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東京地方裁判所 昭和63年(行ウ)84号 判決 1992年3月24日

原告

長戸かおる

栗田美知子

右両名訴訟代理人弁護士

近藤卓史

三宅弘

堀裕一

山岸和彦

被告

岩波三郎

右訴訟代理人弁護士

原田一英

内田実

松井元一

関哲夫

野口和俊

被告

社団法人練馬区医師会

右代表者理事

結城栄一

右訴訟代理人弁護士

畔柳達雄

阿部正幸

主文

一  原告らの請求のうち被告らに東京都練馬区に対して連帯して金二二七六万五六一九円及びこれに対する平成元年一二月二三日から支払済みに至るまで年五分の割合による金員を支払うことを求める部分(原告らが平成元年一二月二二日にした請求の拡張に係る部分)に関する訴えを却下する。

二  原告らのその余の請求をいずれも棄却する。

三  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実及び理由

第一原告らの請求とこれに対する被告らの本案前の申立て

一原告らの請求

被告らは、東京都練馬区に対し、連帯して、金四四七六万二三四九円及びその内金二一九九万六七三〇円に対しては本件訴状送達の日の翌日(被告岩波については昭和六三年八月七日、被告医師会については同年八月九日)から、内金二二七六万五六一九円に対しては平成元年一二月二三日(本訴において原告らが右内金に関する請求を追加するとの請求拡張の申立てをした日の翌日)から、各支払済みに至るまで年五分の割合による金員を支払え。

二被告らの本案前の申立て

主文一項と同旨

第二事案の概要

本件は、練馬区の住民である原告らが、練馬区が昭和六二年度のインフルエンザ予防接種の業務を練馬区医師会に委託するに際して違法な契約を締結し、この契約による委託費として同医師会に違法な金員の支払いをした等として、練馬区に代位して、練馬区長である被告岩波及び同医師会に対して損害賠償を求めている住民訴訟事件である。

一当事者間に争いがなく、あるいは裁判所にとって明らかな事実

1  当事者の地位

原告らは、いずれも東京都練馬区の住民であり、被告岩波は、同区長の職にある者である。

2  事件の経過等

(一) 練馬区では、従前からインフルエンザ予防接種の業務を被告医師会に委託してきており、昭和六二年度の予防接種についても、同年四月一日、練馬区と被告医師会との間で、その業務の委託に関する契約(以下、この契約を「基本契約」という。)が締結された。

右基本契約では、練馬区が予防接種を行うための事務費と必要経費を被告医師会に支払うものとされ、契約書<書証番号略>上、その事務費は、接種完了者一人につき五円、必要経費は、予診のみの者についてはいずれも一人につき二九八円、接種完了者については、各一人につき、幼児(三才以上六才未満)について八〇五円、小・中学生(六才以上一三才未満)について八七三円、中学生(一三才以上)及び大人について一〇〇九円と定められていた。

(二) 練馬区の右昭和六二年度のインフルエンザ予防接種は、同年一〇月一二日から一二月四日までの間に行われ、接種完了者数は合計七万六三五九人(六才未満の者九五八三人、六才以上一三才未満の者四万九八二五人、一三才以上の者一万六九五一人)、予診のみの者二六一二人となった。

したがって、前記基本契約の契約書に記載された単価に従って計算すると、別表2<省略>記載のとおり、練馬区が被告医師会に支払うべき事務費の金額は三八万一七九五円、必要経費の金額は六九〇九万三四七五円で、その合計額は六九四七万五二七〇円となる。

なお、右の予防接種に現に出動した被告医師会傘下の医師の数は延べ九三〇人、看護婦の数は延べ七二九人で、事務員及び作業員の数は零であった。

(三) 右の昭和六二年度の予防接種率は、前年の昭和六一年度に比較すると、大幅に低下していた。

そこで、昭和六二年一二月三日に至って、被告岩波は、練馬区を代表して、被告医師会との間で、前記基本契約による予防接種の経費が一定の方法で算出した人件費相当額に満たない場合には、基本契約の定めにかかわらず右人件費相当額を練馬区が被告医師会に支払うとの契約(以下、この契約を「本件契約」という。)を締結した。

本件契約では、右人件費相当額は、次の方法で算出された接種予定者数に対する出動接種班の数に、一接種班当たりの人件費(小学校及び中学校にあっては八万五二〇〇円、保育園及び幼稚園にあっては三万二五〇〇円)を乗じて得た額の合計額とするものとされた。

(1) 接種予定者数は、昭和六二年九月一日現在の幼児、児童及び生徒の数に昭和六一年度の練馬区における第一回の接種実施率を乗じて得た数とする。

(2) 出動接種班の数は、各会場ごとの右接種予定者の数を、小学校及び中学校の場合は一五〇、保育園及び幼稚園の場合は五〇で、それぞれ除して得た数とする。

すなわち、本件契約によると、昭和六二年度の接種実施率が昭和六一年度のそれを下回ることとなった場合においても、各会場における児童等の数に変動のない限り、練馬区から被告医師会に対しては、少なくとも昭和六一年度と同額の経費額の支払いが保障されることとなっていた。

(四) 被告岩波は、昭和六三年一月一三日、前記昭和六二年度のインフルエンザ予防接種について、本件契約に従って算出した人件費相当額として、別表3<省略>記載のとおり、九一四七万二〇〇〇円を被告医師会に支払った。

(五) 原告らは、被告岩波の被告医師会との間での本件契約の締結及び被告医師会に対する右金員の支払いについて昭和六三年五月二日、練馬区監査委員に地方自治法二四二条の規定による監査請求をしたが、同年七月一日、監査委員は、右請求に理由がないものとし、その結果を同月中に原告らに通知した。

そこで、原告らは、同年七月二八日、右監査の結果を不服として、本件訴えを提起した。なお、原告らは、本件訴えで、当初は本件契約の違法、無効を理由に、被告らに対し、本件契約に従って算出した人件費相当額九一四七万二〇〇〇円と前記基本契約に従って計算した経費の総額である六九四七万五二七〇円との差額に相当する二一九九万六七三〇円の損害賠償等を請求していたが、その後平成元年一二月二二日になって、前記基本契約によっても、医師らの実働に見合った経費として本来練馬区が被告医師会に支払うべき経費額は四六七〇万九六五一円に止まるとして、右基本契約によって計算した経費額六九四七万五二七〇円と右金額との差額に相当する二二七六万五六一九円の損害賠償等の請求を当初の請求に追加し、その請求を拡張するに至っている。

二本件の争点

1  請求の拡張部分の訴えの適否について

前記のとおり、二二七六万五六一九円の損害賠償等を求める請求は、原告らが平成元年一二月二二日になって当初の訴えに係る請求を拡張したものである。

この請求の拡張部分に係る訴えについては、被告らは、これが地方自治法二四二条の二第二項一号の監査の結果の通知があった日から三〇日以内という出訴期間を経過した後になされたこととなるから、不適法な訴えとして却下されるべきであると主張して、その適法性を争っている。

2  本件契約の適否とその効力について

原告らは、まず、本件契約が違法、無効なものであるとして、被告岩波に対してはその違法な職務の執行によって練馬区が被った損害の賠償として、被告医師会に対しては無効な契約に基づいて練馬区から支払いを受けた金員の不当利得の返還として、それぞれ練馬区に二一九九万六七三〇円とこれに対する遅延損害金を支払うことを求めているが、被告らは、本件契約の締結は何ら違法なものではなく、また本件契約が無効なものとはいえないとして、原告らの主張を争っている。

この点に関する双方の主張の要点は、次のとおりである。

(一) 原告らの主張

(1) 前記基本契約においては、集団予防接種を行うために医師三人、看護婦三人、事務員二人及び作業員一人からなる接種班を構成することを想定し、別表1記載のとおり、一接種班が一五〇接種を行う場合の賃金額を同表の賃金単価算定表のとおり八万五二〇〇円とし、一接種当たりの賃金単価を五六八円と算定したうえ、これに同表の必要経費算定表のとおりの経費を加算して、接種完了者一人当たりの必要経費を決定し、また、予診のみの者についてはその単価を二九八円としたものである。

(2) 右の基本契約における必要経費の算定基準自体も、前記のような昭和六二年度の予防接種に現に出動した医師等の人数(これは、一五〇接種当たりの平均出動人員数でみると、医師が1.83人、看護婦が1.43人、事務員及び作業員が零ということになる。)からすると、実態からかけ離れたものである。ところが、被告岩波は、このような基本契約に基づく接種班の構成が守られていないことを知りながら、更に本件契約では、実接種数を基準として人件費を算出するという右基本契約の考え方を変更し、「人権費相当額」の名目のもとに、「接種予定者数」という架空の数字を基礎とする水増しした人件費を練馬区が被告医師会に支払うこととしたものである。

(3) すなわち、被告岩波は、昭和六二年度の予防接種がほぼ完了した段階で、本来何らそのような変更契約を締結する必要がないのに、基本契約によるのより過大な経費の支出が必要となるような本件契約を締結したものであり、しかも、その際、練馬区契約事務規則(以下「事務規則」という。)三八条の二で要求されている予定価格すら定めないまま、本件契約を締結している。そもそも、被告岩波は、個々の医師、看護婦の人件費や物件費、被告医師会の経費等としてどのような金額が適当か、更には本件契約でこれらの各経費の内訳がどのように定められているのかも理解しないまま、本件契約を締結しているのであり、このような杜撰な契約の締結は到底許されるものではない。

したがって、被告岩波のした本件契約の締結行為は、右事務規則三八条の二の規定に違反するとともに、区の事務を処理するについての区長としての裁量の範囲をも逸脱、濫用したものとして、地方自治法二条一五項に違反する違法なものであり、同法二条一六項の規定により、本件契約は無効である。

また、被告医師会は、本件契約が右のとおり被告岩波の区長としての権限を逸脱、濫用して締結されるものであることを十分に認識しながら、むしろ被告岩波と共同して違法な本件契約を締結したものである。

(二) 被告らの主張

(1) 本件インフルエンザ予防接種に関する事務は、予防接種法六条による臨時の予防接種に関する事務として、いわゆる機関委任事務に該当し、特別区の区長は、その事務処理について都知事及び厚生大臣の指揮監督を受けることになる。

都内二三区の特別区においては、右予防接種の実施を各地区医師会に委託しているが、その委託契約の締結に当たっては、都知事の指揮に基づき、例年、都、区及び都医師会の三者で構成する連絡協議会(以下、この協議会を「三者協」という。)で統一的に決定される委託契約の書式、単価等に従った内容の契約を締結すべきものとされている。

昭和六二年度の予防接種の実施に当たっても、三者協が開催された結果、昭和六二年三月一七日に委託契約の標準契約書等が決定された。なお、右契約による単価は、都衛生局が都医師会の要望を考慮して決定したものであった。被告岩波の先代の当時の練馬区長は、同年四月一日、被告医師会との間で、右標準契約書式と基本的に同一内容の基本契約を締結したものである。

(2) ところで、昭和六二年度のインフルエンザ予防接種については、厚生省から、予防接種を受けるか見合わせるかについての被接種者及びその保護者の意向にも十分配慮するようにとの指示が出されたため、その接種率が大幅に低下することが危惧されていた。

そこで、都医師会の要望により、三者協では、昭和六二年九月一六日、前記基本契約とは別に、接種率が大幅に低下した場合の医師等の日当の最低保障を行う意味で、前記の接種予定者数を基礎に人件費を算定する旨の特別の契約書の内容とひな形を定めるに至った。

被告岩波は、右三者協の決定に従い、練馬区を代表して、他の特別区の場合と同様に、被告医師会との間で、右ひな形と同一内容の本件契約を締結したものである。

(3) また、練馬区の行うインフルエンザ予防接種については、その業務の委託契約の相手方は事実上被告医師会に限られざるを得ず、また、その契約内容も、前記のとおり、例年三者協の協議で決定されることになっている。

そもそも契約の締結に当たって予定価格を定めることを要求している事務規則三八条の二の規定は、訓示規定の性質を持つに過ぎないものというべきであるが、この点は一応おくとしても、右のような性質を持つ本件契約の場合には、その締結に当たって被告岩波が予定価格を定めなかったことが、実質的にみて右規則の規定の要求するところに違反しているものとは考えられない。

(4) 以上のような事実関係からすれば、被告岩波のした本件契約の締結行為には、何ら違法な点はないものというべきである。

また、仮に本件契約が被告岩波の区長としての裁量権の範囲を逸脱して締結された違法なものであるとしても、本件において、被告医師会は、従来の慣行に従い、三者協の協議結果にそって本件契約を締結しているのであり、それが右のような理由で違法なものであることを知り得べき立場にないのである。したがって、本件契約がそのために私法上も無効なものとなることはないものというべきである。

3  基本契約による経費額の計算方法について

(一) 次に、原告らは、前記基本契約では、前記のとおりの集団予防接種を行うための接種班の編成を前提として医師等の賃金単価が決められており、しかも、この接種班の編成が、これまで予防接種事故が発生する度に、都医師会の側から医師等の増員や被接種者数の制限に関する要求が出され、その要求内容に対応して順次変更が加えられてきたものであること等からして、そのとおりの人員等で接種班を編成すべきことが基本契約の内容となっているものであると主張している。すなわち、右基本契約によれば、被告医師会の側では、一五〇接種当たりについて別表1記載のとおりの人数の医師等を現実に出動させる義務を負うこととなるから、医師らの実働の実態が基本契約の定めるところに合致していない場合には、基本契約に定められた人員に不足する部分については、練馬区としては被告医師会に対してその賃金分に相当する必要経費を支払う義務を負わないことになるとするのである。

このような基本契約の解釈を前提として、原告らは、基本契約に定められたとおりの人員の実働があった場合の人件費の額を別表4<省略>記載のとおり四四一四万三三二三円と算出し、これと前記のとおりの昭和六二年度の予防接種に現に出動した医師等の実働人員を基礎として計算された別表5<省略>記載のとおりの人件費の額二一三七万七七〇四円との差額に相当する二二七六万五六一九円については、被告岩波が本来支払う義務のない金員を被告医師会に支払ったことになるとして、被告岩波に対しては不法行為による損害賠償として、被告医師会に対しては不当利得の返還として、それぞれ練馬区に右金額の金員とこれに対する遅延損害金を支払うことを求めている。

(二) これに対し、被告らは、基本契約における必要経費の単価が原告らの主張するような接種班の編成を想定して算出されたものであること自体は認めているものの、基本契約の契約書には、前記のような単価が記載されているのみであって、右のような班編成の内容や、被告医師会が右の班編成どおりの人員を派遣すべき旨を示す規定が置かれておらず、現実の予防接種の実施においても、従来から実際の班編成の内容は原告らの主張する編成と異なっていたのに、契約当事者間でこの点が特に問題とされたことがないこと等からして、原告らの主張するような人員の接種班を現に編成すべきことまでが基本契約の内容となっていたものではないと主張している。すなわち、右のような班編成は、単に予防接種業務の委託費について契約上の単価を算定するための計算方法として採用されたに過ぎず、したがって、右基本契約においては、医師等の実働人員のいかんにかかわりなく、右単価どおりの必要経費を練馬区が被告医師会に対して支払うことが約されていたとするのである。

第三争点に対する判断

一請求の拡張部分の訴えの適否について

本件訴えの当初の請求である二一九九万六七三〇円の損害賠償等を求める請求が、被告岩波が被告医師会との間でした本件契約の締結が違法であり、本件契約が無効であるということをその原因とするものであるのに対して、請求の拡張に係る二二七六万五六一九円の損害賠償等を求める請求は、当初の基本契約によっても、被告岩波としては、この金額に相当する部分の経費額については、これを被告医師会に支払うべき義務がなかったということをその原因とするものであることは、前記のとおりである。

すなわち、この両請求は、いずれも昭和六三年一月一三日に行われた練馬区の被告医師会に対する九一四七万二〇〇〇円の金員の支払いに関連して、その一部に相当する金員の支払いが不法行為等を構成するというものではあるが、それが不法行為等を構成する理由としては全く別個の事由が主張されている点で、相互に独立した別個の請求とみられる関係にあるのである。

そうすると、原告らは、すでに当初の訴え提起の時点において、本件請求の拡張に係る請求をもその訴えの内容に含めておくことが可能であったにもかかわらず、あえてこれを請求の対象から除外していたところ、本件監査請求に対する監査結果の通知のあった日から起算される出訴期間の経過した後であることの明らかな平成元年一二月二二日になって、当初の請求とは独立した別個の請求であるこの請求をも本件訴えの内容として追加してきたことになるものというべきである。

したがって、原告らの本件請求の拡張に係る部分の訴えは、いずれも出訴期間経過後に提起された不適法な訴えとして、却下を免れない。

二本件契約の適否とその効力について

1  関係証拠(証人篠原教夫、同武田昌弘、同浅利行男、同原田歳雄、同村上葆孝及び同田中明の各証言並びに各項目の末尾に掲記した証拠)によると、本件契約が練馬区と被告医師会との間で締結されることとなった経緯は、次のようなものであったことが認められる。

(一) インフルエンザの予防接種は、予防接種法六条によって都知事が各特別区長に行わせる臨時の予防接種であり、その実施に関する事務はいわゆる機関委任事務に該当し、特別区長が行うその事務処理については、都知事及び厚生大臣の指揮監督を受けることとなっている。

また、右予防接種は、現実には各特別区が各地区医師会との間で業務委託契約を締結し、その実施を各地区の医師会に委託するという方法で実施されてきているが、その実施を一体的、統一的に行う必要から、東京都と各特別区との間では、昭和五〇年三月に、地方自治法二八二条の二の規定による都区協議会での決定に基づき、その実施方法、対象、規模及び単価等につき「都区保健衛生連絡協議会」において協議を行い、また、必要に応じて東京都医師会の参加を得て東京都、特別区との三者協議(すなわち三者協での協議)を行うものとするとの協定が結ばれている。そして、例年、この三者協で協議、決定された内容に従って各区が各地区医師会との間で業務委託契約を締結することによって、予防接種業務を行ってきている。また、右予防接種業務の委託経費の単価については、東京都が都医師会の要望を踏まえ、また予算状況をも勘案して検討した案に基づいて、三者協で決定されることとなっており、この経費については、東京都から各区に対して、財政調整制度による予算措置が講じられることとなっている。

(<書証番号略>)

(二) 昭和六二年度の予防接種の実施についても、同年三月一七日ごろの三者協で、各区長が地区医師会との間で締結すべき業務委託契約の標準契約書の具体的な内容が決定され、各区が地区医師会に対して支払うべき予防接種業務に関する経費の統一的な単価が前記の必要経費の金額のとおりに決定された。これを受けて、同年四月一日、原告の先代の練馬区長は、被告医師会との間で、練馬区における予防接種の実施について、右の標準契約とほぼ同一内容の基本契約を締結した。

(<書証番号略>)

(三) 昭和六二年九月一日、都知事から各区長に対して同年度のインフルエンザ予防接種を実施するようにとの指示が発せられたが、その際、同年度の予防接種については、かねて厚生省から出されていた予防接種を受けるかこれを見合わせるかについての被接種者及びその保護者の意向にも十分配慮すべき旨の通知に留意すべきこと、すなわち、保護者等の同意が得られた場合に限って予防接種を行うべきことが特に指示された。

そのため、同年度の予防接種については、前年度に比べると大幅に接種率が低下することが危惧されるようになり、しかも、各地区医師会の側では、すでにその時点では、学校の行事予定等との調整を行って、従来どおりの規模で予防接種を実施する態勢を組んでしまっており、時期的にその態勢を接種率の低下を前提とした形に組み直すことが不可能であったことから、前記の基本契約によって支払われる現実の接種者数を基礎として計算される経費では医師会側で必要な人件費に不足する事態が生ずるとして、東京都医師会から東京都に対して、接種率が大幅に低下した場合に備えた特別の契約の締結を求める要望が出されることとなった。そこで、三者協では、同年九月一六日、右基本契約とは別に、接種率が大幅に低下した場合の医師等の日当の最低保障を行うという意味で、前年度の実績を基礎として計算した接種予定者数に基づいて人件費を算定すること等を内容とする特別の契約書の条項とそのひな形を決定するに至った。

練馬区でも、この三者協の決定に従い、前記のとおりの内容の本件契約を被告医師会との間で締結するとの方針を同年一〇月二〇日ころには決定し、その後の予防接種の実施状況を見ていたところ、現実にその接種率が前年に比べて約三〇パーセントも低下したため、本件契約締結の必要があるものとして、一二月三日、同年四月から練馬区長の職についた被告岩波が被告医師会との間で、同年度の予防接種が現に開始された日である一〇月一二日に遡って効力を有するものとして、本件契約を締結した。

(<書証番号略>)

2(一) 右のような経緯からすると、被告岩波としては、従前から行われていた予防接種業務の委託契約の締結方法に従って、他の特別区とも歩調を合わせる形で、被告医師会との間で本件契約を締結したものであることは明らかである。しかも、その契約の内容も、右予防接種の実施事務について指揮監督権を持つ東京都の主導のもとに三者協で協議、決定されたところにそのまま従ったものとなっていることからすれば、この三者協の決定に法的な拘束力までは認められないものとしても、被告岩波が本件契約を締結するについて、その区長としての職務上の義務に違背し、あるいはその裁量の範囲を逸脱し、裁量権を濫用するといった違法があったとすることは、困難なものといわなければならない。

(二)  もっとも、前記基本契約における必要経費の単価が、原告らの主張するとおり、もともと、医師三人、看護婦三人、事務員二人及び作業員一人からなる一接種班が一五〇接種を行うことを想定した場合の賃金額の総額から一接種当たりの賃金単価を算出するという方法で算定されているものであることについては当事者間に争いがなく、<書証番号略>によれば、昭和六二年度の予防接種の経費の単価を決定する三者協の協議の前段階で開催された同年二月一二日の特別区保健衛生主管課長会の会議資料でも、そのような単価の積算方法が明示されていたことが認められる。ところが、練馬区の同年度の予防接種業務に現実に出動した被告医師会傘下の医師等の人数は、前記のとおりであり、接種完了者数との対比からみる限りでは、右の必要経費の単価を算出する基礎となった医師等の人数にははるかに及ばないものであることは明らかである。

原告らは、このことを理由に、右基本契約における必要経費の算定基準自体かなりの水増し分を含んでいることとなるから、昭和六二年度の予防接種について接種率の低下という事態が生じたとしても、そのことを理由に、改めて本件契約を締結することによって、更に水増し分を追加した人件費を練馬区が被告医師会に支払う必要はなかったはずであると主張している。そして、確かに、<書証番号略>昭和四五年一一月二四日付け都衛生局長から各特別区長宛の通知、<書証番号略>昭和五〇年三月作成の東京都保健衛生関係事務処理基準及び<書証番号略>昭和五一年度東京都・特別区・東京都医師会連絡協議会概要にも、インフルエンザ予防接種の接種班の構成を右のような態勢とすべき旨が記載されていることからすると、少なくとも右の昭和四五年から同五一年当時には、インフルエンザ予防接種の接種班の構成を前記のような態勢とすることが、練馬区と被告医師会の間においても何らかの形で合意されていたのではないかとも推認されるところである。仮に両者の間で昭和六二年当時においてもそのような合意があったものとすれば、被告医師会において右のような接種班の定めによって算出される医師等の数より少ない人数の医師等しか出動させない場合には、それだけ必要な経費の額も少なくなるはずであるから、同年度において予防接種の接種率の低下という事態が生じたことを前提としても、練馬区としては、本来は、被告医師会に対して、なお前記基本契約の定めに従って同年度の予防接種を実施すべきことを要求してしかるべきであったものとも考えられるところである。

しかし、右基本契約の契約書(<書証番号略>)自体には、前記のようにして定められた経費の統一的な単価が記載されているのみで、右のような班構成の内容や被告医師会が右の班編成どおりの人員の医師等を現実に派遣すべきことを定めた規定は置かれていない。そして、<書証番号略>によれば、三者協の構成員の間では、すでに本件の昭和六二年度よりかなり以前の年度から、右のような人員による接種班の構成は一接種当たりの賃金単価を算出するに当たってのいわば観念上の人員数に過ぎず、接種班を現実にどのような人員構成とするかは、右のような接種班の人員構成の定めにかかわらず、接種規模や接種対象者の状況などを考慮しながら各医師会において個別に決定すべきものであるとの共通の認識、了解が成立するに至っており、練馬区と被告医師会との間でも、そのような了解のもとに前記基本契約が結ばれたものであることがうかがわれるのである。

そうすると、前記のとおり、厚生省の指示を契機に接種率が前年に比べて大幅に低下するという事態が生じたことを受けて、三者協において都医師会からの変更契約締結の要望を受け入れて、各区が統一的に本件契約と同一内容の契約を締結すべきことが決定されている状況の下では、一人被告岩波に対してのみ、本件契約を締結することなく、前記基本契約どおりの内容で練馬区における同年度の予防接種業務を受託するよう被告医師会に働きかけることを求め、それを果たさなかったことが練馬区長としての職務上の義務に違背するとまですることは、酷に過ぎるものといわざるを得ない。

(三)  また、<書証番号略>によれば、翌昭和六三年度のインフルエンザ予防接種についても、昭和六二年度と同様の接種率の低下という現象が見られたにもかかわらず、三者協においては、前記基本契約どおりの被接種者一人当たりの単価に基づいて支払経費額を算出するという契約方式のみを採用し、本件契約のような接種予定者数を基礎とする人件費相当額の支払いを保障するという契約方式は採っておらず、現に練馬区においても、本件契約のような特別の契約は締結していないことが認められる。原告らは、このことからしても、昭和六二年度においても練馬区としては本件契約を締結する必要はなかったはずであると主張している。

しかし、篠原証人の証言によれば、昭和六三年度の予防接種については、医師会の側でも、前年度の経験を踏まえて、あらかじめ低下した接種率を前提とした予防接種の実施態勢を組むことが可能となっており、そのような措置が不可能であった昭和六二年度の場合とは事情を異にすることが認められる。

したがって、この点に関する原告らの主張は採用できない。

(四)  更に、原告らは、被告岩波が本件契約を締結するに当たって事務規則三八条の二で要求されている予定価格を定めなかったことをも、本件契約締結の違法事由として主張しており、本件契約が右の予定価格を定めずに締結されたものであることについては、当事者間に争いがない。

ところで、事務規則が契約担当者が本件のような随意契約の方法で契約を締結しようとする場合においてもあらかじめ予定価格を定めることを要求している趣旨は、随意契約の方法による場合には、契約相手方の選定が一部の者に偏し、区側にとって不利な価格で契約が締結されるおそれがないとはいえないことから、あらかじめ予定価格を決定しておくことによって、これを相手方の申出に係る価格の適否の判断基準とする必要があるということにあるものと考えられ、原告らもそのような主張を行っているところである。

しかしながら、前記認定のような本件契約締結に至る事実関係からすれば、本件契約については、その契約の相手方は事実上被告医師会に限られてしまっており、しかも、契約の内容となる必要経費の単価額もあらかじめ三者協の決定によって各区統一の価格として定められてしまっていて、これと異なる価格によって契約を締結するということが事実上考えられないという事情があるため、およそ右のような予定価格をあらかじめ定めておくことの意味がない場合であることは明らかなものといわなければならない。すなわち、被告岩波が本件契約を締結するに当たってあらかじめ予定価格を定めなかったことは、実質的に考えると、右事務規則の要求するところに違反するものとは考えられないものというべきである。

したがって、この点に関する原告らの主張も採用できない。

3  基本契約による経費額の計算方法について

基本契約において被告医師会が原告らの主張するような人員による接種班を現実に編成すべきことが契約上の義務となっていたか否かという争点は、前記のとおり、原告らの請求の拡張部分に係る訴えの当否に関するものである。

ところが、右請求の拡張部分に係る訴えが不適法な訴えとして却下すべきものであることは前記のとおりであるから、本件では、右の争点については、もはや判断を示す必要がないこととなる。

(裁判長裁判官涌井紀夫 裁判官小池裕 裁判官近田正晴)

別紙別表2ないし5<省略>

別表1

1 予防接種賃金(日当)

医師 一五九〇〇円

看護婦 八四〇〇円

事務員・作業員 四一〇〇円

2 賃金単価算定表(一五〇接種)

接種

予診

医師

看護婦

事務員

作業員

15,900円×1人

8,400円×2人

4,100円×1人

4,100円×1人

15,900円×2人

8,400円×1人

4,100円×1人

――

40,900円

44,300円

85,200円

1接種当たり(×1/150)

272.67円

295.34円

568円

3 必要経費算定表

賃金

接種完了

568円

予診のみ

295.34円

ワクチン料金

6歳以下

203.70円

6歳~12歳

271.60円

13歳以上

407.40円

衛生材料費

30.80円

損害保険料

2.50円

4 必要経費(対象者一人につき)

(一) 六歳以下

568円+203.70円+30.80円+2.50円=805円

(二) 六歳〜一二歳

568円+271.60円+30.80円+2.50円=872.90円

切上げて八七三円

(三) 一三歳以上

568円+407.40円+30.80円+2.50円=1008.70円

切上げて一〇〇九円

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