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東京地方裁判所 昭和62年(ワ)12293号 判決 1994年6月08日

原告

南淑姫

篠崎章乃

金勇光

金山泰成

金泉

金原光

右六名訴訟代理人弁護士

池田眞規

牧野二郎

被告

沖野光彦

井澤正博

右両名訴訟代理人弁護士

加藤済仁

松本みどり

岡田隆志

主文

1  被告らは、連帯して、原告南淑姫に対し四〇〇万円及びこれに対する昭和六二年一〇月二二日以降支払済みに至るまで年五分の割合による金員を、その余の原告らに対し各八〇万円及びこれに対する右同日以降支払済みに至るまで年五分の割合による金員を支払え。

2  原告らの被告らに対するその余の請求並びに原告篠崎章乃、同金勇光及び同金山泰成の被告沖野光彦に対する請求をいずれも棄却する。

3  訴訟費用はこれを五分し、その一を被告らの負担とし、その余を原告らの負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  原告ら

1  被告らは、連帯して、原告南淑姫に対し一七八七万三一九六円及びこれに対する昭和六二年一〇月二二日以降支払済みに至るまで年五分の割合による金員を、その余の原告らに対し各三五七万四六三九円及びこれに対する右同日以降支払済みに至るまで年五分の割合による金員を支払え。

2  被告沖野光彦(以下「被告沖野」という。)は、原告篠崎章乃、同金勇光及び同金山泰成に対し、各五〇万円及びこれに対する昭和六二年九月二七日以降支払済みに至るまで年五分の割合による金員を支払え。

3  訴訟費用は被告らの負担とする。

との判決を求める。

二  被告ら

1  原告らの請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は原告らの負担とする。

との判決を求める。

第二  当事者の主張

一  原告らの請求の原因

1  原告南淑姫は訴外金奎会(以下「奎会」という。)の妻、その余の原告らは奎会及び原告南淑姫の子である。

被告沖野は、肩書地において、旗の台脳神経外科医院(以下「旗の台医院」という。)を経営している脳神経外科の専門医であり、被告井澤正博(以下「被告井澤」という。)は、昭和六〇年九月当時、東京女子医科大学病院脳神経センター(以下「脳神経センター」という。)及び旗の台医院に勤務していた脳神経外科の専門医である。

2(一)(1) 奎会は、昭和五七年に心筋梗塞に罹患し、東京女子医科大学病院日本心臓血圧研究所(以下「心臓血圧研究所」という。)に通院していたが、昭和六〇年九月二〇日朝になって、突如、ろれつが回らず、手足も自由に動かないという症状を呈し、また、同日午前一一時頃には、軽い心臓発作を起こし、心臓血圧研究所に連絡し相談した上で、奎会の主治医である本田喬医師の紹介により、同日、脳神経センターで被告井澤の診察を受けた。

被告井澤は、CTスキャンによる検査等を行い、左視床に軽度の脳内出血があり、出血は既に止まっていて生命に別状はないものの、脳室がやや大きくなっており、ドレナージ手術をしたほうがよいものと診断し、脳神経センターが既に満床であったために、被告井澤の勤務する旗の台医院に奎会を入院させることにした。

(2) このようにして、奎会は、同日午後六時二〇分頃、同医院に到着し、そこでは何らの問診も受けないままに、同医院に入院した。

ところが、奎会は、同日午後八時三〇分頃、心臓発作を起こして胸痛を訴えたので、付き添っていた家族が直ちに連絡を取ったが、医師自らが病室に臨んで診断等をすることなく、看護婦が奎会の所持薬の服用を指示し、フランドルテープを貼付し、精神安定剤の注射を行ったのみであった。

(3) 奎会の容体は、翌二一日朝になると、正常に近い状態で言葉を交わせるようになるなど、軽快していた。

ところが、被告井澤は、同日午後四時頃、奎会に対し、ルンバール検査を行った。

(4) 奎会は、右検査の終了直後に、心筋梗塞の発作を起こし、激しい胸痛を訴え始めた。

被告井澤は、連絡を受けて病室に臨み、看護士に指示して投薬、注射、酸素吸入の処置をしたが、その後、発作が続いている奎会の治療を看護士に委ねて放置したまま、処置の途中に病室から退出し、以後、自ら経過観察を行うことはなかった。

奎会に付き添っていた原告らは、この時点で、治療に当たっていた看護士に対して、心臓血圧研究所への期時転院を要請したが、看護士は、休日明け(同月二四日)に転院させる予定である旨を回答したに止まった。

(5) その後、奎会の発作は一旦は収まったかのようであったが、同日午後七時一〇分頃、再び心筋梗塞の発作がみられた。被告井澤は、その際にも病室に臨むことなく、看護婦が奎会の所持薬の服用を指示したのみであった。

(6) そして、奎会は、同日午後九時過ぎ頃、突然、ベッドから起き上がって、立ち上がろうとした際、前方に転げるようになって、そのままベッドから転落した。奎会は、その時には既に心停止に近い状態にあって、同日午後一一時頃に死亡した。

(二)(1) 被告沖野は、昭和六〇年九月二〇日、奎会との間において、同人の病状の治療改善に必要な治療行為をすることを内容とする診療契約を締結し、被告井澤は、旗の台医院に勤務する医師として、被告沖野の履行補助者として、必要な治療を行うべき地位にあった。

(2) 奎会は、旗の台医院に入院した当時から、重症の心筋梗塞に罹患していて、昭和六〇年九月二〇日以降においては、数回にわたって心筋梗塞の発作を訴えていたのであるから、被告らは、その入院時に問診を行うなどしてその病状を的確に把握し、そのような患者に有害なルンバール検査を実施することを避け、また、抗不整脈剤を投与するなどの万全の処置を行うか、専門の医療機関に転院させるなどして、不測の事態の発生を未然に防止すべき注意義務を負っていたにもかかわらず、奎会の右のような心筋梗塞の病状を的確に認識しないで、ルンバール検査を強行し、転院等の処置を講ずることなく漫然と放置して、心筋梗塞により奎会を死亡させたものである。

仮に奎会の死因が心筋梗塞ではなかったとしても、奎会の脳内出血に関する症状は既に軽快していたのであるから、脳ヘルニアを誘発する危険を有するルンバール検査を行うべきではなかったにもかかわらず、被告らは、ルンバール検査を強行し、あるいは、被告らは、脳内出血を起こしていた奎会が夜間譫妄に及んでベッドから転落するような事態もあり得ることを予見し、転落防止措置を講じるべき注意義務があったにもかかわらず、これを怠って奎会がベッドから転落することを予防できず、その結果、脳ヘルニアによって奎会を死亡させたものである。

(3) このように、被告沖野及び同井澤は、奎会に対して治療行為を行う際に、その注意義務を怠って、奎会を死に至らせたのであるから、被告沖野は、診療契約上の債務不履行又は不法行為による損害賠償として、被告井澤は、不法行為による損害賠償として、奎会の死亡により生じた後記の損害を賠償すべき義務がある。

(三) 奎会及び原告らが奎会の死亡によって被った損害は、次のとおりである。

(1) 奎会の逸失利益

一五七四万六三九二円

六〇歳平均月額給与二八万四五〇〇円による年収から、生活費三〇パーセントを控除したものに、新ホフマン係数6.589を乗じて得た額

(2) 奎会の慰謝料 一〇〇〇万円

(3) 原告ら固有の慰謝料

原告南淑姫 五〇〇万円

その余の原告ら 各一〇〇万円

(四) 原告らは、いずれも、韓国国籍を有していた奎会の相続人であるところ、協議の結果、原告南淑姫が二分の一、その余の原告らが一〇分の一の相続分に従って奎会の財産に属した一切の権利義務を承継する旨の合意をした。

(五) よって、被告らに対し、原告南淑姫は、一七八七万三一九六円及びこれに対する本件第一回口頭弁論期日の翌日である昭和六二年一〇月二二日以降支払済みに至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の連帯支払いを、その余の原告らは、各三五七万四六三九円及びこれに対する右同日以降支払済みに至るまで右同割合の遅延損害金の連帯支払いを求める。

3(一)  ところで、奎会、原告南淑姫、同金勇光、同金泉及び同金原光はいずれも韓国国籍であり、原告篠崎章乃及び同金山泰成は韓国国籍から日本国籍に帰化した者であるが、被告沖野は、奎会の死亡後の昭和六〇年九月二一日及び同月二三日、臨場した原告篠崎章乃、同金勇光及び同金山泰成に対して、「私は珍しいものを見た。人が死亡してこんなに悲しむ人たちも珍しい。日本人はもっと淡々としている。発展途上国へ行くほど肉親は騒ぎますね。」、「私は、あなたは教養のない人間だと思っていたが、そうでもないね。」、「下層階級に行くほど悲しみが大きいものですよ。」などと、原告らが韓国人であることを意識して、ことさらにそれを蔑むような発言をし、嘲笑するなどした。

(二)  被告沖野の右のような行為は、原告篠崎章乃、同金勇光及び同金山泰成を何のいわれもなく侮辱するものに他ならず、このような侮辱行為が、父である奎会の死亡直後という時期に行われたことにより、同原告らは、著しい精神的苦痛を被った。

そして、原告篠崎章乃、同金勇光及び同金山泰成の被った精神的苦痛を金銭で評価すれば、少なくとも各五〇万円を下ることはない。

(三)  よって、原告篠崎章乃、同金勇光及び同金山泰成は、被告沖野に対し、不法行為による損害賠償として、各五〇万円及びこれに対する訴状送達の翌日である昭和六二年九月二七日以降支払済みに至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。

二  請求原因事実に対する被告らの認否

1  請求原因1の事実は、認める。

2  同2(一)(1)の事実のうち、奎会は、かねてから心臓血庄研究所に通院していたが、昭和六〇年九月二〇日に心臓血圧研究所の本田喬医師に紹介されて脳神経センターで受診し、CTスキャンによる検査が行われたこと、その結果既に出血は止まっていたが、ドレナージ手術をしたほうがよいとの診断がなされたこと、脳神経センターが満床であったために奎会が旗の台医院に入院することになったことの各事実は認め、その余の事実は争う。

同2(一)(2)の事実のうち、奎会の入院時の処置に関する事実については否認し、同日午後八時三〇分頃奎会が胸痛を訴え、看護婦が所持薬を服用するよう指示して、フランドルテープを貼付し、精神安定剤の注射を行ったことは認める。

同2(一)(3)の事実のうち、被告井澤が翌二一日午後四時頃奎会にルンバール検査を行ったことは認め、その余の事実は否認する。

同2(一)(4)の事実のうち、奎会が同日午後四時一五分頃胸内苦悶を訴え、必要な投薬が行われたことは認め、その余の事実は否認する。

同2(一)(5)の事実のうち、同日午後四時五〇分頃に奎会の胸内苦悶が解消したこと、午後七時一〇分頃に奎会が胸内苦悶を訴え、所持薬が投与されたことは認める。

同2(一)(6)の事実のうち、奎会がベッドから転落して、同日午後一一時頃に死亡したことは認め、その余の事実は争う。

奎会は、ベッドから転落直後はまだ心室細動の状態にあって、当直医師や看護婦の処置によって一旦は蘇生した。奎会は、転落時に脳ヘルニアを起こしたものである。

同2(二)(1)の事実は、認める。

同2(二)(2)の事実は、いずれも争う。

奎会の死因は、同人がベッドから転落したことによって生じた脳ヘルニアである。

仮に、奎会の死因が心筋梗塞であったとしても、心筋梗塞に対しては、その専門的治療施設であるCCUに収容した上で循環器の専門医師による治療が行われることが必要であるところ、旗の台医院には、右のような施設はなく、循環器の専門医師もいなかった。また、奎会は、脳内出血を合併していたのであるから、脳と心臓の治療を並行して行うことが必要であるところ、奎会の心筋梗塞の発作が始まった午後四時一五分以降同人の容体が急変する五時間足らずの間にそれに適した転送先を探すことは不可能であった。

同2(三)の事実は、争う。

同2(四)の事実は、知らない。

3  同3(一)の事実のうち、原告らの国籍については認め、その余の事実は否認する。

同3(二)の事実は、否認する。

第三  証拠関係<略>

理由

一  事実欄に摘示した当事者間に争いのない事実に、<書証番号略>、証人荒井孝司の証言、原告篠崎章乃、同南淑姫、被告沖野及び同井澤各本人尋問の結果並びに鑑定の結果を併せれば、次のような事実を認めることができる。

1  奎会(大正一四年三月二三日生まれ)は、昭和五六年から心臓を患い、同五七年一二月には心筋梗塞のため心疾患の専門医療機関である心臓血圧研究所に三か月にわたって入院し、その後も概ね一、二か月に一回程度の割合で通院して治療を受けていたものであるが、この間、軽度の狭心症の発作に見舞われたこともあったものの、いずれも心臓血圧研究所から処方されていた所持薬を服用するなどして、ことなきを得ていた。

ところが、奎会は、昭和六〇年九月一九日午後一〇時頃から翌二〇日朝にかけて、ろれつが回らず、手足も自由に動かないという症状を呈し、心臓血圧研究所に連絡して相談して、奎会の主治医である本田喬医師の紹介により、脳神経センターで脳神経外科の専門医である被告井澤の診察を受けることとなった。

被告井澤は、CTスキャン撮影の結果を検討し、左視床に出血があって、脳室穿破による脳室拡大があるので、外科的治療を要するものと診断した。他方、被告井澤は、その際、本田医師が作成して送付した診療依頼書等によって、奎会が昭和五七年に心筋梗塞により心臓血圧研究所に入院したという既往症を有し、現在も通院、投薬中であることを知っていた。被告井澤は、これらを総合した結果、既に脳内出血は止まっているものの、決して軽症というべき病状ではなかったのに対して、心臓疾患については、古い心筋梗塞はあるものの、現在は症状が落ち着いていたところから、早急に入院させた上、ドレナージ手術を行うべきであるものと判断して、その旨を奎会らに説明した。

ところが、脳神経センターは満床であって、奎会は同センターに入院することができなかったので、被告井澤は、脳神経外科を専門とする旗の台医院に奎会を入院させた。被告井澤は、奎会の入院に先立ち、旗の台医院の院長である被告沖野に対して、脳内出血に関する所見と共に、奎会に心筋梗塞の既往症があり、心臓血圧研究所に通院中であることを電話により伝えた。

2  奎会は、同日午後六時四〇分頃、旗の台医院に到着した。被告沖野は、直ちに心電図検査、胸部及び頭蓋レントゲン撮影等の諸検査を行い、奎会に付き添っていた原告らから奎会の既往症や家族関係についての事情を聴取した。被告沖野は、心臓血圧研究所及び脳神経センターからの診療依頼の趣旨、脳神経センター及び旗の台医院で撮影されたCTスキャン及びレントゲン、問診の結果等を総合的に検討して、奎会には心筋梗塞の既往症があるものの、現在は症状は落ち着いているのに対して、脳には視床出血があって、脳室内に穿破しているため、早晩、頭蓋内圧亢進と脳室拡大を伴う水頭症に準ずる症状が発症することが予測されたので、これに対処するために早急にルンバール(腰椎穿刺)検査やドレナージ手術を行う必要があるものと判断して、そのための治療計画を立てた。

奎会は、前記の入院時の諸検査が終了した後の同日午後八時三〇分頃、胸部痛を訴えたので、看護婦は、酸素吸入や心電図モニターの装着など処置を行い、奎会が心臓血圧研究所から処方されていたニトロール(冠動脈拡張剤)の投与やフランドルテープ(冠動脈拡張剤)の貼付を行い、同八時五〇分頃には右胸部痛は消失した。

3  奎会の容体は、翌二一日になると、やや落ち着きをみせ、意識も正常に近い状態になって、麻痺状態も消失していたが、言語障害は依然として持続していた。

被告井澤は、同日午後に、旗の台医院に出勤し、被告沖野からのルンバール検査やドレナージ手術の施行に関する申送りを受け、また、奎会のカルテや同日午後一時頃に撮影されたCTスキャンを検討して、水頭症は進行していないものと判断して、脳室ドレナージ手術は当面不要であるが、今後の治療方針を早急に確定するため、髄液圧を測定し髄液の性状を確認するルンバール検査を行うことが必要であると判断した。なお、被告井澤は、その際、奎会が前日の午後八時三〇分頃に胸部痛を訴えた事実は了知していたが、その処置の状況や格別の申送りもなかったことなどから、特別の対策を要するものとは判断しなかった。

このようにして、被告井澤は、午後四時頃、奎会に対して、ルンバール検査を施行し、その結果、脳内出血があった事実は窺われるものの、髄液圧は正常であって、ドレナージ手術は不要であるものと判断した。

4  奎会は、右ルンバール検査の終了後の同日午後四時一五分頃、以前の発作とは程度を異にする激しい胸部痛による苦悶状態に陥った。当時外来患者の診察中であった被告井澤は、連絡を受けて病室に臨んだ看護婦から、電話で状況の説明を受け、酸素吸入、ニトログリセリン(冠動脈拡張剤)やアダラート(血圧降下剤、冠動脈拡張剤)の投与などの処置を電話で指示し、その後、外来診療が一段落したところで直接病室に臨み、更にフェノバール(鎮静剤)、インダシン座薬(鎮痛剤)の投与、フランドルテープの貼付など必要な処置を行ったが、再び外来診療を行うため途中で病室を退出した。

その後、午後四時五〇分頃には、奎会の胸部痛による苦悶状態は一旦軽減したものの解消するには至らないまま、午後五時一五分頃には、再び強まり、午後五時五〇分頃には、二度にわたって心室性不整脈(心室頻拍)を生じた。

これに対し、被告井澤や同沖野その他の医師は、右症状について、即時に転院等の特別な処置を講じるべきほどに重篤な心筋梗塞であるとは判断せず、格別の処置は採らなかった。

被告井澤は、外来診療を終えた後の同日午後六時頃、改めて奎会の病状を確認することもしないまま、脳内出血と心臓発作の疑いを有する重症の患者がある旨のみを当直の医師に口頭で申し送って、帰宅した。

5  奎会の右の発作は一旦は収まり、同人は夕食を取ったが、同日午後七時一〇分頃、胸部痛を起こした。しかし、この際にも、看護婦がニトログリセリンを投与したのみで、それ以外には特別の処置は採られなかった。

そして、同日午後四時一五分頃以降の心電図には、明らかにこれらの一連の心筋梗塞の発症を示す所見が現れていた。

6  奎会は、同日午後九時二〇分頃、突然、ベッドから起き上がり、立ち上がるような姿勢をとろうとして、前屈みになり、転落防止用の手すり(高さ四二センチメートル)を越えてベッドから転落した。

奎会は、転落直後に当直の荒井孝司医師が駆け付けた際、外傷はなかったものの既に心室細動、全身チアノーゼ、呼吸微弱、頸動脈触知不能という状態にあって、右荒井医師や被告沖野及び看護婦らによる蘇生処置にもかかわらず、同日午後一一時頃、死亡した。

被告沖野は、奎会の死亡直後にCTスキャンの撮影を行ったが、奎会が脳ヘルニアを起こしていたことを窺わせる所見はみられなかった。

二  また、<書証番号略>及び鑑定の結果によれば、次のような事実を認めることができる。

1  心筋梗塞は、冠動脈の循環障害によって心筋の壊死を生じた状態であって、激しくかつ長く持続する胸痛発作を示し、しばしば不整脈(心室細動、心室頻拍)、心不全、心破裂等の致命的な合併症を生じるものである。

そして、その胸痛は、同様に胸痛を主たる自覚症状とする狭心症の持続時間が通常三〇分以内に止まるのに対し、三〇分以上の長期にわたり持続するものであって、その程度も、狭心症に比較して激しいものであって、その際の心電図は、T波が増高し、STが上昇した後、深いQ波が出現する。また、発作後数時間で、血清酵素のGOT、CPK値の上昇が認められる。

2  したがって、激しい胸部痛が三〇分以上にわたり持続する場合には、心筋梗塞を疑って初期的な治療上の処置を講じるとともに、継続的に心電図の観察や血液の検査を行って、T波、STの変化やGOT、CPKの上昇が認められないかを分析するなどして、確定的な診断を行い、その上でさらに必要な治療を行うべきである。このような心筋梗塞とそれに伴う合併症に対応する処置、治療としては、CCU(冠状動脈疾患集中治療病棟)に収容して集中的な監視、治療を講じることになるが、具体的には、心電図を装着して、心筋梗塞による心筋虚血への対応として、酸素吸入、鎮痛剤、精神安定剤、冠動脈拡張剤の投与を行い、また、不整脈への対応として、抗不整脈剤を投与して心室細動の予防を図ることが必要となる。

三  以上の事実関係を前提に、被告らの注意義務違反の有無について検討する。

1  先ず、先に認定した一連の事実経過に、<書証番号略>及び鑑定の結果を併せると、少なくとも昭和六〇年九月二一日午後四時一五分頃から起きた奎会の激しい胸部痛による苦悶状態は、心筋梗塞によるものと認められる。さらに、奎会にとって、右の心筋梗塞の発作は少なくとも昭和五七年のものに次ぐ二度目のものであること、奎会は同日午後五時五〇分頃に二度にわたり心室性不整脈(心室頻拍)を生じていたこと、また、奎会は同日午後九時二〇分頃にベッドから転落したが、その直後に当直医が駆けつけた時に既に心室細動の状態にあったこと、これに対し、奎会の死亡直後に被告沖野が撮影したCTスキャンには奎会が脳ヘルニアを起こしていたという所見がみられなかったことなどの事実を総合的に考慮すれば、奎会の死因は、ベッドからの転落を契機とする脳ヘルニアにあるものというよりは、既に心疾患が極めて重篤な症状に至っていたところに、右の転落と前後して(奎会がベッドから転落したこと自体は、奎会の死因として必ずしも有意的な出来事であるとは解されない。)心筋梗塞の再発作を生じ、心室細動を合併したことにあるものと認めるのが相当である。

そして、前記のとおり、同日午後四時一五分頃から起きた奎会の胸部痛は、奎会が旗の台医院に入院した直後から度々繰り返していた胸部痛とは程度を異にする激しいものであって、その持続時間も三〇分以上に及ぶものであり、同日午後五時五〇分頃においては重篤な心室性不整脈(心室頻拍)が二度にわたり生じていたことが心電図上も明らかに看取される状況であったのであるから、旗の台医院に勤務する医師として奎会の治療にあたっていた被告らとしては、これらの過程において、心筋梗塞ではないかを疑って、時機に応じた心電図記録の分析を含む奎会の容体の継続的な経過観察を行い、右の胸痛発作が心筋梗塞によるものであることを見極めた上で、CCUを有する心疾患の専門医療機関に転院させる処置を採るべきであったものというべきであり、被告らが、奎会の病状につき適切な診断を行った上で、CCUを有する心疾患の専門医療機関へ転院させておれば、そこで専門的かつ集中的な治療が行われて、心筋梗塞の再発作に心室細動を合併したことによる奎会の死亡という結果を回避し得たものということができる。

ところが、被告らは、前記のとおり、奎会が右の胸部痛を訴えた際、重篤な心筋梗塞によるものではないものと速断して、心筋虚血への対応として必要な投薬等の処置の指示はしたものの、それ以上には、右発作後の奎会の容体を看護婦に問い合わせたり、心筋梗塞の所見を明確に記録していた心電図を分析することを怠って、結局、奎会に心筋梗塞やその合併症である不整脈(心室頻拍)が発生していることを把握することができず、そのため、CCUを有する心疾患の専門医療機関への即時転院の処置を採る機会を逸した。

したがって、被告らに、奎会の病状把握やそれに対する適切な処置を講じることについて注意義務違反が存したことは、明らかであるといわなければならない。

2 もっとも、奎会は、専ら脳内出血に所要の治療を施す目的で旗の台医院に転院したものであるけれども、被告らは奎会が心筋梗塞の既往症を有することを十分に了知した上で受け入れて治療を開始したことは前記のとおりであり、転院後においても顕著な心筋梗塞の発作が発現していたものである以上、初期の治療目的が専ら脳内出血にあったとしても、被告らは医師として前記のような注意義務を免れることはできないというべきである。

また、奎会の脳疾患は、ルンバール検査の結果、手術等の緊急の治療を要するほどの重篤な症状にはないことが明らかになっていたものと認めることができるから、確定的な診断が可能となった時刻を考慮しても、転院の処置を講じることが困難な状況にあったものとはいえない。

四  そこで、奎会及び原告らが被告らの前記不法行為により被った損害について検討すると、先ず、奎会の死亡による奎会及び原告らの慰謝料については、前記のとおりの奎会の病状及び一連の診療経過、奎会の年齢及び生活関係、並びに被告らの過失の内容及び程度、奎会と原告らとの身分関係等、本件弁論にあらわれた一切の事情を総合的に考慮すれば、奎会については四〇〇万円、原告南淑姫については二〇〇万円、その余の原告らについては各四〇万円であると認めるのが相当である。

次に、奎会の逸失利益については、奎会は、前記のとおり、心筋梗塞の既往症を有していたところ、脳内出血を引き起こした上、さらに、心筋梗塞を再発して、脳と心臓の双方に生命の危険の伴う重篤な疾患を併有していたものであって、被告らの適切な処置によって救命が図られていたとしても、就労可能な状態にまで回復することは著しく困難であったものといわざるを得ない。したがって、奎会の逸失利益の賠償を求める原告らの請求には理由がない。

最後に、原告篠崎章乃、同金勇光及び同金山泰成は、被告沖野が同原告らを侮辱する趣旨の発言をしたとして不法行為に基づく損害賠償を求めるけれども、<書証番号略>、被告沖野本人尋問の結果及び弁論の全趣旨によれば、被告沖野がその際右原告らと交わした会話ないし発言は、その全体的な趣旨からして必ずしも同原告らを侮蔑し嘲笑するような内容のものであったとは解されないし、被告沖野がことさらにそのような意図ないし目的をもって発したものとも認められないのであって、肉親を喪った遺族との間での会話としては配慮に欠けるきらいがあることを否定することはできないけれども、これをもって直ちに不法行為を構成するものということはできない。

五  以上のとおりであって、弁論の全趣旨によれば、奎会の相続人である原告らの間においてその主張のとおりの遺産分割の協議が成立したことを認めることができるから、原告らの本訴請求は、被告らに対して、不法行為による損害賠償として、原告南淑姫が四〇〇万円及びこれに対する本件第一回口頭弁論期日の翌日である昭和六二年一〇月二二日以降支払済みに至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の連帯支払いを、その余の原告らが各八〇万円及びこれに対する右同日以降支払済みに至るまで右同割合の遅延損害金の連帯支払いを求める限度で理由があるから、右の限度でこれを認容し、その余の請求はいずれも理由がないから、これを棄却することとして、訴訟費用の負担について民事訴訟法八九条、九二条及び九三条の各規定を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官村上敬一 裁判官中山顕裕 裁判官門田友昌)

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