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東京地方裁判所八王子支部 昭和35年(わ)18号 判決 1960年6月06日

被告人 金子喜久蔵

昭一五・一・一一生 自動車運転者

主文

本件公訴はこれを棄却する。

理由

本件公訴事実の要旨は下記のとおりである。

被告人は昭和三五年一月五日午後七時四〇分頃北多摩郡清瀬町中里五〇九番地金山橋附近路上において、同所を自転車に乗つて帰宅の途にあつたA(当時二二歳)を強いて姦淫しようと企て、自ら乗車していた自転車を故意に同女の自転車につきあて同女を路端に倒した上、姦淫の目的でその顔を押えつけたり、スカートの下に手を入れてズロースをはずそうとしていた際、通行人の気配を感じて逃走し、姦淫の目的を遂げなかつたものである、というのである。

即ち本件は親告罪なるところ、緊急逮捕手続書(検第一号証)Aの司法警察員に対する告訴調書(検第二号証)、同人の告訴取消書(検第一二号証)、金子丑松の検察官に対する供述調書(検第一〇号証)、検察官中野国幸作成の報告書(検第一一号証)および起訴状に押捺された当庁の受付印等を綜合すれば、本件につき昭和三五年一月七日被害者Aより警視庁田無警察署司法警察員に対し口頭で告訴がなされ、翌八日事件は身柄と共に同署司法警察員より東京地方検察庁八王子支部検察官に送致されたが、右告訴人は同月一六日午前一一時四〇分頃金子丑松を介して右田無警察署に対し東京地方検察庁八王子支部検察官中野国幸宛の告訴取消書を提出し、検察官はこの事実を知り得ないうちに本件公訴を提起し、同日午前一一時五〇分頃東京地方裁判所八王子支部において受理されたことが認められる。

これに対し、検察官は、本件告訴取消書の宛名は東京地方検察庁八王子支部検察官中野国幸と記載されている以上、右取消書が当該検察官に到達した時を基準として本件公訴提起手続の効力の有無を決すべきものである。然るに右告訴取消書が検察官に到達したのは本件公訴提起後の昭和三五年一月一八日なるが故に本件起訴手続は有効と主張する。

なる程右告訴取消書の宛名が検察官なることは前に認めたとおりである。また右告訴取消書が起訴前に田無警察署に提出されたことも前認定のとおりである。そして同署は一度受領した右取消書を、その後検察官の指示により持参人の金子丑松に対し八王子の検察庁へ持参するよう申向けて返戻したため、金子丑松は即日八王子の検察庁へ持参したが、当日が土曜日などの事情もあつて、その目的を遂げない儘持帰り、改めて同月一八日同検察庁へ出頭し、これを提出し得たことが、前記諸資料から認められる。しかして、告訴の取消は検察官或は司法警察員のいずれに対してもできるのであるから、本件において、もし右告訴取消書の宛名が検察官と司法警察員の両者が併記され、もしくは全く空白であつたならば、疑義もなければ、また前記のような徒労もかけずして事は簡明に済んだ筈である。従つて問題は検察官宛の告訴取消書が、たまたま同じ捜査機関である司法警察員に提出された場合に、これを訴訟法上認容できるか否かである。

ところで、言う迄もなく、告訴の取消とは、告訴人が捜査機関に対して既になした告訴を撤回する意思表示であるから、要はその意思表示の相手方が捜査機関であれば足りるのであつて、それが特定の検察官である要なきは勿論、検察官でも、司法警察員でもよく、その方法も口頭でも、書面でもよいのである。そして書面でこれを為す場合、法は特別にその記載内容の形式を定めていない。これは官吏その他の公務員以外の者が作るべき書類に厳格な形式を要求すること自体無理であることを認めたものに外ならない。殊に宛名の如きは文書の内容と提出行為から容易に理解し得るのであつて、告訴取消書の宛名の有無はその効力に影響しない。そもそも単独犯の強姦罪を親告罪と定めた所以のものは、被害者の意思、感情、名誉を尊重してのことであるから、告訴取消書にしていやしくも捜査機関に提出され、告訴権者の告訴取消の意思を認め得るならば、それを以て足り、もともと記載を要しない宛名が書かれ、たまたまこの宛名と異なる官署に提出したとしても同じ当該事件を取扱つた捜査機関であれば、これを拒否する理由はなく、受理するのが表意者の意思にも副うものと解すべきである。だからこそ本件でも田無署はこれを受領したものと思われる。殊に本件の告訴取消書所記の宛名は告訴人が自ら検察官を選択して記載したものではなく、本件を担当した検察官が、あらかじめその用紙を告訴人に交付するに際し右のような宛名を記入して与えたものである。(前記検第一一号証参照)従て若し当該宛名の検察官に到達した時を基準とすべき旨の検察官の主張が正しいとすれば、恰かも検察官自ら告訴取消の方式を限定し、司法警察員の権限を否定するのと同一の結果に帰し、その違法なること勿論である。

以上の理由により本件告訴取消書は何ら間然するところなく、これが本件公訴提起前に捜査機関である田無警察署に提出されたことも前に認定したとおりであるから、その時に告訴を取消したものと認むべきものであり、その後になされた本件起訴の手続は無効というべく、これに反する検察官の見解は本来要件でない宛名の記載にとらわれ、ことがらの本旨を没却する単なる形式論にして首肯できない。従て本件公訴は刑事訴訟法第三三八条第四号に則りこれを棄却すべきものである。

よつて主文のとおり判決する。

(裁判官 河内雄三 四ツ谷巌 後藤文彦)

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