東京地方裁判所 昭和60年(ワ)15919号 判決 1987年4月24日
原告
藤ケ崎静香
被告
浅井治巳
ほか一名
主文
一 原告の請求を棄却する。
二 訴訟費用は原告の負担とする。
事実
一 当事者の求める裁判
(原告)
1 被告らは、各自、原告に対し三二八〇万六一九〇円及びこれに対する昭和五六年七月二五日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。
2 訴訟費用は被告らの負担とする。
3 仮執行宣言
(被告ら)
主文と同旨
二 当事者の主張
1 原告の請求原因
(一) 事故の発生
原告は、昭和五六年七月二五日午前九時一五分ころ、その子明(当時三歳、以下「明」という。)を連れて聖路加病院へ行くため、東京都中央区明石町一〇番一号先道路(以下「本件道路」という。)を横断しようとした際、折から銀座方面から隅田川方面へ向つて走行してきた被告浅井治巳(以下「被告浅井」という。)運転の普通乗用自動車(タクシー、足立五五を三七七七、以下「加害車」という。)に衝突された(以下「本件事故」という。)。
(二) 責任原因
(1) 被告浅井の責任
被告浅井は、加害車を運転するにつき、制限速度四〇キロメートルの指定を超える時速五〇キロメートル以上の速度で走行した上、歩行者の存在を確認した場合にはすみやかに停止するか徐行するなどして歩行者の安全を配慮すべき義務があるにもかかわらず、前方注視を怠り、原告をはねたものであるから民法七〇九条により、原告が被つた損害を賠償すべき責任がある。
(2) 被告大和自動車株式会社(以下「被告会社」という。)の責任
被告会社は、加害車を所有し、自己のため運行の用に供していた者であるから、自動車損害賠償保償法(以下「自賠法」という。)三条により、また、被告浅井を雇用し、タクシー運転者として旅客運送業務に当たらせていた最中に本件事故を発生させたものであるから民法七一五条により、原告が本件事故により被つた損害を賠償すべき責任がある。
(三) 原告の傷害と治療の経過
原告は、加害車に約一〇メートルはね飛ばされ、頭部裂傷及び骨盤骨折の重傷を負い、聖路加国際病院、慶応病院に入院、通院して治療を受けた。その結果、神経系統の機能又は精神障害(うつ病)の後遺障害を残した。
(四) 損害 三二八〇万六一九〇円
(1) 入院・治療費 七九万一六三一円
聖路加国際病院(入院関係費用六五万九八一〇円、外来通院治療費一三万〇五九一円)、慶応病院(治療費一二三〇円)の入院治療に要した費用
(2) リハビリ用眼鏡代 一六万〇七〇〇円
原告は、本件事故により複視等の障害が生じ、そのリハビリ用に特別な眼鏡の使用を余儀なくされ、しかも回復の度合いに応じて四回の買換えを要した。
(3) 通院交通費 一〇万八五〇〇円
自宅から病院までのタクシー代
(4) 介護等費用 七三万一七六〇円
原告の入院中、昭和五六年七月二五日から同年八月一五日まで二二日間家人が介護のため付き添つたところ、その費用は、一日三五〇〇円として合計七万七〇〇〇円である。
また、昭和五六年八月一八日から昭和五九年二月二三日までの間の一〇〇日については、原告は家事及び後記の勤務ができず家政婦を雇わざるを得なかつた。その費用は六五万四七六〇円である。
(5) 諸経費 三万七〇〇〇円
(6) 休業損害 一八一五万円
原告は、本件事故当時訴外株式会社東京富士商会に専務取締役として勤務し、月額六六万円の給与収入を得ていた。しかるに、本件事故のため原告は、昭和五六年七月二五日から一一か月間は完全な休業を、その後昭和五七年七月一日から昭和五九年一二月三一日までは半日を限度とする勤務を余儀なくされた。
この間の休業損害は一八一五万円である。
66万円×11+33万円×33=1815万円
(7) 逸失利益 二二〇二万三二六二円
原告の後遺障害の程度は、自賠法施行令二条別表後遺障害等級九級に相当するというべきところ、少なくとも昭和六〇年一月一日から一〇年間は三五パーセントの労働能力喪失が見込まれるから、この間の原告の逸失利益の現価は、中間利息控除につき新ホフマン方式を採用して算定すると、次式のとおり二二〇二万三二六二円(一円未満切捨て)となる。
66万×12×0.35×7.9449≒2202万3262円
(8) 慰藉料 五八七万円
ア 傷害慰藉料 六五万円
原告は本件事故による傷害の治療のため昭和五六年七月二五日から昭和五九年二月二九日までの間に入院二二日、通院三〇日を余儀なくされた。
イ 後遺障害慰藉料 五二二万円
原告の後遺障害の程度は、前記のとおり九級に相当する。
ウ 以上の治療経過及び結果により被つた原告の精神的苦痛を慰藉するには頭書の金額をもつてするのが相当である。
(9) 過失相殺 三割
本件事故は、被告浅井の過失に基づくものであるが、原告においても駐車中の車の後方から本件道路を横断しようとしたもので三割程度の過失があるものと認める。すると、右過失相殺後の原告の損害額は三三五一万〇九九七円となる。
(10) 損害の填補 七〇万四八〇七円
原告は、被告らから七〇万四八〇七円の支払を受け、これを前記合計損害に充当したので、最終的な損害額は右支払額を控除した三二八〇万六一九〇円となる。
(五) よつて、原告は、被告ら各自に対し、三二八〇万六一九〇円及びこれに対する本件事故(不法行為)の日から支払ずみまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。
2 請求原因に対する被告らの認否
(一) 請求原因(一)(事故の発生)の事実は認める。
(二) 同(二)(責任原因)は、(1)の浅井が原告主張の注意義務を負うことは認めるが、過失は否認し、(2)の被告会社の責任については、同被告が加害車の運行供用者であること、被告浅井が被告会社の従業員であり、その業務執行中に本件事故が発生したことは認めるが、後記のとおり責任は争う。
(三) 同(三)(原告の傷害と治療の経過)の事実は不知ないし争う。原告の主張する後遺障害につき、「うつ病」は本件事故とは明らかに相当因果関係がなく、また、自賠責保険自動車料率算定会では原告らの後遺障害認定請求に対し非該当の認定をしている。
(四) 同(四)(損害)の事実は、(1)ないし(8)は不知ないし争う。(9)は原告に過失があるとの点はそのとおりであるが、その割合は争う。本件事故は、停車中の四トンコンテナトラツクの陰から突然とび出した原告の全面的過失によるものである。(10)は認める。ただし、正確な填補額は七〇万四八〇七円ではなく、七〇万九四一六円である。
(五) (五)の主張は争う。
3 被告らの主張(免責)
本件事故当時、加害車の反対車線は信号待ちのため渋滞しており、多数の車両が停止状態にあつたところ、原告は、そのうちの四トンコンテナトラツクの後背部から、その子明の手を引いて反対側の聖路加国際病院に行くため突然加害車の進路前方にとび出してきた。右時点で、被告浅井は時速三〇キロメートル弱の速度(スリツプ痕跡から明らか)で前方注視の上走行していたのであるが、突然の原告のとび出しに急拠制動措置を採つたが間に合わず、加害車を原告に衝突させてしまつたものである。
右のとおり本件事故は原告の一方的な過失により発生したものであり、被告浅井に事故時の運行について過失を問い得ないことは明らかである(刑事処分は不起訴処分となつている。)。また、加害車には構造上の欠陥又は機能の障害はなかつた。したがつて、被告浅井は過失がないことを理由に、また、被告会社は自賠法三条但書により、いずれも免責されるべきである。なお、被告浅井に過失がない以上、これを前提とする民法七一五条の使用者責任のないことも明らかである。
4 被告らの免責の主張に対する原告の認否
免責の主張は争う。本件事故当時、被告ら主張の四トンコンテナトラツクは存在しなかつた。また、原告は乗用車の後を回つて横断しようとしたのであり、被告浅井はかなり手前からこれを発見し得たはずである。加えて、同被告は、その直前に交差点を右折してきたのであり、交差点通過時に要求される徐行義務を遵守していれば本件事故発生場所付近では時速三〇キロメートル程度で走行し得ていたのであるから、十分に本件事故を回避することができたはずのものである。しかるに、同被告は、右注意義務に違背し、時速五〇キロメートル以上の速度で漫然と、右折進行してきたため本件事故を発生させたものであるから、同被告に過失のあることは明らかというべきである。
三 証拠
証拠関係は、本件記録中の書証及び証人等目録記載のとおりであるから、これをここに引用する。
理由
一 請求原因(一)(事故の発生)の事実は当事者間に争いがない。
二 そこで、被告らの責任を検討するのに、被告らは被告浅井の過失を争い、免責を主張するのでこの点について判断する。
1 前記争いのない事実に成立に争いのない甲一号証、九号証、原本の存在成立共に争いのない甲一三号証、弁論の全趣旨により本件道路の状況を撮影した写真であることが認められる甲二一号証の一ないし五、同じく乙三号証の一ないし八及び証人武重弘巳(後記措信しない部分を除く。)、同西岡憲朗の各証言並びに弁論の全趣旨によれば、
(一) 本件道路の状況は、車道幅員約九メートルで中央線により片側一車線ずつに区分されており、車道両側には三メートル弱の歩道が設けられ、縁石、ガードレールで車道部分と区分されている。路面は平坦でアスフアルト舗装され、本件事故当時の天候は晴れで路面は乾燥していた。
また、本件道路は、隅田川方面から市場通りに東西に走る道路で、本件事故発生の衝突地点(以下「本件衝突地点」という。)から東方へ約三三・四メートルのところで晴見通りから佃大橋通りへ走る道路と交差している(右交差点を以下「本件交差点」という。)。いわゆる幹線道路ではないが交通量は頻繁(本件事故当時一分間に二〇ないし三〇台程度の車両交通量があつた。)であり、交通規制として制限速度四〇キロメートル毎時の指定がされていた。原告が横断を試みた付近は横断禁止の交通規制はない。
なお、本件道路上には本件衝突地点の前後にわたり、加害車の左右前輪が残した二条の鮮明なスリツプ痕(右六・〇メートル、左五・九メートル)が印されていた。
(二) 本件事故当時、本件道路の市場通り方面への車線は渋滞しており、本件交差点の信号待ちのため数十メートルにわたり車両が停止していたが、隅田川方面への車線は円滑に流れていた。被告浅井は、晴見通り方面から加害車を運転して走行し、本件交差点を右折して西方隅田川方面に向かい、時速約三〇キロメートル程度の速度で右交差点から約三〇メートルほど進行して本件衝突地点付近に差しかかつたところ、対向車線に停止中(前記信号待ちのため)のトラツク(以下「本件トラツク」という。)の後背部から、突然、明の手を引いた原告が自車の前方へ小走りで飛び出してきたのを発見し、とつさにハンドルを左に転把しつつ、急制動措置を講じたが間に合わず、自車の右前部角付近を原告の腰部付近に衝突させた。
なお、原告を発見した時点の加害車の速度は、スリツプ痕の長さから制動初速度を求める公知の算式(制動初速度(km/n)=)に従い、本件道路面が乾燥したアスフアルト路面であることから摩擦係数〇・五五を採用して算出すれば、時速二八・九九キロメートル又は同二九・二三キロメートルと推認される。
他方、原告は、右渋滞車線側の歩道端から対面の聖路加国際病院に行くため本件道路の横断を図つたのであるが、その際、折から信号待ちのため停止中の本件トラツクの後部とこれに続いて停止中の訴外武重弘巳運転の普通乗用車(以下「武重車」という。)との間を通り、左方すなわち本件交差点方面からの車両の走行の有無を確認することなく、明の手を引き小走りで右横断のため対向車線内に飛び出して行つた。そして、右飛び出しと加害車との時間的関係は、対向してきた加害車に出合頭にぶつかるようなタイミングで原告が飛び出して行つたものである。
(三) 本件トラツクは、ホロ付きのものであつて、少なくとも人の背丈をはるかに上回る高さがあり、右トラツクの背後に人がいる場合、加害車側からは右トラツクの横を通過するまでこれを予め視認することは不可能である。
以上の事実が認められ、証人武重弘巳の証言中右認定に反する部分は措信し難く、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。
2 右事実に基づき考察するのに、被告浅井は加害車を運転するにつき法定の制限速度を遵守し、前方を注視し、四囲の状況に即応した安全運転を行うべき注意義務を負うことはいうまでもなく、自車の進路前方に横断者ないし横断を試みようとする者を発見したときは直ちにこれとの衝突等交通事故を防止すべき適宜の対応措置を採るべき義務を負うこともまた自動車運転者として当然のことといわなければならない(以上については被告らもこれを争うものではない。)しかしながら、同被告は、右以上に、本件のごとく信号待ちのため停止中のホロ付きトラツクの陰から対向車線の安全を確認もせず(原告がもし右安全を確認していれば、幼児の手を引いて、接近してくる加害車の前に飛び出すような自殺行為に等しいことはしなかつたであろう。)飛び出して来る者のあることを予測して、徐行や警音器を吹鳴するなどして運転走行すべき注意義務まで負うものではないというべきである。他方、原告は、歩行者ではあつても、対向車から見通しのきかない停止車両の陰から横断を試みる以上、当然のことながら対向車線の車両走行の有無を確認した上で横断すべき注意義務を負つていたものというべきである。
しかるところ、前記認定事実に徴し明らかなとおり、被告浅井は制限速度を十分に遵守し、原告を発見してからは直ちに急制動措置を採るなどかかる事態に遭遇した自動車運転者に要求される採り得べき最善の措置を採つたものと解することができ、それにもかかわらず本件事故を回避できなかつたのであり、また、事前に原告の存在及びその飛び出しを予見し得べき特段の事情は認められず、原告の右飛出しは現実に予見不可能であつたことを考慮すると、同被告には本件事故発生につき何ら法規範上過失として非難されるべき点はないものというべきである。すると、本件事故は、専ら、思慮分別を十分に具えたはずの原告が対向車線の車両交通の有無を確認せず、小走りに飛び出して行つた軽卒極まりない所為により惹起されたものといわざるを得ない。
また、加害車には構造上の欠陥も機能の障害も認められない(前掲甲一三号証)。
3 右のとおりであるから、本件事故につき、被告浅井には民法七〇九条の不法行為責任は成立せず、また、被告会社は自賠法三条但書により免責されるべきであり、被告浅井に過失が認められない以上民法七一五条の責任が成立する余地もないものといわなければならない。
三 よつて、原告の本訴各請求は、いずれもその余について判断するまでもなく理由がないから棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判官 藤村啓)