東京地方裁判所 昭和56年(行ク)62号 決定 1981年7月17日
申立人 井上章夫
相手方 大蔵大臣
代理人 吉戒修一 手塚孝 ほか一名
主文
本件申立てを却下する。
申立費用は申立人の負担とする。
理由
一 本件申立ての趣旨は、「相手方が昭和五六年七月七日発表した一万円札及び五千円札の聖徳太子の肖像をそれぞれ福沢諭吉及び新渡戸稲造に、千円札の伊藤博文の肖像を夏目漱石の肖像に各変更し、同五九年秋から右変更に係る肖像記載の紙幣を発行する旨の処分の執行を停止する。申立費用は相手方の負担とする。」というもので、その理由の要旨は、右各肖像の変更は国民に対する事前調査を欠き、その判断権を有する国会の議決もないまま相手方の独断で行われたこと及び聖徳太子の肖像は国民の間に深く定着しているのに格別の理由もなくこれを変更することは国民感情を無視するものであること等の点において憲法及び法令に違反し、かつ新紙幣の発行は肖像変更のみならず、寸法の縮少をも伴うものであるため無駄な国費を伴うばかりか国民に対しても自動販売機その他につき重大な対応を余儀なくさせるものであるから、これが執行されると国及び国民に回復困難な損害を及ぼすことは明らかである、というにある。
よつて検討するに、日本銀行法三三条は、銀行券の種類及び様式は主務大臣が定め、これを公示する旨規定し、右公示は、従来官報による告示の方法をもつてされているところ、疎明によれば、相手方が申立ての趣旨記載のような三種類の銀行券の肖像及び寸法を昭和五九年秋から変更する旨新聞記者等との会見の席で発表したこと、右報道を伝える新聞紙上には肖像変更後の各銀行券の表部分の写真が掲載されていることを一応認めることができるが、相手方のした右行為は、単に新聞記者等に対し新銀行券発行の計画の概要を発表したものにすぎず、これをもつて日本銀行法三三条二項の公示があつたものとは到底解することができない。また、仮に、右の公示があつたとしても、相手方による銀行券の肖像等の様式変更が国民の権利義務に影響を及ぼすものとは解されないから、これを取消訴訟の対象となる処分ということもできない。
そうすると、本件申立ては停止すべき対象及び処分性を欠く点においていずれにしても不適法といわなければならない。
なお、仮に申立人が変更に係る肖像記載の銀行券の発行の停止をも求めているとしても、右銀行券の発行が国民の権利義務に影響を及ぼすものでないことは前同様であるし、日本銀行法二九条一項によれば右権限は日本銀行にあるからこれも不適法といわねばならない。
二 よつて、本件申立てを却下することとし、申立費用の負担につき行政事件訴訟法七条、民事訴訟法八九条を適用して主文のとおり決定する。
(裁判官 時岡泰 満田明彦 田中信義)
【参考】意見書(昭和五六年七月一四日付け被申立人意見書)
意見の趣旨
本件申立てを却下する
申立ての費用は申立人の負担とする
との決定を求める。
意見の理由
本件執行停止の申立ては、後述のとおり行政事件訴訟法(以下「行訴法」という。)二五条二項及び三項の執行停止の諸要件を具備しない不適法な申立てであるから、速やかに却下されるべきである。
第一新銀行券発行の法的手続
新銀行券発行の法的手続は、主務大臣である被申立人(大蔵省設置法四条三七号及び五九号参照)が、銀行券の種類(一〇〇〇〇円、五〇〇〇円等の幣種)及び様式(人像等の模様、寸法等)を定めて、それを公示し(日本銀行法三三条一項、二項)、その後日本銀行が大蔵大臣の定めた種類、様式の銀行券を発行することによりなされる。
第二本件の被申立人の新聞発表の経緯
昭和五六年七月七日正午、被申立人は、昭和五九年秋以降の発行を目途として、左記のような種類及び様式の新しい銀行券を発行するための所要の準備に着手した旨の発表を新聞記者等に行つた。
記
一 人像
新一〇〇〇〇円券 福沢諭吉(現行 聖徳太子)
新 五〇〇〇円券 新渡戸稲造(現行 聖徳太子)
新 一〇〇〇円券 夏目漱石(現行 伊藤博文)
二 寸法
新一〇〇〇〇円券 縦七六ミリメートル(現行八四ミリメートル)
横一六〇ミリメートル(現行一七四ミリメートル)
新 五〇〇〇円券 縦七六ミリメートル(現行八〇ミリメートル)
横一五五ミリメートル(現行一六九ミリメートル)
新 一〇〇〇円券 縦七六ミリメートル(現行七六ミリメートル)
横一五〇ミリメートル(現行一六四ミリメートル)
同時に、新しい銀行券の発行後も現在の銀行券はそのまま通用することとなる旨の説明を行つた。
右の被申立人の新銀行券発行準備の着手は、現在の一〇〇〇〇円券の発行(昭和三三年)以来約二三年、五〇〇〇円券の発行(昭和三二年)以来約二四年、一〇〇〇円券の発行(昭和三八年)以来約一八年を経過しており、この間の印刷・複写技術の向上を考慮すると、現在の銀行券は、その発行当時の紙幣製造技術としては最高の技術を使用されたものとはいつても、既に技術的には陳腐化しつつあるおそれがあり、偽造抵抗力が弱まつていると考えられること及び紙幣のサイズを若干縮少することによる紙幣製造能力の向上を図ることを主たる理由として行われたものである。また、新銀行券の様式としての人像は、偽造防止という技術的な観点から適切なものであること及び文化人から選定することが、国民各層に受け入れられやすいと判断したことによるものである。そして、これらのことを、将来、新銀行券発行のための所要の準備が整つた後、被申立人が日本銀行法三三条二項に基づき行う公示に先立ち、あらかじめ国民に知らしめておくことが望ましいとの被申立人の判断により、新聞発表がなされたものである。
本件の新聞発表の経緯は、右に述べたとおりであり、これに従い所要の準備が整つた後、被申立人は日本銀行法三三条二項に基づき新銀行券の種類及び様式を官報により告示することとなるわけである。
第三処分の不存在
行訴法二五条二項にいう処分の執行停止の申立ては、いうまでもなく行政庁の処分の存在を前提とする。
しかるところ、被申立人がなした行為は、右の第二において述べたように、新聞記者等に対し新銀行券発行の計画の概要及び右発行実施に必要な準備に一部着手したこと等を発表したにすぎないものである。すなわち、被申立人の新聞発表は、いうなれば、右の公示に向けての準備作業の一端を広く開陳したにすぎないものであり、処分というべき筋合いのものではなく、また、本件に関して他に何ら処分と目すべきものは存在しないのである。
したがつて、本件申立ては、申立ての対象を欠くものであるから、不適法であり、却下されるべきである。
第四処分性の不存在
取消訴訟の対象となる行政庁の処分とは、公権力の主体たる国又は公共団体が行う行為のうち、その行為によつて、直接国民の権利義務を形成し、又はその範囲を確定することが法律上認められているものをいう(最高裁昭和三〇年二月二四日第一小法廷判決・民集九巻二号二一七ページ)。
仮に、被申立人の新聞発表が、行政庁の行為であることのみから処分と解されるとしても、それは右に述べた取消訴訟の対象となる行政庁の処分とはいえない(このことは、また、将来、本件の新銀行券発行に関して被申立人が日本銀行法三三条二項の公示を行つた場合にも同様である。)。
というのも、新たな種類及び様式の銀行券が発行されたとしても、前記第二において明らかにされているように、従前発行された銀行券は、そのこととは何ら関わりなく公私一切の取引に無制限に通用する(日本銀行法二九条二項)ものであるから、従前発行された銀行券を保有する者には何らの損害も生じることはなく、したがつて、新銀行券の発行は国民の権利義務に影響を及ぼすことはないからである。
申立人は、本件の新銀行券の発行は、聖徳太子に対する国民感情に反し、また、自動販売機その他につき国民の側において重大なる対応を余儀なくされると主張する。聖徳太子に対する国民感情とはいかなるものであるかは定かではないが、それは一応さておくとしても、かかる国民感情が法律上保護された利益ではないことは明らかであるし、また、かかる国民感情及び自動販売機等の利用は、現行の銀行券がその様式として聖徳太子という人像を採用し、あるいは現在の寸法を採用していることの反射的利益にすぎないものであり、到底法律上保護された利益とはいえないことは明らかである。
したがつて、被申立人の新聞発表は取消訴訟の対象となる処分とはいえないから、本件申立ては不適法なものとして却下されるべきである。
第五回復の困難な損害の不存在
行訴法二五条二項の執行停止の申立ては、その要件として回復の困難な損害の存在することが必要であり、右の損害は、個人的権利・利益の損害に限られ、かつ相当因果関係のあるものでなければならないのである(南博方編・注釈行政事件訴訟法二三〇ページ(藤井俊彦))。
申立人の主張する回復の困難な損害がいかなるものかは、主張自体不明確なため容易に理解し難いが、これを善解すれば、新銀行券の発行が、聖徳太子に対する国民感情に反し、自動販売機その他につき国民の側で対応を余儀なくされ、予算措置その他関係措置を伴う、というもののようである。
右のうち、国民感情及び自動販売機等の利用の点は、仮にそのことにつき何らかの損害が発生したとしても、受忍すべき損害というべきであり、予算措置の点については、予算措置の適否を一私人が取消訴訟の違法事由として主張することは取消訴訟がいわゆる主観訴訟であることからいつて許されないことであるといわなければならない。
以上、要するに、申立人には回復困難な損害が発生することはなく、本件申立ては不適法であるから、却下されるべきである。
第六緊急の必要の不存在
本件の新銀行券の発行は、これから直ちになされるものではなく、第二で述べたように、昭和五九年秋以降を目途とするものであり、申立人の主張するような損害の発生する可能性が時間的に切迫しているとは到底いえないのであるから、本件申立ては不適法なものとして却下されるべきである。
第七本件申立ては、本案について理由がないとみえるときに当たる。
本件の被申立人の新聞発表は、第二において述べたとおり、日本銀行法三三条の趣旨に従つてなされたもので何ら違法のそしりを受けるものではない。
申立人は、右の新聞発表が、事前に何の連絡もなく、調査もなく、あるいは新銀行券の人像につきアンケートその他が実施されずになされたと主張するが、銀行券の種類、様式を定める根拠法規である日本銀行法は、銀行券の種類及び様式を定めるに際して、申立人主張のような手続を要求していないのであるから、かかる手続が履践されなかつたからといつて、被申立人のした新聞発表が違法となる筋合いものではない。
以上、要するに、本件の新聞発表は何ら違法のそしりを受けるものではないから、申立人の本訴請求は本案について理由がないとみえるときに当たるというべきである。したがつて、本件申立ては不適法なものであるから、却下されるべきである。