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東京地方裁判所 昭和58年(ワ)6521号 判決 1991年7月23日

原告

李康直

菊村国一こと

権五鉉

右両名訴訟代理人弁護士

林哲郎

權逸

被告

財団法人博慈会

右代表者理事

小倉知巳

被告

島文夫

松島伸治

家所良夫

右被告四名訴訟代理人弁護士

風間克貴

山田和男

三浦雅生

右訴訟復代理人弁護士

畑敬

主文

一  被告らは、原告李康直に対し、各自金二四二〇万円及び内金二二〇〇万円に対する被告財団法人博慈会は昭和五八年七月一五日から、被告島文夫、同松島伸治及び同家所良夫は昭和五七年四月二五日から各支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告李康直のその余の請求及び原告権五鉉の請求をいずれも棄却する。

三  訴訟費用は、原告李康直と被告らとの間に生じたものはこれを七分し、その六を原告李康直の負担とし、その余は被告らの負担とし、原告権五鉉と被告らとの間に生じたものは原告権五鉉の負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  原告ら

1  被告らは、原告李康直に対し、各自金一億八七九一万五八七四円及びこの内金一億七〇八三万二六一三円に対する昭和五七年四月二五日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

2  被告らは、原告権五鉉に対し、各自金二二〇万円及びこの内金二〇〇万円に対する昭和五七年四月二五日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

3  訴訟費用は被告らの負担とする。

4  仮執行宣言

二  被告ら

1  原告らの請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は原告らの負担とする。

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  (当事者)

(一) 原告ら

(1) 原告李康直は、昭和五七年四月二四日に死亡した権五正の母であり、右死亡当時、大韓民国民法上権五正の唯一の相続人であった。

(2) 原告権五鉉は、権五正の兄であり、権五正が死亡当時取締役兼工事部長を務めていた興進建設株式会社の代表取締役である。

(二) 被告ら

(1) 被告財団法人博慈会(以下「被告博慈会」という。)は、その事務所所在地において博慈会記念病院(以下「本件病院」という。)を経営している。

(2) 被告島文夫、同松島伸治及び同家所良夫は、いずれも医師であり(以下、それぞれ「被告島医師」、「被告松島医師」及び「被告家所医師」といい、三名併せて「被告医師ら」という。)、権五正が本件病院に入院した昭和五七年四月一四日から同人が死亡した同月二四日までの間、いずれも同病院に勤務し、同人の主治医としてその治療に当たった者である。

2  (権五正と被告博慈会との診療契約の締結及び医療事故の発生)

権五正は、昭和五七年四月一三日午後一〇時五五分ころ、部下の小手敏幸に模造刀(重量約九四〇グラム、刃渡り相当部分約74.1センチメートル)で左前胸部を上から下に向けて一回突き刺され、同日午後一一時五〇分ころ、左前胸部刺創により救急車で本件病院に運ばれ、そのまま入院し、被告博慈会との間で、右受傷に起因する疾患につき本件病院の医師らから適切な治療を受けることを内容とする診療契約を締結した。

本件病院においては、権五正の来院時に当直の前田浩治医師(以下「前田医師」という。)が創部を縫合するなどの処置をしたほかは、被告医師らが治療に当たり、権五正に対して、開腹手術を実施しないまま抗生剤投与、輸液等の保存的治療を続けたが、同月二四日の早朝ころ、同人は、左前胸部に刺入口を有する刺創に基づく空腸損傷による化膿性腹膜炎により死亡した。

3  (前田医師及び被告医師らの過失)

権五正は、本件病院における初診時より、臨床症状、諸検査結果、レントゲン写真等において、腸管損傷に起因する腹膜炎を十分疑い得る症状、所見を発現していたのであるから、被告医師らは、後記(一)のとおり、右症状、所見を適切に把握し、権五正に腹膜炎が発症していると診断した上、遅くとも昭和五七年四月一六日のうち(開腹手術により救命可能の限界時点)に同人に対し開腹手術を実施すべきであったにもかかわらず、これを怠った。

また、仮に、右の症状、所見のみによっては右診断に至り得なかったとしても、前田医師及び被告医師らは、後記(二)ないし(四)のとおり権五正に対し適切な診察ないし検査を行っていれば右診断に至り得たにもかかわらず、同人の創傷の深さが胸壁にとどまっているとの先入観から、右診察ないし検査を怠った。

(一) (開腹手術実施義務違反)

(1) 腹部外傷に際しては、穿痛の明らかな場合にも、明らかでない場合にも、また腹膜刺激症状の強い場合にはもちろんであるが、当初顕著でない場合にも、常に慎重にその経過を観察監視し、多少とも腸管損傷を疑わせる症状の現れた場合には、速やかに開腹手術を実施し、内臓損傷の有無、程度を確かめる必要があって、腹壁の圧痛、腹壁の緊張、嘔気、嘔吐、白血球の増多等腹膜炎の症状が顕著に出揃うまで待つことは、極めて危険であり、外傷性ショック症状が顕著な場合を除き、疑わしい場合には、直ちに開腹手術を実施する方がはるかに安全であるとされている。そして、このことは、本件のように胸部外傷により腹部損傷が疑われる場合にも同様に妥当する。

更に、レントゲン写真により腹腔内遊離ガス像(腹腔内の消化管外に写し出されたガス像のことで、本来消化管内にしか見られないガスが消化管外に見られるということで、消化管の穿孔を示す徴候となる。)が認められたときは、直ちに開腹手術を実施しなければならない。

(2) これを本件についてみるに、権五正には、本件病院に来院以来同月一四日までの間に、臨床症状として、圧痛、腹壁緊張、腹部膨隆等の他覚症状及び嘔気、嘔吐、腹部の自発痛等の自覚症状があり、特に、同日午前中の腹部の痛みは、七時一五分、九時一〇分、一一時一〇分、一一時三〇分と四回にわたってかなり強い鎮痛作用を持つペンタジンの筋注をしても自制できないような強烈な痛みであり、腹部におけるこのような痛みの症状は、腹腔内の激しい炎症症状を示唆するものであった。また、諸検査結果上、炎症、脱水等の所見があり、レントゲン写真上も、横隔膜挙上、胃拡張、腸管内異常ガスなど腹膜炎を疑わせる所見が認められた。更に、同月一五日以降は、腹膜炎の進行に伴ない、臨床症状及びレントゲン写真上イレウス(腸閉塞)状態が増強する一方、同月一六日撮影のレントゲン写真においては腹腔内遊離ガス像が認められた。

右のような症状、所見に加えて、権五正の刺創の方向が胸から下に向かっており受傷時から腹痛が発現したこと、腹部症状が主症状となっていること、ペンタジンの大量投与によりブルンベルグ徴候(腹壁を疼痛を起こさない程度に指で圧迫し、急に放すときに疼痛を感ずる症状)、デファンス(手を静かに腹直筋の上に置き痛みを感じさせない程度に軽く静かに圧迫したときに感じられる筋が固く緊張した状態)等の腹膜刺激症状が隠蔽された可能性があること、及び同人に腹部疾患の既往歴がないこと等を考慮すれば、被告医師らは、権五正の腹部に刺創が到達して外傷性腹膜炎が発症しているものと診断し、可及的速やかに(遅くとも受傷後約七二時間を経過した同月一六日のうちに)開腹手術を実施して原発巣の除去と排膿をすべきであった。

(3) しかるに、被告医師らは、右診断をなし得ず、権五正に対し、保存的治療に終始して右開腹手術実施義務を怠った。

(二) (受傷機転把握のための問診義務違反)

(1) 暴力刺創の場合には、創が上腹部又は前胸部にあっても、直接あるいは胸腔を経由して腹腔に達する場合があり、刃物の形状によって差はあるものの、加害者が体重を利用した例では、刃物の到達距離は存外深く、また、下部胸壁の刺創では、腹腔内に達するものがあることを注意しなければならないとされている。

(2) したがって、本件においても、権五正が本件病院に来院当初より腹痛を訴えていたことから、前田医師及び被告医師らは、権五正の刺創が腹部に及んでいる可能性を考慮に入れて、少なくとも受傷時における権五正及び加害者の姿勢、外力の方向、力の入れ具合等について、権五正らに対し積極的に問い尋ねるべきであった。

(3) しかるに、右医師らは、右問診義務を怠ったため、権五正の受傷機転を適切に把握することができず、同人の刺創が胸壁にとどまっているものと誤診した。

(三) (経過観察義務違反)

(1) 臨床症状、諸検査結果等から腹膜炎を疑うべき理由が存する場合、又は患者の受傷機転が医師にとって十分明らかでないため外傷性腹膜炎を否定できない場合には、仮に、初診時においてブルンベルク徴候、デファンス、腸音消失等の腹膜刺激症状を明確に把握できずかつ腹腔内遊離ガス像が認められなくても、受傷後相当時間にわたり腹腔内損傷がもはやないと判断されるまで、医師自ら頻回に(三〇分ないし一時間の間隔で定期的に)経過観察を行い、右のような腹膜刺激症状の有無の把握に努めるべき義務がある。そして、化学的刺激の強い消化液等を含む腸管内容物が空腸の穿孔部から腹腔に漏出した場合には、消化液の化学的刺激や腹腔内汚染、細菌の繁殖等が腹膜を刺激し、その結果、腹膜刺激症状が発現するのが必至である。

(2) 本件においても、前記(一)(2)のとおり、権五正には、本件病院に来院当初から、腹膜炎を疑うべき症状、所見等があった上、前田医師及び被告医師らにとっては権五正の受傷機転が不明であって受傷機転から外傷性腹膜炎の可能性を否定することができない状況にあったのであるから、右医師らは、権五正について入院以後自ら右のような経過観察を行い、特に強力な鎮痛剤であるペンタジンの筋注前又は薬効喪失時に自ら権五正の腹部の念入りな触診、打診、聴診等を行うべきであり、そうすれば、右腹膜刺激症状の把握が可能であった。

(3) しかるに、右医師らは、右経過観察義務を怠って権五正を長時間にわたり看護婦の容態監視に委ね、その結果、右腹膜刺激症状を把握する機会を逸した。

(四) (レントゲン写真及びコンピュータ断層写真の撮影上の義務違反)

(1) 刺創の場合、筋肉が収縮して筋肉層が閉じてしまうことから、ゾンデ(生体の管状の部分や刺創の内部の方向、深さ、その壁及び底の性状を調べるための医療用具)探索の方法によっては、ゾンデが創洞に入りきらず、創洞の深さを誤診するおそれが大きい。したがって、本件においても、前田医師及び被告医師らは、権五正の刺創の深さを診断するについて、右のような筋肉の特性を考慮して、ゾンデ探索の方法のみによらず、刺創路造影法(刺創にネラトンカテーテルを挿入して造影剤を注入し、正面及び側面の二方向よりレントゲン写真を撮影して造影剤の腹腔内への流入を確かめ、それにより腹腔内損傷の有無を判断する方法)を行うべきであったにもかかわらず、これを怠った。

(2) 前田医師及び被告医師らは、権五正のレントゲン写真を撮影するに当たり、腹腔内遊離ガス像の確認のためより効果的な立位による撮影又はデクビタスポジションによる撮影(左側臥位前後像)を指示すべきであったにもかかわらず、これを怠った。

(3) 腹部のコンピュータ断層写真を撮影するに当たっては、ディスプレイのウインドウの幅を三〇〇ないし四〇〇に設定して一〇ミリメートル間隔で撮影すべきである。しかるに、権五正についての初診時の右写真撮影においては、ウインドウの幅を一〇〇に設定して三〇ミリメートル間隔で撮影されたため、最も必要とする部位が十分得られず、そのため、腹部損傷の状況を的確に把握できなかった。

4  (因果関係)

本件においては、権五正に手術侵襲に耐えられる体力があったこと、年齢が死亡当時二七歳と若く、受傷後一〇日間を経た昭和五七年四月二四日まで生存していたこと等を考慮すると、前田医師及び被告医師らが、前記3の(一)の権五正の臨床症状、諸検査結果等を適切に把握し、更には前記3の(二)ないし(四)の適切な診察ないし検査を行って、遅くとも同月一六日のうちに権五正に対し適切な開腹手術を実施していれば、同人を救命できたものといえる。

したがって、権五正が死亡したのは、右医師らが前記3の(一)ないし(五)の義務の履行を怠り、右日時までに開腹手術を実施しなかった過失によるものというべきである。

5  (損害)

(一) 原告李康直の損害 合計金一億八七九一万五八七四円

(1) 原告李康直は、権五正の次の(ア)、(イ)の損害を単独相続した。

(ア) 逸失利益 金一億四二七七万三三一三円

権五正は、死亡当時二七歳の男子であったが、昭和五二年九月八日に興進建設株式会社の取締役に就任し、昭和五七年四月の死亡当時(二七歳)には月収金二九万円を得ていた。同社は、原告権五鉉及び権五正両名の父親の創立した同族会社であり、右死亡当時は同原告が社長に就任していたが、権五正は同原告の後継者として将来同社の社長に就任することが確実であった。

そこで、権五正が同社において六七歳になるまで勤務して退社するものとし、生活費控除率を五〇パーセントとして、ライプニッツ式計算法で四〇年間の権五正の逸失利益の死亡時の現価を求めると、別紙給与計算表のとおり合計金一億四二七七万三三一三円となる。

(イ) 慰謝料 金二五〇〇万円

(2) 原告李康直は、次の(ア)、(イ)の費用をすべて負担した。

(ア) 権五正の葬儀費用 金八八万八二〇〇円

(イ) 被告病院における権五正の治療費 金一七万一一〇〇円

(3) 原告李康直の慰謝料 金二〇〇万円

(4) 原告李康直の支払う弁護士費用金一七〇八万三二六一円

(二) 原告権五鉉の損害 合計金二二〇万円

(1) 原告権五鉉の慰謝料 金二〇〇万円

(2) 原告権五鉉の支払う弁護士費用金二〇万円

よって、原告李康直は、被告博慈会に対しては診療契約上の債務不履行に基づき、被告医師らに対しては不法行為に基づき、各自金一億八七九一万五七八四円及び内金一億七〇八三万二六一三円(弁護士費用を除くもの)に対する権五正の死亡の日の翌日である昭和五七年四月二五日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求め、原告権五鉉は、被告博慈会に対しては使用者責任に基づき、被告医師らに対しては不法行為に基づき、各自金二二〇万円及び内金二〇〇万円に対する右同日から支払済みまで同法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を各求める。

二  請求原因に対する認否及び被告らの主張

1(一)  請求原因1(一)の(1)、(2)の各事実は知らない。

(二)  同1(二)の(1)、(2)の各事実は認める。

2  同2のうち、権五正の受傷経過及び死因は知らないが、その余の事実は認める。

3  同3の冒頭の主張は争う。

(一)(1) 同3(一)の(1)のうち、レントゲン写真により腹腔内遊離ガス像の存在が認められたときは直ちに開腹手術を実施しなければならないことは認め、その余の主張は争う。

(2) 同3(一)の(2)のうち、権五正には、本件病院に来院以来昭和五七年四月一四日までの間に、臨床症状として、圧痛、腹壁緊張、腹部膨隆等の他覚症状および嘔気、嘔吐、腹部の自発痛等の自覚症状があったこと、同日午前七時一五分、九時一〇分、一一時一〇分、一一時三〇分と四回にわたって鎮痛作用を持つペンタジンの筋注をしたこと、諸検査結果上、炎症、脱水等の所見があり、レントゲン写真上も横隔膜挙上、胃拡張が認められたこと、権五正の刺創の方向が胸から下に向かっており受傷時から腹痛が発現していたことは認め、その余の事実は否認し、主張は争う。

(3) 同3(一)の(3)の主張は争う。

開腹手術は、人為的な力で身体を切り開き損傷部位を探索して発見し、これを人為的に修復する作業であるから、当然に身体、生命に対する危険を伴う。したがって、開腹手術を実施するに当たっては確実な根拠を要するものというべきであり、腹部損傷において、保存的治療にとどまらず必ず緊急開腹手術を要するのは、

(ア) 腹部レントゲン写真により腹腔内遊離ガス像が認められる場合又は

(イ) 著明な腹膜刺激症状と所見が認められ、それが一定時間継続する場合に限られ、右以外の場合に緊急開腹手術を実施するか否かは、担当医師の判断に委ねられているというべきである。

本件においては、レントゲン写真上腹腔内遊離ガス像は認められず、また、腹膜炎の際の激烈な痛み、ブルンベルグ徴候、デファンス等の著明な腹膜刺激症状も認められなかったことに加えて、権五正の胸部外傷に基づく刺創路が極めて稀な経路を辿ったものであること、血圧、血液検査結果、コンピュータ断層写真等からも腹腔内出血の疑いはなかったこと等も考慮すれば、権五正に対し開腹手術を実施しなかったことについて被告医師らに過失があったものということはできない。

(二) 同3(二)の(1)の主張は認めるが、(2)、(3)の各主張は争う。

救急外科の現場においては、医師がいかに受傷機転の把握に注意しても、受傷機転に関する情報を有する者自体がいないという意味での限界がある。しかるところ、本件においては、本件病院に来院した権五正に対して前田医師が事情を聞いたが、同人は興奮しており、座っているところを日本刀のようなもので刺されたという以上のことは覚えておらず、また、同行して来た警察官によっても、凶器は模造の日本刀で刃先に約三センチメートル程度血液が付着していたという以上の詳しいことは分からなかったのであるから、前田医師及び被告医師らが権五正らに対しそれ以上問診を行わなかったことについて過失があったということはできない。

(三) 同3(三)の(1)ないし(3)の各主張は争う。

本件において、前田医師は、初診時における権五正の全身状態が良好であり、腹部損傷を疑わしめる徴候もなかったことから、看護婦の監視により必要な時に医師が観察するという体制を採ることとし、その後同医師を引き継いだ被告医師らは、右の体制の下で、腹部臓器の損傷及び出血に最大の注意を払いつつ、自らも腹膜刺激症状の有無を確認すべく適宜権五正の腹部の診察を行ってきたのであって、右医師らの権五正に対する経過観察に過失はない。

(四)(1) 同3(四)の(1)のうち、刺創の場合、筋肉が収縮して筋肉層が閉じてしまうことから、ゾンデ探索の方法のみによっては、ゾンデが創洞に入りきらず、創洞の深さを誤診するおそれがあること、前田医師及び被告医師らが刺創路造影法を行わなかったことは認め、その余の主張は争う。

刺創路造影法は、造影剤を体内深く押し込むことにより、本件のような新鮮創の場合には刺創による汚染を拡大させる危険性が高いことから、一般的に確立された検査方法とはいい難い。新鮮創の場合には、原告ら主張のような誤診の危険性にも十分配慮した上で、ゾンデによる診断に加えて、レントゲン写真撮影及びコンピュータ断層写真撮影等を併用して判断するのが通常である。また、本件のように、筋肉層内の創路が長い刺創の場合には、造影剤はほとんど筋肉層に浸潤してしまうため、有効な検査方法とはいい難い。したがって、本件において、前田医師及び被告医師らが刺創路造影法を行わなかったことに過失はない。

(2) 同3(四)の(2)のうち、前田医師が立位及びデクビタスポジションによるレントゲン写真撮影を指示しなかったこと、並びに被告医師らがデクビタスポジションによるレントゲン写真撮影を指示しなかったことは認め、その余の主張は争う。

救急患者は、来院直後においてはどのような疾患を有しているか不明なことから、安静にしたまま撮影ができる臥位のみにて撮影するのが適切な処置である。また、デクビタスポジションによるレントゲン写真撮影は、腹腔内遊離ガス像発見のために有効な方法ではあるが、右撮影方法による場合は腹部所見に関して得られる情報量が極めて少ないことから、立位によるレントゲン写真撮影が可能な場合には行わないのが通常である。したがって、前田医師及び被告医師らのレントゲン写真撮影方法の指示に過失はない。

(3) 同3(四)の(3)のうち、権五正に対する初診時の腹部コンピュータ断層写真がウインドウの幅を一〇〇に設定して三〇ミリメートル間隔で撮影されたことは認め、その余の主張は争う。

右撮影方法は、権五正の腹腔内出血及び腹部臓器損傷の有無の判定という撮影目的からすれば、支障のない方法であったといえる。

4  同4の主張は争う。

5  同5における各損害額及び損害算定の方法は争い、その余の事実は不知。

第三  証拠<略>

理由

一請求原因1(当事者)について

1  <証拠略>及び弁論の全趣旨によれば、請求原因1(一)の(1)、(2)の各事実が認められる。

2  請求原因1(二)の(1)、(2)の各事実は当事者間に争いがない。

二請求原因2(権五正と被告博慈会との診療契約の締結及び医療事故の発生)について

請求原因2の事実のうち、権五正が、昭和五七年四月一三日午後一一時五〇分ころに左前胸部刺創により救急車で本件病院に運ばれ、そのまま入院し、被告博慈会との間で右受傷に起因する疾患につき本件病院の医師らから適切な治療を受けることを内容とする診療契約を締結したこと、本件病院においては、権五正の来院時に前田医師が創部を縫合するなどの処置をしたほかは被告医師らが治療に当たり、権五正に対して開腹手術を実施しないまま抗生剤投与、輸液等の保存的治療を続けたが、同月二四日の早朝ころに同人が死亡したことは、当事者間に争いがない。そして、<証拠略>並びに弁論の全趣旨によれば、権五正が同月一三日午後一〇時五五分ころに部下の小手敏幸に模造刀(重量約九四〇グラム、刃渡り相当部分約74.1センチメートル)で左前胸部を上から下に向けて一回突き刺されたこと、権五正の死因が左前胸部に刺入口を有する刺創(その深さは一八ないし一九センチメートル)に基づく空腸損傷による化膿性腹膜炎であったことが認められ、この認定を左右するに足りる証拠はない。

三請求原因3(前田医師及び被告医師らの過失)について

1  (本件病院における権五正に対する診療経過)

<証拠略>並びに弁論の全趣旨によれば、原告らが権五正救命のための開腹手術の時間的限界であったと主張する昭和五七年四月一六日までの本件病院における同人に対する治療及び検査等の経過について、次の事実が認められる。

(一)  権五正は、昭和五七年四月一三日(以下単に日のみで表記する場合は、同年四月の日である。)午後一一時五〇分ころ、左前胸壁部の刺創により救急車で本件病院に来院した。本件病院における当時の当直医であった前田医師は、権五正を総合処置室において診察し、同人に対して受傷時の状況を尋ねた。権五正は、同日午後一一時ころに座っていたところを日本刀のようなもので刺されたと述べ、また、同行して来た警察官は、凶器は模造日本刀で刃先に約三センチメートル程度血液が付着していたと述べた。前田医師が、権五正の左前胸部の刺創を観察したところ、創口(以下、特に断らない場合は、「権五正」の症状、治療及び検査結果である。)は約二センチメートルであり、創口より創傷内部をゾンデで探ったところ、内側へ向かって約四センチメートル挿入することができるにとどまった。前田医師の指示により、胸部臥位及び腹部臥位のレントゲン写真(<書証番号略>)並びに腹部のコンピュータ断層写真(<書証番号略>)が撮影されたが、胸部レントゲン写真により右横隔膜の挙上及び心肥大を認めるにとどまった。また、本件病院に来院時には左上腹部に筋肉の緊張があって、かなりの自発痛も訴えていたが、右自発痛はペンタジン三〇ミリグラムの筋注によって軽快し、その後は痛み、呼吸苦等もなく、腹部の触診等によっても、圧痛、デファンス、ブルンベルグ徴候等の腹膜刺激症状は認められなかった。更に、意識、血圧、脈拍等の全身状態からしても、腹部損傷又は出血の兆候は認められなかった。

そこで、前田医師は、右診断結果をカルテに記載するとともに、権五正の創傷の深さは約四センチメートル程度で表層部分にとどまっており、緊急手術の必要はないものと判断し、創口を消毒の上縫合したが、胸部又は腹部への影響も否定できなかったことから、家族に説明の上、念のために権五正を本件病院に入院させることとし、輸液、抗生剤の投与等の保存的療法及び血液検査、生化学検査等を指示した(右血液検査の結果、白血球数一立方ミリメートル当たり一万四一〇〇個、赤血球数一立方ミリメートル当たり四九一万個、ヘモグロビン値一デシリットル当たり14.1グラム、ヘマトクリット値47.0パーセント等であった。)。

(二)  権五正は、一四日午前一時二〇分ころ、病室に入り、看護婦の容態監視に委ねられた。右入院時の権五正の症状は、血圧最高一一二最低七八(以下「一一二/七八」というように表記する。)、体温三五度八分、脈拍数六八であり、口渇及び下肢冷感を訴えてはいたものの、創部痛はいくぶん緩和し自制可能であり、意識は正常で呼吸苦もなかった。しかし、同日午前三時ころには腹満及び膨満感が、午前五時三〇分ころには呼吸苦があった。同日午前六時ころ、血圧一二四/九八、体温三六度四分、脈拍八四。同日午前七時ころには呼吸苦とともに急に左側腹部痛が発現し、午前七時一五分ころには自制不可能となり、ペンタジン一五ミリグラムが筋注され、軽度の発汗、顔色不良も認められた。同日午前九時一〇分ころには、再び自制不可能な疼痛が発現し、再びペンタジン一五ミリグラムが筋注されたにもかかわらず、権五正自身から「その注射は痛み止めだから、早く根本的に何とかして下さい。」との訴えがなされ(同時刻の体温三七度、脈拍数八四)、この腹痛は午前一一時一〇分ころに至っても強度であり、自制不可能であった(同時刻の血圧一三四/九四、脈拍数八四)。

(三)  一四日午前八時ころ本件病院に登院した被告島医師は、前田医師からの引き継ぎにより権五正の入院を知った。被告島医師は、同日午前九時ころに権五正を回診し、触診等により同人を診断したところ、圧痛、デファンス、ブルンベルグ徴候等の腹膜刺激症状は認められなかった。しかしながら、被告島医師は、腹腔内の出血及び臓器損傷の有無を確認すべく、血液検査、レントゲン写真及びコンピュータ断層写真の撮影等を指示するとともに、権五正本人に対して、各種検査により経過を見て腹腔内の出血や腹膜炎の症状が明らかになるようであれば開腹手術をすることになる旨説明してその承諾を得た上、今後の治療方針として腹膜炎(腹部臓器損傷)及び出血などに注意すること、及び右開腹手術の承諾を得てあることをカルテに記載した。被告島医師は、同日午前一〇時三〇分ころ、右指示による血液検査の結果(白血球数一立方ミリメートル当たり一万二六〇〇個、赤血球数一立方ミリメートル当たり五〇七万個、血色素量一デシリットル当たり14.8グラム、ヘマトクリット値6.5パーセント等)並びにレントゲン写真及びコンピュータ断層写真の撮影結果(<書証番号略>)を前示(一)の初診時のものと比較検討し、右回診の際の診断結果等も考慮した上、現状では大量出血及び腹膜炎の所見はないものと判断し、その旨をカルテに記載した。更に、被告島医師は、同日午前一一時三〇分ころに再び権五正を回診した。その際には嘔気の訴えがあったものの、胃及び腸管の負担を減じるとともに臓器内に出血の徴候がないかを探るために鼻腔からカテーテルを挿入して胃液の吸引を行ったところ、血性反応はなく、また、触診等によっても前記の腹膜刺激症状は認められなかった。

なお、前記自制不可能な腹痛に対しては、午前一一時一〇分ころにペンタジン一五ミリグラムが筋注されたが、右回診の際にもなお自制不可能な腹痛の訴えがあったため、更に被告島医師の指示によりペンタジン一五ミリグラムが追加筋注された。

(四)  同日午後一時三〇分ころ、胃液様のものの少量嘔吐及び軽度の呼吸苦があり、午後二時ころには、咽頭痛及び肩痛の訴えがあったが、腹痛はあるものの自制可能とのことであった(同時刻の体温三六度一分、脈拍数七八)。同日午後六時三〇分ころ、腹鳴が認められず(同時刻の体温三六度六分、脈拍数九〇)、午後七時ころには、少量の嘔吐と共に右肩の疼痛及び陰のう部の腫脹・疼痛が発現し、午後八時及び九時ころには口渇の訴えもあった。

(五)  翌一五日午前零時ころ、血圧一二八/九〇。同日午前二時二〇分ころ、不眠と疼痛の訴えがあり、外科当直医の高橋医師の指示によりペンタジン一五ミリグラムが筋注された(同時刻の血圧一四〇/九〇)。同日午前六時ころには、苦痛の訴えはなく、右肩の疼痛は軽減し、陰のう部の疼痛も消失し、腹満もなかったが、口渇の訴えがあり、権五正はファラー体位(腹痛に対する庇護反射で、仰臥位をとると腹壁が伸展して痛みが増強するため、頭部を挙上して、半坐位となり、膝を曲げることにより、腹壁の緊張を和らげて腹痛を軽減しようとする体位)をとっていた(同時刻の血圧一二〇/九二、体温三七度、脈拍数六〇)。同日午前一〇時ころ、腹痛は緩和していたものの、嘔気、嘔吐、強度の口渇があり、腸ぜん動促進剤パントール一〇〇ミリグラムが投与され、更に、腹部の立位・臥位及び胸部立位のレントゲン写真が撮影された(<書証番号略>)。なお、同日午前中に被告松島医師が権五正を回診したが、その際、左上側腹部の圧痛、腹部の膨隆及び腹壁の緊張が認められたため、その旨カルテに記載した(右回診の際の血圧一一〇/七六、脈拍数七〇)。

(六)  同日午後二時ころ、口渇の訴えがあったが、腹痛は自制可能であった(同時刻の血圧一二二/七八、体温三六度六分、脈拍数七二)。同日午後五時三〇分ころ、被告家所医師が権五正を回診し、その際、吐気、腹痛、ブルンベルグ徴候は認めなかったが、腹部は少し膨満して堅く、腸雑音は弱く、左側下腹部に軽度の圧痛があり、デファンスも否定できなかったため、その旨カルテに記載した。同日午後七時ころ、創部痛はなかったが、腹満及び発汗が認められ、排ガスがなかった(同時刻の血圧一一四/九〇、体温三七度五分、脈拍数九〇)。

なお、同日行われた尿検査、血液検査、生化学検査等の結果は、尿比重1.037、白血球数一立方ミリメートル当たり五五〇〇個、赤血球数一立方ミリメートル当たり六一四万個、血色素量一デシリットル当たり19.0グラム、ヘマトクリット値55.3パーセント、後骨髄球六パーセント、杆状核球二一パーセント、分葉核球四五パーセント、尿中アミラーゼ四八〇〇、CRP(生体内に炎症や組織の破壊病変のある場合に血清中に現れる、肺炎球菌のC多糖体と沈降反応を呈する一種のタンパク)5.5プラス等であった。

(七)  翌一六日午前零時ころ、発汗及び体熱感あり、痛みなし(同時刻の体温三七度一分、脈拍数七八)。同日午前三時ころ、体温三六度八分、脈拍数七八。同日午前六時ころ、呼吸苦、疼痛及び創部の出血なし(血圧一三〇/九〇、体温三七度五分、脈拍数七八)。同日午前一〇時ころ、被告家所医師が権五正を回診し、腹部の立位・臥位及び胸部立位のレントゲン写真の撮影を指示した。その際、創部痛はなかった(同時刻の血圧一一〇/九〇、体温三七度五分)。

(八)  同日午後二時ころ、腹満あり、排ガスなし(同時刻の体温三七度三分、脈拍数一一八)。同日午後二時一五分ころ、右家所医師の指示によるレントゲン写真が撮影された(<書証番号略>)。同日午後四時ころ、強度の腹満及び息苦しさがあり、排ガスなし。同日午後五時四〇分ころ、権五正自身の希望を容れて被告家所医師の指示によりグリセリン浣腸六〇ミリリットル施行。同日午後六時ころ、腸の運動がないため、被告家所医師が胃チューブを挿入したところ、胆汁様の大量の排液があった。なお、呼吸苦及び腹痛の訴えはないものの、いくぶん息苦しい様子であり、同日七時ころには、大量の発汗があり、疼痛の訴えはないものの、やはり息苦しい様子であった(同時刻の血圧一三〇/八〇、体温三八度一分、脈拍七二)。同日午後九時三〇分ころ、体温三八度、脈拍七八。同日午後一二時ころ、脈拍は微弱かつ頻数(一〇八)であり、呼吸数毎分二五回と呼吸促迫があった(同時刻の血圧一二二/五〇、体温三七度八分)。

以上の事実が認められ、この認定を左右するにたりる証拠はない。

以下、右認定事実を基に、原告ら主張の前田医師及び被告医師らの過失の有無について順次判断する。

2  請求原因3の(一)(開腹手術実施義務違反)について

(一)  人の生命及び健康を管理すべき業務に従事する者は、その業務の性質に照らし、人の生命を救うために必要とされる最善の処置を講じるべきであるが、医師が診断、治療に当たって負うべき注意義務の基準となるべきものは、診断、治療当時のいわゆる臨床医学の実践における医療水準であって、しかも、医師の診断、治療は、相当高度の専門知識と技術を必要とする上、直接診断した医師の総合判断によるべき部分も多く、各医師の間に見解の差の生じることも、やむを得ないことであるから、通常の医師がなすべき水準に基づく診断方法に従った相当なものである限り、違法・過失の責めを負うことはない、と解される。

そして、<証拠略>並びに弁論の全趣旨によれば、腹部損傷には、開腹手術によらなければ治癒する余地のないもの(絶対的開腹適応疾患)と、保存的治療法によっても治癒するもの(相対的開腹適応疾患)とがあること、消化管穿孔及びこれに起因する腹膜炎は、絶対的開腹適応疾患であって、その原因疾患の確定に至らなくとも、直ちに開腹手術を行うべきものであり、これを行わない限り死亡に至ること、腹部損傷について、レントゲン写真等により、腹腔内に正常な場合には認められない遊離ガス像が認められた場合には、消化管穿孔及びこれに起因する腹膜炎を疑い、患者が開腹手術に耐え得る限り、直ちに開腹手術を実施すべきであること、右の遊離ガス像が認められない場合であっても、著明な腹部刺激の症状、所見が認められる場合、すなわち、圧痛、ブルンベルグ徴候、デファンス、腸音喪失、麻痺性イレウス、鼓腸、嘔吐、発熱、白血球増加などがある場合においては、その他の臨床所見及び検査結果等の経過を考慮し、腹膜炎の所見の有無を判断し、腹膜炎の所見を認めた場合には、患者が開腹手術に耐え得る限り、開腹手術を実施すべきであることが認められ、この判断を左右するに足りる証拠はない。

(二)  前示1の診療経過に、<証拠略>並びに弁論の全趣旨を総合すれば、次の事実が認められる。

(1) 初診時において、前田医師は、権五正の創傷が表層部分にとどまっていると判断したものの、念のため同人の腹部のレントゲン写真及びコンピュータ断層写真を撮影させた上、腹部への影響も否定できないので同人を入院させることとし、同医師を引き継いだ被告島医師は、腹腔内出血及び臓器損傷の有無を確認すべく、腹部の触診、血液検査、レントゲン写真及びコンピュータ断層写真の撮影の指示等を行うとともに、今後の治療方針として腹膜炎(腹部臓器損傷)及び出血などに注意するようカルテに明記し、更に、その後権五正を診察した被告松島医師及び同家所医師も、腹部の触診により圧痛、デファンス、ブルンベルグ徴候等の腹膜刺激症状の有無の把握に努めるなど、いずれも権五正の腹部損傷の可能性に十分留意した診察を行った。

(2) 初診時及び一四日午前一〇時三〇分ころ撮影のレントゲン写真及びコンピュータ断層写真において、横隔膜の挙上のほか、胃拡張及び腸管内のガス像が認められた。更に、一五日午前一〇時ころ撮影のレントゲン写真においても、横隔膜の挙上及び腸管内のガス像が認められた。しかし、初診時、一四日午前及び一五日午前に合計一二枚に及ぶ腹部及び胸部のレントゲン写真が撮影されたほか、コンピュータ断層写真が撮影されたが、いずれの写真にも腹腔内遊離ガス像を認めることはできなかった(もっとも、<証拠略>中には、初診時撮影の胸部レントゲン写真(<書証番号略>)に腹腔内遊離ガス像を認めることができる旨の記述部分があるが、<証拠略>の記述に照らすと、通常の医師が読解できる遊離ガスの存在は認められないので、採用し難い。)。

(3)  権五正について、一六日午後二時一五分ころに胸部立位レントゲン撮影が行われた。右レントゲン写真(<書証番号略>。以下「本件レントゲン写真」という。)には、右横隔膜下に遊離ガス像が存在した。右遊離ガス像については、その発現が受傷時からかなり遅延しその程度もわずかなものであり、かつ右横隔膜の挙上により横隔膜陰影に肺陰影が重なるなど、発見にかなり困難な事情が存したものの、初診時から本件レントゲン写真の撮影に至るまでに、被告医師らが権五正について特に腹部損傷の可能性を疑っており、後記(三)(ア)(イ)の所見上その疑いがあったこと、立位撮影の場合には横隔膜下は遊離ガスが出易い場所であることを考慮すれば、被告医師らは、通常の能力を有する医師として右遊離ガス像を発見すべきであり、少なくとも前記レントゲン像によって遊離ガスの存在を疑い、その存否を確認すべき検査をなすべきであり、そうすれば、遊離ガスの存在を発見し得たといわなければならない。<証拠略>中、右認定に反する趣旨の記述ないし証言部分は採用し難く、他に右判断を覆すに足りる証拠はない。

しかるところ、前示(一)の基準により、レントゲン写真上腹腔内遊離ガス像が認められた場合には直ちに開腹手術を実施すべきものであり、右開腹手術を妨げるべき事情は認められないから、被告医師らには、本件レントゲン写真が撮影されその読影が可能であった一六日午後二時一五分ころにおいて、本件レントゲン写真に腹腔内遊離ガス像を発見し直ちに開腹手術を実施すべき義務があったというべきであり、この判断を左右するに足りる証拠はない。

(三)  ところで、本件においては、被告医師らが、一六日午後二時一五分ころに撮影された本件レントゲン写真で腹腔内遊離ガス像を発見し、直ちに開腹手術を実施しても、権五正を確実に救命し得たとは認め難いことは、後記認定のとおりである。そこで、初診時から本件レントゲン写真の撮影に至るまでに権五正について認められた臨床症状、諸検査結果等から、前示(一)に鑑み、権五正に対し本件レントゲン写真の撮影に至るまで保存的治療を続けた被告医師らの判断に違法、過失があったといえるか否かについて、判断する。

(1) 前示1の診療経過に、<証拠略>並びに弁論の全趣旨を総合すれば、昭和五七年四月一六日までの権五正の臨床症状、所見について、次のとおり認められる。

(ア) 権五正の刺創の方向が胸部から下に向かっており、本件病院来院当初から腹部の自発痛、緊張等の腹部症状が発現していた。特に、一四日の午前中における腹部の痛みは、初診時にペンタジン(鎮痛剤であり、一回一五ミリグラムを筋注又は皮下注射し、その後必要に応じて三ないし四時間ごとに反復注射すべきものとされている。)三〇ミリグラムが筋注されることにより一旦は軽快したが、その後午前七時ころに再び発現して自制不可能となり、午前七時一五分ころ、午前九時一〇分ころ、午前一一時一〇分ころ及び午前一一時三〇分ころの四回にわたってそれぞれペンタジン一五ミリグラムずつの筋注を要するほどの強い痛みであり、発汗、顔色不良等も伴うものであった。

一五日になると、腹部の自発痛は緩和されてきたが、腸管運動の減退、腹部の膨隆、膨満等のイレウス症状が現れるようになり、同日午前の被告松島医師の回診時及び午後の被告家所医師の回診時には腹部の圧痛、腹壁の緊張等も認められた。また、入院当初より脱水症状を示す口渇の訴えが続き、その後、呼吸苦、嘔吐、嘔気等も認められるようになった。

(イ) 初診時及び一四日の血液検査による白血球の増多(正常値は一立方ミリメートル当たりおよそ五〇〇〇ないし八〇〇〇個)、一五日の血液検査における白血球分画検査による中程度の核の左方移動、同日の生化学検査及び免疫血清検査の結果による尿中アミラーゼ高値及びCRP強陽性など、いずれも炎症の存在を示す所見があった。また、同日の尿検査及び血液検査により、尿比重高値(正常値は1.015内外)、赤血球数増加(正常値は成人男子で一立方ミリメートル当たりおよそ四一〇万個から五三〇万個)、血色素量増加(正常値は一デシリットル当たりおよそ一四グラムないし一八グラム)、ヘマトクリット値増加(正常値およそ三九パーセントないし五二パーセント)など、脱水による尿濃縮及び血液濃縮を示す所見があった。

(ウ) しかしながら、穿孔性腹膜炎に特有な腹膜刺激症状である強度の圧痛、デファンス、ブルンベルグ徴候等については、前田医師による初診時、被告島医師による一四日午前の二度にわたる回診時、一五日午前の被告松島医師による回診時、同日午後及び一六日午前の被告家所医師による回診時にいずれも腹部の診察が行われたにもかかわらず、一五日午後にデファンスが否定できなかったという程度のことはあったものの、明確な腹膜刺激症状を認めることができなかった。

(エ) 更に、穿孔性腹膜炎においては、穿孔の瞬間に局所に猛烈な疼痛を発すると同時に患者が強いショック状態に陥るのが通例であるところ、初診時において、権五正は、腹部の自発痛を訴えてはいたものの、これはペンタジン三〇ミリグラムの筋注により軽快する程度のものであり、意識、呼吸、血圧、脈拍等の全身状態にも特に異常はなく、血液検査の結果も、赤血球数、血色素量、ヘマトクリット値ともいずれも正常値の範囲内であり、腹腔内の出血を疑わしめるような所見はなかった。

入院後も、権五正の血圧はほぼ正常を保ち、体温も、一五日以降三七度台の微熱を発する程度であり、一四日午前の血液検査の結果も、初診時の場合と同様腹腔内の出血を疑わしめるような所見はなく、かえって、白血球数は初診時よりも減少していた。また、腹腔内の出血の有無は、コンピュータ断層写真によっても確認することができるが、初診時及び一四日午前に撮影された腹部のコンピュータ断層写真からも腹腔内の出血の疑いは認められなかった。

以上の事実が認められ、この認定を左右するに足りる証拠はない。

(2) 右(1)の各事実に前示(二)のレントゲン写真及びコンピュータ断層写真の撮影結果によれば、権五正について、本件レントゲン写真の撮影に至るまでの間においては、被告医師らが、権五正の臨床所見等から穿孔性腹膜炎と認めず、開腹手術を実施せず、保存的治療を続けたことには、医師としての専門的知見に基づく根拠があり、通常の医師としての診断、治療方法を逸脱したものとは認められず、被告医師らに委ねられた判断の当否の問題であって、右判断に違法な過誤があったとまでは断じ難い。

<証拠略>中、右の判断に反する記述ないし証言部分は、いずれも採用できない。

3  請求原因3の(二)(受傷機転把握のための問診義務違反)について

(一)  <証拠略>及び弁論の全趣旨によれば、外傷患者の診断に当たる通常の医師としては、受傷機転を受傷者である患者等から詳しく聞き、身体のどの部分にどの方向からどのような外力が加えられたかを十分理解すべきであり、特に、暴力刺創の場合には、創が上腹部又は左前胸部にあっても、直接又は胸腔を経由して腹腔に達する場合があり、刃物の形状によって差はあるものの、加害者の体重が加わった例では刃物の到達距離は存外深い場合があることが認められる。そして、本件の初診時において、前田医師が、権五正の刺創の深さを約四センチメートルで表層部分にとどまっていると判断したことは前示1(一)のとおりであり、その後同医師を引き継いだ被告医師らが権五正の受傷時の状況について改めて問診をしたことを認めるに足りる証拠はない。

(二)  しかしながら、初診時において、前田医師は、前示1のとおり、座っていたところを日本刀のようなもので刺されたことを権五正から聴取し、更に、凶器は模造日本刀で刃先に約三センチメートル程度血液が付着していたことを同行して来た警察官から聴取していること、<証拠略>並びに弁論の全趣旨によれば、受傷の瞬間の状況についてはとっさのことで権五正自身も記憶が十分でなかったことがうかがわれ、同人を更に詳しく問診しても、前示以上の具体的かつ有益な情報が得られたかは疑問であること、前田医師及び被告医師らは前示2(二)(1)のとおりいずれも権五正の腹部損傷の可能性に十分留意した診察を行っていること、以上の事実に<証拠略>も考慮すれば、本件において、右医師らがした問診は通常の医師として相当なものであって、右医師らに、権五正に対する緊急開腹手術の実施を遅らしむるような違法な受傷機転把握上の義務違反があったとは認められない。

(三)  したがって、請求原因3の(二)の主張は理由がない。

4  請求原因3の(三)(経過観察義務違反)について

(一)  <証拠略>並びに弁論の全趣旨によれば、腹部損傷の場合、圧痛、デファンス、ブルンベルグ徴候、腸音消失等の腹膜刺激症状がかなり高い確率で発現すること、しかしながら、右のような腹膜刺激症状は、受傷後一定時間を経過して初めて発現することもあるから、腹部損傷が疑われる場合、診断に当たる通常の医師としては、初診時に腹膜刺激症状が明確に認められなくても、その後ももはや腹部損傷がないと判断されるまで、臨床症状と諸検査結果の追跡を継続するとともに、医師自らが反覆して腹部の診察を行い腹膜刺激症状の有無の把握に努めるべきであることが認められる。そして、前示1の診療経過、<証拠略>及び弁論の全趣旨によれば、前田医師及び被告医師らは、権五正について、初診時から腹部損傷を疑っていたにもかかわらず、前田医師は、一四日午前一時二〇分ころに権五正が入院して以後同日午前九時ころ及び午前一一時三〇分ころに被告島医師が回診するまでの間、被告島医師は、右回診後翌一五日午前に被告島医師が回診するまでの間、被告松島医師は、右回診後同日午後五時三〇分ころに被告家所医師が回診するまでの間、更に、被告家所医師は、右回診後翌一六日午前一〇時ころに再び同医師が回診するまでの間、それぞれ、権五正を、看護婦の容態監視に委ね、その間医師による回診は行われなかったことが認められ、この認定を左右するに足りる証拠はない。

(二)  しかしながら、前示1及び2(二)(1)の事実、<証拠略>並びに弁論の全趣旨によれば、

(1) 腹部損傷により緊急開腹手術を要する症例においては、受傷後短時間で腹部諸症状が増悪進行する例が多いところ、前田医師は、権五正について本件病院に来院後およそ一時間半にわたり(受傷後、およそ二時間半経過時まで)継続的に診察を行い、腹部の触診のほか、血液検査並びにレントゲン写真及びコンピュータ断層写真の撮影等も行ったが、腹部損傷の明確な徴候を認めることができず、同人の全身状態にも特に異常はなかったため、緊急手術の必要はないと判断したものの、刺創の腹部への影響も考慮して、帰宅させて経過を診るのではなく念のため入院措置を採ることとし、同人の病状に異変があった場合には直ちに医師による診察ができる体制の下で、同人を看護婦による継続的な容態監視に委ねたこと、

(2) 右体制の下で、本件病院の看護婦らは、一日一〇数回に及ぶ頻度で権五正の容態を監視し続けたこと、

(3) 被告医師らも、権五正の腹部損傷を警戒して、レントゲン写真及びコンピュータ断層写真の撮影、血液検査等を適宜指示したほか、前示(1)の回診の際には同人の腹膜刺激症状の有無を把握すべく腹部の診察を行っていること、

以上の事実が認められ、この認定を左右するに足りる証拠はない。

右(1)ないし(3)の事実に、<証拠略>を考慮すると、前田医師及び被告医師らが自らより頻繁に権五正の腹部診察を行うことがより望ましかったことはいうまでもないものの、右医師らがした処置は通常の医師としてなすべき程度を逸脱したものとは認められず、右医師らに、権五正に対する緊急開腹手術の実施を遅らしむるような違法な経過観察義務違反があったとまでは断じ難い。<証拠略>中右の判断に反する記述ないし証言部分は、いずれも採用できない。

(三)  したがって、請求原因3の(三)の主張は理由がない。

5  請求原因3の(四)(レントゲン写真及びコンピュータ断層写真の撮影上の義務違反)について

(一)  請求原因3の(四)(1)について

(1) 本件において、前田医師及び被告医師らが刺創路造影法を行わなかったことは、当事者間に争いがない。

しかるところ、<証拠略>、弁論の全趣旨によれば、腹腔内に及ぶ刺創があっても、受傷後直ちに筋層が閉じてしまうことにより受診時にはその交通性が絶たれている場合があること、ゾンデの探索による方法は簡便ではあるが、腹腔内に及ぶ刺創があっても発見されない場合があり得て、右発見方法として刺傷路造影法があることが認められ、この認定を覆すに足りる証拠はない。

(2) しかしながら、他方、前示1の診療経過、<証拠略>及び弁論の全趣旨によれば、刺創路造影法は、創口より造影剤を注入する方法であるから、創傷を拡大させるおそれがあるのみならず、特に新鮮創の場合には創口の汚染を体内に拡大させるおそれもあり、したがって、新鮮創の場合には、即時かつ簡易に行えるゾンデにより刺創の深さを探索するとともに、右(1)のような問題点にも配慮し、単純レントゲン写真及びコンピュータ断層写真等を併用する等して、腹部損傷の有無を総合的に判断するのが通常の診断方法であること、前田医師及び被告医師らもこれに従い、権五正の腹部損傷の有無を判断するに当たり、ゾンデによる探索のみによらず、レントゲン写真及びコンピュータ断層写真の撮影、血液検査等も行っていることが認められ、この認定を覆すに足りる証拠はない。

(3) 右(2)の事実に鑑みれば、本件で刺創路造影法を行わなかったことには、医師としての専門的知見に基づく根拠があり、これが通常の医師としての診断方法を逸脱したものとは認められず、被告医師らに委ねられた判断の当否の問題であって、右診断方法に違法な過誤があったとはいえない。

(二)  請求原因3の(四)(2)について

(1) 本件において、前田医師が立位及びデクビタスポジションによるレントゲン写真撮影を指示しなかったこと並びに被告医師らがデクビタスポジションによるレントゲン写真撮影を指示しなかったことは、いずれも当事者間に争いがない。

そして、<証拠略>並びに弁論の全趣旨によれば、腹部損傷が疑われる場合、腹腔内遊離ガス像の確認のためには立位又はデクビタスポジションによるレントゲン写真の撮影が有効であることが認められ、この認定を覆すに足りる証拠はない。そして、<証拠略>中には、権五正に対するレントゲン写真の撮影に当たっても腹腔内遊離ガス像の有無を確認すべくデクビタスポジションによる撮影を行うべきであったとの記述部分があり、また、<証拠略>中には、臥位のみでなく立位による撮影も行うべきであった旨の記述部分がある。

(2) しかしながら、前示1の診療経過に、<証拠略>並びに弁論の全趣旨を総合すれば、初診時において、前田医師は、権五正の疾患が不明であったため、しかるべき処置をした後可能であれば立位等による撮影も行うことを予定した上で、とりあえず安静にしたまま撮影が可能な臥位による撮影のみを指示したものであること、その際、同医師は、腹部について臥位前後像のみならず臥位側面像(<書証番号略>)の撮影も指示しているが、右側面像の撮影は腹腔内遊離ガス像の発見のために有効な方法であること、四日以降は被告医師らは権五正の腹部及び胸部についてそれぞれ臥位のみならず立位による撮影も指示していること、デクビタスポジションによる撮影は腹部所見に関して得られる情報が少ないこともあり一般には患者を立位にできない場合に採られる撮影方法とされていることが認められ、この認定を左右するに足りる証拠はない。

(3) 右(2)の事実に鑑みれば、権五正に対するレントゲン写真の撮影方法の指示について、右医師らに原告ら主張のような過誤があったものということはできない。前示(1)の<証拠略>中右の判断に反する証言部分は、いずれも採用できない。

(三)  請求原因3の(四)(3)について

(1) 権五正に対する初診時のコンピュータ断層写真がウインドウ幅を一〇〇に設定して三〇ミリメートル間隔で撮影されたことは、当事者間に争いがない。そして、<証拠略>及び弁論の全趣旨によれば、ウインドウ幅一〇〇というのは頭部以外では通常用いない方法であり、腹部撮影の場合には、三〇〇ないし四〇〇に設定することが多いこと、撮影間隔もより詳細に身体内部を把握し得るという意味では一〇ミリメートル間隔の方が望ましいことが認められ、この認定を覆すに足りる証拠はない。

(2) しかしながら、他方、<証拠略>及び弁論の全趣旨によれば、コンピュータ断層写真は、実質臓器の損傷診断には有効とされているが、腸管損傷や腹膜炎についての診断価値はいまだ必ずしも十分な評価を受けるには至っていないこと、本件における右コンピュータ断層写真の撮影方法は、腹腔内出血及び腹部臓器損傷の有無の判定という目的からすれば、特に支障のないものであったことがそれぞれ認められ、この認定を左右するに足りる証拠はない。

(3) 右(2)の事実に鑑みれば、本件における右コンピュータ断層写真の撮影は、通常の医師としての診断方法を逸脱したものとは認められず、被告医師らに委ねられた診断方法の当否の問題であって、右判断に違法な過誤があったとは認められない。

(四)  したがって、請求原因3(四)の(1)ないし(3)の各主張はいずれも理由がない。

6  (まとめ)

以上検討したところによれば、被告医師らは、一六日午後二時一五分ころに撮影された本件レントゲン写真に腹腔内遊離ガス像を発見し、この時点(受傷後およそ六三時間経過時)において直ちに権五正に対する開腹手術を実施すべきであったにもかかわらずこれを怠ったとは認められるものの、右撮影に至るまで同人に対する保存的治療を続けた判断に違法な過誤があったとまでは認められない。

そして、前田医師及び被告医師らの過失についての原告らのその余の主張は、いずれも理由がない。

四請求原因4、5(因果関係及び損害)について

1  <証拠略>並びに弁論の全趣旨によれば、消化管穿孔に起因する腹膜炎においては、緊急開腹手術を必要とするが、手術的予後は発症から手術までの経過時間に比例して不良となること、一般的には、発症後六ないし一〇時間以内に手術を行えばかなりの高率で救命し得るのに反し、発症後二四時間以上経過した場合にははなはだしく予後不良となり、遅くとも発症後四八時間以内に開腹手術を行わないと救命が著しく困難となること、特に、穿孔部位が空腸である場合には、内容物が活性化された膵液を大量に含むのでその予後が一般に悪いとされていることが認められる。

したがって、前示三2(二)のとおり受傷後およそ六三時間を経過した一六日午後二時一五分ころに被告医師らが権五正に対する開腹手術を実施していたとしても、右時点においてはもはや同人を救命することは著しく困難な状態にあったものというべく、本件全証拠によっても、右時点において被告医師らが開腹手術を実施することにより権五正を救命し得たと認めることは困難であるといわなければならない。

したがって、本件損害のうち、逸失利益及び葬儀費用、治療費及び救命可能性を前提とする慰謝料については、その余の点について判断するまでもなく理由がない。

しかしながら、前示三1の診療経過、<証拠略>並びに弁論の全趣旨によれば、権五正は、本件以前には健康状態に特に問題はなかったこと、年齢も当時二七歳と若かったこと、前田医師による初診時にもショック状態は認められず、本件レントゲン撮影後七日余りを経た昭和五七年四月二四日まで生存し、その死亡直前まで比較的元気に動き廻っていたことなど消化器穿孔による腹膜炎としてはやや特異な経過を経たことが認められ、これらの事実を総合考慮すると、被告医師らが一六日午後二時一五分ころの時点において権五正に対する開腹手術を実施していれば、同人を最終的には救命し得たとまでは認め難いものの、その可能性もある程度存し、少なくとも同人の死期を遅らせることができたと推認することは十分可能であるといわなければならない。

そうすると、権五正は、被告医師らの開腹手術実施義務違反により適切な治療を受けて治癒する機会と可能性を奪われ、少なくともその死期を早められたという結果を招来せしめられたものというべきであり、このような事項に係る期待は、生命にかかわる根源的な欲求であって、法的保護に値する利益というべきであるから、被告らは、権五正が右利益を奪われたことによる損害を賠償すべき義務があるというべきである。

2  損害

(一) 前示認定の被告医師らの過失の態様、権五正の救命の可能性の程度その他本件に現れた一切の事情を斟酌すると、被告医師らの開腹手術実施義務違反により権五正が被った精神的苦痛に対する慰謝料としては金二〇〇〇万円が相当である。

原告李康直が、権五正の母であり、権五正死亡当時韓国民法上権五正の唯一の相続人であったことは、前示一1のとおりであるから、同原告は、権五正の右慰謝料の全額を相続したことになる。

(二)  原告李康直と権五正との身分関係、権五正の死亡の年齢、社会的地位、前示認定の被告医師らの過失の態様、前示(一)認定の権五正の慰謝料額その他本件に現れた一切の事情を斟酌すると、被告医師らの開腹手術実施義務違反により同原告の被った精神的苦痛に対する慰謝料としては金二〇〇万円が相当である。

(三)  原告李康直が、本件訴訟の追行を原告ら訴訟代理人に委任したことは本件記録上明らかであるところ、本件事案の内容、経過、原告李康直の請求認容額等の諸般の事情に照らし、被告らが同原告に対して賠償義務を負うべき弁護士費用の額は金二二〇万円と認めるのが相当である。

(四)  原告権五鉉の損害

前示一1の事実及び<証拠略>によれば、なるほど、原告権五鉉は、権五正が死亡当時取締役兼工事部長を勤めていた興進建設株式会社の代表取締役として権五正の将来に期待していたものであり、同人の突然の死亡により精神的苦痛を被ったことは認められるものの、同原告と権五正との身分関係に加えて、前示(一)、(二)のとおり、権五正本人の慰謝料及び同人の母親である原告李康直の固有の慰謝料としてそれぞれ金二〇〇〇万円及び金二〇〇万円の支払義務が被告らに認められることも考慮すれば、原告権五鉉の右精神的苦痛についてまで固有の慰謝料の支払がなされるべきものとは認め難い。

したがって、また、原告権五鉉の負担する弁護士費用について被告らに賠償義務があるものとは認められない。

3  以上の次第で、被告らは、原告李康直に対し、権五正の慰謝料金二〇〇〇万円の相続分及び同原告の固有の慰謝料金二〇〇万円並びに弁護士費用金二二〇万円の合計金二四二〇万円の支払義務があるものというべきである。

ところで、原告李康直は、弁護士費用以外の損害金について、権五正が死亡した日の翌日である昭和五七年四月二五日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払をも求めているが、被告博慈会に対する請求原因である債務不履行に基づく損害賠償請求権は、期限の定めのない債権であり、民法四一二条三項により催告によって遅滞に陥るものと解されるところ、同原告が本訴提起以前に同被告に対し右損害の賠償を求めたと認めるに足りる証拠はないから、同被告の右遅延損害金支払義務は、同被告に対する訴状送達の日の翌日である昭和五八年七月一五日から遅滞に陥ったものというべきである。

五結論

よって、原告李康直の被告らに対する請求は、各自金二四二〇万円及び弁護士費用を除く金二二〇〇万円に対する被告医師らについては権五正の死亡の日の翌日である昭和五七年四月二五日から、被告博慈会については訴状送達の日の翌日である昭和五八年七月一五日から各支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるから、これを認容し、その余は理由がないから棄却し、原告権五鉉の被告らに対する請求はいずれも理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九二条本文、九三条一項本文を適用し、仮執行宣言については相当でないからこれを付さないこととして、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官筧康生 裁判官寺本昌広 裁判官土居葉子は、転勤のため署名押印することができない。裁判長裁判官筧康生)

別紙<省略>

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