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東京簡易裁判所 平成19年(少コ)916号 判決 2007年5月25日

平成19年(少コ)第916号退職金過払返還(通常手続移行)

主文

1  原告の請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

事実及び理由

第1請求の趣旨

被告は原告に対し,金15万6334円を支払え。

第2事案の概要

1  請求原因の要旨

(1)  被告は平成12年4月1日に原告会社に入社し,平成18年7月20日に自己都合により退職した。原告は被告に対し,平成18年9月1日,退職金として35万6334円を支払った。

(2)  前記の退職金は,平成16年8月23日,従前の中小企業適格退職年金制度におけるそれまでの積立金22万3950円を中小企業退職金共済制度(以下「共済制度」という。)へ移行し,以後原告が月額5000円の掛金を支払った結果,退職時35万6334円となった。

(3)  前記の共済制度への移行前から適用されていた就業規則の退職金支給基準によれば,勤続10年未満の社員は規定の50パーセントとなり,被告の場合の退職金は20万円となる。したがって,被告に支給された退職金は支給基準を超えており,過払分15万6334円の返還を求める。

2  争いのない事実及び前提事実

(1)  請求原因要旨(1)の事実は,原告が支払ったとする点を除き当事者間に争いがない。本件退職金は独立行政法人勤労者退職金共済機構(以下「共済機構」という。)が支払った(乙2)。

(2)  請求原因要旨(2)の事実は,証拠(甲2,乙2,証人A)により認められる。

(3)  請求原因要旨(3)の事実のうち,就業規則の退職金支給基準によれば被告の退職金が20万円となるとの事実は,証拠(甲1,証人A)により認められる。

3  本件の争点及び争点についての当事者の主張要旨

(争点)

原告が加入している中小企業退職金共済制度により被告(退職労働者)に支給された退職金が,原告の就業規則による退職金支給基準を上回る場合に,原告は被告に対して支給基準との差額の返還を求めることができるか。

(原告の主張要旨)

被告は,平成16年8月23日に現行の共済制度へ移行する際に,移行までの積立金22万3950円が従前の退職金支給基準を上回り,退職金支給基準より過払いとなることについて原告から説明を受け,了解していた。原告は,逆に退職金が退職金支給基準を下回ることとなる従業員に対しては基準額に達するまで上乗せ支給をしており,その原資として,被告のように過払いとなる従業員から過払分を返還させてこれに充てる必要がある。

(被告の主張要旨)

被告が現行共済制度へ移行する際に原告から説明を受け,了解していたとの主張は争う。

本件の共済制度における退職金受給権は従業員(被共済者)にあり,共済機構が従業員に対して直接退職金給付義務を負い,事業主は共済契約に基づき掛金納付義務を負い,共済機構からの退職金支払額の限度で従業員に対する退職金支払義務を免除されるに過ぎない。また,共済機構が従業員に対して退職金給付義務を負う退職金額は,原告の退職金支給基準とは関係なく,原告が共済機構と締結した退職金共済契約に基づき支払われた掛金とその納付月数によって算出される。原告は,このような本件共済制度の趣旨を認識した上で,これへの移行を選択したはずである。

第3当裁判所の判断

1  原告の請求は,就業規則による退職金支給基準を上回って共済機構から支給された部分は,被告がこれを保有すべき法律上の原因を欠く不当利得であるとしてその返還を求めるものと解される。

2  本件の事実経過について

争いのない事実,前提事実及び証拠によれば,本件の事実経過は次のとおりと認められる。すなわち,平成12年4月1日に原告会社に入社した被告について,当初は生命保険会社との間で適格退職年金契約を締結していたが,平成16年8月23日に現行の共済制度へ移行し,それまでの被告についての積立金22万3950円を本件共済制度に引き渡し,以後原告が掛金月額の最低額である5000円の掛金を支払い,平成18年7月20日の被告の退職に伴い,平成18年9月1日,共済機構から本件退職金35万6334円が支払われた。

3  原告の退職金支給基準及び現行共済制度移行の際の説明について

証拠(証人A,被告本人)によれば,被告は入社時に退職金支給基準の説明を受けており,この基準は被告入社以降変更されておらず(甲1の変更届は育児休業制度の導入に伴う事項に関する変更によるものと認められる。),この基準が原告被告間の労働契約の内容となっていたものと認められる。

しかし,平成16年8月23日に現行の共済制度へ移行する際に,移行までの積立金22万3950円が従前の退職金支給基準を上回り,退職金支給基準より過払いとなることについて被告が原告から説明を受け了解していた,との原告主張事実を認めるに足りる証拠はない。

4  中小企業退職金共済制度の趣旨について

(1)  本件中小企業退職金共済制度は,中小企業退職金共済法(昭和34年法律第160号。以下「中退法」という。)に基づいて運営され,中小企業の従業員について,中小企業者の相互扶助の精神に基き、その拠出による退職金共済制度を確立し、もつてこれらの従業員の福祉の増進と中小企業の振興に寄与することを目的とする(中退法1条)任意加入の共済制度である。

(2)  事業主がこの共済制度に加入(退職金共済契約の締結)することによって,従業員(被共済者)は改めて受益の意思表示をすることなく当然に利益を受け(中退法5条),その効果として,直接,共済機構に対して退職金受給権を取得するものであり,かつ,その支給を確保するために共済機構は直接従業員に退職金を支給し(中退法10条1項),退職金は掛金納付月数の区分に応じて算出され(中退法10条2項),受給権の譲渡も禁止されている(中退法20条)。他方,事業者にとっても,掛金の一部について国の助成が受けられ,支払った掛金が損金として非課税となり税法上の特典があるなどの利点がある。このような国の財政支援に基づく制度の趣旨に照らすと,従業員の利益を保護しようとする上記の各条項は,それに反する内容の合意の効力を認めない強行規定であると解するのが相当である。

5  原告の主張の当否

以上の事実経過及び本件共済制度の趣旨を踏まえて,原告の主張の当否について検討する。

(1)  本件共済制度による退職金は,原告の退職金支給基準の内容にかかわらず掛金納付月数の区分に応じて算出され,従業員は,直接共済機構に対して算出された退職金受給権を取得し,共済機構も直接従業員に対して退職金支給義務を負担することとされていることからすると,被告の本件退職金受給は,本件共済制度に基づくものとして法律上の原因があり,不当利得として返還すべきものとはいえない。また,原告による掛金支払は本件共済制度への加入を選択したことによる当然の負担であって,これを原告側の損失とみることもできないというべきである。さらに,本件退職金支給基準が労働契約の内容となっていることを根拠として共済制度による退職金との差額の返還請求を認めることは,従業員の共済機構に対する退職金受給権の一部の譲渡を強制するに等しく,譲渡禁止を定めた法の趣旨に反する結果となるので,本件退職金支給基準はその限りで効力を有しないと解するのが相当である。

(2)  原告は,退職金が退職金支給基準を下回る従業員に対してその基準額に達するまでの上乗せ支給の原資として,被告のように過払いとなる従業員から過払分を返還させてこれに充てる必要がある旨主張する。しかし,退職金支給基準が労働契約の内容となっている以上,事業主は当該基準に沿った退職金支払義務を負担しており,共済機構からの退職金支払額の限度で従業員に対する退職金支払義務を免除されるに過ぎないと解すべきであるから,基準額に達するまでの差額を支給することは義務の履行として当然であり,その原資の確保は原告の責任において行われるべきものであって,基準に照らして過払いとなる被告のような従業員から過払分を返還させてこれに充てる必要があるとの主張に合理的根拠をみいだすことはできない。

6  まとめ

以上のとおりであって,被告の本件退職金受給は不当利得として返還すべきものとはいえず,原告の主張に合理的根拠は認められないので,結局原告の請求は理由がないからこれを棄却することとして,主文のとおり判決する。

(裁判官 藤岡謙三)

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