の主治医であつた中山仁(以下「中山」という。)を雇用していたものである。

2  事故の発生

(一) 太郎は、昭和五三年六月ごろから、呼吸困難を主な内容とする顕著な体調の不良を訴えるようになり、同年七月一四日には、転げ回るほど息が苦しくなり、息ができないと胸をかきむしる状態となつたため、救急車で救急指定病院である目黒城南病院に運ばれたこともあつた。

(二) そこで、太郎は、同月一九日、被告病院循環器科で診察を受けたところ、心臓左室肥大、高度の心筋虚血(冠動脈硬化)があり、心不全の疑いがあるので是非早急に入院するように勧められ、同月二一日午前一一時過ぎごろ、被告病院に入院した。

(三) 太郎は、翌二二日午後〇時半まで入院していたが、その間の症状は、動き(悸)息苦しさ、起座呼吸、胸の息苦しさ、呼吸困難、脱力感著明、チェーンストークス様呼吸チアノーゼ等であり、一時は点滴、酸素吸入すら受けていた。

(四) そして、中山は、太郎の入院中、各種診療、心電図検査、動脈血分析検査等を行つた。ところが、中山は、太郎が心筋痛により胸をかきむしり、奇妙な行動をし、不穏状態になつたことを精神病に由来するものと誤信し、被告病院精神科に診察を依頼した。

(五) 精神科担当医里和宏(以下「里和」という。)は、同月二一日午後四時三〇分ごろ、太郎を診察し、同日午後六時以降には心臓疾患には禁忌であるデクレトール、レキソタンを大量に投与した。

(六) 中山は、同日午後七時ごろ、太郎の家族に対し、検査の結果太郎にはどこにも異常がないので、明日太郎を退院させるように指示した。

(七) 中山は、翌二二日午前一〇時ごろ、原告花子に対し、太郎を同日午前中に退院させるように指示し、同日午後〇時三〇分ごろ、病室に来て、太郎の家族に対し、午後から用事があつて出掛けるから早く病室から出てもらわないと困る旨伝え、眠つている太郎を起こした。太郎が目も良く見えず脱力感及び体力の減退のため一人でベッドの上に起きることもできない状態であつたので、太郎の家族が繰り返しせめてもう一日だけでも置いてくれと願つたが、中山は、その願いを無視して太郎を抱えて壁際に寄り掛からせるように立たせ、原告花子に指示して着替えさせて車いすに乗せ、玄関まで連れて行き、自動車に乗せて帰宅させた。

(八) 中山は、太郎の退院時、精神的に異常な点がある。家族会議を開いてその関係の病院に入れたほうが良い。身体がフラフラしているのは食べないためだから、食事を取ればどこもなんともない旨説明し、心臓疾患に悪影響を及ぼすおそれのあるホリゾンないしセルシンを家で飲むようにと持参させた。

(九) 太郎は、帰宅した後も心臓の苦しみが全く快方に向かわず、退院した日の翌日である同月二三日午後五時一五分ごろ、トイレの前に寄り掛かつたまま動かなくなり、原告花子が太郎の肩に手をかけるとガクッと前に倒れてしまつた。原告花子が直ちに一一九番に電話をして救急隊員を呼び、太郎に人工呼吸、心臓への直接の注射がなされたが、そのかいもなく、太郎は、同日午後五時四八分、死亡した。死因は、心筋梗塞であつた。

3  被告の責任

(一)(1) 太郎は、昭和五三年七月一九日、被告病院と、被告病院が太郎の心臓病を診断し、治療する事務処理を目的とする準委任契約を締結した。したがつて、被告は、雇傭関係にある担当医師をして右債務を誠実に履行させるべき契約上の義務があつた。

(2) 仮に太郎の救命又は延命が不可能であつたとしても、被告は、太郎の救命又は延命に対する太郎や原告らの期待権を侵害したと言うべきである。すなわち、医療の依頼を受けた医師、医療機関は、医療契約上の義務として、当然のことながら可能な限り適切な検査を施して確定診断を行い、また、その結果に基づいて現代の医療水準上可能な治療を施し、患者の延命・救命を行うべき義務を負つている。特に本件のごとく確定診断に至るには一定期間の継続的な検査を必要とし、また、不十分な検査や診断が直ちに死につながりかねない心臓疾患などの重大な病気の場合には、医師には患者に対して考えられる最良の検査、治療を尽くすべき義務が存すると言うべきである。また、本件のごとく患者に心理的な不安が伴い、それが治療に一定の障害となるような場合には、医師は、その実情を患者やその家族に十分に説明し、医師と協力して医事行為が行われ得るように最大限の努力をし、患者やその家族において他の専門医への転院を希望しあるいは医師において他の専門医への転院を必要であると考えるのであればその旨を十分に説明してその機会を与えるなど、医師には患者やその家族にとつて心残りのない医療が受けられるように万全を期すべき義務が存する。特に本件のごとく十分な設備とスタッフを有し、国民のために十全な医療を本来的に期待されている国立病院の場合には、右の要請は他の一般の個人病院と比較してより一層高度・高質なものとなると言える。こうして、中山ら被告病院の医師の行為は、「諸検査を十分に行つた上で家族や本人の希望を聞き入れて治療や経過観察のため入院を継続していれば救命可能であつたのではないか。」という太郎や原告らの被告病院に対する期待権を大きく侵害したものであると言わざるを得ない。

(二)ア 患者の生命及び健康を管理すべき業務(医療)に従事する医師は、その業務の性格に照らし、患者の症状を的確に診断し、その診断に基づいて患者を治療し、患者の健康を回復さしめるために実践上必要とされる最善の注意義務を尽くすべき責務がある。とりわけ、被告病院は国立総合病院として国民の生命、健康の維持増進のために最良の施設・人員を有しているのであるから、その注意義務の程度も通常の個人病院と比較してより高度なものが要求されることは当然のことである。

イ 心筋梗塞は、必ずしもある時期を画して突然発病するものではなく、数日ないし数週間の前駆的症状を経てから強い胸痛により始まるものが少なくない。前駆的症状としては狭心症と同様に胸痛、前胸部圧迫感があり、また、疲労感、げんうん(眩暈)、筋力低下、息切れ、消化不良等を訴えることもある。太郎の入院前の症状、入院中の症状、心電図、胸部X線写真その他の検査結果からみれば、太郎においては明らかに右の前駆的症状を呈していたのであるから、主治医の中山は、右の症状を的確に診断すべき注意義務を有していた。

ウ また、心筋梗塞は一つ誤れば死に直結する重大な結果を生む病気であり、早期診断、早期治療が最も重要とされるものである以上、太郎が右の前駆的症状を呈しているのであるから、中山は、<1>心電図による心臓の監視、<2>血清の心筋逸脱酵素活性の検査、<3>循環動態の検査(心拍出量、体血圧、肺動脈圧、中心静脈圧等)、<4>その他の補充検査(白血球数、血沈、C反応性たん(蛋)白、必要に応じて心血管造影等)を継続的に行い、またCCU(心臓集中監視装置)を用いた二四時間観察をし、心筋梗塞の発作の予防あるいは心筋梗塞の発作が発生した場合に発作の繰り返し等による心筋梗塞の拡大、不整脈、心不全、ショック等の生じないよう厳重に太郎の症状経過を監視し、時期を失せず的確な処置を実行すべき義務を有していた。

エ ところが、被告病院の担当医師は、右義務を怠り、太郎に初診時の血沈、初診時と入院時の二回の心電図検査、一回の動脈血の分析、一度の問診、触診をしたのみで、症状経過の監視を行おうとしないどころか、太郎ないし原告らに対し、太郎には何らの異常がない旨告げて被告病院から半ば強制的に退院させた。

4  損害

(一) 逸失利益 二六三〇万〇九六六円

太郎は、日本大学を卒業し、死亡当時、五九歳の男子で、無職であつた。昭和五四年八月二〇日発行の賃金センサス第一巻第一表により昭和五三年度の大卒男子五九歳の年間平均賃金を求めると、五七〇万二七〇〇円である。太郎が本件医療過誤により死亡しなければ、六七歳まで八年間就労が可能であつた。太郎は世帯主であつたから、その生活費は、収入の三〇パーセントとするのが相当である。太郎の逸失利益を新ホフマン方式によつて法定利率で中間利息を控除し、死亡時の一時払額に換算すると、二六三〇万〇九六六円になる。

5、702、700×(1-0.3)×6.5886=26、300、966

(二) 慰謝料 総額二六〇〇万円

太郎は被告病院に全幅の信頼を置いて入院し、診断、治療を受けようとしたのであるが、中山は、太郎が心臓の苦しみにあえいでいる様子を精神病と誤信し、原告らに対してその旨説明した上、半ば強制的に退院させた。太郎は、翌日、胸をかきむしりながら死亡した。そして、太郎と原告らは、被告病院の過ちにより、今後の父親を中心とした家族生活のすべてを奪われた。また、被告病院は、原告らとの交渉においても、誠実な対応を全くしなかつた。

太郎の精神的苦痛を慰謝する額としては一五〇〇万円を、原告花子の固有の精神的苦痛を慰謝する額としては五〇〇万円を、原告春子及び同一郎の固有の精神的苦痛を慰謝する額としては各三〇〇万円をそれぞれ下らない。

(三) 葬祭費 七〇万円

原告花子は、太郎の死亡に伴い、七〇万円の葬祭費を支出した。

(四) 原告らの相続

原告らは、太郎の前記逸失利益及び慰謝料各請求権を法定相続分に従い三分の一ずつ相続した。

(五) 弁護士費用 総額五三〇万円

原告らは、本件訴訟の提起と追行を原告ら訴訟代理人に委任した。その費用は、全損害五三〇〇万〇九六六円の約一〇パーセントに相当する五三〇万円であり、原告らは、その三分の一ずつを負担するものである(小数点以下切捨て)。

よつて、被告に対し、債務不履行又は不法行為に基づく損害賠償として、原告花子は二一二三万三六五四円及びこれに対する不法行為の後の日である昭和五三年七月二四日から支払済みまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の、原告春子及び同一郎はそれぞれ一八五三万三六五四円及びこれに対する同日から支払済みまで右割合による遅延損害金の各支払を求める。

二  請求の原因に対する認否

1  請求の原因1の事実はすべて認める。

2(一)  請求の原因2の(一)の事実は知らない。

(二)  請求の原因2の(二)のうち、心筋虚血が高度であつたことは否認し、その余の事実は認める。

(三)  同2の(三)の事実は認める。なお、酸素吸入及び点滴を施行した理由は、後記被告の主張のとおりである。

(四)  同2の(四)のうち、中山が太郎の入院中、各種診療、心電図検査、動脈血分析検査等を行つたこと、被告病院精神科に診察を依頼したことは認めるが、その余の事実は否認する。

(五)  同2の(五)の事実は認める。ただし、デクレトール、レキソタンの投与は、特別に大量というわけではない。

(六)  同2の(六)のうち、中山が太郎の家族に対して太郎の症状の説明(ただし、その内容を除く。)をしたことは認めるが、その余の事実は否認する。

(七)  同2の(七)のうち、太郎が着替えをし、玄関まで車いすで行き、自動車で帰宅したことは認めるが、その余の事実は否認する。

(八)  同2の(八)のうち、中山が説明(ただし、内容を除く。)をし、セルシンを家で飲むようにと持参させたことは認めるが、その余の事実は否認する。

(九)  請求の原因2の(九)のうち、太郎の死因が心筋梗塞であつたことは認めるが、その余の事実は知らない。

3(一)(1) 請求の原因3の(一)の(1)のうち、太郎が被告病院と診療契約を締結したこと、被告が中山を雇傭していたことは認めるが、その余は争う。

仮に被告病院に債務不履行があつたとしても、太郎は、心筋梗塞により瞬間死したか、梗塞発生後一~二時間以内に起こつたショックで死亡したものであり、救命又は延命の可能性はなかつたのであるから、被告病院の債務不履行と太郎の死亡との間には因果関係がない。

(2) 同3の(一)の(2)は争う。原告らの「期待権の侵害」の主張が医療水準のいかんにかかわらず真しかつ誠実な医療を尽くすべき義務を求めているとすれば、医師がち密、真しかつ誠実に診療当時のいわゆる臨床医学の実践における医療水準によつた診療をしたとしても、それのみしか施さなかつたとすれば、いちじるしくずさん、不誠実であるとして注意義務違反だとされる危険にさらされ、医師の行動基準は不めいりようかつあいまいなものとなり、ひいては「ち密、真し、誠実」の名の下に医師の過失を無制限に拡大し、医師の無過失責任を認めることになりかねない。その不当性は明らかである。さらに「誠実な医療行為に対する期待権」の内容は、医師の診療債務それ自体であり、被侵害利益としてとらえることはできないと考えられる上、極めて主観的なものであつて、客観性を要求される法律によつて保護されるべき独立の利益に当たらないと言うべきである。

(二)ア 同3の(二)のアのうち、第一文の主張はあえて争わないが、その余は争う。原告ら主張の注意義務の基準となるべきものは、診療当時のいわゆる臨床医学の実践における医学水準である。そして、国立総合病院における日常の医療といえども、わが国の一般的医療水準を超える特別の水準を要求されるべきものではない。

イ 同3の(二)のイないしエの各事実及び主張は争う。その理由は、後記被告の主張で詳述するとおりである。

ウ 仮に中山に過失があつたとしても、前記のとおり太郎の救命又は延命の可能性はなかつたのであるから、中山の過失と太郎の死亡との間には因果関係がない。

4  請求の原因4の事実及び主張はすべて争う。

三  被告の主張(請求の原因中の事実を否認し主張を争つた理由ないし抗弁)

1  太郎の受診と症状

(一) 太郎は、昭和五三年七月一九日、被告病院呼吸器科に外来で受診したが、太郎の主訴は、呼吸困難であつた。すなわち、担当医猿田栄助(以下「猿田」という。)は、太郎から予診を取ろうと思つて繰り返し聞いたが、一向に要領がつかめなかつたものの、太郎が「家で最近犬を飼い出したので、その毛を吸い込んだために呼吸困難が起こつた」ということを言つているように理解した。そして、太郎は、空き缶にたんを吐き、「こんなに黄色いたんが出る。」などと言つていた。猿田は、犬の毛によるぜん(喘)息もあるかもしれないと考え、太郎の胸部X線写真を撮影しようとしたところ、太郎は、レントゲン撮影室に行くにもウロウロ歩き回つたり、ふらついたりしており、看護婦が付き添つてやつと撮影が終る始末であつた。猿田は、太郎の胸部X線写真で心肥大を認めたので、太郎の心電図の検査も行つた。猿田は、太郎の血圧が正常であり、打聴診上でも特に著明な異常が認められなかつたので、太郎が精神病であるのか、身体的病気があるのか迷つた。しかし、猿田は、太郎の心電図所見では冠動脈硬化、虚血性変化があつたので、太郎の診断を被告病院循環器科に依頼した。

(二) 同科担当医石川真一郎(以下「石川」という。)は、太郎を診察し、太郎に対し「心臓が大きいし心電図に変化があるので、入院して調べた方が良い。」と説明したところ、太郎は、「俺はボクシングをやつていたので、以前からスポーツマン心臓であり、大きいのはそのためだ。入院はしたくない。」と言つていた。石川が診察した際には、太郎にチアノーゼや意識もうろうなどの所見はなく、浮しゆ(腫)その他の心不全症状はなかつた。しかし、石川は、太郎に対し、心不全が起こつているかもしれないから是非入院するように勧め、同月二一日に被告病院に入院することを納得してもらつた。そして、石川は、太郎に対し、利尿剤ラシックス一錠とスローKを渡して帰した。

(三) 太郎は、同月二一日午前一〇時ごろ、原告一郎に付き添われて車いすで被告病院循環器科に入院した。病棟婦長西宮某(以下「西宮」という。)が太郎を見たところ、呼吸困難、チアノーゼ、浮しゆなどはみられなかつたが、顔色は極めて不良であつた。太郎は、身長、体重の計測の際には、介助なしに車いすから降りて起立している。太郎は、外来で渡された薬を飲んでいないとのことであつた。看護婦が病歴採取を試みたが、太郎との会話がなかなか成立せず、困難をきわめた。

(四) 中山が同日正午ごろ太郎の病室に入ると、太郎は、ベットの上にあぐらを組んでおり、中山が自分が受持であることを告げると、「息が苦しくてたまらん。何とかしてくれ。」と訴え、「大体、病院がこんな患者をほつたらかしにしておいて……」と苦情を言つた。中山は、他の患者のことで手が離せなかつたので遅くなつたと話し、診察させてくれるように頼み、病歴を取ろうとしたところ、太郎は、「そんなことを言つて何になる。俺はボクサーだから気にくわないとぶん殴るぞ。」などと脅かし、中山が診療しようとするとそれを拒否するので、中山は、対策を検討するために、一時病棟記録室に引き上げざるを得なかつた。

中山が再度診療に行くと太郎がたまたま上半身裸でいたので、中山は、太郎が手を振り回したりして反抗する間をぬつて素早く打聴診、触診を行つた。中山は、それらの所見から、太郎に心肥大はあるがそれに付属したうつ血性心不全とか、肺機能不全、じん(腎)不全などは存在しないと推定し、診察の際の反抗の状況よりみて筋力が強くまた大声でどなつたりするが胸痛らしい訴えのないことから、心筋梗塞等の重症病変はまずないものと考えた。

中山は、その後、再び太郎の問診を行つた。太郎の述べることはすぐ脱線しがちであり、まとめるのに難渋したが、大体次のようなものであつた。「五月中旬から家で犬を飼い始めて、それと同時にせきが出たり、たんがからむ感じがあり、直感的に血圧が上がつたと感じた。」「こんな具合に次第に息が苦しくなり、半月後には息が止まりそうな気がしたので、救急車で目黒城南病院に行つた。ところが治療をしてもらえず、気にくわないのでその病院はやめてしまつた。その後は何の治療も受けておらず、夜も眠れず、食欲もない。何とかしてくれ。」

(五) 太郎は、同日午後一時ごろから、六人床の病室内を歩き回り、同室の隣の患者のベットを占領し、更に反対側のベットの患者を脅して病室から追い出し、床に転つたりした。そのため、同室の五人の患者は、「気違いが入つてきた。何をされるか分からない。と言い、かなり重症の患者も含めて全員が病棟廊下に出て避難する有様であつた。

太郎は、同室の他の患者が病室を出ると、病室の床に両手を後頭部に組んで寝転んだ。同日午後一時四五分に看護婦から知らせを受けた中山が病室に行きベットに寝るように言つたが、太郎は、言うことを聞かず、看護婦が起こそうとするとその手を払いのけて抵抗した。太郎がどうしても説得に応じないため、中山は、外来担当医と看護婦一名の助けを借りて上腕から動脈血を採取した上、同日午後二時、太郎に対し、鎮静剤ホリゾン一〇ミリグラムを注射した。中山は、太郎の家族を呼んで家族から太郎に対して治療についての協力を説得させた方が良いと判断し、看護婦に太郎の妻にその旨の連絡をするように指示した後、採血を分析するため検査室に行つたが、太郎は、その間に急に起き上がつて廊下を歩きその末端部にある非常口を開けようとしたり、廊下をはいかいしたりした。入院患者の多くは、太郎が近付くとなるべく太郎を避けようとして動き回る状態であつた。

中山は、太郎のそのような状態から精神科的な診察の必要を感じて被告病院精神科担当医の往診を依頼したが、同科担当医は、二時間後でなければ行けないという返事であつた。

看護婦からの連絡により、原告一郎が来院した。中山が原告一郎に対して太郎の病気の経過、家庭における状況を尋ねたところ、原告一郎は、冷静な態度で、次のように述べた。「父は、非常に神経質で短気な性格であつたが、最近はそれがひどくなり、普通でない感じだつた。父は病気を犬のせいだと盛んに言つているが、犬の世話は主に自分と母がやつており、自分たちの身体は何ともないので、父が犬の毛を吸い込んだから病気になつたと言うのはおかしいと思う。父が苦しいと盛んに言うのに対して私がオーバーだと言うと、父は、カンカンになつて怒る。私は、病気で弱つている人はあんな物すごい怒り方はできないのではないかと思う。父は、数日前にも苦しいと言つて救急車で目黒城南病院に行つたら、医者の前に出た途端にいきなり怒鳴り出し、診察も受けないで帰つて来てしまつた。医者が特に父を怒らせるようなことを言つたり、したりしたことはない。父が身体のあちこちが悪いと言うようになつたのは、仕事がうまく行かなくなつてからのように思われる。」

(六) 精神科担当医里和は、同日午後四時三〇分、太郎を診察するために来棟した。里和は、原告一郎から、次のようなことを聞き出した。「父は、ささいなことで腹を立てる。自分の湯呑み茶腕が汚れていたり、洋服にアイロンがかかつていないなどのことで母に対してしばしば乱暴を働く。父は、会社員をしていたが、一つ所に長続きせず、同僚とけんかしては職場を飛び出すということを繰り返していた。親せき、友人ともけんかをして疎遠になつている。この一年来定職もなく、昼間はパチンコとか競馬に入りびたつていた。母も財産があれば離婚したいと常々家人に話していた。父は、一か月前から不眠、食欲不振になり、不機嫌で、母に対して当たり散らしていた。」

里和は、原告一郎から得た知見と太郎の症状から、太郎を精神病に罹患しているとはいえないが極度に自己本位、わがままな性格の持主であり、一種の性格異常者とすべきであると診断した。

その場に居合わせた石川は、里和に対し、太郎の精神科への転科を申し入れた。しかし里和は、太郎を明らかな精神病者とはいえないから入院させるわけにいかない、また、精神科病棟は現在満床で一時的な収容もできない、太郎が外来であつたら、精神科でも診ることができると言つて石川の右申入れを断わり、太郎の現在の症状は入院したための拘束神経症等も加わつている可能性もあり、心臓の状態も家庭に帰した方が落ち着くだろうと太郎を帰宅させる方が良いことを示唆した。そして、里和は、太郎が現在のままだと診察に困ると思うので投薬すると言い、イソミタール、ネルボン、セレネース等を処方した。

(七) 中山は、前記採血を分析したところ、血液を酸塩基平衡状態は正常であり、酸素分圧正常、炭酸ガス分圧はかえつて低値を示したので、太郎の肺の血管と肺胞間に繊維化、浮しゆその他のガス拡散障害を起こさせる器質的病変は皆無であり、現時点の心臓の拍出量、仕事量などに支障はないと判定した。

中山と外来担当医が相談した結果、心電図に虚血性変化はあるが、心機能には障害がないので、冠動脈のバイパス形成術などの積極的治療は必要ないであろう、太郎が不穏なのは心身症があつてそれに拘禁性反応が加わつたものであろう、このまま病院において置くと、病院外に飛び出したりして事故の起こることもある、太郎も家に帰つた方が落ち着くであろうし、心臓の方の治療も気分が落ち着かないと十分なことはできないから帰宅させようということになつた。

そして、太郎を一晩循環器科病棟に置くこととし、同日午後六時、太郎に里和の処方した薬剤が投与された。太郎が食事不摂取の状態であつたので薬は良く効き、太郎は、三〇分ほどで熟睡した。なお、太郎が服薬前に暴れたので、覚せいしたときのことを考えるとそのまま六人床の病室に置くことには無理であり、また、夜間にベットから転落するおそれもあることから、ベットを取り除いた二人床室の床にマットレスを敷き、そこに太郎を就寝させた。

中山は、太郎の睡眠状態が深いので、呼吸中枢が抑制されることをおそれて鼻腔カテーテルにより酸素吸入を行い、また、太郎が非常に暴れたので、エネルギーを消耗していることをおそれてソリタT3五〇〇ミリリットル(ラシックス一Amp混注)の点滴静注を施行し、尿道にバルーンカテーテルを挿入した。中山は、その際、心電図を取つたが、その所見は外来で調べたものと大差がなかつた。

(八) 原告春子の夫が来院し、中山と会つた。中山は、「現在の状況では心肥大と冠動脈硬化はあるけれども、重要なのは精神障害ではないかと思う」旨太郎の症状を説明し、同時に意見を求めた。原告春子の夫は、「義父は、頑固で他人の意見を聞く性格でない。並外れて神経質で外食したりする際に食堂等で器が汚ないと怒つたり、おう吐したりした。」と言つていた。

(九) 太郎は、翌二二日午前八時に覚せいしたが、鎮静剤の残留のためかぼんやりしていた。

中山が同日午前九時三〇分に病室に行くと、原告花子が来ていた。太郎はぼんやり座つていたが、精神状態は比較的安静で、呼吸困難などの訴えやチアノーゼはなかつた。

中山は、原告花子に対し、太郎の症状としては現時点では心臓の方よりも心因性あるいは精神面での障害が強いこと、そして、現在拘束神経症的な症状があるので、太郎を一時自宅に戻した方が良いと思う、太郎は十分に食物を取れば回復すると思う、太郎の心電図に虚血性の変化があるが、このような所見は循環器科の外来通院中の患者の大部分にみられるものであるし、集団検診をした場合に、健康人として働いている人の中の一割程度にみられるものであるので、これから心筋梗塞が発生するとの予期はできず、したがつて重大な病変ではないと考えられる旨説明した。原告花子らは、中山の説明を納得し、家に連れて帰ることを了承した。太郎は、同日午後〇時三〇分、原告花子に付き添われて退院した。なお、西宮は、その際、原告花子に対し、セルシンを渡して一錠ずつ太郎の様子をみながら投与するようにその服用方法を説明した。

2  中山らの診療と退院の指示の適正

中山らが太郎の粗暴な振舞いの中をぬつてその心臓疾患について必要な診断をしたことは本項1に述べたとおりである。太郎の死因は心筋梗塞であるが、そもそも心筋梗塞は、前兆なしに突然発症するものが極めて多く、特に胸痛を伴わない場合があり、ことに高齢者に多い。もつとも、心筋梗塞発症前に前駆症状として狭心症様発作を伴うものも少なくない。しかし、太郎の心筋梗塞は、定型的臨床症状を示さなかつた例である。

心筋梗塞の前駆症状として歩行などにより胸部圧迫感が増大することがあるが、患者は、その際は身体を動かすことをおそれ、平常よりも動かないという特徴がある。また、心筋梗塞発症時の患者は、死に対する恐怖心が強く、むしろ積極的に診察を受けようとし、何とか救つてもらいたいと思い、医師の診察行為に協力するものである。ところが太郎は、本項1で指摘したとおり暴力を振るつたり大声を出したりしている。このようなことからみても、太郎の入院前及び入院中の症状は、心筋梗塞の前駆症状ないし発症後の症状とは言えない。

また、太郎の胸部X線写真では心肥大が認められ、心電図上は心筋虚血性変化が認められるが、だからといつてそのすべてが心筋梗塞に移行するものではないし、逆に、梗塞発作一か月以内で疼痛がありながら三〇パーセントは心電図は正常であり、梗塞発作七日以内でも二一・一パーセントが心電図上正常所見を示している。太郎の心電図は、二回ともハイ・テイク・オフといわれるようなSTの変化が出現しておらず、心筋梗塞を疑えるような変化はなかつたのである。

このような条件の下で、中山らが太郎が前日のように暴れ出しかえつて心臓その他に悪影響を与えることになるよりは早く退院させた方が拘束神経症も緩快するだろうと考えることは合理性のあることであつて、医師の治療上の裁量として許されるべきことであり、中山が原告花子らに対して太郎を家に連れ帰ることを説得したことを非難されるいわれはない。

四  被告の主張に対する認否

1(一)  被告の主張1の(一)のうち、太郎が被告主張の日に被告病院呼吸器科で初めて受診したこと、太郎の主訴が呼吸困難であつたこと、太郎が猿田の指示で胸部X線写真の撮影を受けたこと、太郎の胸部X線写真で心肥大が認められたこと、太郎の心電図の検査も行われたこと、太郎の心電図所見で冠動脈硬化があつたことは認めるが、その余の事実は知らない。

(二)  同1の(二)のうち、石川が太郎に対して心不全の説明をし、是非入院するように勧めたことは認めるが、その余の事実は知らない。

(三)  同1の(三)のうち、太郎が被告主張の日時に原告一郎に付き添われて車いすで被告病院に入院したこと、そのときの太郎の顔色が不良であつたことは認めるが、その余の事実は知らない。

(四)  同1の(四)のうち、太郎が被告主張の時刻ごろ中山に対して「息が苦しくてたまらない。何とかしてくれ。」と訴えたことは認めるが、その余の事実は知らない。

(五)  同1の(五)のうち、中山が太郎の上腕から動脈血を取つたこと、中山が精神科担当医に対して往診を依頼したこと、原告一郎が被告病院に行つたこと、原告一郎が中山に対して太郎がささいなことで腹を立てまた神経質である程度の話をしたことは認めるが、原告一郎が被告主張のように一方的に太郎を非難したことは否認し、その余の事実は知らない。

(六)  同1の(六)のうち、里和が被告主張の日時ごろ太郎を診察したこと、原告一郎が里和に対して太郎がささいなことで腹を立てまた神経質である程度の話をしたことは認めるが、原告一郎が被告主張のように一方的に太郎を非難したことは否認し、その余の事実は知らない。

(七)  同1の(七)のうち、中山が採血の酸素分析等の検査をしたこと、太郎に里和の処方した薬剤が投与されたこと、太郎が鼻腔カテーテルによる酸素吸入を実施され、また尿道にバルーンカテーテルを挿入されたことは認めるが、その余の事実は知らない。

(八)  同1の(八)のうち、原告春子の夫が中山に対して義父の性格を被告主張のごとく話したことは認めるが、その余の事実は知らない。

(九)  同1の(九)のうち、中山が原告花子に対して太郎の症状としては現時点では心臓の方よりも精神面での障害が強い、したがつて、太郎が一時自宅に帰り十分に食物を取れば回復すると思うと伝えたことは認めるが、その余の事実は知らない。

2  被告の主張2は争う。

第三  証拠《略》

【理 由】

一  当事者

請求の原因1の事実については、当事者間に争いがない。

二  被告病院の太郎に対する診療の経過と太郎の死因

1  太郎が昭和五三年七月一九日に被告病院呼吸器科で初めて受診したこと、太郎の主訴が呼吸困難であつたこと、太郎が猿田の指示で胸部X線写真の撮影を受けたこと、太郎の胸部X線写真で心肥大が認められたこと、太郎の心電図の検査も行われたこと、太郎の心電図所見で冠動脈硬化があつたこと、太郎が同日被告病院循環器科でも同科担当医の石川の診察を受け、石川から心臓左室肥大、心筋虚血(冠動脈硬化)であり、心不全の疑いがある旨の説明を受けるとともに是非早急に入院するように勧められ、同月二一日午前一〇時ごろに原告一郎に付き添われて車いすで被告病院に入院したこと、そのときの太郎の顔色が不良であつたこと、太郎が同日正午ごろ同科担当医の中山に対して「息が苦しくてたまらない。何とかしてくれ。」と訴えたこと、中山が太郎の入院中、各種診療を行つたこと、中山が太郎の上腕から動脈血を採取したこと、中山が被告病院の精神科担当医に対して往診を依頼したこと、原告一郎が被告病院に行つたこと、原告一郎が中山に対して太郎がささいなことで腹を立てまた神経質である程度の話をしたこと、同科担当医の里和が同日午後四時三〇分ごろ太郎を診察したこと、原告一郎が里和に対して太郎がささいなことで腹を立てまた神経質である程度の話をしたこと、中山が右採血の酸素分析等の検査をしたこと、同日午後六時以降に太郎に里和の処方したデクレトール、レキソタンが投与されたこと、太郎が鼻腔カテーテルによる酸素吸入を実施され、また、尿道にバルーンカテーテルを挿入されたこと、太郎が一時点滴を受けたこと、中山が太郎の心電図検査を行つたこと、原告春子の夫が中山に対して「義父は、頑固で他人の意見を聞く性格でない、並外れて神経質で外食したりする際に食堂等で器が汚いと怒つたり、おう吐したりした。」と話したこと、中山が同日午後七時ごろに太郎の家族に対して太郎の症状を説明したこと、太郎が翌二二日午後〇時半まで入院していたが、その間の症状が動き、息苦しさ、起座呼吸、胸の息苦しさ、呼吸困難、脱力感著明、チェーンストークス様呼吸、チアノーゼ等であつたこと、中山が同日午前一〇時ごろに原告花子に対して太郎の症状を現時点では心臓の方よりも精神面での障害が強い、したがつて、太郎が一時自宅に帰り十分に食物を取れば回復すると思うと説明したこと、太郎が着替えをし、玄関まで車いすで行き、自動車で帰宅したこと、中山がセルシンを家で飲むようにと持参させたこと、太郎が翌二三日に心筋梗塞で死亡したことについては、当事者間に争いがない。

2  《証拠略》を総合すると、次の事実を認めることができる(ただし、事実の経過を明らかにするため、前記当事者間に争いのない事実をも適宜判示するが、その旨を特に断わることはしない。)。

(一) 太郎は、大正七年一一月三〇日生まれの男子で、学生時代にボクシングをしていた。太郎には既往症として黄だん(疸)、乾性胸膜炎及び胃・一二指腸かいよう(潰瘍)があり、また、太郎は、高血圧(最大血圧二〇〇ミリメートル水銀柱)を指摘されたことがあるが、いわゆる医者嫌いで、右の既往症の多くを治療の途中で止めたり放置したりし、右の高血圧を指摘されたときも、自覚症状がないとして治療を受けなかつた。

(二) 太郎は、昭和五三年五~六月ごろ、たんがのどにからむ感じがし、せきが出るようになり、しばらくすると、息苦しさを感じ、体動時に呼吸困難が出現するようになつた。太郎の右のような症状は、その後次第に増進し、睡眠障害、食欲不振に加えて血圧が上がつたような頭部、顔面部のしやく熱感や顔面、肩、えきか(腋窩)各部にとう痛を感じるようになり、起座になつて身体を動かすと軽快した。太郎は、同年七月一四日の夜に、強度の呼吸困難で息が止まるような不安を感じ、救急車で目黒城南病院に運ばれたが、救急車に乗つている間に発作が治まつたので、医師の診療を受けずに帰宅した。太郎は、その後も夜間にしばしば呼吸困難、動きがあり、不眠がちで食欲も低下し、自宅で安静にしていたが、症状が一向に軽快しなかつたので、同月一九日、被告病院を受診した。

(三) 太郎は、当初、呼吸器科で同科担当医の猿田の診察を受けた。猿田は、太郎にのう(膿)性のかく(喀)たんがあることを認めたが、血圧が最小八〇ミリメートル水銀柱、最大一二〇ミリメートル水銀柱で、心音が純であり、肺に異常がなく、下肢に浮しゆが出ておらず、太郎が呼吸困難を訴えて倒れたりしたのを動作がオーバーである診断した。猿田は、太郎にABぺニシリンとせき止め水を処方し、太郎のX線撮影と赤沈及び心電図検査をし、X線写真及び心電図上心肥大と冠状動脈硬化の所見を得たので、たまたま同科診療室前を通りかかつた被告病院循環器科医長の本田に対し、太郎を受け取つてくれるよう申し入れた。本田は、右の心電図とX線写真を見て、左心室肥大と中等度以上の心筋虚血(冠状動脈硬化)を認めたが、五〇歳以上の人には健康で働いている人にも間々みられる所見であり、太郎が外来患者のベンチに腰掛けてうずくまるような格好をしてしきりにせきをしたりピース缶にたんを吐いているのを目撃していたので、猿田に対し、太郎は呼吸器科の患者ではないかと述べた。しかし、猿田が太郎の症状は呼吸器だけとも断定できないから一寸診てほしいと言うので、本田は、猿田が循環器科担当医で当日外来患者を診ていた石川に太郎の診察を依頼することを了解した。そこで、猿田は、石川に対し、右の依頼をした。

石川は、太郎を診察しまた右の心電図を見たところから、太郎の心臓の調律は正常で心拍数は一分間に八二であるが、左心室肥大及び虚血と左心房に負担があると診断し、太郎を心肥大の精査及び心不全の治療を目的として入院させる方針を立て、太郎に対し、所見を披露して入院を勧めたところ、太郎が同月二一日に入院することを了承したので、心不全の予防の意味で利尿剤ラシックス二〇ミリグラムとカリウム剤スローK二錠を処方して渡し、帰宅させた。なお、石川は、太郎の呼吸困難をバセドー氏病などに起因していることを疑い、診療録に甲状腺ホルモンも調べておく必要があることを記載した。

太郎は、同日午前一〇時ごろ、原告一郎に付き添われ、車いすに乗つて入院し、六人床の二七一号室に収容された。同室は、太郎の入院によつて満床となつた。

(四) 太郎は、入院時、身長一六三・五センチメートル、体重四九キログラムでやせており、顔色不良、口唇・爪床色不良で、看護婦に対して呼吸困難がありそのため睡眠できず食欲もないと訴えていたが、体温=三六・五度、脈拍数=一分間七六で不整脈がなく、呼吸数=一分間一七、血圧=最大一五二ミリメートル水銀柱・最小七〇ミリメートル水銀柱で、ぜん(喘)鳴もなかつた。

原告一郎は、太郎が入院すると間なしに帰つて行つた。

太郎は、看護婦に対する病歴口供中にも呼吸困難を訴えたが、話すことは支離滅裂であつた。

主治医は中山と定められたが、中山は、いわゆるレジデントとして被告病院循環器科に勤務していた。中山は、同日午前一一時過ぎに他の入院患者の検査を終えて病棟に戻つたところ、看護婦が飛び出してきて、「先生の患者が大変です。」と告げたので、二七一号室に飛び込んで行くと、太郎がベットの上にあぐらを組んで何事かわめいており、「私があなたの主治医である」旨の自己紹介をすると、太郎は、「息が苦しくてたまらない。何とかしてくれ。」と訴えたり、「今ごろまでどこをうろうろしていたんだ。病院が患者を待たせるとは何事だ。」と言つて食つて掛かつたりした。中山は、太郎をなだめて一旦記録室に戻り、メモ用紙と診察用具を持つて再び二七一号室に行き、太郎を診察した。中山は、太郎に対し、病歴口供を求めたところ、話が時々横道にそれオーバーに症状を訴えているので聴取に苦労したが、大筋において本項(一)及び(二)に判示したようなものであつた。中山は、また、太郎が上半身裸でいたので、興奮状態でしやべりまくる太郎の打聴診、触診をした。その結果は次のとおりである。体格、栄養、筋肉及び皮下脂肪=中等度、骨格=良好、精神状態=神経質、怒りつぽく、反抗的など、皮膚の状態は、湿潤及び色=正常、黄だん、皮下出血、毛細血管の拡張及び異常色素の沈着=なし、静脈の怒張=あり、であり、リンパ節の状態は、下顎リンパ節の左側において小豆大のは(腫)れ二個を、えきかリンパ節及び肘部リンパ節の各左においてそれぞれ小豆大のそれ一個を触知できたが、頚部リンパ節及び大腿リンパ節においてははれにふれなかつた。脈拍は、数=一分間九六、調律=整、大きさ=大、緊張度=高度であり、血圧は、最大一三八ミリメートル水銀柱、最小六八ミリメートル水銀柱であつた。目の状態は、どう(瞳)孔左右不同及び遠近の調節=正常、対光反射=迅速、眼球振とう(盪)及び眼球突出=なし、眼けん(瞼)結膜=貧血なし、眼球結膜=黄だんなし、であつた。鼻及び耳には異常がなく、舌はきれいで、口唇及びいん(咽)頭は正常であり、へん(扁)桃(せん(腺))のはれもなかつた。けい(頚)部の状態は、甲状せんしゆ(腫)及びけい部硬直はなかつたが、静脈怒張があつた。胸郭は対称性であつた。心臓の状態は、まずその位置・大きさであるが、上端が第三ろつ(肋)骨、右端が胸骨の右端、左端が左乳せん上であつた。次に、心音は全弁口で純(雑音なし)と判断された。第二肺動脈音こう(亢)進及び第二大動脈音こう進や副雑音(異常呼吸音)もなかつた。せき(脊)柱の変形もない。腹部の状態は、腹壁は平坦でやわらかい。波動、鼓腸、静脈怒張、圧痛、抵抗及びしゆりゆう(瘤)・しゆようはなく、ひ(脾)及びじんではしこりにふれないが、肝では指一本半の大きさでしこりにふれた。四肢の状態は、爪に異常はなく、浮しゆもなく、上腕けん(腱)反射、しつがいけん(膝蓋腱)反射及びアキレス腱反射は正常であり、筋い(萎)縮もなかつた。

中山は、以上のとおり太郎から病歴口供の聴取とその打聴診、触診を済ませると、記録室に戻つた。そして、中山は、右の病歴口供及び打聴診、触診の結果に、前記の猿田の行つた赤沈の検査の結果がこう進しているものの心電の検査の結果には格別の異常が出ていないことを総合して、一応太郎には心肥大があるけれども他にこれといつた身体異常がないと診断した。

ちなみに、赤沈の正常値は一時間値一〇ミリメートル以下であるが、太郎から採取した血液の赤沈の値は一時間値七三ミリメートル、二時間値一〇一ミリメートルであるところ赤沈の促進は、心筋梗塞では非特異的な反応であつて、肺その他の臓器に感染症がある場合や栄養のバランスの失調でアルブミンが減少した場合にも起こることである。また、心電図上、心筋梗塞で心筋に壊(え)死層があるとQRSの波形がV字様に低く出るし、心筋に傷害層があるとSTの波形が一口にハイ・テイク・オフといわれるように舟の帆のように持ち上がつて出るし、心筋に虚血層があるとTの波形がV字様に低く出るが、太郎から採録した心電図ではV1~6とも総じてQRSが長くRがわずかに上に出てそれが次第に成長する波形になつている。

中山は、右のような診断をした上で、看護婦に対し、入院患者があれば日常一般的に出しているベット上安静、便器使用、排尿の蓄尿・比重、浴場清拭及び食じ(餌)の減塩2B食と、検尿、血清1、2、赤沈、血液化学1、2、XーP(B)、E.K.G、末血の検査を指示するとともに、太郎がやせ過ぎで非常に興奮していたので甲状せん機能こう進をおもんばかつて、前記石川の指示どおりに特別にT3、T4の検査を指示した。

(五) 太郎は、同日正午に出された常食を摂取しなかつた。

太郎は、同日午後一時三〇分、看護婦に対し、ベット上に起座し身体を前後に揺つて動きがして息苦しいと訴え、その直後ごろから、隣のベットの患者を突き飛ばしたり、同室の五人の患者を追いかけ回したり、いきなり床に倒れたりして暴れ、そのため同室の五人の患者に室外に出ることを余儀なくさせ、看護婦の連絡を受けて二七一号室に行つた中山及び石川や看護婦が太郎を起こして介護しようとしても、太郎は、それに応じようとしなかつた。中山らは、太郎が息苦しいという原因を肺の状態との関連で考え、動脈血を分析すべく、同日午後一時四五分、太郎の上腕から動脈血を採取した。そのころ本田も来合せ、中山に対し、太郎の右のような行動から判断して太郎の症状は心臓の疾患ではなく精神的な障害ではないかと示唆した。中山と石川は相談して、被告病院精神科担当医の太郎に対する診断と太郎の家族の来院を求めることになり、石川が同科担当医に往診を依頼したが二時間後でなければ行けないということであり、また、中山の指示により看護婦が太郎の家族に来院を要請しようとしたが太郎の家族と連絡が取れなかつた。中山は、太郎がその後も病棟廊下をはいかいしたり、そこに寝転んだりして不穏状態であつたので、同日午後二時、太郎に対し、中枢鎮静のほか主としてせき髄反射を抑制することにより筋の過緊張を緩解する作用及び抗けいれん(痙攣)作用のあるホリゾン一〇ミリグラムを注射した。

中山は、前記採血を分析したところ、血液の酸塩基平衡状態は正常であり、酸素分圧正常、炭酸ガス分圧はかえつて低値を示したので、太郎の肺の血管と肺胞間に繊維化、浮しゆその他のガス拡散障害を起こさせる器質的病変は皆無であり、現時点の心臓の拍出量、仕事量などに支障はないと判定した。

その後太郎の家族と連絡が取れ、原告一郎が来院したので、中山が原告一郎に対して太郎の右の不穏状態を話したところ、原告一郎は、大略次のよう話をした。「父は、元来怒りつぽい人で、他人の言うことを聞くような人ではない。わがままで、短気な性格である。父は病気を犬のせいだと言つているが、犬の世話は自分と母がやつており、父が犬のせいで病気になつたと言うのはおかしいと思う。私がそのようなことをと言うと、父は、カンカンになつて怒る。私は、あんな怒り方ができる人が病気であるはずはないと思つている。父は、数日前にも苦しいと言つて救急車で目黒城南病院に行つたら、医者の前に出た途端にいきなり怒鳴り出し、診察を受けないで帰つて来てしまつた。医者が特に父を怒らせるようなことを言つたり、したりしたことはない。」

中山が原告一郎から右のような話を聞いている途中の同日午後四時三〇分に、精神科担当医の里和が太郎の診察をするために来棟した。

(六) 里和は、原告一郎から、次のようなことを聞き出した。「父は、ささいなことで腹を立てる。自分の湯呑み茶碗が汚れていたり、洋服にアイロンがかかつていないなどのことで母に対してしばしば乱暴を働く。家の中では、父の意見に絶対的に従わなければならない。父は、会社員をしていたが、一つ所に長続きせず、同僚とけんかしては職場を飛び出すということを繰り返していた。親せき、友人ともけんかをして疎遠になつている。この一年来定職もなく、昼間はパチンコ屋や競馬に出掛けて過ごしていた。。母も財産があれば離婚したいと常々家人に話していた。家計は、母が働いて支えている。父は、五~六年前に胃痛を訴え、消化剤を服用していた。父の身体の異常の訴え方が尋常でないことは、以前からのことである。父は、一か月前から不眠、食欲不振になり、母に対して一日中不機嫌で当たり散らしていた。」

里和は、原告一郎から得た知見といろいろなことをまくし立てる太郎を診察した結果から、太郎を精神病にり患しているとはいえないが極度に自己本位、わがままな性格の持主であり、一種の性格異常者とすべきであると診断した。

石川は、里和に対し、太郎の精神科への転科を申し入れた。しかし、里和は、太郎を明らかな精神分裂病者であるとはいえないから本人ないし家族の同意がない以上精神病棟に収容することはできない、太郎が外来で通うならば精神科で治療してもよい趣旨のことを述べて石川の右申入れを断わり、太郎の現在の症状は入院のための拘束神経症等も加わつている可能性もあり、心臓の状態も家庭に帰した方が落ち着くだろうと太郎を帰宅させる方が良いことを示唆した。そして、里和は、太郎が今晩暴れたりしたらば困るであろうから投薬すると言い、<1>抗けいれん及び抗てんかんの作用のあるテグレトール一〇〇ミリグラム、精神安定の作用のあるセレネース〇・五ミリグラム、同様の作用のあるレキソタン五ミリグラム、胃散のMMを処方した二包と、<2>睡眠の作用のあるネルボン三ミリグラム、睡眠・鎮静の作用のあるドリデン〇・三ミリグラム、同様の作用のあるイソミタール〇・一ミリグラムを処方した二包を中山に渡した。

中山と石川は協議をして、検査及び診察の結果から太郎には緊急に処置しなければならない症状はない、太郎の不穏状態を緩和させるために太郎は帰宅させ外来で通わせることにしようということになつた。

(七) 太郎は、同日午後五時に出された常食も摂取しようとしなかつた。

中山らは、同室の患者らへの影響と太郎が暴れてベットから転落することを予防するため、同日午後五時三〇分、太郎を二七一号室から二人床のベットを取り払つて床にマットレスを敷いた二五三号室に移した。

中山は、同日午後六時、太郎に対し、前記里和の処方した薬剤のうちの<1>の一包を投与した。

中山は、同日午後六時三〇分に太郎の状態を見に行つたところ、深い睡眠状態になつており、皮膚をつねつたり顔をたたいたりする刺激に反応せず、チェーンストークス様の呼吸をしていた。しかし、ポータブル型の心電計で太郎の心電図を取つたところ、不整脈は認められず、V2V3でSTが上昇していたものの前記猿田の取つたものと大差がないと判断された。そこで、中山は、右の睡眠状態を睡眠薬の投与による熟睡と考えたが、進行性反応としての呼吸抑制の可能性も考えられるとして、一応、血管確保のため21Gエラスター針を挿入し、鼻腔カテーテルにより酸素吸入を行い、また、ソリタT3五〇〇ミリリットル(ラシックス一Amp混注)の点滴静注を施行し、尿道にバルーンカテーテルを挿入した。中山は、その上で、当直の内科担当医に右のポータブル型心電計で取つた心電図を見せて相談したところ、外来の患者のそれと変わらないということになつた。

(八) 原告春子の夫が来院し、中山と会つた。中山は、前記太郎の不穏状態及び症状や現在の処置状況を話した。他方、原告春子の夫は、「義父は、頑固で他人の意見を聞く性格でない、並外れて神経質で外食したりする際に食堂等で器が汚ないと怒つたり、おう吐したりした。」と言つていた。中山は、原告春子の夫に対し、太郎には明日退院してもらうほかない旨を告げた。

太郎が同日午後一〇時四〇分ごろから激しく体動を始めたので、看護婦は、中山の指示により、バルーンカテーテルを抜去したが、太郎が意識もうろうの状態で鼻腔カテーテルや点滴の注射針をはずそうとしたりし、また、太郎の家族の者から太郎が起きようとしているので何とかしてほしい旨の要望があり、太郎がなおも鼻腔カテーテルをはずそうとするので、同日午後一一時一〇分、鼻腔カテーテルも抜去した。そして、太郎は、同日午後一一時四〇分には点滴の注射針を自分で抜去してしまつた。看護婦は、同月二二日午前〇時、中山の指示により、ホリゾン五ミリグラムを注射した。太郎は、同日午前〇時一五分、一旦開眼し、病室入口側の板壁に身体をぶつけたりしていたが、同日午前一時一〇分、再び睡眠に入つた。再度の睡眠に入つた直後には時折一五ないし二〇秒の無呼吸があつたが同日午前二時ごろからは呼吸数が一分間二八ないし三六でやや促進したものの、無呼吸はなくなつた。同日午前七時の一時点に太郎の口唇にチアノーゼが認められた。

(九) 太郎は、同日午前八時には名前を呼ばれると目を開いたが、同日午前九時の時点でもぼんやりしていた。

中山が同日午前九時三〇分に病室に行くと、原告花子と同一郎がいた。太郎はぼんやり座つていたが、血圧、脈拍は正常で、呼吸困難などの訴えはなく、チアノーゼは出ていなかつた。

中山は、原告花子に対し、太郎には特別に重篤な疾患や緊急に治療を要する疾患はないと思う、太郎には現時点で心臓の方よりも精神面での障害が強い、太郎が一時自宅に帰り十分に食事を取れば回復すると思う、それに心臓の治療をするにしても、今のような精神状態ではできないから、家に帰つて落ち着いてからである旨説明した。原告花子らは、中山の説明を納得し、太郎を家に連れて帰ることを了承したが、退院を午後まで延ばすことを希望したので、中山は、それを了解した。

太郎は、中山の原告花子に対する説明を聞いていてそれを理解している様子であつたが自らははつきりした意思を表明せず、身体の脱力感が著名のようで座位になつてもすぐに横になつていた。

太郎は、着替えをし、同日午後〇時三〇分、原告花子らに付き添われて玄関まで車いすで行き、自動車で退院した。なお、西宮は、退院の直前ごろに、原告花子に対し、中山の処方したホリゾンの別商品名であるセルシン一五ミリグラム七日分を渡して一つずつ太郎の様子をみながら投与するようにその服用方法を説明し、退院の際に、太郎に対し、食事をきちんと取つて早く元気になるように言うと、太郎は軽く会釈をし手を振つていた。

以上の事実を認めることができ(る。)

《証拠判断略》

3  《証拠略》を総合すると、太郎の死亡時刻は、(同月二三日)午後五時四八分であり、解剖の結果、太郎の死因を形成したものとして、左室前壁から一部中隔に及び新鮮な出血性心筋梗塞巣があり、冠状動脈特に左回旋起始部(九五パーセント狭さく(窄))及び前室間下降枝(六〇パーセント狭さく)には著明なかゆ(粥)状硬化症があり、太郎の死因を少しく助長したかもしれないものとして、大動脈弁閉鎖不全症があつたこと、そして、太郎の心筋梗塞発症の時期は、臨床的には不明であり病理解剖所見から推定するほかはないが、病理解剖中の顕微鏡所見によれば、出血性え死をした心筋繊維が軽度の好中球の浸潤を伴うこと等からみて、少なくとも太郎の退院後であると推定されることを認めることができ、右認定を左右するに足りる証拠はない。

三  中山の注意義務懈怠及び被告の責任の有無

1  太郎が被告病院と診療契約を締結したこと、及び、被告が中山を雇傭していたことについては、当事者間に争いがない。

2  人の生命及び健康を管理すべき業務に従事する者は、その業務の性質に照らし、危険防止のため実験上必要とされる最善の注意義務を要求されるが、右注意義務の基準となるべきものは、診療当時のいわゆる臨床医学の実践における医療水準であつて、国立の総合病院に勤務する医師は、病院内の豊富で良好な人的及び物的設備を利用することができ、利用すべきであるが、国立の総合病院に勤務する医師といえども、法制度上一般の医師を超える医師としての資格試験の合格や研修の終了を必須とされるものでない以上、その注意義務の程度は、右の注意義務の基準を超えるものではないと言うべきである。

3(一)  《証拠略》を総合すると、ボクシングをやつていると、心臓が通常人より大きくなることがあること、心筋梗塞は何らの前兆もなく突然に起こることも少なくないが、その発症に先立つて種々の前駆症状を示すことが少なくないこと、その前駆症状として最も重要なものは、狭心症と同様の胸痛ないし胸部の圧迫感・絞やく(扼)感であること、その他、疲労感、脱力感、胃部不快感、運動時呼吸困難、動き、げんうん感、頻脈傾向などが起こることがあるが、その多くは胸痛などに伴つて起きるものであること、胸痛、胸部圧迫感・絞やく感を伴わず、あるいは、これらに先行して呼吸困難を生じるときは、以前に広範な心筋梗塞を有する者、左冠動脈主幹又は主要冠動脈三枝の高度狭さくを有する者、糖尿病を有する者及び高齢者に限られること、その際、大多数の者は、呼吸困難とともに著明ないし明確な心電図のST、T変化の発現又は増強を示すこと、医師は、心臓疾患を予想される入院患者に対しては、一般的日常的な検査として、血液学的・血液生化学的検査、尿検査などを行うことが多く、それによつてまれにではあるが思いがけない所見、手掛かりの得られる場合があること、血清酵素学的検査は、その時点において心筋梗塞が起こつているかどうかを知る一つの手掛かりになり得ることを認めることができる。

(二)  前記二に判示した事実によれば、太郎は、石川の勧めで心肥大の精査及び心不全の治療を目的として被告病院に入院したこと、中山は、太郎の聴診においてその心音を純と判断しているが、太郎の解剖所見からみると雑音が聴取されるはずであること、太郎の入院時の心臓に関する疾患は大動脈弁閉鎖不全と以前の高血圧に基づく心不全及び軽度の心不全であると考えられるが、中山らは、太郎の大動脈閉鎖不全を診察し得ていないこと、中山は、看護婦に対し、太郎の検尿、血清1、2、赤沈、血液化学1、2等の検査を指示しておきながら、それらの検査が行われないうちに太郎の心臓には重篤な疾患や緊急に治療を要する疾患はないと判断し、太郎を退院させたこと、太郎は、退院した翌日の夕刻に心筋梗塞で死亡したことを認めることができる。

しかしながら、前記二に判示した事実並びに《証拠略》によれば、太郎の主訴は呼吸困難であること、太郎は学生時代にボクシングをしており、中山はそのことを知つていたこと、中山は、猿田の取つた太郎の胸部X線写真及び心電図を見た上、問診、打聴診、触診及び動脈血分析検査、再度の心電図検査を行つて、一通り必要な診察をしていること、太郎は、中山の聴診中にもひつきりなしにしやべるなどして中山が十分な聴診をする機会を与えなかつたこと、太郎の二度の心電図検査では、以前に広範な心筋梗塞があつたことを示す所見はなく、呼吸困難発作中のST、T変化の増強も観察されておらず、解剖所見上主要冠動脈三枝の疾患は認められず、太郎には糖尿病の既往歴がなく、年齢も五九歳で高年者には属していないこと、したがつて、太郎の呼吸困難が心筋梗塞の前駆的症状であつた可能性はほとんどないこと、また、太郎の動き、息苦しさ、起座呼吸、呼吸困難、口唇色不良は、気管支炎及びそれによつて誘発された軽度の心不全によるものと考えられること、太郎の入院中のチェーンストークス様呼吸、意識もうろうは、専ら鎮静剤の作用によるものとみられること、太郎は、入院中、医師の診察や看護婦の介護に協力しないばかりか、粗暴な言動をもつてそれに抵抗したり同室の患者らの疾病や自らの症状に影響を及ぼしかねない振る舞いをしたりし、中山らが太郎を更に診療、検査するにしても、まず帰宅させることによつて太郎の精神状態を落ち着かせてからにする必要があつたことを認めることができる。

そうとすれば、中山らが太郎の精神状態を落ち着かせることを優先させて太郎を退院させたことはやむを得ない措置であつたと言わなければならない。

(三)  以上のとおりであるから、中山には、不法行為上の患者の診療に当たる医師としてなすべき注意義務に違(たが)うところはないと言うべく、また、中山には診療契約の債務者である被告病院の履行補助者としてなすべき診療の債務の履行にもとるところがないから、被告病院には、債務者の責めに帰すべき事由はないと言うべきである。

4  したがつて、その余の点(期待権侵害の主張を含む。)を判断するまでもなく、被告病院には、中山の使用者として不法行為上の使用者責任及び太郎との診療契約の債務者として債務不履行責任を負担すべきいわれがない。

四  結論

よつて、原告らの本訴請求はいずれも理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担について民事訴訟法八九条、九三条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 古閑美津惠)

裁判長裁判官 並木 茂 裁判官 楠本 新は、いずれも転補のため、署名・押印できない。

(裁判官 古閑美津惠)

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