東京家庭裁判所 昭和57年(家イ)5893号 審判 1983年6月10日
申立人 通称 五十嵐恵
申立人法定代理人親権者母
五十嵐洋子
相手方 川中典恭
主文
申立人と相手方との間に親子関係が存在しないことを確認する。
理由
1 申立人は主文同旨の審判を求めて、昭和五七年一〇月一三日に本件申立てをなした。
昭和五八年五月一六日の調停期日において、当事者に主文同旨の審判をうけることにつき合意が成立し、かつその原因の有無についても当事者間に争いはない。
2 関係戸籍謄本、母子健康手帳、医師○○○○作成の診断書、相手方及び申立人の母五十嵐洋子(以下洋子という)の各審問の結果を総合すると、次の事実を認めることができる。
(1) 相手方と洋子は昭和四五年一月二八日に婚姻の届出をし、二人の間には昭和四四年一二月に長男が、同四六年一二月に二男が、同四八年一一月に長女が、それぞれ生まれた。長女の出生後、子はもういらないと思い、相手方は昭和五二年三月に精管切断術を受けた。相手方と洋子の夫婦仲は特に悪いということはなく、夫婦の営みも普通であつたが、ただ相手方が医薬品販売の営業担当の関係で帰宅がおそかつたり、家を明けることもあつて、その点洋子は多少不満でもあつた。
(2) そういう中で昭和五四年頃、洋子は金の必要が生じ、相手方にかくれて、金融業を営む福士覚から金を借りたところ、それを機に、福士と食事を共にしたりし、昭和五五年六月頃には、横浜市内のあるホテルで、福士と肉体関係をもつに至つた。福士との肉体関係はその時一度だけであつたが、それからまもなく洋子は懐胎したことに気付いた。洋子は福士の子を妊娠したと思つたが、相手方には何も話さず、夫婦関係も従来通り続けていたし、病院に診察をうけに行くこともしなかつた。洋子の体つきは妊娠してもさほどめだたなかつたため、相手方に問われることもなく過ごしてきたが、申立人の生まれるひと月ほど前になつて、相手方もさすがに異常に気付き、洋子にどこか体が悪いのではないかと尋ねた。それに対し洋子は腎臓が悪いせいだと答え、事実以前から腎臓が悪かつたので、相手方もそれ以上あやしまなかつた。
(3) ところが昭和五六年四月一〇日に洋子は突然破水し、相手方もそれで洋子の妊娠を知り、救急車で病院に運んだ。洋子はその日申立人を分娩し、翌日福士とのことを相手方に告げた。
洋子は同年四月一七日に退院し、相手方と話合いのうえ離婚することとし、四月二〇日に協議離婚届を出した。相手方との間の三人の子は相手方が親権者となつて、現在も相手方が養育監護している。
以上の事実が認められる。
3 上記事実によれば、申立人は相手方と洋子の婚姻中に懐胎・出生したものであり、しかも懐胎当時も夫婦関係はこれまでどおり営まれていたのであるから、かかる場合に、父子関係を否定するにあたり、嫡出子否認によらず親子関係不存在確認という申立方法に依り得るかが問題になる。そこでまずこれについて検討する。
(1) 婚姻中に妻が懐胎した子は夫の子と推定され(民法七七二条)、夫がその嫡出性を否認するには嫡出子否認の訴(家事審判法二三条の審判も含む)によらなければならず、また嫡出父子関係の否定はこれによつてのみなされうるとされている。しかし婚姻継続中に懐胎・出生した場合でも、妻が夫によつて懐胎することが客観的に不可能な事実(たとえば夫婦の長期間別居、あるいは夫の長期不在等)が存在するときは、生まれた子は嫡出推定をうけず、いわゆる推定されない嫡出子として、その嫡出性を争うには、利害関係ある者から提起される親子関係不存在確認の訴(前記審判を含む)によることになるのである。
(2) それでは本件は、洋子が相手方の子を懐胎する可能性が全くなかつた場合に該当するであろうか。
前記認定のとおり、相手方は昭和五二年三月に精管切断術(パイプカット)を施したものであるが、これにつき鑑定人○○○○の鑑定の結果によれば、
(イ) 一般的には、精管切断術を一たび行えば妊孕性は終生失われるが、稀れに再疎通すること
(ロ) 相手方の施行した切断術の術式による場合、その再疎通率は〇・六〇パーセントであること
(ハ) 精管再疎通は術後数ヶ月以内に起きることが最も多いが、相手方は術後も夫婦生活を営んでいたにも拘らず長女出生後から申立人懐胎までの約六年間子はできていないこと
(ニ) 昭和五八年三月二五日現在相手方の精管は閉塞された状態にあり、その精液中に精子は認められなかつたこと
(ホ) 精管再疎通は稀れであるが、再疎通後それが自然に再び閉塞することはさらに稀れであることが認められる。
上記事実によれば、相手方に施行された精管切断術の精度は九九・四パーセントの高率であり、洋子が申立人を懐胎したと推定される昭和五五年頃も、精管は閉塞状態にあつたものと認められる。このように、精管が閉塞しており妊孕性の失われている状態にあるときは、たとえ夫婦関係があつたとしても、子の受胎に関しては、長期間別居や長期不在等と同視し得べく、本件の場合も、夫の子を懐胎することが不可能な場合と認めて差支えない。従つて、かかる状態下において生まれた子は嫡出の推定をうけないものと解され、親子関係不存在確認の申立てによるも適法である。
4 そこで、家事審判法二三条に従い審理するに、申立人の出生に至る経緯については、前記2で認定したとおりであり、その事実によれば、申立人と相手方との間には父子関係は存しないから、当事者間の前記合意は正当である。 よつて本件調停委員会を構成する家事調停委員藤富孔明、同藤崎久の意見を聴いたうえ、主文のとおり審判する。
(家事審判官 島田充子)