東京高等裁判所 平成元年(ネ)3055号・平元年(ネ)2879号・平元年(ネ)2878号 判決
1 被控訴人と須田は、いずれも会社員であって、右同日午前八時四〇分頃、通勤の途上に前示快速電車の同じ車輛内の身近な位置に乗り合わせていた。電車が中野駅を出る頃、須田は、進行方向に向かって左側のドア及び戸袋のすぐ横に、進行方向に向いて立ち、左腕を上げて手と肘をドアにあてて身を支え、右手で座席の端部の柱を握っていた。七月でもあり、須田は、半袖のワイシャツにズボンの姿であり、ズボンは、細めの既成品を当日初めて身につけたものであったが、足にぴったり付く感じで、ゆったりはしていなかった。電車は、中野駅から混雑が激しくなり、身動きすら困難な状況であった。
2 須田は、中野駅を発車してすぐ、ズボンの右後ろのポケットに入れていた厚さ約一センチメートルの定期入れが、三、四回にわたり、少しずつ上にあがるような感じがしたので、すりではないかとの疑いを抱いた。そのポケットには、ボタンをかけていなかった。以前に電車の中などでズボンの右後ろのポケットに入れていた財布をすられたことが三度もあったので、今回もそうではないかと思って注意を集中し、犯行が終った時に犯人を捕まえるため、犯人が定期入れを抜き取るのを待つこととした。そして、すりであるならばすぐ後ろにいる者が犯人であろうと考え、その者の服装を確認するため左脇下から後ろを見ると、図面のようなものを巻いてビニールでくるんだ筒状のものを持った男(被控訴人)がいたので、その服装を確認した。それまでは、指で直接定期入れを押し上げているのかと思っていたが、その紙筒で定期入れを上げているのかもしれないと思った。
3 被控訴人は、須田のすぐ後ろに立っていたが、アルバイト先に届けるべきトレース紙を筒状に巻いたものを腕を下げた状態で両手で持っていた。須田は、その後更に定期入れがあがるように感じ、最後には完全にポケットから抜き取られたように感じた。その頃、電車は、東中野を過ぎて右に曲がり、被控訴人は、右から左に強く押されて左肩がドアの窓ガラスに押し付けられたので、ガラスを割らないように、肩をガラスから離そうとして、左に向きを変えた。
4 須田は、被控訴人が定期入れをすりとったものと思い、左から後を振り向くと、被控訴人の左手が須田のポケットから離れるように見えたが、被控訴人は須田の定期入れを持っていなかった。須田は、おかしいと思い、今度は右から後ろを見て自分のズボンの右後ろのポケットを目で確かめたところ、定期入れがポケットの口の線から三角状に、一番高いところで三、四センチメートル突き出ていた。
そこで、須田は、ドアの方に身体を向け、被控訴人の顔をはじめて見、「何をするんだ。お前は、プロのすりか。」とどなり、左手で被控訴人のネクタイの結び目のあたりをワイシャツごと掴み、被控訴人を窃盗未遂の現行犯として逮捕した。
5 須田が被控訴人の顔を見たときは、被控訴人は、汗を流しており、顔も青かった。また、須田の見たところによれば、被控訴人は、紙筒をどちらかの手で持って、それを一瞬後ろに隠すような動作をし、さらに、電車の中では一切無言であり、弁解はなかった。そこで、須田は、被控訴人が、犯行の発覚により青ざめ、脂汗を流し、また、観念して無言となったと思い、犯行を確信して、ネクタイをワイシャツごと掴んだまま新宿駅で下車し、被控訴人を同駅の鉄道公安室東口分室まで連行した。
右認定に反する被控訴人本人尋問第一回、第二回は、前掲各証拠に照らし、採用しない。
四 右に認定した事実に基づき、須田が被控訴人を現行犯人として逮捕したことが違法な行為であったかどうかについて検討する。
1 刑事訴訟法二一二条、二一三条によって現行犯人を逮捕するには、特定の犯罪が行われたこと及び特定の者がその犯人であることが、犯行時又はこれに接着した時において明白であることを要するものである。そして、現行犯人の逮捕があった場合において、右の要件が満たされていたかどうかは、その時点における具体的な状況に基づいて客観的に判断されるべきであり、逮捕者の主観において犯行及び犯人が明白であったことをもって足りるものということはできない。もっとも、そこで斟酌されるべき具体的な状況は、逮捕者が現認した犯罪行為自体についての状況のみならず、逮捕者に認識された、犯行に接着する時点における諸状況をも包含するものと解するのが相当である。このような観点から、現行犯人の逮捕につき、その要件を欠くものであって違法であると判断される場合には、その逮捕行為が民事上も違法な行為であるとされ、不法行為を構成する余地があることはもちろんであるが、逮捕が、要件において欠けるところがなく、適法であると判断される限りにおいては、後に被逮捕者につき犯罪の嫌疑が十分ではないことが判明しても、逮捕行為自体が違法であったとの評価を受けるものではなく、したがって、それが民事上不法行為を構成する余地もないものということができる。
そこで、本件において、犯行及び犯人が逮捕の際に明白であったかどうかについて検討する。
2 須田が被控訴人を逮捕する直前に、定期入れがポケットから三角状に三、四センチメートル出ていたことは前述のとおりである。須田がその前に定期入れをどのくらい深くポケットに押し込んでいたのかについては、須田は、以前にすりの被害に遭ったことがあるので、定期入れをポケットの底まで押し込む癖があったと供述し(須田本人尋問第一回)、この供述は信用することはできるから、当日も平常どおり定期入れをポケットの底まで押し込んだものと推認される。そして、歩行や混雑する車内で揉まれたことなどのために、ポケット内で定期入れが移動することがあり得るとしても、ポケットの底まで入っていたものが、これによって三角形状に三、四センチメートルも突出するというのは現実的ではないうえに、前認定のように、須田は、定期入れが三、四回にわたって上にあがるような感触を得ていたのであるから、その感触と右突出を現認したこととによって、それが人為的な原因によるものであり、すり行為の着手があったものと判断したことには一応の合理性があったということができる。
3 被控訴人は、須田のすぐ後ろに密着して立っていたのであるから、何者かによるすり行為の着手があったとすれば、被控訴人は、その疑いを受ける立場にあったということができる。しかし、電車内は混雑していて、須田の右隣や右後方にも人がいたのであるから、これらの人が手を出した可能性も一概に否定することができない。そして、定期入れが突出した状態においては、犯行があったとしても末遂の段階であるから、これを被控訴人の犯行と認めるには、その犯行を現認するか、又は被控訴人の動作に極めて不審な点があるなどの犯行と被控訴人との結びつきを明白に裏付ける状況を現認することが必要であるというべきである。
須田が右隣や右後方の者の動静を確認したことを認めるに足りる証拠はないが、前認定のとおり、須田は、被控訴人が自分のすぐ後ろにいたこと、紙筒を持っていたこと、被控訴人の左手が須田のポケット付近から離れたように見えたことから、被控訴人が怪しいとみて、そのネクタイとワイシャツを掴んだところ、被控訴人の顔は青ざめ、脂汗を流しているように見えたうえに、被控訴人は無言であって、同人からは抗議や否認の言葉が全くなかったので、被控訴人が犯人であると確信してこれを鉄道公安室に連行した。被控訴人が立っていた位置とこのような被控訴人の一連の動作やしぐさは、不審なものであって、被控訴人が犯人であることを疑わせるものである。
右の動作のうち、被控訴人が紙筒を所持していたことが被控訴人と犯人を結びつけるのかどうかについてみると、紙筒を使用するすり犯のごときは、よくあるすりの類型とは到底いえないが、須田は、過去に三回もすりの被害に遭ったために、すりには敏感になっていたことと、プロのすりは道具を使うことがあると聞いていたこと(須田本人尋問第一回、第三回)や紙筒が押しつけられていたことから、紙筒を使用したすり犯人と思い込んだのであり(このことは、「お前はすりか。」とどなったことからも裏付けられる。)、この判断には、犯行と紙筒との結びつきに関するかぎりでは、早計のきらいがあったといえないことはない。しかしながら、後記のように、捜査を担当した山口警察官、大森検察官とも、実験によって被控訴人の所持した紙筒によっては犯行が困難であることが確かめられるまでは、被控訴人が紙筒を用いてすり行為をした可能性を否定していなかったことからも窺われるように、紙筒を用いた犯行と考えること自体がおよそ合理性を欠くものということはできないから、前認定の状況のもとにおいて、右紙筒の所持が犯行と犯人とを結びつける手掛かりの一つと考えたことには一応の根拠があったということができる。
被控訴人の手が須田のポケットからはなれたとの点については、前認定のように、被控訴人が身体の向きを変えたことによる動きであった可能性があるが、左手で定期入れを引き上げようとして、それを中止したあとの動作であったことも考えられるところであるから、この事実も被控訴人が犯人であることの一つの徴表であることを否定することができない。
被控訴人が、顔が青ざめ、脂汗を流していたと須田が認識したことについては、被控訴人は、本人尋問第一回において、胃潰瘍を患ったことがあり、また満員電車の中で自然に汗を流していたと供述する。確かに、満員電車のなかではそれもあり得るし、また突然犯人呼ばわりをされれば、犯人でなくとも興奮して顔が青ざめ、脂汗を流すこともないとはいえないと考えられる。しかし、犯罪者が犯罪の発覚によりそのような状態に陥る可能性があることは、誰にも理解することができるところであり、しかも被控訴人は無言であって、抗議の言葉もなかったのであるから、被控訴人のこの状態をもって犯人であることの手掛かりであると考えることは、少しも不自然なことではない。
4 このようにみてくると、被控訴人が須田に密着していたこと、定期入れが突出していたことなど、須田が認識したそれぞれの動作や情況の一つ一つを取り上げると、それだけでは犯行や犯人を明確に裏付けるものということはできないけれども、これらを全体として観察すると、須田の定期入れをすり取る行為に着手した者があり、被控訴人がその犯人であることにつき、客観的にみて明らかであったといえるだけの状況があったものということができる。
そうすると、須田が被控訴人をすり未遂の現行犯人として逮捕したことは、刑事訴訟法二一二条、二一三条に適うものであり、これをもって民法上の違法な行為であるということはできない。≪中略≫
ところで、鉄道公安職員が私人から現行犯逮捕をした被疑者の身柄を引き渡された場合においてとるべき手続を定めた明文の規定はない。しかしながら、鉄道公安職員の職務に関する法律(以下「職務法」という。)三条ただし書によれば、鉄道公安職員自身が現行犯人を逮捕した場合には、これを検察官又は司法警察員に引致すべきことが定められており、成立に争いのない乙第一ないし第三号証によれば、鉄道公安職員捜査要則(鉄道公安本部長の昭和四四年四月二五日鉄公本示四号、その後、数次にわたり改正される。)、鉄道公安本部長の昭和四四年六月三日鉄公本示六号、昭和四五年四月七日鉄公本示三号等の指令により、鉄道公安職員が現行犯人を逮捕したときは、検察官又は司法警察員に被疑者を引致すべきこと、同被疑者に犯罪事実の要旨及び弁護人の選任権を告知し、弁解の機会を与えることは、刑事訴訟法二〇四条、二〇三条により、引致を受けた検察官又は司法警察員においてその手続を行うべきこと、右引致までに相当時間を要する場合には、司法警察員に相当する鉄道公安職員がこれらの手続を事実上行うことが望ましいものとされていること、鉄道公安職員は、逮捕した現行犯人の身柄は、誤逮捕であることが明らかとなった場合や刑事未成年者であることが明らかとなった場合等に限って、釈放すべきこととされていることが認められる。そして、右各指令は、職務法や刑事訴訟法二〇四条、二〇三条の趣旨に合致し、適切なものであるということができ、右各指令の趣旨からすれば、鉄道公安職員が私人から現行犯逮捕をした被疑者の身柄を引き渡された場合においても、鉄道公安職員が現行犯人を逮捕した場合と同様に、誤逮捕であることが明らかとなった場合や刑事未成年者であることが明らかとなった場合等においては、鉄道公安職員の権限においてこれを釈放すべきであるが、その余の場合には、被疑者をすみやかに検察官又は司法警察員に引致すべき義務を負っているということができる。
この点につき、被控訴人は、鉄道公安職員が私人から現行犯逮捕をした被疑者の身柄を引き渡された場合には、現行犯逮捕の要件を満たしているかどうかを審査し、これを満たしていない場合は、直ちに被疑者を釈放すべきであると主張する。しかし、職務法三条は、鉄道公安職員の捜査に関して、原則としては、刑事訴訟法に規定する司法警察職員の捜査に関する規定を準用するが、同条のただし書は、その例外として、現行犯人を逮捕した場合には、これを検察官又は司法警察員に引致すべきものとしているところからすれば、被控訴人主張の場合においても、鉄道公安職員は、前記のように、誤逮捕であることが明らかであるかどうか等を吟味する義務を負うが、進んで現行犯の要件を満たしているかどうかについて審査をする義務までは負わされていないと解すべきであるから、被控訴人の右主張を採用することができない。
そうすると、本件においては、須田から被控訴人の身柄を引き渡された鉄道公安職員としては、須田の逮捕が明らかに誤逮捕であるかどうかを判断し、明らかな誤逮捕ではない場合には、すみやかに検察官又は司法警察員に引致すべきであったということができる。そして、右誤逮捕であるかどうかを判断するに当たっては、詳細な捜査を行うものとすると、被疑者を長時間鉄道公安室に拘束する結果となって職務法の趣旨に沿わないから、逮捕者や目撃者からの概括的な事情の聴取と物証等の資料とにより、被疑者が弁解をするのであればそれをも参考として、明白に誤逮捕であるかどうかを短時間のうちに判断するのほかはなく、それは、被疑者が犯行を否認し、逮捕者の供述と対立する場合であっても同じであると解すべきである。そして、現行犯逮捕の要件があったかどうかは、逮捕時における具体的状況に基づき客観的に判断されるべきであり、事後的に純客観的な判断によるべきではない(最高裁判所決定昭和四一年四月一四日・判例時報四四九巻六四号)が、私人から現行犯人を引き渡された場合においては、その段階における逮捕者や被疑者の供述の内容やその態度を参考にすることができるものというべきである。
三 右の観点から検討すると、≪中略≫
1 須田は、被控訴人を新宿駅の鉄道公安室東口分室に連行し、同所にいた宮崎鉄道公安職員に、すりの未遂犯だから調べてくれと言って、被控訴人を引き渡した。宮崎職員は、須田と被控訴人を別個の調べ室に収容し、折から同分室に赴いた片山と工藤の両鉄道公安職員に事情を聞くように命じ、片山職員(以下「片山」という。)らは、代わる代わる須田と被控訴人から事情を聴取した。そして、須田は、片山に、中野駅を発車した直後に、ズボンの後ろのポケットに入れておいた定期入れが上がるような感じがしたこと、このため左手を上げ、左脇から後ろを見ると須田の真後ろに立っている男がビニールで巻いた紙筒を横にして持っており、その先が一〇センチメートル位見えたこと、紙筒の先端が須田のズボンの右後ろ尻ポケットの下に当たっているように感じたこと、それに神経を集中していると、電車が動くたびに定期入れが上がっていくような状態が続いた後、すっと抜かれるような感じがしたこと、すられたと思い左を見ると、後ろの右ビニールの包みを持っていた人がびっくりしたように須田の尻のほうから左手をパッと引いたこと、その手には定期入れを持っていなかったが、自分のポケットを確かめたところ定期入れが五センチメートル位上に出ており、その時、後ろにいた人が両手を後ろに隠したので、紙筒でやったのか、手でやったのかはっきりしないが、その人(被控訴人)をすりの犯人と認めたこと、被控訴人は、連行の途中で逃げようとしたことを供述した。
他方、被控訴人は、手が小刻みに震え、顔もうつむきかげんであり、私は何もやっていない、この紙筒を届けなければならないから早く帰してほしいと陳述するのみであって、片山から須田が右のように語っていると聞かされても、紙筒の向きを変えただけであると陳述する以外何らの反論もせず、連行されたことに対する抗議や怒りの態度も示さなかった。
2 東口での事情聴取は約四〇分で終了し、片山らは、須田を伴って被控訴人を同駅南口の本室へ連行した。そして、被控訴人を本室の調べ室に収容し、三村と中戸川職員が事情を聴取したが、被控訴人は、東口分室におけるのと同じく、私は何もやっていない、この紙筒を届けなければならないから早く帰してほしいと陳述するのみで、嫌疑に対する積極的な反論をしなかった。また、須田に対しても、三村等が取調べを行ったところ、東口分室におけるのと同一内容の供述をしたので、三村は、中戸川職員に命じて須田の調書を作成させた。
以上の事実が認められる。≪中略≫
四 右に認定判断したところによれば、須田がすりの感触を得たことと被控訴人を犯人と認めて鉄道公安室に連行したことについての申告として須田が供述した内容には、作為が疑われるなどの不自然な点がなく、かつ、その供述内容に公安官に対する被控訴人の態度及び供述内容を総合すると、この段階において、公安職員らが、被控訴人が須田の定期入れの窃取に着手した犯人であるとの嫌疑を抱いたことをもって不自然であったとか軽率な判断であったということはできず、須田の現行犯逮捕をもって明白な誤逮捕であると認めるべき状態であったということはできない。
もっとも、須田が述べた、電車の混雑の状況や同人の犯行についての認識からすると、誤逮捕の可能性が全くないとはいえず、また、被控訴人がはかばかしい弁解をしなかったことについても、すり行為をしていないがために、犯行を否認する以上の説明をする余地がないからにほかならないとも考えられる。しかしながら、前認定判断のように、須田が述べた逮捕に至るまでの状況は、被控訴人によるすりの実行の着手を疑わせるに足りるものであり、これに加えて、被控訴人においても、須田との位置関係や紙筒の動き等に関して具体的な弁解をすることも可能であったのにそれをせず、かつ、小刻みの震えなど犯人であることを疑わせるような挙動があったことによれば、三村ら鉄道公安官が、須田が誤逮捕したものと認めることなく、被控訴人を司法警察員に引致したことにつき違法の点はないというべきである。
(橘 小川 南)