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東京高等裁判所 平成13年(ネ)3590号 判決 2002年4月17日

主文

本件控訴を棄却する。

控訴費用は,控訴人の負担とする。

事実及び理由

第1控訴の趣旨

1  原判決中,控訴人のその余の請求を棄却した部分(主文第2項)を取り消す。

2  被控訴人は,控訴人に対し,667万円及びこれに対する平成12年10月7日から支払済みまで年6パーセントの割合による金員を支払え。

3  訴訟費用は,第1,2審とも被控訴人の負担とする。

4  仮執行の宣言。

第2事案の概要

1  本件は,控訴人が,銀行である被控訴人と普通預金契約を締結しているところ,第三者が控訴人の上記普通預金に係る預金通帳を悪用して,被控訴人から2度にわたって払戻しを受けたことについて,①被控訴人の各弁済行為が無効であることの確認,並びに,②預金払戻請求権に基づき,上記各弁済額に相当する金員及びこれに対する訴状送達の日の翌日から支払済みまで商事法定利率による遅延損害金の支払を求め,これに対し,被控訴人が,上記各弁済行為は,債権の準占有者に対する弁済に当たるから,控訴人の預金債権は消滅したと主張して争った事案である。

原審は,控訴人の請求のうち,①の各弁済の無効確認請求に係る訴えを却下し,②の支払請求を棄却したので,控訴人が,原判決のうち②の控訴人の請求を棄却した部分だけについて控訴した。

2  「争いがない事実等」及び「争点」

当審における控訴人の主張を次のとおり付加するほか,原判決の「事実及び理由」第2の1,2のとおりであるから,これを引用する。

(控訴人の主張)

(1) 甲支店における払戻しについて

次のような事情が存在するから,行員Aには,払戻手続に際して銀行員に求められる注意義務を怠った過失がある。

① 払戻請求金額が450万円と高額であったこと。

② Aは,本件の弁済当日である平成12年5月9日に,上司から印鑑照合手続の厳格運用の指導を受けていたこと。

③ Aは,払戻請求書の印影が,副印鑑・届出印の印影と比較して字体が細いことを認識していたのに,これを無視して払戻しに応じたこと。

④ 払戻請求書の印影と副印鑑・届出印の印影を比較すると,「社」の字の印影が明らかに異なっていたのに,払戻しに応じたこと。すなわち,示偏の下部の3本の縦線が,払戻請求書の印影では,いずれも上部の横線に接合しており,左側の縦線においては接合部に丸が生じているのに対して,副印鑑・届出印の印影では,3本の縦線のうち左右の2本は横線と接合しておらず,客観的に異なる印章によって顕出された印影であることが明らかであって,このことは素人でもよく見れば気付くことが可能であり,印鑑照合事務に従事する者に通常期待される程度の技術を備えた銀行員であれば,容易に気が付くはずであること。

(2) 乙支店における払戻しについて

次のような事情が存在するから,行員Bには,払戻手続に際して銀行員に求められる注意義務を怠った過失がある。

① 平成12年5月の連休後,被控訴人は,印鑑照合手続の厳格運用を要請する通知を回覧し,Bにも,この厳格運用を要請していたこと。

② 払戻請求書の印影は,副印鑑・届出印の印影と比較して,字体が細く,このことは素人目にも分かること。

③ 被控訴人は,その内規において,取引店以外の店舗において,法人が100万円以上の払戻しをする場合には,顧客に住所の記載を要求する旨定めて,特に高度の注意義務を要求しており,Bは,本件の払戻しがこれに当たることを認識していたこと。

④ 本件通帳の表紙,裏表紙,取引明細の日付欄,お払戻し金額欄及び備考欄を見れば,同一の日に,取扱店である甲支店で450万円の払戻しがされた後,取扱店ではない乙支店で再度217万円の払戻請求がされている事実を容易に認識し得たこと。

⑤ 前記(1)④と同じく,印影が明らかに異なっていたこと。

第3当裁判所の判断

当裁判所も,控訴人の本訴請求は,理由がないので,棄却すべきものと判断する。

その理由は,当審における控訴人の主張に対する判断を次のとおり付加するほか,原判決の「事実及び理由」第3に説示するとおりであるから,これを引用する。

1  控訴人は,甲支店及び乙支店における本件払戻手続を担当した行員A及びBには,銀行員に求められる注意義務を怠った過失がある旨主張する。

銀行が普通預金契約により委託された約定に従い,普通預金の払戻し事務を行うに当たっては,委任の本旨に従い,善良な管理者の注意をもって事務処理をするべき義務を負っており,真実預金者による払戻しであるか否かを確認するために,預金通帳の副印鑑・届出印の印影と払戻請求書の印影を照合するに当たっては,特段の事情がない限り,折り重ねによる照合,拡大鏡等による照合をするまでの必要はなく,肉眼による平面照合をすれば足りるとしても,金融機関としての銀行の照合事務担当者に対して社会通念上一般に期待されている義務上相当の注意をもって慎重に事を行うことが必要であり,このような事務に習熟している銀行員が上記のような相当の注意を払って熟視するならば,肉眼をもって発見し得るような印影の相違が看過されたときは,銀行に過失の責任があるというべきである。

本件通帳による甲支店及び乙支店における各払戻手続の事実経過は,原判決が認定しているとおりであり,甲支店では,2年以上の窓口業務経験を有するAが本件の払戻手続を行い,顧客の住所等を確認した上,平面照合により肉眼で印章を確認し,本件通帳の副印鑑の印影の上に払戻請求書の印影を重ね,半分折り曲げては元に戻すという動作を繰り返して印影照合を行ったこと,その結果,特に迷うこともなく同一の印章によるものと判断したこと,払戻請求をした女性に特に不審な様子はなかったこと等から,その場で現金450万円を交付したことが認められる。

また,乙支店では,2年以上の窓口業務経験を有するBが本件の払戻手続を行い,内規に従って,払戻請求をした男性に対し住所の記載を求めたところ,すらすらと控訴人の住所を間違いなく記載したこと,顧客の住所等を確認し,平面照合により肉眼で印章を確認し,本件通帳の副印鑑の印影の上に払戻請求書の印影を重ね,同一性を見比べ,印影照合を行ったこと,その結果,特に迷うことなく同一の印章によるものと判断したこと,男性には特に不審な様子はなかったこと等から,その場で217万円を交付したことが認められる。

ところで,証拠(甲1~3,4の1・2,5の1・2,乙1~3)によれば,本件通帳の副印鑑(甲1,甲4の1・2,甲5の1・2),届出印(乙3)の印影と払戻請求書の印影(甲2,3,甲4の1・2,甲5の1・2,乙1,2)を比較対照すると,払戻請求書の印影の方がやや字体が細いこと,両者の印影を拡大するなどしてこれを熟視すれば,右下に印字された「社」の示偏の下部の3本の縦線が,払戻請求書の印影では,いずれも上部の横線に接合しており,その3本のうち左端の1本の下部末端の,印影の内枠に接する部分が少し丸く太くなっているのに対して,本件通帳の副印鑑・届出印の印影では,上記示偏の3本のうち両端の2本の縦線が上部の横線とは接合しておらず,左端の1本の下部末端の内枠に接する部分は,丸く太くなっていないことが認められる。

しかし,他方において,上記証拠によると,両印影の大きさはほとんど同一であり,字の配置はいずれも右から縦3行に「株式会社」「C」「D」と印字されており,字数が11字と比較的多いにもかかわらず,それぞれの字の形状,字体,字・部首等の配置,各文字と内枠の接合状態等がいずれも極めて酷似していて,相違を見付けることが非常に難しいことが認められ,両者の印影を全体的に観察した場合,同一の印章によって顕出されたものという印象を受ける。

上記のとおり払戻請求書の印影の方がやや字体が大きいのであるが,この字体の太さの違いは,引用した原判決が認定説示するとおり,同一の印章であっても,朱肉の種類及び量(練り朱肉,水性朱肉,スタンプ朱肉等),押捺時の力加減,紙の質等の条件如何によって相当に相違が生じるのであって,当審における検証の結果によっても,印影が比較的鮮明に現れることもあれば,全体がかすれて不鮮明になり,文字の細部の形状,字体,接合状態等を綿密には把握できないこともあることが認められる。しかも,印章の使用開始以後の経過年数等による摩耗が,少なからず影響することも,容易に推測される。また,上記のような示偏の相違は,拡大するなどして熟視した場合に,初めて気が付く程度の極めて微細なものであり,これも上記の使用条件如何により,同一印章であっても生じ得るような範囲内の相違に過ぎないものと認められる。

したがって,銀行の照合事務に習熟した銀行員が,平面照合の方法によって相当の注意を払って熟視しても,肉眼をもって発見し得るような印影の相違ということはできないといわざるを得ない。

この点について,控訴人は,両者の印影の相違は発見し得たというが,上記のとおり朱肉の付着具合,押捺の際の力の強弱,印章の使い込みの程度及び用紙の状態等の条件如何によって印影が少なからず影響されること等,上記の経緯を総合考慮すると,本件において,払戻業務を日常的に担当していたA及びBにおいて,本件通帳の副印鑑・届出印の印影と払戻請求書の印影が同一の印章により顕出されたものと判断したとしても,無理からぬことであって,それ以上に特別の照合手続を採るべきことを要求することは,難きを強いるものといわざるを得ない。

2  控訴人は,本件の場合金額が多額であると主張するが,証拠(乙5,証人A)によれば,Aにおいて,本件払戻手続当時,400万円から500万円の払戻請求は月間60件程度あったことが認められ,450万円という払戻金額は,Aの日常業務からみて特異な事例ではないということができるから,金額が450万円と多額であることを理由として注意義務を加重することはできない。

また,控訴人は,本件払戻手続の当日,被控訴人は,印鑑照合の厳格運用を指導し,回覧していたと主張し,原判決認定のとおり,被控訴人は,当時印鑑照合手続の厳格運用を要請する通知を回覧し,Aも上司から同趣旨の指導を受けていたことが認められるが,それをもってA及びBに過失があると認めることができないことは,上記説示及び原判決の認定説示のとおりである。

控訴人は,乙支店における払戻しについて,同一の日に取扱店で払戻しがあった事実をBが認識していたと主張するが,このことをもって払戻請求者が権利者かどうかを疑うべき事情ということはできないから,Bの過失を根拠付ける事情とはならない。

その他控訴人はるる主張するが,いずれもA又はBの過失を根拠付けるべき事情とは認められない。

3  したがって,控訴人の主張は,採用することができない。

よって,上記と同旨の原判決は相当であり,本件控訴は理由がないから棄却することとして,主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 大藤敏 裁判官 遠山廣直)

裁判官河野泰義は,転補のため,署名押印をすることができない。裁判長裁判官 大藤敏

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