東京高等裁判所 平成10年(う)1791号 判決
被告人 スレマン、ミンソーことソー・ミン
〔抄 録〕
一件記録によれば、弁護人村田敏(原審及び当審弁護人である。)は、平成一〇年一〇月八日、東京地方裁判所が同年九月三〇日に言い渡した判決に対して控訴を申し立てたものであるが、これより前同年一〇月二日、被告人は、東京地方裁判所あての書面をもって上訴権を放棄する旨の申立てをしていることが認められる(なお、検察官においても同年一〇月七日付けで上訴権放棄の申立てをしている。)。
弁護人は、被告人の上訴権放棄の申立ては、「放棄書を出せば、服役の刑期が半分になる。」旨の東京拘置所職員の不適切かつ無責任な説明によってもたらされたもので、控訴権を放棄するとの被告人の意思表示には錯誤があり、しかもその錯誤は被告人の責に帰することのできない事由に基づくものであるから、右上訴権放棄の申立ては無効である、というのである。
そこで検討すると、当審における事実取調べの結果によれば、次の事実が認められる。
1 菊地哲は、東京拘置所看守部長で被告人の舎房の担当者であり、被告人が平成一〇年九月三〇日に懲役一年六月、罰金二五〇万円の第一審判決を受けたことを承知していたところ、同年一〇月二日午前七時三〇分過ぎころから担当舎房を回って願いごとや申出事項を聞いていた際、被告人から「外国人は刑務所で務めれば、半分くらいで出れるのでしょうか。」などと聞かれ、それに対しては、「分からない。」と答えたが、裁判のことなどで話があるので聞いてほしいとの被告人の依頼を受けて、後刻来ることを約束した。
2 菊地が、同日午前九時前ころ、被告人の舎房に行くと、被告人は「外国人は仮釈放は半分くらい貰えるのですか。」と「仮釈放」という言葉を使って前と同じ質問をし、菊地は「仮釈放は刑務所に行って真面目に務めた結果だから、貰える人もいれば、貰えない人もいる。」と答えた。さらに、被告人は「早く刑務所で務めて早く出たい。罰金も早く払いたい。」と言い、菊地が「刑務所に行くには刑が確定しなければならない。」と答えるといったやりとりが繰り返された後、被告人が「早く確定させて刑務所に行くにはどうすればよいか。」と尋ね、菊地は「早く確定させるには、上訴権放棄というものがある。これをすれば、例えて言うと、一〇日くらい早く確定し、懲役にもなれるし罰金も払える。」と答えた。
上訴権放棄についての菊地の説明を聞いた被告人は「それをしてください。」と言い、菊地が「それをするともう裁判はできない。それでいいか。」と念を押したところ、被告人は「裁判はもういいです。」と述べて、上訴権放棄の手続を進めるよう求めた。
3 そこで、菊地は、執務机から上訴放棄申立書を取り出して来て被告人に示し、被告人は片仮名で署名し、その他の必要事項は菊地が代筆した上で、被告人を舎房から出して執務机のあるところへ連れていき、改めて上訴権放棄をすると裁判ができなくなることを説明したところ、被告人は「分かりました。」と言って、同書面に指印した。
4 右上訴放棄申立書は、菊地から事務係に届けられ、同日中に東京拘置所長による受理手続がされた後、同月五日東京地方裁判所に送付された。
5 前記1から3までの菊地と被告人との間の会話はすべて日本語で行われたものであるが、被告人は右程度の日本語は十分理解することができた。
以上の事実が認められ、被告人の当審における供述のうち、右認定に反する部分は信用できない。
右認定事実によれば、本件上訴放棄申立書は、被告人の意思によって作成されたものであり、被告人が上訴権放棄の意思を持つに至ったのは、早く服役して早く帰国したいという気持ちからであったことが認められる。そうすると、被告人には、上訴放棄申立書に署名指印する際、上訴権を放棄するという意思の点において錯誤はないし、仮に被告人が「上訴放棄申立書を出せば、服役の刑期が半分になる。」という期待を持っており、右意思形成に至る動機において「刑期が半分になる。」という点で錯誤があったとしても、それは東京拘置所の看守の発言によってもたらされたものではなく、その錯誤は、被告人の責に帰することのできない事由に基づくものといえないことは明らかであるから、被告人の本件上訴権放棄の意思表示が無効ということはできない。
なお弁護人は、本件のように弁護人が選任されている場合で、しかも被告人が外国人であるときは、看守としては弁護人と相談するように指導すべきであったと主張する。しかしながら、当審における事実取調べの結果によれば、東京拘置所では弁護人がいる場合には上訴権放棄をするについて弁護人と相談するように指導する態勢をとっているが、被告人本人の意思が固いときにはその意思に従わざるを得ないこともあること、本件では、菊地が被告人に弁護人と相談するように勧めたが、被告人は「もう裁判はいい。」旨を繰り返し、「弁護士も見通しは暗いと言っている。」と述べたので、菊地は被告人の上訴権放棄の意思が固いと判断して、上訴放棄申立書を作成する手続を進めたこと、前記のとおり、菊地と被告人との会話は日本語でされたが、被告人はその内容について十分理解していたことが認められ、これに反する被告人の供述は信用できない。右によれば、菊地は、日本語も理解できる被告人に対して弁護人と相談するよう指導はしたが、被告人の上訴権放棄の意思が固かったので、上訴放棄申立書を作成する手続を進めたというのであるから、菊地あるいは東京拘置所の側に責められるべき点があるとはいえない。弁護人の所論は採用できない。
以上の次第であるから、本件では被告人の上訴権放棄によって、控訴権は消滅しており、弁護人による本件控訴は控訴権消滅後の控訴の申立てとして、不適法というほかない。
(米澤敏雄 岩瀬徹 佐藤公美)