東京簡易裁判所 昭和31年(ハ)518号 判決 1958年5月28日
原告 石河はな
被告 中村豊次
主文
被告は原告に対し別紙目録第二記載の条件を以て同第一表示建物を明渡し且昭和三十一年三月一日から建物明渡ずみに至るまで一ケ月金八百円の割合による金員を支払え。
原告其余の請求を棄却する。
訴訟費用を二分し原告及被告をして各其一を負担せしむる。
事実
甲 原告の申立、陳述、立証
第一、請求の趣旨
原告訴訟代理人は左の如き判決を求むる旨申立て且仮執行の宣言を求めた。
被告は原告に対し別紙目録第一表示の家屋を明渡し且昭和三十一年三月一日より明渡済に至るまで月額金八百円に当る金員を支払え。
訴訟費用は被告の負担とする。
第二、請求の原因
原告訴訟代理人が陳述した請求原因の要旨は次のとおりである。
一、家屋の所有権
原告は別紙目録第一表示家屋(以下本件家屋と表示する)の所有権者である。
二、家屋の賃貸借
本件家屋は昭和三十年一月まで訴外横山徳治に賃貸していたところ訴外樋下田ハルが同居していた同月樋下田ハルが賃料を持参したので原告は同人宛賃料の領収証を出した。横山徳治は昭和二十年一月中いづれにか退去した。原告は引続き樋下田ハルに賃貸していたところ被告がハルの内縁の夫として同居していることが判つた。昭和二十二年十月頃樋下田ハルが何れかえ退去し被告が単独で本件家屋に居住するようになつた。原告は当時本件家屋を使用する必要があつたが被告が退去しないので已むなく賃料月末払の約期間を賃貸した。現在の賃料は一ケ金八百円である。
三、借家法第一条の二による解約
原告の二女喜美子は昭和十九年五月三十日訴外橋本清秀と結婚し原告方に同居して二女を産み長女は既に小学校に入学している。原告は芸妓置屋を業としているので子女の教育上悪い結果を考えられるので橋本清秀夫婦及子供(三女秀子は原告の養女だが実際は橋本夫婦が育てている。)を別居させる必要にせまられている。
被告は全くの単身で同家屋はただ寝泊りをするのみで同家屋内で何等の業務もしていない。
之に反し原告の現状は原告橋本清秀夫婦及橋本の子供二人(長女は通学中)の五人の外女中二人芸妓六人の合計十三人が居住していて室数は九室で畳数は五十七枚なので被告に対して明渡を求むるの止むなきこと及原告の孫に当る橋本清秀の子の教育上原告方から別居さする必要があることを考えるとき本件家屋の必要なことが被告より遥に大であること明かである。
右の理由によつて原告が本件家屋明渡の請求をすることは借家法第一条の二に規定すを解約の申入に正当な事由があるものに該当すると信ずる。
そこで原告は被告に対し再三家屋の明渡を再三懇請したが被告之に応じないので昭和三十年九月二十三日内容証明郵便で解約の申入をなし該郵便は同月二十六日被告に到達した。
被告は法定期間の六ケ月を過ぎた昭和三十一年三月二十七日になつても家屋の明渡をしないので請求の趣旨記の約定賃料相当の金員及家屋明渡を求むるため本訴に及んだ。
四、「否認の事情」に対する答
被告は「原告が裏の家屋を高価に売つた」というているが事実は全く違つている。
被告の主張する家屋は原告の長女奥山富美子の所有していた中央区日本橋人形町二丁目八番地十三所在木造トタン葺二階建居宅一棟建坪二階十坪である。該家屋に橋本清秀が居住していたのは昭和十八年十月から同二十年三月までで奥山富美子が家屋を売却した昭和二十八年十二月十五日までは訴外高橋某が賃借していたのである。奥山富美子は昭和二十八年十二月十五日生活の必要から訴外大橋セツに家屋を売却したもので原告とは何等の関係がない。
被告「本件家屋と原告現住家屋とは三尺程しかはなれていない故教育上同一家屋に居住すると殆ど変りがない」と主張するが原告のように芸妓置屋業をしている家屋内に居住すると三尺でも離れた家屋に別居するとは教育上大きな差異がある。
第三、立証
原告訴訟代理人は立証として甲第一号証の一、二第二号証第三号証の一、二第四第五号証を提出し証人奥山富美子橋本清秀及原告本人の訊問を求めた。
乙 被告の申立陳述立証
第一、請求の趣旨に対する答
被告訴訟代理人は左の如き判決を求むる旨申立てた。
原告の請求を棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
第二、請求原因に対する答
被告訴訟代理人は請求原因に対し左の如く答えた。
一、家屋所有権についての主張について
此点に関する原告の主張(事実摘示甲第二の一)を認める。
二、賃貸借契約の主張について
此点に関する原告の主張(同第二の二)中原告被告間本件家屋賃貸借契約成立の年月日及び其事情は相違する。
被告は昭和十九年十月八日原告承諾のもとに訴外横山徳治が疎開した後を受けて原告から本件家屋を賃借し当時原告の内縁の妻であつた訴外樋下田ハルと共に居住していたものである。
原告の此点に関する主張中訴外横山徳治に関する部分は不知其余は争う。
三、解約の主張について
此点に関する原告の主張(同第二の三)中原告の二女と訴外橋本との結婚原告方に二女児と共に同居の各事実は不知、原告が芸妓置屋を業とする事実、内容証明郵便到達の事実を認める。橋本夫婦及二女児及原告養女(三女)を別居せしむる必要があるとの主張を否認する。其余の原告の主張事実を凡て争う。
原告の主張する解約申入が正当事由にもとづかないことは次の点から明白である。
(一) 訴外橋本清秀夫婦は昭和十九年五月三十日に結婚したので原告の現住居の裏にある原告所有家屋に居住していたところ昭和二十九年八月頃原告は右家屋を当時原告方で働いていた芸妓大橋セツに金百五拾万円で売渡し其結果前記橋本夫婦及子供は原告方に同居するに至つたものである。従つて子女の教育上の問題はその当時からすでに判つていたことであるにかかわらず右家屋を第三者に売却しておきながら教育を理由として被告に家屋明渡を求めるのは失当甚しきものといわねばならない。
(二) 又原告の住居と被告の住居は約三尺ばかりの露路をへだてて接しているのであるから被告宅に仮りに橋本夫婦を居住させても原告方に同居しているのと殆ど変りない状況である。従つて別居による教育上の配慮というが如き主張はナソセンスであり口実にすぎないものという外ない。
第三、立証
被告訴訟代理人は証人樋下田ハル及被告本人の訊問を求め検証の結果を援用し甲第四号証の成立につき不知と述べた外爾余の甲号各証の成立を認めた。
理由
第一、賃貸借契約の成立について
原告(貸主)と被告(借主)間別紙目録第一表示の家屋を目的として賃料一ケ月金八百円毎月末払期間の定のない賃貸借契約が昭和三十一年四月十一日(訴状受付の)現在存続していた事実自体については当事者間に争がない。
該賃貸借契約の成立の年月日成立に至る事情につき当事者の主張は一致しないが重要でないと考えられるから之に対して判断しない。
第二、解約申入について
一、原告の側に存する事情について
(一) 原告の営業家族同居人及室の使用について
原告が訴起の以前から芸妓置屋を経営している事実は当事者間に争がない。
原告住居(係争家屋と区別するため以下原告住居と表示する)には原告と二女喜美子、喜美子の夫橋本清秀其二人の女児、原告三女秀子、芸妓四人、女中一人が九室に居住(昭和三十二年六月四日訊問の日現在)する事実は証人橋本清秀の供述によつて認定せられる。原告の孫(清秀の子)二名が久松小学校に通学している事実は原告本人の供述によつて認定することが出来る。
検証の結果、並に検証現場に於ける原告の指示によると原告住居階下八畳室は原告の居間食室として使用し之につづく六畳室は仕度部屋寝室として使用し来六畳室は芸妓に於て使用し西北四畳室は女中部屋として使用し、二階南三畳室及之につづく十畳室、六畳室は前記橋本清秀夫妻と二人の子が使用し、北西の六畳の二室と三階三畳室は芸妓之を使用してる。
(二) 子女の教育について
「原告が子女をよりよき国民よりよき社会人に教育しようとする原告の考橋本夫妻と子二名を芸妓置屋を営む原告住居と隔離した家屋に居住せしめようとする原告の考は十分に了解せられるところである。仮令原告住居と本件家屋との距離が三尺に過ぎないとしても別棟に且隔離して橋本等が生活することは原告の孫(橋本の子)の教育上必要である。
(三) 旧奥山所有家屋の売買について
訴外奥山富美子が中央区日本橋人形町二丁目八番地十三所在木造トタン葺二階建住居一棟建坪十七坪二階十坪(係争家屋と区別するための奥山旧家屋と表示する)の所有者であつた事実、同訴外人が婚家先の都合で昭和二十八年十二月十五日之を訴外大橋セツに対し代金百弐拾万円で売却し且引渡を了した事実は証人奥山富美子の供述及之によつて真正に成立したと認められる乙第四号証の記載によつて認定せられ又該家屋には昭和十八年十月から同二十年二月まで前示橋本清秀が居住し同年三月まで原告居住しその后訴外高橋つるが右家屋売渡の日まで居住していた事実は証人橋本清秀の供述によつて認定せられる。
それ故奥山旧家屋が原告の所有の主張(事実摘示乙第二の三の(一))は理由がない。
(四) 本件家屋の利用価値について
本件家屋の利用価値が現状では極めて少ないことは后記二の(二)判示のとおりである。
検証の結果によると原告住居も本件家屋も三階を増築し得る構造もつている。原告は原告住居の北部と本件家屋とに三階を附加増築して二室又は三室を昨り本件家屋の二階一部から階下に至る勾配の緩るく且広い階段をつくるとすれば不幸にして震災が起つた場合でもたやすく本件家屋から露路(原告住居と東隣旅館との露路、幅約三尺)に出ることが出来る。又芸妓置屋業をいとなむ原告住居と隔絶すれば子女の教育によい影響を受けることを期待し得られる。本件家屋は原告にとり増築して使用するとせば利用価値が大きい。
(五) 原告の配慮
原告がその利益のため契約を将来に解除し本件家屋の明渡を求めんとする以上被告の将来の生活につき考慮を払うべきこと当然である。
原告は被告に対し立退料として金弐拾万円の贈与を申出ている。
原告は之により相互扶助の原則にもとづき人として又貸主として道義上法律上の義務を果したことになる。
二、被告の側に存する事情について
(一) 被告の家族、営業、得意先について
被告に他に家族がなく単身生活している事実、化粧品等の行商をなして生活している事実、得意先が浜町芳町人形町等本件家屋より近い場所と巣鴨方面である事実は被告本人の供述によつて認定せられる。
(二) 本件家屋の利用価値について
検証の結果によると本件家屋階下六畳室には外部からの光線が入らず暗く空気は淀み腐敗しい居る。土台が腐蝕し床を歩行することが危険な状態である。
検証の結果によると本件家屋の二階二畳室及八畳室は薄暗く電燈をつけなければ新聞等も読めない状態である。
要するに本件家屋は現状の侭では被告にとつても又他の何人にとつても利用価値が極めて少い。
東方全部南方一部が第三国人の経営する旅館に包まれている。其旅館の建築に当り法規に従わなかつたため光線を遮ぎり空気の流通を阻害する結果となつた。第三国人が改築する見とおしがない。以上を検証現場に於ける当事者双方の指示説明するとこによつて認める。
(三) 権利の濫用
現在東京都録に旧市外に於て独身者宿舎又はアパート一室を借受けることは除々乍ら容易になつた。権利金数万円賃料一ケ月数千円を以て借入れること困難でない。以上は顕著である。
被告が前(二)判示の如き利用価値の少い本件家屋に執着して新に他に健康なる環境の下にある健康なる住居を求めることを敢て為さないことは他意あるものと考えざるを得ない。以上の状況の下に於て解約の申入を拒絶するは賃借権の濫用である。
三、比較について
前一に判示する原告側に存する事情と前二に判示する被告側に存する事情とを比較すると次のとおりになる。
原告には本件家屋を自ら使用する必要がある。原告は被告の将来に対し考慮を払つて其道義上法律上の義務を果している或は果さんとしている被告は都内住宅事情の往日の如くでなく即好転する事情に拘らず原告の申入を拒否することは賃借権の濫用となる。
被告が健康なる独身宿舎又はアパート一室を借受けるにつき権利金を支払うとせば之を金四万円と見る。其賃料を一ケ月四千五百円と見。本件家屋の賃料八百円を控除すれば一ケ月金参千七百円だけ多く支払うことになる。それ故原告が被告に対し立退料金弐拾壱万七千六百円を贈与交付すれば被告はより健康であり安全である居室を借受け四ケ年間現在と同一の収支状態を(少くも住居に関する限り)つづけることが出来る筈である。原告が被告の住居につき四ケ年間補償をなすを以て必要とし且十分であると判断する。
原告が被告に対し立退料金弐拾壱万円七千六百円を贈与交付することを一の条件として一切の事情を綜合考慮すると将来に契約を解除するにつき正当なる事由が原告に存することになる。
四、解約の申入
原告が被告に対し昭和三十年九月二十三日内容証明郵便を以て借家法第一条の二にもとつき解約の申入をなし該郵便が被告に同月二十六日到達した事実は被告の自白するところである。
原告被告間の本件家屋につき存続した賃貸借契約は昭和三十年九月二十六日から六ケ月を経過した昭和三十一年三月二十五日(午后十二時)に終了した。
五、賃料及損害金の額について
被告が昭和三十一年三月一日から同月二十五日に至るまでの賃料を支払つたとの主張立証をなさないから尚支払わないと推定する。
原告が被告に対し昭和三十一年三月一日から本件家屋明渡に至るまで一ケ月金八百円の割合による賃料並に同相当の損害金の支払を求むる請求部分は正当である。
第三、請求の一部認容
原告の請求は主文第一項の範囲に於て正当であるから之を認容する。其余の請求(無条件明渡を求むる部分を意味する)は失当であるから之を棄却する。
主文第一項は請求の趣旨に包含せられる。其一部である。主文第一項を言渡すことは当事者に申立てない事物を皈せしむることにならない。一の制限を付したに過ぎない(スタイン、ヨナス民事訴訟法第一巻第三百八条註第一の四、フオールスター、カン民事訴訟法第一巻八一五頁参照)請求を棄却することも妥当でなくさりとて全面的に請求を認容するは被告に過酷である場合被告に有利なる条件を附して請求を認容するも亦止むを得ない(独乙法律週報二六年一〇二六頁以下独乙帝国裁判所判決参照但同楼の請求に対し制限を附して請求を認容した事件である)訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八十九条第九十二条の規定を適用する。
此判決には仮執行の宣言をつけない。
仍つて主文の如く判決する。
(裁判官 庄子勇)
目録
第一、賃貸借の目的である家屋
東京都中央区日本橋人形町二丁目八番地十三
家屋番号同町二三〇番
木造瓦葺二階建居宅一棟
建坪五坪二階五坪
第二、明渡の条件
「被告が原告から立退料金弐拾壱万七千六百円の贈与を受けること」を条件として前第一表示の家屋を原告に明渡する。