東京高等裁判所 平成12年(ネ)3138号 判決
主文
一 本件控訴を棄却する。
二 控訴費用は控訴人の負担とする。
事実及び理由
第一控訴の趣旨
一 原判決を取り消す。
二 被控訴人は、控訴人に対し、金三〇〇〇万円及びこれに対する平成一〇年一二月八日から支払済みまで年六分の割合による金員を支払え。
第二事案の概要
一 本件は、被控訴人に預けた控訴人の預金三〇〇〇万円が何者かによって偽造印鑑により払戻しをされたのは、被控訴人が払戻請求書に押捺された印影と届出印として通帳に押捺された印影との確認(照合)義務を怠ったためであるなどとして、控訴人が被控訴人に対し、右金員及びこれに対する債務不履行の日の翌日から支払済みまで商事法定利率年六分の割合による遅延損害金の賠償を求めた事案である。原審は、被控訴人に右確認義務違反はないとして、控訴人の請求を棄却した。
二 争いのない事実等
1 平成一〇年一二月七日(月曜日)、被控訴人渋谷支店において、被控訴人本店の控訴人名義普通預金口座(口座番号四一九二二七三)から三〇〇〇万円が払い戻される(以下「本件払戻し」という。)とともに、これが株式会社大和銀行新宿支店の秋吉一三名義の普通預金口座に振込送金された。
2 本件払戻請求は、通帳と払戻請求書の提出により行われたところ、控訴人の右預金口座の届出印の印影(以下「本件届出印影」という。)は、原判決別紙一のとおりであり、また、本件払戻請求書は、原判決別紙二のとおりであり(これに押捺された印鑑の印影を、以下「本件印影」という。)、これに記載された口座番号、社名、代表者等の事項は、被控訴人に届出されている事項と相違なかった。
3 控訴人代表者は、同月八日午後七時すぎ、所轄の警視庁麻布警察署に、同月四日か五日ころに東京都港区六本木の駐車場内に駐車していた車内から、右各預金口座に係る通帳等が盗難にあった旨の被害届を提出した。そして、控訴人は、同月九日、被控訴人に対し、右通帳の喪失と届出印の改印届出をした(乙一号証及び弁論の全趣旨により認める。)。
4 銀行取引については、「この取引において払戻請求書、諸届その他の書類に使用された印影(又は署名、暗証)を届出の印鑑(又は署名鑑、暗証)と相当の注意をもって照合し、相違ないものと認めて取扱いしましたうえは、それらの書類につき偽造、変造その他の事故があってもそのために生じた損害については、当行は責任を負いません。」との免責約款が定められている。
5 控訴人は、平成九年七月二八日設立されたところ、本件払戻当時の控訴人の代表者取締役は、下垣ベティ真利子であったが、平成一一年四月一日から、石井至が控訴人の代表者取締役になった。
三 当事者の主張
1 被控訴人
(一) 本件払戻請求書と同時に提出された振込依頼書記載の控訴人の本店所在地は、「渋谷区広尾四-一-九ガーデンヒルズN-四〇一」と正確に記載されているが、このような情報は通帳に記載されていないこと、石井至名義の口座からの預金払戻しと同時に提出された振込依頼書記載の石井至の住所も、「渋谷区広尾四-一-一八広尾ガーデンヒルズD-八〇五」と正確に記載されているが、このような情報は、自動車車検証からも知り得ない情報であること、右各振込依頼人の電話番号として記載されているのは、石井至の勤務先であるオリックス証券株式会社の直通電話番号であることなどの事実に照らし、本件払戻手続は、控訴人から権限を与えられた者が届出印を使用してしたものと推認される。
(二) 仮に、偽造印によって払戻手続がされたとしても、払戻請求をした者について、特段の不審事由はなく、払戻請求書及び振込依頼書の預金者欄の記載は正確であり、当時盗難届も提出されておらず、本件印影と本件届出印影は酷似しており、相当の注意を用いても相違点を見出すことはできなかったというべきであるから、被控訴人に印鑑の確認(照合)義務違反はない。
(三) 本件印影は、不鮮明であったとはいえず、改めて鮮明な印影を提出させる必要はない。また、本件払戻しに来た者が風体の怪しげな者であったという証拠はないし、代表者自身が銀行の店頭に赴いて預金の払戻しの手続をすることはまれであるから、本件のような場合に本人確認をする必要はない。さらに、本件取引は、マネー・ローンダリングとは全く関係がない取引であるから、マネー・ローンダリング防止のための措置を講じる必要もない。
2 控訴人
本件届出印影(本物)と本件印影(偽物)とは、原判決別紙三記載のとおりの相違があり、いわゆる平面照合によっても事務に習熟している銀行員が容易に発見できる顕著な相違があった。また、本件印影は、極めて不鮮明であったから、払戻担当者としては払戻請求者に対し、より鮮明な印影を求め、印鑑の押し直しを求めるべき注意義務がある。しかも、本件の払戻金額が三〇〇〇万円と多額であり、かつ、本件払戻請求をした者は風体の怪しげな男性であり、代表者(女性)でなかったのであるから、払戻担当者において相応の注意義務を尽くすべきであった。本件は、現金取引でないが、本件払戻しにより得た現金を直ちに送金したのであるから、現金取引と同視すべきであり、「三〇〇〇万円以上の取引について同様の本人確認を行うものとする」とのマネー・ローンダリングの通達に従い、本人確認をすべきであった。
したがって、被控訴人には、印影照合、より鮮明な印影の再提出及び本人確認について注意義務を果たさなかった債務不履行があるから、これにより控訴人が被った損害を賠償すべき責任がある。
第三当裁判所の判断
一1 本件届出印影と本件印影とは、後記のとおり印影の大きさがわずかではあるが異なることなどから、同一印章によるものとは認められないから、その余の点について判断するまでもなく、本件払戻手続は、届出印を使用してされたものと認めることはできない。被控訴人主張の住所記載等の事実からは、本件払戻請求をした者が控訴人及び石井至についての事情をよく知っている者であることが推認されるものの、これをもって控訴人から権限を与えられた者が本件払戻請求をしたと推認することはできず、被控訴人のこの点についての主張は理由がない。
2 銀行が通帳と払戻請求書の提出により預金の払戻請求を受けた場合には、他に正当な払戻請求でないことをうかがわせる特段の事情がない限り、当該預金口座の届出印の印影と払戻請求書に押捺された印影との照合により正当な払戻請求であると判断されて払戻しがされた場合には、仮に、右払戻請求書に押捺された印影が偽造印(届出印でない印章)により顕出されたものであるとしても、銀行は免責されると解される。そして、届出印の印影と払戻請求書に押捺された印影とを照合するに当たっては、特段の事情がない限り、折り重ねによる照合や拡大鏡等による照合をするまでの必要はなく、肉眼によるいわゆる平面照合の方法をもってすれば足りるが、金融機関としての銀行の照合事務担当者に対して社会通念上一般に期待されている義務上相当の注意をもって慎重に行うことを要し、かかる事務に習熟している銀行員が右のごとき相当の注意を払って熟視するならば肉眼をもって発見し得るような印影の相違が看過されたときは、銀行側に過失の責任があるものというべく、預金払戻しによる不利益を預金者に帰せしめることは許されないものといわなければならない。
3 本件届出印影(乙二)と本件印影(乙六)とを比較照合すると、両者の印影の大きさは、それぞれに定規をあてて外枠(外円)と内枠(内円)の直径を計測すると、いずれもわずかに本件印影の方が大きいが、控訴人が主張するほどの差はなく、その差は〇・五ミリメートル未満にとどまり、平面照合ではその差は見出し難いこと、外枠と内枠の円の配置も共通であり、外枠と内枠の間の「有限会社石井兄弟社」の文字の配置や太さ、接し方が極めてよく似ており、「会」、「石」等の特徴のある文字の崩し方も酷似していること、内枠の中の漢字についても、間隔、太さ、接し方が酷似していることが認められ、全般的に控訴人が主張するほどの相違は見出し難いものといわざるを得ず、事務に習熟している銀行員が平面照合によって容易に発見できる相違があったとまではいえない。また、本件印影には、本件届出印影と比較照合すると、二、三の印字部分の一部がかすれているとうかがわれる部分があるが、これをもって不鮮明なものとまではいえず、払戻担当者として払戻請求者に対し印鑑の押し直しを求めるべきであったとまではいえない。
4 証拠(乙六、七、一三)によれば、本件払戻担当者は、印影の大きさ、形、文字の配置、特に文字と枠との接し方(接点)をポイントとして全体の字体を平面照合して実施した結果、同一印影と判断し、事故届が提出されておらず、また、窓口に払戻請求に来た者は男性であるが、会社の経理担当者の感じで、挙動不審な点はなかったことから、本件払戻し及び振込手続をしたことが認められる。
控訴人は、本件払戻しに来た者が風体の怪しげな者であったと主張するが、控訴人代表者自身、そのような陳述をしておらず(甲一〇)、他に控訴人主張に係る事実を認めるに足りる証拠はない。また、法人の銀行取引において代表者自身が銀行窓口に出頭して手続をすることが通常であるとはいえないから、代表者が女性である会社の預金取引について男性が手続をしたからといって、他に特段の不審事由がない限り、身分確認等をすべき注意義務はないというべきである。
さらに、控訴人は、三〇〇〇万円以上の現金取引である本件取引については、マネー・ローンダリングの通達に従って本人確認すべきであったと主張するが、本件取引は、マネー・ローンダリングの通達の対象とする取引に当たらないことが明らかであり、また、三〇〇〇万円の払戻手続といっても、現金による払戻しでなく、振込送金手続であるから、現金による取引ともいえないものであり、いずれにしてもこの点についての控訴人の主張は理由がない。
5 以上に認定説示したとおりで、本件払戻しについて正当な払戻請求でないことをうかがわせる特段の事情は認められず、本件払戻担当者において本件届出印影と本件印影との平面照合により正当な払戻請求であると判断して払戻手続をしたことについて、金融機関としての銀行の照合事務担当者に対して社会通念上一般に期待されている業務上の注意義務を怠ったものと認めることはできず、本件払戻しについて被控訴人は免責されるものと解すべきである。
二 よって、控訴人の請求を棄却した原判決は相当であり、本件控訴は理由がないからこれを棄却することとし、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 奥山興悦 裁判官 杉山正己 裁判官 山崎まさよ)