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東京家庭裁判所 昭和47年(家)12651号 審判 1975年1月31日

申立人 杉田千賀子(仮名) 外一名

相手方 渡部敏昭(仮名)

主文

相手方は申立人杉田千賀子に対し金一五〇万円およびこれに対する昭和四七年一月二六日から支払ずみまで年五分の割合による金員の支払いをせよ。

相手方は申立人八重子に対し金五八万二九四〇円およびこれに対する昭和四八年四月一日から支払ずみまで年五分の割合による金員の支払いをせよ。

理由

申立代理人は「相手方は申立人千賀子に対し財産分与として金二八〇万円、申立人八重子に対し扶養料として金九〇万円を、それぞれ支払え。」との審判を求め、申立の実情として次のとおり陳述した。

一  申立人千賀子と相手方とは昭和二九年六月二一日婚姻し、同年一〇月二〇日長女である申立人八重子をもうけた。相手方は結婚以来タクシー運転手を職とし、昭和四五年ころ個人タクシーの免許を得て独立開業、申立人千賀子は内職として自宅で編物の教室を営んできた。しかし相手方の勤労意欲の欠如から、夫婦間で事ごとに意見が対立するに至り、長女八重子も成人に近くなつたので、昭和四六年八月二〇日ころ申立人千賀子は相手方と別居し、同年一〇月ころ長女八重子を引き取つた。そして、相手方が申立入千賀子に慰藉料として後記の定期預金一〇〇万円を交付することを約して離婚の合意が成立し、昭和四七年一月二三日長女八重子の親権者を母である申立人千賀子と定めて協議離婚した。

二  申立人千賀子と相手方との婚姻中、申立人千賀子の内職による収入は相手方名義で一〇〇万円の定期預金にしてあったところ、相手方はこれを担保にして銀行から三四〇万円を借り入れ、現在相手方の居住している家屋を建築した(ただし右家屋の登記名義は相手方の亡父耕一郎、相手方の弟正男および相手方各三分の一の持分による共有となつている)。また相手方が個人タクシーを開業する際に購入した自動車一台の代金一二〇万円は申立人千賀子の協力により月賦完済した。相手方には以上のとおり資産合計五六〇万円があるが、家屋建築の借入金残約二〇〇万円があるので、差し引き積極財産約三六〇万円である。よつて相手方は申立人千賀子に対し離婚に伴う慰藉料一〇〇万円を含め財産分与として金二八〇万円を支払うべきである。

三  申立人千賀子は編物の教授をして細々と生活し、長女八重子を監護養育しているが、養育費、教育費として最低一か月五万円必要である。相手方は昭和四七年六月三日川村美津子と婚姻し、相手方の母と三人で暮しているが、まじめに働けば月収二〇万円を下らない。よつて相手方は申立人八重子に対し扶養料として昭和四六年一一月から同人が成人に達した昭和四九年一〇月まで所要額の半額一か月二万五〇〇〇円の割合で合計九〇万円を支払うべきである。

相手方はこれに対し、次のとおり陳述した。

一  相手方が申立人千賀子と協議離婚するに際し、慰藉料として定期預金一〇〇万円を交付すると約したことはない。申立人千賀子は右の協議離婚に際し、慰籍料その他金銭的請求はしないが、長女八重子の養育費だけは見てくれと言つたので、相手方も了承し、後日その額を取り決めることとしたものである。

二  相手方名義の定期預金一〇〇万円は相手方の永年の積立をまとめてできたものである。相手方は右の預金を担保として光信用金庫から三四〇万円を借り入れたが、そのうち四〇万円は申立人千賀子がスナックを開業するための資金に充てた申立人千賀子は虚栄心が強く、生活が派手であり、スナックの開業を計画したりして相手方の収入以上に浪費を続け、その結果、離婚に立ち至つたものであるから、慰藉料または財産分与の請求は失当である。しかし相手方は申立人八重子に対しては然るべき扶養料支払の用意がある。

(本件の事実関係)

甲第一、第二号証(各戸籍謄本)によれば、申立人千賀子と相手方とは昭和二九年六月二一日婚姻し、昭和二九年一〇月二〇日長女である申立人八重子が出生したこと、昭和四七年一月二五日申立人千賀子と相手方とは長女八重子の親権者を母である申立人千賀子と定めて協議離婚したこと、が認められる。

そして甲第三号証(建物登記簿謄本)、乙第一号証(申立人千賀子の置手紙)、乙第二号証(根本義一の証明書昭和四八年二月八日付)、甲第四号証(前同証明書昭和四八年二月二一日付)、乙第三号証の一、二(大久保運送店ほかの領収書)、後掲乙第六号証の一、二、同乙第七号証、後掲各調停事件記録および右事件における家庭裁判所調査官の調査報告書、申立人千賀子および相手方各審問の結果を総合すると、以下の事実を認めることができる。

相手方は昭和二八年からタクシーの運転手となり、勤め先のタクシー会社の経理事務員をしていた申立人千賀子と知り合い、同年一二月結婚式を挙げ、足立区○○のアパートで同居した。当時申立人千賀子は一八歳、相手方は二四歳であつた。前記のとおり昭和二九年六月二一日婚姻の届出をし、同年一〇月二〇日長女八重子が出生した。その間、数回にわたり都内や蕨市などに転居したのち昭和三三年に武蔵野市境の日本住宅公団賃貸住宅に当選してこれに入居した。申立人千賀子は編物学院に通つて編物の賃仕事をしながら編物教師の資格をとり、団地の集会所で編物教室を開いて収入を得る程になつた。相手方は右公団住宅に入居してから中央区○○のハイヤー会社の運転手となつた。そのころ、相手方の月給は三万円余であつたが、公団住宅の家賃五七〇〇円を払うと家計は楽でなかつたのである。

相手方は父渡辺耕一郎、母米子の長男であり、耕一郎は足立区○○○○町○○番地に家屋を所有していた、右家屋は古くから住んでいた借家を耕一郎が戦後に買い取つたもので、敷地は借地である。右家屋は平屋建で五坪の店舗と六畳の居室があり、母米子は店舗で茶の小売商を営んでいた。父耕一郎は肺結核のため、相手方夫婦が公団住宅に居住しているころ埼玉県の日赤病院に約半年入院して手術を受け、小康を得て退院した。

ところが、そのころ相手方の弟忠夫(耕一郎、米子の二男)が、美容師の資格を有するその妻に美容院を経営させる計画で前記家屋を改築し、父母と同居することになり、昭和三八年秋ころ改築費一六〇万円くらいを耕一郎と忠夫とが負担して右建物の店舗部分のみを残し、その余を二階建に改築して忠夫夫婦がこれに入居した。しかし父母と忠夫夫婦の同居生活はうまく行かず、忠夫夫婦の離婚問題にまで発展し、昭和三九年初めころ忠夫夫婦は右建物を出て父母と別居するに至つた。そこで結局、長男である相手方夫婦がこの家に戻り、父母と同居することになり、公団住宅退去の手続をして同年三月に引越しをする手筈にしていたところ、そのころ相手方の末弟正男(耕一郎、米子の四男)夫婦が台東区○○の養家先から離縁してこの家に戻り、店舗部分で製靴業を始めた。相手方夫婦も、既に公団住宅退去の手続をとつたあとのことであつたから、同年三月、予定どおりこの建物に引越してきて、一階の六畳に正男夫婦が、もう一つの六畳に父母が、二階に相手方夫婦が居住し、三組の夫婦が同居することになつた。同年四月長女八重子は小学校四年生となつた。申立人千賀子は右建物の二階に編物機械を置いて編物教室を続けた。前記建物の増改築費用のうち忠夫の負担したものは正男と相手方とが肩替りし、父耕一郎を交えた三者間で精算のうえ三分の一ずつの負担と定め、昭和三九年六月二五日右増改築後の建物につき耕一郎、相手方、正男が各持分三分の一による所有権保存登記を受けた。当時の右建物の表示は、家屋番号四一番の二八、木造瓦葺二階建居宅、床面積一階一二坪、二階一〇坪二五である。その際、相手方の負担した金員は従来の貯金の中から支出した。

かくて三組の夫婦の同居生活が暫く続いたが、結局折合いが悪くなり、約半年後の昭和三九年秋、相手方夫婦は右建物を出て足立区○○○○町に借家してこれに移った。家賃は月二万五〇〇〇円であつた。その際、正男は前記増改築につき相手方の負担した金員に相当する金額を相手方に支払つた。しかし、その後、更に半年を経過した昭和四〇年春ころ、正男夫婦も父母との同居に耐えず、右建物を出て父母と別居するに至つたので、昭和四一年春から相手方夫婦が再び右建物に戻り父母と同居することになつた。昭和四二年四月長女八重子は○○音楽大学附属中学校(豊島区○○)に入学した。そして相手方は正男の負担した増改築費を同人に償還し、昭和四二年七月五日右建物の正男の共有持分を相手方に移転する登記手続に及んだが、錯誤により相手方の持分を耕一郎および正男に移転する登記がなされてしまつた。そこで昭和四四年五月一〇日、正男の持分全部を相手方に移転する旨の登記を経て、実質上の更正登記の目的を達した。

相手方は前記○○○○町の借家に転居したころから自分たちの家を建てる資金を作ろうとして○信用金庫の月掛定期積金を始めた。この金が一〇〇万円に達したので、同金庫に一〇〇万円の継続定期預金を作り、これを担保として昭和四四年七月二九日同金庫から金三〇〇万円を借り入れた。担保としては、なお前記建物に債権額三〇〇万円の抵当権を設定した。右借入れは、通称「○○○住宅ローン」で元利均等月額四万一二六六円五年返済(年利九・八五五パーセント)である。

そして相手方は右借入金をもつて前記家屋の増改築に着手し右店舗部分の上に二階部分一〇畳の部屋を、六畳の上に二階部分六畳の部屋を増築し、昭和四四年七月完成、前記建物の表示は木造瓦葺二階建店舗居宅、床面積一階五八・六七平方メートル、二階五一・四三平方メートルとなつた。住宅ローンによる借入金三〇〇万円は右増改築費のほか、長女八重子のベッドその他家具等の購入に全額支出した。

昭和四四年七月相手方は個人タクシーの認可を得てタクシー車両を月賦で購入し、個人タクシーを開業した。申立人千賀子は月曜日から土曜日まで午後六時から午後九時まで、月、水、金曜日は午前一〇時から午後三時まで、自宅で編物教室を開いて編物の教授をするほか出張教授やデパートの下請までして働き、○○○○ミシンの代理店を兼ね、月一五万円くらいの収入を得るほか、夫のタクシー業の帳面づけ、自動車の洗車までしたが、相手方は妻が外で働くため家事がおろそかになり、老齢の父母の面倒をみないとして不満をもらすようになつた。相手方は個人タクシーの仕事に精を入れず、自家用車を買い入れてゴルフに行つたりして休むことが多かつたので、家計費や前記住宅ローンの返済は申立人千賀子の収入の相当額をこれに振り向けていたが、昭和四六年七月タクシー車両の月賦も終つたので、申立人千賀子は相手方に対し家計費および住宅ローンの返済に協力してくれるよう申し入れたが、相手方が積極的にこれに応じなかつたため、夫婦の間に漸次対立を生ずるようになつた。

昭和四五年四月長女八重子は○○音楽大学附属高校ピアノ科に進学しでいた。その入学金や授業料のほかピアノの個人レッスンの月謝二万五〇〇〇円が必要であつた。もともと、相手方は長女八重子にピアノをやらせることに積極的に賛成したわけではなく、このことも夫婦の不和の原因であつた。そのころ長女八重子が右学校の近くに喫茶店の売物(権利金一五〇万円、賃料月六万円)があるのを見付けてきて申立人千賀子に話したので、申立人千賀子は学校の父兄会の帰りにこれを見に行き、友人と共同でこれを経営することを考え、昭和四六年二月、相手方とも相談のうえ、○信用金庫に三か年満期五〇万円の定期積金を相手方の名義で作り、これを担保として金五〇万円を借り入れ、前記喫茶店の建物の所有者に手付金一〇万円を共同経営者になろうとする友人と五万円ずつの負担で支払つたほか、コーヒーセット等の什器若干を購入したが、結局、諸般の事情から喫茶店の経営には不安を感じてこれを取り止めることとし手付金を放棄して前記契約を合意解約した。このことが相手方と申立人千賀子の間のみぞを深めることになつたが、前記○信用金庫からの借入金五〇万円のうち三〇万円は同金庫に一旦返済し、更に同年七月二二日前記定期積金を担保として同金庫から二〇万円を借り入れ、これらの借入金をもつて前記建物の木製物干を鉄製に取り替え、便所を水洗に改築した。右定期積金の掛金は引き続き家計の中から捻出している。

昭和四六年八月下旬の日曜日、申立人千賀子は相手方と口論のあげく相手方のもとを出るに至つた。争いの模様がただならぬところから、相手方の母米子が申立人千賀子の実家の父母を呼びに行き、実家の父母が来て仲裁した結果、暫く冷却期間を置くということで申立人は長女八重子を相手方のもとに残し、足立区内の実家に戻つたのである。そして同年八月二七日足立区○○○○町○○番地のアパート○○荘の一室を借りる契約をして、同年九月六日これに入居し、右アパートで編物教室を再開したほか、午前六時から正午までは○○魚市場の経理係の仕事をして現在までその経理係の仕事は続けている。長女八重子は同年一〇月から申立人千賀子のもとへ来て同居し、昭和四八年三月前記高校を卒業して○○○商事株式会社に勤めるようになつた。申立人らは昭和四八年八月肩書住所の借家に移つた。

昭和四六年九月一〇日相手方は東京家庭裁判所に千賀子との離婚を求める趣旨の夫婦関係調整調停の申立をした(同庁昭和四六年(家イ)第五五八九号事件)。そのころ相手方の父耕一郎が死亡し、申立人千賀子は葬儀の手伝いに相手方宅に赴いたが、相手方との和合には至らなかつた。右調停事件は家庭裁判所調査官の事前調査を経たうえ、同年一二月二日調停委員会による第一回の調停期日が開かれた。右調停期日には和合の方向で話合いが行われ、第二回調停期日を昭和四七年一月二六日と定められたが、昭和四七年一月一〇日右事件の申立人である相手方敏昭は、「円満解決」として申立を取下げ、事件は終了した。その間、同年一月四日千賀子と相手方とは相手方宅において千賀子の父母を交えて話し合つたが、結局協議離婚することになり、千賀子において協議離婚届書に所要事項を記入し長女八重子に託して相手方のもとに持参させ、相手方がこれを完成して昭和四七年一月二五日東京都足立区長に提出した。右協議離婚の話合いでは、前記一〇〇万円の定期預金は○信用金庫へのローンの返済が終り担保が解除されたら相手方はこれを長女八重子の養育費の意味で申立人に渡すと述べていたが、申立人はこれを即時引き渡してくれるものと考えていたようである。

そして昭和四七年三月二一日千賀子は東京家庭裁判所に相手方に対する慰藉料請求の調停申立をした(同庁昭和四七年(家イ)第一七二五号事件)、右事件については同年四月三日を第一回とし、同年一〇月二七日まで七回にわたり調停委員会の調停が行われたが、申立人千賀子は相手方との協議離婚に際し相手方は一〇〇万円の慰藉料を支払う約束をしたと主張するのに対し、相手方はそのような約束をしたことはないと主張し、長女の嫁入仕度は出してやつてよいが、それは五年後に借金の支払いが済んでからのことである、長女の養育費一か月一万円のほか、高等学校の授業料は負担してもよいというのみで話合いは進展せず、しかも相手方は右七回の調停期日のうち三回出頭したのみであつたから、昭和四七年一〇月二七日の調停期日に、合意成立の見込みがないものとして右調停は不成立になり終了した。なお、昭和四七年四月中に申立人千賀子は、相手方の要求により、運送業者に依頼して相手方宅から自己の衣類や道具類を引き取つた。右調停係属中の昭和四七年一〇月一二日当庁家庭裁判所調査官矢野博子は相手方宅において相手方と面接し、出頭勧告と事実調査を行つたが、相手方の陳述によると、当時相手方は個人タクシーを営業し、月額粗収入二〇万円、経費は協会費一万一〇〇〇円、燃料費一万七〇〇〇円、無線機装備返還金一万円、計三万八〇〇〇円の恒常的経費のほか、自動車修理費月平均一万五〇〇〇円を必要とし、更に○信用金庫からの借入金の返済月五万七〇〇〇円の支出がある、同居中の母は茶小売商をしているが、老人のひまつぶしという程度で収入としては自分の食費程度である。生活に余裕はなく、自動車買替えのための積立もできず、千賀子に対する一〇〇万円の慰藉料支払の能力はない、というのである。

更に同調査官が同年一〇月六日○信用金庫足立支店について調査したところによると、相手方の同支店への預金は、昭和四四年に契約された金額一〇〇万円のリレー定期預金があり、貸付金の担保とされていること、これと別に昭和四六年二月一七日契約の金額五〇万円の定期積金があり、これは現在二三万八五〇〇円積立てられていること、普通預金(貸付融資利息自動振替)の同年一〇月九日付元帳残高は三万一〇五七円であること、相手方への貸付は昭和四四年七月二九日住宅貸付三〇〇万円、残高二二六万一五〇九円、昭和四六年二月一七日貸付五〇万円、残高二〇万円、昭和四六年七月二二日貸付二〇万円、未返済(積立金担保)であること、がそれぞれ認められる。

乙第七号証(○信用金庫の証書貸付元帳○○○住宅ローンー-写し)によると、○信用金庫の相手方に対する三〇〇万円の住宅貸付は償還完了期間昭和五一年八月二七日、償還額四万一二六六円であり、昭和四九年三月二日の残高一八二万八八八六円であることが認められ、乙六号証の一(○信用金庫と相手方との間の昭和四六年二月一七日付金銭消費貸借契約証書)によると、前記昭和四六年二月一七日貸付五〇万円は使途設備資金、定期積金五〇万円満期額五〇万円満期日昭和四九年二月一七日を質権の目的とし、その満期をもつて弁済に充当するものとされていること、乙六号証の二(○信用金庫と相手方との間の昭和四六年七月二二日付金銭消費貸借契約証書)によると、昭和四六年七月二二日貸付二〇万円も前同定期積金に同様の趣旨の質権を設定されていることが認められる。

更に前掲甲第三号証によると、相手方の居住する前掲建物は相手方の父耕一郎二分の一、相手方二分の一の各共有持分による登記がなされていたところ、昭和四七年七月七日受付をもつて昭和四六年一〇月二一日相続を原因とし耕一郎の共有持分につき相手方の母としへの移転登記がなされていることが認められる。

(当裁判所の判断)

前段認定の事実によると、申立人千賀子と相手方とが昭和三九年秋、足立区○○○○町の借家に移つたころ始めた○信用金庫の月掛定期積金が昭和四四年までの間に一〇〇万円に達したのは、相手方がタクシーまたはハイヤー会社の運転手として働いて得た収人と、申立人千賀子の編物教室その他の収人の総計のうちから積み立てられたものというべきである。夫婦は互いに協力扶助すべきものであつて、申立人千賀子と相手方との協力によつて維持された家計のうちから前認定の事情のもとに生み出された預金は、たとえ夫である相手方の名義でなされたものであつても、その実質は夫婦の共有に当るといわなければならない。しかもその間に相手方の父耕一郎所有家屋の第一次増改築に要した費用の三分の一、約六〇万円を捻出することができたのも夫婦の協力によるものである。

更に右定期預金を担保として○信用金庫から借り入れた住宅ローンにより前記建物の第二次増改築をなし、一部は家具什器等の購入に支出したとしても、右建物にはそれだけの価値が付加されたのである。現在右家屋が相手方と相手方の母米子の共有であるとしても、その価値の半ばは相手方に帰属することになる。

そして右住宅ローン三〇〇万円は申立人千賀子と相手方との協議離婚が成立した昭和四七年一月二五日までに元金につき約五〇万円が返済されているし(前記乙第七号証によつて認めうる)、昭和四六年二月一七日契約の定期積金も右協議離婚のときまでに一〇万円に達したものと推認してよい。また申立人千賀子が昭和四六年二月ころ喫茶店経営を計画して結局これを中止し、六~七万円の損失を蒙つたことも、喫茶店経営の計画自体は相手方も承知していたことであるし、婚姻中に夫婦の一方が家計の維持を考えてしたことが失敗に終り、これによつて若干の損失を生じたとしても、これを将来の離婚の際の財産分与額から控除すべきものとする理由はない。

本件離婚の原因については、いずれの側により大なる有責性を求めるべきかは困難であり、結局、双方の性格不一致による破綻というべきであるが、申立人千賀子の積極的な勤労努力に対し、相手方がこれに応じて意欲を燃やさなかつたことに主因があると考えざるをえない。そして夫である相手方が昭和四七年六月三日妻美津子と再婚して家庭を回復し(戸籍謄本によりこれを認めうる)、前記のとおり相当価額の居宅(持分二分の一)を所有しているのに、妻である申立人は母子家庭で格別の財産もなく、魚市場の勤めと編物教室の経営に砕身している状況と対比するとき、離婚による精神的苦痛は申立人のほうが遙かに大であることは明らかである。

離婚に伴う財産分与は夫婦財産の精算と離婚後の扶養および慰藉料の性質を併せ有するものである。申立人千賀子は編物教師という特技を有し、相当の生活能力を有するから、離婚後の扶養は特に考慮する必要はないが、夫婦財産の清算および慰藉料として本件の事実関係のもとにおいては相手方は申立人に対し財産分与金一五〇万円を支払うのが相当である。

次に長女である申立人八重子は昭和四六年一一月から母である申立人千賀子のもとで監護養育され、昭和四八年三月高等学校を年業したのであるが、その間の学費や生活費は父である相手方と母である千賀子がその収入に応じて分担すべきである。八重子の在学していた学校が音楽大学附属高校のピアノ科である以上、ピアノの個人レッスンを受けることは通常のことであり、前認定のとおりその月謝は一か月二万五〇〇〇円である。昭和四五年三月文部省大臣官房調査課の父兄支出の教育費調査報告書によると昭和四三年度における公立の全日制高校生の父兄支出の高校教育費は年間五万三〇六六円であることが認められるが、これを消費者物価指数(全国総合指数)で換算すると昭和四三年度を一〇〇とする場合、昭和四七年一〇月は一二八・一二であるから、昭和四七年度は六万七九八八円となる。しかし長女八重子の在学していた高校は私立の特殊学校であるから、公立の場合の五割増と推認してよい。そうすると長女八重子の年間学校教育費は一〇万一九八二円となる。次に総理府続計局の家計調査報告による昭和四七年一〇月の標準生活費は、二人世帯の月間消費支出が七万八七三八円であるから、これを二分した三万九三六九円が長女八重子に関する生活費であり、年間では四七万二四二八円となる。これに前記年間の学校教育費一〇万一九八二円およびピアノ個人教授の月謝年間三〇万円を加えた総計八七万四四一〇円が、長女八重子の一年間の養育監護に要する費用である。右は昭和四六年一一月から昭和四八年三月までの中間点を基準として算定したものであるから、その全期間にわたつて妥当するものと推認できる。しかして前段認定の事実関係のもとにおいて父である相手方は長女八重子の養育監護に要する費用の二分の一を負担すべきである。昭和四六年一一月から昭和四八年三月までの分は過去の扶養料として既に扶養義務者である申立人千賀子から支出されたものであり、本来は申立人千賀子から同等の扶養義務者である相手方に求償しうるものであるが、扶養権利者である長女八重子がその部分を母である申立人千賀子から借り入れた場合と同視し、父である相手方に対しその負担部分の返還を求めることもできるといわなくてはならない。

よつて当裁判所は申立人八重子に対し父である相手方が前記期間内の過去の扶養料として割合で一六か月分五八万二九四〇円を支払うことを相当と認める。

しかして右財産分与および過去の扶養料の額と給付義務は本審判の確定によつて形成されるものであるが、その性質上、財産分与は離婚のとき、過去の扶養料は要扶養の時点に遡つてその効力を生じ履行期が到来するものというべきであるから、前者については協議離婚の翌日である昭和四七年一月二六日から、後者については昭和四八年四月一日から、いずれもこれに対する支払ずみまで民事法定利率年五分の割合による遅延損害金を支払うべきものである。

よつて主文のとおり審判する。

(家事審判官 田中恒朗)

〔参考〕 財産分与、扶養申立事件

(東京家 昭四七(家) 一二六五一・一二六五三号 昭五〇・一・三一審判認容)

(法)右審判に対する即時抗告審からの付調停によつて成立した調停条項例

調停条項

一 申立人(抗告人)は相手方千賀子(被抗告人)に対し、離婚に伴なう財産分与として、金一五〇万円及びこれに対する昭和四七年一月二六日から支払済に至るまで年五分の割合による金員の支払義務あることを認める。

二 申立人は相手方八重子(被抗告人)に対し、同相手方に対する過去の扶養料として金五八万二、九四〇円及びこれに対する昭和四八年四月一日から支払済に至るまで年五分の割合による金員の支払義務あることを認める。

三 申立人は相手方千賀子に対し、第一項の財産分与金のうち金一〇〇万円を次のとおり分割し、同相手方代理人弁護士小玉博之方(東京都新宿区新宿一丁目三三一九、三友ビル三階)に持参又は送金して支払う。

(1) 昭和五〇年五月末日限り金三〇万円

(2) 昭和五〇年六月から同年一二月まで七回にわたり毎月末日限り金一〇万円宛

四 申立人は相手方八重子に対し、第二項の扶養料のうち金三〇万円を昭和五〇年五月末日限り同相手方代理人弁護士小玉博之方(住所は前項に同じ)へ持参又は送金して交払う。

五 申立人が第三項(1)の支払を怠つたとき又は同項(2)の支払を二回分以上怠つたときは、期限の利益を失い申立人は相手方千賀子に対し第一項に認めた金員の残額全部を一時に支払う。

六 申立人が期限の利益を失うことなく第三項の支払を完了したときは、相手方千賀子は申立人に対し、第一項のその余の債務を免除する。

七 申立人が第四項の支払を怠つたときは、申立人は相手方八重子に対し第二項に認めた金員を即時支払う。

八 申立人が第四項の支払をしたときは、相手方八重子は申立人に対し第二項のその余の債務を免除する。

九 当事者双方は、以上をもって本件はすべて解決したものとし、将来互いに財産上の請求をしない。

一〇 本件に要した手続費用は各自弁とする。

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