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東京高等裁判所 平成12年(ネ)1607号 判決 2003年3月06日

控訴人・附帯被控訴人(原告。以下「控訴人」という。)

A野花子

同訴訟代理人弁護士

髙橋達朗

多良博明

井上康知

同訴訟復代理人弁護士

山崎真紀

被控訴人・附帯控訴人(被告。以下「被控訴人」という。)

B山松夫

同訴訟代理人弁護士

山本昌彦

主文

一  本件控訴に基づき原判決を次のとおり変更する。

二  被控訴人は、控訴人に対し、一九九四万二二九五円及びこれに対する平成七年六月一五日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

三  控訴人のその余の請求を棄却する。

四  被控訴人の本件附帯控訴を棄却する。

五  訴訟費用は、第一、二審を通じてこれを三分し、その一を被控訴人の負担とし、その余を控訴人の負担とする。

六  この判決は、第二項に限り仮に執行することができる。

事実及び理由

第一控訴の趣旨

一  原判決を次のとおり変更する。

二  被控訴人は、控訴人に対し、五九八四万七〇四五円及びこれに対する平成七年六月一五日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

第二附帯控訴の趣旨

一  原判決中、被控訴人の敗訴部分を取り消す。

二  上記取消にかかる控訴人の請求を棄却する。

第三事案の概要

一  本件は、控訴人が、被控訴人からJR山手線の電車内で両足や下腹部等を数回足蹴りにする暴行を受け(以下、これを「本件事件」といい、その際の被控訴人の暴行を「本件暴行」という。)、これにより恥骨骨折、排尿障害、卵巣機能不全、並びにPTSD(外傷性ストレス障害)等の傷害を受けたと主張して、被控訴人に対し、民法七〇九条に基づく損害賠償として、上記控訴の趣旨第二項記載の金員及びこれに対する不法行為の日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求めた事案である。

二  原判決は、控訴人の請求を、四四九万八五二八円及びこれに対する上記遅延損害金の支払を求める限度で認容し、その余を棄却したため、これを不服とする控訴人が控訴したが、これに伴い被控訴人は、控訴人の請求の全部棄却を求めて附帯控訴した。

三  争いのない事実、争点及び争点についての当事者の主張は、後記のとおり、当審における双方の主張を付加するほかは、原判決「事実及び理由」欄第二「事案の概要」の二及び三(原判決三頁九行目から一五頁四行目まで)記載のとおりであるから、これを引用する。

四  当審における主たる争点は、控訴人が本件暴行によりPTSDに罹患したか否かであり、原判決が、「控訴人には、本件暴行によって、PTSD様のいわゆるストレス障害が発症し、後遺症として残存しているものと認めるのが相当である。」と判断し(原判決七六頁)、労働能力喪失割合を一〇%(さらに素因減額割合として三分の二を乗じた程度)、労働能力喪失期間を四年間と判断したこと(原判決八四ないし八五頁)に関し、控訴人は、PTSDという精神疾患についての理解を全く欠くものである旨主張したのに対し、被控訴人は、PTSD様のストレス障害のような精神的障害は暴行との因果関係を欠き、後遺症と認定することはできない旨主張して争ったため、当裁判所は、東京医科歯科大学教授・山上皓医師を鑑定人に選任し、控訴人がPTSDであるか否か等について鑑定を命じた。同鑑定人は、「控訴人は本件事件を契機として平成一一年の夏ころまでの間PTSDの状態に陥り、現在は病状が軽快し、部分型PTSDの状態にある」旨の鑑定書(以下、単に「鑑定書」という。)を提出した。これに対し、被控訴人は、錦糸町クボタクリニック院長の西山詮医師の意見書(以下「西山意見書」という。)を提出して、鑑定書の内容を争った。

第四当審における当事者の主張

一  控訴人の主張

(1)  恥骨骨折(外科)について

原判決は、右恥骨骨折について、関東逓信病院におけるX線写真等に見られる骨膜反応様の肥厚部のような骨隆起部等の骨変化は外傷歴がなくても生じうるものとの判断を行って、控訴人が本件暴行によって右恥骨骨折を負ったと認定することは困難であるとした。この判断は、原田医師の意見書に基づくものであるが、同意見書によれば、転倒による左股関節部痛の臨床例における同患者には外傷歴がないことから骨隆起を外骨腫か正常な骨反応と判断しているが、そこでは転倒による骨折の影響からの骨隆起の可能性について言及されておらず、本件にそのまま適用される事例とはいえない。

また、原判決は、X線撮影にかかる写真を時系列順に並べてみても仮骨形成や骨癒合変化等骨形成反応は認めにくく、また、恥骨正面断層撮影の前面より一五ミリのスライス上も明らかな亀裂とまでは認められないと判断している。しかし、榊原医師の意見書にあるとおり、数枚のX線フィルムを検討した結果、当初の所見から治癒像までの変化が見られ、前記一五ミリのスライスによるX線フィルム所見につき「明らかな亀裂」と明言しているのであって、原判決がこれらを否定する根拠は何も示されていない。

さらに、原判決は、骨折後三か月余り経過した時点で初めて右恥骨部の痛みを訴え、そこで「亀裂」が現存していることは不合理であると判断している。しかし、控訴人は、事件当初から恥骨部分が痛いと何度も訴え続けていたにもかかわらず、担当医に取り合ってもらえないまま時間が経過した結果、発見が遅れたものであって、同経過は不自然なものとはいえない。また、原判決の「亀裂」の現存の根拠は、前記原田医師の意見書に従ったものと考えられるが、同意見書は、前記榊原医師の意見書に対して、榊原医師が受傷後約三か月後の問題の部位を「新鮮な骨折線として存在していると判断している」と断言しているが、榊原医師の意見書には「新鮮な」ものであるとはどこにも記載されていない。

以上の検討結果から、原判決が、本件暴行により控訴人が恥骨骨折を負ったことを否定した判断は理由がない。

(2)  排尿障害(泌尿器科)について

原判決が、控訴人の排尿障害について本件暴行がもたらした精神的打撃が引き金となって遷延性排尿障害を発症させたと推認する旨判示していることはおおむね妥当であるが、控訴人の排尿障害は、矢﨑医師が後遺障害診断書(甲五の一)を作成した平成八年一〇月一日には症状固定し、さらに遅くとも平成一〇年中にはおおむね軽快したとの判断には根拠がない。すなわち、甲五の一には、症状固定日の記載がないのみならず、その他の証拠にも同症状が完治したとの記載はどこにもなく、むしろ、現在でも尿勢の低下、残尿感、排尿時間の延長等の症状が継続していることから、現在症状固定に至っているとしても明確な後遺障害が残存していることは明らかである。にもかかわらず、これを心因的要素及び泌尿器系統の素因が寄与していることを理由に慰謝料でしか斟酌しないというのは不当である。

(3)  PTSD(精神科)について

ア 原判決の不当性について

原判決は、PTSD及びその深刻さについての正確な理解を欠いたため、控訴人が本件暴行により被った精神症状について、PTSD様のいわゆるストレス障害が発症した旨判示し、かつその労働能力喪失割合は一〇%、喪失期間は四年間という極めて低割合・短期間の認定を行っている。

まず、原判決は、①PTSDに関する意見書を提出した中島医師の診断は、控訴人が恥骨骨折という傷害を負ったことを前提とし、外傷的な出来事の程度につき実際よりも過大に認識していること、②本件暴行直後に控訴人が冷静に対処できたことの二点をもって控訴人がPTSDであるとの明確な認定を回避している。しかし、これはPTSDという精神疾患についての理解を全く欠くものである。

①については、PTSDによる精神疾患をきたすためには、実際に傷害を負ったかどうか、さらには自分が被害者かどうかすら問題ではなく、強い恐怖感と無力感を本人が感じたか、自分が死ぬのではないかという激しい恐怖と、自分ではどうにもならない強い無力感を体験し、その体験が脳裏に焼き付いてしまったかどうかがメルクマールとなるものであり、控訴人は、前述のように恥骨骨折を負っていたものではあるが、しかしそのこととは関係なく、事件当時強い恐怖感と無力感を感じたか否かを問題として判断すべきなのである。そうすると、狭い車内で誰にも助けを求めることができず、何の抵抗もできずに、巨体の男性から、下腹部という暴行の対象としては女性にとって著しい恐怖を感じる部分を一方的に力一杯蹴り続けられた控訴人が、極めて強烈な恐怖を体験したことは明らかである。

②については、事件を体験した場合に、一見冷静な行動をとっていると見られることがあるが、それは余りにも強烈な体験をしたため精神的苦痛に対する感覚が麻痺し、感情の乖離現象が生じたことによるものであり、こうした現象が起こりうることは前記中島医師の意見書でも触れられているところである。したがって、事件直後の控訴人の表面的な行動のみをとらえてPTSDであるとの認定を回避した原判決の判断は、極めて表面的な観察、素人的感覚に基づくものである。

次に、原判決は、PTSD様のストレス障害についても、発症について素因の寄与度が三分の一程度あるとしているが、これも不当である。たしかに、外傷体験を負ったすべての人がPTSDを発症するわけではなく、出来事の衝撃度が大きいほど、個人の素因の果たす役割は小さくなり、出来事が日常的であり多くの人にとって些細なことであると素因が重要になるというように、出来事の衝撃度と個人の素因との相関関係によって決まるものではあるが、本件の場合、本件暴行による被害は決して些細なものではなく、心の奥深くに刻まれるような強い恐怖感を伴う暴行であったのに対し、控訴人の場合、親子関係における葛藤とそれによる性格への影響が存在しているとしても、これらは少なくとも本件暴行に遭うまでは顕在化することなく、社会適応してきたのであることを考慮すれば、控訴人の有する素因は、PTSDの発症そのものには影響を与えたとはいえず、仮に万が一素因が寄与したとしても、その法的評価は一割程度である。

イ 鑑定書について

鑑定書によれば、控訴人は、事件直後よりPTSD症状を呈しており、事件後半年ないし一年の間は症状が特に重く、その後も重い症状が平成一一年夏ころまで持続しており、DSM―Ⅳの診断基準を十分満たす状態にあったとされている。裁判所が選任した専門医が幾度にもわたる本人及びその夫との面談を経て、その知見を駆使して行った鑑定結果であることから、その信用性に問題がないことは論を待たない。鑑定書では、PTSDの診断基準としてDSM―Ⅳが用いられているが、これは現在最も広く用いられている信頼できる基準であり、多くの判例でもその認定に当たって引用されている。この診断基準によると、PTSDは、クライテリアAないしFの六つの要素をもって診断されるが、鑑定書では詳細な検討を経た上で、すべての診断基準を満たしていたという結論が導き出されている。

ウ 西山意見書について

西山意見書は、PTSDの診断基準として最も重要と同意見書も認めるクライテリアAを満たすか否かの判断に際して、本件暴行の程度が極めて軽微なものであることを前提としており、その前提において誤っている。すなわち、同意見書は、控訴人の陳述する暴行態様、ひいては原判決の認定した態様を否定した前提の上での立論を行っているが、本件暴行当時控訴人が被控訴人からどのような暴行を受けたかの認定を行うのは裁判所の役割であって、西山医師ではない。

エ 控訴人の症状の推移について

鑑定書によれば、控訴人は本件事件を契機として精神障害の状態に陥り、事件後半年ないし一年間は特に症状が重く、その後も重い症状が平成一一年夏ころまで持続し、その間は完全なPTSDの状態にあったが、中島医師のカウンセリングを受けたころから、徐々にPTSDの症状特に侵入症状は数か月後に消失し、現在は典型的なPTSDの診断基準を満たす状態にはないが、なお、諸種のPTSDの症状が残されている「部分型PTSD」の状態にあり、現在においてもクライテリアCの診断基準のすべての要素に該当するほか、社会的機能の障害はGAF尺度に当てはめると、事件前は九〇~八一、事件後最重症時で五〇~四一、現在でも六〇~五一であるとされ、依然として深刻な状態であることに変わりはない。具体的な症状は、睡眠障害、不安と軽度の生理反応、回避行動、感情調節の困難、集中力の低下、意欲の低下、自信の喪失と他人への不信感などであり、日常生活のありとあらゆる面(精神面を含めて)で「何もできない」状態が継続している。また、スーツ姿の男性に恐怖感を示し、通院等以外にはほとんど外出もできず、社会生活を送る上での制約が余りにも多く、日常生活をどの程度自立して送ることが可能かという具体的な生活面から考えれば、重症時とほとんど変わっておらず、今後回復までに少なくとも一〇年間程度の期間を要するものと考えられる。

(4)  損害について

ア 原判決後の損害について

控訴人は、原判決後も、PTSDに関する治療を始め、本件暴行によって負った障害の治療のために多くの医療機関に通院を継続してきた。その合計は治療費関係が八万八九八〇円、交通費が一六万四五二〇円であり(その内訳は別紙一記載のとおりである。)、これらを加えた損害額の合計は六〇一〇万〇五四五円となり(その内訳は、別紙二記載のとおりである。)、同金員は、控訴の趣旨第二項を上回るが、全損害金の内金として控訴の趣旨第二項の金員を請求するものである。

イ 逸失利益について

前述の鑑定結果及び本件事件後の控訴人の生活状況を前提とすれば、現実には労働能力の喪失率は一〇〇%に近いというべきであるが、近時の交通事故における裁判例の傾向及び本件の特殊性にも照らすと、後遺障害等級五級二号(労働能力の喪失率七九%)、少なくとも七級四号(同五六%)に該当するというべきである。

また、現在は部分型PTSDであったとしても、控訴人の現実の家事労働能力の程度を見れば、法的評価として七級四号(同五六%)、少なくとも九級一〇号(同三五%)に該当することは明らかである。

以上を総合すると、控訴人にはPTSD以外の後遺障害等級一二級一二号の後遺障害も残存しており、これを勘案すると、一等級繰り上げとなり、本件事件から四年間は四級、少なくとも六級程度の喪失率、その後今後一〇年間は七級相当、少なくとも九級程度の喪失率で計算されるべきである。

逸失利益について、原審では、労働能力喪失率を六七%、喪失期間を三九年間(ライプニッツ係数を一七・〇一七〇)としてこれらを平成八年度賃金センサス女子労働者学歴計平均賃金である三三五万一五〇〇円に乗じた三八二一万一七五九円を主張し、当審でも、同主張を変更するものではないが、原判決は不当にも喪失率を一〇%(しかもその三分の一を素因を理由に減額した。)、喪失期間を四年しか認めなかったため、「少なくとも」今後一〇年間は労働能力の喪失があるという趣旨で上記主張をするものである。

二  被控訴人の主張

(1)  本件事件の態様について

原判決は、本件事件の態様につき、「下腹部を連続して力強く、三、四回足蹴りする暴行を加えた事実」、「故なく突然局部を攻撃」した事実を認定したが、以下に述べるとおり明白な事実誤認がある。

まず、原判決は、控訴人の本件暴行の事実に関する供述部分は、被害直後から明確かつ具体的に一貫しているという点を根拠にこれを採用したが、このような評価は明らかに証拠に反するものであって、到底是認できる認定ではない。

次に、原判決は、JRの電車内で着席しているときに股間等を蹴りおろされた旨の控訴人の供述内容は、靴汚れの跡の付着状況という動かし難い客観的証拠と一致しており、同付着状況は被控訴人の述べる体勢、すなわち目蒲線目黒駅改札口付近で腕を捕まれたので、これを振りほどくために足を使って押し返したという体勢で付くのは不自然であるという点を根拠に、被控訴人の供述を排斥して控訴人の供述を採用したが、これについても客観的証拠に反するばかりか、これこそ余りにも不自然な認定であるといわざるを得ない。

また、原判決は、被控訴人が、検察官による、時期をおいた二度にわたる取調べの際には、本件暴行の事実をおおむね認めていたことを根拠に、控訴人の主張する暴行の事実を否認する被控訴人の供述を信用できないとして排斥したが、控訴人の供述の変遷に照らし合わせれば、被控訴人の検察官に対する供述をもって、これをおおむね認めていたことの根拠とすることはできないというべきである。

さらに、原判決は、「下腹部を連続して力強く、三、四回足蹴りする暴行を加えた事実」、「故なく突然局部を攻撃」した事実を認定したが、これは客観的証拠と矛盾し、これに沿う控訴人の供述が虚偽であることは明白である。

以上のとおり、控訴人の主張は、それ自体不合理きわまりなく、これを支える客観的証拠も皆無であり、むしろこれに疑問を抱かせる客観的証拠が存在し、控訴人の主張に沿う同人の供述も自ら不正確であると自認したほど信用性の低いものであり、被控訴人が認める事実以外については、到底立証できているとはいえない。

(2)  排尿障害について

原判決は、本件暴行による精神的ショックにより排尿障害が発生したと認定した。

しかし、控訴人には、本件事件以前から排尿障害があったものであり、控訴人の訴える症状の一部のみを取り出して、膀胱炎の症状と異質であるというのは余りにも強引な認定である。しかも、控訴人は、本件事件以前の平成元年ころ、排尿障害のため「近医」で尿検査をした事実が明白であるにもかかわらず、その病院について記憶がないなどと到底信用できない言い訳をしてこれを明らかにしておらず、自らの排尿障害に関する病歴を隠蔽しようとしていることも歴然としており、この点においても重大な疑念がある。

(3)  無排卵症について

原判決は、本件事件による精神的不安定状態が、これより一年以上も経過した平成八年一一月に症状が固定し、結果的に無排卵状態を起こしたものと認定した。

しかし、被控訴人の主張する本件暴行の程度に照らすと、本件暴行は、到底通常人に無排卵状態を誘発するような極度の精神的不安定を惹起するようなものではない。しかも、控訴人には、本件事件以前から卵巣機能不全があり、雨宮医師の診断書には、「事故後無月経になったとの事にて来院す。」と記載されているが、本件事件後にも月経があったことは帝京大学病院、関東逓信病院、日赤医療センターの診療記録から明らかである。

したがって、仮に、本件事件後一年以上も経過してから一時的に無排卵状態が発生したとしても、以前から内在した控訴人自身の卵巣機能不全ないし精神的素養に起因するものとの疑いが強く、到底本件暴行との相当因果関係を立証するような証拠はないというべきである。

(4)  PTSDについて

ア 原判決の不当性について

原判決は、PTSD様のいわゆるストレス障害という後遺症を認定した。しかし、同認定の前提とする本件暴行の態様は、突然局部に強い攻撃を受け、被控訴人がその後加害の事実を否認したなどというものであり、これがそもそも事実誤認であることは前述のとおりである。

しかも、PTSD様のいわゆるストレス障害などという概念は、客観的症状がないため、結局本人の主張そのものに依存せざるを得ないにもかかわらず、その意味内容自体が不明確であるばかりか、PTSDの特徴と異なり、その原因についても、「極めて強い恐怖を伴う体験によって引き起こされる」等の限定が全くなされていない。したがって、このような曖昧な概念によって、本人の供述やこれに依存した診断書に基づき後遺症を認定したのでは、到底公正な判断は期待できない。

また、仮に、控訴人の主張するような精神症状が発現したとしても、それは控訴人の特異な精神的気質に起因するものであり、本件暴行との相当因果関係はないというべきである。

イ 鑑定書について

鑑定結果における精神医療に関する専門的学識・経験を、法的判断の参考のために有効に利用するためには、司法におけるPTSD診断の質がまだ一定していないことに加え、本件では、精神医療の専門分野とは関係がなく、本来裁判所が職責を負うべき外傷体験事実の存否、程度という事実認定に関する部分も、PTSD診断のために判断ないし前提とされていることに留意すべきである。そして、控訴人も主張するとおり、PTSD診断においても、外傷体験事実の程度が診断結果を左右する重要な要素となるのであるから、それぞれの診断ないし意見がいかなる外傷体験事実を前提として成立しているのかを分析することが不可欠である。この点、鑑定書は、外傷体験事実につき、明言する記載はないが、その記述全体から、少なくとも恥骨骨折が生じる程度の強度の暴行があったことを前提としていることは明らかである。そして、その前提とする被害体験事実は、当事者の反対尋問にさらされた後、公平な立場から事実認定をする職責と経験を持った裁判官によって認定された原判決の事実とは異なる。

また、鑑定書は、控訴人の心的素因を明らかにしたという点で十分評価に値するが、被害体験事実について実際よりも過大な認識をした結果、控訴人の心的素因の役割を過小評価している。すなわち、トラウマに対する心的素因の影響力は、体験要因の衝撃度と相関関係にあるから、被害体験事実についての認識が過大であれば、心的素因の役割を過小評価する結果となるのである。

ウ 西山意見書について

被控訴人は、西山医師に対し、被害体験事実の存否や程度等につき意見を求めるのは困難を強いることになるので、原判決及び鑑定結果を前提にして意見書を作成するよう依頼した。したがって、西山意見書においては、暴行事件の態様については争いがあることだけ付記し、鑑定人の採用した暴行の態様に沿って意見を述べることとしており、その上で、公衆も居合わす電車内での短時間での足蹴りであること、近距離からの足蹴りで医学的他覚的所見も認められないことを理由に、クライテリアAの基準を満たさないとしている。

これに対し、控訴人は、西山意見書が暴行態様という事実認定に踏み込むのは裁判所の専権を犯すものであるという趣旨の非難を加えている。しかし、西山意見書は、暴行態様について、原判決の認定したとおり電車内での足蹴り行為を前提としているのであって、同非難は的外れである。むしろ、原判決は、暴行の程度については、西山意見書と同様に、クライテリアAの基準を満たしていないと判示しているのである。

以上のように、西山意見書は、前提とする出来事の衝撃度について、原判決の事実認定を前提としており、控訴人の心的素因を適切に評価しているものである。

第五当裁判所の判断

一  争点1(本件暴行の態様)について

本件暴行の態様については、当裁判所も、原判決と同様の認定をするものであり、その理由は、原判決「事実及び理由」欄第三「主要な争点に対する判断」の一「争点1について」(原判決一五頁六行目から二二頁五行目まで)に説示するとおりであるから、これを引用する。

被控訴人は、この点に関する原判決の認定に事実誤認がある旨主張するが、原判決挙示の各証拠に照らしていずれも採用することができない。

二  争点2(本件暴行と相当因果関係にある傷害及び後遺症の内容、程度)について

本件暴行と相当因果関係にある傷害及び後遺症の内容、程度については、PTSDに関する部分を除き、原判決と同様の認定をするものであり、その理由は、以下のとおり付加するほかは、原判決「事実及び理由」欄第三「主要な争点に対する判断」の二「争点2について」の1及び2の(一)ないし(三)(原判決二二頁七行目から七三頁三行目まで)に説示するとおりであるから、これを引用する。ただし、六〇頁二行目の「象」を「像」と訂正する。

(1)  恥骨骨折について

控訴人は、①一部のX線写真に見られる骨膜反応様の肥厚部のような骨隆起等の骨変化と、②榊原医師の意見書で言及された「明らかな亀裂」を根拠として、原判決が、本件暴行により控訴人が恥骨骨折を負ったことを否定した判断は不当である旨主張する。

しかし、原田医師の意見書やこれに添付された文献によれば、骨折はその治癒過程で骨形成や骨癒合変化が見られるものであることが認められるところ、①の骨変化は本件暴行の翌日のX線写真等にも見られるのであり、骨折線とは判断できないことに加え、もしこれが本件暴行によるものであるとすると、本件事件後三か月も経過した九月二六日のX線写真に、上記治癒過程で生じるはずの骨形成が全くない「新鮮な」骨折線が残存するという不合理が生じることになり、上記①は本件暴行により骨折が生じたとする根拠とはならないというべきである。

また、控訴人は、原田医師の意見書が、榊原医師の意見書には、上記②につき「新鮮な」ものであるとはどこにも記載されていないにもかかわらず、その旨断言した点を非難するが、原田医師の意見書の同記載部分は、上記のとおり、骨折後三か月を経過しても全く骨形成の生じない骨折線が残存するとは考えにくく、「明らかな亀裂」を本件暴行による骨折であるとする榊原医師の意見書に従えば、まさに骨折直後の亀裂が「新鮮な」まま三か月経過しても残存していることにならざるを得ず、骨折の一般的修復過程に反する旨指摘しているのであって、上記非難は失当というほかない。

(2)  排尿障害について

ア 控訴人の主張に対する判断

控訴人は、原判決が、排尿障害について、心因的要素及び泌尿器系統の素因が寄与していることを理由に慰謝料でしか斟酌しないというのは不当である旨主張する。

しかし、原判決は、控訴人に生じた排尿障害については、本件暴行との相当因果関係を否定しているのではなく、本件暴行と相当因果関係のある傷害と認定し、そのための治療費及び通院交通費を本件暴行と相当因果関係のある損害と認めた上で、慰謝料額の算定に際して心的素因及び泌尿器系統の素因があることを考慮したものであるから、控訴人の主張は、その前提において失当である。

イ 被控訴人の主張に対する判断

被控訴人は、控訴人には、本件事件以前から排尿障害があったものであり、控訴人の訴える症状の一部のみを取り出して、膀胱炎の症状と異質であるというのは余りに強引な認定である旨主張する。

しかし、原判決挙示の各証拠によれば、控訴人に生じた排尿障害が本件暴行と相当因果関係があるとの原判決の認定は、正当として是認しうるものであり、同主張は採用することができない。

(3)  無排卵症について

被控訴人は、被控訴人の主張する本件暴行の程度に照らすと、到底通常人に無排卵状態を誘発するような極度の精神的不安定を惹起するようなものではない旨主張するが、本件暴行の程度についての被控訴人の主張が採用できないことは前記のとおりであるから、同主張はその前提において失当である。

また、被控訴人は、控訴人には本件事件以前から卵巣機能不全があり、雨宮医師の診断書には、本件事件後無月経になったとのことで来院する旨記載されているが、本件事件後にも月経があったことは明らかである旨主張するが、雨宮医師の診断書は、単に本件事件後に無月経となったことを記載したものではなく、原判決が詳細に認定するとおり(原判決四六ないし四七頁、七一ないし七二頁)、本件事件後も月経があったことを前提として、同医師への受診時に長期間無月経であったことを示しているものであって、被控訴人のこの点に関する主張はその前提を欠くものであって、採用することができない。

(4)  PTSDについて

控訴人には、本件暴行の後、原判決の認定する症状が見られたほか、当審提出の《証拠省略》によれば、原判決の後も、睡眠障害、不安と軽度の生理反応、回避行動、感情調節の困難、集中力の低下、意欲の低下、自信の喪失と他人への不信感などのため、精神面を含めた日常生活のありとあらゆる面で「何もできない」状態が継続しているほか、スーツ姿の男性に極度の恐怖感を感じるため、通院等以外にはほとんど外出もできない状態が続いていることが認められる。

また、鑑定結果によれば、①控訴人は、本件事件を契機として、平成一一年の夏ころまでの間、PTSDの状態に陥り、その後病状が軽快し、現在は部分型PTSDの状態にあり、現在もなお感情が不安定で、集中力や忍耐力に欠け、知的な作業を持続して行うことができず、単独での外出や、人との接触にもなおかなりの困難を有していること、②控訴人の社会的機能の障害は、DSM―Ⅳの「機能の全体的評定(GAF)尺度」に当てはめると、本件事件以前は九〇から八一のレベル(症状が全くないか、ほんの少しだけ、すべての面でよい機能で、広範囲の活動に興味を持ち参加し、社交的にもそつがなく、生活にだいたい満足し、日々のありふれた問題や心配以上のものはない)であったのが、本件事件後、最重症の時期は五〇から四一のレベル(重大な症状、あるいは、社会的、職業的又は学校の機能において重大な障害)、現在は六〇から五一のレベル(中等度の症状、あるいは、社会的、職業的又は学校の機能における中等度の障害)にそれぞれ相当すること、③控訴人のPTSDは、本件事件とその後の二次受傷の所産であり、素因の関わりはごくわずかな役割しか果たしていないと考えられること、④控訴人のPTSDの症状は、既にある程度軽快しており、環境が好転し、適切な治療的援助があれば、さらに回復に向かうと考えられるが、時期については判定困難であることが認められる。

これに対し、西山意見書は、本件暴行後の控訴人に見られる際立った特徴は、客観的に見て、実際に又は危うく死ぬか重傷を負うような、あるいは自分の身体的保全が脅かされるような出来事ではないにも関わらず、主観的に強いストレスが生じたと主張して、激しい攻撃性をあらわにしていることであり、DSM―ⅣのPTSDの診断基準のうち、基準Aを満たさないことが明らかであるから、控訴人をPTSDと診断をすることは不可能であるとする。

しかしながら、西山意見書は、「控訴人の下腹部に対する足蹴りは、皮膚を含む諸臓器に毀損を残さない程度の打撃である。」、「公衆も居合わせる電車内で、控訴人の両足及び下腹部に加えられた近距離からの足蹴りには、医学的他覚的所見も認められない。」と述べるように、本件暴行の程度をそれ程重くないものとして判断しているところ、本件暴行の程度は前認定のとおり決して重くないとはいえないから、西山意見書を直ちに採用することはできない。この点に関し、被控訴人は、西山意見書は、原判決の認定した事実を前提とするものである旨主張するが、西山意見書が前提としているのは、原判決の認定した傷害の程度であり、暴行の態様そのものではないから、同主張は採用することができない。

三  争点3(損害額)について

(1)  治療関係費、通院交通費、傷害慰謝料及び諸雑費

治療関係費、通院交通費、傷害慰謝料及び諸雑費(バイオリンの弦の交換費用)については、原判決「事実及び理由」欄第三「主要な争点に対する判断」の三「争点3について」の1、2、4及び7(原判決七七頁八行目から八一頁六行目まで、八二頁七行目から八三頁五行目まで、八七頁六行目から九行目まで)にそれぞれ説示するとおりであるから、これを引用する。

以上に加え、当審提出の《証拠省略》によれば、控訴人は、原判決後も当審において控訴人が主張するとおり、通院治療を余儀なくされ、治療関係費として八万八九八〇円及び交通費として一六万四五二〇円を支出したことが認られるところ、これもまた本件暴行と相当因果関係があると認めるのが相当である。

したがって、当審において認められる治療関係費、通院交通費、傷害慰謝料及び諸雑費は以下のとおりとなる。

ア 治療関係費 二六万三三二〇円(原判決認容分一七万四三四〇円、当審認容分八万八九八〇円)

イ 通院交通費 二三万八一一〇円(原判決認容分七万三五九〇円、当審認容分一六万四五二〇円)

ウ 傷害慰謝料 一〇〇万円(原判決どおり)

エ 諸雑費 四三二六円(原判決どおり)

(2)  休業損害

《証拠省略》によれば、控訴人は、本件事件当時、家庭教師の仕事に従事し、平均して一か月二三万二〇〇〇円程度の収入を得ていたこと、本件事件後、少なくとも控訴人の主張する平成八年四月末ころまで同仕事を休んだことが認められる。そして、原判決の認定した本件暴行と相当因果関係のある控訴人の傷害の内容・程度、治療経過、通院状況、症状の推移等及び前認定のPTSDへの罹患状況等にかんがみると、本件暴行と相当因果関係のある休業損害として被控訴人に賠償させるべき休業損害は、本件事件後平成八年四月末までの一〇か月分を全休として、合計二三二万円と認めるのが相当である。

(3)  逸失利益

前記認定によれば、①控訴人は、本件事件を契機として、平成一一年の夏ころまでの間、PTSDの状態に陥り、その後病状が軽快し、現在は部分型PTSDの状態にあり、現在もなお感情が不安定で、集中力や忍耐力に欠け、知的な作業を持続して行うことができず、単独での外出や、人との接触にもなおかなりの困難を有していること、②控訴人の社会的機能の障害は、DSM―Ⅳの「機能の全体的評定(GAF)尺度」に当てはめると、本件事件以前は九〇から八一のレベル(症状が全くないか、ほんの少しだけ、すべての面でよい機能で、広範囲の活動に興味を持ち参加し、社交的にもそつがなく、生活にだいたい満足し、日々のありふれた問題や心配以上のものはない)であったのが、本件事件後最重症の時期は五〇から四一のレベル(重大な症状、あるいは、社会的、職業的又は学校の機能において重大な障害)、現在は六〇から五一のレベル(中等度の症状、あるいは、社会的、職業的又は学校の機能における中等度の障害)にそれぞれ相当すること、③控訴人のPTSDは、本件事件とその後の二次受傷の所産であり、素因の関わりはごくわずかな役割しか果たしていないと考えられること、④控訴人のPTSDの症状は、既にある程度軽快しており、環境が好転し、適切な治療的援助があれば、さらに回復に向かうと考えられるが、時期については判定困難であることが認められる。

そうすると、PTSDについては、本件暴行後どの時点で症状固定に至ったかは明らかではないが、控訴人が主張し、原判決の認定する他の症状(排尿障害や無排卵症)と同様、遅くとも平成八年中には症状固定に至ったものとして逸失利益を算定するのが相当である。そして、前認定にかかる原判決後の控訴人の生活状況等にも照らすと、控訴人は、平成九年から一〇年間にわたり、労働能力の四〇%を喪失したもの(ただし、素因減額として一〇%を減じる。)として逸失利益を算定するのが相当である。

平成八年版賃金センサス第一巻第一表産業計・企業規模計・学歴計・女子労働者の平均給与額である年収三三五万一五〇〇円に、労働能力の喪失率〇・四の九割、喪失期間の一〇年に対応するライプニッツ係数七・七二一七を乗じて計算すると、次のとおり九三一万六五三九円(円未満切捨)となる。

3,351,500×0.4×0.9×7.7217=9,316,539

(4)  後遺症慰謝料

本件暴行の態様やその後の被控訴人の対応を通じて控訴人の被った精神的苦痛は相当深刻なものであったものと認めることができる。そして、控訴人の後遺症の内容、程度、PTSDへの罹患状況等、本件に顕れた一切の事情を斟酌すると、被控訴人に賠償させるべき後遺症慰謝料の額は、五〇〇万円とするのが相当である。

(5)  弁護士費用

上記(1)ないし(4)の損害額合計は一八一四万二二九五円となるところ、本件事案の内容、審理経過等にかんがみ、被控訴人に賠償させるべき弁護士費用は、その約一割に当たる一八〇万円とするのが相当である。

(6)  合計

以上を合計すると、被控訴人が、控訴人に対して賠償すべき損害額は、一九九四万二二九五円となる。

第六結論

以上によれば、控訴人の請求は、一九九四万二二九五円及びこれに対する不法行為の日である平成七年六月一五日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度において理由があり、その余は失当であるから、控訴人の本件控訴は一部において理由があるが、被控訴人の本件附帯控訴は理由がない。

よって、控訴人の本件控訴に基づき原判決を一部変更して、控訴人の請求を前記の限度で認容し、その余の請求を棄却するとともに、被控訴人の本件附帯控訴を棄却することとして、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 石垣君雄 裁判官 大和陽一郎 蓮井俊治)

<以下省略>

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