東京地方裁判所八王子支部 昭和52年(ヨ)187号 決定 1977年7月20日
当事者目録
債権者の表示
昭和五二年(ヨ)第一一六号事件
田代節子
外一九二名
同第一八七号事件
田代節子
外六〇名
右債権者ら代理人
平賀睦夫
外二名
昭和五二年(ヨ)第一八七号事件債務者
国
右代表者法務大臣
福田一
右指定代理人
鎌田泰輝
外一二名
昭和五二年(ヨ)第一一六号事件債務者
株式会社 間組
右代表者
竹内季雄
右債務者代理人
山田賢次郎
外一名
同事件債務者
大成建設株式会社
右代表者
菅澤英夫
右債務者代理人
関根俊太郎
主文
債権者らの本件仮処分申請を却下する。
申請費用は債権者らの負担とする。
理由
第一債権者らの申請の趣旨及び理由
<省略>
第二債務者らの答弁並びに主張
<省略>
第三当裁判所の判断
一本案前の抗弁について
本件疎明資料によれば、本件仮処分申請の対象である仙川小金井分水路工事は一級河川多摩川水系に属する第二次支線流域の溢水対策のため、債務者国の機関としての東京都知事が河川法第八条に基づいて行う河川工事であることが疎明されているところ、このような河川工事は行政庁が公物である河川の管理権に基づいて行う事実行為であつて、当然には行政事件訴訟法第四四条の規定する行政庁の処分その他の公権力の行使には該当せず、右事実行為により違法に私権が侵害された場合には民訴法上の仮処分によつて右行為の差止を求めることも許されるものと解される。従つて右条文により、本件仮処分申請はその理由の当否を判断するまでもなく不適法であるとの債務者らの抗弁は、にわかに採用することができない。
もつとも、本件工事が極めて公益性の高い公共事業であることは治水工事としての性質上明らかであつて、このような公共事業の差止が公益に重大な影響を及ぼすことを考えれば、工事の差止を求める仮処分を認容するには、被保全権利に対する侵害が重大であり、侵害を阻止すべき高度の緊急性が存在することについて充分な疎明を必要とするものといわなければならない。
そこで、本件について右要件の疎明の有無について検討する。
二本件工事に使用される地盤凝固剤による地下水汚染の危険性について
当事者間に争いのない事実及び本件疎明資料を総合すれば、次の事実を応認めることができる。
(一) 債権者らは、いずれも小金井市在住の住民で、飲料水その他の生活用水として、小金井市営の上水道又は自家用の井戸水を利用している者である。
(二) 一級河川多摩川水系に属する第二次支線である仙川は、もともと河道幅員が狭く、河床の浅い河川であるうえ、小金井市の人口増加による市街化地域の拡大に伴い、雨水の不滲透域が増大したため、たびたび氾濫を繰り返すようになつた。そこで、東京都知事は昭和三三年度より仙川改良工事に着手したが本件工事は、右水害の軽減防止のための緊急水害対策として、出水時に右仙川の水を同水系に属する野川に毎秒二〇トンの割合で分水するために、起点を小金井市緑町二丁目七番地、終点を同市中町一丁目一番地とし、延長約一九八九メートルにわたり、別紙図面(イ)、(ロ)、(ハ)、(ニ)を結ぶ道路の地下平均一〇メートルの地点に、内径2.8メートル、外径3.55メートルの管渠施設を埋設して分水路を敷設するものである。
債務者国は、河川法第九条第二項に基づき、右両河川の管理を東京都知事に委任し、右都知事が、債務者国の機関として同法第八条により、本件工事を計画、実施し、債務者間組及び同大成建設は、右都知事から本件分水路工事区間を二分して請負い、債務者間組は、別紙図面第一立坑から×印第二坑まで(この区間の工事を「その一工事」と略称する)、同大成建設は同図面×印第二立坑から(イ)の地点まで(この区間の工事を「その二工事」と略称する)の分水路工事をそれぞれ担当している。
(三) 本件工事においてはシールド工法が採用されているが、シールド通過域における土質の大部分が武蔵野礫層と呼ばれる滞水層であるため、切羽面の崩壊、土砂の流入を防止するため、補助工法として薬液注入工法(以下薬注工法という)がとられているところ、建設省作成の「薬液注入工法による建設工事の施工に関する暫定指針」によれば、当分の間使用できる薬液を水ガラス系で劇物又は弗素化合物を含まないものに限ることとし、水ガラス系の凝固剤を使用する場合にも事前調査、水質監視等を義務づけ、水質検査の結果、P.H測定値が8.6を超えた場合(工事開始直前のP.H値が8.6を超えている場合は、その値をさらに超えた場合)には、工事を中止し、必要な措置を採らなければならないとし、東京都でも「東京都薬液注入工法暫定取扱指針」を定めて同様の規制を行なつており、本件工事においても右暫定指針に従い、地盤凝固剤として水ガラス系の凝固剤であるLW―1(その性質については後記のとおり)が使用され、他の薬剤は一切使用されていない。
(四) ところで、一般に薬注工法は土壌に含まれる水分を凝固剤で置換することによつて、土壌の性質を硬化させるものであり、その施工対象となる土壌は水分の多いものであることから薬液がそのまま地下水に混入して逸失する危険性があり、凝固剤が完全に反応せずに未反応物質が残存したり、一旦ゲル化しても、そのゲル化物質自体が地下水に再溶出する可能性もあるところ、本件地盤凝固剤が注入されている武蔵野礫層は、滞水層であつて、わずかではあるが、一定の速度で、地下水が移動していること、債権者らを含む付近住民の中には、この滞水層から汲み上げた井戸水(浅層地下水)を生活用水として使用している者も存すること、小金井市では深さ二〇〇ないし三〇〇メートル内外の深層地下水を深井戸によつて揚水して上水道源としているが、そのうち東京都浄水場へ導入する水源井の一つが、本件工事区域東側に近接して存在すること、右深層地下水と浅層地下水の間には不透水性ないし難透水性の砂質粘土層や、粘土層が多数存在するが、これらは一般に連続性に乏しく、連続しているとしても、深層地下水の大量揚水による水圧減少の程度いかんによつては、浅層地下水が不透水層を通して深層地下水に吸引される吸引現象が生ずること、本件薬注工事開始直後である昭和五〇年四月八日ころ、注入した凝固剤が反応せずに、付近の神山宇一郎方庭先に噴出したこと、昭和五一年一二月二一日、前記暫定指針及び取扱指針に従つて設置された観測井の一つ(G一三)に凝固剤が直接流入するという事故が発生したことなどの事実に徴すれば、本件工事において債務者らが使用している凝固剤(LW―1)の一部またはそのゲル化した生成物が地下水に溶出する可能性を否定することはできないので、右凝固剤の性質及び安全性ならびに薬注の施行方法等を検討し、本件凝固剤あるいは、そのゲル化物質による地下水汚染のために、直接右地下水を利用し、或いは上水道を通じてこれを使用している債権者ら住民の健康に悪影響を与える危険性がないかどうかについて考える必要がある。
(五) 水ガラス系凝固剤LW―1について
債務者らが、本件薬注工法において使用しているLW―1は、珪酸ナトリウム(主剤)を水に溶かしたもの(水ガラス)と普通ポルトランドセメント(助剤・硬化剤)を水に溶かしたものとを等量で混合することにより、通常混合後約九〇ないし一二〇秒でゲル化し、珪酸カルシウムと苛性ソーダを生成するものであるが、珪酸ナトリウムは毒物及び劇物取締法による毒物のいずれにも指定されておらず、その成分である珪酸及びナトリウムウムはいずれも、水道法及び同法に基づく省令において有毒物質、または許容量を越えた場合の有害物質にあたらないとされているだけでなく、水ガラスは浄水場で沈降剤として使用されている例もあり、本件薬注工事に使用されている珪酸ナトリウム三号はJIS規格に合致し、有害な重金属(カドミウム、水銀等)はほとんど含まれていないので、重金属による地下水汚染のおそれは考えられない。しかし、まつたく無害なものではなく、珪酸ナトリウムの毒性試験結果によれば、LD50(経口致死量)=一一〇〇ミリグラム・キログラムであつて(劇物のそれは三〇ミリグラムから三〇〇ミリグラムである)、直接摂取すれば非常に危険であり、また珪酸ナトリウムの水溶液である水ガラスは強アルカリ性で、直接触れると皮膚や粘膜の炎症を起し、原液を飲んだりすると嘔吐、下痢などの症状を呈するものであつて、薬液自体が健康に悪影響を及ぼすおそれのあろことは否定できない。また水ガラスとセメントの化学反応により生成する前記珪酸カルシウムと苛性ソーダのうち、前者は固体化して無害となるが、苛性ソーダは地下水に流入し地下水を強アルカリ化し、皮膚に炎症を起こすおそれが考えられる。
しかし、他面において、地盤中に注入された水ガラスの大部分が未反応として残ることは経験則上考えられないところであるうえ、未反応の水ガラス並びに生成された苛性ソーダが地下水中に溶出するとしても多量の地下水によつて人体に及ぼす影響は無視し得る程度に希釈される蓋然性が高く、従つて、LW―1の原液が人体に危険であること及び苛性ソーダの水溶液が強アルカリ性を呈することから直ちに本件工事が付近住民の健康に悪影響を及ぼすものと結論づけることは出来ないものといわざるを得ないのであつて、更に具体的に本件薬注工事によつて債権者らに現実の健康被害が発生しているか否か、または健康被害の発生する危険性が、客観的に存在するか否かについて検討しなければならない。
(六) 健康被害の発生について
債権者らは、凝固剤注入開始後債権者田代節子方及び林伸光方の家族にかゆみや発疹症状があらわれ、さらに田代仁は溶血性貧血に起因する脳症により死亡し、林伸光は右手前腕神経麻痺にかかつたが、これらはいずれも債務者らの凝固剤注入による地下水汚染のためであると主張するところ、債権者らの右主張に副う趣旨の疎明も存在するが、右疎明資料の内容をなす判断の根拠は明確ではなく、推測の域を出ないものといわざるを得ないのみならず、他方債務者らは、第二立坑周囲に四本の水質調査用観測井を設置し凝固剤注入終了後約六カ月間地下水のP.H値を測定したが異常は認められなかつたこと、凝固剤が井戸水に混入すれば、強アルカリ性を示すべきところ 昭和五〇年四、五月当時、田代宅の井戸水についての水質検査結果はいずれもP.H5.8〜6.9の微酸性であつたこと、最初に凝固剤を注入した第二立坑付近の地下水が、田代宅の方向へ流れたと仮定しても、その流速は一日に一〇ないし数十センチメートル程度であることからして、約四八〇メートル離れた田代宅へ汚染地下水が到達するには、流速を一日に五〇センチメートルとしても、約九六〇日要することになり、発疹症状のあらわれた昭和五一年六月及び溶血性貧血と診断された同年一〇月までに田代宅へ汚染地下水が到達することは考えられないところであり、右事実並びに無機質の薬剤により溶血性貧血を生じた症例がないことに照し、田代仁の症例とLW―1との間に関連性を見出すことができないとの医師阿部師の意見書は一応合理性を有するものと考えられ、これらの疎明資料と対比して、前記の債権者らの主張に副う疎明は必ずしも採用できず、他に田代仁の右死亡と凝固剤使用との間に因果関係があるとする疎明はない。また債権者林伸光方の家族に生じた発疹等の症状が凝固剤による地下水汚染が原因となつていることを認めるに足る疎明はない。
債権者らは、さらに現在茨城県牛久竜ケ崎両地区における常南流域下水道工事、横浜市大田川分路工事、長野県塩尻市の国鉄塩嶺トンネル工事において、付近住民に湿疹、かゆみ等本件債権者らと類似症状をもつ健康被害が発生していることからも、本件被害は、凝固剤の注入使用による旨の主張をするところ、右各工事の付近住民には、債権者主張の症状を示す者が見うけられることについては、一応の疎明が存するが、右疎明によれば、常南流域下水道工事で使用された凝固剤の成分は、水ガラス系のほか、相当量の尿素系凝固剤が使用されているので、本件事例と対比するのは適当とはいいがたく、他に二地区における被害については、右疎明によつても、いまだ原因が明らかではない。その他本件凝固剤の注入によつて債権者ら付近住民に現実に健康被害が発生していることを認めるに足る疎明はない。
(七) 健康被害の発生する客観的危険性について
1 債務者らは、本件工事区間を二一のブロツクに分け、各ブロツクごとにそれぞれ工事路線から左右二メートルないし一九メートルの地点に合計八三本の観測井を設置し、さらに付近の既設井戸一〇本も採水場所として利用し、P.H値、ナトリウム含有量、珪酸含有量等について毎週一回水質検査を実施している。都立衛生研究所が行なつた右検査結果によれば、凝固剤注入開始直後から、注入再開後である昭和五二年一月に至るまで、立坑を除く、観測井及び既設井のP.H値はほとんど微酸性を示し、昭和五一年一二月二一日の検体二三を除き暫定指針及び取扱指針の水質基準値であるP.H値8.6を越えたものはなく、またナトリウム及び珪酸含有量についても目立つた変化は見られず、凝固剤注入の影響は認められなかつた(右の検体二三は右同日P.H値11.5珪酸一四九ミリグラムバーリツター、ナトリウム一八〇ミリグラムバーリツターの高値を示したが、これは観測井G一三から採水したもので、その原因については後述する)。
債務者間組が請負つている「その一工事区間」においては、同債務者が梶谷調査工事株式会社に依頼して観測井の水質監視を行なつているが、注入開始後K二九の井戸にP.H値の上昇が見られたものの、その最高値は7.8で水質基準の8.6を下回るばかりか、約二週間で注入前の値に回復し、立坑を除くその他の観測井、既設井のP.H値については注入工事開始前と、開始後とでほとんど変化は見られず(G五三には昭和五二年一月二日ころからP.H値の上昇が見られるが、約二週間で回復している)、すべてP.H値8.6を下回る値であつた。
「その二工事区間」においても、債務者大成建設が、薬注工事開始前から定期的に当該区間の観測井のP.H値を測しており、この観測結果によれば、観測井G一三とG二五を除く観測井のP.H値は、凝固剤注入の前後によつて変化はほとんど見られず、すべて8.6を下回る値であり、注入再開後の水質検査結果についても凝固剤注入は見られなかつた。
ところでG一三の観測井は昭和五一年一二月二一日から同月二六日までP.H値が8.6を越える強アルカリ性を呈しているが、右G一三に隣接するG一二、一四の同期間のP.H値はいずれも6.1ないし6.7であつて全く影響はなく、G一三の観測井も水洗いをした一週間後には、微酸性を呈したことなどからすれば、右の高P.H値は、埋設物の関係で、二メートルしか離れていない右観測井の方向へ斜めに凝固剤注入がなされた結果、凝固剤が地盤の空隙を通つて直接右井戸に流入したという薬液注入作業の過誤によるものであつて、その影響は一時的であり、凝固剤による地下水汚染の結果を招いたものとは認められない。
更に、G二五の観測井については、昭和五一年九月の設置以来、現在に至るまで、水質基準のP.H値8.6を越える強アルカリ性を示しているが、同観測井は同月三〇日の完成直後から8.5という高P.H値を示していたこと(債務者らはこの時点から一年以上前に薬注工事を中止していた。)、都立衛生研究所に同年一二月一三日採水した検体の水質分析を依頼した結果によると、珪酸及びナトリウムの含有量は約五メートル離れた観測井G二六の値とほとんど変りがないこと、その二工事の薬注工事は昭和五一年一一月一五日から再開され、順次G二五の観測井のある方向へと進行したが、この注入再開地点とG二五の間には、観測井が合計二八個存在し、G二五の高P.H値が薬注工事の影響であるならば、G二五より先にこれらの観測井にも当然影響があるべきところ、前記のとおりG一三を除きみるべき影響はなかつたこと、債務者らは昭和五二年四月二五日にG二五とG二六の中間に、補助観測井としてH一三を設置して、水質検査を開始したが、そのP.H値も他の観測井同様微酸性を示し、凝固剤の影響は見られなかつたことなどの諸事実を考慮すれば、G二五が高P.H値を呈するに至つた明確な原因は現在に至るも究明されていないとはいうものの、G二五の観測井に限られる特殊な原因によるものであつて、凝固剤の影響ではないものと推測され、右推測を覆し、G二五の高P.H値の原因が本件凝固剤による地下水汚染にあることを認めるに足る疎明はない。
2 債務者らは、薬注工事施工区間の調査区域内(施工区間の両側三〇〇メートル)に存在する採水可能な六四本の井戸について薬注工事施工以前から薬注工事再開後まで四回にわたり、水質検査を実施したが、P.H値はほとんど微酸性を呈しており、凝固剤注入の影響はあらわれなかつた。その後も債務者らにおいて毎月一回追跡調査を続けているが、現在まで凝固剤の地下水流入を疑わしめるようなP.H値の異常は全く、あらわれていない。
3 本件薬注工事施行後の小金井市の水源井の水質検査結果によると、P.H値は7.1ないし8.27とかなり高いが、本件工事着工以前にもほぼ同じ程度の深井戸特有の高P.H値を示していたこと、本件工事現場に近接する第四水源のP.H値も他の水源のそれと変わりがないことからすれば、凝固剤の影響とは認められない(なお、右第四水源からの取水は昭和五一年一一月より停止して安全を期していることがうかがわれる)。
4 更に、凝固剤注入による未反応物質(珪酸ナトリウム)又は生成したゲル化物質(苛性ソーダ)が多少地下水に溶出しても、多量の地下水によつて希釈されることが十分考えられること、債務者らは現在も前記の観測井によつて水質の検査を続けており、検査結果が暫定指針及び取扱指針の水質基準に達しないときは、原因が究明されるまで、付近の井戸水の使用を禁じ、上水道による補完工事を行うなどの措置を講ずる用意をしていること、小金井市では定期的に上水道の水質検査を実施して水質保全に万全を期していること、本件工事においては、水質、土木についての学識経験者住民代表及び関係自治体等から構成される工事監視委員会が設けられ、地下水の水質、水位、工事方法等について常時監視を行なつていること、ちなみに債務者らは薬注工事再開にあたり、右委員会の承認を得、前記G二五の異状についても右委員会に逐一報告し、H一三の補助観測井も同委員会の提案で設置したものである。などの事実が疎明されており、以上の事実を総合すれば本件工事で地盤中に注入された凝固剤のうちゲル化しない珪酸ナトリウム、又は生成物である苛性ソーダの一部が地下水に溶出するという可能性を全く否定し去ることはできないが、その影響は極めて限られたものであつて、債権者ら付近住民の健康に被害を及ぼす程度の地下水汚染を生ずる蓋然性については、これを認めるに足る疎明がないものといわざるを得ない。
三地下水脈の分断並びに揚水による被害について
本件疎明資料によれば、およそ次の事実を一応認めることができる。
(一) 本件工事におけるシールド通過域である武蔵野礫層は、その深さが地下約一〇メートル以下二〇メートルにも及ぶ滞水層であるところ、管渠の深さは一〇ないし一五メートルその外径は3.55メートルであり、管渠の下部には凝固剤を注入しないから、管渠の規模及び位置関係からして、管渠が地下水を遮断して地下水流、水位等に影響を及ぼす危険性はないということができる 本件薬注工事によつて地下水脈の分断が生ずる旨の疎明は、前記疎明に照らし採用できない。他に本件工事により地下水脈の分断が生ずると認むべき疎明はない。
(二) 本件第一、第二立坑の堀削工事に伴う湧水を排除する必要から、債務者らが、本件工事開始時及び再開時に相当量の揚水を行ないその結果、立坑周辺の井戸のうちの一部に水位低下、白濁の被害をもたらしたものがあるが、後日いずれも復水していること、債務者国は右の被害を受けた井戸を使用している世帯に対し、上水道設備等の代替措置を講じていること、さらに第二立坑周辺の地下水への影響を少しでも緩和するために、債務者らは設計変更を行ない、本件管渠を地下平均一〇メートルに敷設することとし、立坑底部の改造工事を行なつたため、第二立坑の揚水をする必要もなくなり、今後の工事によつて井戸の枯渇、白濁等及び地盤地下をもたらすおそれはないことが一応認められる
他に揚水によつて、債権者らの主張する被害が発生し、または発生するおそれがあることを認めるに足る疎明はない。
四圧気工法による酸欠事故発生の危険について
本件工事においては 漏水及び出水防止のため、圧気工法が採られていることは当事者間に争いがなく、本件疎明資料によれば、右工法にあつては、施工区域が砂礫層で、含水量が少ないか、漏水が少ない場合で特に上部が不透水層で被われている場合には、その砂礫層に位置する井戸等に直接酸欠空気を吹き出すおそれがあるが、右酸欠状態が生ずるかどうかは空気の通過する地層が、酸化状態にあるか、還元状態にあるかによつて決まるところ 本件圧気工法を施行する砂礫層は、完全な酸化状態にあること、が一応認められ、右事実によれば、債権者らの主張する事故の発生する危険性はないものと考えられ、他に右危険性を認めるに足る疎明はない。
五債権者らは、更に本件工事の違法事由として行政手続上の瑕疵を主張するけれども、前記説示のとおり本件工事による債権者らの被保全権利に対する侵害または侵害のおそれについての疎明が認められない以上、債権者らの右主張自体本件仮処分申請を認容するに足る事由ということができない(然らずとすれば、いわゆる客観的訴訟を本案とする仮処分を認容することになるが、現行法上かかる仮処分は許されないところである。)ので、右主張についてはその内容の当否を判断する要をみない。
六以上のとおりであるから債権者らの本件仮処分申請は被保全権利の疎明がないことに帰し、又本件工事の性質上、疎明に代える保証を立てさせて仮処分を認めることも相当でない。
よつて主文のとおり決定する。
(後藤文彦 浜崎浩一 小磯武男)