東京地方裁判所 昭和63年(ワ)12116号 判決 1995年12月04日
原告
塩田一祥
右訴訟代理人弁護士
井上幸夫
同
君和田伸仁
(他五名)
被告
バンク オブ アメリカ イリノイ(旧商号 コンチネンタル バンク)
右代表者上級副社長
エヴァン・エル・エヴァンズ
右訴訟代理人弁護士
中山慈夫
同
高見之雄
主文
一 被告は、原告に対し、金一〇〇万円及びこれに対する昭和六三年九月一五日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
二 原告のその余の請求を棄却する。
三 訴訟費用は、これを五〇分し、その一を被告の負担とし、その余を原告の負担とする。
四 この判決は、第一項に限り、仮に執行することができる。
事実及び理由
第一原告の請求
被告は、原告に対し、金五〇〇〇万円及びこれに対する昭和六三年九月一五日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
第二事案の概要
一 争いのない事実等(以下の事実は、争いがないか、各掲記の証拠によって認められる。)
1 当事者
被告は、肩書地に本店を有し、アメリカ合衆国イリノイ州法により設立された銀行業を目的とする株式会社であり、かつて商号をコンチネンタル・イリノイ・ナショナル・バンク・アンド・トラスト・カンパニー・オブ・シカゴと称したが、その後コンチネンタルバンク(コンチネンタル銀行)と変更し、さらに平成六年九月一日、現商号に変更した。
被告銀行は、在日支店として、東京支店及び大阪支店を有したが、昭和六二年一一月三〇日、大阪支店は閉鎖され、平成七年一月三一日、東京支店も閉鎖された(弁論の全趣旨)。
原告(昭和九年一二月二七日生まれ)は、昭和二七年一〇月、ナショナルハンデルスバンクに雇用され、昭和三九年三月、同銀行が被告銀行に買収されたことに伴い、被告銀行東京支店の従業員として勤務していた。
原告は、昭和四七年一月に被告銀行東京支店の総務課のセクション・チーフ(課長)に昇格し、同五三年三月からは同支店コマーシャルⅡ課(預金を取り扱う部署であるが、昭和五七年四月に、取立・送金を取り扱う部署であるコマーシャルⅠ課と統合して預送金課となった。)のセクションチーフの職にあった。コマーシャルⅡ課のセクションチーフの主な業務は、送金・取立業務、対外的なサイン権行使及び課員に対する人事管理一般であった(<証拠・人証略>)。
2 原告のオペレーションズ・テクニシャンへの降格
被告銀行は、昭和五三年頃、営業成績が悪化したため、積極的経営の展開とオペレーション部門(業務部)の体質強化を図ることが急務となっていた。
昭和五六年頃、被告銀行のオペレーション部門は、オペレーションマネージャーであるトーマス・ジャロム(昭和五四年から同六〇年まで被告銀行在日支店に在籍。以下、ジャロムという。)が統括し、その下でマネージングスーパーバイザー(総括管理者)である内田幸正(以下、内田という。)が、オペレーション部門の四課(総務課、外為資金業務課、コマーシャルⅠ、Ⅱ課)の管理を行っていた。
内田は、昭和五四年九月六日、全従業員に宛て、「OVA(職務分析)及び提案褒しょう制度」と題する文書(<証拠略>)を発したが、その目的は、業務手続の見直しを通じ、業務の統合、単純化・合理化を図り、余剰資源をより生産性の高い部門で再活用を図ることにあった。
被告銀行は、昭和五六年、オペレーション部門の管理者職務の一環として業務計画(アクションプラン)を策定していたところ、内田は、昭和五六年一一月一六日、オペレーション部門の四課の課長である小笠原勇(総務課長、以下小笠原という。)、甲賀義治(コマーシャルⅠ課長、以下甲賀課長という。)、原告(コマーシャルⅡ課長)及び卯山勤(外為資金業務課長)に対し、管理職務の確認及び将来の計画について、二週間以内に報告するよう要請した。しかし、右要請に応じ、報告書を提出したのは甲賀課長のみであった(<証拠・人証略>)。
昭和五七年四月、原告は、セクションチーフからオペーレーションズテクニシャンに降格(被告は、これを「異動」と称しているが、ライン組織からはずれ、所属課のセクションチーフの指導監督に服することになり、職務内容や待遇も課長職にふさわしいものから、一転して一般職と同等のものとなることから、これが「降格」に当たることは明らかであるというべきである。)され、新設の預送金課(甲賀課長)に配置された。
オペレーションズテクニシャンとは、被告銀行において、昭和五六年五月二六日に新設された職位であり、原告は、オペレーションズテクニシャンに格付けされたことにより、対外的な代表権として手形・小切手のサイン権は保持するものの、いわゆるライン上の指揮監督権を有さず、役職手当が四万二〇〇〇円から三万七〇〇〇円へと五〇〇〇円減額された(<証拠略>)。
3 降格後の原告の業務
原告は、右降格後、預送金課において、手形取立・送金・資金付替え等の業務に従事し、その後当座預金の担当となり、対外的書類にサインをする等の業務に従事した。
昭和五九年一月、原告は、被告銀行在日支店従業員組合(以下、組合という。)に加入した。
同年七月頃、被告銀行は、原告に対し、オペレーションコントロール(業務管理)課への配転を打診したが、原告は、オペレーションズテクニシャンのままで課長職を代行することを拒否し、同配転は取りやめとなった。
同年九月、原告は、輸出入課に配転され、対外的書類送付、サイン等の業務に従事した。(<人証略>)。
4 原告の総務課(受付)への配転
原告は、かねて総務課への配転を希望していたところ、被告銀行は、昭和六一年二月、原告を総務課に配転し、受付業務を担当させた。同業務は、それまで二〇歳代前半の契約社員である斉藤典子が担当していた。
同年五月から、原告は、備品管理・経費支払事務の仕事を担当するようになったが、原告は、従前同様、平成元年一一月に被告銀行が受付部署を廃止するまで、昼休みの一時間は受付業務に従事した。
その後、被告銀行は、平成二年九月三〇日、東京支店の業務再編成・人員縮小を理由に原告を含む六名を解雇した(<人証略>)。
二 争点
原告は、被告銀行による、オペレーションズテクニシャンへの降格から受付配転にいたる一連のいやがらせ行為は、原告ら中高年管理職を退職に追い込む意図をもってなされた不法行為であるとして慰謝料五〇〇〇万円の支払を求めた。
本件における主たる争点は、(1)不法行為の成否、及び(2)消滅時効の成否であるが、右各争点に関する双方の主張は、次のとおりである。
1 不法行為の成否について
(原告の主張)
昭和五六年夏頃、内田及び成瀬智弘人事部長(以下、成瀬人事部長という。)は、原告に対し、「新しい在日代表として赴任が予定されているツルーエットは、パリ支店時代、合理化のために従業員の総入替えを強行した凄腕の人物であり、このような人物の下でライン課長の職責を果たすのは極めて困難であるから、ラインをはずれたスタッフ(オペレーションズテクニシャン)としてやっていってはどうか。」と持ちかけてきたが、原告は、到底納得がいかないので、これを断ったことがあった。
その後、昭和五六年末頃、成瀬人事部長は、原告に対し、コマーシャルⅡ課にいた二人のタイピストを退職させ、当時総務課長であった小笠原をタイピストとして使うよう提案するよう求めてきた。しかし、そのような常識はずれの提案を行うことは到底できることではないので、原告はこれを断った。
そのうち、原告が降格されるとの噂が行内に流れはじめ、実際に昭和五七年一月一九日、被告銀行は、原告をオペレーションズテクニシャンに降格する人事異動を発表した。
ところで、被告銀行は、昭和五六年から同五七年にかけて中高年管理職の一斉降格といやがらせを行い、その退職を策している。すなわち、昭和五六年六月の小田川国昭貸付課長及び久保田進業務管理課長の降格、同五七年二月の小笠原総務課長の降格、同年四月の三上政治輸入部アシスタントマネージャー(課長以上相当職)、卯山外為事務課長、原告の降格と、多数の降格が行われた。原告はそれまで課長としてミスを犯したこともなく、人事考課においても高い評価を得ていた。右一連の降格は、各課長個人の業績や仕事ぶりに問題があったからではなく、中高年管理職を退職に追い込む意図によるものであることが明らかである。
原告は、昭和五七年四月一日、オペレーションズテクニシャンに降格され、預送金課の課員らの前で、甲賀課長から、原告は今後手形取立の仕事をする旨、また同課長が不在のときは課長補佐の山崎が代理をするので原告の指示を仰いではならない旨告げられた。同時に、原告は、課内での座席が課長席から一般行員の席に移されるとともに、職務手当が削減されるなどの措置を受けた。
原告は、右降格後、それまで原告の部下二人がやっていた手形取立の仕事を一人でやらされ、長時間の残業を強いられることになった。被告銀行は、原告にこの仕事をさせるについて業務引継ぎもしていない。
原告は、当座預金の担当となってからも、膨大な量のサインの仕事があり、原告のみが残業を強いられた。
被告銀行は、原告を孤立させるため、種々のいやがらせを行った。すなわち、原告が当座預金の仕事を一緒に担当していた新藤ミヤ子と仕事上の会話をしていると、甲賀課長は、理不尽にも、新藤に対し、「仕事の話をしているのか私語かは顔を見れば分かる。」などと注意を与えた。そして新藤は、昭和五七年一〇月、甲賀課長に呼び出され、「女性従業員の態度が悪いのは原告が煽動しているからではないか」などと締めつけを受けた。
原告は、このような長時間にわたる残業強制、直接・間接のいやがらせのため、肉体的にも精神的にも疲れ切り、腱鞘炎を患い、昭和五八年三月末から約半年間、約三日に一回の割合で通院を余儀なくされた。またこの間、原告は、屈辱感から夜寝つけないこともしばしばあった。
昭和六一年二月、原告は、総務課において受付業務を行うよう命じられた。課長の経験もある勤続三三年の原告に同業務に従事させるのは、いやがらせ以外のなにものでもない。原告は、午前九時から午後五時まで、昼休みの一時間を除き、一日中受付に座らされ、来訪する外部者に対応する業務をさせられた。当時のオペレーションマネージャーのジョセフ・ホーネンは、原告に対し、「エンジョイしているか」といって受付の前を通り過ぎるといういやがらせも行った。
被告銀行は、昭和六一年五月から、総務課の雑務に従事させたが、こういった仕事は、入社したての従業員やメッセンジャークラークが片手間に行っていたものであり、原告の経験や技能にふさわしい仕事や地位を与えないといういやがらせ行為を一貫して続けた。
ホーネンは、それまでコンピューター専用机にあったコンピューターを原告の机の上に移すよう命じたため、他の従業員がコンピューターを使用するとき、原告は自分の机で仕事ができない状況であった。
このようないやがらせ行為は、被告銀行が、平成二年九月、東京支店再編成・人員縮小を理由に、原告ら六名の従業員を解雇するまで続いた。
以上のように、被告銀行は、降格後も一貫していやがらせを行い続けたが、これらのいやがらせは、原告に恥辱・屈辱感を与え、退職に追い込む意図に基づいて行われたものであり、許しがたい人権侵害行為として不法行為を構成する。
(被告の主張)
被告銀行在日支店では、昭和五三年頃より、営業成績が悪化し、累積赤字が膨大なものとなっており、積極的経営戦略とオペレーション(業務)部門の体質強化・合理化が急務となっていたところ、マネージングスーパーバイザーの内田は、昭和五六年一一月一六日、原告らオペレーション部門の課長に対し、管理職務の確認及び将来の計画について、二週間以内に報告するよう要請したが、原告は、これを無視し、なんらの報告も行わなかった。
その後内田は、原告と何度も話し合ったが、原告は、被告銀行の業務合理化や教育・人事考課に批判的であった。すなわち、原告は、人事考課について、原告の所属するコマーシャルⅡ課員はもとより、内田や成瀬人事部長に対しても、「銀行から強制されるので仕方なくやっている。」と再三公言していた。
また、英語研修・管理職研修にも全く参加せず、ジャロムや内田が原告に対して、英語の指導を何度も申し出ていたが、全て拒否し、英語力の研鑚をする姿勢をまったく欠いていた。原告の英会話や英作文能力は不十分なものであり、英文の人事考課書類等を作成する際、成瀬人事部長に依頼したりしていた。
さらに、コマーシャルⅡ課には、外部からの派遣社員がいたが、それらの者には定量の仕事が与えられないことが度々あり、内田は、原告に対し、再三にわたって「有効に活用するように、仕事がなければやめてもらうように」と指導していたが、原告は、なんらの対応もしなかったばかりか、派遣社員に「自分がいる間はやめさせない」と述べていた。このため、被告銀行は、やむなく派遣社員のうち数名の派遣受入れをとりやめ、コマーシャルⅠ、Ⅱ課の統合時には、派遣社員をまったくなくした。
このように、管理職たる原告は、被告銀行の業務方針に批判的であり、かつ業務方針の具体的実施について非協力的で、改善の姿勢をまったく示さなかった。このため、内田は、昭和五七年初め頃、原告に対し、右姿勢をあらためるよう強く求めたが、原告はこれを無視した。さらに内田と成瀬人事部長が被告銀行の業務方針の実施について協力を求めたが、原告は、成瀬人事部長に暴言を吐く始末であった。そこで内田が「協力する意思がなければ、管理職としての職務をやめてもらいたい。」と告げると、原告は、「やむをえない」といってこれを了解した。
こうして、被告銀行は、昭和五七年四月一日付けで原告に対しオペレーションズテクニシャンへの異動を発令した。その後、右異動について、原告から内田に対して抗議はなされていない。
原告がオペレーションズテクニシャンに異動した後、被告銀行が原告に対し、いやがらせをおこなったことはない。昭和五七年当時の在日代表であるチャールス・ビー・ツルーエット(昭和五六年八月から同六〇年二月まで被告銀行在日代表。以下、ツルーエットという。)、内田、成瀬人事部長は、いずれも昭和五九年までに海外転勤あるいは退職している。
オペレーションズテクニシャンの職位は、人事管理に対応する職務がないため、役職手当が月額五〇〇〇円低くなるが、それでも原告は、月額三万七〇〇〇円の支給を受けていた。
また人事管理を除けば、従前の送金・取立、サインが主な業務であり、異動の前後で変わりはない。したがって引継ぎも必要なかった。
預送金課にいる際、原告に一時的に当座預金の仕事を担当させたことはあるが、課員に様々な仕事を経験させるためであって、当時、原告自身も了解していたことである。原告は、サインの仕事を残業して行っていたというが、銀行内でサイン権を持っている役職者は限られているためであって、原告だけに限られたことではない。
また原告の職務態度は、私語が多く、かつ能率が悪かったので、課長らから注意されることが度々あった。ことに新藤と私的な会話をすることが度々あったために甲賀課長が注意したことはあるが、これは本来の業務上の指示・注意にすぎない。
被告銀行は、原告から総務課へ配転希望が出されていたため、同六一年二月、総務課員一名を他に転出させるなど苦心して原告を総務課へ配転した。
原告の従事した受付の仕事は、業務受付であり、外国書簡の受発送及び書類の各課への配付が主なものであり、来客の取次は従たる仕事である。総務課では、そのほかに備品管理・経費の支払事務があり、全般の職務を石川総務課長が管理していた。そして、当時石川課長を除けば、全員が契約社員であった。
原告は、総務課において、専用の机といすが与えられており、原告の机には、経費支払用のパーソナルコンピューターが原告の希望により置かれていた。
ホーネンが原告に対し、「仕事はうまくいっているか。」とまじめに聞いたことはあるが、いやがらせの趣旨でしたことではない。
以上のとおり、原告の主張するところは、事実に反するか、自らの職務に対する甘い姿勢や非常識な言動をつごうよく正当化するものである。
2 消滅時効の成否について
(被告の主張)
原告が本訴で主張する降格や不法行為は、いずれも本訴提起から六年以上も前の事実である。
よって、被告は、本訴において三年の消滅時効を援用する。
(原告の主張)
(一) 被告の侵害行為は、一過性のものではなく、原告に対するいやがらせを行い、退職に追い込むという一貫した意図の下に間断なく継続的に行われてきたものである。また、これによって生じた原告の精神的苦痛等の損害も被告によるこれらの行為の集積によるものと考えるべきであるから、被告による長年に及ぶいやがらせ等の侵害行為は全体として連続した一個の不法行為とみるべきものである。
よって、本件において、時効の援用は許されない。
(二) 被告は、重大な人権侵害行為を長年にわたり原告に加え続け、原告に筆舌に尽くしがたい苦痛を与え続けたのであり、使用者と労働者という地位関係を合わせ考えると、原告が権利の上に眠り権利行使を怠ったとして責めを負わせることは、著しく公正の原則に反する。
よって、被告による消滅時効の援用は、信義則に反し、権利濫用として許されない。
第三争点に対する判断
一 不法行為の成否について
1 認定事実
(一) 原告のオペレーションズテクニシャンへの降格(<証拠・人証略>)
(1) 被告銀行在日支店の営業損益は、昭和五一年度(事業年度は毎年一月から一二月)は七億一一〇三万円、同五二年度は三四三五万円と順調に黒字を計上していたが、その後一転して、同五三年度には三億二七四二万円、同五四年度には二〇五九万円の各赤字を計上し、同五五年度には一五億八〇一九万円の黒字に転じたものの、翌五六年度以降同六〇年まで、順に、五億一四二二万円、八億二三三九万円、三億六九六七万円、一六億三三七二万円、四億〇八七八万円と、赤字を計上し続けた。
右営業成績の悪化は、当時一般企業からの融資需要の激減、金融市場の資金余剰が背景にあり、被告銀行は、他行と競争していくためには利ざやを薄くせざるを得ず、そのためには貸付部門、外国為替売買部門の大幅な強化を図る必要があり、あわせてオペレーション部門で予想される業務の多様化・増加に対処する方策として、業務体質の強化、すなわち業務の合理化、行員の能力開発・向上等が急務とされた。
(2) そのため、被告銀行では、積極的経営戦略とオペレーション部門の体質強化・合理化を早急に図ることとした。マネージングスーパーバイザーである内田は、昭和五四年九月六日、全従業員に宛て、「OVA(職務分析)及び提案褒しょう制度」と題する文書(<証拠略>)を発した。
同文書では、在日支店の営業成績、すなわち正味利息(貸付利息と資金利息との差額)が低下し続けている旨を指摘した上、OVA提案をする理由として、<1>低価値かつ不必要な業務を省いて営業費用を最小限にし、できるだけ業務効率を改善すること、<2>人員を高価値かつ収益を生む仕事に配置できるようにすることをあげており、過当競争下で収益を上げるには、融資部門を拡張し、人員(人件費)を増やすことなく、増大する顧客・取引をさばくために業務の効率化が求められている、としている。そして、従業員に対し、業務手続を見直し、重複または不必要な仕事を省くための提案、仕事の質・量、頻度の簡素化・縮減に関する提案、仕事の改善に関する提案、仕事の代替性に関する提案をするよう求め、採用された提案に対し、褒しょう金が授与される旨を述べている。
(3) また、当時被告銀行のオペレーションマネージャーであるジャロムは、オペレーション部門の現状について、行員、特に管理職が専ら経験に頼って仕事を処理しており、非能率かつ旧態依然とした状態であり、一般的銀行知識・法令・内部規定に精通している者が少なく、英語能力が不足している者が多いにもかかわらず、現状に満足し、新しい経営方策や営業環境の変化に対応していくための積極性が見られないとの認識を抱いていた。
そこで、被告銀行では、管理職に対し、業務部門の生産性向上・効率改善に関する検討をさせ、これを昭和五六年に「アクションプラン」と題する文書(<証拠略>)にまとめ、原告ら管理職に示した。
同文書においては、<1>日本支店内・支店間の機能の合理化案として、OVAの実施、オートメーション推進調査等があげられ、<2>人事方針・施策の検討・変更として、選抜された従業員に対する監督者研修の実施、従業員の職務変更及び新入行員のジョブ・ローテーションの推進、提案褒しょう制度の浸透、行内英語研修の見直しと継続等があげられ、<3>業務関係のプロジェクトとして、銀行方針・指針・政府関係の規則・業務手続を全従業員に知らせるセミナー開催があげられている。そして、これらの職務は、管理職全員が担当するものとされている。
原告は、当時オペレーションⅡ課の課長であったが、業務が多忙であるとして、英語研修には参加しなかった。
(4) 次いで内田は、昭和五六年一一月一六日、オペレーション部門の四課の課長、すなわち総務課長の小笠原、コマーシャルⅠ課長の甲賀、同Ⅱ課長の原告、外為資金業務課長の卯山に対し、「メモランダム」と題する書面(<証拠略>)を示した。
同書面において、内田は、各課が質・効率面で最高に機能するよう編成されることを望むとし、要員不足の状況下での人員配置、監査・勘定科目の訂正・コントロールの点検、英語能力向上のための自己研修・部下の訓練、職場研修プログラムの作成に関する報告を、同月三〇日までに書面または口頭で提出するよう求めた。
しかし、右報告書を提出したのは、甲賀課長のみであった。
(5) その後、内田及や(ママ)成瀬人事部長は、原告と話し合いの機会をもち、原告に対し、「これからの管理職は考え方を変えなければならない。」と説得したが、原告は、コマーシャルⅡ課の現状を説明し、「既に合理化できる範囲はしているので、これ以上の合理化はしない。」と答えた。
そして、内田が「協力する意思がなければ、管理職としての職務をやめてもらいたい。」と告げると、原告は「やむを得ない。」と答えた。
この結果、被告銀行の在日代表ツルーエット、ジャロム、内田及び成瀬人事部長は、協議の上、原告をセクションチーフの地位からオペーレーションズテクニシャンに異動することを決定した。
(6) 昭和五七年一月一九日、被告銀行東京支店において、原告は、同年四月から、甲賀課長の下でオペレーションズテクニシャンとして勤務する旨が発令された。
右発令の二日前、原告は、内田に対し、右発令の噂について問いただし、「自分の人事考課についても総合的に他と遜色はなく、五段階の評価で上から二番めか三番めであるから課長としてやっていく自信はある。」などといったが、内田は、「将来課長としてやっていけなくなるから。」と答え、原告の人事考課や勤務成績について考慮した形跡はなかった。なお、原告の人事考課は、昭和五五年には「アバブアベレージ」(五段階評価の上位から二番め)であり、同五六年には「アベレージ」(同三番め)であった。
オペレーションズテクニシャンとは、被告銀行東京支店において、昭和五六年五月二六日に新設された職位であり、「幅広い経験と特定の業務部門の専門的知識をもつ従業員を認識するためにつくられるものであり、課長の直接の部下であり、課の責任を遂行するにあたり課長を補佐するものである。」旨説明されている。
(7) 同年四月一日、原告は、新設の預送金課において勤務することになったが、その際、甲賀課長から同課員らに対し、「オペレーションズテクニシャンは、課長補佐と同格であり、課長補佐にはライン上の指揮監督権があるが、オペレーションズテクニシャンにはなく、業務処理上の権限があるだけである。」旨説明された。
原告は、セクションチーフからオペレーションズテクニシャンに降格されたことにより、役職手当が四万二〇〇〇円から三万七〇〇〇円に減額された。
(8) 被告銀行東京支店では、昭和五六年以降、原告に対すると同様、管理職として不適格と判断した者を次々と降格させている。
すなわち、オペレーションコントロール課長であった久保田進を昭和五六年六月に新設ゼネラル・フォースのスペシャルアシスタント(役職手当四万二〇〇〇円から三万七〇〇〇円に減額)へ、ローンセクション課長であった小田川国昭を同年同月にオペレーションズテクニシャンへ、総務課長であった小笠原勇を同五七年二月にローンセクションの一般職(役職手当四万二〇〇〇円がなくなる。)へ、輸出入ヘッドであった安食和夫を同年同月にオペレーションマネージャーのスペシャルアシスタント(役職手当五万五〇〇〇円から三万七〇〇〇円に減額)へ、輸入部アシスタントマネージャーであった三上政治を同五七年四月に外為資金事務のオペレーションズテクニシャン(役職手当四万二〇〇〇円から三万七〇〇〇円に減額)へ、外為事務課長であった卯山勤を同五七年四月にオペレーションズテクニシャンへ、融資部バンキングアソシエイトシェアであった建部輝を同五八年一〇月にオペレーションズテクニシャン(役職手当四万二〇〇〇円から三万七〇〇〇円に減額)へ、さらに同五九年四月に一般職へ、それぞれ降格した。
ただし、これらの者はいずれも降格に同意している。
右降格は、昭和五七年四月頃、被告銀行が行った機構改革に伴うものであり、同改革により、貸付業務課長であったカワスジーが昇格し、内田がオペレーション部門の四課を、カワスジーが貸付業務課及び輸出入課を管理統括することとなった。同人らは、右降格・昇格の結果、課長職が空席となった貸付業務課や業務管理課等の直轄もした。
(二) 降格後の状況(<証拠・人証略>)
(1) 昭和五七年四月、原告は、オペレーションズテクニシャンに降格され、コマーシャルⅠ、Ⅱ課が統合された預送金課において、甲賀課長の下で勤務した。被告銀行は、昭和五六年頃までにコマーシャルⅠ課の派遣社員をなくしており、右統合時にはコマーシャルⅡ課にいた二名の派遣社員もなくした。
降格当初、原告は、手形取立・送金・資金付替え等の業務に従事し、同年八月頃から当座預金の業務を担当した。原告は、昭和二七年に被告銀行の前身であるナショナルハンデルスバンクに入行して以来、全部署にわたって業務経験があり、細々とした業務引継ぎは必要なかったと認められる。
原告は、降格後も対外的な代表権として手形・小切手のサイン権を保有しており、他課の手形のサインを行うなどし、極めて多忙であり、相当量の残業もこなしていた。もっとも、サイン権を有する者は被告銀行内に限られた人数しかおらず、ひとり原告のみが多量のサイン業務を強いられたわけではなかったと認められる。
このような中、原告は、昭和五八年三月頃、腱鞘炎に罹患し、約半年間にわたり、週三日位の割合で通院した。
(2) 原告は、昭和五八年七月頃、人事考課に際し、第一次評価者である甲賀課長との面接を拒絶した。その理由は、「面接は、原告にとっても被告銀行にとってもなんらいい結果にならず、ただ互いに個人間に溝をつくるだけである。(原告は、)公平・適切に行われていない考課制度を信じていない。」というものであった。内田らは、二度にわたり原告と話し合い、面接の目的や面接を拒否した場合の悪影響について説明し、また原告が降格された理由について、「スーパーバイザー(課長職であり、昭和五八年頃、それまでのセクションチーフから改称された。)に課せられる新しい責任を遂行することができないことがはっきりしたからであり、自分自身及び部下をよりよくする努力に関する原告の態度はいずれも容認できるものではなかった。」旨告げた。しかし、原告は依然として面接を拒否し続けた。もっとも、原告は、「面接を拒否することは、考課者の建設的な批判を拒否することを意味せず、ことば使いや行動については組織にマイナスの影響を与えないように慎重にする。」旨述べた。内田は、原告の人事考課において、「毎日の決まった仕事は容認できる程度にやっているが、オペレーションズテクニシャンに求められる専門的知識は全く欠如している(原告は二〇点満点のうち六点しかとっていない。)。また能力評価リストに記されている要求には非常に程遠い(四八点に対して二七点)。妥当な期間に進歩がみられなければさらに低い責任度のポジションを与えなければならない。」と評価した。
(3) 原告は、当座預金業務を担当していた当時、新藤ミヤ子と一緒に仕事をしていたが、新藤は、昭和五七年一〇月頃、甲賀課長から、私語が多いと注意され、同五八年七月頃行われた人事考課の面接に際し、同課長から「仕事の話をしているか私語かは顔を見ればすぐ分かる。」などといわれた。
(4) 原告は、昭和五九年一月、被告銀行在日支店従業員組合に(再)加入した。
同年四月一日、被告銀行預送金課長の森谷勝光が自殺する事件が起こり、組合は、「仕事上の行き詰まりで死に追いやられたことは明白である。」とし、右自殺問題を被告銀行との団体交渉で取り上げた。その際、被告銀行は、「プレッシャーが強かったということがいわれているが、それは全従業員にかかっていることであり、その中で気持ちの優しすぎる人、弱すぎる人、強い人、冷静な人、対応は個人個人まちまちですから。」などと述べた。
組合は、昭和五九年六月頃から、原告に対する時間外手当の不払問題を団体交渉で取り上げ、被告銀行は、同六〇年四月五日、原告に書面(<証拠略>)を発し、同書面において、「オペレーションズテクニシャンの地位は実際上は管理者の地位のようなものではないと決定した。というのは同等な管理上の責任は要求されないと認められたからである。」と述べた上、昭和五七年四月以降の残業手当として二一三万三〇一五円を支払う旨を提案し、同年九月には、時間外手当の支払協定が成立した。被告銀行は、原告以外の元職制にも同様に時間外手当を支払った。
組合は、昭和六〇年頃、「未解決事項」(<証拠略>)の一項目に、原告の降格問題を取り上げている。
(5) 昭和五九年七月頃、被告銀行は、原告に対し、課長が空席となったオペレーションコントロール(業務管理)課への配転を打診した。
原告は、オペレーションズテクニシャンのままで課長職、特に人事考課を代行することはできない、人事考課をさせるのであれば課長に戻すようにと要求した。
その後、原告に対する右配転交渉は立ち消えとなり、同課の課長補佐(アシスタントワークコーディネーター)ないし課長代理(ワークコーディネーター)となった芳野や建部が、人事考課を含め、課長職を代行した。
(6) 被告銀行は、昭和五九年九月、原告を輸出入課に配転した。
その頃、組合は、被告銀行に対し、右配転が労使慣行に反するものであるとして抗議し、団体交渉を求めた。団体交渉の際、組合は、原告が総務課に配転を希望している旨述べた。
(7) 前記(一)(8)のとおり、昭和五六年六月に新設のゼネラル・フォースのスペシャルアシスタントに降格された久保田進は、同五七年二月一二日、同年三月二日から四月三〇日までの間、郵便物の受発送及び行内における集配を担当する「メッセンジャークラーク」に任ずる発令をされたことが不法行為に当たるとして、昭和六〇年八月一二日、東京地方裁判所に慰謝料一〇〇万円の支払と謝罪広告を求める訴えを提起した。同訴訟は、裁判上の和解が成立して終了した。
なお、同人は、昭和六〇年六月、融資部バンキングアソシエートシェアー(役職手当四万円)に任ぜられている。
(8) この間、昭和五九年七月、被告銀行本店は、財務状態が極度に悪化し、米国連邦預金保険公社の資本参加による事実上の国家管理となる事態となった。
(三) 原告の総務課(受付)への配転(<証拠・人証略>)
(1) 昭和六〇年秋頃以降、団体交渉において、原告は、総務課において石川課長の行っている業務の一部を担当したいと希望を述べ、組合は、原告の右希望を実現するよう要求していた。
被告銀行の大森誠一人事部長(以下、大森人事部長という。)は、右要求を受け、原告を総務課に配転する業務上の必要性はなかったものの、オペレーションマネージャーのジョセフ・ホーネン(昭和六〇年から被告銀行在日支店に在籍し、同六三年八月から平成元年六月まで在日代表。以下、ホーネンという。)とともに、原告の総務課配転を実現すべく検討を重ねた。その結果、ホーネンは、原告を総務課に配転し、受付業務に就かせることを決定した。大森人事部長は、かつて課長まで務めた経歴の持ち主である原告を受付業務に従事させることには疑念を抱いたが、ホーネンは、原告の勤務態度いかんでは将来原告の右希望をかなえることも検討すると述べ、大森人事部長も右決定に同意した。
昭和六一年一月頃、総務課を統括管理していた長井と、その後任者である小林、及び石川総務課長は、原告に対し、総務課の業務内容を記載した書面(<証拠略>)を示し、原告を総務課に配転し、受付業務に就かせることについて説明・打診した。
次いで、大森人事部長も原告に右配転について説明・打診した。
その際、原告は、「銀行の業務命令であるならば従う。」旨述べた。
こうして、昭和六一年二月、原告を総務課に配転する旨の発令がなされた。なお、当時総務課は、石川課長を除き、課員全員が契約社員であった。
(2) 昭和六一年二月から、原告は一階で、勤務時間中ずっと受付業務に従事した。原告の前任者は、二〇代前半の契約社員である斉藤典子であった。右受付は、一般の顧客受付とは異なり、業務受付であり、その主たる業務内容として、外国書簡の受発送、及び書類の各課への配付があり、従たるものとして来客の取次があった。原告が受付業務に従事中、ホーネンが側を通りかかり、「エンジョイしているか。」と尋ねたことがあった。
同年五月から、原告は二階に移り、備品管理・経費支払事務を担当するようになったが、昼休みの一時間は、一階で受付業務に従事した。右備品管理業務は、事務用品・書類等を管理したり、倉庫から文具類を取り出してきて従業員に配付する等の単純作業である。
二階にある総務課の部屋には、パーソナルコンピューター(共用)が導入されていたが、原告の使用頻度が高いので原告の事務机上に置かれることになった。そのため、他の課員が使用するときには、原告は自分の事務机を明け渡さねばならなかった。
平成元年一一月に至り、被告銀行は受付部署を廃止し、原告が受付業務に就くことはなくなった。
(3) 組合は、昭和六二年三月二七日付け「要求書」(<証拠略>)で、原告に対して行った昭和五七年四月の降格を撤回し、同年三月現在の処遇に戻すように求めた。
(4) 昭和六三年九月六日、原告は本訴を提起したが、その際、原告の受付配転に至るまでの経過が雑誌やテレビ番組で大きく取り上げられた。
(5) 昭和六三年末までに、前記(一)(8)で降格された社員のうち、安食和夫が昭和五七年一一月一三日、三上政治が同五九年一二月三一日、内山春美が同年同月同日(翌六〇年一月三一日コントラクト終了)、小笠原勇が同五九年一二月三一日(翌六〇年三月三一日コントラクト終了)、小田川国明(ママ)が昭和六三年一二月三一日、久保田進が同年同月同日、それぞれ被告銀行を退職している。なお、内田も昭和六〇年二月二八日、被告銀行を退職している。
(6) その後被告銀行は、平成二年六月、東京支店の業務再編成・人員縮小を実施し、オペレーション部門の正規社員はマネージャー一名と部員三名のみの構成となり、また同月以降、三回の希望退職募集を経た上、同年九月三〇日に至り、原告を含む六名を解雇した。
2 そこで、以上の認定事実を基にして、不法行為の成否について判断する。
(一) 被告が原告に対してした昭和五七年四月のセクションチーフからオペレーションマネージャ(ママ)ーへの降格、その後の諸々の処遇、昭和六一年二月の総務課(受付)への配転は、いずれも就業規則に根拠を有する懲戒処分としてなされたものではなく、企業が一般的に有する人事権の行使としてなされたものである(なお被告は、「原告が右降格に同意した。」旨主張するが、原告は、被告銀行が業務命令として右降格を発令するのであれば従わざるを得ない旨述べたことがあるが、その後も右降格に対し、自らあるいは組合を通じて異議を述べていることからすれば、これをもって降格に同意したものとは認めがたい。)。
使用者が有する採用、配置、人事考課、異動、昇格、降格、解雇等の人事権の行使は、雇用契約にその根拠を有し、労働者を企業組織の中でどのように活用・統制していくかという使用者に委ねられた経営上の裁量判断に属する事柄であり、人事権の行使は、これが社会通念上著しく妥当を欠き、権利の濫用に当たると認められる場合でない限り、違法とはならないものと解すべきである。しかし、右人事権の行使は、労働者の人格権を侵害する等の違法・不当な目的・態様をもってなされてはならないことはいうまでもなく、経営者に委ねられた右裁量判断を逸脱するものであるかどうかについては、使用者側における業務上・組織上の必要性の有無・程度、労働者がその職務・地位にふさわしい能力・適性を有するかどうか、労働者の受ける不利益の性質・程度等の諸点が考慮されるべきである。
(二) そこで、右の観点から本件を検討すると、まず原告のオペレーションズテクニシャンへの降格については、被告銀行在日支店は、昭和五三年度以降、ずっと赤字基調にあり、厳しい経営環境の下、オペレーション(業務)部門の合理化、貸付部門や外為部門の強化、在日支店全体の機構改革が急務となっており、同部門の首脳部は、管理職らに対し、新経営方針への理解・協力を求めたが、積極的に協力を申し出たのはごく一部の管理職にすぎず、原告を含め多数の管理職らは、かつて経営が順調であった頃のままの業務運営を踏襲し、それまでの経験に頼り、人事研修や新経営方針の推進に協力する姿勢が積極的でなかった。そのため、被告銀行は、新経営方針を徹底させるため、昭和五七年四月頃、機構改革を行い、右方針に積極的に協力する者を昇格させる一方、原告をセクションチーフからオペレーションズテクニシャンに降格したのを始め、前記一・(一)・(8)のとおり、多数の管理職らを降格する人事を行ったものと認められる。
原告は、昭和二七年一〇月に被告銀行の前身であるナショナルハンデルスバンク東京支店に入行して以来、あらゆる部署を経験し、昭和四七年一月に被告銀行東京支店の総務課セクションチーフに昇格し、同五三年三月に同支店コマーシャルⅡ課のセクションチーフを務め、長年にわたり管理職としての業務経験も積み重ね、人事考課も決して悪い評価ではなかったと認められるところ、原告が同五七年四月に発令されたオペレーションズテクニシャンとは、豊富な経験と専門的知識を有する者に与えられる職位であるとされるが、いわゆるライン組織からはずれ、それまで同格であった同僚課長の指揮監督を受ける立場に転ずるものであり、原告が降格後に与えられた職務内容からみても、必ずしも原告の右経験と知識を生かすにふさわしい地位であるとは認めがたく、原告が右発令により受けた精神的衝撃・失望感は決して浅くはなかったと推認される。
しかしながら、前記のとおり、被告銀行在日支店においては、昭和五六年以降、新経営方針の推進・徹底が急務とされ、原告らこれに積極的に協力しない管理職を降格する業務上・組織上の高度の必要性があったと認められること、役職手当は、四万二〇〇〇円から三万七〇〇〇円に減額されるが、人事管理業務を遂行しなくなることに伴うものであること、原告と同様に降格発令をされた多数の管理職らは、いずれも降格に異議を唱えておらず、被告銀行のとった措置をやむを得ないものと受けとめていたと推認されること等の事実からすれば、原告のオペレーションズテクニシャンへの降格をもって、被告銀行に委ねられた裁量権を逸脱した濫用的なものと認めることはできない。
(三) 右降格後、原告は、オペレーションズテクニシャンとして業務を遂行しなければならず、業務合理化を推進する被告銀行東京支店における業務遂行・対人関係に緊張感を生じたであろうことは想像に難くないが、右降格が違法でない以上、右職位に伴う業務遂行を余儀なくされたことをもって違法であるとはいえず、その他、原告が昭和六一年二月に総務課(受付)配転を命ぜられるまでの間、被告銀行から受けた処遇で違法とまでの評価を受けるものを認めるに足りない。
かえって、原告は、昭和五九年七月、オペレーションコントロール(業務管理)課への配転を打診され、同配転は、原告に好意的な配慮を示されたものといえるが、原告は、課長職に復帰することに固執して自らその途を閉ざしてしまったものである。
(四) 昭和六一年二月、原告は総務課(受付)に配転された。
被告は、「総務課配転は、原告の希望であり、組合の要求でもあったので業務上の必要性がないにもかかわらず、原告を総務課に配転した。」旨主張するが、原告は、総務課において石川課長の行っていた職務の一部を担当したいと述べていたのであり、総務課であればいかなる業務に就くことも差し支えないとの趣旨ではなかったと認められる。
また、被告は、右配転についても原告が同意していたかのように主張するが、原告は、前記降格のときと同様、業務命令として発令されるのであればやむを得ない旨述べたことはあるが、これをもって右配転に同意していたと認めることはできない。
総務課の受付は、それまで二〇代前半の女性の契約社員が担当していた業務であり、外国書簡の受発送、書類の各課への配送等の単純労務と来客の取次を担当し、業務受付とはいえ、原告の旧知の外部者の来訪も少なくない職場であって、勤続三三年に及び、課長まで経験した原告にふさわしい職務であるとは到底いえず、原告が著しく名誉・自尊心を傷つけられたであろうことは推測に難くない。
原告は、同年五月から、備品管理・経費支払事務を担当したが、従来同様、昼休みの一時間は、総務課員のうち原告だけが受付を担当していた。そして、備品管理等の業務もやはり単純労務作業であり、原告の業務経験・知識にふさわしい職務とは到底いえない。
原告に対する総務課(受付)配転は、これを推進した大森人事部長自身、疑念を抱いたものであって、その相当性について疑問があり、オペレーションマネージャーのホーネンは、受付業務に就いていた原告に対し、「エンジョイしているか。」と話しかけるなどしており、かつて昭和五七年三月、久保田進を「メツセンジャークラーク」に発令したときと同様、原告ら元管理職をことさらにその経験・知識にふさわしくない職務に就かせ、働きがいを失わせるとともに、行内外の人々の衆目にさらし、違和感を抱かせ、やがては職場にいたたまれなくさせ、自ら退職の決意をさせる意図の下にとられた措置ではないかと推知されるところである。そして、このような措置は、いかに実力主義を重んじる外資系企業にあり、また経営環境が厳しいからといって是認されるものではない。
そうすると、原告に対する右総務課(受付)配転は、原告の人格権(名誉)を侵害し、職場内・外で孤立させ、勤労意欲を失わせ、やがて退職に追いやる意図をもってなされたものであり、被告に許された裁量権の範囲を逸脱した違法なものであって不法行為を構成するというべきである。
そして、原告が総務課(受付)配転を受ける前後の経過に照らし、右配転によって原告が受けた屈辱感・精神的苦痛は、甚大なものがあると認められ、原告の右精神的苦痛は、平成二年九月三〇日に解雇されるまで(昼休み一時間の受付勤務は、同元年一一月まで)継続したこと等本件に顕れた諸般の事情を考慮すると、慰謝料としては金一〇〇万円をもって相当と認める。
なお、原告は、「オペレーションズテクニシャンへの降格から総務課(受付)配転に至るまで、被告銀行は、原告を退職に追い込むべく一貫したいやがらせ人事を行ってきた。」旨主張するが、オペレーションズテクニシャンへの降格(これに伴うその後の処遇も)と、右総務課(受付)配転とは、時期を隔て、異なる動機・意図をもってなされた別々の行為であると認められ、前者が違法なものと認められないことは、前記認定のとおりである。
二 結論
以上によれば、原告の本訴請求は、不法行為に基づく慰謝料金一〇〇万円及びこれに対する本訴状送達の日の翌日であることが記録上明らかな昭和六三年九月一五日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるから認容することとし、主文のとおり判決する。
(裁判官 吉田肇)