大判例

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東京家庭裁判所 昭和41年(家)1166号 審判 1967年2月18日

申立人 松山孝一(仮名)

相手方 松山邦雄(仮名)

相手方法定代理人親権者母 松山治子(仮名)

主文

相手方が申立人の嫡出子であることを否認する。

理由

申立人は主文同旨の審判を求め、その理由としてつぎのとおり陳述した。

「申立人と佐藤治子は昭和三五年一〇月二六日婚姻しその届出をなした。

申立人の妻治子は昭和三九年七月二四日相手方を分娩した。申立人は同年八月五日相手方を申立人と妻治子の長男としてその出生の届出をなした。

しかるところ昭和四一年三月四日申立人は妻治子から、相手方は申立人の子でなく戸山秀二の子であることを打ち明けられた。申立人は翌日直ちに戸山秀二に面接し妻の告白の真偽を確めたところ戸山秀二は昭和三八年七月一五日以降しばしば申立人の妻治子と情を通じていたこと、及び相手方が自己の子であることを認めた。以上の次第で相手方は申立人の子でないのでその旨の審判を求める。」

昭和四一年一一月一日午前一〇時の本件調停委員会の調停において当事者間に、相手方が申立人の嫡出子たることを否認すべきことについて合意が成立し、且つその原因たる事実関係についても争がない。

筆頭者松山孝一(申立人)の戸籍謄本、当庁家庭裁判所調査官小林赫子の調査報告書及び申立人松山孝一(二回)相手方法定代理人松山治子の各審問の結果を綜合すれば、申立人と佐藤治子は昭和三五年一〇月二六日の届出によつて婚姻し東京都において世帯を構え同居し(尤も申立人の勤務の都合で申立人だけが他に住込んだこともあるがその間も夫婦関係は続いていた)ていたところ、申立人の妻治子は昭和三九年七月二四日相手方を分娩し、申立人はこれに邦雄と命名し同年八月五日申立人と妻治子の長男として出生の届出をなし、その旨同月一二日戸籍に記載された事実を認めることができる。しからば相手方は申立人の妻が申立人との婚姻中に懐胎した子で申立人の子と推定される。ところで筆頭者戸山秀二の戸籍謄本、前記報告書及び申立人(二回)、相手方法定代理人松山治子の各審問の結果によれば申立人の妻治子は昭和三八年七月一五日から同年一〇月までの間に戸山秀二(明治三六年四月三日生)と一〇数回に亘つて情交関係を結んでおり、申立人の妻治子が相手方を懐胎したと認められる同年一〇月には申立人の妻治子は申立人及び戸山秀二の両名と性交渉を持つていた事実を認めることができるので相手方が申立人の子でなく戸山秀二の子であることも考えられるところ、申立人と相手方の間の親子関係存否の可能性に関する鑑定人平瀬文子の鑑定の結果によれば、申立人、相手方、相手方代理人松山治子、戸山秀二の各種血液型の検査によって相手方が申立人又は戸山秀二の子であることを否定する結果は現れず血液型の上からは相手方は申立人又は戸山秀二のいずれの子であることも可能であるが、他方各種血液型の組合せによる親子であり得る確率を検討するとき、相手方が申立人の子である確率は八四・〇%であるが戸山秀二の子である確率は九八・〇%であること、又指紋と掌紋の検査による相似性は申立人と相手方の相似性よりも戸山秀二と相手方の相似性の方が大きいこと、更に又戸山秀二と相手方は耳、鼻の人類学的比較においてその相似性が顕著であることを認めることができる。従つて同鑑定人が鑑定の結論として相手方の父は申立人ではなく戸山秀二であると推定する旨述べているところはこれを正当として是認することができ、相手方は申立人の子でないと認めるのが相当である。

ところで嫡出子否認の訴(申立)は夫が子の出生を知つた時から一年以内に提起しなければならないが本件申立がその点において適法であるかどうかについて考察する。申立人(二回)、相手方代理人松山治子の各審問の結果、前記報告書によればつぎの各事実を認めることができる。

申立人は元来洋服の仕立職人であつたが妻治子と婚姻した機会に転職し戸山秀二の経営する工場に夫婦共働きで勤務した。その後昭和三八年三月ごろ申立人は健康がすぐれず工場勤めは辛いということで青山の川崎洋服店に仕立職人として住込み、妻治子だけひきつづき申立人の実家から戸山秀二の工場に勤めていた。妻治子は申立人と別居して夫の実家に身を寄せていたわけであるがいろいろ居辛い思いをするので同年五月ごろアパートの一室に移つた。申立人は同年一二月ごろ妻治子から妊娠したことを告げられ、夫婦と子供の新家庭を建設すべく出産と育児にそなえて翌昭和三九年二月から新居を構えて妻治子と同居するに至つた。かくて妻治子は同年七月二四日相手方を分娩したがそのための入院、退院の世話は一切申立人がした。そしてその後は申立人は妻治子、相手方とともに無事平穏にすごし相手方を長男として格別可愛がつていた。一方妻治子としては妊娠した当時からおなかの子供は戸山秀二の子に違いないと思つていたが相手方が生長するにつれてだんだん戸山秀二に似て来るように思われ良心の呵責にたえられなくなつたが申立人に打ち明ければ申立人を苦しめるだけだと思い、いつそのこと申立人と別れてしまつた方がよいと考えて昭和四一年のはじめごろ申立人に別れ話を持ち出した。申立人は子供もできたのだからこれから一生懸命やろうと言つて別れ話には取り合わなかつたが同年二月末些細なことで夫婦喧嘩をした挙句双方から別れるという話がでて妻治子は茨城県の叔母のもとに相談に行くと言つて出掛け、翌三月五日に申立人のもとに帰つて来た。そしてその日いろいろ夫婦の間で話合をし申立人は「長い間夫婦で一緒にいればいろいろのことがある。自分は前に離婚して母のいない子をつくつてしまつた。同じことを二度繰りかえしたくない」と言つて離婚を思いとどまるように妻を説得したところ、妻はついに包み切れず離婚したい本当の理由として子供が申立人の子でなく戸山秀二の子であることを告げた。申立人はことの意外に驚き翌日ただちに戸山秀二に対し事の真偽をただしたところすべて妻治子のいう通りであることを知らされた。妻治子はすべてを告白してしまつた以上申立人のもとにはいられないと考え同月一一日相手方を連れて申立人のもとを去り他のアパートに移つた。申立人はいろいろ考えた末相手方が申立人の嫡出子であることを否認することに決心し同月一四日本件の申立をした。以上の各事実を認めることができる。そして又本件に関連する申立人と妻治子の間の夫婦関係調整事件(当庁昭和四一年家イ第三四一五号)の記録によれば申立人は本件調停の過程において相手方の父が申立人であるか、将又戸山秀二であるかについての専門的鑑定を求めそれによつて相手方の父が戸山秀二であることが明らかになれば妻治子とも離婚したいと考えていたところ本件鑑定の結果が前記の如きものであることを知つて同年一二月二日妻治子と当家庭裁判所の調停において調停離婚をしたことを認めることができる。さて、これらの事実によれば申立人は相手方の出生したことをその出生の日(昭和三九年七月二四日)に知つたものであるから本件申立はそれから一年を経過した後になされていること明らかであり不適法であるように思われる。しかしながら当裁判所はこれから説明する理由によつて本件申立は適法なものと認める。その理由をつぎに述べることとする。嫡出子否認の訴は夫が子の出生を知つたときから一年以内に提起しなければならない旨を定めた民法第七七七条は明治三一年に制定された民法親族編にある規定が昭和二二年の民法改正(総則編の一部と親族編、相続編の全面改正)の際もそのまま存置された規定でありいはば明治三一年から現在に至るまで変つていない規定である。そしてその解釈としては、文字どおり、夫が子の出生という事実を知つたときからの意味に解すべく、それ以上に子が自己の子でないこと又は何故自己の子でないかの理由となるべき事実などについてはこれを知ることを要しないと解されている。この解釈は昭和二二年の前記民法改正の前と後とで変つていない。この解釈によれば夫が妻の分娩した子を自己の子と信じて(他面から言えば妻が夫以外の者の子を分娩した事を知らないで)一年を経過すればその後に子が自己の子でないことを知つても最早や否認することはできないことになるのであるが、そのことについては現在まで多くの学者実務家によつてその不都合が指摘され法改正の機会に立法的に解決することが要請されている。しかしながら立法的解決をまたなくてもなお法解釈による解決があるように思われる。民法起草者の一人である梅謙次郎博士はその著民法要義巻四のなかで本条文(旧民法第八二五条)を解説して、「蓋シ自己ノ子ニ非ル者ヲ子ト認メサルコトヲ得サルカ如キハ人情ノ最モ忍ヒサル所ナル故ニ尚モ其事実ヲ知ル以上ハ之ニ対シテ直チニ抗議ヲ為スヘキハ当然ト謂ハサルヲ得ス然ルニ一年以上之ヲ放棄スルカ如キハ是レ既ニ其子タルコトヲ承認シタルモノト謂フヘシ故ニ復否認ノ訴ヲ提起スルコトヲ許ササルナリ」と述べており、又明治二九年一月二一日開催の法典調査会においても一年の提訴期間は子の嫡出性に疑問を抱く夫が種々事実を調査するなどして否認の訴を提起すべきか否かにつき熟慮すべきための期間である旨簡明直載に説明している。梅博士の説くが如き意味の規定であるならば「夫カ子ノ出生ヲ知ツタトキカラ………」というのではなく「夫カ否認ノ原因タル事実ヲ知ツタトキカラ………」と規定すべきことであることになるのであろうが、更に憶測すれば民法の起草者は、妻の分娩した子が夫の子でない場合においては夫たる者はその事を知つているか少くとも疑を抱く筈であるから、規定としては「………子ノ出生ヲ知ツタトキカラ………」とすることで十分であると考えていたのではあるまいか。このことは、旧民法においては妻は無能力者であつて一定の法律行為をするのに夫の許可が必要とされ勤めに出るということも身体に覊絆を受くべき契約を為すことであつて夫の許可を得なければならなかつたし、又夫婦同居の義務についても旧民法は妻について「妻ハ夫ト同居スル義務ヲ負フ」と定め、夫については「夫ハ妻ヲシテ同居ヲ為サシムルコトヲ要ス」と規定し、夫婦を現在のように基本的に平等であると考えておらず、いはば妻は夫婦生活において夫の監視のもとにあるものと考えられていたと解されることからも十分首肯し得ることではなかろうか。要するに民法第七七七条の規定はそれが最初に制定された当時(明治三一年)における民法の他の規定との関連において理解すべく、しかるときは「夫が子の出生を知つたとき………」の意味は夫が否認すべき子の出生を知つたときの意味であると解するのが正しい解釈であると考える。尤も現行の民法においては夫婦は基本的に平等であり、夫婦生活において妻は夫の監視下にあるものではないから妻の生んだ子が夫の子であるか否かを夫は当然知つていると期待されることはないであろう。従つて現行の民法第七七七条の解釈としては前述のような解釈はできないということになるかも知れない。昭和二二年の民法改正の際本条は当然「夫が否認の原因たる事実を知つたときから………」と改められるべきであつたと思われ、それをなさずに従来どおりの条文として残したときからその条文の意味するところはその文字どおり夫が子の出生という事実を知つたときからであつてそれ以上の意味を持たないことにかわつたということになるのであつて現行法の解釈としては前述のような解釈は許されないという反論がなされそうである。しかしながら昭和二二年の民法改正の際本条文をそのままの文言で残したとき立法者が夫の否認権行使を単に厳しく制限する意図を有していたとは思えない(これまでの民法親族編の改正の動向にかんがみて)のであつてあらゆる意味において従来どおりにしておくというだけのことであつたろうと思われる。従来どおりということであれば明治三一年の民法制定のときの立法趣旨にかんがみて現在もやはり本条文を「夫が否認すべき子の出生を知つたときから………」と文言を補充して解するのが相当である。

以上説明した如く本件申立は適法な申立であるとともにその内容において理由があると解されるので、調停委員正岡好太郎、同村和子の意見を聴いた上これを認容することとし主文のとおり決定する。

(家事審判官 中田早苗)

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