東京地方裁判所八王子支部 昭和41年(ワ)331号 判決 1970年10月13日
原告 加藤顕三
右訴訟代理人弁護士 寺本勤
同 西嶋勝彦
被告 府中市
右代表者市長 矢部隆治
被告 府中市選挙管理委員会
右代表者委員長 鹿島恒雄
右両名訴訟代理人弁護士 中井宗夫
主文
被告府中市は原告に対し金五〇〇〇円及びこれに対する昭和四一年四月一七日から完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。
被告府中市に対する原告のその余の請求を棄却する。
被告府中市選挙管理委員会に対する原告の訴を却下する。
訴訟費用中、原告と被告府中市との間に生じた部分はこれを二分し、その一は原告の負担とし、その余は同被告の負担とし、原告と被告府中市選挙管理委員会との間に生じた部分は原告の負担とする。
事実
原告訴訟代理人は「被告府中市(以下「被告市」という)は原告に対し、金一〇〇、〇〇〇円およびこれに対する昭和四一年四月一七日以降完済まで年五分の割合による金員を支払え。被告府中市選挙管理委員会(以下「被告委員会」という)は、この判決確定後一〇日以内に、委員長鹿島恒雄において国立市中一の一七の二八原告方住所に赴き、昭和四一年四月一七日施行の府中市長選挙および府中市議会議員補欠選挙において、被告委員会の過失により原告が選挙権に基づき投票できなかった事実に対して謝罪せよ。訴訟費用中、原告と被告市との間に生じた部分は被告市の負担、原告と被告委員会との間に生じた部分は被告委員会の負担とする。」旨の判決ならびに右第一項につき仮執行の宣言を求め、請求の原因ならびに被告らの主張に対する答弁として次のとおり述べた。
「一、(原告の選挙権)
原告は昭和五年八月二六日生まれの日本国民たる男子であって、公職選挙法一一条に定める欠格条項に該当せず、昭和三九年一一月三日府中市天神町一丁目一番地の六五に転入し居住していた。従って原告は昭和四一年四月一七日施行の府中市長選挙および同日施行の府中市議会議員の補欠選挙(以下「本件各選挙」という)について選挙権を有していたものである。
二、(選挙権の侵害)
しかるに、原告は、被告市ないしその機関である被告委員会の職員らの故意または過失による次の違法行為のため、本件各選挙において投票権を行使することができなかった。
(一) (故意による侵害)
原告は、被告委員会が昭和四〇年六月一〇日現在で調製した補充選挙人名簿(以下「本件補充名簿」という)に登録されていた者で、現に同年七月四日施行の参議員議員選挙(以下「Aの選挙」という)、同年同月二三日施行の東京都議会議員選挙(以下「Bの選挙」という)において投票権を行使することができたのである。しかるに被告委員会は昭和四〇年九月一五日現在で調製した府中市基本選挙人名簿(以下「本件基本名簿」という)に原告の氏名を登載しなかった。思うに原告は確固とした政治的信条を有し、これを万人にむかって明示していたが、右信条は当時本件府中市長選挙に立候補し、同選挙に当選した訴外矢部隆治の政治的立場とは甚だかけはなれていたので、被告委員会の担当職員は右矢部と意を通じ、矢部の当選を得しめるため、故意に原告の氏名を本件基本名簿に登載することを怠ったものと推測される。
(二) (基本選挙人名簿調製上の過失)
かりにそうでないとしても、基本選挙人名簿の調製は職権でなすものであるから、基礎となる選挙人の調査はあらゆる手段をつくして調査もれ、誤調査がなされないよう格段の注意を払うべきであり、住民登録、補充選挙人名簿との照合および本人との面接その他の方法を併用しなければならないものである(単に訪問調査をなすのみでは不十分である)。特に、ほとんどの市区町村でとられている方法は住民票をもとにした名簿の調製であり右の方法は最も能率的であるとともに従来からの資格ある選挙人の氏名が登録もれになる弊害を防止することができる。
しかるに、被告委員会はこれらの方法をとることなく単にずさんな実態調査を行なったのみで、本件基本名簿を調製したため、これに原告の氏名を登載しなかったもので、右名簿の調製作業にあたった職員ないし名簿を確定した被告委員会に過失があったことは明らかである。
(三) (公職選挙法二八条一項但書)
本件各選挙当時効力を有した公職選挙法二八条一項但書にいう「登録されることができないもの」とは、九月一五日以前現在において調製した補充選挙人名簿に登録された者で、九月一五日現在で調製する基本選挙人名簿に登録されるべきところ登録もれとなった場合を含むと解すべきである(昭和二五・一二・二八全選局長回答)。
原告は、本件基本名簿確定の日の前日である昭和四〇年九月一四日に本件補充名簿に登録されており、同年同月一五日現在の本件基本名簿にも登録されるべきところ登録されなかったのであるから、原告に関しては当時の公職選挙法二八条一項但書により本件補充名簿が効力を有し、原告は本件各選挙において投票権を行使することができたのである。
しかるに被告委員会の担当職員らは右法条の解釈を誤り、昭和四一年四月一六日原告が被告委員会を訪れて前記A、B各選挙に投票した事実を告げ、基本選挙人名簿に登録されていなくても今回も投票できるのではないかとたずねたのに対し、「いかんともしがたい。本件各選挙には投票できない」旨断言して原告をその旨誤信させその結果原告は本件各選挙に投票する機会を奪われたものであり、この点に関し右職員らに過失のあったことは明らかである。
三、(名誉毀損)
被告委員会の男子職員某(後記乙職員)は、昭和四一年四月一六日故意に原告の名誉を毀損した。その詳細および前後の事情は次のとおりである。
昭和四一年四月一〇日頃、原告の同居人である訴外大沢昊方に被告委員会から本件各選挙のための入場券が送付されてきたが、何故か原告にはそれが送付されなかったので原告は不審に思い、直ちに電話で被告委員会に右の旨を問い合わせ、あわせて前記A、B各選挙では現住所で投票資格があり、かつ現実に投票した事実を告げた。応待した被告委員会の男子職員甲は既に二回の選挙で投票しているならば今回も当然投票資格があり、入場券の送付がなくても投票は可能だから安心するようにと答えた。原告は、調査の上もし入場券が未発送であれば即刻原告あて送付するよう依頼して電話を切った。ところが、その後もおとさたがないので、原告は選挙の前日である昭和四一年四月一六日被告委員会に数回にわたり電話し、入場券が来ない理由をただしたところ、氏名官職不詳の男子職員乙は、原告が本件基本名簿に登録されていない事実をはじめて明らかにした上、「一票ぐらい大勢に影響ないでしょう。いいじゃないですか。」と放言した。電話の応待者は途中で被告委員会の松村事務局長に代ったが、同局長もあいまいな返事に終始した。後刻電話に出た被告委員会の鹿島委員(当時)は、「縦覧期間に見ない場合はこういうことがある。そういう場合どうしようもない。」と回答した。
原告は同日午後四時頃府中市議会の吉野議員と同道して被告委員会を訪ねたが、松村局長は表面上申しわけないというのみで、責任の所在等を一切明らかにしなかった。
原告は確固とした政治的信条を抱き、選挙に対して熱情を持つ者で、いまだ投票を棄権したことがないところ、右被告委員会の職員乙の暴言によってその名誉を著しく毀損された。
四、(被告市の責任)
被告市は、国家賠償法一条により、公権力の行使にあたる同被告ないし被告委員会の職員らの前記二の違法行為による損害を賠償すべき義務がある。
五、(被告委員会の責任)
本件基本名簿の調製にあたり、また原告の間合せに対し投票できない旨言明した被告委員会の担当職員らは、各自原告の選挙権行使を故意または過失により侵害したものとして民法七〇九条に基づく賠償責任を負うものである(これが国家賠償法上の責任に吸収されて消滅するものではない)。さらに前記三のとおり、原告との応待に際し原告の名誉を毀損した被告委員会の職員乙も、民法七〇九条による責任を負うべきである。
被告委員会は、地方自治法一八六条により選挙関係事務を管理し、委員長は同法一九一条三項により職員を指揮して右事務に従事させるものであるから、被告委員会はその職員らの前記不法行為につき民法七一五条により損害賠償の責に任ずべきである。
六、(原告の損害)
原告は、その政治的信条のゆえに選挙には特段の関心を持つ者であり、本件各選挙においても某特定候補者に投票するつもりであった。それを違法に妨害され、しかも次の某本選挙人名簿が確定するまでの間一切の選挙から締め出されることになった原告の損害ははかりしれないものがあるが、諸般の事情を考えて被告市に対し慰藉料として金一〇〇、〇〇〇円のみを請求する。また被告委員会に対してはとりあえず請求趣旨第二項の方法による賠償を求める。
七、(結論)
よって被告市に対し、右金一〇〇、〇〇〇円およびこれに対する不法行為以後である昭和四一年四月一七日から完済まで民事法定利率年五分の割合による損害金の支払を求め、被告委員会に対し請求の趣旨第二項の方法による謝罪を求める。
八、(被告市の後記主張に対する答弁)
(一)の主張中、本件基本名簿が法定期間府中市役所ほか二ヵ所で縦覧に供せられたこと、右期間中原告が異議の申出をしなかったことは認めるがその余は争う。
選挙人名簿が縦覧期間の経過により有効に確定したとしても、それは右名簿に基づいて有効に選挙をなしうるということにすぎず、名簿に登載されなかった者が違法に選挙権の行使を妨げられたことに基づく別個の救済、なかんずく損害賠償の請求を不可能ならしめるものではない。損害賠償の請求は名簿の効力を覆えそうとするものではないからである。また行政事件訴訟法が出訴期間を設けているのも行政処分の効力をできるだけ早く安定させる目的に出たもので、違法な行政処分を損害賠償の点から争うことまで制限する趣旨ではない。
(二)(1)の主張は争う。選挙権は憲法および公職選挙法により国民に具体的に保障された個人的権利であり、基本的人権の一つであって、それは私的権利としての性格をも有している。また国家賠償法の目的は違法な公権力の行使から国民の法益を守るところにあり、右法益については私権か公権かという形で同法の適用を二、三にすべきものではない。
(二)(2)(3)(4)の主張はすべて争う。
(三)の主張も争う。本件基本名簿の瑕疵が大沢昭子の回答の行違いから生じたというのは責任転嫁も甚だしい。
(四)(五)の主張も失当である。
九、(被告委員会の後記主張に対する答弁)
すべて争う。」
被告ら訴訟代理人は「原告の各請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする」との判決を求め、答弁および主張として次のとおり述べた。
「一、請求原因第一項中、原告がその主張の日に生れた男子で欠格条項に該当しないことは認めるがその余は知らない。同第二項中、原告が本件各選挙に投票できなかったこと、原告が同主張の補充選挙人名簿に登録されていたこと、A、B各選挙に投票したこと、しかるに本件基本名簿には登録されなかったこと、本件市長選挙に矢部隆治が当選したこと、原告が昭和四一年四月一六日被告委員会を訪れ、A、B各選挙に投票した事実を告げたことはいずれも認めるがその余は争う。
この点に関する主張の詳細は後記のとおりである。
第三項中、原告主張の訴外大沢昊に本件各選挙の入場券が送付されたのに原告には送付されなかったこと、原告が昭和四一年四月一六日被告委員会に数回にわたり電話しさらに吉野市議とともに来訪したこと、鹿島委員が原告主張の趣旨の回答をしたことは認めるがその余は争う。特に被告委員会の職員が「一票ぐらい云々」といった事実は否認する。
原告は昭和四一年四月一六日被告委員会の事務局長に対し電話で原告の氏名が基本選挙人名簿に登載されているや否やの問合せをしたので、同局長が調査の上登載されていない旨回答したところ、原告は登載もれにより選挙権を行使できないことについて委員会の責任ある回答を即刻してもらいたいとのことであった。そこで被告委員会の委員長は即刻原告に電話し、名簿調製の実情とともに原告のいわれる事情であれば委員会としては深くおわび申し上げる趣旨を一〇数分にわたり懇切丁重に陳謝したのである。その直後原告は府中市議会議員吉野正二とともに被告委員会事務局を訪れたので、同事務局長は原告に対し、原告主張のような事実関係でありながら登載もれになったのであれば被告委員会としては深く謝罪する旨くりかえしたが、原告は納得できないから訴訟するといって帰ったのである。
第四乃第六項の主張はいずれも争う(詳細は後記)。
二、被告市の主張
(一) (出訴期間の徒過)
かりに原告が本件基本名簿に登録されるべき資格を有しながら登録されなかったもので、その点において右名簿に瑕疵があったとしても、本件基本名簿は公職選挙法二二条二項の手続後同条一項の定める期間府中市役所、同東、西各出張所において縦覧に供せられ、その間原告はもとより何人からも同法二三条の定める異議の申出がなされなかったので、右名簿は有効に確定し、前記瑕疵は治癒されたものである。従って右名簿調製行為の違法を前提とする原告の請求は失当である(福岡地判昭二六・二・一六行裁集二巻三〇五頁)。
(二) (違法性の不存在)
(1) 国家賠償法一条一項の責任を生ずるためには、行為の違法性すなわち法の保護する私益の侵害を要する(東京高判昭三七・一一・二八下民集一三巻二三七八頁)。ところで原告が侵害されたと主張する選挙権は選挙人団を構成する一員すなわち選挙人として選挙に参加することのできる資格であり、それは選挙を通じて行政についての自己の意思を主張する参政の権利であると同時に、他面選挙人団という機関を構成して公務員の選定という公務を執行する義務の性質をも併有する。いずれにしても公法上の関係において直接自己のため一定の利益を主張する資格である公権にすぎず、私的利益とは異質のものである。従ってその権利の侵害は国家賠償法の定める不法行為にはあたらない。
(2) また原告は選挙権の行使を侵害されたことによる精神的損害に対して賠償を求めている。それは結局原告が本件各選挙に関し某特定候補に投票しようとしていたものをそれが不能となり失望したということであると思料される。しかし選挙権の本質は、たとえそれが個人的公権と称される個人的色彩の強い公権であるとしても、あくまで国政その他の政治に国民みずから参画するという利益を内容とするもので、特定候補者の当選あるいはそれによって得る選挙人の精神的満足をその内容とするものではない。原告が得ようとした満足は法が保障する参政権とは直接関係なく、いわば法の反射的利益にすぎないものであり、国家賠償法の保護に値する法益とはいえない。
(3) 本件基本名簿は、自治省選挙局長の「基本選挙人名簿調製について」と題する通知(昭和三九・八・二九付)をうけた東京都選挙管理委員会委員長の「基本選挙人名簿の調製について」と題する通知(昭和三九・九・一付)に基づき、住民実態調査を実施し、その結果によって調製されたものである。すなわち、被告委員会は昭和四〇年九月初旬、府中市職員二六四名に対し、いわゆる基本選挙人名簿選挙人資格調査員を委嘱し、直ちに「基本選挙人名簿資格調査要領」なる説明書を作成して調査員に交付するとともにその説明会を開催し、同月一五日以降二五日まで右通知に定められた方法により実態調査を実施し、その調査結果に基づき同年一〇月三〇日基本選挙人名簿一三二冊を調製し、選挙人七六、一二八名を登載して法定の縦覧に供した。原告が昭和四〇年九月一五日当時居住していたと主張する訴外大沢昊方にも、同年同月一七日頃調査員の訴外安藤美鈴(府中市主事補で、前年および前々年度も同地区を担当した)が訪問調査したが、右大沢の妻大沢昭子は、右安藤に対し、家族および同居人に移動がない旨確答した(昭和三九年九月の調査時には訴外服部正雄の家族が同居していたが、同人らは同四〇年九月一五日当時も同居していた)。そこで安藤調査員はその旨調査原票に記入して帰ったもので、その際大沢昭子からは原告が同居していることについて一言の申出もなかったものである。
縦覧についても昭和四〇年一一月一日、同月一五日発行の府中市広報、さらに朝日・毎日・読売・産経・東京の各新聞にチラシ折込みを行ない、かつポスター二〇〇枚を市内に掲示して周知徹底をはかった。
これらの事情を考えれば、かりに本件基本名簿に原告主張の瑕疵があったとしても、これをもって直ちに被告委員会の名簿調製行為に違法があるというのは酷に失する。
原告主張の住民票をもとにした調製方法がほとんどの市区町村で採用されているという事実はない。かかる方法では住民登録がなくとも住所要件をそなえた者を名簿に登録しないことになる反面、住民登録を有しながら住所要件を欠く者が二重登録され、二重投票するおそれがある。
(4) 公職選挙法二八条一項但書は、九月一五日現在において次年度基本選挙人名簿登録資格を有しなかったがその後これをそなえるに至り、九月一六日以降右基本選挙人名簿確定の前日の一二月一九日までの間を調製期間として調製され、かつ確定した補充選挙人名簿に登録された者があるときは、右補充選挙人名簿はこの者に関する部分につき効力を有するとの趣旨の規定であって、ここにいう補充選挙人名簿には九月一四日以前の日を調製期日とする補充選挙人名簿は含まれない(この解釈は東京都下各選挙管理委員会の統一解釈である)。けだし九月一四日以前に調製された補充選挙人名簿に登録され、かつ次年度基本選挙人名簿に登録される資格を有する者は、当然に実態調査により次年度基本選挙人名簿に登録されておる筈であり、かりに登録もれがあっても、縦覧異議申立制度により救済され、ないしその過誤は縦覧手続を経ることによって是正され、九月一五日現在の有資格者は全員登録されたものとみなされるのに反し、九月一六日以後の補充選挙人名簿に登録された有資格者は右実態調査の対象になっていないから右擬制の対象とならないとともに、当該選挙管理委員会にはその者が次年度基本選挙人名簿により行われる選挙に投票権を有することは明らかなのであるからこの者に投票の機会を与えなければ酷であるとして定められたのが右但書であるからである。
ところで原告が登録されていた本件補充選挙人名簿は昭和四〇年六月一〇日に調製されたもので、同年九月一六日以降同年一二月一九日の間には被告委員会において補充選挙人名簿を作成した事実がないから、公職選挙法二八条一項但書によって効力を存続すべき補充選挙人名簿は皆無であり、同但書によって原告が本件各選挙に投票できるわけがないのである。
(三) (故意・過失の不存在)
かりに本件基本名簿の調製行為に違法性があるとしても、それは前記のとおり実態調査の際における訴外大沢昭子の申述の行違いから生じたもので、被告委員会が故意に原告を名簿から脱落させようとしたわけでないことは勿論、被告委員会の名簿調製方法、調査員の選任監督、名簿作成後の手続、調査員の調査活動等にもなんら過失はなかったというべきである。
(四) (因果関係の中断)
かりにそうでないとしても、本件基本名簿の作成については、訴外大沢昭子の同居人についての誤った申述が介入しており、安藤調査員としては原告主張のような損害を予見することは不可能であったから、そこに因果関係の中断があり、原告主張の損害を被告らに帰責せしめることはできない。
(五) (権利の乱用)
かりに以上の主張が理由ないとしても、原告主張の本件基本名簿の瑕疵が生ずるに至った前記事情、被告委員会が完全な広報手続を遂げた上で法定の縦覧手続をふんでいること、原告は右広報活動に注意を払わず、縦覧も異議申立もせずに損害賠償請求に及んだものであること等を考慮すれば、本訴請求は権利の乱用というべきである。けだし、参政権を本来的な方法で行使し、または行使できるよう努めずにいて、本件のごとき行政活動上の瑕疵を理由にこれを財産上の請求におきかえ、地方公共団体やその住民に負担を強いるのは憲法の精神ないし条理に反するからである。
三、被告委員会の主張
かりに原告主張の事実があったとしても、それは結局公務員の職務行為を理由に損害賠償の請求をするというに帰するのであるから、かかる場合は国家賠償法に基づき国または公共団体にその請求をなすべきである(最判昭和三〇・四・一九民集九巻五三四頁)。公務員個人に対する民法七〇九条に基づく賠償請求は失当であるとともに、当該公務員を指揮監督すべき被告委員会に対する民法七一五条に基づく賠償請求も失当である。またかりに被告委員会の職務行為に瑕疵があったとしても、地方公共団体の機関としての地位にある被告委員会がみずから損害賠償の責に任ずべき限りでないことは明らかである。」
証拠≪省略≫
理由
一、原告がその主張の日に出生した男子で、公職選挙法一一条所定の欠格条項に該当しないことは当事者間に争いがなく、≪証拠省略≫によると、原告は日本国民であって、昭和三九年一一月三日府中市天神町一丁目一番地の六五に転入し(同月四日届出)、引続き昭和四一年当時まで同所に居住していたことが認められる。従って、原告は被告委員会が昭和四〇年九月一五日現在で調製した本件基本名簿に登録される資格を有し、かつ昭和四一年四月一七日施行の本件各選挙に選挙権を有していたものといわなければならない。
二、ところが、原告が本件基本名簿に登録されず、本件各選挙に投票できなかったこと、これに先立ち原告は被告委員会が昭和四〇年六月一〇日現在で調製した本件補充名簿に登録され、原告主張のA、B各選挙に投票したことは当事者間に争いがない。
三、そこで、被告らの職員の違法行為に関する原告の主張について判断する。
(一) 原告はまず、被告委員会の職員が本件市長選挙の当選候補者矢部隆治と共謀して故意に原告を本件基本名簿に登録しなかったと主張するが、右の事実を認めるべき証拠は全く存しない。
(二) 次に原告は、本件基本名簿調製上の過失を主張する。
当時効力を有していた公職選挙法の規定によれば、市町村の選挙管理委員会は、毎年九月一五日現在で、居住者の選挙資格を調査して職権で基本選挙人名簿を調製すべきものとされ、右資格調査の方法については法令に特段の規定がおかれていなかったところ、≪証拠省略≫によると、東京都選挙管理委員長は、昭和三九年九月一日、各区市町村選挙管理委員会に対し、同年八月二九日付自治省選挙局長の通知をうけた「基本選挙人名簿の調製について」と題する通知を発したこと、被告委員会は本件基本名簿の調製に際し右通知中の「基本選挙人名簿調製要領」(案)にのっとり、そこにいう「併合調査」の方法で実態調査を実施することとし、府中市職員二六四名に調査員を委嘱し、右調査員らが昭和四〇年九月一五日頃から約一〇日間被告委員会の指示のもとに調査にあたったこと、具体的には各調査員が前年度の基本選挙人名簿に登録した資料を持って各戸を訪問し、直接調査する方法をとり、その際前年度の基本名簿以後に調製された補充選挙人名簿があってもその記載は参照せず、また住民票との照合も時間の制約から実施していなかったこと、原告は当時前記住居地の訴外大沢昊方に同居していたところ、その頃原告の留守中に被告市の職員である安藤調査員が右大沢方を訪れて同人の妻大沢昭子に面接し、前年度の基本名簿(もとより原告は登録されていない)に基づいて調査した上、「他に誰かいませんか」という趣旨の質問をしたのに対し大沢昭子は「いない」旨の返答をしたので同調査員はそのまま同人方の調査を終了し、しかも住民票との照合や原告の登録されている補充選挙人名簿の参照をしなかったため原告の存在を全く看過し、その結果本件基本名簿に原告の氏名が脱落するに至ったこと、をそれぞれ認めることができる。≪証拠判断省略≫
ところで、当時の関係法令には基本選挙人名簿調製のための資格調査の方法について明文がなかったけれども、憲法ないし公職選挙法の精神にてらせば、右調査は選挙権を有する者が登録もれのため投票の機会を奪われることを可能な限り防止し、かつ二重登録その他の不公正を生ずる余地の少ない適正で合理的な方法によらなければならないことはいうまでもないところである。そして一般的にいって被告委員会の実施した実態調査の方法は既存の各種資料のみに基づく調査よりはすぐれているとしても、前年度の基本名簿の基準日以降に資格を取得した選挙人を的確に把握するためには、住民登録や補充選挙人名簿、すくなくとも右前者との照合を行うことが必要不可欠であるといわなくてはならない。けだしそうでなければ調査員は新たに資格を取得した選挙人の存在に関してなんらの予備知識も持たずに各戸調査に赴くわけである(しかも事後の照合もなされない)から、たまたま本件のように本人が不在の場合など、調査が形式的に流れて有資格者を脱落させる危険が大きいからである。しかるに被告委員会は前記方法で実態調査を実施したのみで住民登録や補充選挙人名簿との照合を怠り、その結果既に住民として登録され補充選挙人名簿にも本人の申請により登録されていた原告を本件基本名簿から脱落せしめたものであって、右措置は前示趣旨において違法であり、実態調査の時間的制約等を考慮しても、かような調査方法を決定しこの方法による調査に基づいて本件基本名簿を調製した被告委員会の当局者にはこの点について過失があるというべきである(直接担当した安藤調査員に過失があるかどうかは証拠上明らかでない)。なお前出「基本選挙人名簿調製要領」(案)は、そこにいう「単独調査」の場合につき住民登録等を参照すべきことを明記しているのに反し「併合調査」の場合についてはこれを明記していないけれども、右併合調査とは住民登録の整備のために行う実態調査とあわせて選挙資格の調査を行うことをさすのであるから、住民登録との照合はむしろ当然の前提とされていると解すべきである(そのことは右調製要領3(2)の文面からも明らかである)。従って右調査要領はなんら前示判断の妨げとはならない。なお、次段に述べるように原告は公職選挙法二八条一項但書により本件各選挙に投票できたと考えられるが、そのことはさかのぼって本件基本名簿調製上の過失ないし違法性を解消せしめるものではなく、原告の損害との因果関係を中断するものでもないと解すべきである。
(三) 原告はまた、被告委員会が当時の公職選挙法二八条一項但書に基づいて原告の投票を認めなかったことが違法であると主張する。
当時の公職選挙法二八条一項は、「補充選挙人名簿は、基本選挙人名簿が効力を有する間、その効力を有する。但し基本選挙人名簿確定の日の前日に補充選挙人名簿に登録されていた者で次年の基本選挙人名簿に登録されることのできないものがあるときは、その者に関する部分については、なおその効力を有する。」と規定していたところ、その解釈について争があるから案ずるに、右但書にいう「登録されることのできないもの」が被告ら主張の「九月一六日以降一二月一九日までの間を調製期日として調製され、確定した補充選挙人名簿に登録されている者」を含むことは明らかであるが、さらに原告主張の場合、すなわち「九月一五日以前の日現在で調製された補充選挙人名簿に登録された者で、九月一五日現在で調製される基本選挙人名簿に登録されるべきところ登録もれとなった場合」もこれに含まれると解するのが相当である(同旨、原告援用の全選局長回答―甲第二号証―、中村・芦田著「公職選挙法逐条解説」―乙第一二号証―)。けだし、九月一四日以前現在の補充選挙人名簿に登録されていて当然基本選挙人名簿にも登録される資格を有しながら選挙管理委員会の調査上の手落ちその他の理由で登録もれとなった者を救済する必要性は、被告主張の場合にまさるとも劣るものでなく、かような場合にも前記但書を適用して投票の機会を認めることが憲法ならびに公職選挙法の本来の趣旨に合致するからである(また、かく解したとしても選挙の管理執行の支障になるとは到底考えられない)。本件についてみるに、原告は本件補充名簿に登録され、本件基本名簿にも登録されるべきところ登録もれとなったのであるから、まさに右但書に該当し、本件補充名簿は原告についてはなお効力があるものとして原告は本件各選挙に投票することができた筈である。しかるに原告本人尋問の結果によると、右選挙の前日原告がA、B各選挙に投票した事実を告げて本件各選挙にも投票できるのではないかとたずねたのに対し、被告委員会の担当職員らが如何ともし難い旨答え、その結果原告は投票を断念したものであることが認められるから、右職員らは前記法条の解釈を誤って原告の投票権を侵害したものといわなければならない。もっとも≪証拠省略≫によると、当時東京都選挙管理委員会ならびに被告委員会の内部では前記全選局長回答に反対の見解を抱き、むしろ被告らの主張する限定的解釈に左袒する説もあったことが窺われ、被告委員会の担当職員らの原告に対する態度も右の見解に出るものとは考えられないことはない。しかしこの点について被告らの主張と同旨の先例、実例あるいは学説があったわけでなく、都選管の見解も必ずしも固まっていなかったことは≪証拠省略≫から明らかであって、むしろ逆の見解をとる前記先例や学説が存在したのであるから、本件における被告委員会の態度としては、問題の性質上、当然右の先例により原告の投票を認めるべきであったと考えられる。従って被告委員会の担当職員ないし当局者にはこの点について職務執行上の過失があったものというべきである。
四、叙上の事実によれば、原告は被告市の機関である被告委員会の職員ないし当局者の公務遂行上の過失により違法に本件各選挙における投票を妨げられたのであるから、被告市は国家賠償法一条により原告の損害を賠償する義務がある。
ここで被告市の主張について検討する。
(一) 本件基本名簿が法定期間中適法に縦覧に供せられ、その期間中原告が異議の申出をしなかったことは争がなく、弁論の全趣旨によれば右名簿は有効に確定したものと認められる。被告市は、本件基本名簿に瑕疵があってもそれは右確定により治癒されたと主張するが、基本選挙人名簿の確定は、たとえ内容に過誤があっても名簿自体は無効とならず、これに基づいて有効に選挙を実施しうることを意味するにすぎないのであって、現実に選挙管理委員会の故意または過失により右名簿に登録もれとなった者が別途に損害の救済を求めることはなんら右確定によって妨げられるものでないと解するのが相当である。このことは一般の行政救済手段と国家賠償の関係におけると同様であり(最判昭和三六・四・二一民集一五巻八五〇頁参照)、これに反する被告市の主張は採用できない。
(二)(1) 被告市は、選挙権は公法上の一定の資格、公権でありその侵害は国家賠償法一条の要件に該当しないと主張する。
しかし国家賠償法一条は、広く公権力の行使にあたる公務員が故意・過失により違法に他人に損害を加えた場合の救済を認めたもので、必ずしも「権利侵害」を要件とせず、また侵害された権利ないし法益が私法上の権利、利益であることを要するものでもない。たしかに選挙権、被選挙権等の参政権は、被告市のいうように公法上の資格としての性格が強いけれども、例えば選挙人や候補者に威力を加えて選挙の自由を妨害した者は、刑事責任(公職選挙法二二五条)だけでなく私法上も参政権の行使を妨害された被害者に対し損害賠償責任を負担すべきことは当然であり、公務員が職務上右のような不法行為をしたときは国家賠償法が適用されることもなんら異とするにたりない。ただ選挙権の侵害はそれによっていかなる損害を生じたかの認定に困難な問題があるにすぎぬと解すべきである。
(2) 次に被告市は、選挙権は選挙人の精神的満足を内容とするものではなく、原告の主張する精神的損害は国家賠償法の保護法益にあたらないと主張する。しかしこれも同法一条にいう「損害」の認定の問題であって、選挙権の行使を妨害されたことによる精神的損害が常に同法の保護に値しないとはいえない。
(二)(3)、(4)および(三)の主張に対する当裁判所の判断は前述したところから明らかであるから省略する。
(四) 被告市は、本件基本名簿に原告が登録されなかったのは大沢昭子の誤った申述によるもので、因果関係の中断があると主張する。しかしかりに大沢昭子の申述が誤ったものであったとしても、その誤りに気付かなかったこと自体が調査方法の不備に基因するのであるから、被告市の行為と結果との因果関係が中断されるとは到底いうことができない。
(五) 被告市は、原告の本訴請求は権利の乱用であると主張するが、同被告主張のような事情を考慮しても、それだけでは本訴請求を権利の乱用といえず、他にも権利乱用を認めるだけの証拠はない。
結局被告市の主張はすべて理由がない。
五、そこで、原告のこうむった損害について検討する。
≪証拠省略≫によると、原告は特定の思想、信条を有するもので、政治には平素から高い関心を持ち、これまで選挙に棄権したことがなく、府中市に転入後も補充選挙人名簿に登録の申請をしてA、B各選挙に投票したこと、本件各選挙についても投票すべき候補者をかねて心に決めていたところ、前記事情で投票できなかったこと、当時のいきさつは、昭和四一年四月一〇日頃原告が同居していた大沢昊宛に本件各選挙の入場券が送付されてきたが原告にはその送付がなかったので、原告はその頃被告委員会に電話で問合わせたところ、「間もなく着くだろうからもう少し待ってほしい。」との返事であったが、選挙の前日たる四月一六日になっても届かないので同日午前中再び電話したところ、「調べてみる。」との返事で、午後二時頃原告がさらに電話すると、氏名不詳の被告委員会の職員某は、「申しわけないがあなたの名前は名簿から落ちている。」とはじめて登録もれの事実を明らかにし、続いて被告委員会の松村事務局長、その後鹿島委員(当時)らが電話で原告にわび、事情を説明し、高木委員長(当時)も「調査して返事する。気の毒だが方法がない。」旨電話したが、原告としては納得できなかったので、同日午後四時三〇分頃吉野市議とともに被告委員会事務局を訪れたところ、松村局長は「たびたび電話してもらって申しわけない。本来はこちらで出向いてあやまるべきだが選挙前日で多忙で行けない。こういう場合自分ならあきらめる。」という趣旨のことを述べ、被告委員会の手落ちではないかという質問には答えなかったこと、翌一七日施行の本件各選挙では当選者と次点者との得票数は相当開いていて、原告が誰に一票を投じようとその当選の結果には影響を与えるものではなかったこと、しかし原告としては一票の影響の有無が問題ではなく、登録もれの原因も調査せず責任を明らかにしない被告委員会の態度に対して事の是非を明らかにするため本訴の提起を決意したことをそれぞれ認めることができ(右事実中、原告が補充選挙人名簿に登録されて、A、B各選挙に投票したこと、本件各選挙に投票できなかったこと、昭和四一年四月一〇日頃原告に選挙の入場券が来なかったこと、同年四月一六日午後原告が吉野市議と共に被告委員会事務局を訪れたことは当事者間に争いがない)、右認定を動かすに足りる証拠はない。
以上の事実に徴すれば、原告が本件各選挙に投票できなかったことによりある程度の精神的苦痛を味わったであろうことが推認される。もっとも右の苦痛は主としていわゆる公憤の性質を有するものであるが、そこには原告の私的、個人的法益の侵害としての側面もまたある程度含まれていることは否定し難く、その損害算定が困難だからといってこれに対する賠償を否定する理由とはならぬと解すべきである。そこで、右に対する慰藉料は前記諸般の事実を考慮して五〇〇〇円を以て相当と考える。
従って、被告市に対する原告の請求は右の範囲で正当であるが、右を越える部分については失当として棄却を免れない。
六、最後に、被告委員会に対する訴について判断する。
原告は、被告委員会の担当職員らには民法上の不法行為責任があり、被告委員会は右職員らの使用者として民法七一五条の責任があると主張し、同被告に賠償義務の履行を求めている。
しかし、選挙管理委員会は、いわゆる行政委員会の一として一定の独立性を有しているにしても、本質的には地方公共団体におかれた一機関にすぎず、法人格を有するものではないから、これを被告として私法上の損害賠償義務の履行を求める訴は当事者能力を欠く者に対する訴として却下をまぬがれない(民事訴訟法四六条の要件にも該当しない)。
七、よって原告の被告市に対する請求については、損害金五、〇〇〇円及びこれに対する不法行為発生の後である昭和四一年四月一七日から完済に至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める限度において認容し、その余の請求を棄却し、被告委員会に対する訴は、これを却下することとし、民事訴訟法九二条、八九条を適用して主文のとおり判決する。なお、この判決中、原告勝訴部分に対する仮執行の宣言は、これを付さないのを相当と認め、この点に関する原告の申立はこれを却下することとする。
(裁判長裁判官 西岡徳寿 裁判官 楠本安雄 森脇勝)