東京高等裁判所 平成12年(ネ)976号 判決
主文
本件控訴を棄却する。
控訴費用は控訴人の負担とする。
事実及び理由
第一控訴の趣旨
一 原判決を取り消す。
二 控訴人が被控訴人に対し、労働契約上の地位を有することを確認する。
三 被控訴人は、控訴人に対し、一九万九九九二円及び平成一〇年八月一日から本判決の確定まで毎月四五万円を支払え。
四 訴訟費用は、第一、二審とも被控訴人の負担とする。
第二事案の概要
本件は、被控訴人の従業員で営業部長の地位にあった控訴人が、入社後に制定された被控訴人の就業規則(以下「本件就業規則」という。)で六〇歳と定められた定年に達したことを理由に退職させられたことから、本件就業規則を控訴人に適用することはできないこと等を主張し、被控訴人に対し、労働契約上の地位の確認を求め、かつ、平成一〇年六月分の未払賃金一九万九九九二円及び同年七月分以降の賃金として同年八月一日から本判決確定まで毎月四五万円の支払を求めたものであるが、平成一二年一月二一日、請求棄却判決を受けたことから、控訴に及んだ事案である。
一 基礎となる事実(争いのない事実以外は括弧内に証拠を掲記する。)
1 被控訴人は、昭和六二年一〇月二八日に設立され、資本金三〇〇〇万円、新潟県西蒲原郡巻町に本店を有し、現在は従業員約三〇名弱の土木建築請負業等を目的とする株式会社である。
2 控訴人(昭和一三年六月五日生)は、平成元年八月一日、被控訴人と労働契約(以下「本件労働契約」という。)を締結して被控訴人に入社した。
3 被控訴人が本件就業規則を制定し、これを労働基準監督署に届け出たのは本件労働契約締結後の平成二年七月二一日である(乙一の1ないし3)。本件就業規則一三条には、「従業員の定年は六〇歳とし、定年に達した日の翌日を以て自然退職とする。」との定めがあるが、本件労働契約締結時は、被控訴人に定年制の定めは存在しなかった。
4 被控訴人は、控訴人は本件就業規則一三条により、平成一〇年六月六日、被控訴人の従業員としての地位を喪失したと主張し、控訴人が本件労働契約上の地位を有することを争っている。
5 控訴人の賃金は、一か月当たり四五万円であり、前月二一日以降当月二〇日までの分を翌月五日に支払う定めになっていたところ、被控訴人は、平成一〇年六月分の賃金として、同月五日、控訴人に二五万〇〇〇八円を支払ったが、同月分のその余の賃金及び同年七月分以降の賃金を支払わない(甲七、弁論の全趣旨)。
二 当事者の主張
1 控訴人
(一) (七〇歳までの継続雇用等を内容とする転職契約)
控訴人と被控訴人代表者は、本件労働契約に先立つ平成元年六月下旬ころ、控訴人につき、少なくとも七〇歳までの継続的雇用を保障することを主な内容とする転職契約(個別の労働契約であり、<1>控訴人が健康で働ける限り少なくとも七〇歳までは継続雇用すること、<2>控訴人を営業部長という管理職の待遇で雇用すること、<3>控訴人の年収を六〇〇万円程度とすること)を締結し、控訴人は、同年八月一日から被控訴人に勤務することになった。
すなわち、控訴人は、昭和六三年二月ころから平成元年夏ころにかけて、当時の新潟県六日町土木事務所長で被控訴人代表者に対し絶大な影響力を有していた小野巌(以下「小野」という。)から、被控訴人への入社を熱心に勧誘されたが、小野の話では、「被控訴人には定年制はなく、少なくとも七〇歳までは働くことができる。」ということであった。特に、小野は、平成元年六月下旬ころ、控訴人を被控訴人代表者に紹介した際、被控訴人代表者の面前で、控訴人に対し、「被控訴人で一生懸命やり、営業実績を上げれば、七〇歳、七五歳、幾つになっても使ってもらえるだろう。」という趣旨の話をした。
控訴人は、その当時勤務していた開発技建株式会社(以下「訴外会社」という。)が六〇歳定年制を導入していたのに対し、被控訴人においては少なくとも七〇歳まで勤務することができるという話であったことから、被控訴人への転職を決意したものであり、そうでなければ、従業員約一〇〇人の元請工事をする訴外会社の営業部長、地質調査室長の地位にあった控訴人が、従業員三〇人足らずの工事の一部門の下請けをする被控訴人に転職するはずはない。また、右のような内容の雇用契約が成立したからこそ、控訴人は、七〇歳過ぎまで勤務することを前提に、平成三年四月、株式会社第四銀行から一七五〇万円、年金福祉事業団から一八五〇万円の住宅ローン融資(控訴人が七五歳になる平成二五年九月までのローンの返済を予定)を受けたものである。
本件就業規則一三条は、少なくとも七〇歳までの継続的雇用を保障した右の転職契約に抵触するものであり、控訴人には適用されないと解すべきであるから、控訴人に対する定年を理由とした解雇は無効である。
(二) (本件就業規則の控訴人に対する不適用)
控訴人は、営業部長という役付きの身分という条件で、引き抜きにより被控訴人に転職した者であり、渡辺吉則総務部長(以下「渡辺総務部長」という。)とともに別格とされていたから、本件就業規則が適用される従業員には当たらない。
また、本件就業規則一条は、「この規則は、株式会社角産の従業員の就業に関する事項を定めたものである。」と、三条は、「この規則で、従業員とは、第五条の規定により会社に採用された者をいう。」と、五条は、「会社は、就職を希望する者から、前条の書類及び面接選考等の上、適格者を従業員として選考する。」と、四条は、「従業員として当社に入社を希望する者は、次の書類を提出しなければならない。」と規定し、<1>自筆の履歴書(写真を添付)、<2>現住所届(位置を示す略図を添付)、<3>通勤に利用する交通機関と順路、<4>その他会社が必要とする書類(運転免許証等)を掲記している。このように、控訴人は、四条所定の手続で採用された従業員ではないから、各規定の解釈上、本件就業規則が適用される従業員には当たらないと解すべきである。
(三) (本件就業規則の周知徹底)
控訴人は、本件労働契約締結当時満五〇歳であったが、被控訴人は、従業員に本件就業規則を周知徹底させず、控訴人のような五〇歳を過ぎた高年齢労働者の意見を聴くこともないまま、本件就業規則を制定した。このように、労働基準法一〇六条の周知義務を果たさず、同法九〇条の労働組合ないし過半数を代表する従業員の意見の聴取もない本件就業規則は無効というべきである。
(四) (本件就業規則の合理性)
本件労働契約締結当時、被控訴人に就業規則はなく、従業員の定年制の定めはなかったのであるから、控訴人と被控訴人の間においては、定年制を定めない労働契約が成立していた。したがって、被控訴人が本件就業規則を制定して六〇歳定年制を導入したことは、定年退職という雇用契約の終了事由を一方的に付加するものであるから、控訴人の既得の権利を侵害する労働条件の不利益変更に当たる。
新たな就業規則の作成又は変更によって労働者の既得権を奪い、労働者に不利益な労働条件を一方的に課することは許されない。もっとも、労働条件の集団的処理、特にその統一的かつ画一的な決定を建前とする就業規則の性質からいって、当該規則条項が合理的なものである限り、個々の労働者において、これに同意しないことを理由として、その適用を拒むことは許されないと解されているが、当該規則条項が合理的なものであるとは、当該就業規則の作成又は変更が、その必要性及び内容の両面からみて、それによって労働者が被ることになる不利益の程度を考慮しても、なお当該労使関係における当該条項の法律的規範性を是認することができるだけの合理性を有するものであることをいい、特に、賃金、退職金など労働者にとって重要な権利、労働条件に関し実質的な不利益を及ぼす就業規則の作成又は変更については、当該条項が、そのような不利益を労働者に受忍させることを許容することができるだけの高度の必要性に基づいた合理的な内容のものである場合において、その効力を生ずるものというべきである。右の合理性の有無は、具体的には、就業規則の変更によって労働者が被る不利益の程度、使用者側の変更の必要性の内容・程度、変更後の就業規則の内容自体の相当性、代償措置その他関連する他の労働条件の改善状況、労働組合等との交渉の経緯、他の労働組合又は他の従業員の対応、同種事項に関する我が国社会における一般的状況等を総合考慮して判断すべきである。
(1) 右の判断基準に基づき、本件就業規則の合理性を検討するに、平成二年当時、被控訴人において六〇歳定年制の本件就業規則を制定しなければならないという具体的な必要性は認められない。また、被控訴人は、労働者に不利益を受忍させることを許容させる高度の必要性と合理性の主張立証を全くしていない。
(2) 被控訴人は、控訴人に何ら事前の打診をせず、一方的に本件就業規則を制定し、退職金の上乗せ、賃金等の増額など満七〇歳まで勤務したのと同程度の経済的な利益を得ることができるような控訴人の不利益緩和のための代償措置を全く講じていない。
(3) 他方、控訴人は、前記(一)のとおり、平成元年六月下旬に控訴人と被控訴人代表者が面談した際、小野から、「被控訴人で一生懸命やり、営業実績を上げれば、七〇歳、七五歳、幾つになっても使ってもらえるだろう。」という趣旨の話をされるなど、少なくとも七〇歳までは被控訴人に勤務することができるとの話があったからこそ、従業員約一〇〇人の元請工事をする訴外会社の営業部長、地質調査室長の地位にあったにもかかわらず、工事の一部門の下請けをするにすぎない従業員三〇人足らずの被控訴人への転職を決意し、かつ、そのことを前提に、平成三年四月、控訴人が七五歳になるまでの返済を予定した合計三六〇〇万円の住宅ローン融資を受けたものである。
(4) なお、中高年社会を迎えた我が国においては、定年制に対する厳しい批判が社会の趨勢になっていることを考慮しなければならない。すなわち、高年齢者の雇用の安定等に関する法律(以下「高年齢者雇用安定法」という。)四条は六〇歳を下回る定年制を禁止し、同法四条の二は六五歳までの継続雇用を努力義務とし、定年年齢を引き上げることが検討されていた。そして、アメリカでは定年制(年齢のみを理由とする強制解雇)を全面的に禁止しており、世界的にも年齢による差別を禁止する法理が一般化しつつある。
(5) 以上によれば、六〇歳定年制を定めた本件就業規則は、合理性があると認めることができないから、控訴人に対し効力を有しない。
(五) (信義則違反・解雇権濫用)
前記(一)のとおり、控訴人は、平成元年六月下旬に被控訴人代表者と面談した際、小野から「被控訴人で一生懸命やり、営業実績を上げれば、七〇歳、七五歳、幾つになっても使ってもらえるだろう。」という趣旨の話をされているのであるから、少なくとも七〇歳まで被控訴人で働けるとの控訴人の期待的利益は法的保護に値する。しかるに、被控訴人は、控訴人に何ら事前の打診をせず、一方的に本件就業規則を制定してこれを控訴人に適用し、しかも、退職金の上乗せ、賃金等の増額など満七〇歳まで勤務したのと同程度の経済的な利益を得ることができるような控訴人の不利益緩和のための代償措置を全く講じていない。加えて、七〇歳まで働けると信じた控訴人は、平成三年四月、三六〇〇万円の住宅ローンの融資を受けて家屋を購入し、現在も一か月当たり一四万五九六九円の返済を満七五歳まで続ける生活をしているのであって、六〇歳に達したことを理由とする解雇は、控訴人の生活基盤を危殆に陥れるものである。
以上のような控訴人の転職の経緯・動機、転職時の控訴人の年齢、控訴人が転職を決める際の被控訴人代表者の面前における小野の話の内容、不利益緩和のための代償措置、控訴人の受ける不利益の程度などの諸事情を考慮すると、控訴人に本件就業規則一三条を適用し、満六〇歳になったことを理由に被控訴人を退職させることは、控訴人にとって余りに酷であるから、信義則に反し許されないというべきであるし、解雇権の濫用にも当たると解すべきである。
2 被控訴人
(一) 被控訴人代表者は、平成元年六月下旬に小野から控訴人を紹介されるまで、控訴人と一面識もなかったが、小野の説明を信頼しその場で控訴人の採用を決めた。しかし、被控訴人は、控訴人に対し、転職を勧誘していないし、七〇歳過ぎまで雇用する旨の約束もしていない。
なお、小野は、控訴人に対し、被控訴人において一生懸命やり営業実績をあげれば、七〇歳、七五歳、幾つになっても使ってもらえるだろうという趣旨の発言をしたが、単なる励ましの言葉として述べたものにすぎず、これを法的に意味のある発言と認めることはできないし、この発言を被控訴人代表者のそれと同一視すべき事情も認められない。
(二) 本件就業規則の周知徹底は図られているし、控訴人は、本件就業規則の制定による六〇歳定年制の導入を知っていた。すなわち、被控訴人の従業員は、本件就業規則による六〇歳定年制の導入に異論を述べず、むしろ歓迎していたものであり、控訴人自身、渡辺総務部長とともに本件就業規則の作成に関与し、内容を熟知した上でこれを了承している。
(三) 労働契約に定年の定めがないということは、ただ雇用期間の定めがないというだけのことで、労働者に対して終身雇用を保障したり、将来にわたって定年制を採用しないことを意味するものではなく、法律的には、労働協約や就業規則に別段の定めがない限り、雇用継続の可能性があるという以上には出ないものであって、労働者にその既得権を認めるものではないから、被控訴人が本件就業規則で新たに定年を定めたことは、控訴人の既得権侵害の問題を生ずる余地のないものといわなければならない。
このように、定年制の導入は、一般的に不合理な制度ではなく、被控訴人は、本件就業規則を労働基準監督署の指導に従い作成したものであり、しかも、定年後における終期のない嘱託雇用の制度(本件就業規則一四条は、「定年後、本人が引き続き勤務を希望しかつ会社が特に業務上必要と認めたときは、事前に嘱託として再雇用することがある。但し、嘱託従業員は原則として、一年毎に雇用契約を更新するものとする。」と規定している。)を併せて導入している。また、被控訴人においては、昭和六三年、平成元年と、磐越自動車道の工事の開始に伴い、従業員数が増加してきたが、この工事の期間は数年間であり、同程度の仕事をその後も継続して確保していける保障はなく、従業員には四〇代、五〇代の比較的高齢の者が多く、近い将来には被控訴人にも労働力の合理的交替を必要とする状況が確実に訪れる状況にあったのであるから、この時期、定年制を導入する資格を備えていたということができる。加えて、前記(二)のとおり、被控訴人の従業員らは、本件就業規則に異論を述べず、むしろ六〇歳定年制の導入を歓迎するなど本件就業規則の内容は周知されており、控訴人自身、渡辺総務部長とともにその作成に関与し、内容を熟知した上でこれを了承していた。さらに、新潟県内の平成一〇年度の民間企業における労働条件の実態調査によれば、定年制を採用している企業の九〇・六パーセントが六〇歳を定年としており、建設業もほとんど右の平均的な水準にある。
以上によれば、平成二年の時点における本件就業規則一三条による六〇歳定年制の導入は合理的なものであり、控訴人の既得権侵害の問題を生じる余地はないから、控訴人に適用されるというべきである。
(四) 本件就業規則一三条による六〇歳定年制の控訴人に対する適用を信義則違反として排斥し、あるいは、控訴人の定年退職を被控訴人の解雇権の濫用と解すべき事情を認めることはできない。
三 主要な争点
<1> 控訴人と被控訴人の合意により、控訴人が少なくとも七〇歳までは稼働できること等を内容とする転職契約が成立したと認められるか。
<2> 控訴人は、営業部長の地位ないし入社の際の手続に照らし、本件就業規則が適用されない従業員に当たるということができるか。
<3> 本件就業規則は、被控訴人の従業員に周知徹底されたか。
<4> 本件就業規則一三条による六〇歳定年制の導入に合理性は認められるか。
<5> 六〇歳定年制を控訴人に適用することは信義則に反するか。控訴人の定年退職は解雇権の濫用に当たるか。
第三当裁判所の判断
当裁判所は、本件全資料を検討した結果、控訴人は、平成一〇年六月六日、被控訴人を定年退職したと認められるから、控訴人の被控訴人に対する請求は理由がないと判断する。その理由は、以下のとおりである。
一 争点<1>について
1 控訴人は、控訴人と被控訴人代表者は、本件労働契約に先立つ平成元年六月下旬ころ、控訴人につき、少なくとも七〇歳までの継続的雇用を保障することを主な内容とする転職契約(個別の労働契約であり、<1>控訴人が健康で働ける限り少なくとも七〇歳までは継続雇用すること、<2>控訴人を営業部長という管理職の待遇で雇用すること、<3>控訴人の年収を六〇〇万円程度とすること)を締結したから、これに反する六〇歳を定年とする本件就業規則一三条は控訴人に適用されない旨を主張する。
2 よって検討するに、証拠(甲九、一〇、乙七、原審における証人小野巌、同被控訴人代表者、原審及び当審における控訴人本人)及び弁論の全趣旨によれば、小野は、新潟県巻土木事務所に勤務しているころ知り合った控訴人が、訴外会社の部下、同僚、上司(特に専務取締役の藤巻俊二)との関係がうまくいっていないことなどについて不満を漏らし、転職の希望を述べていたことから、被控訴人に控訴人の転職を持ちかけたこと、小野は、平成元年六月下旬ころ、控訴人を被控訴人代表者に紹介したが、その際、「被控訴人で一生懸命やり営業実績を上げれば、七〇歳、七五歳、幾つになっても使ってもらえるだろう。」という趣旨の発言をしたこと、しかし、小野の認識としては、あくまで一般的な話をしただけであり、控訴人が七〇歳を超えるまで被控訴人において継続的に雇用することを保障するというような意図は有していなかったこと、控訴人は、被控訴人代表者に対し、被控訴人に就業規則があるか否かを尋ねたが(被控訴人代表者は、右の質問に対し、今はないのですぐ作成しなければならないという趣旨の発言をしただけであった。)、それ以上に、少なくとも七〇歳まで稼働できるかどうかなどの具体的な質問はしなかったこと、控訴人は、被控訴人に定年制を定める就業規則がなかったことから、右の小野の発言と合わせ、被控訴人に転職すれば六〇歳を超えても勤務することができることを期待したが、被控訴人において何歳まで勤務することができるかにつき、特に被控訴人に確認しないまま、本件労働契約を締結したことが認められる。
右のように、小野の発言は、控訴人と被控訴人の労働契約の内容を確認するものではなく、被控訴人に転職しようとしている控訴人を励ます意味を込め、一般的に、一生懸命勤務して営業実績を上げればかなり高齢になるまで被控訴人に勤務することができると述べたにすぎないのであって、法的に意味のあるものと認めることはできない。したがって、その場にいた被控訴人代表者が、小野の発言を否定しなかったからといって、控訴人と被控訴人の間に、少なくとも控訴人は七〇歳まで被控訴人に勤務できるという内容の転職契約が成立したと解することはできない。そして、他に控訴人と被控訴人の間において、右のような内容の転職契約が成立したことを認めるに足る証拠はない。
3 これに対し、控訴人は、少なくとも被控訴人において七〇歳まで勤務できるという約束があったからこそ、被控訴人に入社する以前に勤務していた訴外会社から従業員三〇人足らずの工事の一部門の下請けをするにすぎない被控訴人に転職したものであり、また、平成三年四月、株式会社第四銀行から一七五〇万円、年金福祉事業団から一八五〇万円の住宅ローン融資(控訴人が七五歳になる平成二五年九月までのローンの返済を予定)を受けたと主張する。
しかしながら、前記2のとおり、控訴人は、訴外会社の部下、同僚、上司、特に専務取締役である藤巻俊二との関係がうまくいっておらず、それに対する不満を小野に漏らし転職の希望を述べていたのであるから、右当時、被控訴人に定年制がなかったことが控訴人の転職の主たる動機であったとは認め難い(これに対し、原審及び当審における控訴人本人は、訴外会社に対しては格別不満はなかったし問題もなかったと供述しているが、原審における証人小野巌の証言に照らし採用することができない。)。また、控訴人は、小野との会話から、七〇歳を超えるまで被控訴人に勤務できるのではないかとの期待を抱き、そのことが平成二五年九月までの返済を予定する住宅ローン融資を受けた動機の一つになっている可能性を否定することはできないが、証拠(甲五の1、2、一五、原審における控訴人本人)及び弁論の全趣旨によれば、控訴人は、平成元年六月一六日に離婚した前妻に自宅を財産分与したため、平成三年五月二一日に婚姻した現在の妻と居住する土地建物を取得する必要があったことが認められるから、被控訴人に何歳まで勤務することができるか否かにかかわらず、右融資を受ける必要に迫られていたことは明らかである。結局、控訴人は、小野との会話から一方的に七〇歳を超えるまで被控訴人に勤務できることを期待したにすぎず、右融資も、主として自宅を購入する必要に迫られ、妻と共同で自宅を購入した上、共稼ぎの妻とともに返済することにしたものというべきであるから、これにより控訴人と被控訴人の間に少なくとも七〇歳まで継続勤務することができる旨の合意が成立したことを推認することはできない。
したがって、控訴人が主張するような内容の転職契約が成立したからこそ、訴外会社を辞めて被控訴人に転職し、かつ、右の住宅ローン融資を受けたとの控訴人の主張を採用することはできない。
二 争点<2>について
1 控訴人は、そもそも営業部長という役付きの身分という条件で引き抜きにより転職した控訴人に本件就業規則は適用されないと主張する。
確かに、控訴人は、被控訴人に入社して営業部長の地位に就いたが、証拠(乙一の1ないし3、原審における証人小野巌、原審及び当審における控訴人本人)及び弁論の全趣旨によれば、本件就業規則には、営業部長という役付きの身分の者に本件就業規則は適用されないという規定はないこと、被控訴人の営業部長といっても、それに見合う部、課、係などの組織が置かれているわけではなく、特に営業を担当する従業員(部下)がいるわけではないこと、したがって、控訴人は、被控訴人の営業部長という名称が与えられているだけで、実質的に被控訴人の従業員の一人にすぎなかったことなどが認められる。そして、控訴人と被控訴人の間において、営業部長である控訴人には本件就業規則を適用しない旨の合意があったことを認めるに足る証拠はない。
そうすると、控訴人が被控訴人に転職して直ちに営業部長という役付きの身分を与えられたとしても、そのことによって本件就業規則が適用されないと解することはできない。
2 控訴人は、本件就業規則一条から五条の記載によれば、<1>自筆の履歴書(写真を添付)、<2>現住所届(位置を示す略図を添付)、<3>通勤に利用する交通機関と順路、<4>その他会社が必要とする書類(運転免許証等)の提出など、四条所定の手続によらないで採用された控訴人は、本件就業規則が適用される従業員には当たらないと主張する。
しかし、就業規則を制定するのは、使用者が事業の運営上、労働条件を集団的、統一的、画一的に決定する必要があるためであるから、就業規則に特段の規定がない限り、勤務する労働者に就業規則は例外なく適用されるべきであり、本件就業規則一条も、「この規則は、株式会社角産の従業員の就業に関する事項を定めたものである。」とした上で、パートタイマーについては別途定める旨を明記しているのである。控訴人は、本件就業規則三条が、「この規則で、従業員とは、第五条の規定により会社に採用された者をいう。」と、五条が「会社は、就職を希望する者から、前条の書類及び面接選考等の上、適格者を従業員として選考する。」と、四条が「従業員として当社に入社を希望する者は、次の書類を提出しなければならない。」と規定し、右<1>ないし<4>の書類を掲記していることを取り上げ、右書類の提出のない控訴人に本件就業規則の適用はないと主張しているものであるが、控訴人が小野の紹介により本件就業規則所定の手続によらず、いわゆる「コネ」で採用されたとしても、以上のような就業規則の性質に照らすと、採用時の提出書類に係る手続を履践しているか否かにより、本件就業規則が適用される従業員とそうでない従業員が区分されるとは到底考えられない。しかも、前記1のとおり、控訴人は、被控訴人の営業部長という名称を与えられていても、実質的には被控訴人の従業員の一人にすぎないのであるから、控訴人に本件就業規則が適用されない理由はない。
したがって、控訴人の右の主張も、採用することができないことは明らかである。
三 争点<3>について
1 控訴人は、被控訴人は、従業員に本件就業規則を周知徹底させず、控訴人のような五〇歳を過ぎた高年齢労働者の意見を聴くこともないまま、本件就業規則を制定したものであり、労働基準法一〇六条及び同法九〇条に違反して制定された本件就業規則は無効であると主張する。
2 よって検討するに、就業規則は、使用者が事業の運営上、労働条件を統一的、画一的に決定する必要があるため、労働条件を定型的に定めるものであるから、それが合理的な労働条件を定めているものである限り、使用者と労働者との間の労働条件は、その法的規範性が認められるに至っているものということができる。就業規則にこのような法的規範性を認めるためには、使用者が労働条件を定型的に定める就業規則を作成し、その内容が合理的なものであることを要するとともに(本件就業規則一三条の合理性は、後記四において説示する。)、その就業規則が周知性を備えることを要するものと解するのが相当である。労働基準法一〇六条一項は、就業規則を常時作業場の見易い場所に掲示し、又は備え付ける等の方法によって労働者に周知させなければならないと規定し、使用者に就業規則の周知義務を課しているが、この規定は取締規定であり、これが遵守されていなければ就業規則が周知性を備えたといえないわけではないが、少なくとも就業規則が周知性を備えるためには、その事業場の労働者の大半が就業規則の内容を知り、又は知ることのできる状態に置かれていることを要するものと解すべきである。
しかして、証拠(甲八、一〇、乙一の1ないし3、七、当審における証人渋谷廣、同被控訴人代表者、原審及び当審における控訴人本人)及び弁論の全趣旨によれば、被控訴人代表者は、労働基準監督署から言われたという大島社会保険労務士に、会社の規模からして就業規則を作らなければならないと忠告され、渡辺総務部長に命じ、平成二年三月ころ、本件就業規則の素案を作成させたこと、渡辺総務部長は、本件就業規則の素案が完成した平成二年三月ころ、昼休みに被控訴人の事務所に残っていた従業員七、八人(なお、控訴人は外出中であり、右の七、八人の中には含まれていなかった。)に対し、本件就業規則の内容を説明したこと、渡辺総務部長の説明を聞いていた従業員のうち、最古参である渋谷廣が、従業員代表として、平成二年三月二七日付けで意見を求められた本件就業規則に賛同する旨の意見書に押印をしたこと、その後、本件就業規則の写しは、渡辺総務部長の席上に置かれ、従業員がいつでも見ることができる状態にあったこと、これに対し、控訴人は、渡辺総務部長が、就業規則のマニュアル本を買い求め被控訴人の就業規則を作成していたことを知っていたものであり、渡辺総務部長は、平成三年に作成した本件就業規則の小冊子(甲八)を控訴人にも交付したこと(控訴人本人は、渡辺総務部長が本件就業規則を作成していたのを知ったこと及び右の小冊子の交付を受けたのは平成六年ころであると供述しているが、渡辺総務部長が本件就業規則の素案を作成したのは平成二年三月であること及び右小冊子の付則には本件就業規則の実施日が平成三年四月一日{乙七及び原審における被控訴人代表者の供述によれば、平成二年四月一日と記載すべきところ、小冊子を作成する際に日付を打ち間違えたことが認められる。}と記載されていることに照らすと、右の主張を採用することはできない。)、しかし、控訴人は、自分には本件就業規則は適用されないと思い込んでしまったことから、小冊子の内容を見ないで、机の中に入れたまま放置していたことなどの事実が認められる。
以上の事実を総合すると、控訴人を含めた被控訴人の従業員の中には、渡辺総務部長から本件就業規則の内容の説明を受けた者や控訴人のように本件就業規則の小冊子の交付を受けた者がおり、また、全員が渡辺総務部長の机上にある本件就業規則の写しを見ることによって、その内容を知り、又は知ることのできる状態にあったということができるから、本件就業規則は周知性を備えていたと解すべきである。したがって、本件就業規則は周知徹底されていなかったから無効であるとの控訴人の主張を採用することはできない。
3 なお、労働基準法九〇条は、就業規則の作成又は変更について、事業場において労働者の過半数をもって組織する労働組合ないし過半数を代表する従業員の意見の聴取を要する旨を規定するところ、前記2のとおり、労働組合のない被控訴人は、本件就業規則を労働基準監督署に届け出るに当たって、従業員の最古参である渋谷廣の意見書を添付しているが、同人が従業員の過半数を代表する従業員に当たるか否かはかならずしも明らかではない。
しかしながら、労働基準法九〇条は、取締規定であって効力規定ではないから、過半数を代表する従業員の意見聴取手続が不十分なものであったとしても、就業規則作成手続違反に当たるか否かはともかく、就業規則の効力に影響を及ぼすものではないと解すべきである。したがって、渋谷廣からの意見聴取が右規定の要件を満たすものではなかったことを理由に、本件就業規則が無効であるということはできない。
四 争点<4>について
1 控訴人は、本件労働契約締結当時、被控訴人に就業規則はなく、控訴人と被控訴人の間においては、定年制を定めない労働契約が成立していたところ、被控訴人が本件就業規則を制定して六〇歳定年制を導入したことは、定年退職という雇用契約の終了事由を一方的に付加するものであるから、控訴人の既得権を侵害する労働条件の不利益変更に当たると主張する。他方、被控訴人は、六〇歳定年制の導入は合理的であり、控訴人の既得権侵害の問題を生じるものではないと主張する。
2 よって検討するに、新たな就業規則の作成又は変更によって労働者の既得権を奪い、労働者に不利益な労働条件を一方的に課することは、原則として許されないが、労働条件の集団的処理、特にその統一的かつ画一的な決定を建前とする就業規則の性質からいって、当該規則条項が合理的なものである限り、個々の労働者において、これに同意しないことを理由として、その適用を拒むことは許されないと解すべきであり、これに対する不服は、団体交渉等の正当な手続による改善にまつほかないのであって、新たな定年制の採用についても、それが労働者にとって不利益な変更といえるかどうかはしばらく措き、その理を異にするものではない。ところで、定年制は、労働者が所定の年齢に達したことを理由として、自動的に又は解雇の意思表示によってその地位(職)を失わせる制度であるから、労働契約における定年の定めは一種の労働条件の内容となり得るものであることは疑いを容れないところであるが、労働契約に定年の定めがないということは、ただ雇用期間の定めがないということだけのことで、労働者に対して終身雇用を保障したり、将来にわたって定年制を採用しないことを意味するものではなく、労働協約や就業規則に別段の定めがない限り、雇用継続の可能性があるということ以上には出ないものであって、労働者にその旨の既得権を認めるものということはできない。したがって、定年制のなかった控訴人に対し、被控訴人がその就業規則で新たに定年を定めること自体は、控訴人の既得権侵害の問題を生ずる余地のないものといわなければならないし、また、およそ定年制は、一般に老年労働者にあっては当該業種又は職種に要求される労働の適格性が逓減するにかかわらず、給与が却って逓増するところから、人事の刷新・経営の改善等、企業の組織及び運営の適正化のために行われるものであって、一般的にいって、不合理な制度ということはできない(最高裁昭和四三年一二月二五日大法廷判決民集二二巻一三号三四五九頁参照)。
したがって、定年制を定めていなかった被控訴人が、本件就業規則一三条により定年制を導入したこと自体は、不合理なものではなく、控訴人の既得権侵害の問題を生ずる余地のないことであるから、控訴人がその適用を拒むことはできないと解すべきである。
3 もっとも、就業規則により新たに導入された定年年齢が低い場合、労働者に不利益を及ぼすことがあるから、その定年年齢に合理性が認められなければ、当該就業規則を労働者に適用することはできない場合があるというべきである。したがって、本件就業規則で定められた六〇歳という定年年齢の合理性について更に検討する必要があるが、右の合理性の有無は、就業規則によって導入された定年年齢によって労働者が被る不利益の有無・程度、使用者側の導入の必要性の内容・程度、導入後の就業規則の内容自体の相当性、代償措置その他関連する他の労働条件の改善状況、労働組合等との交渉の経緯、他の労働組合又は他の従業員の対応、同種事項に関する我が国社会における一般的状況等を総合考慮して判断するのが相当である。
よって検討するに、証拠(乙四、五、八ないし一一、一二の1ないし5)及び弁論の全趣旨によれば、昭和六一年に成立、施行された高年齢者雇用安定法は、六〇歳定年の努力義務を定めていたが、平成二年、六〇歳定年の早期完全定着と六五歳までの雇用確保を図ることを目的とする改正が行われ、平成一〇年四月、六〇歳定年制を使用者の努力義務から法的義務とする旨の改正が行われたこと、本件就業規則が制定された平成二年当時は、五五歳定年制から六〇歳定年制への移行段階にあり、新潟県内でも定年年齢を六〇歳未満とする事業所がかなりあったこと、その後、新潟県内でも六〇歳定年制が次第に定着し、平成一〇年度の新潟県賃金労働時間実態調査の結果、一律定年制を採用している事業所の九〇・六パーセントが六〇歳を定年年齢とするようになっていることが認められる。そうすると、本件就業規則一三条が定める六〇歳定年制は、制定された平成二年当時、六〇歳定年制への移行段階にあった我が国が目標とするところに沿うものであり、現在においても多数の事業所が採用しているから、相当なものというべきである。もっとも、控訴人は、右制定当時五一歳であり、約八年後には定年に達することからすると、本件就業規則一三条により不利益を受けることはないとまでいうことはできないが、右のような社会情勢の推移に照らすと、この程度の不利益は甘受すべきである。また、本件就業規則一四条は、「定年後、本人が引き続き勤務を希望しかつ会社が特に業務上必要と認めたときは、事前に嘱託として再雇用することがある。但し、嘱託従業員は原則として、一年毎に雇用契約を更新するものとする。」と規定し、定年後における終期のない嘱託雇用の制度を併せて導入しており、これによる嘱託雇用も積極的に行われているから、本件就業規則一三条を一律に適用することによって生ずる右のような不利益な結果を緩和する途が開かれているものである。さらに、前記三2のとおり、本件就業規則一三条は、従業員に対する説明、小冊子の配布、渡辺総務部長の机上への備付け等により、被控訴人の従業員に周知徹底されており、これに対し、従業員から異議が述べられた形跡はない。
以上の認定を総合すると、本件就業規則一三条に定められた六〇歳の定年年齢には合理性が認められるから、控訴人は、右条項の適用を拒絶することはできないというべきである。
五 争点<5>について
控訴人は、控訴人の転職の経緯・動機、転職時の控訴人の年齢、控訴人が転職を決める際の被控訴人代表者の面前における小野の話の内容、控訴人の受ける不利益の程度、不利益緩和のための代償措置などの諸事情を考慮すると、控訴人に本件就業規則一三条を適用し、満六〇歳になったことを理由に退職させることは、控訴人にとって余りに酷であり、信義則に反し許されないし、解雇権の濫用に当たると主張する。
しかしながら、これまで説示してきたとおり、控訴人は、六〇歳を超えても被控訴人において勤務できる旨を条件に転職してきたわけではなく、控訴人が小野の話を聞き少なくとも七〇歳までは被控訴人に勤務することができると一方的に期待したにすぎないのであるから、右の期待は法的保護に値しないというべきである。また、六〇歳定年制の導入により控訴人が受ける不利益はそれほど大きいものではなく、この程度の不利益は当時の社会情勢に照らし甘受すべきであるし、代償措置として定年後の終期のない嘱託雇用の制度も導入されている。したがって、本件において、控訴人に本件就業規則一三条を適用することが信義則に反すると認めることはできないし、控訴人が六〇歳に達したことを理由とする退職が解雇権の濫用に当たると解することもできない。
六 結論
以上によれば、控訴人は、本件就業規則一三条により、満六〇歳に達した日の翌日である平成一〇年六月六日、被控訴人を退職したことになる。よって、控訴人の請求は理由がなく、これを棄却した原判決は相当であるから本件控訴を棄却することとし、控訴費用の負担につき民事訴訟法六七条一項、六一条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 塩崎勤 裁判官 小林正 裁判官 萩原秀紀)