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東京地方裁判所 昭和57年(行ウ)103号 判決 1989年3月01日

原告

新田ミヨ

右訴訟代理人弁護士

中野麻美

能勢英樹

黒岩哲彦

荒木雅晃

被告

品川労働基準監督署長

藤枝丞

右指定代理人

荒堀稔穂

外三名

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告が昭和五五年六月一一日付で原告に対してした労働者災害補償保険法による遺族補償給付及び葬祭料を支給しない旨の処分を取り消す。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

二  請求の趣旨に対する答弁

主文に同じ。

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  原告の亡夫新田庄一郎(以下「庄一郎」という。)は、中央田中電機株式会社(以下「本件会社」という。)に雇用され、電気工事士として勤務していたものであるが、昭和五四年四月二四日、本件会社事務所において残業中、脳底動脈分岐部における0.3センチメートル径の脳動脈瘤破裂に起因するくも膜下出血により死亡した。死亡時の年齢は三四歳であった。

2  原告は、庄一郎の死亡は業務上の死亡に該当するとして、被告に対し、昭和五四年七月六日に労働者災害補償保険法所定の葬祭料の請求を、同年八月一七日に遺族補償年金の請求をそれぞれ行ったが、被告は、昭和五五年六月一一日、前記各給付を支給しない旨の処分(以下「本件処分」という。)をした。

3  原告は、本件処分を不服として、昭和五五年七月二一日に東京労働者災害補償保険審査官に対して審査請求をしたが、同年一二月一七日、右請求を棄却され、さらに昭和五六年二月一〇日に労働保険審査会に対して再審査請求をしたが、昭和五七年四月二三日、右請求も棄却された。

4  しかしながら、庄一郎の死亡は、以下に述べるとおり、責任の重い、深夜にわたる長時間の、不規則かつ密度の高い労働の連続によるもので、業務上の事由に起因する疾病の結果として生じたものである。

(一) 庄一郎の業務の内容

庄一郎は、昭和五〇年二月以降工事課長代理として、また、昭和五三年九月以降工事課長として、本件会社の業務の大半を占める電気工事業務に携わっていた。

本件会社が扱う電気工事は、マンション、工場、学校等の新築又は増築に伴うもので、必然的に建設会社との共同作業となるものであるが、同人が昭和五三年四月から死亡までの一年間に直接担当した工事現場は別表1に示すとおりであり、その行動範囲は、都内ばかりでなく、厚木市、横須賀市、山梨県談合坂等の広い範囲に及んでいた。

同人が工事課長就任後に従事していた業務の具体的内容は、別表2に示すとおりである。

(二) 庄一郎の業務の特徴

(1) 庄一郎の地位

庄一郎は、昭和三八年四月、工業高校電気科卒業と同時に、電気工事技術者として本件会社の元請会社にあたる大栄電気株式会社に入社し、昭和四五年九月同社を退社、同年一〇月から昭和四八年四月まで別会社に勤務した後、同年五月に本件会社に入社した。

その後一年ほどで原告の経営する飲食店の手伝いのため同社を退いたが、昭和五〇年二月に再入社し、工事課長代理として、同社の厚木出張所が管轄する工事について、設計、積算、現場監督等の業務に従事していた。

そして、昭和五三年九月の工事課長昇進以降は、本件会社が受注する全工事の総責任者として、従前から担当する現場に加えて、別表1に示した多数の現場を担当することとなった。庄一郎の直属の上司である工事部長田中実は、電気工事士の資格がなく、また実践経験もないため、電気工事部門の全責任が工事課長に負わされたのである。

本件会社は、従業員一五名程度の小規模な電気工事会社であるが、昭和五三年四月以降庄一郎が工事課長に昇進した同年九月までの間に男子社員一〇名中五名が退職し、これに対し新規採用者は経験のない新卒者二名のみであり、また庄一郎の工事課長昇進以降は、従来営業部において行っていた伝票整理等の会計事務も工事課長の負担とされたため、同人の負担は非常に大きくなった。

同人の負担がいかに大きいものであったかは、通常、一人で直接担当し得る現場は一、二か所程度であるのに、工事課長昇進後の同人は、従前から直接担当していた現場に加えて、他の多くの現場を工事課長として担当したことによって明らかである。

(2) 長時間・不規則労働

本件会社は、前記のとおり、昭和五三年九月以降従業員数が大幅に減少していたにもかかわらず、このような少人数の従業員で行うには余りにも多数の工事を受注し、その結果、常時一四、五件程度の工事をかかえるという異常な状況にあった。

そのため、庄一郎は、常時多数の現場を担当し、かつ、それぞれの現場について前記のような多数の業務を処理しなければならないこととなり、その結果、以下のような形で、非常にストレスと疲労の大きい労働を強いられる状態となった。

① 残業が恒常化しており、一方、現場における打合せ等のために早朝に家を出なければならないことも多く、また、元請や建設会社との関係でどうしても工期を守らねばならず、そのため、他社の工事の進行具合を見きわめ、場合によっては、臨時の従業員を手配する等の必要があり、工事完成前の点検や完成後の事故への対応等も速やかに行わねばならず、早朝出勤、深夜の帰宅が常態となっており、帰宅せず外泊することもたびたびあり、休日もほとんどとれない状態が長期間にわたって続いた。

② 担当している工事の現場が、前記のとおり広範な地域にわたっているため、自動車の使用が不可避であったところ、その年間走行距離は三万キロメートルを下ることはなく、また遠方の現場に出向く際には、二〇〇キロメートル以上走行することもままあり、運転による疲労が大きかった。

③ 多種多様の業務を限られた時間の中で処理しなければならないこと、各現場の責任者たる主任管理技術者の地位にあること、若年者が担当している現場については、その指導もあわせて行わねばならないことなどから、労働密度が高く、また現場の責任者として従業員の安全衛生の管理や待遇上の不満の調整等も行わねばならないことから、肉体的疲労に加え、常時高い精神的緊張が持続していた。

(3) 健康管理面での会社の無配慮

庄一郎は、本件会社再入社後の昭和五〇年七月の健康診断で糖尿病と診断されたが、その約一年後の昭和五一年七月には、これに加えて、肝炎、腎炎等が発症しており、そのため同年八、九月には四七日間にわたって入院治療を受けるなど、同人の健康状態は短期間のうちに急激に悪化していた。

それにもかかわらず、同人は、昭和五二年以降、多忙のために健康診断を受けることも難しい状態であり、一方、本件会社は、同人の健康を考えてその業務内容について配慮する等の措置を一切とらなかった。

(三) 死亡に近接した時期の過重労働

以上のとおり、庄一郎が死亡前に本件会社において担当していた業務はきわめて過重かつ高密度なものであったが、死亡に近接した時期には、以下のとおり、これが一層激しいものとなっていた。

(1) 死亡前の二か月間の状況

死亡前の昭和五四年三、四月の二か月間に庄一郎が担当した現場数は、一〇件近くで通常一人で担当し得る現場数の三倍にものぼり、その中には、前記のとおり遠方の現場の工事も含まれていた。

また、この時期には、多数の工事が終了し、あるいは新たに開始しており、これらの現場については、受注、着工あるいは工事の完成と検査等に伴い、特に多くの業務を行う必要があった。

さらに、この時期には、都立日比谷高校電気工事(以下「日比谷工事」という。)、横須賀海軍施設電気工事(以下「横須賀工事」という。)の二つの特殊な工事が進行しており、これらは本件会社が官公庁から直接受注する初めての工事でもあったので、庄一郎は、これらの工事の責任者として相当の負担を強いられた。

そのため、この間、同人はほとんど休日をとっておらず、また連日深夜に帰宅する状態で、過労は極致に達していた。

(2) 死亡前の一週間の状況

庄一郎は、昭和五四年四月一三日から一五日までの間、弟の結婚式のために会社から直接福岡に帰省し、同月一六日には帰京して自宅にも戻らずそのまま仕事についた。

その後死亡の前日までの間、仕事がたまっていたことから、連日深夜に帰宅し、三、四時間の睡眠をとっただけで出勤する状態であった。また、この間、同月一八日には自ら担当している厚木の武部鉄工工場メンテ工事の現場で事故があったことから、現地で深夜まで働き、そのまま宿泊している。

さらに、工事課長としての庄一郎の業務量は、現場からまわってくる請求書類の整理等のため月の後半にはより大きくなるのが常であったところ、死亡当月もその例にもれず、この時期にはこうした会計事務も輻輳していた。

(3) 死亡当日の状況

死亡当日には、庄一郎は、他の従業員らとともに、前記の横須賀工事の関係で、横須賀米軍基地へ出入りするパスポートを取得するのに必要な面接のために横須賀に出向いた。

面接は、予め提出していた履歴書に基づき一人ずつ行われるものであるため、非常に精神的緊張度の高い業務であり、また同人にとっては初めての体験であったことに加え、同人は朝から頭痛や吐き気がして体調が悪く、むし暑い日であったこともあって、同人の疲労は極限に達していた。

それにもかかわらず、同人は、この日も伝票整理事務を行うため一人で残って残業し、その後間もなく、便所で排便中に脳動脈瘤破裂によりくも膜下出血を起こして死亡した。

(四) 脳動脈瘤破裂によるくも膜下出血発症の機序

脳動脈瘤が発生し破裂するに至るまでの機序については、必ずしも十分に解明されてはいないが、一般に、脳動脈分岐部中膜の局所的欠損等の先天的要因と、高血圧その他の血行力学的要因等の後天的要因とが考えられている。

そして、以上のうちでも、後天的要因、ことに過労とストレスは、自律神経の乱れに伴う血圧上昇と血管壁自体の脆弱化、老化を招いて、脳動脈瘤形成、肥大、破裂の直接的な原因となることが明らかにされている。そして、発症のリスクファクターとして、高血圧症、動脈硬化症、糖尿病などの基礎疾病、体質、遺伝、食生活、気候、喫煙、飲酒のほか、労働があり、特に労働に関しては、疫学的調査により、不規則、深夜勤、長時間労働の影響の大きいことが明らかとなっている。

また、脳動脈瘤が破裂する危険が生じてくるのは直径約0.4センチメートルくらいからといわれており、その好発年代は五〇歳代といわれている。

(五) 業務起因性

(1) 業務起因性の意味及び立証責任

資本制生産の下で従属的地位にある労働者とその家族の最低生活を保障するという労働者災害補償制度の制度趣旨からすれば、業務起因性があるというためには、業務と疾病との間に、相当因果関係があることまでは必要なく、単に合理的関連性があることをもって足りるというべきである。

そして、基礎疾患が存在する場合の新たな発症については、基礎疾患に悪影響を与えるような性質の業務に長期間継続して従事していた事実がある場合には、業務と基礎疾患が共働原因となって発症したものと推定されるべきであり、これを否定する立証がない限り業務上の発症と認定されるべきである。

ことに、雇用者の側に、本件のように労働者の健康管理について配慮を欠いた事実があった場合、右事実は、労働者の健康を害する危険を増大させるものであるから、前記のような推定は一層強力に働くべきである。

(2) 本件における業務起因性

庄一郎は、前記のとおり、きわめて過重で疲労度、ストレスの高い労働に長期間継続して従事しており、これと前記のような同人の基礎疾患とが相まって、血管の脆弱化ひいては脳動脈瘤の後天的な形成ないし肥大を招いていたものである。

ことに死亡に近接した時期の長時間かつ不規則な密度の高い労働は、同人の基礎疾患を増悪させ、極限に近い疲労を蓄積させていた。

このような状況において、死亡当日、庄一郎は、暑さの中で極度の精神的緊張を伴う業務に従事し、一過性の血圧上昇が生じやすい状態で帰社し、一人で残って残業中たまたま排便を行っていた際に脳動脈瘤破裂に起因するくも膜下出血により死亡したものである。

庄一郎は死亡当時三四歳であり、その脳動脈瘤は直径0.3センチメートルにすぎず、その破裂はむしろ若年かつ早期の破裂として例外的なものであったことをあわせて考えるならば、同人の脳動脈瘤の形成ないし破裂についての業務起因性は十分に認められるものである。

よって、庄一郎の脳動脈瘤の形成ないし破裂について業務外のものであるとした被告の本件処分は違法であるから、その取消しを求める。

二  請求原因に対する認否及び被告の主張

1  請求原因1については、庄一郎の死亡したのが残業中であることは争い、その余は認める。同2、3の事実は認める。

2  同4について

(一) 冒頭の主張は争う。

(二) (一)(庄一郎の業務の内容)については、第一段の事実は認める。

庄一郎が担当した工事現場については、原告主張の現場の多くについて、同人が工事課長としてなんらかの形で関与していたことは認める。

庄一郎が工事課長就任後に従事していた業務の項目については、おおむね原告主張のとおりである。

しかしながら、これらの業務の中には工事部長田中実の職務と重複するもの、あるいは主として現場担当者の職務とされるものも多く、また、同人の工事課長就任以降、肥後陽一が同人の補佐としてデスクワーク以外の業務を行っていた。さらに、例えば現場でのトラブル等はそれほど頻繁に起こるものではない。

結局、同人の主たる業務は、電気工事士の資格を有する五人の課長代理に対する指導監督及び現場における定例の打合せ会への出席であり、かつ後者についてもすべての現場のそれに出席していたわけではなく、また、その回数についても、例えば同人が主任管理技術者であった日比谷工事についてみても週一回程度であった。

(三) (二)(庄一郎の業務の特徴)について

(1)(庄一郎の地位)については、庄一郎の経歴と担当職務、本件会社の従業員数は認め、その余は不知ないし争う。

(2)(長時間・不規則労働)については、冒頭の部分につき、不知ないし争う。

①(残業等)については争う。庄一郎の職務は、その特殊性のゆえに、勤務が時に深夜に及ぶこともあったが、頻度はそれほど高いものではなく、深夜の帰宅については、マージャン、飲酒による酔いさまし等、業務外の私的な理由によることも多かった。また、休日も疲労の回復をはかりうる程度にはとっていた。

②(自動車の使用による疲労)については、争う。庄一郎が現場の指導監督を行い、あるいは現場における定例打合せ会に出席する必要のある現場数は月平均4.75件、割合からすると都内五三パーセント、都外四七パーセントであって、しかも都外の現場は、厚木市、横須賀市、山梨県談合坂に限られており、運転による疲労はさほど大きなものではなかった。

③(高度の精神的疲労)については争う。庄一郎の業務内容は、同人の経験度からみても、また、工事部長が分担処理し、かつ肥後陽一が補佐していたことからみても、特に肉体的、精神的に過重なものではなく、その負担は中間管理職として特に重いものであったとはいえない。

(3)(健康管理面での会社の無配慮)については、庄一郎の健康状態はおおむね認め、同人が昭和五二年以降健康診断を受けなかったことは認め、その余は争う。

庄一郎が昭和五二年以降健康診断を受けなかったのは、同人の都合によるものである。

(四) (三)(死亡に近接した時期の過重労働)について

冒頭の事実は争う。

(1)(死亡前の二か月間の状況)については、この期間中に原告主張のような工事が進行していたことはおおむね認めるが、その余は不知ないし争う。この間に、従前に比して庄一郎の労働が特に過重であったことはない。また、休日も昭和五四年三月には三日、同四月には四日(うち二日は弟の結婚式出席のための休暇)とっている。

(2)(死亡前の一週間の状況)については、庄一郎が帰省したこと、昭和五四年四月一八日に厚木の現場で深夜まで働きそのまま宿泊したことは認め、その余は争う。

(3)(死亡当日の状況)については、第一段の事実及び庄一郎の死亡の事実は認め、その余は不知ないし争う。

当日の面接手続には、工事部長も同行していて、庄一郎が責任者ではなかったし、面接時間は一人一五分程度であり、午後三時ころには終了して、帰社途中及び帰社(午後五時三〇分ころ)後に休憩もとっている。

したがって、これが庄一郎にとって極度に緊張を強いる業務であったとは考えられないし、同日の庄一郎の状態にも変わったところはみられなかった。また、同人が一人で事務所に残った理由についても、自動車の運転に備えて酔いをさますためであり、その間を利用して伝票整理事務を行ったにすぎず、伝票整理のために残業をしたものではない。

(五) (四)(脳動脈瘤破裂によるくも膜下出血発症の機序)については、原告主張のような先天的要因と後天的要因とが考えられることは認めるが、その余は争う。

脳動脈瘤の成因としては、動脈の体質的脆弱性と動脈硬化症が考えられる。動脈硬化症が認められない場合は、先天的な体質的脆弱性によるものとするのが医学的常識であり、庄一郎の場合は動脈硬化症はなかったものであるから、これにあたる。

また、脳動脈瘤は、はっきりした誘因なしに、いつでもどこでも破裂する可能性があるものであり、ストレスや過重労働の存在とその破裂とは特に関係がない。

しかし、一方、一過性の血圧上昇に伴ってこれが破裂することは経験的に認められるものであり、ことに排便中の破裂率はかなり高いといわれ、庄一郎の場合も、これにあたるものと考えられる。

(六) (五)(業務起因性)について

(1)(業務起因性の意味及び立証責任)の原告の主張は争う。

業務起因性があるというためには、業務と疾病との間に相当因果関係がなければならず、相当因果関係があるというためには、他に競合する原因があっても、業務が疾病の相対的に有力な原因であれば足りるが、業務が疾病の単なる機会原因になったにすぎない場合は、相当因果関係があるとはいえない。

また、脳血管疾患は、虚血性心疾患と並んで、基礎となる血管病変等が諸種の要因によって増悪し発症に至ることが多く、業務との直接的関連性を認めることのできない場合が多いのであるから、その業務起因性を判断するにあたっては、血管病変等がその自然的経過を越えて急激に著しく増悪し発症に至ったか否かを慎重に判断する必要があり、これを判断するについては、業務に関連する異常なできごとに遭遇し、あるいは日常業務に比較して特に過重な業務に従事したことにより、発症前に業務による明らかな過重負荷を受けたことが認められるか否か、また過重負荷を受けてから症状の出現までの時間的経過が医学上妥当なものであるか否かを考慮する必要がある。

また、労災補償制度の理念は、財産上の損害賠償に由来するものであり、これについては使用者に無過失の補償責任が課されていることからしても、被災労働者が補償事由の存在についての立証責任を負うべきことは当然である。

(2)(本件における業務起因性)については争う。

前記のとおり、庄一郎は特に過重な労働に従事していたものではないし、死亡の直前において日常の業務に比して特に過重な業務に従事し、これにより明らかな過重負荷をこうむったものでもない。

同人の死亡は、血管の脆弱がありかつ既に飽和状態にあった同人の脳動脈瘤が、排便中の一過性血圧上昇により破裂した結果によるものであり、むしろ脳動脈瘤の自然増悪による破裂とみるのが自然であって、業務とは関係がないものというべきである。

なお、庄一郎には、肝炎、腎炎、糖尿病等の疾患があり、高血圧症であったにもかかわらず、同人は、昭和五二年以降定期的な健康診断を受検せず、治療も受けなかった。

また、明らかな肥満がありながらこれを解消する努力をせず、多量の飲酒を繰り返しており、喫煙の習慣もあった。これらの事情は、同人の血管病変の増悪になんらかの形で寄与していたものと考えられる。

第三  証拠<省略>

理由

一請求原因1(庄一郎の死亡したのが残業中であることを除く。)、2、3の事実は、いずれも当事者間に争いがない。

二庄一郎の経歴

庄一郎の経歴が請求原因4(二)(1)の第一段のとおりであること及び同人が昭和五三年九月に本件会社の工事課長に昇進したことについては、いずれも当事者間に争いがない。

三庄一郎の業務の内容等

1  <証拠>によると、以下の(一)ないし(五)の事実が認められる。

(一)  本件会社の規模及び職制等

本件会社は、電気工事を主たる業務とする従業員約一五名の小規模な会社であり、営業部については実質的には部長一名のみが稼動しているような状況であったので、電気工事業務については、もっぱら工事部ないし工事課長が主体となってこれを行っていた。

そして、昭和五三年四月以降、男子社員約一〇名中五名が退職し、一方、新規に採用された男子社員二名は未経験かつ若年の者であったという状況のもとで、庄一郎は同年九月に工事課長に昇進した。

(二)  庄一郎の業務の内容

別表2の各業務(庄一郎がなんらかの形でこれらの業務を行っていたことについては、当事者間に争いがない。)についての、庄一郎の工事課長としての関与の程度は、以下のとおりであった。

(1) 工事受注のための見積りについては、主として田中実工事部長(電気工事士の資格を有していた。)が行っていたが、庄一郎もある程度の部分を分担しており、ことに、大規模な工事で短期間に入札を行わねばならないような場合には、両名が協力してこれを行っていた。

(2) 見積りに基づく元請業者、施主との値段交渉については、営業担当者が行っていたが、工事部長や庄一郎も協力して行っていた。

(3) 実行予算の作成、受注当初の下請業者や材料の手配については、庄一郎が主として行ったが、工事部長が協力することもあった。

(4) 設計・施行図の作成、工事現場の監理、工事現場における定期の打合せ、工事現場において発生したトラブルの処理、各種会計処理については、第一次的には、各工事現場における直接の担当者がこれを行っていた。

ただし、設計、施行図については、必要に応じて庄一郎がチェックを行い、各現場の監理については、担当者に加えて庄一郎も、通常月一回程度、重要な現場については週一回程度の割合で順次これを行っていた。各現場における打合せについては、庄一郎が主任管理技術者となっている場合は、定期的に参加していた。現場において発生したトラブルについては、必要に応じて庄一郎も出向いていたが、回数はさほど多くはなかった。会計処理については、月々の各工事の出来高計算、担当者が支出した経費の伝票整理等があったが、これについては、担当者が作成したものを庄一郎においてまとめる作業を行っていた。

(5) その他会社内部のトラブル(賃金に対する従業員の不満等)については、工事課長として行うべきものは、庄一郎が対処していた。

(6) なお、以上のような庄一郎の工事課長就任後の業務のうち、デスクワーク以外のもの、特に小さな現場の監理等については、昭和五三年に本件会社を退職した肥後陽一が、非常勤の補助者という形で、これを補佐していた。

結局、庄一郎は、工事課長として、実行予算の作成、受注当初の下請業者の選定や材料の手配、各工事の進行状況の把握、定期的な現場監理、重要な現場についての打合せへの出席、各種会計処理のまとめ等を主な業務として行っていたものである。

(三)  庄一郎の担当現場

庄一郎が、昭和五三年四月以降、昭和五四年四月の死亡までの間に関与した現場及び関与の期間は、おおむね別表1の黒の実線で表示したとおりであり(ただし、昭和五四年四月開始の住公関東、増沢フラッツの各工事については、庄一郎の関与の具体的態様は明確でない。)、同人は月六ないし一〇件程度の工事になんらかの形で関与していた。

これらのうち、昭和五三年九月の同人の工事課長就任後において、同人が直接の担当者として担当した現場は、同人が本件会社厚木出張所勤務時から担当していた武部鉄工関係の二件の工事のみであり、その余は工事課長として、前記のような形で、直接の担当者の監督等を行っていたものである。

これを個々の工事についてみると、以下のとおりであった。

(1) 武部鉄工関係の二件の工事(工場メンテと品川工場移設)については、直接の現場担当者として行うべき各種の業務を行っており、死亡前の数か月についてみると、工場メンテ工事の関係で、週一回程度の打合せに出席していた。

(2) 日比谷工事については、昭和五四年一月開始以降主任管理技術者として週一回程度の打合せに出席していた。横須賀工事についても、昭和五四年三、四月の間に、同様の資格で合計三、四回程度打合せに出席していた(なお、同工事については、本格的な工事の開始には至っていなかった。)。

これらの工事は、本件会社が官公庁から受注した初めての工事であり、また日比谷工事は、本件会社の行う工事としては大規模のものであったこと等から、これら工事の見積りについては、工事部長、庄一郎、担当者らが協力して行った。

(3) 高岳工事から受注した中央高速談合坂工事(以下「談合坂工事」という。)については、月二ないし三回程度の割合で現場監理を行っていた。

(4) その余の各工事については、前記のとおり工事課長としての通常の業務を行っていた。

(四)  庄一郎の業務の特質

庄一郎の工事課長の業務は、現場に出向いて行うものが多いことや限られた期間内に集中して行なわれるものが多いことから、残業あるいは早朝の勤務が多く、場合によっては、深夜にわたる勤務あるいは現場付近での宿泊を行うこともあり、まれには徹夜で業務を行うこともあった(以上の認定に反する証人秀島徳彦の証言は、採用しない。)。また、休日の出勤についてもかなりの割合でこれを行っていた。

ただし、庄一郎の工事課長就任後死亡までの約七か月間についてみると、深夜にわたる業務が継続したのは、昭和五三年一二月ころであり、この時には武部鉄工関係の工事のために、約二週間にわたって深夜一二時過ぎまでの業務が続き、その間徹夜も数回行っていた。しかし、その後は、こうした深夜業が連続して行われたことはなかった(この点については、死亡前の数か月間において、庄一郎の帰宅時間が継続して深夜にわたっており、同人の睡眠時間も極度に短くなっていた旨の原告本人尋問の結果があるが、前掲の他の関係各証拠に照らし、右本人尋問の結果のみから、死亡前の数か月間において同人の業務が継続して深夜にわたっていたとの事実を認めることは困難である。)。

(五)  庄一郎の行動範囲

庄一郎の業務に伴う移動の地域的範囲は、都内のみならず近県にもわたっていたが、昭和五三年九月の工事課長就任後についてみると、都外のものは、横須賀、談合坂及び武部鉄工関係の厚木の各工事であり、都外に自動車で出向く割合は、多くて月五、六回であった。

2  まとめ

以上によると、庄一郎は、本件会社の従業員数が大きく減少した昭和五三年九月の時点で工事課長に就任し、従前から直接担当していた現場を含めて常時六件以上の現場を担当あるいは監督し、各現場について、直接の担当者あるいは工事課長として、前記認定のような種々の業務を行っていたものであり、業務の態様が時間的に不規則であったことや、月五、六回の自動車による都外への運転を含んでいたこと等を考えあわせると、同人が、工事課長就任時において、電気工事技術者として約一五年の経験を有していたこと及び工事部長及び肥後陽一の協力、補佐があったことを考慮に入れても、その業務の負担は、一般的にみればかなり重いものであったということができる。

四死亡に近接した時期の業務の態様

1  死亡前の二か月間の状況

三1の冒頭に掲げた各証拠によると、庄一郎の死亡前の昭和五四年三、四月には、同人が工事課長として担当する現場は、それ以前より数件増えて九ないし一〇件程度となっていたこと、その中には同時期に工事が開始するものあるいは開始して間もないものが多く、ことに前記三1(三)認定のとおり、日比谷、横須賀各工事のように積算、打合せ、監理等にかなりの負担を伴うものがあり、あるいは、横須賀、談合坂、武部鉄工工場メンテ各工事のように遠方の現場に定期的に出向く必要のあるものがあり、また、日比谷、横須賀各工事のように本件会社が官公庁から直接受注する初めての工事であって庄一郎が主任管理技術者に指定されていたものがあること、この間月二回程度の休日出勤があったこと、残業も相当に多かったことがそれぞれ認められる。

以上によると、死亡前の二か月間の庄一郎の業務の負担は、一般的にいえば、昭和五三年九月の同人の工事課長就任後の経過の中でみても、比較的重いものであったということができる。しかし、深夜にわたる業務の連続の有無という観点からみれば、前記三1(四)認定のとおり、昭和五三年一二月ころが最も厳しい時期であり、その後これに比肩し得るような事態はなかったものであり、そうした観点からみる限り、この間の庄一郎の業務が、時間的に非常に不規則かつ過重なものであったとまで認定することはいささか困難である。

2  死亡前の一週間の状況

死亡前の一週間の状況については、前掲各証拠によれば、この間が月の後半で、庄一郎が工事課長として各種会計処理のまとめを行うべき時期にあたっており、その分の相応の業務負担があったこと、同人は昭和五四年四月一三日から一六日まで、週末をはさんで弟の結婚式のため故郷の福岡に帰省しており、その間の事務の処理のために、帰京後に負担が加わったことは、いずれも推認に難くなく、また同月一八日には、同人が、武部鉄工工場メンテ工事の事故の処理のため厚木に出向き、現地で深夜まで働き、そのまま宿泊したことについては当事者間に争いがないが、以上のような事実以外に、この一週間の庄一郎の業務の負担が、死亡前二か月間の平均的な同人の業務負担に比して著しく重くなっていたことは認めることができない(この点については、死亡前の一週間について、庄一郎が、連日深夜を過ぎてから帰宅し、数時間しか睡眠をとらなかった旨の原告本人尋問の結果があるが、前掲の他の関係各証拠に照らし、右本人尋問の結果のみから、この間に庄一郎が連続して深夜にわたる業務を行っていた事実を認めることは困難である。)。

3  死亡当日の状況

死亡当日、庄一郎が、他の従業員とともに、横須賀工事の関係で横須賀米軍基地へ出入りするパスポートを取得するのに必要な面接のために横須賀へ出向いたこと、及び同人が帰社後一人で会社に残り、便所で排便中に脳動脈瘤破裂によるくも膜下出血により死亡したことについては、いずれも当事者間に争いがない。

そして、<証拠>によると、当日の面接については、工事部長も同道しており、責任者は工事部長であって、庄一郎は取りまとめを行ったにすぎないこと、面接は、一人につき一五分程度のものであり、午後三時ころには終了したこと、質問は、予め提出しておいた履歴書に基づいて行われたが、おおむね形式的な事項についてであったこと、帰社の途中で喫茶店に立ち寄り、また、帰社後には工事部長らとビールを飲むなどして休憩をとっていること、庄一郎は当日は朝から疲れている様子がみえていたが、帰社して休憩をとった後、一人で残って伝票整理を行っていたこと、同人は、他の従業員が帰社する以前にも排便のために席をたっていたことがそれぞれ認められる(なお、庄一郎が当日の昼食を残したようであるとの神西克行の事情聴取書の記載―甲第四号証一五九ページ―については、これと相反する証人肥後陽一の証言に照らし、直ちには採用することができない。)。

以上によると、死亡当日の庄一郎の業務(米軍基地における面接)は、それが同人にとって初めての、慣れない環境でのものであり、また、同人が当日朝から疲れている様子がみえたこと及び原告本人尋問の結果により認められるところの、庄一郎が昭和五二年ころに飲酒運転で警察に留め置かれたことがあり、そのことについて質問を受けることを恐れていた可能性もあるとの事情を考慮に入れても、なお、これが極度に精神的緊張度の高い業務であったと認めることは困難であるし、また午後三時ころの面接終了後、帰社の途中及び帰社後に相応の休憩をとっていること、帰社後に庄一郎が行った業務は伝票の整理であって、それ自体としては特に負担の重い仕事ではないことからすると、脳動脈瘤破裂直前の時点では、前記の面接による疲労は既に相当程度緩和されていたものと考えられる。

五庄一郎の健康状態等

1  疾患等

(一)  <証拠>によると、以下の事実が認められる。

(1) 庄一郎が本件会社再入社後の昭和五〇年七月に受けた健康診断の結果によると、同人には糖尿病があり、尿蛋白も陽性で、食事療法と精密検査を勧められている。

(2) 昭和五一年一〇月の健康診断の結果によると、同人には肝炎、腎炎、糖尿病の疾患が認められ、同人はこれに先立ち、同年七月から通院治療を受け、同年八、九月には四七日間の入院治療を受けている。

(3) 昭和五二年以降同人は健康診断を受けていない(この事実は、当事者間に争いがない。)が、これは業務の都合によるものであった。しかし、一方、同人において、他の日に健康診断を受け、あるいは通院治療を受けることが不可能な状況ではなかった。

(4) 昭和五三年一一月から同五四年四月にかけて、同人は、肝・腎疾患、腸炎等により月数回の通院治療を受けていた。

(5) 同人の死亡後の剖検の結果によると、同人には粗大結節性肝硬変症がみられたが、その時点では腎疾患はみられなかった。

(6) 血圧については、昭和五〇、五一年には最高一六〇ないし一八〇、最低九〇ないし一〇八とかなり高く、昭和五三、五四年の通院時にも最高一四〇ないし一五〇、最低八〇ないし九〇と、同人の年齢を考慮すれば高めであり、また、剖検の結果によると、心臓所見から高血圧症が明らかである一方、動脈硬化は脳にも全身にもみられなかった。

(二)  以上によると、庄一郎には、血管壁の脆弱性を高めるような基礎疾患が数多く存在し、また、原因不明の高血圧(本態性高血圧)があったものということができる。

2  その他の一般的身体状況

前掲各証拠、証人田中実の証言及び原告本人尋問の結果によると、庄一郎は、昭和五〇年に身長一七〇センチメートル、体重一〇四キログラム、同五一年には体重一〇〇キログラムと明らかな肥満があり、体重減少を勧められていたこと、肥満は高血圧のひとつの誘因となりやすいものであること、飲酒については、昭和五〇年の時点で一日量五合とかなり多く、昭和五一年に入院、同五二年には飲酒運転で警察に留め置かれたことから、そのころからは従前より量を控えてはいたものの、なおある程度の飲酒はしていたこと、喫煙の習慣もあったことがそれぞれ認められる。

3  まとめ

以上によると、庄一郎は、本件会社再入社のころから既に健康状態がかなり悪くなっており、一方、昭和五一年の入院以降約二年余はなんら診断、治療を受けておらず、飲酒、喫煙の習慣もあり、その意味では健康管理面での配慮が不十分であって、客観的にみて、血管障害による疾患の起こりやすい身体的状況にあったものと認められる。

六脳動脈瘤の形成及び破裂の機序

1  はじめに

庄一郎の死因が、脳底動脈分岐部における0.3センチメートル径の脳動脈瘤の破裂によるくも膜下出血であること及び脳動脈瘤の形成、破裂の原因については、一般的には、脳動脈分岐部中膜の局所的欠損等の先天的要因と高血圧その他の血行力学的要因等の後天的要因とが考えられることについては、いずれも当事者間に争いがない。

そこで、以下、脳動脈瘤の形成及び破裂の機序について、より詳細に検討する。

2  脳動脈瘤の成因

<証拠>によると、以下の事実が認められる。

(一)  脳動脈瘤の成因については、一般的には、前記のような先天的要因に後天的要因が加わって発生するものと考えられる。その他、後天的要因のみにより動脈硬化に伴って発生するものもあるが、その割合は小さい。すなわち、動脈硬化がみられない場合は、なんらかの形で先天的要因が加わっているものと考えられる。

(二)  その形成時期は、思春期前はまれだが、その後は、比較的高年齢者に多い傾向はあるものの、明らかな年代、性による差は認められない。ただし、大型のものは動脈硬化の強い比較的高年齢者に認められ、小型のものは動脈硬化のない若年者にも認められるという傾向はある。

3  脳動脈瘤の破裂の原因

前掲各証拠によると、以下の事実が認められる。

(一)  脳動脈瘤の破裂は、睡眠時を含めあらゆる状況下で起こり得るが、ことに重い物の挙上、排便、精神的興奮等の肉体的、精神的負荷のある時に起こりやすい傾向があり、日本の報告では、排便、入浴時のものが目立っている。これは一過性の急激な血圧上昇によるものと考えられる。

なお、<証拠>によると、過労やストレスに伴う交感神経系の緊張が、血圧上昇、ひいては血管の脆弱化を招き、脳動脈瘤の形成、肥大、破裂の原因となるとの考え方があることが認められるが、前掲各証拠に照らして考えると、これは、数多くの後天的要因のうちの血行力学的因子に関するひとつの仮説と評価すべきものであり、これによって、過労やストレスがあれば脳動脈瘤が形成され肥大して破裂に至るという意味で両者の間に直接的な因果関係があるとの見解が医学的に確立しているとみることは困難である。

(二)  瘤の大きさや患者の年齢と破裂との相関関係についてみると、臨床的には、直径0.4センチメートルくらい以上が破裂の危険性のある大きさであるとの考え方もあるが(成立に争いのない甲第一〇号証)、病理学的にみるならば、瘤の大きさいかんにかかわらず破裂の危険性はあるものと考えられ(前掲乙第三号証の研究の剖検例では、0.2ないし0.3センチメートルで破裂した例も多い。)、また、患者の年齢と破裂の可能性の相関関係も、せいぜい高年齢者に比較的多いことが認められる程度で、必ずしも明らかではない。

七業務起因性の有無

1 業務起因性の意味及びその立証責任

疾病の発生につきいわゆる業務起因性があるというためには、業務と疾病との間に相当因果関係のあることが必要であり、労働者に疾病の基礎疾患ないし素因がある場合には、少なくとも業務がこれと共働原因となって発症をみたといえることが必要である。

すなわち、いずれの場合であっても、業務と疾病との間に法的な因果関係のあることが明確にされなければならない。そして、従来、基礎疾患等がある場合について、業務が共働原因となって早期に発症し又は著明に増悪したとか、あるいは業務が疾病の諸原因のうちで相対的に有力なものである必要があるとかいわれているのも、結局、法的因果関係の明確性のひとつの徴表として右のような事情を要求しているにすぎず、業務と疾病との間に法的な因果関係以上の要件として前記のような事情が必要であるとするものではないと解される。

また、この点については、労働基準法七五条に基づく労働災害補償責任が、無過失責任であり、また、労働者災害補償保険法における保険給付の主たる原資が事業主の負担する保険料とされていることからすると、業務起因性について、原告主張のように、通常の損害賠償制度とは別異に解して、相当因果関係ではなく合理的関連性があることをもって足りるとか、あるいはその存在について一定の事由がある場合には事実上の推定を働かせ、これを否定する立証がない限り業務上の発症と認定すべきであるといった考え方をとることはできず、被災労働者において業務と疾病の間の法的因果関係の存在を立証する責任を負うものと考えられる。

2 本件における業務起因性

そこで、前記一ないし六に説示した事実に基づき、本件における疾病(脳動脈瘤破裂)の業務起因性の有無について検討する。

(一) 本件会社の工事課長としての庄一郎の業務は、前記のとおり、一般的にみればかなり負担の重いものであったということができ、また、死亡に近接した二か月間が、昭和五三年九月の同人の工事課長就任以降の期間の中でも、大きな工事が輻輳していたこと等から、相当に忙しい時期であったことは明らかである。

しかし、一方、この期間の同人の業務が、量的にみて、疲労の回復が著しく困難であるほどに重いものであったとか、質的にみて、従前に比しはるかに密度、緊張度の高いものであったとまでの事情は、なお認めることができないし、また右二か月間のうちより死亡に近接した時点においてよりその負担が重くなっていたことも同様に認めることはできない。

さらに、死亡当日についてみると、業務自体について、一過性の急激な血圧上昇の原因となり得るような極度の肉体的負荷や精神的緊張をもたらすものは認められないし、原告がそのような業務であったと主張する米軍基地における面接についても、これから脳動脈瘤の破裂までの間には、かなりの時間的間隔があり、しかも相応の休憩をとっていることが明らかである(なお、前掲甲第一四号証には、庄一郎が当日の朝から悪心、頭痛を訴えていたことを根拠に、その時点で同人には既に警告的小出血ウォーニング・リークが起こっていたと考えられるとの記載があるが、以上で認定したところとは異なる前提に立つものであり、この記載のみから、同人に警告的小出血が当日の朝既に起こっていたことを認めることはできない。)。

一方、庄一郎の脳動脈瘤破裂は、我が国においてはことに誘因のひとつとして挙げられることが多く、かつ経験的にみて一過性の血圧上昇を伴いやすい排便時に起こっていること、同人には脳にも全身にも動脈硬化がみられず、その脳動脈瘤の形成については、血管の脆弱性等の先天的要因が関係していると考えられること、脳動脈瘤形成の後天的要因のひとつと考えられる高血圧については、既に昭和五〇年の本件会社再入社直後から認められ、それは剖検の結果によっても明らかであること、また、同人には血管の脆弱性を高める数多くの基礎疾患があったこと、については、いずれも、証拠上明確に認められるところである。

(二) 結局、以上を総合して考えると、庄一郎の脳動脈瘤の形成ないし破裂については、業務が全く無関係であると断定することはできないとしても、それが共働の原因又は相対的に有力な原因にあたるとして、法的な意味で因果関係があると認めることは困難であり、むしろ、庄一郎の脳動脈瘤は、同人に存した先天的要因に高血圧等の後天的要因が加わって形成され、さらにこれが業務とは直接に関係のない排便時の一過的かつ急激な血圧上昇によって破裂するに至ったとみるのがもっとも合理的であると考えられる。

八以上によると、庄一郎の死亡が業務上の事由による疾病の結果として生じたものであるとの原告の主張は、その証明を欠くこととなる。

したがって、本件処分の取消しを求める原告の請求は理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき行訴法七条、民訴法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官太田豊 裁判官瀬木比呂志 裁判官田村眞)

別紙<省略>

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