東京地方裁判所 昭和56年(合わ)165号 判決
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【説明】少年のいわゆる家庭内暴力は近時の社会問題の一として広く関心をあつめている事柄である。その一方の極には金属バットにより両親を殴殺した事例(昭和五五年二月二一日公判請求、横浜地裁川崎支部公判継続中)のような、家庭内暴力の犠牲に親がなる場合と、本件のように、子供の家庭内暴力に悩んだあげくこれを殺害する場合――ともに極めて悲劇的な――ものがある。本件については、公訴事実そのものについては特段の争いはないが(もつとも、弁護人側から心神耗弱の主張があつたもののこれは排斥されている)、量刑についての詳細な判示に実務上、参考となると思われるので掲載する。
〔主文〕
被告人を懲役三年に処する。
この裁判の確定した日から五年間右刑の執行を猶予する。
押収してある犬引き綱一本(昭和五六年押一〇〇〇号の一)を没収する。
〔理由〕
(犯行に至る経緯)
被告人は、中央大学法学部を卒業後、二、三の会社勤務を経験した後、昭和五〇年から都内新宿区下落合で貿易会社を経営し、都内杉並区清水で妻和子、長男賢一郎(昭和四〇年六月五日生)とともに暮していたが、賢一郎が私立明治学院大学付属中学校に入学したばかりの昭和五三年五月ころ、同会社が倒産したため、賢一郎を埼玉県上尾に住む和子の兄原芳彦方に預けて同市立上平中学校に転校させ、倒産の残務整理を行つた。同年七月末ころ、被告人夫婦は、都内世田谷区松原一丁目一八番二〇号所在の和子の母親である原タミ方に移り住むとともに賢一郎を呼び寄せ、同人は同年九月から世田谷区立梅丘中学に転校し、二階に義母のタミが住んで茶道と花道を弟子に教え、一階に被告人の親子が住むこととなつた。被告人は同年一一月ころから教育器材の販売等を目的とするクロスコンチネンタル株式会社に就職し、昭和五五年九月ころには同会社教育開発部次長の職にあつた。
被告人は仕事に情熱を傾け、これに打ち込んでいたため、賢一郎の教育は主として和子に任されることとなつた。賢一郎は、一人つ子として和子のちよう愛を一身に受け、いささか過保護に育てられ、また転校が重なつたこともあつて、自己中心的で他人との協調性に欠け、母親に対する依存心の強い性格を形成するようになつた。そのため梅丘中学では集団生活にうまく溶け込めず、友人を作つてゆくこともできず、逆に級友からいじめられるようになつた結果、強い被害者意識を抱くようになつた。中学二年の後半ころから、登校を渋るようになるとともに、和子に対しティッシュペーパーの箱や灰皿を投げ付けたり、殴り掛つたりするようになり、「このくらい友だちからやられている。お母さんにやらなければ、だれにやるんだ。僕より弱い者で、女の人にやるんだ。」などと言うようになつた。中学三年生になると新しい友だちができたが、一緒に万引きをしたり、友人の自転車を勝手に持つて来たりしたことがあつた。被告人夫婦がこれに気付き、そういう友だちと付き合わないように注意し、自転車を修理して持ち主に返すと、賢一郎は、「ほかの子がやつたのに、おれが取つたということになる。」と言つて、これに強く反発し、これらのことから友だちとの関係もまずくなつた。また、そのころから腹痛を理由に時々登校しなくなり、和子に対し物を投げ付け、殴る、けるの暴行をし、「おれはむりやり転校させられた。おまえたちの犠牲だ。」などと言うようになつた。昭和五五年七月下旬、和子は、賢一郎を国立小児病院に連れて行き、精神科医に相談したところ、「現在のところ異常はないが、登校拒否が続いたら必ず来るように。」と言われた。夏休みに入り、賢一郎が自分の要求がいれられなかつた腹いせに、和子が乗つている自転車を踏切上で突き倒し、その顔面にけがを負わせたことから、さすがに和子も賢一郎の暴力を隠し切れなくなり、被告人も初めてそのことを知るに至つた。被告人がしかつたところ、賢一郎はそれに反発し、「おまえが文句をいうからこうなるのだ。」と言つて被告人の面前で和子に殴る、けるの暴行を加えるようになつた。そのため被告人は、しかることをやめ、賢一郎と穏やかに話し合い、息子の気持ちを理解しようと努めた。
二学期に入つてからも、登校拒否はやまず、同年一〇月中旬ころからこれが目立つようになり、三学期には、一週間に一、二回程度しか登校しなかつた。これにつれて賢一郎の暴力は、和子のみならず祖母のタミ、被告人そして近隣の者にまで及び、その激しさも増していつた。
まず、朝六時ころ自分の部屋のベットで目を覚ますと、ベットの横の壁を、和子が来てくれるまで、二階や屋外にも響くほどたたき、目覚まし時計、筆箱等を部屋の扉に投げ付け、窓のカーテンをカッターナイフで切り裂き、和子の腕を強くつかみ、「雨戸を開けろ。」「そこへ座れ。」などと命令し、これに従わないとカッターナイフなどで和子を脅したりした。これをなだめすかしてようやく朝食になると、「食べたいものがない。」などと文句を言つて食卓をひつくり返したりした。ようやく登校時になると、登校を拒み、あるいは家を出ても三〇分くらいして戻つて来て、隣家の塀を乗り越え、屋根伝いにタミの居住する二階の窓ガラスを壊して土足のまま屋内に入り、タミが大事にしている茶器や花器を壊し、一一〇番をかけさせないため、あるいは学校から問い合わせをさせないために、電話線を切断したりした。そして、自分の要求が聞きいれられなかつたり、注意されたり、機嫌が悪かつたりすると、昼夜を問わず、ふすまや障子を包丁で桟ごと破壊し、主として和子に殴る、けるの乱暴を働き、タミに対して突き飛ばしたりし、飼い犬のふんをタミの布団や部屋にまき散したりした。飼い犬に対しても、犬小屋に閉じ込めたままひつくり返してけ飛ばし、傘の先でつつき、熱湯をかけ、首輪を持つて空中につるしたりした。また、屋根などに登つている賢一郎に危ないよと注意をした隣人たちに悪態をつき、隣家や道路に石、生卵、かんしやく玉やドリンク瓶を投げ付けた。被告人夫婦は、賢一郎の右言動に思い悩み、賢一郎の気分が落ち着いているときにその訳を尋ねると、「おれにも分らないけどいらいらするんだ。」と言い、病院に診察に連れて行こうとすると、「そんなことをしたら火をつけるぞ。」などと言つて暴れ出し、マッチに火をつけて床に投げたりした。そこで、ぜひ連れに来てほしいと病院に頼んだが、病院からは子供の年令からいつて警察ざたかなにか起こして警察からの要請がない限り強制的に連れ出すことはできないとの回答であつた。被告人らは、世田谷区教育委員会の教育相談に行つたが、「無理に登校させなくてよい。暴力については、ある程度やむを得ない。我慢して本人の自覚を待つように。」と言われ、その他警察、心理学を研究している友人、会社の上役にも相談したが、適切と思われる意見は聞けなかつた。被告人は、賢一郎の家庭内暴力の問題が起こつてからは、それまでの仕事本位の生活態度を一変し、息子を立ち直らせようと懸命に努力した。中学三年の二学期後半からは、賢一郎との応接に疲れ切つて体の不調を訴える妻和子に代わり、被告人が登校に付き添い学校との連絡をとり、賢一郎の面倒を見るようになつた。昭和五六年一月ころ、賢一郎は、近隣の者が、自分の粗暴な振る舞いを警察に通報したと思い、その仕返しをするために空気銃を買つて来た。被告人が必死になつてこの空気銃を取り上げたところ、賢一郎は、とつさに和子の髪の毛をわしずかみにして数十本を引き抜き、被告人が賢一郎を取り押えて和子やタミを屋外に逃がすと、物を玄関に投げ付けガラス戸を壊して家を飛び出した。この事件後、賢一郎は、空気銃のかわりにカッターナイフを常時持ち歩き、被告人らがこれを取り上げてもすぐに別の物を入手し、暴れるときに、そのカッターナイフを和子の顔面、首筋に突き付け、「てめえ、殺すぞ。」などと怒鳴り散らし、殴る、けるの暴力を振るつた。このため、和子は、昭和五五年一二月ころから、電車の中で突然泣き出したり一人言をいうようになり、それがひどくなつたので、翌五六年二月上旬、都立松沢病院で診察を受けたところ、賢一郎の右行状を原因とする心因反応(ノイローゼの一種)との診断で、精神安定剤、抗うつ剤、睡眠薬を服用するようになつた。この際、医師から賢一郎について、「今すぐ解決する方法はなく、その原因を根気よく把握していくしかない。」と聞いた。
賢一郎は、昭和五六年二月、私立堀越高等学校を受験し、これに合格した。同年四月九日堀越高校の入学式があり、賢一郎も登校を開始したが、同月一三日学校側からクラス全員に対し校則により長髪は認めないと言われたことから、再び登校しなくなり、家庭内で暴力を振るつた。登校するかどうかわからないのに、被告人が賢一郎の要求どおり午前五時ころ起こしに行くと、賢一郎は壁をたたくことから始め、あるときにはドラムのばちで被告人を執ように殴打した。和子が病いをおして朝早く弁当を作つても、登校せず、またあるときには、原宿に連れて行くように要求し、和子が病いのためこれを断ると、和子を玄関先で突き飛ばして横転させ、和子が寝ているベットの上の窓に物を投げて壊し、掛け布団の上にガラス様の破片が飛び散つた。被告人は、会社に出勤できる状態ではなくなり、また出勤しても仕事のできる状態ではなかつたので、上役のほうから被告人を一週間ほど休ませたりした。被告人夫婦は、「二人で死ねば子供が良くなるだろうか。」などと話し合つたこともあつた。同月二二日には、賢一郎は、一六歳になるからオートバイを買うようにと和子に迫り、伯父原芳彦の出張先にまで電話をし、「今金を持つて来い。六〇万円持つて来い。」と怒鳴りたて、更に同人の自宅に電話して伯母にも同様の事を言つたが、和子は、「殺すなら殺しなさい。そのようなことは伯父さんには言えない。」などと言つて賢一郎を止めた。被告人は、外出していても家庭が心配のため一日に三度くらい家に電話するようになつていたが、この日も電話すると通じないことから不安に思い帰宅すると、賢一郎は、和子を座らせて傘の先を突き付け、「これで顔を突くぞ。表に出て来い、話しがある。」と言い、和子をむりやり外に引つ張り出したが、間もなく直径三〇センチメートルくらいの石を自転車に積んで一人で戻り、これを被告人に向かつて投げ付けた。和子は、その間に路上で人事不省に陥り、救急車でそのまま東京大塚病院に入院するに至つた。このため被告人は、夜間同病院で和子に付き添うこととなり、二、三時間仮眠するだけの毎日が続いた。賢一郎は、和子の入院中一度だけ見舞いに行つたが、長く入院していると自分が不便だから、早く退院しろという態度であつた。そして、タミから賢一郎が入院後二日くらいおとなしかつたが三日目くらいから暴れだしたのでなんとかしてほしいと連絡を受けたことや、賢一郎が登校することを約束し、実際同月二八日登校したことから、和子は、医者が止めるのを振り切つて、翌二九日夜一週間で退院した。翌三〇日、賢一郎は登校のため家を出たもののほどなく戻り、二階の雨戸をたたき、タミが部屋に入れてやると暴れ回り、物を投げ付け、電話線を切り、タミが被告人らに助けを求めると、「告げ口するのか。」と怒鳴り、和子がこれをなだめてようやく一階の居間に下りて来ると、制服の下に着ていたワイシャツをカッターナイフで切つて着られなくし、制服用のネクタイも半分に切り離し、「おまえらのせいだぞ。」と言いながらこれを和子に投げ付け、靴やかばんを隣家の庭に投げ込み、カーテンを切り裂いた上、和子にカッターナイフを突き付け、「早く、あいつ(被告人)を表に出せ。」と叫ぶ始末であつた。和子が仕方なく出社を勧めたので、被告人は、出勤することにしたが、その際タミが、こつそり二階から降りて来て、「私は本当にたまらない。いつ殺されるか分らない。生きている気持ちがしない。父親としてなんとか方法はないんですか、なんとか考えてください。」と言うのを聞きながら家を出た。会社の上役は、出社して来た被告人の顔色が悪く、無精ひげを生やし、頭髪もぼさぼさであることにびつくりした。被告人が、会社を早退して、賢一郎のために新しいネクタイを買つて帰宅すると、留守中賢一郎が、「原宿に連れて行け。オートバイを買え。」などと言つて暴れたと和子から聞いた。
本件犯行の前日(同年五月二日)、被告人が午前五時ころ賢一郎を起こしに行くと、賢一郎はいつものように壁をたたいたりして起床し、登校のため家を出て行つた。被告人は、堀越高校に立ち寄り授業料を納めた後出張に行く予定で家を出たが、同校に行くと和子から至急帰宅してほしいとの連絡があつたので、急いで帰宅した。被告人が昼過ぎ家に帰宅すると、和子が髪の毛をぼさぼさにしたまま居間のソファにしよんぼりと座つており、いすやテーブルが倒れ、賢一郎の破り捨てられた教科書、じやがいもやにんじんが散乱し、魔法瓶が倒れ、足の踏み場もない状態であり、賢一郎が居間の奥の和子のベットに制服を着たまま大の字になつていた。被告人は、ひと目で、賢一郎が登校しないで家に戻り、和子の髪を引つ張り回すなどして暴れたなと分り、和子からも賢一郎が学校に行かず盗聴器を買つて来たので注意したところ、とたんに暴れ出したと聞いたが、一応騒ぎも終わつていることでもあるので、黙つて部屋の片付けにかかつた。ところが、和子が「着替えなさい。」と言うと、賢一郎は、ぱつと和子のベットの上に飛び上がり、「うるせえ。なんでおれが制服着ちやいけないんだ。おれに着せるのがもつたいないのかよ。」と言つて、はさみで自分が着ている、買つたばかりのズボンとワイシャツを切り裂き、ぱつと下りて来て、「おまえのせいでこうなつた。」と言いながら、はさみを和子ののど元に突き付けた。しばらくして、被告人が和子に休むように勧めると、賢一郎は、「寝かせない。食事に外へ連れて行け。」と言つて和子の胸倉をつかみ、け飛ばし、和子の病体では無理であると言われると、和子に料理を作ることを命じ、和子が作るたびに、これを犬の食器に明けたり、台所の流しに捨て、「今度はおれがおまえの飯を作つてやる。」と言つて、ご飯にケチャップ、しようゆ、酢、唐辛子を入れ、その上から湯をかけて混ぜたものを和子に食えと強要した。被告人がこれを制止すると、賢一郎は飼い犬を居間に入れ、「おれに文句言つたらどうなるか見とけ。」と言つて、犬の首輪を持つて宙づりにした。和子はこれを見かねてご飯に口をつけた。すると賢一郎は、「今から引つ越すから不動産屋について来い。この近所は気に入らない。」と言い、被告人夫婦がこれを拒否すると、雑誌「マンション情報」を自分の部屋から持つて来て、不動産屋に次々と電話したが、午後五時ころから電話をするようになつたため、不動産屋から断られ、ようやく電話するのをあきらめた。被告人が、午後九時過ぎ、食事を終えて今日はこれで休息したいと思いテレビのスイッチを入れると、賢一郎は、そのスイッチを切り、灰皿を被告人に投げ付け、「続きを今からやるんだ。」と言い、「こいつ(被告人)がいるから駄目だ。」「おまえ(和子)、こいつ(被告人)と別れろ。こいつの面見るのも嫌だ。」と真剣な顔でしつこく言い出した。賢一郎が被告人らに離婚を迫つたのは初めてのことであつた。そして和子に対し、「こいつと別れました。」という誓約書を書けと要求し、これを拒否されると、今日一日朝から賢一郎の言うことに全部反対して悪かつた旨の謝罪文を書くように迫り、これも拒否されると、和子をけ飛ばしたり、胸をこづいたりし、被告人が止めようとすると、魔法瓶を振り上げ、「おまえ(被告人)口出ししたら、これをこいつ(和子)に投げ付けるぞ。けがしても知らないぞ。灰皿投げられて、まだ口出しするのか。」などと言つたため、被告人も黙らざるを得なかつた。賢一郎は、更に自分の部屋から電気のコードを持つて来て、両端を両手に巻き付けて短くして、疲れてテーブルにうつぶせたままになつている和子に対し、「こいつは本当に言うことを聞かない。殺してやりたい。殺してやるんだ。」と言いながらコードで首を絞めるまねをした。しばらく、このようなまねをした後自分の部屋に一度引き上げたが、また戻つて来て、被告人に対し、「言うのを忘れた。おまえ、オートバイ、六月五日までに買えよ。盗んだつて手にはいるんだから。」「おまえも全然言うことを聞かない。おまえも殺されるぞ。あすは必ず続きをやるから。朝六時に起きて食事をするようにしろ。不動産屋に行つて家も決めるから、それを忘れるな。あいつ(和子)にもよく言つとけ。眠くなつたから寝るから。」と言い、ようやく翌三日午前一時ころ自分の部屋に戻つて行つた。被告人はテーブルにうつぶせになつた和子をベッドに連れて行つて休ませてから、ソファに腰掛けるといつの間にか仮眠してしまつた。背広の上着を脱ぎネクタイは外していたが、出張のための服装のままであつた。
(罪となるべき事実)
被告人は、一時間三〇分くらいしてふと目を覚まし、賢一郎のこれまでの行状や前日の出来事をあれこれ思ううち、賢一郎には社会生活をする上での基本的なものが欠けており、このままでは一人前の人間として社会生活をしていくことが難しく、時がたてばたつほど家族だけではなく他人にも迷惑をかける人間となるのではないかとその将来を憂慮した末、いつそ自分自身の手でけじめをつけ、賢一郎の生命を断ち、自らも後を追おうと決意し、昭和五六年五月三日午前三時ころ、東京都世田谷区松原一丁目一八番二○号所在の原タミ方一階四畳間において、就寝中の賢一郎(当時一五歳)の頸部に犬引き綱(昭和五六年押一〇〇〇号の一)を二回巻き付けて強く絞め付け、よつてそのころ同所で賢一郎を絞頸により窒息死させて殺害したものである。
(弁護人の主張に対する判断)
弁護人は、被告人が本件犯行当時高度のノイローゼ状態により心神耗弱の状態にあつたと主張する。
前掲各証拠によれば、なるほど被告人が、犯行当時、精神的にも肉体的にもかなり疲れており、平素より心の平衡を失つていたことは認められるが、本件犯行の動機に不可解な点はなく、犯行前後の状況をかなり詳細に記憶しており、賢一郎殺害後も遺書を書き、妻、義兄、警察官との応待ぶりに異常な点は見受けられなかつた等の情況も認められる。
これらに照らすと、犯行前後の被告人の言動に了解不可能と思われる点はなく、被告人は本件犯行当時いまだ事の是非善悪を識別し、これに従つて行動する能力が著しく減弱していなかつたものと認めるのが相当であるから、弁護人の主張は採用できない。
(量刑の理由)
本件は、両親とも大学卒で恵まれた家庭に育つた一人息子が、登校を拒否するようになるとともに凶暴化し、家庭で母親、祖母更には父親である被告人に対して毎日のように乱暴ろうぜきを働くようになつたことから、ほぼ十か月間にわたり耐えに耐えて来た被告人が、ついに思い余つて、当時高校一年生であつた我が子の命を断つたという、被害者、加害者の双方にとつて痛ましい、なんともやり切れない悲惨な事案である。
いつもは被告人のことを「おまえ」とか「ヤー公」とか呼んでいた賢一郎が、被告人の本件犯行の際最後に発した「お父さん、なにするんだ。」という言葉こそ、日ごろの仮面を脱ぎ捨てた賢一郎の実体だつたと思われる。確かに賢一郎は、身長は一七二センチメートルで父親と同じくらいあり、体だけは一人前であつたが、精神的に乳離れができておらず、神経質で自己中心的であり、被害者意識が強く、責任をすぐ転嫁する問題児であつたことは否定できない。しかし、賢一郎にしてみれば、学校へ行かなければならないことや家庭で暴力を振るつてはいけないことは十分分つていながら、行きたくとも行けず、狂人のように振る舞わざるを得なかつたであろう面もまた認めざるを得ないのである。賢一郎は、その原因がなんであるかを自分でも分らないまま、地獄の中から助けてほしいと苦しみもだえていた。賢一郎が死の直前に作成したと思われる抗議文と題する書面の中で、「私がお母さん、お父さん話し合いをしたいのですというと、父は笑つておれの話を聞いてくれないのです。」と書いたのは、彼独得の複雑に屈折した表現ではあるが、助けを求める叫びだつたと思われる。そうだとすれば、これに対する適切な措置がなんら講じられることなく、逆に助けてほしかつた父親の手によつて一五歳の短い人生を終えなければならなかつた賢一郎の心情は哀れである。若い一個の生命が永遠に失われたという結果の重大性を看過することは許されず、被告人の刑責はなんとしても重いと言わざるを得ない。
本件家庭内暴力が発生した原因として、被告人が仕事優先の生活を送り、息子の教育を第一次的には妻の和子に任せた結果、和子は一人息子を大層かわいがり、賢一郎がともすれば過保護になるのを放置し、父親としての責任を十分に果していなかつた一面がある。しかし、被告人夫婦が、被告人自身一人つ子であつたことから、賢一郎を甘やかすことを恐れ、ボーイスカウトや剣道部に入れて身心を鍛えさせようと努めていた面があつたことも事実である。また、人間の行動は、素質環境に影響されるところが大きいとはいえ、これによつてすべてが決定されるというものではなく、決定されつつも決定してゆくという面のあることも否定できない以上、高校生にもなつた賢一郎自身がまず第一番に深く反省しなければならなかつたことはいうまでもない。
次に、賢一郎のいわゆる家庭内暴力に対する被告人夫婦の対応の仕方が問題になる。和子は、当初、夫に対してすら賢一郎の暴力を打ち明けられず、まして梅丘中学の先生にはなかなか実情を話すことができなかつた。被告人は、妻や義母に対する賢一郎の暴力を知るや賢一郎に注意したが、賢一郎は直ちにそれを何倍かにして和子や祖母のタミに仕返しをしたことから、被告人は賢一郎に対し父親としての断固たる態度をとることをあきらめ、息子の気持ちを理解しようとする態度に終始した。このような被告人夫婦の態度が賢一郎の家庭内暴力に油をそそぐ結果になつたとの見方も十分成り立ちうると思われる。和子が、この問題を家庭内で処理しようとせず、もつと早期に、ざつくばらんに専門家に打ち明け、相談していたならば、そして、被告人が息子に対しもつと父親としてのき然たる態度を示していたならば、あるいは本件は別の経過をたどつていたかもしれない。しかし、家庭内暴力がどのようなものであるかさえよく分らなかつた被告人夫婦にとつて、その初期の段階で、賢一郎が判示のような経過をたどつて変ぼうして行くものと予想することは困難であつた。家庭内暴力に対処する仕方を知らなかつたことをもつて、被告人を強く非難することはできないと思われる。被告人夫婦は、必死になつて、国立小児病院、世田谷区教育委員会、北沢警察署、都立松沢病院等に相談しているのであるが、一つには被告人夫婦が家庭内暴力の実情を一〇〇パーセント打ち明けなかつたことにもよるが、一つには問題自体の難しさもあつて、どこに行つても「ある程度好きなようにやらせて、本人の自覚を待て。」といつた程度の話に終わり、真に有効適切な指示に接することはついにできなかつたのである。
被告人が本件犯行を犯すに至つた過程やその動機には、同情すべき点が少なくない。被告人は、賢一郎の異常に気付くや、これまでの生活態度をすぐに改め、息子を第一に考え、仕事は二の次とし、賢一郎が正常な状態に戻るよう涙ぐましい努力をした。子供のために好きな酒を断ち、中学三年生の体育祭には、賢一郎が集団になじむことができるかを内緒で見に行つたり、朝校門まで付き添つて行つたり、昭和五五年一一月末ころからは、体の不調を訴えだした妻に代つて学校との窓口となつたが、二日か三日に一度の割合で学校に電話したり、出掛けたりし、仕事もなげうつて、賢一郎の心の中に少しでも入り込もうと四六時中努めた結果、顔付までが、仕事をバリバリやるときの顔から子供のような顔に変わつてしまつたほどであつた。被告人がこのように賢一郎の立ち直りを願つて誠心誠意、できる限りの努力を尽したことは、疑いをいれる余地がない。しかるに、賢一郎の乱暴ろうぜきは治るどころか日に日に激しさを増し、家の中の障子やふすまは包丁で桟ごと壊され、カーテンはずたずたに切り裂かれ、食卓はひつくり返され、昼間からガラスの割れる音、和子の悲鳴が近所に聞こえた。家族はこの地獄のような一〇か月間を賢一郎の自覚を一日千秋の思いで待ちつつ、ひたすら耐えて来たが、この期待は無残にも破られた。犯行前数か月の賢一郎の状態は、家庭内暴力としてはその限界近くまで突き進んで行つてしまつており、賢一郎を家庭から隔離するという強力な手段を採る以外には、もはや何人も手を付けられないような荒廃状態に陥つていたのではないかと思われる。仮に、そのままの状態が五月三日以降も更に続いていたとしたら、被害者と加害者の立場が入れ替わつていた可能性すら絶無とはいえなかつた。この間、和子は、電車の中で突然泣き出したりするようになり、ノイローゼと診断され、薬なしでは生活できない状態となつていたにもかかわらず、賢一郎は容赦なく殴る、けるの乱暴を働き続けた。祖母のタミは「いつ殺されるか分らない。」と言つて再三にわたつて家を逃げ出し、犯行の前日にも被告人に対し「父親としてなんとかならないか。」と哀願していた。被告人自身も賢一郎からドラムのばちで殴られようが、灰皿を投げ付けられようが、ひたすら耐えて来たが、神経はぼろぼろになり、病床にある和子と相談することができないばかりか、その看護もしなければならず、睡眠不足の毎日が続いた。このように、被告人は本件犯行当時は心身ともに疲れ切つた状態にあり、周囲の状況を冷静に判断する心の余裕を失つたまま、一人思い悩み、賢一郎の将来に絶望し、その命を断つて自らも後を追おうとしたものであつて、第三者の目からみれば、あるいは浅慮な行為といえても、被告人が当時置かれていた状況に身を置いた場合、父親として本件犯行に出ざるを得なかつた気持ちもある程度理解できなくはない。
その他、本件は自らを犠牲にして妻及び義母を救おうとした一面も否定できないこと、犯行後妻や義兄の説得により自殺を思いとどまるとともに自首していること、家庭内暴力の実態、原因、治療法について、これまで一般に十分理解されていたとは必ずしも言い難く、被告人だけを責めるに酷であつてはならないと思われること、被告人は四四歳の今日まで一度も罪に問われることなくまじめに生活して来たものであつて、職場での評判も良く、社会的にも相当の地位と信頼を得ている者であること、法廷でも深い悔悟の情を示し、日夜賢一郎のめい福を祈つていること、近所の人など二六〇〇余名から減刑の嘆願書が提出されていること等の事情がある。
裁判所としては、右に述べた一切の事情を考慮し、本件については今回直ちに被告人を実刑に処するのは酷にすぎ、被告人の今後の自覚と自粛に期待するのが相当であると認め、被告人を懲役三年に処した上、五年間右刑の執行を猶予することとした。
よつて、主文のとおり判決する。
(花尻尚 小川正明 青柳勤)