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東京地方裁判所 昭和55年(ワ)9051号 判決 1985年4月22日

原告

宮本顕治

右訴訟代理人

上田誠吉

坂本修

斎藤健児

松井繁明

菊池紘

藤井篤

亡北條浩承継人

被告

北條弘子

被告

北條隆久

被告

山崎雅子

被告

萩本恭子

右四名訴訟代理人

松井一彦

三宅陽

桐ケ谷章

中根宏

猪熊重二

右桐ケ谷章訴訟復代理人

松村光晃

被告

山崎正友

右訴訟代理人

山本武一

川村幸信

黒崎辰郎

被告

廣野輝夫

右訴訟代理人

森謙

漆原良夫

被告

竹岡誠治

右訴訟代理人

今井浩三

被告

北林芳典

右訴訟代理人

杉本秀夫

井上章夫

西坂信

水谷高司

主文

一  原告に対し

1  被告北條弘子は金五〇万円、被告北條隆久、同山崎雅子、同萩本恭子はそれぞれ金一六万六六六六円ずつ

2  被告山崎正友、同廣野輝夫、同竹岡誠治は、各自金一〇〇万円

及び右各金額に対する昭和四五年七月九日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告の被告北條弘子、同北條隆久、同山崎雅子、同萩本恭子、同山崎正友、同廣野輝夫、同竹岡誠治に対するその余の請求及び被告北林芳典に対する請求をいずれも棄却する。

三  訴訟費用は、原告に生じた費用の五分の一と被告北林芳典に生じた費用を原告の負担とし、原告に生じた費用の五分の一と被告北條弘子、同北條隆久、同山崎雅子、同萩本恭子に生じた費用を右被告ら四名の負担とし、原告に生じたその余の費用と被告山崎正友、同廣野輝夫、同竹岡誠治に生じた費用を右被告ら三名の負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告らは、原告に対し、連帯して金一〇〇〇万円(北條浩承継人については各相続分による金額)及びこれに対する昭和四五年七月九日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告らの負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁(被告ら)

1  原告の請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

第二当事者の主張《省略》

第三証拠

本件記録中の証拠関係目録の記載を引用する。

理由

一  当事者の地位、経歴等について

原告の地位、経歴については全当事者間に争いがなく、弁論の全趣旨によれば、北條の地位、経歴等と被告北條承継人らによる相続(原告と被告北條承継人らとの間では争いがない。)、被告山崎、同廣野、同竹岡、同北林の地位経歴等が原告主張のとおりであること(原告と各被告との間では争いがない。)、本件電話盗聴当時の学会の組織及び各セクションの概要が被告北條承継人ら主張のとおりであること(被告北條承継人らと原告との間では争いがない。)が認められる。

二  北條及び被告ら相互の関係

<証拠>によれば次の事実が認められる。

1北條と被告山崎との関係

昭和四五年当時、北條は、被告山崎の直接の上司として同被告に対し指導する立場にあり、同被告も北條の補佐としての役割を果たしていた。

2被告山崎と同廣野との関係

右両被告は、昭和四〇年ころ、被告山崎が副学生部長、同廣野が学生部常任幹事であつたころに付き合いを始め、昭和四四年六月に機関紙局が設置され、被告廣野が同局局長になつてからは、被告山崎が直接上司として指導する立場になり、毎日のように会つて指示、打合せ等をしていた。個人的にも親密な付き合いを続けていた。

3被告廣野と同竹岡との関係

右両被告は、昭和四二年、被告竹岡が上京して学生部に所属したときの担当の常任幹事が被告廣野であつたことから知り合い、個人的にも親しくなつた。その後、被告竹岡は、昭和四四年六月に、被告廣野の勧めにより、同被告が局長をしている機関紙局に入局し、同被告の指導の下で、共に仕事をし、同年一〇月には同局次長になつている。

4被告山崎と同竹岡との関係

右両被告は、昭和四三年秋ころから、学生部の先輩、後輩として付き合いを始め、被告竹岡が機関紙局に入局した後は、被告山崎の指導を受けるようになり、昭和四五年四月ころには、個人的にも親しい関係になつていた。

5被告廣野と同北林との関係

右両被告は、昭和四二年四月に、被告北林が学生部に所属した時に被告廣野が担当の常任幹事をしていたところから知り合い、機関紙局設置にあたつて被告北林も同局に入局した。直接の上司と部下という関係にあり、個人的にも親しい間柄であつた。

6被告山崎と同北林との関係

右両被告は、学生部の先輩、後輩の関係にあり、昭和四三年に、被告北林が公職選挙法違反被告事件の被告人として起訴された際に、被告山崎がその弁護人を勤めたことから知り合い、被告北林が機関紙局に入局した後は、被告山崎の指導を受けるようになった。

三  言論出版妨害問題及び学会、公明党と共産党の対応

1<証拠>を総合すれば、次の事実が認められる。

(一)  昭和四四年一二月一三日、NHKの二党間討論(公明党、共産党)において、共産党所属の衆議院議員松本善明(以下「松本代議士」という。)が、同年一一月一〇日に発行された藤原弘達著「創価学会を斬る」(「日新報道」刊)等の出版にあたり、学会による妨害行為がなされたという問題(言論出版妨害問題)を指摘した。そして共産党は、右討論における松本代議士の発言を、昭和四四年一二月一四日発行の同党の機関紙「赤旗」に掲載し、その後、同紙上において言論出版妨害問題を含む学会、公明党批判のキャンペーンを開始した。

(二)(1)  公明党の竹入委員長は、昭和四五年一月五日、言論出版妨害問題について、その事実を否定する談話を発表した。

(2)  これに対し、共産党は、同日、議員団総会会長春日正一が、言論出版妨害問題を国会審議においても追及する意向を明らかにするとともに、松本代議士が竹入委員長談話を非難し、言論出版妨害問題を徹底糾明する旨の談話を発表し、翌六日の赤旗紙上に松本代議士の談話の内容を掲載した。

原告も昭和四五年一月七日、言論出版妨害問題を国会で追及していく旨の談話を発表した。

(3)  他方、言論出版妨害問題の指摘に伴い学者らによつて結成された「言論・出版の自由に関する懇談会」(以下「懇談会」という。)は、前記竹入委員長談話を受けて、昭和四五年一月六日、公明党に対し具体的な説明を強く求めていく旨の声明を発表した。

(三)(1)  公明党の矢野書記長は、昭和四五年一月一六日、言論出版妨害問題に関し、著者、出版元との接触は認めるが、右接触はあくまでも不当な中傷に対して名誉を守るための話合いや要望の範囲内にとどまるものである、しかし、国民に疑惑を抱かせたことは遺憾である旨の談話を発表した。

(2)  右矢野書記長談話に対して、共産党は、同日、松本代議士がこれを批判し、共産党は言論出版妨害問題を徹底的に追及していく旨の談話を発表し、翌一七日の赤旗紙上において、矢野書記長談話を「卑劣な談話」と決めつけ、「あくまでシラをきる」との見出しのもとに批判する記事、右談話に対する藤原弘達の反論及び右松本代議士の談話の内容を掲載した。

また、同年二月五日には、原告が言論出版妨害問題について矢野書記長談話を批判し、引き続き共産党として真相解明の努力を行う旨の談話を発表した。

(3)  マスコミ関係では、朝日新聞が昭和四五年一月二五日の投書欄において言論出版妨害問題の特集をし、同月三〇日発行の週刊朝日にも「公明党は“批判拒否政党”か」との見出しで、言論出版妨害問題について評論家の中野好夫と、矢野書記長ら及び藤原弘達との二元討論の記事が掲載された。

(4)  労働組合関係においても、日本新聞労働組合連合会が昭和四五年一月三〇日の春闘臨時大会において言論出版妨害問題について公明党、学会に対する抗議及び右問題についての各新聞社に対する申入れを採択し、そのころ開かれた総評拡大評議会が「出版、言論の抑圧は許されない。」旨の岩井事務局長見解を発表したほか、各種労働組合もその機関紙に右問題を批判する記事を掲載した。

(5)  その他、昭和四五年一月の日本出版物小売業組合定例理事会、同年二月三日の懇談会集会が、それぞれ抗議、責任追及の意思を表明したほか、同月九日には、五木寛之ら作家七名が、潮出版社刊行の雑誌「潮」、「週刊言論」の編集部に対し、学会系とみられる出版物についての取材、執筆を自発的に差しひかえるとの文書を提出し、同月二〇日には、京都仏教徒会議が、京都府下の寺院に言論出版妨害問題批判のアピールを送付した。

(四)(1)  昭和四五年二月二四日、懇談会は、公明党渡部国対委員長が同年一月一四日に学会学生部幹部会において行つた、言論出版妨害問題及びその追及を「バカバカしい話」と決めつけた講演の録音テープの内容を公表し、赤旗は、同日、右講演内容全文と、これを批判する記事を掲載した。

(2)  右渡部講演については、昭和四五年二月二六日の衆議院議院運営委員会理事会において追及する動きが出たため、渡部国対委員長は、翌二七日、右講演の内容に穏当を欠くところがあつたとして国会対策委員長を辞任した(渡部講演事件)。

(3)  右渡部講演の全文は、昭和四五年三月六日発行の週刊朝日にも、「言論抑圧問題をめぐるある公明党幹部の発言」との見出しで掲載された。

(五)(1)  昭和四五年二月、特別国会が開かれ、同月一八日には、衆議院本会議において共産党所属議員米原昶が言論出版妨害問題をとり上げて質問し、同月二三日には、同予算委員会において、社会党所属議員赤松勇が右問題をとり上げ証人喚問を要求した。更に、同月二七日には、共産党不破代議士が同委員会において竹入委員長の証言、関係者の証人喚問を求め、同月二八日には民社党所属議員塚本三郎も同じく池田会長の証人喚問を求めた。

(2)  同年三月一三日、言論出版妨害問題に関する国会への証人、参考人喚問につき、自民、社会、民社、共産の各党の国会対策委員長会談が開かれたが、自民党が消極的態度を維持したため、右会談は打ち切られ、同問題についての国会への証人、参考人喚問は事実上実施されないことが確定した。

(3)  右国会対策委員長会談打ち切りを受けて、同日、矢野書記長は、言論出版の自由に対する妨害の事実を強く否定する談話を発表した。

(4)  他方、社会、民社、共産の各党の有志議員は、同日、「出版妨害問題真相究明議員集会」を同月一七日に開催し、関係者に対し質問をすることを決定した。

(5)  同月一七日、約八〇名の国会議員が出席して、前記議員集会が開催され、藤原弘達をはじめ、言論出版を妨害されたとする著者、出版元関係者らに対する質問が行われたが、公明党は同日、社会、民社両党に対し、これを非難する国会対策委員長声明を発表した。

(六)  共産党は、前記のNHK二党間討論で言論出版妨害問題をとり上げた後、同問題を含めた学会、公明党に対する批判を、ビラ、街頭宣伝、赤旗によるキャンペーン、国会審議等を通じて行つてきた。赤旗によるキャンペーンは、昭和四四年一二月一四日から、連載特集記事及び個別の記事、論説によつて行われており、昭和四五年一月から同年五月までの間に掲載された連載特集記事は、次のとおりである。

(1) 創価学会の断面(全八回、同年一月)

(2) 幻の書、受難の書(全六回、同月)

(3) 公明党の弁明をつく(全五回、同月)

(4) 公明党と池田大作氏(全一五回、同年一月から同年二月)

(5) 黒い“鶴”のタブー(全五五回、同年二月から同年五月一九日)

また、その後も次の様な公明党、学会批判の論説、記事を掲載している。

(1) 「公明党指導部の政治的、道義的責任」

(2) 「公明党幹部の居直りをつく――出版妨害被害者が談話」

(3) 「池田発言と矛盾――問題さらに複雑化」

(七)  右のような共産党の学会、公明党批判に対して、学会、公明党は、前記の昭和四五年一月一六日の矢野書記長談話以降反論を差し控えており、同年二月一四日に開かれた公明党両院議員総会において、右のような批判に対して反撃すべきであるとの意見が強く出たものの、右総会の討論内容を受けた同党国会対策委員会においては、右反撃についての結論は持ち越されていた。

ところが、前記渡部講演事件の発生を見たので、昭和四五年二月二七日、公明党の機関紙「公明新聞」において、共産党に対する反撃が開始された。

特別国会においても、昭和四五年三月四日、公明党所属議員黒柳明が、参議院予算委員会において、共産党所属の市議会議員が失業対策賃金を受けている事実があることを指摘する内容の質問をして共産党に対する反撃の姿勢を明らかにするとともに、東京都議会においても、同日、公明党が共産党幹事長川村千秋に対する懲罰動議を提出した。

学会も、昭和四五年三月一〇日付の学生部機関紙「大学新報」において、「日共の黒い体質」と題する共産党批判のキャンペーンを開始し、同年四月二一日掲載予定の「欺瞞渦巻く戦後日共史(下)」の掲載がとり止められるまで、継続した。

(八)  昭和四五年五月三日、学会第三三回本部総会において、池田会長は次の内容の講演をし、翌四日、その内容の全文が学会の機関紙「聖教新聞」に掲載された。

(1) 言論出版妨害問題について

右問題は、「正しく理解してほしい。」という個人の熱情からの交渉によるものであり言論妨害という意図はなかつたのであるが、結果としてそれが言論妨害と受け取られ、関係者に圧力を感じさせ、世間に迷惑をかけたことについては反省し、謝罪する。

(2) 「国立戒壇」について

国立戒壇という表現により、国教化をめざすような誤解を与えたが、そのようなことはあり得ない。

(3) 学会と公明党の関係

学会は公明党の支持母体であることには変わりないが、今後制度、機構の分離を明確にし、役職の兼任も解消していく。

(4) 共産党との関係について

共産党と学会が常に敵対関係にあるかのような印象を世間に与えることは本心ではなく、このようなことはできるだけ避けたいというのが本意である。学会はかたくなな反共主義を掲げるものではない。

2以上の認定事実に照らせば、言論出版妨害問題の推移とそれに対する共産党と学会、公明党との対応は、次のようなものであつたと認められる。

(一)  言論出版妨害問題についての問題提起は共産党によつてなされ、共産党はその後も一貫して学会、公明党批判の中心的、先導的役割を果たしてきた。

(二)  学会、公明党は、昭和四五年一月一六日の矢野書記長談話で「接触」の事実は認めたものの、その後の様々な批判に対しては沈黙を守つていたが渡部講演事件を機に、主として共産党に対する批判を開始した。そして、同年三月一三日、国会への証人喚問が事実上不可能となつた際には強気の姿勢を示していた。しかし、池田講演を控え、遅くとも同年四月二一日までには、共産党批判のキャンペーンを中止した。

(三)  共産党は、池田講演後も、学会、公明党批判を続け、右批判は、昭和四五年五月一九日の「黒い“鶴”のタブー」第三部終了後も続けられていた。

四  本件電話盗聴に至る経緯と実行行為(被告山崎、同廣野、同竹岡の行動を中心に)

1北條及び被告北林が関与したかどうかは後に検討することしママて、少なくとも、本件電話盗聴を被告山崎が計画し、その指示に基づき、同廣野、同竹岡が準備して、昭和四五年五月ころから同年七月九日ころまでの間、当時の原告宅(東京都杉並区高井戸西三丁目一番三号所在)の電話線が接続されている本件電柱上の端子函に盗聴器を設置して、本件電話による電話交信を盗聴したことは、原告と右各被告間において争いがない。

よつて、以下、本件電話盗聴実行に至る経緯及びその具体的実行方法について検討することにする。

2共産党本部に対する電話盗聴計画について

<証拠>を総合すれば、次の事実が認められる。

(一)  昭和四五年二月二七日、渡部講演の内容が公表されたことから、学会内部において、右は共産党による盗聴であり、これに対抗する手段が必要であるという意見が出るようになり、被告山崎は、同年三月末か四月初めころ、被告廣野に対し、技術的にみて共産党に対する電話盗聴が可能かどうか、可能としてどの程度の機材、人員、資金を必要とするかについて調査を命じた。

(二)  被告廣野は、三、四日後に技術的には可能である旨報告したので、被告山崎は、同廣野に対し、盗聴対象として共産党本部を指定し、被告廣野、同竹岡は、同山崎の指示に基づいて、同年四月半ばころ、共産党本部に対する電話盗聴のための拠点として、同本部近くに所在するマンション「ニュー外苑ハイツ」を賃借した。そして、共産党本部の周辺調査をするとともに、右拠点で松本に電話線から電源をとる方式の盗聴器(以下「電源式盗聴器」という。)を製作させた。

3原告宅への電話盗聴目標の変更と拠点の確保について

<証拠>を総合すれば、次の事実が認められる。

(一)  被告廣野、同竹岡は、前記ニュー外苑ハイツを賃借した後、共産党本部の状況について調査を行い、その結果、共産党本部周辺は、終日自動車の通行が途絶えることがなく、電話線の状況も複雑で、どの線に盗聴器を設置すれば良いかわからない状況であることが判明した。

(二)  被告廣野は、昭和四五年四月二〇日すぎころ、同山崎に対し、右の様な状況で共産党本部に対する電話盗聴は不可能であることを報告し、被告山崎はその際、電話盗聴の目標を原告宅に変更するよう指示し、その周辺調査を命じた。

(三)  被告廣野は、数日後被告山崎に対し原告宅は非常に「有望」である旨の調査結果を報告し、被告山崎は、同廣野に対し、更に詳しい調査を命じた。

(四)  被告竹岡は、昭和四五年五月一四日偽名を用いて、本件電話盗聴のための拠点として、次の約定で青木高井戸マンションを借り受けた。(同マンションと原告宅との位置関係は別紙地図のとおりである。)

(1) 賃料 一か月三万七〇〇〇円

(2) 共益費 一か月二五〇〇円

(3) 敷金 一一万一〇〇〇円

(4) 礼金 七万四〇〇〇円

(5) 期間 昭和四五年五月一五日から二年間

4盗聴器設置とその時期について

(一)  被告山崎は、右時期は、昭和四五年五月二五日から三一日までの間の日であり、松本が製作した電源式盗聴器を設置したと供述している。

(二)  これに対し、被告廣野、同竹岡は、共に、設置時期は、昭和四五年五月八日の深夜から九日の未明にかけてであり、被告廣野が製作した電池式の盗聴器を設置したと供述している。そして、右設置時期と拠点確保の時期の前後関係について次の様に述べている。

(1) 被告廣野、同竹岡は、昭和四五年五月三日の池田講演を聞いて電話盗聴計画が中止になるものと思い、被告廣野が同山崎にその点の確認に行つたところ、逆に計画実行を急ぐよう指示された。

(2) 被告廣野、同竹岡は、盗聴器を設置するについては、人通りが比較的多い週末を避けようと考えていたから、前記池田講演後最初の金曜日である昭和四五年五月八日の深夜から翌九日の未明にかけて実行した。

(3) 右盗聴器設置後、被告廣野、同竹岡は、原告宅付近の団地の空地に駐車した自動車の中で原告の通話を傍受したが、その時点では、まだ録音機が準備されていなかつたし、自動車内で傍受するというのも不便であるので、相談の上、被告廣野が本件電話盗聴に必要と思われる資金の明細である丙第二号証を作成し、これを持つて昭和四五年五月一〇日、被告山崎に会つて資金面の相談をした。

(4) 被告山崎は拠点を借り受けることについては賛成したが、資金が手元にないため、ニュー外苑ハイツの賃貸借契約を解約してその敷金または返還保証金を使うよう指示し、被告竹岡は同月一一日、右指示に従つて解約手続をした。

(5) 当初は、拠点として丙第二号証記載のとおり外にアンテナを立てなくてもよい木造アパートを借りる予定であつたが、原告宅付近に適当な木造アパートがなかつたため、青木高井戸マンションを借りることになつた。

(三)  しかしながら、右被告廣野、同竹岡の供述には次の様な不自然な点があり、直ちにこれらを採用することはできない。

(1) <証拠>によれば、被告山崎は、昭和四五年四月一九日の箱根における池田講演の草稿の検討会に参加していることが認められ(その時点では既に、池田講演の基本的方針は決定していたと考えられる。)、その後に原告宅に目標を変更したと認められることは前記のとおりであるので、ことさら池田講演の直後に、本件電話盗聴計画を急がせる必然性はない。

(2) 前記のとおり、大学新報における共産党批判キャンペーンが昭和四五年四月二一日号から中止になつたことは被告廣野、同竹岡も当然知つている筈であり、同被告らにとつて池田講演の内容は決して青天のへきれきというものではなかつたと考えられるのに、右講演内容を聞いて、計画が中止されたものと考え、被告山崎に確認をとりに行つたというのは納得できる説明ではない。

(3) 共産党本部を目標としていた時には、場所柄はあるにせよ電話盗聴の具体的見込みが立つていない調査の段階で、既に拠点としてニュー外苑ハイツという鉄筋の高級マンションを借り受けていたのに対し、原告宅に実際に盗聴器を設置するという段階において拠点確保の準備すらしていないということは、うなずけない。

(4) 本件電話盗聴計画においてはかなり重要な機材であると考えられる録音機が準備されていない段階で、盗聴器の設置に踏み切るということも一般的には考えられない。

(5) 拠点として、防音という観点から見れば、木造アパートを使用することは不適切であることは容易に判断できる筈であるし、外にアンテナを立てるという点は、被告廣野の供述によれば右アンテナはテレビのそれと同じ様なものであるというのであるから、さほど神経を使う必要がないにもかかわらず、拠点の第一候補としてまず木造アパートを考えたということにも疑問が残る。

(6) <証拠>を総合すれば、ニュー外苑ハイツを賃借した後、松本が毎日のように同所に来て電源式盗聴器を製作していたことが認められるにもかかわらず、使用期間に限界があり、すぐに取り替えなければならないことが明らかな電池式盗聴器を設置するということも考え難い。

(四)  以上によれば、むしろ、盗聴器は、青木高井戸マンションを借り受けて、入居が可能となつた昭和四五年五月一五日以降(五月下旬ころ)に設置されたものと認めるのが相当であり、その時点までには、松本が製作していた電源式盗聴器が完成していたものと考えられるのであるから、電池式のものではなく、電源式のものを設置したと認めるのが相当である。右認定に反する被告廣野、同竹岡の供述部分は、採用しない。

(五)  なお、<証拠>によれば、被告山崎は、当時、同被告が使用していた手帳の五月八日、九日の欄に、鉛筆で、九日の欄から矢印をして、八日の欄に二重丸をして「広ノ」と記載していることが認められるが、<証拠>によれば、被告山崎は、右手帳を予定を書き込むものとして使用し、日記のように当日の出来事を記載するという使用方法をとつていなかつたことが認められるから、<証拠>の記載は、右認定を左右するものではないと言うべきである。(被告山崎は、右の記載の意味することについて、現在説明することはできないと述べているけれども、一〇年余を経過していることを考えれば、何ら異とするに足りない。)

5本件電話盗聴の実行とその中止(盗聴器の撤廃)について

(一)  <証拠>によれば、次の事実が認められる。

(1) 被告廣野、同竹岡は、盗聴器設置の日の午前中から原告宅の本件電話による通話を傍受、録音し、その内容等を被告山崎に報告していた。

(2) 本件電話盗聴終了までに、被告廣野、同竹岡によつて少なくとも次のとおりの機材等が準備、使用された。

盗聴器二台(いずれも松本が製作した電源式のもの)

録音機 複数台

受信機 数台(エアバンド用の特殊なものも含む)

音声誘導式自動録音装置(製作したが結局うまく作動しなかつた。)

中古自動車 一台(他にレンタカーを使用)

(3) 原告宅では、昭和四五年六月一〇日か一一日ころ、本件電話に、雑音が入るため、長時間時報をきく等の方法で調査を開始し、同月一九日に、本件電柱の端子函に盗聴器らしいものが設置されていることを発見した。

(4) 昭和四五年七月五日、共産党代議員大会の代議員宿舎に盗聴器が設置されていることが発見され、同月六日、このことが新聞で報道された。

(5) 被告山崎は、右新聞報道を見て被告廣野に状況を確認したところ、原告宅の電話の通話内容に途中から異常が生じていることを告げられたので、被告廣野に対し、盗聴器はそのままにして電話盗聴を中止して撤退するよう指示した。

(6) 被告廣野と同竹岡は相談のうえ、被告竹岡が昭和四五年七月九日の深夜から一〇日の未明にかけて原告宅の電話線から盗聴器を取りはずし、本件電話盗聴は終了した。

(7) 昭和四五年七月一一日の各新聞(夕刊)に、本件電話盗聴発覚の記事が掲載された。

(二)  被告廣野、同竹岡は、共に、本件盗聴器の撤去について、原告宅の電話の通話内容に異常を発見し、これを被告山崎に報告して中止した方が良いのではないかという意見を伝えたが、被告山崎は本件電話盗聴の続行を指示するだけであつた。昭和四五年七月八日か九日ころ、被告廣野が、原告宅の庭木が大幅に刈り込まれていることを発見し、原告が本件電話盗聴に気付いたものと考え、被告竹岡と相談のうえ、被告山崎には無断で盗聴器を撤去した。被告山崎からの中止指示はなかつた旨供述している。しかしながら、<証拠>によつて認められる右当時の原告宅の庭木の状態に照らせば、右被告らが被告山崎には無断で本件電話盗聴の中止を決定したきつかけとして挙げている原告宅の庭木の刈り込みの事実は認められないのであつて、この事実が認められない以上、右各供述を採用することはできない。

むしろ、電話盗聴という社会的に容認されず刑罰の対象となる行為を指示している被告山崎としては、共産党代議員大会宿舎における盗聴器発見という報道及び原告宅電話の通話内容の異常を知つた場合には、本件電話盗聴の続行が極めて危険であると判断し、被告廣野、同竹岡に対し、その中止を指示するのが合理的であると考えられるのであるから、被告山崎が右中止指示をしたと認めるのが相当である。

五  被告北林の本件電話盗聴への関与について

1被告北林が、公職選挙法違反被告事件において、東京地方裁判所で禁錮四月執行猶予三年の刑の言渡しを受け、昭和四三年一〇月二六日右刑が確定したため、本件電話盗聴当時は右執行猶予期間中であつたことは当事者間に争いがない。

2被告山崎は、被告北林の関与について次の様に供述している。

(一)  被告北林は当時執行猶予中の身だつたので、表には出さず情報分析等を担当させることにした。

(二)  電話盗聴の目標を共産党本部から原告宅に変更する際に、被告山崎、同廣野、同北林の三人で話し合つて、被告北林がもたらした「共産党では原告が自宅から指示を出している。」との公安筋からの情報に基づいて、原告宅に目標を変更することにした。

(三)  盗聴器を撤去する際に、被告北林も被告廣野と共に自動車で待機していたということを被告廣野から報告を受けているし、その後、被告北林と酒を飲みに行つたときにも同被告からその旨聞いている。

3しかしながら、情報分析等と原告宅への目標変更の際の被告北林の関与について考えると、<証拠>を総合すれば、当時、原告は書記長ではあつたものの、実質的には共産党の最高指導者であり、原告が中心となつて党務を行つていたことは一般にも明らかであつたことが認められるのであつて、右の事実に照らせば、共産党に対する電話盗聴を考えるとき、党本部が不可能であれば、次に原告宅を目標とすることは誰でも容易に考えつくことであると言うことができる。ことさらに被告北林と相談して、同被告が提供した「公安筋の情報」に頼る必要はない筈である。被告山崎の一連の供述の中で、情報分析等を担当していたという被告北林が、その関係で登場するのはこの場面だけであつて、それも、被告北林の情報分析を必要とすることは認められないのであるから、この点についての被告山崎の供述をそのまま採用することはできない。

4次に、盗聴器撤去の際の被告北林の関与について、被告山崎は、本件以後、酒の席で被告北林からこれに関与していたことをきいた旨供述しているけれども、その様な極秘にわたる事柄を他人に聞かれるおそれの極めて高い場所で話すということは通常考えられることではないし、<証拠>によれば、被告北林は、本件電話盗聴当時自動車運転免許証を取得していなかつたことが認められるのであるから、盗聴器撤去という被告廣野、同竹岡にとつて重大な作業に、とりたてて役に立つわけでもない被告北林を自動車内に待機させておいたということも不自然である。この点についての被告山崎の供述は、直ちに採用することはできない。

5確かに、前記のとおり、被告山崎、同廣野、同竹岡、同北林は、学生部の先輩、後輩として個人的にも親しい間柄にあり、機関紙局においても共に活動していたことが認められ、更に<証拠>によれば、被告北林は、本件以後、少なくとも妙縁寺、妙本寺、松本勝彌関係の盗聴等に関与していることが認められるのであるが、これらの盗聴等はいずれも被告北林の執行猶予期間満了後のものであり、かつその方法も刑事罰の対象になると即断できるようなものではなく、また、いずれもいわば宗門、学会内部の紛争に関するものであるから、直ちに本件と結びつけることができるものではない。

従つて、被告山崎の前記供述を採用し得ない以上、これらの事実から被告北林の本件電話盗聴への関与を推認することはできず、他に右関与を認めるに足りる証拠はない。

6よつて、その余の点につき判断するまでもなく、原告の被告北林に対する本訴請求は理由がなく、棄却を免れない。

六  北條の本件電話盗聴への関与について

1この点について、被告山崎は、北條の承認と資金提供のもとに本件電話盗聴を実行した旨供述しているのに対し、被告北條承継人らは、本件電話盗聴は被告山崎が学会内における自己の出世のために独断で実行したものであると主張し、北條の検察官に対する供述調書に右主張に沿う記載が認められる外、被告廣野、同竹岡も同旨の供述をしているので、検討する。

2被告廣野、同竹岡の供述について

(一)  被告廣野、同竹岡は、共に次の様に供述している。

(1) 被告廣野が最初に同山崎から共産党に対する電話盗聴の話をもちかけられたときに、それが本部の指示によるものであるかどうかを尋ねたところ、被告山崎が「指示されたことだけやつていて共産党との戦争に勝てると思つているのか。」と答えたので、共産党に対する電話盗聴は本部の指示ではないと思つた。

(2) 昭和四五年五月四日、池田講演をきいた被告廣野が、被告山崎に対し計画を中止するのかどうか確認したところ、被告山崎は、「首脳の考えは甘い。俺の判断が正しい。続けろ。急いでやれ。」という指示をした。

(3) 昭和四五年四月末ころ、被告竹岡が、同山崎に対し、被告廣野が金がなくて困つているから何とかしてほしいと頼んだところ、被告山崎は、今金が無いので新学同の資金を流用するようにと指示し、被告竹岡は、その後数度にわたつて新学同の会計から合計五、六〇万円を流用して資金に充てた。

(4) 昭和四五年五月一〇日ころ、被告廣野が拠点を借りたり機材を準備するのに必要な費用についての見積り(丙第二号証)を作成して、被告山崎に資金の提出を求めたところ、被告山崎は、手元に金がないので、ニュー外苑ハイツを解約して敷金ないし返還保証金を使うようにと指示し、本部の資料費の中から八万円を流用して被告廣野に交付した。

(5) 昭和四五年五月二一日、被告廣野が、それまでの資金の使途についての明細(丙第三号証の一、二)を作成して、被告山崎に資金の提供を求めたが結局金は貰えなかつた。

(6) 本件電話盗聴に関して支出した金額は合計一二三万円ないし一二九万円にすぎず、その内五、六〇万円は被告竹岡が新学同の会計から流用したものであるから、被告山崎が交付した資金は七〇万円ないし八〇万円程度にすぎない。

(二) 右供述中被告山崎の発言に関するものについてみると、(1)について被告山崎は、北條に電話盗聴の話をもつていつたのは、被告廣野の最初の調査結果が出てからである旨供述しており、一般的可能性として、被告山崎が右(1)の時点以後に北條の承認をとりつけることもありうるのであるから、右供述から直ちに本件電話盗聴が被告山崎の独断によるものであり、北條は関与していないと言い切ることはできないものと言うべきである。(2)については、そもそも右の時点で被告廣野が被告山崎のもとに確認に行つたということ自体納得できる説明ではないことは前記四、4、(三)、(2)のとおりであり、右供述を直ちに採用することはできない。

(三)  次に本件電話盗聴に要した資金に関するものについてみると、右供述によれば、昭和四五年四月末ころ被告山崎の手元にはほとんどと言つてよい位、資金がなかつたことになるが、前記のとおり、被告山崎は、そのころ被告廣野から共産党本部の電話盗聴が不可能である旨の報告を受け、あらためて原告宅の電話盗聴を指示しているのであつて、資金もないままにそのような指示をするということがあり得たのか、疑問である。

また被告廣野、同竹岡は、被告竹岡が常時録音機の前で待機していることは辛いという理由で音声誘導式自動録音装置を製作することとし、昭和四五年五月二一日以降にその製作にとりかかり一〇万円ないし二〇万円の費用をかけたが、結局右装置は作動しなかつたと述べており、被告山崎の手元に十分な資金がない状態のもとで、単にそれだけの理由でいわば無駄な費用(しかもかなりの高額である。)をかけるようなことをしたということはいかにも不自然である。

このように、資金面に関する被告廣野、同竹岡の前記供述はいずれも納得できる説明ではなく、採用することはできない。むしろ、相応の資金を有していたからこそ可能であつたとみるのが自然であろう。

3被告山崎が独断で本件電話盗聴を企図し、実行する必要性について

(一)  被告山崎の本件電話盗聴当時までの学会における経歴は前記認定のとおりであり、<証拠>を総合すれば、被告山崎は学会生え抜きの最初の弁護士ということで属目され、弁護士登録後六年で、既に複数の弁護士をかかえる法律事務所を主宰し、学会、公明党の顧問弁護士を勤めていたほか、言論出版妨害問題を契機に、昭和四五年一月半ばころから、常時、学会の最高首脳による会議にも出席するようになつていたことが認められる。<証拠>によれば、当時学会には約一九〇名の副理事長がいたことが認められるけれども、前記事実に照らせば、被告山崎は右副理事長らの中でもいわゆるエリート・コースを歩んでいたものと推認される。

(二)  本件電話盗聴は刑事罰の対象となる行為であり、仮にこれが被告山崎によつてなされたものであることが発覚したときは、刑事訴追を受けるばかりでなく、所属弁護士会による懲戒処分により、場合によつては弁護士としての地位をも失うことになる危険性が極めて高いものであつたということができる。被告山崎が、学会内における出世のために、このような危険を犯してまで、独断で本件電話盗聴を行わなければならなかつたものとはとうてい考えられない。むしろ、この様な危険性があるのにあえて実行したということは、その背景に、少なくとも被告山崎の行為であるということが発覚した場合の何らかの保証、保護が期待できたからであると考えるのが自然である。

4本件電話盗聴に費やされた資金が、被告山崎において個人的に支出できるものであつたかどうかについて

(一)  被告廣野、同竹岡の供述によれば、本件電話盗聴に関して支出された金額は一二三万円ないし一二九万円であるということであるが、右各供述は、その前提に納得できない点があり直ちに採用することができないことは前記のとおりである。しかしながら、少なくとも右金額を下回らない額の金銭が本件電話盗聴に関して支出されたことは、弁論の全趣旨によつて認めることができる。そして、右金額は、昭和四五年当時の男子大卒者の平均年収(昭和四五年度賃金センサスによれば男子大卒者の平均年収が一三一万四〇〇〇円であることは当裁判所に顕著である。)にほぼ匹敵する額である。

(二)  被告山崎は、当時弁護士という比較的収入の多い職業についていたことは事実であるけれども、<証拠>によれば、学会の仕事に専念し、弁護士としての活動はしていなかつたことが認められるのであるから、前記の様な多額の金額を、個人で負担し(仮に新学同の会計から流用したとしても、清算が必要であろう。)、支出することができたとは考え難い。むしろ、他からの資金援助があつたと考える方がより自然であると言うべきである。

5本件電話盗聴発覚の日になされた被告山崎の北條に対する報告について

(一)  被告山崎が昭和四五年七月一一日に北條を訪ね、本件電話盗聴の報告をしたことは当事者間に争いがない。

(二)  右訪問の理由について、被告山崎は、本件電話盗聴を承認し、資金を提供した北條に対し、盗聴器の撤去と本件電話盗聴の終了を報告するためであつたと供述しているのに対し、被告北條承継人らは、被告山崎が独断で実行した本件電話盗聴が発覚したので、右事実を北條に告げ、学会内における自己の保身を図るためであつたと主張している。そして<証拠>によれば、北條は、検察官に対し、「被告山崎が北條に対し、本件電話盗聴の事実を告げ『いずれにしても私が独断でやつたことですから私が責任をとつてちやんとします。勘弁して下さい。』と詫びを言つた。右事実は北條にとつて寝耳に水のことであつた。」と供述していることが認められる。また、被告竹岡は、「昭和五五年六月二日、『週刊ポスト』誌に本件電話盗聴についての記事が掲載された後に、北條に対し、本件電話盗聴は被告山崎の指示で被告廣野、同竹岡が実行した旨報告に行つたところ、北條が『やつぱり君達だつたのか。昭和四五年七月一一日の夕刊に記事が出た後に、被告山崎が学生部の者を使つてやつたと報告に来ていた。』と話していた。」旨供述している。

(三)  しかしながら、仮に被告山崎が自己の保身をはかる目的であつたとするなら、本件電話盗聴は、開始の時点で既にかなりの危険性をはらむものであつたことは前記のとおりであるし、予想し得る発覚の態様として、本件の様に電話盗聴の事実は発覚したが行為者が発覚しない場合ばかりでなく、行為者まで発覚してしまうことも十分考えられるのであるから、むしろ本件電話盗聴開始時にこれを考えるのが自然である。

(四)  また、前記北條の検察官に対する供述調書の内容を見ると、北條は、本件電話盗聴の事後処理について被告山崎に一任し、北條自身あるいは学会として何ら行動していないという趣旨のことを述べており、被告竹岡は、昭和五五年六月末ころ、はじめて本件電話盗聴に関し、学会副会長山崎尚見から事情聴取を受けた旨、供述している。

しかしながら、本件電話盗聴が被告山崎の独断によるものであつたとしても、被告山崎が学会員である以上、これが発覚した場合には、前記三で認定した政治的、社会的背景のもとにおいては、学会及び公明党にとつても極めて危険な状態にあつたのであるから、その様な危険な行為をした被告山崎に対し、事後処理を一任することなどおよそ考えられないことであるし、これが発覚した場合に備えて、北條又は学会として関係者から詳しい事情をきくなどの調査をしないというのもあまりに不自然である。

被告北條承継人らの主張に沿う<証拠>はいずれも採用することはできない。

(五)  なお、<証拠>によれば、被告山崎は、昭和五五年四月一七日から同年六月四日までの間に数回にわたり学会に対し恐喝行為をしたとして同年一〇月二五日学会により告訴され、恐喝・同未遂被告事件として起訴されたこと、北條は、その捜査段階において検察官に対し、被告山崎は本件電話盗聴を右恐喝の手段として利用した旨供述していることが認められるが、被告山崎と学会との対立は昭和五五年ころになつてはじめて生じたものであつて、被告山崎が将来学会と対立した場合に備えて、北條に対し、本件電話盗聴の事実を報告したものと認めることはできない。

6本件電話盗聴以後の被告山崎の学会内における処遇及び活動について

(一)  <証拠>を総合すれば、次の事実が認められる。

(1) 被告山崎は、昭和四七年から少なくとも昭和五〇年ころにかけて、学会関係の弁護士の中心として活動するとともに、学会の一員として宗門内、他宗、共産党などに対する情報収集及びその分析活動を担当しており、このことは北條も承知していた。

(2) 被告山崎は、昭和四七年以降、学会ないし北條から資金等の提供を受け、被告廣野、同竹岡、同北林らを指揮して、少なくとも次の様な情報収集活動を行つた。

(ア) 日達上人と浅井父子との、妙縁寺における会談の盗聴

(イ) 秋谷、原島、被告山崎と浅井父子らとの、常泉寺における七回にわたる対決討論の盗聴

(ウ) 妙信講に対する内部情報収集活動

(エ) 立正佼成会に対する内部情報収集活動

(オ) 学会と対立関係にあつた松本勝彌に対する内部情報収集活動

(カ) 学会批判者の拠点の一つであつた妙本寺における内部情報収集活動

(二)  仮に本件電話盗聴が、被告山崎の独断によるものであるとすれば、北條ないし学会は、被告山崎に対し不信感を持つのが自然であると思われるのに、逆に本件電話盗聴発覚後も被告山崎の学会内部における活動を認め、情報収集、分析にあたらせていることは、北條ないし学会が被告山崎の本件電話盗聴を積極的に評価していたことを裏付けるに足りるものである。

7当時学会が置かれていた状況下で、北條が本件電話盗聴を企図し、実行するということがあり得たかどうかについて

(一) 前記三で認定した本件電話盗聴当時の政治的、社会的情勢からすれば、学会の最高首脳の一人である北條が、発覚したときは窮地に陥ることが明らかな本件電話盗聴を積極的に計画し、被告山崎に指示して実行させたものとは考えられない。

(二) しかしながら、他方、前記三で認定したとおり、学会、公明党は、言論出版妨害問題をめぐる各界の批判を受けている最中でも、組織を挙げて共産党に対する反撃を継続しており、昭和四五年三月一三日の矢野書記長談話も強気のものであつた。池田講演によつて明らかにされた学会、公明党の方針も、その後の共産党の対応如何によつては変更され得るものであつたということができるし、当時、学会としては、基本的には、共産党とは将来再び相互に批判し合うこともあり得るとの認識を持つていたものと認められる。

(三)  以上によれば、学会の最高首脳の一人である北條が、共産党の今後の動向に強い関心を持つていたことは否定し得ないであろうし、被告山崎の進言を受けて、本件電話盗聴をすることを認め、資金の提供をしたとしても、さほど不自然なことではないと言うべきである。

8以上にみてきたところを総合判断すれば、被告山崎が独自に本件電話盗聴を計画、実行したとするよりは北條の承認と資金提供のもとに実行したと考えるのがより自然であり、北條は、本件電話盗聴に関与していたものと認めるのが相当である。

たしかに、本件電話盗聴に関する各関係者の説明は、原告の主張に沿う被告山崎の供述と、北條ないし学会の関与を否定する被告廣野、同竹岡の供述、北條の検察官に対する供述とが真向から対立しており、右各供述が本件発生後一〇年余を経て、被告山崎と学会とが敵対関係に入つた後になされたものであるため、そのいずれにもそのまま採用することができない部分がある。各人の具体的行為の詳細を認定することも不可能である。しかし、基本的に、北條が、被告山崎の進言を入れ、本件につき関与、承認していたことは、否定し得ないものと考える。

七  原告の損害及び慰謝料の算定について

1北條の承認のもとに被告山崎、同廣野、同竹岡によつて計画、実行された本件電話盗聴により、昭和四五年五月下旬ころから七月九日までの間、本件電話による私的通話、共産党の党務に関する通話を盗聴されたことが認められる以上、原告が通信の秘密、政治活動の自由、プライバシーの権利を侵害されたことは、明らかであつて、北條及び右被告らは、原告に対し、共同不法行為による損害賠償義務を負うものというべきである。

被告山崎は、同被告が本件電話盗聴の事実を認める旨をマスコミに公表したことにより、原告が被つた精神的損害は既に十分償われたと主張するが、採用しない。

2本件電話盗聴による被侵害法益は重要であり、違法性の程度が高いことは、言うまでもない。北條及び被告山崎、同廣野、同竹岡の動機目的からみて、盗聴された内容が利用される危険性も極めて高いものであつたということができる。

しかしながら、他方、盗聴された通話内容が、学会や北條、被告山崎、同廣野、同竹岡らによつて現実に利用された形跡は窺えないこと、原告は、昭和四五年六月一九日に盗聴器設置の事実を発見して盗聴されていることを知つていたのであるから、それ以後は十分に対応することができた筈であること、本件電話盗聴の事実が発覚して以来、行為者不明という状態が長く続いた後になつて、実行者の一人であり、本訴における被告でもある被告山崎が、自ら本件電話盗聴を行つたことを公表したこと、は、慰謝料額算定の事情として、考慮すべきである。

以上の点、その他本件に現れたすべての事情を総合して、原告の精神的損害を慰謝するための慰謝料としては一〇〇万円が相当であると認める。

3従つて、北條、被告山崎、同廣野、同竹岡は連帯して原告に対し一〇〇万円を支払う義務があるものと言うべきであるが、北條は昭和五六年七月一八日に死亡し、被告北條承継人らが相続したから、北條の妻である被告北條弘子が右債務の二分の一である五〇万円、北條の子である被告北條隆久、同山崎雅子、同萩本恭子がそれぞれ右債務の六分の一である一六万六六六六円(一円未満切り捨て)の限度において、いずれも被告山崎、同廣野、同竹岡と連帯して支払うべき義務を負つているものと言うべきである。

八  結論

以上の次第であるから、原告の本訴請求は、被告北條弘子に対し五〇万円、同北條隆久、同山崎雅子、同萩本恭子に対しそれぞれ一六万六六六六円、被告山崎、同廣野、同竹岡に対し各自一〇〇万円及び右各金額に対する昭和四五年七月九日から支払済みまで年五分の割合による金員の支払を求める限度においていずれも理由があるから認容し、右各被告らに対するその余の請求及び被告北林に対する請求はいずれも失当であるから棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九二条、九三条を適用して主文のとおり判決する。仮執行宣言は、相当ではないからこれを付さない。

(大城光代 春日通良 團藤丈士)

北條浩経歴<省略>

被告山崎経歴<省略>

被告廣野経歴<省略>

被告竹岡経歴<省略>

被告北林経歴<省略>

宮本邸所在地図<省略>

各セクションの概略説明

一 学生部

昭和三二年六月三〇日に結成された組織で、創価学会の会員のうち大学(短大も含む)、専門学校(高卒以上の)に在学する学生及び卒業一、二年のOBを構成員とする。男子部、女子部とともに青年部に包括される。

昭和四五年当時の役職構成は、学生部長(一名)のもとに主任部長(六名)、副学生部長(数十名)、常任幹事(数百名)、部長・副部長(数百名)、グループ長(数千名)、班長(数千名)となつていた。学生時代に信仰を深め、学問・人格の向上深化を図り、社会に有能な人材を育てるとともに創価学会にあつて次代のリーダーを育成することを目的としている。学生部員は地域のブロック組織に所属して一般会員、学生部員として活動している。なお、それぞれの大学等においてサークルを結成し、講演会、自主ゼミナールなどの文化活動を進めている。

二 機関紙局

学生部には、従前、書記局が設けられ、組織運営の要として、行事の企画・進行、人事、各委員活動の掌握などを担当していた。

昭和四四年六月に至り、新学同の結成を前提として、新しい学生運動体の結成へ向けて、その気運を盛り上げていくこと及び理論的な研究を進めていくことを当面の目標とした部局が右書記局とは別個に設置され機関紙局と名付けられた。人員・構成としては、局長(一名)、次長(若干名)、局員(数十名)からなり、新学同結成を主たる目的としたが、あわせて、理論研究の推進、人材育成なども含んだものとなつていた。名称から受けるイメージでは、学生部の機関誌の発行をその業務とするかのようにとられやすいが、学生部の機関紙「大学新報」の編集発行の業務は機関紙局の設置とは直接のかかわりはなく、従来どおりの聖教新聞社の「大学新報刊行会」で行われていた。

機関紙局は、この大学新報に記事を書くことから活動を始め、次第に新学同結成の気運を高めるとともに具体的な結成準備活動として、綱領の草案作成や当時盛んであつた全共闘運動、各派全学連などの運動理論、組織、勢力などについても研究・調査を行つた。

三 新学同(新学生同盟)

創価学会学生部を母体として結成された学生運動の全国組織

昭和四四年一〇月一九日、東京代々木公園に全国三六八大学の代表七万五千名が参加して結成大会を開き、議長に津田忠昭(東大・大学院)を選出し、三大スローガンとして

①反戦・平和を勝ちとろう②大衆の権利を守るために闘おう③新たな学問創造のために闘おうを採択した。

東京都千代田区神保町に中央書記局を設け、機関紙として「新学同」(月一回刊)を発行した。

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