東京高等裁判所 平成11年(う)881号 判決
1 原判決挙示の関係証拠によれば,本件犯行に至る経緯,犯行状況は,殺意の点を除き,概ね原判決が「事実認定の補足説明」の1において判示するとおりであって,被告人は,平成10年夏ころ行きつけの原判示中華料理店「甲野」で同店常連客の被害者Xと知り合ったものであるところ,日頃から同人の言動に不快の念を抱くことがあり,本件当日,飲酒の上「甲野」に赴き,被害者と顔を合わせ,午後9時過ぎころ,原判示のいきさつで被告人の言動に立腹した被害者から床に押し倒されて馬乗りになられ,顔面を数回殴打される暴行を受けて口の中を切る傷を負い,この状況を見た同店経営者Aらに被害者と引き離された上,同店の手伝いをしていたBに隣りの公園まで連れて行かれたが,被害者に対する憤激の情から付近のラーメン店「乙山」に赴き包丁等の刃物を持ち出すため調理場に入ろうとしたところ,被告人の血相に危険を感じた同店の女性店主に止められたことから,いったん自宅へ帰ろうと通りがかったタクシーに乗り込み自宅に向かったものの,車中で右耳付近にこぶができていることに気付き,被害者から受けた仕打ちに憤りを新たにし,自宅アパート前でタクシーを待たせて,自室にあった刃体の長さ約16.8センチメートルで刃先の鋭利な文化包丁(当庁平成11年押第227号の1)をズボンの後ろ側ベルトに挟むようにして隠し持ち,右タクシーに乗って午後9時48分ころ「甲野」に戻り,店内に入るなり入口から5メートルほど離れたカウンター席に座っていた被害者に「さっきはやったな。」と声を掛け,被告人に気付いて座席から立ち上がった被害者と向かい合うや,やにわに右包丁を取り出し,その前胸部を1回,手加減せずに,刃体のほとんどが没入するほど強く突き刺し,その直後Bに取り押さえられた際には「俺だけやられっぱなしでいいのか。」と繰り返し言っていたこと,被害者は,即死に近く,長さ約4.8センチメートル,深さ約15.1センチメートルに及ぶ肋骨,心臓を貫通し左肺に達する前胸部刺創を負い,これによる心臓損傷により,搬送先の病院で約46分後に死亡するに至ったものであることが認められる。
2 しかるところ,弁護人の所論は,凶器が家庭用の文化包丁であることと前記創傷の程度からすれば,被告人が被害者を脅すつもりで包丁を突き出しながら接近した際,立ち上った被害者が被告人の方に倒れ込んだか,二人の間に入ろうとしたBが被害者を背後から押した可能性があり,包丁が被害者に深く突き刺さっていることは被告人の殺意を推認させるものではないと主張するが,本件犯行の目撃者であるC,Dの供述調書及び原審証言その他関係証拠を精査しても,酔っていたとはいえ被害者が立ち上がるや被告人の方に倒れ込んだ疑いは認められない。また,Bの供述調書及び原審証言その他関係証拠によれば,Bが被告人と被害者の間に割って入ろうとしたのは,被告人の刺突行為の後とみられるのであって,Bの被害者に対してとった制止行動の態様からしても,Bが被害者を背後から押してその負傷の程度を増大させた疑いも認められない。
また,弁護人の所論は,被害者の創傷から判断すると,胸部をねらったというのに刃が上向きであったことも含め,力を込めて刺そうとする包丁の握り方としては不自然であると主張するが,丙川大学法医学講座医師Eら作成の鑑定書(甲36号証)には,所論も指摘するように,被害者の致命傷は「片刃刃器で刃を左斜上方に向け,左前胸部を後稍上稍右方に刺されて形成された可能性が推測される」とあり,被告人が包丁をズボン後ろ側のベルトに挟むようにして隠し持ち,本件犯行直前に手を後ろに回してこれを取り出したという経緯などからすると,記録によれば被告人が被害者より約10センチメートル背が高かったことが認められることを考慮しても,所論の主張するように,凶器の刃の向きなどから包丁の握り方が不自然であるとはいえない。
3 被告人が被害者を相当な力を入れて前記包丁で突き刺したものであることは,傷の深さからも,また,当審において取り調べた甲36号証の鑑定人医師Eの検察官に対する供述調書によっても裏付けられるが,このような犯行の態様からも,原判決が「激昂し」と判示しているように,被告人の被害者に対する憤りの程度は強かったものと認められ,これら本件犯行に至る経緯,被告人の憤激の情とその程度,犯行態様のほか,凶器となった文化包丁の形態・性状,被害者の受傷の部位・程度なども総合すると,刺突行為が1回にとどまったことを考慮しても,本件刺突行為の際,被告人には原判示認定のように未必的なものにとどまらず確定的な殺意があったものと推認することができるのであって,被告人が犯行直後に取り押さえられた際「俺だけやられっぱなしでいいのか。」と言っていたのも右のような殺意が表出したものと理解できる。