東京地方裁判所 昭和59年(刑わ)1658号 判決 1984年8月31日
主文
被告人を無期懲役に処する。
理由
(被告人の身上、経歴及び本件犯行に至る経緯)
被告人は、生後まもなく、甲野太郎(明治四〇年四月生)、花子(大正三年四月生)夫妻に貰い受けられ、以後、同夫婦に養育されて成長するに至つたものであるが、戸籍上は右夫婦の実子として届け出られており、また両名からその一人息子として実子同様の愛情を注がれてきたため、本件犯行後まで右両名を実の親と信じて疑わなかつた。
被告人は、昭和二七年三月、埼玉県川口市内の中学校を卒業後、旋盤見習工、鋲打ち工を経て、鉄骨工となり、昭和五一年一〇月ころからは本件に至るまで東京都江東区内の有限会社A工業に鉄骨工として勤務してきたのであるが、右職場においては、おとなしいけれども真面目で腕の良い職人として評判も悪くなかつた。
この間、被告人は、昭和三四年ころ太郎が病気で臥せると、死亡するまでの数年間真面目に働いて家計を支えてきた。被告人は昭和三七年に乙野春子と婚姻して、その直後と太郎が病死した後の昭和四一年の再度にわたり、花子と同居したことがあつたが、同女と春子との折合いが悪かつたことなどから、いずれも短期間で別居するに至り、その後は花子と同居することなく過した。しかし、被告人自身と花子との間には、格別の諍いや反目もなく、被告人が同女に対し憎しみを抱くことは全くなかつた。また、被告人夫婦の仲も円満で、昭和四四、五年ころ妻春子が肺結核を患い、昭和四七年ころから病院で療養生活を送るに至つた際は、被告人は、月一、二回必ず病院を訪れてはその看病に努め、深い情愛を注いでその回復を願つたものであつた。
ところが、昭和五四年一〇月八日、七年以上にわたる闘病生活の果て右春子が死亡したのを境に、被告人の生活は乱れ始めた。被告人は、心の張りを失い、一人家に帰つても面白くなく、やがて、それまでは軽い楽しみ程度であつた競馬、パチンコ等の賭事に溺れるようになり、昭和五八年ころからは職場を無断欠勤することも多くなるとともに、土、日曜日ごとの競馬では一日数万円も負けることも少なくなく、甚しいときには十数万円もすつてしまうこともあつたうえ、毎夜のようにパチンコに興じては、月約五万円もの損をしていたため、やがて、二〇万円ないし二五万円程度の月給では到底やりくりがつかなくなつていつた。そのため、被告人は、A工業から給与のうち毎月平均三万円程度を前借りするようになり、また、被告人の借家から近い東京都北区十条仲原一丁目××番××号所在のアパートB荘で亡太郎の軍人恩給、厚生年金保険遺族年金及び自ら稼ぐごみ集積場の掃除代などの毎月約一〇万円程度の収入で独り暮らしをしていた花子に対し、年に数回にもわたつて、二、三万円ずつの金を無心しては、同女が被告人かわいさから手渡すその金を賭事につぎ込むことをくり返し、昭和五八年末ころには、同女から一度に一五万円も借りながらその返済を全くせず、それのみか、いわゆるサラ金にも手を出し、昭和五八年三月に株式会社C十条支店から五万円の借入れをしたことを初めとして、次々と借金を重ねる有様であつた。
そうするうち、昭和五九年一月中旬ころ、被告人は、またも花子に小遣い銭の無心を言い、現金三万円を貰い受けたが、その際、被告人の自立を心配する同女から「これが本当に最後だよ。」と言い渡され、それにもかかわらず、被告人は更に、同年二月、なお小遣い銭の無心に同女方に行つたところ、同女から「この前も言つたように、もうお金は出せない。」とはつきり断られてしまつた。
そのような折から、同月一五日、被告人は、A工業から一月分給料として二二万四〇〇〇円を支給されたが、給料の前借り金、家賃、サラ金への返済金、光熱費等を差し引くと、手元には約五万円しか残らなかつたにもかかわらず、なおも賭事をしたい欲求を抑えることができず、同年三月二日にはA工業から四万円を前借りし、同月三日にはサラ金から更に二万円を借り受けたうえ、同月四日、後楽園場外馬券売り場に赴き、その所持金のほとんどを使い果たし、その日パチンコで得た七〇〇〇円余を加えても、所持金はわずか約一万四〇〇〇円になつてしまつた。
それでもなお賭事に耽ける自らの生活を改めようとの気を起こすことなく、むしろ賭事抜きの生活を耐え難いものと感じていた被告人は、翌五日午前七時ころ、目を覚まし、寝床の中で、所持金がもはや一万四〇〇〇円しかないのに給料日の三月一五日まではまだ一〇日もあること、しかも同日給料の支払いを受けたとしても、給料の前借り金、約七万円にのぼるサラ金への月々の返済金等を差し引くと手元に遊興費分が残らないことが気になり、「花子に金の無心をしてももう応じてくれる見込みがないし、右A工業からの給料前借りも既に限度であり、サラ金からは月給の三倍以上にもなる約九〇万円を借りているためこれ以上は借りることができない。」などと思いながら、あれこれ考えているうち、以前花子から「お前に迷惑がかからないように自分の葬式代として七〇万円位は持つている。」とか「私に何かあつた時には整理だんすの戸棚に年金とか通帳を風呂敷に包んで入れておく。」などと言われていたことを想起し、他人から金を盗む度胸もないところから、いつそのこと花子の持ち金や預金等を奪おうと考えるとともに、同女は自分のアパートの鍵をいつも身につけていてその留守に盗みに入ることは困難であり、さりとて同女を殴打するなどしてこれを奪つたのでは親戚中に自己の非が言いふらされてしまうなどして耐え難いとの考えから、こうなつたうえは、同女を殺害してその蓄えてある現金、預貯金等を奪う以外に自己の遊興費を捻出する方法はないと考えるに至り、ここにおいて、被告人は、花子を殺害して同女所有の金品を強取しようと決意した。
そこで被告人は、直ちに、一戸建てで近隣に物音の漏れにくい自宅に今日同女を誘い出したうえ、そこで同女を絞殺しようと計画し、早速同日午前七時四〇分ころ、北区十条一丁目××番×号D方一階の自室を出て、徒歩十数分の距離にある前記B荘三号棟三号室の花子方に向かつたものの、さすがに足取りは重くなり、漸く同日午前八時四〇分ころに至つて同女方に着き、同女に対し掃除に来て欲しい旨申し向け、同女が何の疑念も抱かず、「うちの掃除が終つたら行つてやる。」と答えたため、自宅に戻り、同女に本当に掃除を始められて犯行の機を失することのないように一応部屋の掃除をしたうえ、同女の来るのを待ち受けた。そして、同日午前一〇時三〇分ころ、掃除用具を携えて被告人方を訪れた同女を招き入れ、既に室内が掃除されているのを見て同女が同所六畳間の電気こたつにあたり、テレビなどを見始めたので、隙をみて同女を絞め殺そうとしたが、その前に同女の預金通帳等の所在等を確認しておく方が金員強取が容易であると思いつき、同女に対し、同女名義の定期預金はいつでも解約できるかどうかなどを尋ね、同女から、右解約はでき、通帳等の保管場所は従前どおりである旨の返答を受け、同女を殺害すればその現金、預金等を奪い取ることができることを確認したうえ、直ちに、後記のとおり判示第一の殺害行為に及んだ。
被告人は、同女を殺害した後、その絶命を確認するため同女の左胸部に耳を当てて心音がないことを確認したうえ、同女の頸部にタオルを巻いて約三分間絞めつけて万が一にも同女が蘇生しないようにしたり、同女の死体を被告人方に置いてあつた古いポリバスに詰めようとしたが、うまく入れることができなかつたため、先に金品を強取することとし、判示第一の強取行為に及び、その日、引き続き、その強取した通帳の一部及び印鑑等を用いて判示第三の一ないし三の預貯金払戻の犯行に及んだうえ、午後二時半ころ自宅に戻り、判示第二の死体遺棄の犯行に及んだ。そして、その四日後に判示第三の四の、一六日後に判示第三の五の各預金払戻の犯行をしたものである。
(本件罪となる事実)
被告人は、
第一 自分の実母であると信じていた前記甲野花子(当時六九歳)を殺害して、同女の所有にかかる金員及び預金通帳等を強取する目的で、昭和五九年三月五日午前一〇時四〇分ころ、東京都北区十条一丁目××番×号D方一階被告人方住居六畳間において、同女とともにあたつていた電気こたつから、湯茶の支度をするように見せかけて一旦台所に立ち、再び六畳間に戻つた際、室内の物干しにかけてあつたタオル一本を取り、同女の背後からいきなりその頸部に右タオルを巻きつけたところ、同女が大声で「何をするのよ。」と叫んで頸部から右タオルを外すや、更に同女の背後から立膝をつく様な姿勢で右腕を同女の前頸部に巻きつけ、その右手甲に左手掌をあてがい、同女が逃れようとして身をよじり必死で被告人の手甲をかきむしるのもかまわず、両腕に力をこめて、自己の上体を後方に反らせるようにしながら、同女の頸部を約五分間にわたつて力一杯絞めつけ、よつて、そのころ同所において、同女を頸部扼圧による急性窒息により死亡させて殺害したうえ、まもなく同所において、同女着用の割烹着から同女所有の現金約一万三〇〇〇円在中のがま口一個(時価約五〇〇円相当)及び同女方居室の鍵一個を強取し、更に同日午前一一時四五分ころ、同区十条仲原一丁目××番××号B荘三号棟三号室同女方に赴き、同所において、整理だんす内に収納されていた同女所有にかかる同女名義の郵便貯金通帳一通(貯金残高一九万七二七四円)、期日指定定期預金証書一通(預金額五〇万円)、自動継続式定期預金証書一通(同一〇万円)、定期預金証書一通(同一〇万円)、普通預金(総合口座)通帳一通(預金残高三一万五六六四円)、普通預金通帳一通(同二八万六一四四円)、定期積金証書一通(積立金額一万二〇〇〇円)の計七通及び印鑑二個をそれぞれ強取し、
第二 右強盗殺人の犯行が発覚するのを防ぐため、右甲野花子の死体を前記被告人方床下の土中に遺棄しようと考え、その準備として、同日午後三時ころから午後七時ころまでの間、同所六畳の間において、同室北東端の畳をドライバーで上げ、バールを用いて床板四枚を外し、床下地面をスコップで掘つてみたが、土が固くてうまく掘れなかつたため、死体梱包用のガムテープを購入してきた後、同床下東端の地面に深さ約五〇センチメートルの穴を掘り直し、同女の死体の両脚を後方に折り曲げ、ビニール製テーブルクロスで包み、右ガムテープを巻いて梱包したうえ、同日午後七時ころ、右梱包された花子の死体を右穴の中に寝かせて置き、その上にスコップで土をかけてこれを埋没させ、もつて右死体を遺棄し、
第三 前記強取にかかる印鑑、貯金通帳等を用いて金員を騙取しようと企て、
一 同日午後零時三〇分過ぎころ、同区十条仲原二丁目一一番三号十条仲原郵便局において、行使の目的をもつて、ほしいままに、同局備付けの郵便貯金払戻金受領証用紙の「払戻金額」欄に「¥190,000」、「おなまえ」欄に「甲野花子」とボールペンで各冒書し、「受領印」欄に前記強取にかかる「甲野」と刻した小判型印鑑を冒捺するなどし、もつて甲野花子作成名義の郵便貯金払戻金受領証一通を偽造したうえ、同局係員E(当時二四歳)に対し、これをあたかも真正に成立したもののように装い、前記強取にかかる右甲野花子名義の郵便貯金通帳とともに提出行使して貯金一九万円の払戻しを請求し、同係員をして、正当な権利者による払戻請求であると誤信させ、よつて、そのころ同所において、同係員から貯金払戻名下に現金一九万円の交付を受けてこれを騙取し、
二 同日午後一時過ぎころ、同区上十条三丁目二一番一号大東京信用組合十条支店において、行使の目的をもつて、ほしいままに、同支店備付けの普通預金払戻請求書用紙の「お支払額」欄に「¥200,000」、「おなまえ」欄に「甲野花子」と、定期積金支払申請書兼支払連絡票用紙及び甲野花子名義の定期積金証書裏面の払戻金受領証部分の各「おなまえ」欄に「甲野花子」とボールペンで各冒書し、右各「お届印」欄にいずれも前記強取にかかる「甲野」と刻した小判型印鑑を冒捺し、もつて甲野花子作成名義の普通預金払戻請求書、定期積金支払申請書及び定期積金払戻金受領証各一通を順次偽造したうえ、同支店係員F(当時二六歳)に対し、これらをあたかも真正に成立したもののように装つて前記強取にかかる右甲野花子名義の普通預金(総合口座)通帳及び定期積金証書とともに一括して提出行使して普通預金及び定期積金元利合計二一万二〇二四円の払戻しを請求し、同係員をして、正当な権利者による払戻請求であると誤信させ、よつて、そのころ、同所において、同係員から預金等払戻名下に現金合計二一万二〇二四円の交付を受けてこれを騙取し、
三 同日午後一時三〇分過ぎころ、同区上十条二丁目二五番一二号株式会社太陽神戸銀行十条支店において、行使の目的をもつて、ほしいままに、同支店備付けの普通預金払戻請求書用紙の「金額」欄に「¥280,000」、「おなまえ」欄に「甲野花子」とボールペンで各冒書し、「お届け印」欄に前記強取にかかる「甲野」と刻した丸型印鑑を冒捺し、もつて甲野花子作成名義の普通預金払戻請求書一通を偽造したうえ、同支店係員G(当時二二歳)に対し、これをあたかも真正に成立したもののように装つて前記強取にかかる右甲野花子名義の普通預金通帳とともに提出行使して普通預金二八万円の払戻を請求し、同係員をして、正当な権利者による払戻請求であると誤信させ、よつて、そのころ同所において、同係員から預金払戻名下に現金二八万円の交付を受けてこれを騙取し、
四 同月九日午前一〇時ころ、前記株式会社太陽神戸銀行十条支店において、行使の目的をもつて、ほしいままに、前記強取にかかる甲野花子名義の期日指定定期預金証書裏面及び自動継続式定期預金証書裏面の各元利金領収証欄の各「おなまえ」欄に「甲野花子」とボールペンで各冒書し、右各「お届け印」欄にいずれも前記強取にかかる「甲野」と刻した丸型印鑑を冒捺し、もつて甲野花子作成名義の期日指定定期預金元利金領収証及び自動継続式定期預金元利金領収証各一通を順次偽造したうえ、同支店係員H(当時四八歳)に対し、これらをあたかも真正に成立したもののように装い一括して提出行使して右各定期預金元利合計六二万〇九三五円の払戻しを請求し、同係員をして、正当な権利者による払戻請求であると誤信させ、よつて、そのころ同所において、同係員から預金払戻名下に現金合計六二万〇九三五円の交付を受けてこれを騙取し、
五 同月二一日午前九時五〇分ころ、前記大東京信用組合十条支店において、行使の目的をもつて、ほしいままに、同支店備付けの定期預金支払申請書兼支払連絡票用紙、定期預金払戻請求書用紙、普通預金払戻請求書用紙及び甲野花子名義の定期預金証書裏面の元利金受領証欄の各「おなまえ」欄に「甲野花子」とボールペンで各冒書し、右「お届け印」欄にいずれも前記強取にかかる「甲野」と刻した小判型印鑑を冒捺し、もつて甲野花子作成名義の定期預金支払申請書、定期預金元利金受領証、定期預金払戻請求書及び普通預金払戻請求書各一通を順次偽造した上、同支店係員I(当時二四歳)に対し、これらをあたかも真正に成立したもののように装つて前記強取にかかる右甲野花子名義の普通預金(総合口座)通帳及び定期預金証書とともに一括して提出行使して定期預金元利合計二〇万三四一七円を普通預金口座に振りかえるとともに、これを含めた普通預金合計二一万九一八九円の払戻しを請求し、同係員をして、正当な権利者による払戻請求であると誤信させ、よつて、そのころ同所において、同係員から預金払戻名下に現金合計二一万九一八九円の交付を受けてこれを騙取し
たものである。
(証拠の標目)<省略>
(法令の適用)
被告人の判示第一の所為は刑法二四〇条後段に、判示第二の所為は同法一九〇条に、判示第三の一ないし五の各所為中、各有印私文書偽造の点はいずれも同法一五九条一項に、各偽造有印私文書行使の点はいずれも同法一六一条一項、一五九条一項に、各詐欺の点はいずれも同法二四六条一項にそれぞれ該当する。判示第三については、その二、四及び五の偽造有印私文書の各一括行使は、それぞれ一個の行為で、数個の罪名に触れる場合であり、同一ないし五のそれぞれにおける各有印私文書偽造とその各行使と各詐欺との間にはそれぞれ順次手段結果の関係があるので、同一及び三についてはいずれも同法五四条一項後段、一〇条により、同二、四及び五についてはいずれも同法五四条一項前段、後段、一〇条により、結局それぞれ一罪としていずれも最も重い詐欺罪の刑(ただし短期は、偽造有印私文書行使罪の刑のそれによる)で処断することとする。そして、判示第一の罪について所定刑中無期懲役刑を選択し、以上は同法四五条前段の併合罪であるが、同法四六条二項本文により他の刑を科さないで、被告人を無期懲役に処する。訴訟費用については、刑事訴訟法一八一条一項但書を適用して被告人に負担させないこととする。
(弁護人の主張に対する判断)
弁護人は、被告人が昭和五九年四月一九日午後九時五四分ころ、埼玉県警察本部大宮警察署大宮駅西口派出所に出頭して花子殺害を自白した時点において、警視庁王子警察署は、被告人が花子に対する強盗殺人の犯行に及んだとの十分な心証は得ておらず、むしろ花子の失踪について被告人に対し単なる不審を抱いていたに過ぎないから、未だ強盗殺人の犯人であることが官に発覚していたものとは認められないとし、さらに被告人が、右出頭の際、「母の嘱託を受けて同人を殺害した」旨虚偽の事実を申告している点も、被告人が改悛の情により出頭したものであつて、しかも数時間後には全面的に自供したことにより捜査の進行が容易ならしめられたものである以上、少なくとも、被告人の前記出頭・申告は刑法四二条にいう自首と同視して、刑の減軽がなされるべきであると主張する。
しかしながら、司法警察員作成の昭和五九年五月一八日付及び同年四月二五日付各捜査報告書ならびにK(同月一八日付)、L及びM(同日付)の司法警察員に対する各供述調書によれば、右王子警察署では、被告人が大宮駅西口派出所に出頭した前日、すでに右K及びLから被害者及び被告人行方不明との家出人捜索願の届出を受け、即日直ちに被害者の失踪前の状況、被告人の借財状況、稼働状況、その他被害者の預貯金払戻状況等につき関係人からの詳しい事情聴取を進めたのち、同日午後五時の時点において、被告人が被害者を殺害し、また、その金品を奪つたとの疑いが濃厚であると判断し、その捜査を進めるとともに、被告人の所在捜査を行つていたことが認められる。これによれば、花子に対する強盗殺人罪を犯したとの嫌疑についてはともかくとしても、少なくとも、その一部をなす殺人及び財物奪取の犯行については、被告人がその犯人であることが、右被告人の出頭時点において、既に官に発覚していたということができるものと考えられるから、本件は刑法四二条の要件を欠くものといわなければならない。また、刑法四二条の要件を充たさない場合であつても同条が類推適用される場合があるか否かの点についての一般論はさておくとしても、本件の如く、強盗殺人の罪を犯した者が嘱託殺人を犯したかのように申告する場合には、その間の罪質、法定刑の著しい差異に鑑みると、右申告は、犯行の極めて重要な部分について、自己の刑責を軽くするため虚偽の事実を申告したものであつて、到底自首と同視しうるに足りる事情が存在する場合にあたるとは解することができない。
したがつて、弁護人の右主張は採用しない。
(量刑理由)
本件は、競馬とパチンコに病みつきになつた被告人が、ただその資金をほしいというだけの理由から、その手段として、自ら実母であると信じて疑わず、かつ、何の怨みも抱いていなかつた育ての母を殺害することを思いつくや、その日のうちにこれを計画・実行したという強盗殺人の犯行を中心とする事案である。
金を得ることを目的に、その手段として、人の殺害を計画し実行するというだけでも、その罪の悪質さ及び重大性には格別のものがあるというべきであるのに、本件においては、そのうえ、これが、乳児期から被告人を大切にいつくしみ育ててくれ、本件当時も被告人の生活や将来などについてなにかと心にかけてくれていた育ての母であり、かつ、被告人自ら実の母であると信じていた者に対して単に遊興費がほしいというだけの動機から、比較的簡単に、しかし計画的かつ冷静に敢行されたというものであるから、本件を知るとき、このようなひどいことを温い血の流れている人間が本当にできるものかと誰もが驚き、深い衝撃を受けるに違いなく、本件強盗殺人の犯行は、人倫の基本、人としての自然の情愛に著しく反する誠に非人間的な犯行であるといわざるをえない。
右の点が本件量刑上考慮すべき基本的かつ最大の点と考えられるが、なおその他の点について言及すると、まず、被害者に対し「掃除をしてほしいから」と偽つて物音の漏れない自宅に被害者をおびき出し、また、殺害等の犯行中テレビの音を大きくしていたことや殺害直前に予め被害者に金のあり場所を確認したこと等、犯行遂行過程に見られる被告人の周到さも、本件犯情の悪質さを増大させるものといわなければならない。殺害の態様も、もがき苦しむ被害者に対し何ら憐憫の情を示すことなく、その頸部を数分間にもわたつて力一杯絞め続けたうえ、その死後もなおタオルを用いてとどめを刺すという冷酷極まるもので、長年我が子として愛情を注いできた被告人から不意に襲われた被害者の驚愕と無念さは、察するに余りがあるといわなければならない。更に、被害者殺害後の行動をみても、被告人は、殺害後直ちに預貯金払戻しに赴くなどして、被害者が既に老境に入り、年金等で細々と暮しながら、被告人の負担を慮つて、自己の葬祭費用等として営々と蓄財した一五〇万余円の被害者にとつては極めて貴重な預貯金をほとんど根こそぎ引き出し、そのうえそれだけでは足りず、被害者殺害の約一か月後、なお被害者方から被害者の衣類を盗んでこれを入質換金するなどのこともし、これらの金を一月余の間にすべて賭事等に費消しつくし、金銭に窮した状態になつてからやつと警察に出頭し、しかも、その際、当初は、被害者の依頼により殺害した旨虚偽の供述をしたものであり、このほか、判示第二の死体遺棄の犯行をはじめ、被害者殺害の犯行直後から被害者方アパートの管理人や被害者の親族の者らに「おふくろは出稼ぎに行つた」などと偽わるなどの数々の犯跡隠蔽のための証拠隠滅工作もしているのであつて、その状況にも芳しからざるものがあるというほかない。
以上の点に鑑みると、被告人の本件刑責には、極めて重大なものがあるといわざるをえない。
他面、本件において被告人に有利に斟酌すべき情状について検討すると、被告人は逮捕後改悛の情を示し、以後、自分は死刑になつても当然の重大な罪を犯してしまつたとの深い反省から、捜査及び公判の各段階を通じて、自己の不利なことも含め一切詳しく供述してきたものであり、特に当公判廷での最終陳述は自らのした行為の罪深さを深く悟り心の底からの反省の心情を述べたものとして、聞く人をして被告人における人間性の回復を信じさせるに足るものがあつた。右のとおり被告人の改悛の情が顕著であることに加え、被告人には過去犯罪歴が全くなく、四年前に妻と死別するまでの四二年余の生活では、病気の太郎をかかえて数年間一家を支え、あるいは、長期療養していた妻の看病に努めるなど、人並の勤勉さや性格の善良さを有していたものと窺えること、本件の遠因をなす賭事への熱中も、七年余看病した愛妻に先立たれた独り暮らしの淋しさに起因すること、本件花子に対する強盗殺人を決意したのには、金に窮してもサラ金への返済を約旨どおり履行し、また第三者に対し罪を犯すほどの度胸もないという一面では被告人の律気で気の弱い性格が一因となつている面もあること、更には、被告人が本件犯行後相当経過した後ではあるけれども、自ら捜査機関に出頭してきたこと等、被告人のため利益に斟酌できる事情も認められる。
しかし、右の諸点のほか本件にあらわれた被告人に有利なすべての情状を最大限考慮しても、前叙の本件強盗殺人の犯行の悪質さ、重大性に照らすときは、被告人に対し、強盗殺人罪の法定刑の中から選択した無期懲役刑について更に酌量減軽をするのは相当でなく、主文の刑は誠にやむをえないと考える次第である。
よつて、主文のとおり判決する。
(金谷利廣 廣瀬健二 秋吉仁美)