東京高等裁判所 平成元年(う)72号 判決 1989年7月10日
主文
原判決を破棄する。
被告人を懲役五月に処する。
理由
本件控訴の趣意は、弁護人斉藤治作成名義の控訴趣意書及び同補充申立書に記載のとおりであるから、これらを引用する。
事実誤認の主張について
所論は、要するに、本件犯行当時、被告人は心神耗弱状態にあったと疑われるところ、被告人は原審で弁護人との接見を拒絶した模様であり、そのため弁護人において被告人の精神状態を十分見分することが出来なかったためか、原審において、弁護人は被告人の責任能力の有無について審理を求めず、原審裁判所もその点の審理を尽くさないまま被告人は正常な能力を有するとの判断をしたが、それは事実誤認である、というのである。
そこで検討するのに、原判決挙示の各証拠によると、次の各事実が明らかである。
(1) 被告人は、本件犯行前日である昭和六三年一一月六日、窃盗及び道路交通法違反の罪による最終刑の執行を受け終わって水戸刑務所を満期出所したが、帰住先となっていた本籍地の実家に帰らず、徒歩で水戸市内へ向い、同市内のデパートやJR水戸駅構内で時間を過ごすうち、深夜となって泊まるところがなかったところから、自動車を盗んでその中で泊まろうと考え、適当な自動車を捜すため、タクシーに乗って市内から少し離れた場所へ向かったこと、
(2) タクシーを降りて付近を捜すうち、翌七日午前〇時頃、原判示の関東運輸株式会社水戸営業所東側空地に原判示の普通乗用自動車がエンジンキーをつけたまま止めてあるのを発見し、これを盗もうと考え、エンジンを掛けようとしたが、バッテリーが切れた状態となっていて掛からなかったため、通りがかりのトラックに頼み、リード線を借りてトラックのバッテリーでエンジンを掛け、これを乗り出したこと、
(3) その後、ガソリンスタンドで給油し、その際、バッテリーの交換をするなどして、この自動車を運転して遊び回った末、一一月九日頃から水戸市千波町四七八番地の三所在の山本整形外科医院駐車場に車を止め、その車内で寝たりしていたこと、
(4) これを見た同病院関係者らは、被告人の様子に尋常でないものを感じ、別件の交通事故関係者からの事情聴取にきた警察官にその旨届出て、同警察官において職務質問をした結果、被告人の本件犯行が発覚したこと、
(五) 被告人は、原審公判廷において、本件事実を認め、刑に服するのもやむを得ないと述べる一方、最終陳述においては「釈放してもらいたい」と述べるなど前後矛盾する供述をし、また、原審弁護人との面会を必要がないので拒絶したことを肯定していること等の各事実を認めることが出来る。
ところで、当審公判廷における被告人の態度や供述内容、被告人が当審弁護人宛に差しだした葉書(八九年三月三日の消印があるもの)等には、被告人の精神状態が到底通常と思えない様子が顕著に現れているが、その様子からすると、被告人のこの様な状態は、原判決後はじめて現れたものではなく、原審審理中から同様であったのではないかと推測される。そして、この様な一見して尋常とは見えない供述態度の被告人が、前記(5)記載の様な内容の供述をしているのであるから、原審としては被告人の精神状態等について必要にして十分な審理を尽くすべきであったと考えられる。ところで、当審における事実取調べの結果、例えば、医師市川達郎の被告人に対する精神鑑定の結果(同人作成の被告人に対する精神鑑定要旨を含む)によると、現在の被告人は、「滅裂思考、精神運動不安、衒奇症、独語、疎通性欠如等を示す精神分裂病の状態にあ」り、「犯行時及び現在共に、事理の是非善悪を弁識し、それに従って行動する能力は喪失している。」とされていて、同鑑定人がその様な鑑定をするに至った診断経過のほか、被告人が、原判決後当審弁護人に差しだした前記葉書の記載内容、当審公判廷における被告人の供述態度や供述内容等を併せて考察すれば、本件犯行時に被告人は精神分裂病に罹患していて正常な精神状態になく、少なくとも自己の行為の是非善悪を弁識し、その弁識に従って行動する能力において通常人に比し著しく劣る状態にあったのではないかという疑いが強く残ることは明らかであるというべきである。この様な疑いが残る限り、被告人は責任能力の完全な状態にあった旨認定した原判決には事実誤認があると言うほかない。そうすると、原判決には、原判示の犯行時の被告人の精神状態について十分に審理を尽くさず、その結果、被告人の責任能力について事実の誤認があり、右の誤認が判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、その余の量刑不当の主張について判断するまでもなく、原判決は、その点において破棄を免れず、論旨は理由がある。
よって、刑訴法三九七条一項、三八二条により原判決を破棄し、同法四〇〇条但書により、更に次のとおり判決する。(罪となるべき事実)
被告人は、昭和六三年一一月七日午前〇時頃、茨城県水戸市東野町四九八番地の一関東運輸株式会社水戸営業所東側空地において、同所駐車中のA所有の普通乗用自動車一台(時価五万円相当)を窃取したものであるが、右犯行当時精神分裂病に罹患をして心神耗弱の状態にあったものである。(証拠の標目)<省略>(累犯前科)
被告人は、
1 昭和五九年五月一七日福島地方裁判所相馬支部において、毒物及び劇物取締法違反、道路交通法違反の罪によって懲役四月に処せられ、同五九年八月一六日右刑の執行を受け終り、
2 昭和六〇年五月二〇日水戸簡易裁判所において、
(1) 窃盗罪によって懲役二月及び
(2) 1の刑執行終了後に犯した窃盗罪によって懲役一年二月にそれぞれ処せられ、
(2)の刑の執行を同六一年一〇月二二日に、また、(1)の刑の執行を同年一二月一七日にそれぞれ受け終わり、
3 その後犯した窃盗及び道路交通法違反の罪によって、昭和六二年七月六日静岡地方裁判所において、懲役一年四月に処せられ、同六三年一一月五日右刑の執行を受け終ったものであって、
右の事実は、検察事務官作成の前科調書、2及び3の前科に関する各判決書謄本等によってこれを認める。(法令の適用)
被告人の判示所為は、刑法二三五条に該当するところ、被告人には前記の各前科があるので、刑法五九条、五六条一項、五七条により四犯の加重をし、右は心神耗弱者の行為であるから、同法三九条二項、六八条三号により法律上の減軽をし、その刑期の範囲内で、本件の犯行態様、実害の程度、被告人の前科と同種の犯行を反復している状況、被告人の病状と責任能力の程度等を総合考慮して、被告人を懲役五月に処し、当審及び原審における訴訟費用は、刑訴法一八一条一項但書も適用して被告人に負担させないこととする。(心神耗弱と認めた理由について)
当審弁護人は、本件犯行時の被告人の責任能力について心神耗弱の主張をしているので、当審において、犯行時における被告人の責任能力について精神鑑定を行ったところ、鑑定人である医師市川達郎の被告人に対する精神鑑定結果(同人作成の被告人に対する精神鑑定要旨を含む)によると、現在の被告人は、前述のとおり、精神分裂病の状態にあり、「犯行時及び現在共に、事理の是非善悪を弁識し、それに従って行動する能力は喪失している。」というのである。そして、精神分裂病に罹患しているとされる者の行為については、法的にも、心神喪失を理由として責任能力がないと判断されることが多いと考えられるのであるが、これを本件の証拠関係に即して検討するのに、被告人は、本件当時、盗んだ自動車のバッテリーが切れてエンジンが掛からないと見て取ると、早速他の車の運転手にバッテリーとリード線を貸してくれるように頼み、自動車を運転して走り回る途中、ガソリンスタンドでバッテリーの交換をし、ガソリンが不足すると補給し、それらの代金を異常なく支払い、長距離にわたって事故なく運転し、駐車するに当たってはそうするのにふさわしい病院の駐車場を選んで止めるなどしていたことが明らかである。また、被告人がこれらの行為を単なる動作として行っていたものではなく、行為の意味を理解しながら行っていたと見られることは、例えば、被告人が病院の駐車場で警察官から職務質問を受け、その際乗車していた自動車の入手経過を質問されたのに対して、「これは私が買ったものです」と述べ、その購入先については「忘れました」と言ってそれ以上の追及をかわそうとし、その後本署に同行されて更に購入先を追求されると、「本吉田の社長に貰った」と言って、更に虚偽の弁明を試みていること(緊急逮捕手続書)、すなわち、その時点での被告人には、警察官の職務質問の核心がどの点にあり、また、自動車の入手先に関する被告人の供述がどの様な意味を持っているかを理解した上で応答していると見られる事実に徴しても明らかといえる。その他、当審公判廷における被告人の供述態度や供述内容、これまでの受刑中あるいは勾留中の行状についての照会結果等を総合して考察すると、被告人は、本件犯行時、事理是非善悪を弁識し、それに従って行動する能力を完全に喪失した状態にはなく、精神分裂症に罹患していたとはいえ、右の能力が著しく低い状態、すなわち、心神耗弱の状態にあったと認めるのが相当である。
よって、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 船田三雄 裁判官 松本時夫 裁判官 秋山規雄)