東京簡易裁判所 平成16年(ハ)5478号 判決 2004年11月02日
原告
A野太郎
同訴訟代理人司法書士
勝瑞豊
被告
東京海上日動火災保険株式会社
同代表者代表取締役
岩間陽一郎
同訴訟代理人弁護士
柏木秀夫
被告
株式会社 東京データキャリ
同代表者代表取締役
荻原文明
同訴訟代理人弁護士
松田雄紀
主文
一 被告らは、原告に対し、連帯して金六万円及びこれに対する平成一六年二月二六日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
二 原告の被告らに対するその余の請求を棄却する。
三 訴訟費用は、これを一〇分し、その九を原告の、その余を被告らの負担とする。
四 この判決は、第一項に限り、仮に執行することができる。
事実及び理由
第一請求
一 被告らは、原告に対し、各自金六〇万円及びこれに対する平成一六年二月二六日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
二 訴訟費用は被告らの負担とする。
三 この判決は仮に執行することができる。
第二事案の概要
一 交通事故の被害者である原告が、自動車損害賠償保障法(以下「自賠責法」という。)に基づき、加害者の損害保険締結先である被告東京海上日動火災保険株式会社(以下「被告東京海上日動」という。)が、保険金支払手続をした際、原告の診療情報を有する訴外東京慈恵会医科大学付属病院(以下「東京慈恵医大病院」又は「同病院長」という。)から同人の診療情報を得るために、受任者欄が白地の白紙委任状や、受委任者名を明らかにしていない同意書を使用し、原告の同意又は承諾を得ないで、原告の知らない第三者である被告株式会社東京データキャリ(以下「被告東京データ」という。)に取得手続を委託し、原告の診療情報を不法に取得しようとしたことにより、原告の重要なプライバシーに関わる自己の情報をコントロールする権利を違法に侵害されたことによる精神的損害を受けたとして、被告東京海上日動及び被告東京データに対し、それぞれ民法七〇九条の不法行為(人格権侵害)による損害賠償請求と、両者の行為が民法七一九条の共同不法行為によるものであるとして金六〇万円の損害賠償金と遅滞損害金の支払を求めるものである。
二 被告東京海上火災保険株式会社は、平成一六年一〇月一日付けで日動火災海上保険株式会社と合併し、社名を「東京海上日動火災保険株式会社」と変更し、本件訴訟の権利・義務を承継したものである。
第三当事者間に争いのない事実及び証拠により容易に認められる事実
交通事故の発生及び賠償手続の経緯
一 平成一六年一月二九日、原告が訴外日本交通株式会社(以下「訴外会社」という。)のタクシーに乗車しようとした際、同運転手の自動ドア操作の誤りにより転倒して受傷したので、自賠責法に基づき、損害責任保険金を支払うことになった訴外会社の任意損害保険契約締結先である被告東京海上日動が、その保険金支払手続のため、原告に対し、同人の診療情報を取得するため依頼し、同年二月一〇日、原告は、被告東京海上日動との間で、原告を委任者、被告東京海上日動を受任者として、訴外東京慈恵医大病院長への診療情報の開示請求及び診療情報の取付事務に関して委任契約(以下「本件委任契約」という。)を締結し、又、原告のかかりつけ病院である訴外八潮内科・眼科クリニックへの診療情報取り寄せに関する事務を承諾をした。
二 本件委任契約については、上記訴外東京慈恵医大病院長宛の委任状は、原告の署名・捺印以外は、対象診療科及び受任者欄には鉛筆で×印が記載され、受任者名が白地であった他、原告の署名・捺印以外は白地の委任状であり(甲第二号証の一)、同意書は、日付が空欄であり、同意書の文言は、「東京海上またはその者の指定する者」と記載されていた(甲第三号証)。
三 原告が、平成一六年二月二六日に被告東京海上日動の社員と原告の本件傷害が交通事故による受傷によるものか既往症によるものか否かを訴外東京慈恵医大病院の担当医師から説明を聞くため、同病院へ同道した。
四 同年三月五日頃、原告宅を訪問した被告東京海上日動の社員二名に対し、原告の交付した委任状の写しを同被告会社に求めると同時に、その際、同被告の社員らが持参していた委任状を受け取り、原告がそれをコピーしてみたところ、同被告の社員らの持参した委任状の空白だった受任者欄には、受任者の被告東京海上日動ではなく、原告のまったく知らない被告東京データの社名及び社員の署名があった事実が判明した外、原告の住所、生年月日、原告の自宅の電話番号、受療者名欄に原告の氏名、生年月日が原告以外の者により補充記載されていたが、原告の生年月日が誤記されていた(甲第二号証の二)。
五 その委任状は、原告が被告東京海上日動の社員とともに訴外東京慈恵医大病院を訪れた平成一六年二月二六日以前には、すでに原告の同病院での診療情報保管者である同病院に提出されていた。
第四争点
一 本件同意書及び受任者欄が白地の本件委任状の違法性の有無
(本件委任契約に基づく被告東京海上日動が、訴外東京慈恵医大病院からの原告の診療情報開示請求及び診療情報取寄せについて、請求者を被告東京データに委託することについて、原告の同意または推定的承諾があったといえるか否か。)
二 原告の診療情報が、実際に被告東京データによって入手されていない場合でも、「損害」があったといえるか否か。
第五当事者の主張
一 本件請求原因(争点整理後)に関する当事者の主張について
(1) 原告の主張
ア 原告が、平成一六年二月二六日付被告東京海上日動の社員と訴外東京慈恵医大病院に出向いた際、当該委任状の受任者欄に、原告とまったく面識のない被告東京データの社名と社員名が記載されていたことから、訴外東京慈恵医大病院の事務担当者が、被告東京海上日動の社員に原告の上記病院での診断書を手交することを拒否した。これは、同被告が、なんら原告の同意又は承諾なく上記第三の二記載の受任者欄が白紙の委任状を利用して、同人の上記病院における原告の診療情報の取付事務を、被告東京データに委託したからである。
イ 被告東京海上日動は、個人のプライバシーと個人情報の保護及び管理について極めて重大な責任を負っているにもかかわらず、かつ、訴外東京慈恵医大病院では、患者の診療情報の開示につき、病院独自の同意書の様式を定めており、被告東京海上日動が社内で使用する定型様式の同意書(被告東京海上が指定する受任者の具体的な氏名がないもの)では、訴外東京慈恵医大病院では使用できないにもかかわらず使用したほか、受任者白地のほか、原告の署名・捺印以外白地の白紙委任状を偽造し、原告の重要なプライバシー情報である同病院での診療情報の調査権限を、原告の全く知らない第三者たる被告東京データに委託した。
ウ 同被告は、上記の違法行為(被告東京海上日動の過失)により、自己の訴外東京慈恵医大病院における診療情報について、同病院での本件受傷による診療情報以外にも、既往症のある原告が、原告の与り知らない第三者たる被告東京データを介して外部に診療情報が漏れるおそれを抱いた点につき、自己の情報をコントロールする権利である原告のプライバシー権(憲法一三条の保障する人格権)を侵害されたことにより、高齢の原告が何日も不眠症に陥るなど、多大な精神的苦痛を被り、精神的損害を受けた(損害の発生と因果関係)ものである。
エ 被告東京データは、原告の許諾がなく、何ら権限がないのに、上記第三の二記載の受任者欄白地の委任状の受任者欄に署名し、被告東京海上日動と共同して、本件委任状の名宛人である訴外東京慈恵医大病院長に対し、原告から直接受託権限を得たような外観を作出し、原告の診療情報の保管者である同病院から、同人の診療情報を入手しようとした違法行為(被告東京データの過失)により、上記原告のプライバシー権(憲法一三条の保障する人格権)を侵害されたことにより、原告は上記ウ記載と同様の多大な精神的苦痛を被り、精神的損害を受けたものである。
(2) 被告東京海上日動と、被告東京データは、上記の行為により共同して原告のプライバシー権を侵害したものであり、その行為は民法七一九条の共同不法行為に当たる。
二 争点一について
(1) 原告の主張
ア 被侵害権利
原告が、本件において侵害されたとして主張する権利は、憲法一三条に根拠をおく個人の人格権であり、その人格権の内容をなすプライバシー権であり、その要素である個人の情報コントロール権である。プライバシー権は、「私生活をみだりに干渉されない権利」として幅の広い内容を持つが、私生活の平穏を守る権利として、その内容に「自己に関する情報をコントロールする権利」も含まれるとするのが、最近の学説判例であり、「憲法上保護された基本権として、個人情報については、情報主体である個人が排他的に支配し管理できる権利が認められている。」のである。
本件では、被告らは、原告の許諾を得ずに、偽造の委任状(甲一六号証)をもって原告の診療情報を東京慈恵医大病院から入手しようとしたのであり、その違法な行為が、原告のみがなしうる自己に関する情報の入手権限という情報コントロール権を、すなわち、人格権に関する権利を侵害したということになるのである。
イ 侵害行為
被告東京海上日動が、原告から取り付けた本件委任状は、証拠(甲第二号証)でもあきらかなように、原告の署名・捺印以外の内容、原告の誤った生年月日を含め、すべて被告らが偽造したものであった。とすると、被告らは、原告本人の許諾を得ずに復委任による原告の診療情報の取寄せが私法上違法なものであり、偽造による委任状の行使も又、私法上も刑事上も違法なものであること、そのような違法な行為が、原告の情報コントロール権を侵害することになるということを認識し、又は認容して、情報コントロール権侵害という結果の実現をめざし行動したということになる。
ウ 原告の同意又は推定的な承諾について
被告東京海上日動は、委任状の受任者欄を白地にした理由につき、「日々大量に発生する交通事故について、すべて被告東京海上日動自身が、損害調査を行うことは、人的員数の限界があり、同被告自身が調査事務を取り扱うとすれば、却って迅速な賠償ができなくなるおそれがあることから、被告東京海上日動は、被害者に対し、受任者を「東京海上火災保険会社またはその指定する者」として、書面による同意を求めている。しかしながら、訴外東京慈恵医大病院は、その理由は不明であるものの、独自の委任状の様式を作成しており、…当該委任状には、受任者を「東京海上火災保険株式会社またはその指定する者」と明記されていないことから、…迅速な賠償を行うため、受任者を被告東京海上日動またはその指定する者とする趣旨で、受任者欄を白地のまま、委任状に署名・捺印をもらう必要があり…受任者欄白地のまま被害者に委任状を送付した。」というのである。
そして「受任者欄を白地にして被害者らに送付しているのは…受任者を東京海上日動またはその指定する者という趣旨であり、それは被害者に対する適正かつ迅速な賠償を行うためである。」という。つまり、営業上の事務効率のために、委任者の承諾なく復委任者を一方的に取得しているということを自ら述べている。
個人の診療情報の漏洩の深刻さは、HIV情報漏洩事件に代表されるように、個人の診療情報が極めて重要で、かつ個人が他人に知られたくない情報である。現実に実際に生じている個人情報漏洩事件は、純然たる外部者による情報への不正アクセスによる情報入手とか窃取とかいったものよりも、その大半は従業員や、その関係者、業務委託先企業やその従業員により引き起こされている(宇治市住民基本データ不正漏洩事件(大阪高裁平成一三年一二月二五日判決)。したがって、その診療情報取得に関する復委任権を、受任者白地の委任状を被害者に交付するという方法で、委任者の同意なく、あらかじめ取得するというのは不当である。
被告東京海上日動は、被害者に対する適正迅速な賠償を行うためとしているが、仮に復委任自体は認めたとしても、事前に委任者つまり本人にその旨を伝え、どのような者が復委任(委託)されるのかを説明した上で、その同意を得、一方、復委任された受任者自身も、その復委任を受けた旨を受委任者本人に通知し、その同意につき意思確認を行えば、そのような受任者白地の委任状などは交付する必要もない。しかも、その手続は、本人にとっても必要なものなのであるから、その事前承諾を得ることは、決して困難なことではないと考えられる。
本件の場合、甲第二号証の二の委任状の体裁をみても、委任者は、直接、被告東京データに診療情報を委任したような形になっている。とすれば、被告東京データは、委任の意思を、直接本人に確認する義務がある。通常の委任状であれば、復委任を、委任者が認める場合には、当然、その旨が委任事項として委任状に記載する。そうしなかったのは、被告東京海上日動が始めから、自己の事務上の目的のために、本人の同意なしに、本人から委託を受けた個人診療情報取寄せ業務を、自己の都合で、恣意的に第三者に行わせようとしたものと考えられる。とすれば、被告東京海上日動が「適正かつ迅速な賠償を行うという正当な目的があり…東京慈恵医大病院が独自に作成している委任状の受任者欄について、白地とする客観的合理的な必要性が認められる。」とする見解は、失当というほかない。つまり、被告東京海上日動の正当な目的と受任者欄空欄の委任状の交付という手段との間には合理的な関連性もない。
エ 同意書について
被告東京海上日動は、委任状とともに原告より送付された同意書には、「東京海上またはその指定する者」と明記されており、かつ、その同意書に原告の署名・押印があったことをもって、訴外東京慈恵医大病院からの原告の診療情報取寄せ事務に関し、受任者である被告東京海上日動が、被告東京データにその事務を委託したことについて同意があったと主張する。しかし、この同意書は、委任状とともに原告に送られてきた原告のかかりつけ医院である訴外八潮内科・眼科クリニックへの同意書であって、訴外東京慈恵医大病院に対するものではない。被告東京海上日動からの原告への提出書類案内書にも同意書については、原告かかりつけの訴外八潮内科・眼科クリニックに提出するものへの同意を求めているに過ぎず、原告もその範囲内で「被告東京海上またはその指定する者」を含めて同意しているのでなんら異議がなく、それで異議を主張していないだけである。原告は、訴外東京慈恵医大病院に関する無権限の原告診療情報の取寄せについて異議を申し立てている。
ところが、被告東京海上日動は、この同意書をもって、他の医療機関への原告診療情報の取寄せについても、その第三者による診療情報取得について、同意又は黙示の承諾があったと主張するが、拡大解釈と言わざるを得ないし、委任者の意思のこのような超拡大解釈をもって医療機関より個人の診療情報を第三者が入手することが出来るとすれば、患者の診療情報プライバシー権は、いとも簡単に侵害されてしまうことになる。
(2) 被告東京海上日動の主張
ア 結論
原告の主張する第五の一(1)のイの行為については、次のイないしオの理由により、事前に原告の同意又は少なくとも推定的承諾があったとみるべきであるから、まったく違法性がない。
イ 同意書及び委任状取得の目的と必要性
損害保険会社である被告東京海上日動には、その社会的使命として、契約者や被害者に対し迅速に賠償金を支払うことであり、これを実現するためには迅速かつ適正な調査は不可欠な作業である。本件診療情報の入手は、交通事故被害者に対する適正かつ迅速な賠償を行うために、被害者に代わり被告東京海上日動がする正当な目的により行われるものであるが、病院等は、被害者の同意がなければ、同被告を含む第三者に対し、当該被害者の診療情報を開示することはしないから、被害者から書面により、病院等の医療機関から診療情報の開示を受けることについて同意を求める必要があり、被害者より同意がなされた場合に限り、被告東京海上日動は、医療機関から被害者の診療情報の開示を受けることが可能になる。
そのため、訴外会社の任意保険会社である被告東京海上日動は、原告に対し、迅速に賠償金の一括払い(任意保険会社が治療費を被害者に支払った場合には、後日、強制保険である自賠責保険に加害者請求をすることになること)を行う必要があるが、自賠責保険所定の診断書や明細書が必要となるところ、被害者が任意保険会社に対し、診断書の開示に同意しない場合には、被害者自身が病院等の医療機関から加害者請求に必要な書類の取り寄せをしてもらわない限り、任意保険会社としては、後日の求償が不可能となるため、被害者に対し、治療費と雖も内払いをすることはできないことになる。
ウ 交通事故賠償においては、受傷者の診療情報については、プライバシーに関する情報ではあるが、損害の疎明・立証資料として、そもそも賠償者側に対する開示が予定されている(開示が必要とされている。)個人情報というべきであり、しかも、受傷者が、自ら診断書等の診療情報を取り寄せるのではなく、かかる手間を省き、請求・立証手続の便宜的利益を享受するために、保険会社の申し入れに応じて、保険会社に対し、診療情報の取付事務を委託し、かつ、受傷者が、診療機関もしくは主治医に対し、診療情報を保険会社に開示することを同意していることに照らすと、当該保険会社が、適正かつ迅速な賠償を実現するために利用する目的で、更に第三者に対し、診療情報の取付事務の如き単純な事実行為を委託することについては、一般社会通念上、受傷者において予め甘受している事柄の範囲内というべきであり、少なくとも推定的な承諾はあるというべきである。
エ 秘密保持義務の確保と第三者への委託の適法性
もっとも、原告の主張するように、個人の診療情報は、個人の健康状態に関する重要な個人情報であり、とりわけ慎重な取扱いが強く求められるべき情報であることに照らすと、一般社会通念を基準としても、喩え、保険会社が適正かつ迅速な賠償を行うために利用する目的であったとしても、推定的承諾の働く第三者とは、保険会社と同様、目的外の利用が禁止され、秘密保持義務があるなど、保険会社と同視し得る第三者に限られるというべきである。
したがって、本件原告の適正な損害を把握し、もって原告に対する適正かつ迅速な賠償を行うためには、「受任者欄空欄の委任状」や「同意書」は、上記イの手続にかかる被害者の負担をも回避できるものであり、受任者欄空欄の委任状を活用して、専門の調査会社にその収集事務を委託することは必要なことである。
オ 本件では、《証拠省略》によれば、少なくとも被告東京海上日動は、委任者である原告から同意書、委任状により署名・捺印を得ているのであるから、訴外東京慈恵医大病院からの原告の診療情報の開示の同意を得ており、かつ、被告東京海上日動が、訴外東京慈恵医大病院から原告の診療情報の開示事務を委託した被告東京データは、被告東京海上日動間との業務委託基本契約に基づき、業務上知り得た個人情報等に関し、目的外の利用が禁止され、かつ、秘密保持義務が課された者であることから(乙一)、被告東京海上日動が、被告東京データに対し、原告の診療情報の取付事務の委託したことについて、少なくとも原告の推定的承諾の範囲内というべきであって、診断書等の取付事務目的が、専ら被告東京データへ委託することについての許諾に関し、予め原告に明示の意思表示をなす機会が保障されていなかったとしても、違法性を欠くものと言わざるを得ない。
(3) 被告東京データの主張
ア 被告東京データは、被告東京海上日動との業務委託契約に基づき、被告東京海上日動から、委任者欄に原告の署名・捺印のある受任者欄白地の委任状の交付を受けて、訴外東京慈恵医大病院から、原告の診療情報の取付事務を行おうとしたものに過ぎず(乙一)、これは、被告東京データの被告東京海上日動に対する債務の履行行為であり、かつ、原告は、受任者白地の委任状に署名捺印している以上、原告は、受任者に対し、白地の受任者欄の補充権限を与えたものと解すべきであるから、原告から白地補充権が与えられた被告東京データにおいて、被告東京海上日動から本件委任状(甲二の一)を受領した段階で、原告に対し、改めて原告に承諾を求めたり、また、委任の意思を確認する義務などありようがなく、被告東京データには原告に対する違法行為の事実はないことは明白である。
イ しかも、本件では、被告東京データは、上記アのとおり、被告東京海上日動から原告の診療情報の取付事務を委託されたものの、現実には、訴外東京慈恵医大から原告の診療情報の開示を受けておらず、原告に対し、現実にプライバシー権を侵害した事実もない。
三 争点二について
(1) 原告の主張
ア 被告らは、偽造委任状による診療情報の取寄せ行為が、その発覚により、診療情報の取り寄せに成功しておらず、原告の診療情報が被告らに引き渡されていないのだから、何らの損害も生じていないではないかと主張する。しかしながら、原告は、その診療情報が、権限のない者により第三者に引き渡されることの危険だけを非難しているのではない。本来、原告のみに排他的に専属している自己の情報の入手、利用、加工につき、すなわち本件の場合においては、原告の診療情報の排他的専属的入手権限が、被告らによって侵害されたこと、そしてその結果、原告の与り知らない第三者を経由して原告の診療情報が開示されんとしたその危険の惹起、それにより乱された原告の私生活の平穏について、その原因行為の違法性を非難しているのである。
イ 被告らの原告の情報コントロール権への侵害が、具体的に言えば、診療情報入手についての被告らの違法な手段の行使が、もし安易に社会的に容認されるとすれば、集団的なプライバシー権侵害の発生という危険を現実のものとするだろうという評価が、原告の受けた精神的損害についても加えられなければならない。
(2) 被告東京海上日動の主張
ア 不法行為における「損害」とは、現実に発生したものでなければならないところ、本件では仮に原告の主張を前提としたとしても、被告東京海上日動は、被告東京データに対し、原告の診療情報の取付事務を委託した後、原告の申し入れにより、被告東京データは、訴外東京慈恵医大病院から、原告の診療情報を現実的には取り付けておらず、原告の診療情報は、被告東京データにはまったく開示されていない。
そうすると、不法行為により原告には、現実にプライバシー権が侵害された事実はおよそ生じていないというべきであり、「損害」は発生していないのであるから、不法行為における「損害」の要件を欠く以上、主張自体失当といわざるを得ない。
イ 仮に百歩譲って、被告東京海上日動の原告に対する何らかの違法行為と評すべき点があり、かつ、原告の主張に係る不快感又は苦痛が、不法行為における「損害」に該たるとしても、交通事故の受傷者である原告としては、賠償者側に対し、診療情報の開示をする必要があり、かつ、客観的にも、目的外利用が禁止され、守秘義務のある被告東京海上日動の手足ともいうべき被告東京データが診療情報の取付事務を委託されていることに鑑みれば、一般社会通念上、上記原告の主張にかかる不快感又は苦痛は、通常受認すべき範囲内の不快感又は苦痛というべきであり、交通事故に関する迅速かつ適正な損害賠償を受けることによって、通常、除去されるものと評価でき、仮に除去されないという者がいたとしても、通常生ずべき損害ではなく、特別損害というべきであるから、因果関係はないことは明らかである。
(3) 被告東京データの主張
本件では、被告東京データは、上記三(2)アのとおり、被告東京海上日動から原告の診療情報の取付事務を委託されたものの、現実には、訴外東京慈恵医大病院から原告の診療情報の開示を受けておらず、原告に対し、現実にプライバシー権を侵害した事実もない。
第六当裁判所の判断
一 《証拠省略》によれば、以下の事実が認められる。
(1) 個人の診療情報のプライバシー権の法的性格について
憲法一三条で保障されるべき人格権としてのプライバー権の概念については、原告が本件で主張するような「個人が自己の情報をコントロールする権利」も含まれるとする説、「社会的評価から自由な領域の確保」がプライバシー権の内実だとする説、「人が自由に形成する社会関係の多様性に応じて多様なイメージを使い分ける自由である」説などいろいろな考え方があり、現時点でも必ずしもプライバシー権としての定義についての議論が成熟しているわけではないが、少なくとも判例実務では、プライバシー権を「他人に知られたくない私的事項(私生活)をみだりに公開されないという法的保障ないし権利」であり(東京地判昭和三九年九月二八日)、あるいは「他人に知られたくない個人の情報は、それがたとえ真実に合致するものであっても、その人のプライバシー権として法律上の保護を受ける権利(最判昭和五六年四月一四日、補足意見)である。」と言えるし、本人が、自己が欲しない他者にみだりにこれを開示されたくないと考えることは自然なことであり、そのことへの期待は保護されるべきであるとして、大学主催の講演会に参加を申し込んだ学生の学籍番号、氏名及び電話番号は、学生のプライバシーに係る情報として法的保護の対象となる(最判平成一五年九月一二日)。
それらの根拠が、いずれも憲法一三条の人格権に由来するものであることを認めることができる。
(2) とりわけ本件のように個人の健康状態を記載した病院での診療記録等の個人の診療情報は、上記個人の名前、生年月日、住所、電話番号というような個人の特定に結びつくプライバシー情報と同様に、あるいは、それ以上に極めて重要で、かつ、個人が他人に決して知られたくないと感ずる度合が極めて高い情報であり、したがって、万一それらが個人の承諾なく第三者の手によって個人の意思に反して外部に漏洩した場合の個人の受けるべき精神的苦痛や屈辱感等を考慮すると、本件のプライバシー権は、個人の診療情報の入手、利用及び加工につき、本人のみが排他的にかつ専属的に入手及び管理できる特別な権限であると言える。
そして、そうであるが故に、他の個人的プライバシー権と同様に、場合によっては、他のプライバシー権に優先してでも保護すべき極めて重要な権利であり、それは、「個人が自己の情報をコントロールできる権利である。」という定義づけをすることにより権利保護の実効性が確保できると解される。
二 争点一について
(1) 違法性阻却の基準
憲法で保障されたプライバシー権としての個人固有の情報である診療情報の保護というプライバシー権が、仮に第三者の行為によって取得され、開示される状態になった場合でも、それが正当な理由に基づく時には違法性を欠くものとして、プライバシー権侵害の不法行為は成立しない。すなわち、正当な理由に基づくものの一つとして、個人の診療情報というプライバシー権への侵入、立ち入り、またはこれらの公表、公開行為を、個人が第三者に対し、事前に承諾(同意)していたときには違法性が成立しないことになる。
そして、当該プライバシー開示行為の違法性が阻却されるか否かは、①当該個人情報の内容及び性質及びこれがプライバシーの権利として保護されるべき程度、②開示行為によりその個人が被った具体的不利益の内容及び程度、③開示の目的の正当性並びに開示の有用性及び必要性、④開示の方法及び態様、⑤当該個人情報の収集の目的との関連の有無及び程度、⑥その個人の同意を得なかったことがやむを得ないと考えられるような事情の有無などの諸要素を総合的に考慮し、その個人の同意がなかったとしても当該個人情報の開示が社会通念上許容される場合に当たるかどうかを判断すべきである。
(2) 本件では、被告東京海上日動が、本件交通事故の被害者である原告への賠償手続を適正かつ迅速に行うという目的での一連の行為の過程で、被告東京海上日動が、原告の訴外東京慈恵医大病院での診療情報取得に関し、原告との間で交わした本件委任契約のうち、受任者を特定せず「被告東京海上またはその指定する者」と記載した「同意書」が違法性を欠くと言えるか否か、さらには、原告が被告東京海上日動と交わした「受任者欄をはじめ、原告の氏名以外すべて白地の白紙委任状」が、原告のプライバシー権である診療情報の取得に関し、原告が、被告東京海上日動及び被告東京データに対し、原告の診療情報取得行為に関して、①ないし⑥の要件をも考慮して、本件では、あらかじめ原告の同意または少なくとも推定的な同意があったと言えるか否かが争点になるので検討する。
(3) 本件同意書及び白紙委任状は、訴外東京慈恵医大病院からの診療情報取付に関し、原告があらかじめ同意又は推定的承諾をしたと言えるか否か。
ア 本件同意書について
被告東京海上日動が、原告に対し平成一六年一月三〇日付で本件委任契約を締結する直前に原告宛に送付した甲第一号証の「ご提出いただく書類について」の案内書によれば、同被告が、原告が署名捺印し、同被告に提出を求めた「同意書」は、同案内書(5)の文面には『A野様の個人情報にあたる診断書等を、後日弊社(被告東京海上日動)が、八潮内科・眼科クリニックから取り付ける際に必要となりますので、三部に署名・捺印してください。』と記載しており、いずれも原告が普段から掛かり付けの病院である訴外「八潮内科・眼科クリニック」に提出するものであることを説明しているものであったことを認めることができる。
この点は、原告の供述及び準備書面での主張によれば、被告東京海上日動が、両科での原告の診断書等の診療情報の取得取付事務をすることに関して、「被告東京海上またはその指定する者」に委託され、同被告に指定された者から原告の診療情報を入手されることについては、原告は当初からなんら異議はなかったものであると述べていることから、訴外八潮内科・眼科クリニックからの診療情報取得に関する本件同意書(甲第三号証)は、原告の自由意思で同意書に署名・捺印し、被告東京海上日動に送付したことが認められる。この点は、原告にも争いはない。
したがって、交通事故による原告への賠償事務において、訴外八潮内科・眼科クリニックで保管されている診療情報については、被告東京海上日動と被告東京データとの間の本件委任契約に関する乙第一号証の基本業務委託契約を前提にする限りにおいて、本件被告東京海上日動が、原告との間で交わした本件「同意書」には、原告の明確な同意があったものと認めることができ、被告らの診療情報取得行為には何ら原告のプライバシー権を侵害する違法性はなく、不法行為は成立しない。
イ 次に本件委任契約においては、結論的に言えば、訴外東京慈恵医大病院に対する本件「同意書」や、「受任者欄が白地」や「原告の署名捺印以外白地」の白紙委任状に、原告の氏名のみを署名・捺印した上、被告東京海上日動に送付することをもって、原告が、被告東京海上日動に対し、訴外東京慈恵医大病院に存在する原告の診療情報について、同被告らに取付事務の委託をしたことに同意した又は推定的な承諾があったものと認めることはできない。
ウ 訴外東京慈恵医大病院への同意書について
まず本件同意書については、社会通念上、通常人をして上記の甲第一号証の原告に宛てて出した案内書の文言を素直に読めば、この同意書が訴外東京慈恵医大病院に提出するための同意書面であったと解することは到底できない。したがって、原告がこの案内書の(5)の同意書に関する文言を見て、これが訴外東京慈恵医大病院に提出されるものと理解して署名・捺印したものではないという供述には何ら不自然、かつ、不合理性はなく、この点につき、被告らは、原告は訴外八潮内科・眼科クリニックでの診療情報については、被告東京海上日動に対し、同被告が指定する者により同院での診療情報を取得することにあらかじめ同意していることを争っていないのであるから、訴外東京慈恵医大病院から同被告の指定する者を介して原告の診療情報を取り付けることに関しても、本件同意書によりあらかじめ原告からの同意または推定的な承諾を得たものであると解するのが相当であると主張するが、被告らの主張は理由がない。
仮に、これが東京海上日動の当時の担当者の単なるミス記載であり、本件同意書が、訴外東京慈恵医大病院への提出が必須の書面である趣旨を含むものであったとすれば、訴外東京慈恵医大病院では、患者の診療情報に独自の様式をもっており、本件同意書の『東京海上またはその者が指定する者』という様式を提出しても、訴外東京慈恵医大病院では患者の診療情報の開示に応じてくれないという被告東京海上日動の主張する事実とも矛盾することになる。
原告の供述によれば、甲第一号証の案内書の送付時に、被告東京海上日動の社員が、訴外東京慈恵医大病院のそのような特別の状況を原告に理解できるよう説明したことを認めるに足りる証拠はない。
エ 被告東京海上日動の違法行為
そうすると、被告東京海上日動が、同被告会社で用意している「東京海上またはその指定する者」と記載した定型的な「同意書」の様式で、大抵の病院は、当該患者の診療情報の提供に応じてくれるものの、東京慈恵医大病院は、その理由は不明であるものの、(慈恵医大は)独自の委任状の様式を作成しており、当該委任状による同意でなければ、被告東京海上日動ら第三者に対し、患者の診療情報の開示をしないところ、当該委任状には、受任者を『東京海上又はその指定する者』と明記されていないことから、被告東京海上日動としては、前記「同意書」の場合と同様の趣旨で、原告に対する迅速な賠償を行うため、受任者を『東京海上またはその指定する者』とする趣旨で、受任者白地の白紙委任状に当該患者の署名・捺印をあらかじめもらう必要があったと主張するので、その合理性につき検討する。
オ 被告東京海上日動が、受任者白地の委任状に、原告の氏名のみを記載して送付するよう案内書を原告に対し送付した時点で、前記エの事情を原告に説明した文言は、甲第一号証(書類送付のご案内)にはどこにも記載されていないし、被告の担当者らが原告に対し、その委任状の受任者を、本件同意書と同様に、「東京海上またはその指定する者」とする趣旨で、本件白地委任状に原告に対し署名・捺印を求めたものであるから、事前の原告の同意または推定的承諾を得たものであると主張するが、甲第二号証の二の委任状の体裁によれば、委任者たる原告が、直接、被告東京データに対し、原告の診療情報取得事務を委任した様式になっている。
そうであれば、上記ウの「同意書」が、被告東京海上日動を介して被告東京データに委任する旨の法的効力を何ら持たない以上、原告に対し、被告東京海上日動又は同社から委託を受けた被告東京データの担当者から、原告の訴外東京慈恵医大病院からの診療情報取得事務について、被告東京海上日動から受任した旨の説明が原告に対してあったことを認めるに足りる証拠もないし、本件で原告の同意を得なかったことがやむを得ないと考えられるような事情を認めるに足りる証拠もない。
したがって、甲二号証の二をもって、訴外東京慈恵医大病院からの診療情報取得事務について、あらかじめ原告の同意または推定的承諾があったと解することはできない。
カ 被告東京海上日動は、訴外東京慈恵医大病院が、患者の診療情報管理につき、他の病院と異なり、原則的な受任条件を要求している事実を把握したのであるから、原告の診療情報取得事務に当たるについては、被告会社の定型要旨が使用できないことが判明した時点で、直ちに書面又は口頭でその旨を当該病院の患者である原告に伝えるべきであった。なぜなら、同被告は、個人の診療情報がプライバシー権の中でも極めて慎重な取扱いを要することを業務上知悉していたのであるから、原則に戻り、訴外東京慈恵医大病院の指定する委任状の様式を使用すべきであり(本件では、実際に当該病院の様式を使用した。)、かつ、当該病院が、独自の様式の委任状を要求している事実を、原告に説明し、同人の理解を得た上で被告東京データに原告の診療情報の取付事務を委託したい旨を説明し、同意を得た上で本件委任状を作成すべき注意義務があった。
しかしながら、本件では被告東京海上日動は、原告にこれらの説明を一切せず、同人の同意を得ないまま、安易に本件委任状の白地の受任者欄に、原告のまったく知らない第三者である被告東京データを受任者として補充記載させた行為(過失行為)につき、被告東京海上日動の違法性が認められる。また同被告が、過失を認めず、原告への賠償事務の迅速性を強調するあまり、被告東京データとの基本業務委託契約を楯に、安易に被害者の黙示の同意論や、推定的承諾論または受認限度論を主張展開することは、被告東京海上日動と被告東京データとの間で締結された同委託契約四条の注意義務にも違反し、コンプライアンス遵守違反もあると言える。
したがって、被告東京海上日動の本件行為は、当該個人の同意がなかったとしても、当該個人情報の開示行為が、社会通念上許容される場合に当たるとは到底いえないから、違法な行為であると言わざるを得ず、被告東京海上日動の行為の違法性を阻却するものではない。
この認定に反する被告東京海上日動の主張は採用しない。
キ 原告の氏名以外がすべて白地の白紙委任状について(被告東京データの違法性を含む。)
前記のとおり、患者の診療情報が極めて重要な個人のプライバシー権であり、かつ、慎重に取り扱われるべきプライバシー権である(この点は被告らも認めている。)ことからすると、原告の供述及び甲第二号証の二の委任状によれば、本件委任状は、受任者欄白地以外にも原告の氏名の署名・捺印欄以外はすべて、被告らのいずれかの社員が偽造していることを認めることができる。
被告東京データは、原告から取り付けた本件同意書が訴外東京慈恵医大病院では使用できないものであること、また本件委任状の様式では、原告から適式な方法で同意を得たものとして取り扱うことができないことを知った時点で、委託者である被告東京海上日動に通知し、原告の同意を得る必要があることを告知すべき注意義務があったにもかかわらず、安易に訴外東京慈恵医大病院に提出した受任者欄白地の本件委任状(甲第二号証の二)の交付を受け、同被告の社員が、受任者欄に同被告の社名及び社員の氏名を補充記載した。
さらに同社員が、本件委任状の原告の氏名以外の原告の個人情報たる住所、生年月日、電話番号等を記載した際、受療者欄の原告の生年月日を誤記していることが明らかであるから、本件では原告への賠償手続上の事務効率性を重視したあまり、原告に対する本件委任状の取付け行為の説明がないことはもとより、原告の個人情報の一部の記載を誤るなど、慎重であるべき個人の診療情報の取扱いについて、極めて拙劣で、ずさんな事務処理がなされていると言わざるをえないから、被告東京海上日動及び被告東京データの本件各行為は、もはや単なる事務不相当の範疇を超え、原告の診療情報のプライバシー権を侵害する違法な行為であり、不法行為を形成する行為であるといわざるを得ない。この点に関する被告らの主張は採用しない。
三 争点二について
(1) 被告らは、不法行為における「損害」とは、現実に発生したものでなければならないところ、本件では仮に原告の主張を前提としたとしても、被告東京海上日動は、被告東京データに対し、原告の診療情報の取付事務を委託した後、原告の申し入れにより、被告東京データは、訴外東京慈恵医大病院から、原告の診療情報を現実的には取り付けておらず、原告の診療情報は、被告東京データにはまったく開示されていないから本件不法行為と、原告には、現実にプライバシー権が侵害された事実は、およそ生じていないというべきであり、「損害」は発生していないのであるから、不法行為における「損害」の要件を欠く以上、主張自体失当といわざるを得ないと主張している。
しかしながら、本件原告の供述によれば、原告は、訴外東京慈恵医大病院において、脳梗塞等により一八年来の既往症を有していた事実が認められるが、原告が、本件交通事故による受傷と原告の既往症との因果関係の有無を担当医から聞くため、平成一六年二月二六日に被告東京海上日動の社員と訴外東京慈恵医大病院に出向いた際、当該委任状の受任者欄に、原告とまったく面識のない第三者の社名と社員名が記載されているのではないかとの疑いを抱き、不審に思った原告が、同年三月五日に、本件委任契約した相手である被告東京海上日動の社員を自宅に呼び確認したところ、原告のまったく与り知らない被告東京データが、原告の受任者として、原告の氏名以外のすべての事項を記載し、上記病院での診療情報取得手続の委任者欄に記載されていることを知った。
そのことが原因で、原告は、被告東京データを介して原告のこれまでの診療情報が、すべて外部に漏れるのではないかとの不安を抱いたほか、同被告の社員が、原告の生年月日までも誤記していることを知るに及んだ時点で、原告が高齢である点を考慮しても、診療情報が漏れるのではないかとの不安感で、何日も寝られない重度の不眠症の状態に陥いるなど、本件では原告が被告らの行為により、現実的に多大な精神的損害を受けた事実を認めることができる。
(2) 本件原告のプライバシー権の侵害行為が、自己の情報をコントロールする権利である原告のプライバシー権の侵害であると評価する以上、被告らの本件委任契約による診療情報取得手続の過程で、被告らの高齢な原告への配慮に欠けた放漫かつ拙劣な違法行為によって、原告のプライバシー権の侵害が現実に引き起こされ(結果の発生)、かつ、被告らの行為と原告の精神的損害にはあきらかに因果関係が認められる点を考慮すると、本件では、たとえ上記のように個人情報の開示には、交通事故賠償目的の相当性その他相応の理由があったとしても、本件で最も慎重に扱われるべき原告の診療情報の取得というプライバシー権が侵害され、かつ、原告の個人情報である誤った生年月日が正しいものに訂正されないまま、結果的に原告の知らない第三者の被告東京データに手渡され、流通する可能性が極めて高かったことが認められる。
(3) 上記の事情を考慮すれば、原告の本件診療情報に関するプライバシー権は、第三者による情報開示により「現実に生じた損害」をいうのみならず、本来、原告のみに排他的に専属している自己の情報の入手、利用及び加工につき、原告の診療情報の排他的専属的入手権限が、被告らの加工行為によって違法に侵害されたこと、そしてその結果、原告の与り知らない第三者である被告東京データが、原告の誤った生年月日を放置したまま、原告の正しい診療情報が開示されない可能性もあった(同姓同名による他人の個人情報の混同の危険性を含む。)。
上記被告らの危険の惹起により乱された原告の「精神的損害」や、原告の「私生活の平穏を乱されたことへの精神的損害」についても「損害」として認めることは相当である。
(4) それらの精神的損害や、私生活の平穏の妨害による精神的損害が、本件では、原告が被告らの正当な目的である賠償手続の代償として受認すべき範囲内の不快感又は苦痛というべきであると解することは到底できず、被告らから本件交通事故に関する迅速かつ適正な損害賠償を受けることによって、その損害は除去されるものと評価することもできない。また、本件原告の受けた精神的損害は、原告の特別な損害感情と評価することもできないから、通常生ずべき損害としての因果関係もある。この認定に反する被告らの主張は採用しない。
四 以上の事実を総合的に考慮すれば、本件原告が被告らの各不法行為により精神的損害を受けた事実を認めることができ、それらは被告らの共同不法行為による損害であると認めることができるが、本件の精神的慰謝料は、結果として実質的に原告の個人情報である診療情報が、被告東京海上日動以外の外部に開示されたものではないから、原告の受けた精神的慰謝の評価としての損害額は金六万円であると評価するのが相当である。したがって、原告の請求は、主文第一項の限度で理由があるが、その余の請求は理由がない。
なお、付言すれば、本件は、請求額が金六〇万円で簡易裁判所の事物管轄ではあるものの、個人のプライバシー権の侵害に関する損害賠償請求事件であるから、高度な法律判断を要求されるものであり、本来は簡易裁判所で審理することに疑義がある事案であるとも思われ、当初地方裁判所への裁量移送も考慮したが、原告から簡易裁判所で審理を受けたい旨の強い要望があったことと、原告訴訟代理人である認定司法書士代理人が、本件訴訟で精力的に弁論をなしたこと、仮に本件を地方裁判所に職権で裁量移送すれば、認定司法書士の代理権が行使できないことなど、市民である原告側の利益も考慮したほか、被告らも、原告の強い希望を受け入れ、東京簡易裁判所での審理を了承し、東京地方裁判所への裁量移送を求めなかったことを付記する。
よって、主文のとおり判決する。
(裁判官 岡﨑昌吾)